アキラの観てきた!クチコミ一覧

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天守物語

天守物語

SPAC・静岡県舞台芸術センター

舞台芸術公園 野外劇場「有度」(静岡県)

2011/06/18 (土) ~ 2011/07/02 (土)公演終了

満足度★★★★★

夜の野外にふさわしい美しい舞台
山の中にある夜の公園は、ときどきパラつく雨や、あるいは濃霧のように身体にまとわりつくような雨によって、しっとりとした色と香りをたたえていた。

その中にある野外劇場は、物の怪たちが主人公の、この舞台にふさわしい場所であった。

ネタバレBOX

太鼓の音に導かれて始まる舞台は、極彩色の衣装と相まって、プリミティブな力が強く出ていた。
それは、しっとりした森に響き、共鳴するような様だ。
暗闇の中の、物の怪たちの姿は美しい。

女性の肉体に男性の声、男性の肉体に女性の声を配し、異物感のぶつかり合いで、一種異様な世界と、男女の情念を描く。
演じる者(ムーバー)と台詞を言う者(スピーカー)が異なるという、人形を人に替えた文楽のようで、朗々とした台詞も物語にマッチしている。
さらに歌舞伎の要素も垣間見られる。

太鼓を中心にした音楽の中に、フォークソング調のテーマ曲の入り方(重ね方)も独特であり、男女の使い方を含め、違和感とその化学反応が素晴らしい。

役者の身体のキレがとても美しい。カタがビシビシと決まる。脇の役者を含め、隙がない。常に全体の美のバランスを保っている。

さらに、衣装の美しいこと! それが舞台に見事に映える。
身のこなしもいいからだろう。

和のテイストを響かせながら、それだけにとどまらない生演奏の音楽もいい。

すり鉢状になっている客席の通路を花道に見立てて、役者が登場し、退場するのも楽しい。劇場すべてが「舞台」になっていた。

雨天決行ということで、観客のほとんどは雨合羽で客席にいた。てっきり舞台の上には(例えば、日比谷野音のように)屋根があるのかと思っていたら、まったくなかった。舞台裏で演奏している場所にもなさそうだった。
屋根がないので、舞台裏の正面にある木々が美しい。

この舞台で雨天決行ということは、雨が本降りになったとき、あの衣装でずぶ濡れになって演じるつもりだったということなのだ。
上演時には、雨は止み、よかったと思ったのだが、自分もずぶ濡れになってもいいから本降りの雨の中で観たかったな、と勝手なことをちょっとだけ思ってみた。
ノルウェー国立劇場『人民の敵』

ノルウェー国立劇場『人民の敵』

特定非営利活動法人舞台21

あうるすぽっと(東京都)

2010/11/17 (水) ~ 2010/11/18 (木)公演終了

満足度★★★★★

独特の斬新なスタイルに、リズム、持続する熱量が素晴らしい
ノルウェー語で上演(字幕付き)なのに、ぐいぐい引き込まれた!
役者もいい。

ネタバレBOX

温泉施設の専属医師であるストックマンは、温泉施設の水が工場のせいで、人の健康を害するほど汚染されていることをつきとめる。
それを新聞『人民新報』の編集者に伝えたところ、すぐに新聞に掲載したいと言う。また、旅館組合の組合長は、民衆(絶対的多数)の代表として医師の支持を約束する。

その情報を知った医師の兄であり、町長兼警察署長は、町の評判を落とし、町が凋落していくことを防ぐため、弟の医師に事実の発表をやめるように言う。
汚染防止のためには莫大な資金と時間が必要だからだ。
しかし、ストックマン医師の意思は固く、兄の意見には従わない。

そこで、ストックマン医師の告発は、町の評判を下げ観光地としての魅力がなくなる、汚染防止費用のために増税がある、工事中は温泉を休業しなくてはならない、ということになると告げられた旅館組合長や新聞社は、自らの考えを翻し、医師に事実の発表をするなと言い出す。
さらに、医師の妻の父は、汚染源である工場を持つ経営者であり、ここからの圧力もストックマン医師とその家族にかかってくる。

そして、町民集会が開かれ、町の利益を損なおうとする医師を「人民の敵」とする決議を行ったのだ。
医師は温泉専属医師の職を解かれ、教師であるその娘も退職させられてしまう。

そして、医師は決断をするのだった。

そんなストーリーが、本当にまったく何もない、黒い舞台の上で繰り広げられる。。

ノルウェー語で上演され、字幕頼りに観劇しているのに引き込まれる。
古典なので、てっきり重々しくいかにもなスタイルで上演されるのかと思ったら、いい意味で裏切られた。
独特の斬新な演出スタイルがある。
ダンスの様な動きや、登場人物たちの関係性を具体的に見せるような、ねちっこい演出。
一瞬で変わる場所と時間。連続性とスピーディさ。
リズム感と緩急、そして持続する熱量が素晴らしい。
役者も力があるのだろう。特に主人公ストックマンを演じた俳優の、正義への情熱が、抑圧されつつラストに行くに従い、いろんなところから噴き出してくる様が素晴らしい。

「内部告発」という現代に通用するテーマを軸に物語は進行する。
そこで描かれるのは「絶対多数」というものの危うさである。
それは、民主主義の危うさでもある。同時にそれには「古めかしさ」も漂ってしまうのだけど(ラストとか)。
「自由」は「絶対多数」によって脅かされるという事実。

そして、主人公が「正義」のようであるが、追い詰められて発する彼の「正義」の理論は、「少数派」「純血」というキーワードによって、「正義(感)」の危うさまで浮き彫りにしていく。
つまり、「正義」とは今も昔もそんな危ういバランスの上に成り立っているということなのだ。

「内部告発」することが、行為としての、社会との関係における「正義」と、周囲への影響や自己満足(自分の姿に酔いしれる)ということとのバランスというだけでなく、なんかもっと根本的なところにも言及している、そんな印象を持った。

これが今、この舞台を上演する意味や意義ではないのだろうか。

ノルウェー国立劇場『人民の敵』は、とてもよかったのだけど、客席には空席が目についた。「国際イプセン演劇祭」は短期間に集中して上演されるので、時間の都合がつきにくい、それと料金がもう少し安ければと思う。
五反田の夜

五反田の夜

五反田団

アトリエヘリコプター(東京都)

2011/11/17 (木) ~ 2011/11/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

台詞&会話の掛け合いからずるずると出てくる物語
やっぱり、台詞と会話が面白い。
わくわくしながら成り行きを見る。
全編笑いっぱなし。
それは、他人のことだから。
すなわち、自分のことでもあるから、笑うしかない。

ネタバレBOX

姉弟がいる。
姉は、「五反田絆プロジェクト」というボランティアのような活動をしている。
弟は、不動産屋をリストラされた。

「五反田絆プロジェクト」は、西田が中心となって、何かをしなければいけない、という衝動に駆られた人たちが集い、折り鶴を折るグループだ。

西田は、どこにでもいそうな俗物で、「自然農法」とか「成城石井」(笑)とかの、ブランドに弱く、どこから来るのか、強靱な自信を持ち、あらゆる相手を下に見る。
グループのメンバーである中川は、西田にいいように言われまくる。

プロジェクトは、五反田肉祭りに参加することになるのだが、西田の横暴ぶりに業を煮やした後藤と大山が結託し、新たなグループ「五反田絆の会」立ち上げる。

一方、不動産屋をリストラされた弟は、不動産屋の社長の娘に気持ちを寄せていて、仕事の最後の日に、西洋の神々が争って飛び出してくる映画に誘うのだった。

そんなストーリーである。

あいかわらずの気持ちいいほどの台詞回しと、その応酬。
と言っても、リズムがいいので、「凄い」というオーラを押し付けるようなものではない。
実に自然(風)な、台詞と会話だ。

この台詞と会話から、ずるずると物語が編み上がって出てくるようなのだ。
丁度、リリアンというか、そんな感じにずるずると下から物語が出てくる。

それがとにかく面白い。

台詞と間と、そんな雰囲気が笑いに変わる。
全編笑っていた、という印象だ。

人が集まれば、組織っぽくなって、組織っぽくなれば、権力闘争的な方面へもつれ込ませたい人たちも出てくるし、そう意識していなくても、運営や人間関係でゴタゴタしてくるものだ。
表面は何もないようでも、水面下ではいろんなことが蠢く。

そんな、他人事のゴタゴタは面白いわけで、少々身につまされながら笑ってしまう。
それにしても、グループのリーダー、西田は強烈だ。「ああ、こんな人、いるいる」を少しだけ通り越してしまっているのだが、ニュアンスはわかる。
いる、こういう人。

自然農法的なモノを成城石井のようなブランドと同格にして(成城石井をブランドとしてとらえるという視点は今様でナイスだ!)、それを崇め、さらに人に「いいものだから」と押し付けるところがなんとも言えない。そういう自分が好きだというのもよくあることだ。
そうした人(たち)を笑いものにして、ナニかを批判している、ともとれるのかもしれないが、それよりは、人の中に「面白いモノを見つけた」から描いてみました、というあたりが本音ではないだろうか。

人を、つまり、他人を見ていると、面白いコトはたくさんある。
それは他人だから。「他人を観察する」はすなわち「自分観察」でもあるわけで、他人の中に見えるものを自分の中で探すという作業は、役名と実名が一緒であるという、この舞台において、そういう作劇の工程は、たぶん、相当愉快で、少しスリリングでもあろう。
もちろん、その工程を考えてみるまでもなく、やっぱり舞台の上の出来事は、観客自身のことでもあるということで、だから、観客は大笑いしてしまうという構図になってくる。

例えば、組織の人間関係、人間模様だったり、例えば、弟と不動産屋の娘との、映画終わりの手つなぎシーンなどだったりする。手つなぎシーンは、こってり見せてくれて、「恋愛あるある」から逸脱していくのだが、そういう滑稽さは、やっぱり「あるある」であり、「なんか、わかるよねー」の感じになる。それを超えるので笑いになっていくのだが。

こうした日常的な「あるある」感の、少し歪んだ描写は徹底しているから面白い。ホントに他人のことは面白いのだ。
これは「自分たちのこと」なんだよねー。

…このあたりのことは、「他人の描写=演じる」っていうことは、結局「自分の中にあるものを整理してみる」ということなのかな、という、当たり前っぽい展開になっているかもしれない…。

そして、場面展開の面白さがある。例えば、キャスター付きの椅子に座ってガラガラと現れたり、会話の途中で、人々に指だけで担がれて舞台を去っていったり、そんな演出も、うまい塩梅で面白い。
さらに、移動撮影的な、映像的なラストシーンのバカバカしさは、お見事。

そして、当パンを見ると、山田さんが急病で降板したことがよく伝わった(お大事に!)。

さらに成城石井が五反田にも出来たことを知った舞台でもあった。
君といつまでも

君といつまでも

バジリコFバジオ

駅前劇場(東京都)

2010/06/17 (木) ~ 2010/06/21 (月)公演終了

満足度★★★★★

面白さの宝石箱やぁ〜〜! 不器用だけどねぇ
何と言ったらいいんだろう。
そう、

シアワセだなあ。
ボクはキミといるときが一番シアワセなんだ。
ボクは死ぬまでキミを離さないよ、いいだろ。

って、思わず「君といつまでも」by uozo kayama の歌中の台詞を言ってしまいたくなるぐらいに、シアワセ度が高く、私にとってのツボばかりが散りばめられているような舞台、というか劇団だ。

前説から始まって、ラストまでの約2時間は、楽しくってしかたない。ずっと見ていたい(前説も楽しいので、劇場にはぎりぎりではなく早めにどうぞ)。

ネタバレBOX

毎回フライヤーを飾る、一種独特の(翳りのあるというか特殊というか・・・)人形の造形と、それが動きしゃべるというだけで楽しいのだ。

また、どうでもいいような細かいディテールに溢れた、演出&演技には、笑みがとまらない。
例えば、オープニングで、焼き肉食べ放題の店に行ったカップルが話しているとき、身振り手振りで話す女性が、思わず手を前に出して、そこにある設定の焼き肉の鉄板に手が触れてしまったらしく、「アチチ」なんて言う、どーでもいいディテールなんかには見ほれてしまうのだ(ああ、この感じ伝わらないだろうなぁ・笑)。

物語は結構複雑。

初めてデートするカップルがいる。女性は、ホームレスに絡んでいたヤクザとケンカして約束の時間に遅れてしまう。そこで予定していた映画の前に食事に行くのだが、そこは焼き肉食べ放題の店であった。
そこで、男は、店の中の会話で、結婚詐欺の話、カッパの話を聞いてしまう。
カップルは、カッパのいるという川に出かけ、男はカッパを目にしてしまう。それを追っていくと、ホームレスのいる場所に出くわす。

一方、ホームレスを監視しているヤクザがいる。兄貴分は、映画の話に熱くなり、弟分はそれに付いていけない。

また、同じようにホームレスを監視している探偵と助手がいる。探偵はホームレスの中にいる女性を見て驚く。

ホームレスたちの中に入ったカップルは、ホームレスたちと、「星影のワルツ」でダンスを踊る。

カップルの男は、このときカゼを引き、それが原因で2週間後に死んでしまう。えっ!? 死んでしまう?? そうなのだ、てっきり主人公かと思っていた男は死んでしまうのだ。

ここで、タイトルが出る。そう、ここまでが今回の舞台のオープニングなのだ。

これだけいろんな、エピソードを含んだ登場人物が現れ、物語が進んでいく。さらに進むに従って、児童書の挿絵描きとその同棲相手とその母、あるいは結婚詐欺師やキツネや、神などがそれぞれの意味を持って登場し、さらにエピソードを膨らませていく。

いろんな疑問が浮かび、果たしてどこにどう結びついていくのか、という想いを載せて物語はさらに進行する。

亡くなってしまった妹を想う兄弟、相手を失ってしまったカップルの女、駆け落ちしてきた同棲中の男女、記憶を失ってしまった父を想う娘など、人を想う気持ちが、不器用にしか表現できない人たちが、不器用ながらも、気持ちに素直になろうとする様子や、気持ちが動いていく様子も、笑いの中に、丁寧に込められている。
不器用さが心に響く。
それが「君といつまでも」なんだ、まったくもって。

単に面白ければいいじゃないか、ということだけだはない、作・演出の良さがそこにある。

ラストに行くに従い、それが、じーんとしてきたりするのだ。ラストの楽園のシーンなんかは、台詞がないのに(妹の足が治っていたりして)、本当にいいのだ。結局のところ、優しい。

急に全員が舞台に現れ、踊り、歌うシーンには、うかつにも(笑)感動してしまいそうだった。

そう、劇中で使われる音楽も効果的だった(不気味すぎるオープニング映像のときの曲は何ていう曲だろう?)。

結局、すべてのエピソードがカンフーアクション的な展開になっていくという強引さも、なかなか捨てがたい。ここには「なぜ?」なんて理由を差し挟む余地はない。とにかくそうなっちゃったから、そうなるのだ。いいなあ、この感じも。

6月243日なんていう設定もいいなあ。梅雨も6月も終わらないなんていう。

役者では、最初にカップルとして登場する男女(三枝貴志さん&辻沢綾香さん)の雰囲気が良かった。男の語り口と、女のホントは強いという設定の表現が。
そして、同棲中の女の母(木下実香さん)のどこか飄々とした演技(娘:古市海見子さんとの危ないギャグの応酬も忘れてはならない)、また、探偵助手(新井田沙亜梨さん)の独特のテンション(唯我独尊の台詞回し)、児童書の挿絵画家(武田諭)の神経質な様子の演技なども印象に残った。

それと人形と美術を担当している木下実香さん(あのお母さん役の方なんだ!!!)の功績は忘れてはならない(マックセットに付いて来るノリスケ人形がよく見えなかったのが残念)。

あの人形たちの携帯ストラップが、グッズとして販売されていたら、買うんじゃないかな、いや、私ということではなく、誰かが、たぶん。
愛と平和。【ご来場ありがとうございました!!】

愛と平和。【ご来場ありがとうございました!!】

バジリコFバジオ

駅前劇場(東京都)

2012/01/19 (木) ~ 2012/01/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

最高傑作! ストーリーを貫くアガペー。
前にも書いたけど、ここの舞台は前説から観たい。
なんとも楽しいから。

そして、毎回、どこにどう向かっているのかわからないストーリー展開と、過剰なモロモロの中に埋もれてしまいそうだけど、細かくて粘着質で、微妙な台詞そのものと、台詞回し&やり取りがとても楽しいのだ。

人形の登場もわくわくする。

ネタバレBOX

今回、見終わって感じたのは、「これって、ここの最高傑作なんじゃないの?」というものだ。
確かに、短編は別にして、以前の作品に比べ(全部観ているわけではないが)ストーリーの落としどころや、全体がまとまりすぎているかもしれないのだが、でも、全編を貫くテーマがはっきりとしている。
いや、テーマがはっきりとしているから「最高傑作」というわけではないのだが、面白さに、確実に「何かをプラス」してきた感があるのだ。
それが愉快でもあり、ジーンときてしまったりするのだ。

だからこの際「最高傑作だ」と言ってしまおう。

中学生の葉隠弓月は、姉・さくの影響が強い。シスコンと言っていいほど。
姉の期待を背負って彼はトレーニングに励む。姉の理想のタイプになるため。そのタイプとは、姉が子どもの頃見ていたヒーローモノの主人公であった。
姉がいなくなり、弓月は友だちのオカマの金吾郎とともにバイクで町を飛び出す。

一方、騙されてAV出演をさせられそうになったニコという不幸を撒き散らすと思い込んでいる女がいた。
彼女は、その現場からリンとともに逃げ出す。
AVの女社長のあかりは、ヤクザに依頼し、彼女たちを連れ戻すために追いかけさせる。

逃げ出したリンは、かつて助けてもらったことのあるヒーロー、エレファント・ヤンキーとエレファント・ホームレスを呼び出し、窮地を救ってもらう。
そして、彼らは伝説の象、トンキーに合いに上野動物園へ向かう。

その頃、弓月と金吾郎は……。

というストーリー。

一見して、一体何がどうなるのだろうという広げ方で、登場するキャラクターも多い。しかも各キャラクターごとに、かなり濃い味付けがされている。

伝説の象、トンキーだって、戦時中に軍の命令で殺されてしまったはずなのに密かに生きている、なんて設定だし、ヤクザも元広島カープのピッチャーで両親を失った娘を養っている、なんて設定なのだから。

確かに、ヒーローになれ、と言われてきた弓月が、ヒーローになって活躍するという話になっているのだが、実のところ、そこが軸にはなっていない。

物語の軸はズハリ「愛」。

ヒーローモノなので、「悪」の設定はある。それもヤクザの養女が深いところで悪になっているということで、絶対的な悪のように見える。さらに彼女と一心同体、あるいは彼女を操っているような悪の存在があるので、さらに「悪」に対決するという図式が見えているのだ。

しかし、対決するといっても、戦うシーンはあるものの、それは表面上のことであり、最後は「赦し」「包み込み」といういうような手段で、相手を「負け」されてしまうのだ。
それが「愛」。「アガペー」と言ってもいいかもしれない。

劇中で、バッターとしてピッチャーに対決するあかりの従弟・秋助が、あかりの兄から授かった打法は、「相手のピッチャーもボールもバットも観客もすべてを愛せ」だったように。

例えば、娘を誘拐したサチに対して、母の春子は一度は殺意を抱いたものの、彼女を赦してしまう。
また、弓月の姉のトドメを差した金吾郎と弓月の対決にしても、「力」ではないところで勝負は終わる。勝ち負けのない勝負の付き方で。
そのときに、悪の権化のような魔物は、簡単に隅へ追いやられるだけで、こと足りてしまうのだ。

つまり、これは言い古されしまった言葉だけれども、「暴力は暴力しか生まない」という「負の連鎖」を、「愛」で初めから断ち切ってしまっているということなのだ。つまり「平和」。
『愛と平和。』、モロなタイトルだったわけだ。
少々甘くてもそれでいいじゃないか、と思う。

また、「周囲を不幸にしてしまう」と思い込んでいた女は、「月」になって、「人を照らす」なんていう展開はたまらなかったりする。ここは作者から登場人物への「愛」なのかもしれない。

さらに言えば、いくつかの「家族」の「物語」が語られていく。

弓月と姉のさく、あかりと兄、サチと両親という、血のつながった家族は、すでに崩壊している(失ってしまった)のだが、弓月と金吾郎、あかりと兄嫁の春子、サチと養父となったヤクザの津々岡、さらに最後には弓月と春子という、血のつながらない家族の強さが語られていく。
「失ってしまった」後の人の処し方とでもいうか、後の「家族」「つながり」がそこにある。

彼らの間に流れるモノこそ「愛」であり、「赦し」であり、「信じる」ということではないのだろうか。
ラストに弓月と春子が手に手を取り合って旅立つときに、登場人物たち全員が現れ、彼ら2人を乗せた舞台を回す、という演出は、自分たちだけで生きているのではない、という、これも強いメッセージではなかったのだろうか。
だからこそ、グッときてしまうシーンになったのだ。

今回、バジリコFバジオは、予測不能なストーリー、妙にひねりのある設定と、細部に凝った台詞を、畳み掛けるように進行させながら、その根底には、確かなメッセージが確実にあるようになってきたのではないだろうか。
もちろんそうした姿勢はもともとあったとは思うのだが、さらにそれが強く感じる作品だったと思う。

また、ラストの選曲はベタながら、全員が歌うシーンはとてもよかった。そして、シーン展開ごとに流れる曲が、見事に決まっていて、選曲の巧みさに舌を巻いた。バラエティに富んだ既製曲を、多く使って、これだけうまくはまることはそうないのではないだろうか。

ラスト、シスコンの弓月は、亡くなった姉にそっくりな旅館の女将・春子(姉と二役)とともに旅立つのだが、ここにシスコン極めり、で、作の佐々木さんにお姉さんがいるのならば…。いや、まあ、それはいいいか。

出演者はどの役者もいい。
特に、弓月を演じた三枝貴志さんは、あいかわらずいい。中学生には見えないけれど、熱さと適当さの同居がたまらない。一本調子になりがちな役だろうが、そのブレーキのかけ方がうまいのだ。
そして、姉・さくと女将・春子を演じた浅野千鶴さんの、「姉」「年上」感(笑)がなかなか。
また、元広島カープのピッチャーで現在ヤクザの津々岡を演じた嶋村太一さんの、はぐれモノなりの哀愁と、養女への愛情がよかった。

今回人形の出番があまりなく残念だったが、象のトンキーは、あまりにも傑作で登場シーンで思わず笑ってしまった。おでこに顔なんだもの。
あと、「月」はいい味出していた。
それに人力で動かす回り舞台も、人力の意味がきちんとあり、とてもよかった。

エレファント・ヤンキーとホームレスのマスクは、バットマン風、そして、黒い帽子に白の上下にステッキ、目のメークで、エレファント・ホームレスが「雨に唄えば」を歌うとなると、『時計仕掛けのオレンジ』。さらに野球のユニフォームのヤクザは『ウォリアーズ』かな。野球ユニフォームのヤクザだから『カマチョップ』だとマニアックすぎか?(笑)。

サチの在り方に、宮部みゆき『名もなき毒』の影を見たような気もするのだが。

劇場ロビーでは、過去に使用した人形を、なんと200円で販売していた。
「これ欲しい」と思っていた「アソム君」を購入した。
家では家族に「目に付くところには置くな」と厳命されてしまうような、でかくて不気味感漂う人形だが、自室に飾りご満悦である。
アパッチ砦の攻防

アパッチ砦の攻防

劇団東京ヴォードヴィルショー

紀伊國屋ホール(東京都)

2011/09/23 (金) ~ 2011/09/28 (水)公演終了

満足度★★★★★

進化し続け、笑い度アップのアパッチ砦
笑った、笑った。
それは力技。
ライブ感、躍動感もあるところが、うまい人たちが演じているのだと実感できる。
単なる再演というだけでなく、前に観たお客さんも楽しめるように、毎回ブラッシュアップしているというのも素晴らしい。

ネタバレBOX

再演を重ねている作品だ。
基本構造は同じだが、加筆等で初演とはまったく違う作品のようにさえ感じた。
…と言っても初演15年前なのでよく覚えてないけど(笑)。

コメディの教科書のような設定の連続で、ハラハラさせたり、「そりゃいくらなんでもないだろ!(笑)」と思わせたりがいいのだ。
むちゃな設定が連続しても、テンポと役者の力量で、それを納得させてしまう。
それはある意味、力技。
もの凄い力技で、観客を笑わせてくれる。
笑わすためなら、何も厭わないという姿勢が気持ちいい。

演出は、テアトル・エコーの永井寛孝さん。コメディが面白いエコーだから、やっぱりうまい。
役者は本当にみんないいし、その人でしか出せない良さがきちんと表現されている。それは演出と役者のうまさだ。

そういえば角野卓造さんの役は、初演は伊東四郎さんだった。だから巻き込まれ方の反応が違っていたんだな、と納得。

今回で再演6回目ぐらいだが、再演ごとに進化している作品なので、次回また再演されて観に行っても十分に楽しめるだろう。

ヴォードヴィルショーの40周年記念公演は、来年から4作続くということだが、その予定演目がロビーに貼り出してあった。どれも楽しみなものばかり。
毎回「今回がヴォードヴィルショーに書くのは最後」と言い続けて、脚本を提供しているらしい、三谷幸喜さんの作品も予定されていた。
『三月の5日間』100回公演記念ツアー

『三月の5日間』100回公演記念ツアー

チェルフィッチュ

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2011/12/16 (金) ~ 2011/12/23 (金)公演終了

満足度★★★★★

人や世界(社会)との微妙な距離感
出来事や人間関係に全方位的で、かつ微妙な距離感を保っている人たちの話。

「三月の5日間」の出来事が、「物語」となっていく、ある種の「ぶゆうでん、かっこわらい」な物語。


素晴らしい戯曲と役者たち。
1時間30分+休憩15分。

ネタバレBOX

2003年3月のイラク空爆を挟んだ5日間の話。

イラクの戦争なんてまったく関係ないや、と思っているような若者たちなのだが、やはり気にはなっている。
ラブホに長逗留していても、「家に帰ったら終わっていたりして」のように、どこか頭の片隅で意識している。

反戦デモに参加している2人組も、もちろんそうなのだが、過激系なデモの先頭にいたり、警官を挑発したりしている人たちとは、距離を置いている。

イラクは気になるし、戦争は嫌だけど、ほどほどの距離感でいたい。

それは、「戦争」という、遠い海の向こうの出来事に限らず、彼らにとっての、隣にいる友人との距離感も微妙なのだ。

ラブホで朝起きたら隣に寝ていた知らない女や、映画館で出会ったアズマとミッフィーの距離感の微妙さは当然としても、ライブにわざわざ誘って出かけたミノベとアズマ、デモに一緒に出かけたヤスイとイシハラの距離感も、友人であろうが、かなり微妙なのだ。

相手を気遣っているようで、その実、相手の話をきちんと聞いておらず、「あ、そうなんだ」と、上の空の同じ返事を繰り返していたり、自分の話たいことを、例えば、アンミラの制服話を無理矢理ねじ込んでみたり、なんだか「自分に好都合な距離感」ともいえる。

友人関係を壊すことなく、かといって、踏み込むでもなく、「丁度いい塩梅の距離感」だ。

「戦争」との距離感も、戦争そのものは、反対だし、もちろん、巻き込まれるのは絶対にイヤ。「反対」はしておきたいし、でもハードにかかわるのも、ちょっとな…というところ。「関心」があっても深くのめり込まない。
「評論家的」には、世界とかかわることができる。
そしてそれは、傷つきやすく、だけど傷つきたくない。つまり、自分を守るために、全方位的な関係でもある。

そうした若者たちを巡るストーリーは、すでに「物語になっている」。
「語られる対象」となっている、あるいは「過去の話」になっている、と言ったほうがいいか。

つまり、「あの2003年3月のイラク空爆を挟んだ5日間に、渋谷のラブホに居続けたんだぜ」という「伝説」のような「物語」になっているのだ。
それをミノベから聞いたアズマは、ほかの友人に話すし、そのとき自分はどうしていたのか、も加えて「語る」わけだ。

「じゃ、それをやりまーす」と言って始まるのは、その物語を「語っている(再現している)」わけであり、すでに「過去の物語」になっているということ。

過去の物語だから、何度も同じことを繰り返しているようであり、本人であり、第三者的でもある。つまり、自分の記憶を語るのは「第三者的」な視点が入り、「盛ったり」もする。
コンドームの話とか、どちらが先に「ここだけの関係にしよう」と言い出したのか、なんて微妙なことは、曖昧にしておく。

ラブホにいたミノベは、最初はチャラい感じなのだが、後半は、 オラオラ系な前に出るタイプになっていく(語る役者が変わっていく)。

全体的に、傷つきやすい系の中の、オラオラ系とも言えるキャラは、「伝説の象徴」と言ってもいいのではないだろうか。
つまり、語られていくことで、「ぶゆうでん、かっこわらい」になっていっているということ。

出来事や人間関係に全方位的で、かつ微妙な距離感を保っている、という今の人たちの微妙なバランスを観たということだ。

独特の長台詞と台詞回しが素晴らしいと思った。
役者としては、メガネのミッフィー(青柳いづみさん)が、戯画化されすぎてはいるが、面白いと思った。

で、スズキはどうした?
国家~偽伝、桓武と最澄とその時代~

国家~偽伝、桓武と最澄とその時代~

アロッタファジャイナ

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2013/03/27 (水) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

若者の光と挫折を骨太に描く
周囲を観客に囲まれた、隠れることないステージの上で、若者たちの火花が散る。
舞台はシンプルなのに、どのシーンも、どの一瞬も見事に「絵」になる。
3時間超の作品なのに、ずっと息を呑んで観た。

ネタバレBOX

国家がどう生まれ(変わっ)ていったのか、ということよりも、「こうしたい」という熱く目標を掲げ、それに邁進していく若者たちの姿が印象的であった。
熱い若者たちの舞台だった。

連綿と続く古びて腐り始めた体制を、自分たちの手で変えたいという若者はいつの時代も現れてくる。
しかし、当然それに対する反感も旧体制側にいる人たちから起こってくる。
新しいことをしたいと思う者が、どうやって現れて、どうやってそれを成し遂げようとするのかは、桓武の時代であっても今の世であっても同じだ。

異端の天皇として誕生した桓武天皇は、正統な系統から見れば、しがらみが少ない。だから思い切ったことを実践できるのだろう。「変化したモノが生き残れる」というのは、生物の世界にあっても真理だ。
ただし、だからと言って、傍系からやって来た者が新しいことをしようとすれば、その出る頭は叩かれる。

どんな時代にあっても通用するリーダーというものはいない。
「変革の時代」には、「変革の時代のリーダー」が必要だ。

桓武天皇は、まさにその時代に呼ばれてきたリーダーだ。
人間力とビジョンが人を牽引する。

リーダーを精神的にサポートしたのが、最澄だ。

桓武天皇の「理想」「ビジョン」に最澄が共鳴しただけなのではなく、最澄の思う仏教のあり方(国家の精神的背骨となり得る)に桓武天皇も共鳴したのだろう。
互いの熱き心が共鳴し合う姿が、舞台の上でも輝いていた。

若者の熱き血潮の舞台と言えば、蜷川幸雄さんのさいたまネクストシアターを思い浮かべてしまう。
蜷川さんは、力技で若い役者の熱さを引き出しているように思う。
そして、無理矢理とも言えるような、独自の外連味的な演出で、観客をねじ伏せてくる。
老人だからこその、手練れであり、その力は凄いと思う。

翻って、アロッタファジャイナ、つまり、松枝佳紀さんの描く若者は、単に勢いや力だけではない。
「誰にでもわかりやすく、いつの時代も同じな、若者の苦悩と生の迸りを描く」のが蜷川さんだとすれば、松枝さんは「今、目の前にいる若者の痛みと不安を含めての、若さを描いて」いると思うのだ。

そして、蜷川幸雄さんがトップダウンであれば、松枝佳紀さんはボトムアップで舞台を作り上げているというの印象だ。

演出家もまた座組のリーダーである。
ひょっとしたら、松枝佳紀さんは密かに桓武天皇に自分を重ね合わせて演出していた、と思いながら観ると面白いのだろう。

リーダーは決断をしなくてはならない。なので、孤独である。
公式・非公式のパワーを使って、権限と人間力で組織を動かす。
ビジョンや価値観を組織内でどう共有するかが課題だ。

そして、目的に向かうときに邪魔になるものをどう遠ざけるかも大きな問題である。
桓武天皇にとってのそれは蝦夷であった。
この作品で、桓武天皇側が彼らをどう排除していくのかを見ると、逡巡が感じられる。

アテルイを藤波心さんに配役したことで、福島がアテルイの背中に見えてきてしまった。
この選択は、松枝さんがどういう思考回路で行ったのかはわからないが、主人公である桓武天皇と対抗する蝦夷(アテルイ)を両立させるわけにはいかないのだ。

蝦夷を徹底した「異物」として扱わなかったことが、史実との折り合いとしての演出の苦悩と、作品中の桓武天皇の苦悩が重なっていくという、フィクションならではの面白みが見えた。
そして、そのことへの逡巡が作品にも現れていた。
個人的には、もっと非情であってもよかったのではないかと思うのだが。

ストーリーの進行には、歴史アイドルの小日向えりさんが「小日向えり」本人で登場し、その間の歴史を語る。
これはスピード感を殺すことになるのだが、全体のいいリズムになっていたと思う。
ただ、「偽伝」と言っているのであれば、「偽伝」のまま突っ走ってよかったと思う。

話を少し戻すと、この作品と蜷川幸雄さんのさいたまネクストシアターを比べたのだが、もう1点比べるところがある。

蜷川幸雄さんは、ネクストシアターに限らず、何かを仕掛けてくる。
例えば、『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』では、こまどり姉妹が登場し、嘆き悲しむハムレットを前に「幸せになりたい」と歌わせた。これに限らず、舞台の奥を開けて舞台の後ろを見せたりと、力ずくで演出し、それがいい意味での外連味となっていることが多い(少々ワンパターンだったりするが)。

松枝佳紀さんにも独特の外連味がある(外連味とは悪い意味で使う言葉なのだが、フィクションを見せるときに、観客をハッとさせる瞬間があってもいいと思うので、私は外連味はいい意味で使っている)。
それは、もっとポップな外連味だ。
演劇企画「日本の問題」のような企画力に代表されるような、「今」をつかんだ上での、ポップさがあるのだ。

今回で言えば、配役にそれがある。
例えば、仮屋ユイカさんの妹・本仮屋リイナさん、反原発を掲げるアイドル・藤波心さん、さらに歴史アイドルの小日向えりさん、評論家の池内ひろ美さん、映画監督の荒戸源次郎さんたちを俳優として舞台に上げたのだ。

これが外連味でなくて何であろうか。
彼らの配役は、話題性もさることながら、そのポジションの位置、使い方がうまいのだ。

先に書いたアテルイへ藤波心さんを配したことなど、彼女を使うことで意味がさらに増してくるし、「今」につなげてくる。
歴ドルの登場も、まさに観客を現代へ一気に連れ戻す。

荒戸源次郎さんの起用も、ある程度の年齢の俳優を使うことよりも、この人だったから出せたという雰囲気と、若者たちとのマッチ感があったと思うのだ。
この人の役が、うますぎる老練な俳優であったとしたら、その俳優が飛び抜けてしまい、バランスを欠いただろう。なので、「あれぐらい」(笑)がよかったのだ。その点、池内ひろ美さんはうまくなりすぎていたかもしれない(笑)。

こういう使い方は、悪い意味での外連味になってしまう可能性もあり、諸刃の刃でもあるのだが、そこに留まらせない見せ方のうまさが、この作品を含め、アロッタファジャイナにはあると思う。

ラストに空海がきらびやかな印象で登場する。
これって、ハムレットのフォーティンブラスじゃないか、と思ってしまった。
ざくろのような

ざくろのような

JACROW

サンモールスタジオ(東京都)

2015/10/08 (木) ~ 2015/10/13 (火)公演終了

満足度★★★★★

会社は、まるで“ざくろの実”のようだ
「人」という1つひとつの小さな実で構成されている。

会社は人で構成されているはずなのに、人を幸福にしないことがあるのだ。

(ついついネタバレボックスにだらだら書いてしまいました)

ネタバレBOX

現実に起こった三洋電機の買収・解体を思い起こさせるような作品。

実際にある企業に似た、山東電機、松川電器、中国のハイミといった名前の企業が登場することで、技術力があるが業績不振の電機メーカーが大手メーカーに買収される、というストーリーから企業と人という視点ではあるが、どちらかというと経済系、社会派的な話ではないかと思って観ていたが、どうもそうではない。

もちろん「企業と人」の話ではあるのだが、特に「人」に焦点を当てている物語だった。
人がどうするのか、という話だ。
それが「どう見えるのか」ということでもある。
我々、「神の視線」から観ている観客が感じることは「人からどう見えるのか」なのだ。

タイトルにある「ざくろ」という植物の実は、割ると中に赤い粒々が見えてくる。
その粒々は、ミカンなどの柑橘類のような、「実の中身」というものではない。
粒々1つひとつにタネがあり、その粒々の1つひとつが「実」としての存在を示している。
つまり、ざくろの粒々のような我々は、ざくろという実を構成する1つの部品なのではなく、その1つひとつが芽を出し成長することができる、1つの実であるということなのだ。
(タネに対して果肉の部分にあたるところが少ないので、食べても充実感に乏しいということは、横に置いておく・笑)

つまり、「ざくろ(の実)」とは「企業(会社)」そのものではないのか。
企業は、粒々、すなわち「人」の集まりであり、それが「会社」という皮、というか共同幻想みたいなものに包まれているだけであり、「企業の実態」とは「人」にほかならないということなのだ。

「会社は」とか「企業は」とかのように、ついつい会社や企業を主語として1つの存在のように語ることが多いのだが、それは「皮」のことであって、実際はそれを構成している人の集まりのことを指しているのだ。しかし、「会社」や「企業」と言うときに「人」を思い浮かべることはほとんどないだろう。

だから、「人=会社」なはずなのに、「会社にとって」のような理論で、いつの間にか本来の実態である「人」がないがしろにされてしまうことがある。それが酷い状況になると、「ブラック企業」などというものになってしまったりする。

企業を構成する人が我慢したり、不幸になったりすることで、その集合体であるはずの「会社」が良くなるばすがないのに、だ。最近言われ始めている「人本経営」はそこから出てきた考え方なのだ。

しかし、「会社にとって」という、どこから出たのかわからない声(や意思)によって人は我慢を強いられたり、不幸になったりしてしまう。

この作品の登場人物たちも同様である。

経営不振による買収からの、会社の解散(倒産・消滅)という不測の事態に遭遇したときに、消滅する側の会社では、あるいは買収する側の会社では、属する従業員たちはどのような行動をとるのかが、この作品で描かれていた。

つまり、企業経営というような、経済的な範疇での、社会派的な物語ではなく、ここには困惑しつつも自ら決定して行動する人の姿が描かれていた。それは普遍的ものであろう。

ほとんどの演劇がそうであるように、観客はあり得ない視線で舞台上の人々を観る。
つまり、それは「神の視線」であり、物語の当事者ではないので、冷静に人々の行動を観察できるのである。

買収される会社は、一部の人は気づいているように「今まさに沈没しつつあるタイタニック」のようなところにまで来ている。
しかし、呑気に翌日のゴルフについて話をしていたりする。
また、会社に残りたい一心で、上司を陥れようとしたりもする。

そういう人たちを、「ダメな人だな」「イヤなヤツだな」と思って観てるのは、我々が「神の視線」から観ているからであり、実際にその立場、その状況に陥ったとすれば、どう立ち回るかわかったものではない。
つまり、神の視線は「他人からどう見えるのか」がよくわかる視線でもある。

神の視線から観ているから、舞台の上には悲劇があり、喜劇があるのだとも言える。

それは買収される側(山東電機)の人間だけのことではなく、買収する側(松川電器)の人間も同様である。
買収する側の人間は、冷静に、かつ冷酷に山東電機の社員をどう処遇し利用していくかを考え実践しているのだが、彼らもまた買収される側と同様に、「会社」という共同幻想の中に閉じ込められていて、その共同幻想、皮の「会社」の「意思」に従っているだけなのだ。

彼ら自身の意思で業務を遂行しているわけではない。
つまり、いつ立場が逆転してもおかしくないのだ。

観客は買収する側(松川電器)の室長の冷静な判断と計画を観て「冷酷だな」「会社の命令だからな」「会社がなくなっては元も子もないし」と、いろいろなことを考えるだろうが、それは安全な神の視線の側にいるからなのだ。自分がその室長の立場だったらどうするのか、情に流されずに業務を遂行できるのかということだ。

室長は、この仕事をどう考えているのかの本音は、室長とその部下の課長との会話で、室長がふと漏らす台詞からうかがえる。彼女(室長)の「人」が見えてくる一瞬であり、この台詞はなかなかうまいと思った。

副部長が部長を追い落とすような仕掛けをしたり、蔦サブリーダーが副部長に昇格することで、彼のリーダーだった野間に本年を叫ぶように吐露するシーンは、なかなかだ。
なかなかイヤな姿だが、ひょっとしたらどこか天井から眺めている神の視線によれば、自分たちの姿なのかもしれないのだ。

サブリーダーの蔦が副部長になって、(野間が辞めて中国のハイミへ転職したいと思っていたことを知っているのにもかかわらず)あそこであんなこと言うか、と観客は思ってしまうが、それも冷静に観ている神視線の観客だからこそわかることなのだ。後悔先に立たずとはよく言ったもので、我々もそんな過ちをしてしまっている。

山東電機の上司と部下たちに欠けていたのは、心理的契約と言われるような相互理解の関係だ。
暗黙に理解し合えるような関係があったとすれば、買収する側に対しても組織として対応できただろうし、野間に対して営業系の役員が振ってきた急ぎの案件も、うまく対処できたのではないだろうか。

野間と蔦の関係でも同じだ。
蔦は「上司の命令だから野間の言うことを聞いてきた」というが、単にそれだけの関係であって、野間と蔦の間にはそうした暗黙の相互理解がなかった。
だから、立場が逆転してしまっても、それは生まれることがない。蔦は押さえ込んでいた気持ちを吐き出すだけだ。

野間は正論を言っているようで、組織の一員としては問題がないわけではない。
それも実際に同じ組織にいれば、わかるのではないだろうか。

舞台の上での人間模様はとても面白かった。
それは戯曲自体もそうなのだが、役者がとてもいいからだろう。

室長を演じた榒崎今日子さんは、あいかわらず感情を殺して仕事を遂行するという姿が、刃物のように鋭くカッコがいい。
野間を演じた小平伸一郎さんは、オタクな感じを漂わせて神経質な感じがとてもよかった。
サブリーダーの蔦を演じた狩野和馬さんは、野間をしっかりと支えている人というイメージから副部長になるということがわかってからの、感情の爆発が凄い。こんなに感情を剥き出しにしたのは見たことなかったと思う。舞台の上に釘付けになった。

中野副部長を演じた谷仲恵輔さんは、やっぱり上手い。どんな役でも自分の姿にしてしまう(ほとんどがイヤな役なのだが・笑)。部長の前で泣いて見せ、呑みに行こうとするときに蔦に呼び止められ、こちらを振り向いたときに、実は泣いてなかったということがわかる顔には、ゾッとした。人の暗部を一瞬で見せてくれたようだ。
鈴木副部長を演じた佐々木なふみさんは、有能な上司でありながらも(野間は認めていた)、同じ女性社員に対し毒女的、お局様的な毒の滲ませ方が上手い。ロッカーの福山は笑ったけど。
部長を演じた吉田テツタさんの、呑気で人がいいけど無能そうな上司の空気感がいいし(まるで子どものような逆ギレのところとか)、中国人に切り替わったときの殺伐感もいい。

演出的にはホテルの喫茶室のシーンがなかなかだと思った。
普通はウエイターの設定はまどろっこしくなるので、割愛することが多いのだが、この作品ではいちいち注文を取り注文の品を持って来て、を見せる。しかし、それがまどろっこしくはならず、むしろ会話を途切れさせたり、間となったりすることで、ある種のリアリティを感じさせるのだ。
これはなかなかできないと思う。
前作『消失点』でも同様に、婦警さんを登場させることの上手さを感じた。

ただ、後日談のような中国企業のシーンは必要だったのだろうか。
野間は、妻に離婚届を出したことで、(そのことは蔦との会話に出てきたように)中国企業へ転職する意思が固まったことが、観客にはわかったのだから。
蔦が殴りかかるなんていうのは、どうなんだろう、と思った。

ラストにロボットが机から落ちるシーンがある。
人である前に「会社員」である者をロボットにたとえ、それが壊れた様を見せたのではないかと思った。

……野間が中国で突貫開発した電池が不具合を起こしてしまうということを暗示しているというのは、……深読みしすぎか(笑)。
雨

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2011/06/09 (木) ~ 2011/06/29 (水)公演終了

満足度★★★★★

素晴らしい舞台をたっぷり3時間半楽しむ
時代劇。3時間30分(休憩含む)がずっと楽しい舞台。
市川亀治郎がいい。やや痩せたようだが、その胆力・芝居への向き合い方は感動的ですらある。
井上ひさしらしい「言葉」にこだわった作品。
「言葉」はすなわち「アイデンティティ」。

ネタバレBOX

ある雨の日、江戸の町にある橋のたもとに雨宿りする人々。その中に、金物拾いの徳がいた。そこに乞食の老人が1人現れ、徳を平畠の紅屋の主人、喜左衛門ではないかと言う。徳は違うと言うが老人はなかなか納得しない。それほど2人は似ているということなのだ。

徳は、紅屋に興味を持ち、桜前線とともに平畠のある東北へ向かう。北に行くごとに言葉が変わっていくことに気がつきながらの旅であったが、目的地の少し前で江戸に帰ろうとする。すると娘と喜左衛門の乳母だった老婆が現れ、徳を、やはり喜左衛門と間違える。徳は、自分から名乗ったわけではないし、平畠小町と言われる喜左衛門の妻の顔も拝みたいと、老婆たちに促されるまま紅屋へ向かう。

紅屋では、主人の喜左衛門が失踪しているため、妻、おたかは願掛けのお参りまでしていたが、なかなか見つからずに嘆いていた。そこへ喜左衛門が見つかったとの知らせが来る。妻のおたかは喜び、喜左衛門になりすました徳を受け入れる。

徳は、姿形は似ているが、喜左衛門のことは何も知らない。そこで一計を案じ、天狗にさらわれ、頭の中も持って行かれてしまったので、何もわからないフリをすることにした。

喜左衛門は、平畠藩の財政の多くを担っている紅花問屋の主で、紅花の栽培・品種改良にも長け、問屋仲間の代表でもあり、農民や藩からの信頼も厚い。

徳は、このまま紅屋に居座ることを決意し、自分が偽物とは悟られないように、平畠の言葉も必死で覚え、喜左衛門のこともいろいろ知ろうとする。そこへ徳のことを知る男(?)が江戸から現れるのだった。
果たして徳は喜左衛門になりきれるのか。
そんなストーリー。

「言葉」がキーワードであり、言葉は、文化や意識、考え方(思考)であることを強く考えさせられる。
徳は、平畠の言葉を覚えることで、喜左衛門という別人になりきろうとする。そのためには、言葉に付随するあらゆる事象も吸収していくということになる。
そして、別人になりきることで、実は自分を失うということに、ラストに気がつく。
つまり、「言葉」は、すなわち「アイデンティティ」(の源)なのだ。

言葉、この場合平畠の言葉(方言)であるが、例えば、地方から上京するときには、方言を直すことが多いと思う。また、普段は方言で話していても、学校の授業(特に国語)では、「標準語」を使うことを強制される。

つまり、ここで井上ひさしさんが言いたかったのは、「言葉を変えてしまえば、文化、あるいはその個人がその地域にいたというアイデンティティをも失ってしまう」ということではないだろうか。
「言葉」にはそれほど重い意味合い、役割があるのだ、ということを改めて知ってほしいということではないか。

言葉を変えた徳は、その結果、自分を失い、命も失ってしまう。

舞台の中心には、大きな釘が立っていた。「釘」は徳にとって重要なアイテムであり、彼のアイデンティティの源でもあった。つまり、彼は赤ん坊のときに拾われ、物心ついたときから金物拾いをやっていた。彼にとって、釘があれば必ず拾うことが、彼であることの証明であった。
その徳が、釘を拾わなくなったときには、すでに徳ではなくなっていて、そのことが彼を死に至らしめる。つまり、「釘によって死ぬ」のだ。さらに、実際に彼の胸には釘が突き立てられ、まさに「釘によって死ぬ」にことなったのだ。

釘を中心に回る、つまり、ぐるっと回って、釘で始まり釘で終わる彼の一生を物語っているようなセットであった。

ラストの白装束に着替えさせられるシーンはなかなか怖いし、紅花が咲いていて、明るい紅花にシルエットで農民たちが立ち尽くす姿は、徳以外の全員が本当のことを知っており、徳が死ぬことを本気で願っているという、とても美しく怖い風景であった。

とにかく市川亀治郎さんがいい。歯切れのいい江戸言葉も、平畠弁も、さらに徳と喜左衛門を同時に演じる姿、立ち居振る舞いもパワーを感じる。また、あえて歌舞伎の足捌きを見せるあたりの演出も憎い。
亀治郎さんが主人公であるから、この舞台はとても華があり、楽しいものになったような気さえする(…以前に比べてやや痩せていたような気がするが)。
同じ井上作品の『たいこどんどん』のときにも感じたことだが(中村橋之助さんが素晴らしかった)、歌舞伎役者の体力・胆力、芝居への意気込み(向き合い方の素晴らしさ)を強く感じずにはいられなかった。

歌が要所要所で歌われ、物語にプラスしてくる大切な役割を与えられていた。力強い歌声は楽しい。
3時間30分(休憩含む)という長い上演時間なのに、楽しい時間が続いた。

ロビーには、物語で触れられる「紅花」の本物が植えられていて、山形名物のシベールのラスクの小袋を終演後、観客全員に配るというサービスもあった。
「テヘランでロリータを読む」

「テヘランでロリータを読む」

時間堂

シアター1010稽古場1(ミニシアター)(東京都)

2013/01/19 (土) ~ 2013/01/28 (月)公演終了

満足度★★★★★

「抑圧」の部屋から、「(隣の)青い芝生」が見える「窓」を開ける
オノマリコさんの戯曲が素晴らしい。
それを具現化した黒澤世莉さんの演出も見事。
もちろん役者さんたちもいい。

オノマリコさん × 黒澤世莉さん の生み出す作品って本当に素晴らしい。

ネタバレBOX

最初から、革命後のイランはイヤだなー、とだけ思って観ていた。
もちろん、この舞台以前から、イランではこんな大変なことが起こっているとニュース等で報道されていたこともある。

先生と週の終わりの木曜日に読書会をしている彼女たちは、「目に見える抑圧」を受けている。

彼女たちは、「先生」によって巧みにチョイスされた「外国文学」で、「知って」しまったのだ。
自分たちが「抑圧されている」ことや、「敵」が誰なのか、そして「(自分たちの欲している)理想」「自由」がどこにあるのかを。
活字の中にある、西洋=自由。

先生は、「外国文学」を「隣の青い芝生」の見える「窓」にしてしまった。
窓からは明るくて煌めく青い芝生が見える。そこには「抑圧」はない。
そして窓から振り返り、自分のいる場所を改めて見ると、暗く陰湿で陰のある部屋しか見えない。

「先生」は罪作りだ。
彼女たちに「目に見える敵」と「目に見える理想」を気づかせてしまった。刺激的な『ロリータ』という書物を、野球の「ピンボール」のごとく、彼女たち意識の近くに放ってきたのだ。
彼女たちへの効果は抜群で、ロリータに自分たちを見出すだけでなく、「こんな内容の書物が許される世界があるのだ」ということも同じに知ることになる。

知ることで、自分が不幸であることも知ってしまった。

この舞台で「先生」の役はいない。
いない先生を取り囲む女性たち。
この作品が素晴らしいのは、こうしたセンスだ。

先生が彼女たちを読書によって導いている様が、「ガイド」しているようになってしまっては、彼女たちが自分たちの頭で考え、発言し、行動しようとしたことが薄れてしまうからだ。

「自分の不幸を知る」ことで、「希望」が生まれ、「未来」が生まれていくのも事実だ。ただし、そのためには「強い意思」が必要ではないか。
彼女たちの多くはそれを持ち、ある者は命がけで外国へ行く選択をする。

その時点で彼女たちにとっては先生は「不在」となる。先生とのかかわりの中から、自分の「意思」を知ってしまったからだろう。

「知る不幸」は「知らない不幸」よりも何百倍もいい。
知ってしまったことへの苦悩を伴うとしても。
と、つい簡単に書いてしまうが、彼女たちが受ける苦悩は精神的はもちろん身体的な苦痛を伴う。生命の危険さえ伴う過酷なものだ。
それを乗り越えてまでも「何かをしたい」「どこかに行きたい」、つまり、「自分を取り戻したい」という気持ちを強く感じる。その欲求は強く、意思も強い。

彼女たちにそれを感じた。
ただ1人自らオールドミスと言っていたマフシードも、自分が強く信じるモノがある。

先に書いたように、小説『ロリータ』のロリータに彼女たちは知らず知らずのうちに、自分を重ねていく。
舞台の中では、ロリータを彼女たちが演じることで、それを表現し、さらにロリータの中の登場人物ハンバート・ハンバートが彼女たちを悩ます。
ハンバート・ハンバートが、彼女たちを悩ます、あらゆる「陰」となる。ハンバートがイラン革命だったり、為政者だったりするわけで、それに人生を奪われたロリータが彼女たちだ、というのだ。
読書会の彼女たちが、読む書物の中に重なり、交錯していく戯曲が見事だ。本当にスリリングで面白い。

そして、彼女たちは被害者として存在する、ロリータのことからしかモノが見えていないことが露わになる。それは彼女たちがロリータだからだ。この構図は、舞台の中でも、男性が彼女たちに「自分は違う」「男性も悩んでいる」と主張しても理解を得られないことに似ている。

「男」は「抑圧している側」の象徴でもあり、彼女たちにとって、常にハンバート・ハンバート(側)であるからだ。「ベール」「化粧しない」等々の理由が男性側にあるということもあろうし、男女の「感覚の違い」というのは、簡単には理解し合えるものではないということもあろう。

で、そして、ふと思った。「今ここで、この公演が上演される意義は?」。いや、そういう大上段に構えたソレでなくて、なんか心が動くな、と思うところがあったからだ。

それは「何」だったのだろうか。

世の中には、政治であったり、差別であったり、格差であったりの、「抑圧」が存在している。
しかし、「抑圧」は、そういった「目に見える」ものだけではない。
「目に見えない抑圧」もある。
したがって、「他人に理解されない抑圧」もある。

つまり、「テヘランであったことは世界のどこにでもある」のではないか、ということ。

「抑圧されている」ということを、自分のせいにして、つまり、「悪」を自分の中に見つけ、それを悔やみ、嫌悪することで閉じていく人もある。

だから「外に敵を作れ」「目に見える敵を作れ」とは言わない。
彼女たちから「学ぶ」とすれば、それは、痛みも伴うこともあるということを理解した上で、「自分で考え、行動する」ことであろう。

そういう、少し脇道に逸れた見方もあるのではないか、と、彼女たちの強さに、感じた。

彼女たちの中には、外国に渡った者もいる。
「自由」と「理想」に近づいた彼女たちの、「次の敵」は何だったのだろうか。
だぶん「見えない敵」にも遭遇したのではないだろうか。
それは自分で見つけることができたのだろうか。それにも「強い意思で対処していけたのであろうか」。
そんなことが気になった。

シンプルな舞台なのに、シンプルであるとか簡素であるとは感じなかった。
役者たちの絡ませ方がうまいからだろう。
台詞に無駄がなく、そのときの感情を見事に表現しているように響く。

2時間近い舞台なのに、最初から最後まで引き込まれた(お尻は痛くなったけど・笑・クッションぐらい欲しいところだ)。

四方を観客で囲む舞台だったが、どの場所で観たとしても、まったくストレスはなかったと思う。
ライティングを含め、役者の動かし方がうまい。

ちょっとずらして折ったフライヤーなどのアートワークもいい。
受付、客入れも丁寧。

また、兄弟や夫婦、肉親の関係を、衣装の色で見せるというのは、なかなか面白いと思った。
ロリータがサングラスを頭に、とかハンバートのみがダークスーツで革靴というのも。
さらにニーマを除き、イランの男性が全員ヒゲを蓄えていた。
黒澤さんはもの凄いヒゲ面だった(笑)。
公演の直前に実際にテヘランに行ったということだが、それがどれぐらい公演に反映されたのか、は知りたかった。



蛇足ながら、ミニシアター1010には初めて行った。
家からは遠いのだが、いい会場だ。思ったよりも広さがあるし、トイレもちゃんとしていて、駅に直結。
終演後であっても、1つ下の階で食事もできる。
エスニックな公演の後、中村屋でカレーを食べた。美味しかった。
蟹

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2010/07/16 (金) ~ 2010/08/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

生きる、精一杯生きる
「待ってました」と大向こうから声がかかりそうなほどの、桟敷童子らしい物語と展開。
今回も(いい意味での)泥臭いセンチメンタリズムが溢れる。

そして、何よりも、役者の面構えと気迫がビンビンと伝わる。
それを観に来たと言ってもいいかもしれない。

約2時間。倉庫の会場なので、かなり暑くなるかと思っていたら、そうでもなかった(夜の回)。

ネタバレBOX

終戦直後、元海底炭鉱のあった寂れた集落に文雄と恒幸の2人の復員兵が帰って来る。そこには彼らが知っている者、彼らを知っている者はいなかった。

そこへ博多築港社に雇われたヤクザたちが現れ、自分たちのところの娼婦が襲われ、その犯人は、この集落に逃げてきたと言う。
集落の者は誰も心当たりはないのだが、娼婦たちの首実検の結果、復員兵の1人、文雄が犯人であると断定し、彼はやっていないと主張するも、ヤクザたちに連れて行かれる。

そんな中、集落に膳所婆が孤児を連れて戻ってきた。膳所婆は孤児を見つけると貧乏な集落に連れて帰って来るのだ。先の復員兵たちも実はこの膳所婆に連れられてきてここで育ったのだ。しかし、膳所婆は記憶がなくなっていて、2人ついても覚えていない。

ヤクザに連れて行かれた文雄は、リンチを受け、やっていない犯罪を認めてしまう。

その頃、集落には、被害者だったはずの標、千景、ミヒロの3人の娼婦が逃げて来る。彼女たちは、集落の人々に本当のことを話し始めるのだった・・・。

そんなストーリー。

今回も丸太を多様して組み上げられた舞台が、凄い存在感を見せてくれた。
一見、ごっつい作りなのだが、実は隅々まで気を遣い、よく出来ていると感心する。落とし穴やトロッコなど、大道具の力量もうかがえる。こんなセットを組み、水を大量に使える、いい会場を手に入れたなぁと思う。まさにベニサンピットなき後、桟敷童子にふさわしい会場だと思う。

その舞台の上では、役者たちが汗を流し、いい面構えと気迫を見せてくれる。
「そう! これこれ!」という感じだ。

特に、ボウボウを演じた板垣桃子さんと、標を演じた中井理恵さん、それに文雄を演じた池下重大さんは、本当にうまいなぁと思うのだ。膳所婆を演じたも鈴木めぐみさんは腰が大変だっただろうなぁと思ったり。
今回は、男2人が中心にあり、文雄と恒幸(松田賢二さん)のやり取りが熱いし、強い。いままでは、ひと目で弱者とわかる登場人物が、物語の中心に据えられていたような気がするのだが、今回は、見た目の弱者ということではなかった。
もっとも、ここには結局「強者」は出てこないのだか。

役者たちが、常に気を張っていて、立ち位置は当然のことながら、その姿勢までもきちんと制御され、「画」として成立させる細かい演出もいい。

全編博多弁(たぶん)で繰り広げられる物語は、(いい意味での)泥臭いセンチメンタリズムが溢れ、(いつもの)ウェットな感じが醸し出されていた。

文雄と恒幸は、故郷とも言える集落に帰ってきたものの、会いたかった膳所婆は、記憶を失っていた。しかし、彼ら2人は、「不味い」と言いながらも膳所婆の作ってくれたすいとんと芋の煮っ転がしを楽しみにしていた。カレーライスを「うまかった」と言う文雄の言葉などの、そんなエピソードが染みるし、だからこそ膳所婆のラストの台詞には泣けるのだ。
孤児役の外山博美さんの澄んだ歌声が荒んだ集落に響くのもいい(外山さんは、少年役からおばちゃん役まで、どんな役でもぴたっとくるのがいつも不思議だ・笑)。

今回は、ボウボウにより、笑いの要素がいろいろとあった。ベタすぎる笑いもありつつも、そのボウボウが単なる道化の役割でないあたりが、脚本がうまいと思う。

印象的なオープニング、そして歌、物語の展開とセンチメンタリズム、さらにスペクタクル的なラストという方程式は、ある意味、ワンパターンなのかもしれない。つまり、ストーリーの展開はわからなくても、行き着く先はなんとなく見えている。また、そういう状況の中で誰が死ぬのかが、「おきまり」的な感じと要素でもあり、その展開にやや強引すぎることもあるのだが、それに違和感はない。

なんとなくのパターンが見えてくるのだが、それでも「また観たい」と思ってしまうのはなぜなんだろうと思う。
もちろん、物語としての語り口のうまさは当然あるのだか、その理由の1番には、「人」の要素が挙げられるだろう。ドラマを越えた、「人の存在感」のようなものが、いつも桟敷童子の舞台にはあると思う。
それは、単純に「役者の姿と佇まい」と言ってもいいかもしれないし、物語の根底に流れる「人が生きること」と言ってもいいかもしれない。

今回、何度が語られる、「海の底の町に行くには、精一杯生きなくてはならない」という台詞が効いているのだ。

泥にまみれても、這いずり回っても、「生きていく」という強い意志が舞台から感じられる。それがいつも舞台の根底にある限り、私は「桟敷童子をまた観たい」と思い続けるだろう。

今回の『蟹』というタイトルから、ラストは大量の蟹が出てくるのかと思っていたら、そうではなく、そこだけはちょっと残念(笑)。
海底炭鉱の爆発により、人骨とともに海から蟹が現れたら(トロッコに少しだけ付いて出てきたが)、さらに意味が付加されて面白かったと思うのだ。

大量に降り注ぐ水や、プールになって張ってある水に、ずぶ濡れになって演じている様は、演じるほうも陶酔感があるのではないかと思ったりして。

細かいことだが、復員兵に米軍の軍服らしいものを着させている配慮もうまいなぁと思ってしまう。

直接の舞台の内容とは関係ないが、毎回のことだが、ここの客入れと客出しはとてもいい。
開演のギリギリまで、役者さんたちが総出で、客入れをしている。その声のかけ方も「いらっしゃいませ」だけでなく、気持ちを込めて迎えてくれているという意識が伝わるような言葉をかけてくれたりする。それだけで、本当にうれしくなるし、観劇の気持ちもさらに高まるのだ。
客出しも同じで、気持ち良く送ってくれる。こちらも「ありがとうございました」と頭を下げてしまうほどだ。
そんな気持ちにさせてくれる劇団だから、やっぱり、また観たくなるのかもしれない。
くろはえや

くろはえや

JACROW

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2016/06/05 (日) ~ 2016/06/11 (土)公演終了

満足度★★★★★

黒だったのか白だったのか
『消失点』と同様の、脚本:吉水恭子、演出:中村暢明コンビによる作品。
事件的なテーマを扱う劇団が数多くある中で、JACROWは独自のカラーがある。

“見苦しさ”がぶつかりあう台詞劇。
JACROWらしい作品。

ネタバレBOX

吉水恭子さんの作風は、当たり前だけど、とてもJACROWのイメージと合っている。
しかし、中村暢明さんの作品のような重苦しさと後味の悪さ(後味に残る苦さ)のようなものはあまりない。
一応「終わる」からだろうか。
と言っても、『消失点』も、この『くろはえや』も「事件(災害)」をストレートに想起させ、さらに事件(災害)のことではなく、そのことによって炙り出されていく人の「気持ち」あるいは「業」について、観劇中も、観劇後も考えさせられることが多いのは、JACROWならではと言っていいのかもしれない。
その点が、JACROW作品の肝であろう。

この作品も、まさにそう。

「脱ダム宣言」をした県知事が長野県にいた頃、平成18年の下諏訪を、作品基本設定としている。
下諏訪を襲った豪雨対策の災害対策室の一夜を中心に、対策室に集う町役場の人々を描く。

雨が豪雨となり、想定外の災害を引き起こす可能性が出てくることで、対策室内は、ちょっとしたパニックとなり、普段は口にしないような「本音」が現れ、「人が剥き出し」になっていく様が、なかなか「見苦しく」って良いのだ。

誰もが何らかの鬱屈した気持ちを抱えていることがわかり、それが「地縁」「血縁」という自縛に囚われていることから起こってくる。

役所の人たちと言っても、当然そこに暮らす人たちだもあり、災害に遭っている人ということが、その「地縁」「血縁」と絡んでくるところがとても上手い脚本なのだ。
切り離せないからこそ、人々の間に軋轢が起こり、関係が歪み、ギシギシと悲鳴を上げる。

「地縁」「血縁」の良さも当然あるのだが、悪さ、醜さもある。
本人が望まぬ形で出戻ってきた、役場の職員の一人、守屋を通して見せることで、地方から出てきた観客の多くは、自分の故郷のことに重ねたのかもしれなない。
彼が役場という仕事に就けたのは、まさに「地縁」によるものに違いない。そんな彼が、自分の故郷が自分を縛っていることを呪うように言葉を吐き出す。
その怒りは自分に向けていることもわかっているのだ。
そうしたことがわかるからこそ、イライラが募り、この災害発生時のタイミングなのに、周囲に喰って掛かるのだ。
豪雨により、時々刻々と状況が悪化していく中で、対応策はとっていくものの、それぞれの思惑とイライラがぶつかり合い、外の豪雨に負けない嵐が会議室内で起こっている。

登場人物たちの表情が、徐々に「悪く」なっていく様が上手い。
「悪いことを言う」顔なのだ。
イライラが伝染していくように、さらにそれが助長していく。

「何言ってるんだ、こいつ(ら)、このタイミングで」と観客の多くは思ったに違いない。しかし、この期に及んでも、いろいろな思惑や、ここで言ってしまえ、といった感覚があるのか、あるいは仕事とプライベートがぐちゃぐちゃしがちな地方ならではの感覚なのか、誰かが何かのタイミングで静止しなければ止まらないのだ。

平成18年に実際に起こった豪雨災害を下敷きにしているという。
この「平成18年」という設定が実は効いている。
「脱ダム宣言」の長野県というだけでなく、東日本大震災も熊本の震災もまだ起こってはいないからだ。
もし、その後の設定であれば、「避難勧告」についてのためらいは出てこなかっただろうし、「想定外の出来事」は常に起こる可能があること、さらに災害に対する対応方法も異なったに違いない。したがって、こうした内輪もめのような事態に陥ることも少なかったのではないかと思うのだ。
そのあたりが上手いと思う。

総務部の危機管理室長・守屋明美は、このゴタゴタの中で、唯一職責をまっとうしようとしている人で、「女が働くことへの風当たり」にも「子どもを残している」ことへの罪悪感のようなものにも、耐えている。
彼女の存在が、災害対策室の崩壊を免れることになっているのだと思う。
だから、ストーリーは破綻せずに地に足が着いたものとなっているのではないか。

地方から東京圏に来て暮らしている観客は、この作品をどうとらえたのか気になるところだ。
「あるある」で「イヤだな」なのか、「それでも懐かしい」なのか。

後日談はさらりとしたところがいい。
「黒南風」だったのか「白南風」だったのかはわからない。

ラストで守屋・兄妹が、ダム予定地で父親の後ろ姿を見つけるシーンはとてもいい。
会議室のみの設定かと思っていたので、それに対する意外さ、つまり、視野の広がりもあったが、何よりも、劇中で何度も出てくる「中止になったダム」の存在と親子、という「地縁」と「血縁」の象徴として、「建設予定地」の古びた看板とともに、きちんと物語に効いてくるのだ。

危機管理室長・守屋明美を演じた蒻崎今日子さんの、子持ち・女性管理職としての安定した演技は、やはりいい。東京から出戻った、守屋徹を演じた小平伸一郎さんの、まるで反抗期の子どものように、捻くれた姿からの、ラストでの故郷への複雑な愛情を吐露するあたりが、とてもいい。自分の気持ちを絞り出すような、感じが。
総務部の若い女子職員・御子柴を演じた森口美樹さんの、若くて仕事をテキパキこなす姿から、物事をはっきり言う本来の姿を見せ、憧れていた田舎暮らしへの嫌悪を、静かに剥き出しにしていく様も良かった。
総務部の足の悪い五味を演じた菅野貴夫さんの、守屋の父親を知っています、からの、事故の責任を問う鬱屈した台詞がとてもいい。

豪雨の中で、ガラス窓の外に水を流すというセットは、細かいことだが、かなりの効果が上がっていたと思う。

JACROWは、もっと大きな劇場で、作り込まれたセットの中での芝居も観てみたい。
近い将来そういう公演が打てることを期待する。

観劇した日は、初日ということもあり、台詞などに固さが残っていた。「宣言を設置する」なんていう台詞もあったりして。特に方言が、長野地方の人間ではないのだが、どうもこなれ切れていないような印象を受ける。

公演後はイベントがあった。緩く観客も参加する形で、この作品のテーマでもある「地方と東京」についてのものだった。
なかなか面白かった。蒻崎さんのところどころで炸裂する突っ込みには笑った。谷仲さんがクラブに行ったとの発言(!)の後に、クラブの騒音の中っぽく「どこから来たのーって言うの?」という突っ込みとか(笑)。
パパ、I LOVE YOU!

パパ、I LOVE YOU!

加藤健一事務所

本多劇場(東京都)

2009/06/03 (水) ~ 2009/06/14 (日)公演終了

満足度★★★★★

極上コメディの、笑いのグルーヴに包まれて、とっても幸せ
加藤健一事務所のコメディは数回だけ観たことがある。いずれも「ハズレなし」であった。
そして、tetorapackさんの「観てきた!」のタイトルだけを見て、いてもたってもいられず、本多劇場へ。

まさに「最高」「極上」のコメディがそこにあった。
星の数が5つでは足りないという気持ちもよくわかった。

たぶん同じ脚本で別の劇団がやっても、これだけの満足度の高い舞台と笑いは生まれないのだろうと、強く思わせるだけの凄さが溢れていた。

台詞がどうとか、間がどうとかという部分的な要素だけでは推し量ることのできない、脚本、演出、役者のすべてが見事に相乗効果となって、とてつもない一瞬を生み出してしまったのだ。
そして、その場所に居合わせた幸せを感じたのだ。

ネタバレBOX

物語がリアルタイムで進む感じがとてもいい。時間がジリジリと迫ってくる様子が舞台上の時計の動きでわかり、主人公とともにイライラジリジリするというのがなんとも言えずいいのだ。

非常に些細なことではあるが、途中に休憩が挟まれるのだが、リアルタイムさが命の舞台なので、そのまま突っ走ってもよかったような気がする(年齢の高い観客もいるので、しょうがないのかもしれないど)。

切れ目の部分は、『レンド・ミー・ア・テナー』のときは公演の前後だったと思ったので、今回もてっきり講演の前後になるのかと思ってた。
嫌な世界

嫌な世界

ブルドッキングヘッドロック

サンモールスタジオ(東京都)

2010/12/17 (金) ~ 2010/12/31 (金)公演終了

満足度★★★★★

「嫌な世界」は紙一重
『ケモノミチ』でも感じた世界が広がっていた。
「日常」と「人間関係」。
崩壊の序曲。

ネタバレBOX

濃厚で、どこにでもあるようで、実は現代では崩壊してしまっている人間関係。
あそこの誰がどうしたとか、もう、近所のみんなが自分のいろんなことを知っていて、他人なのに、親戚以上のつながりがある社会。それは、もう現実には見ることのできない、下町的な人間関係である。

無縁社会の今となっては、素晴らしい社会だったのかもしれないが、その鬱陶しさに気がついてしまえば、その中にいることは地獄でもある。

つまり、「嫌な世界」と「素晴らしい世界」は表裏一体にある。
「それ」に気がつかなければ、素晴らしく、気がついてしまえば嫌な世界にもなってしまう。
「隣の芝生は青い」症候群とでも言おうか。

まるで、もうダメそう(たぶん)な地球よりも、火星のほうが素晴らしいと思ってしまうのにも似ている。

息子の坊豆くんから見ると、周りの大人すべてが家族のようで、家族ではなく、単に鬱陶しいつながりでしかないのだから。
だから、「お兄ちゃんが多くていいわね」なんて言われると、爆発させたくもなってしまう。

火星に移住が始まっていても、そんなムラ社会はどこかに存在する。ムラの外から入ってくると、居心地は悪い。担任や母親の浮気相手はまさにそう。まったく馴染めないのは当然。
しかし、天涯孤独な壊し屋・七海にとっては、ちょっと惹かれたりすることもあるのだろう。無縁社会の真っ直中にいるのだから。

坊豆は、今いる息苦しい世界を、爆弾で吹っ飛ばしてしまいたいと思っている。実際に爆弾を作っている入間は、爆弾では壊せないことを知っているから、爆発しない爆弾を作り悶々としている。

だけど、(たぶん)少し未来の話なのだが、観客は知っているのだ。そんな人間関係なんて、爆弾じゃくても簡単にバラバラになってしまうことを。
工場の破産や母親の浮気による両親の離婚は、もうすぐそこまでやって来ている。そうでなくても、そんなムラ社会は、年とともに崩壊するしかないのだ。人間関係を築く「人」が減っていくし、子どもだって、坊豆1人しかいないのだから。

それにしても、サンモール・スタジオという会場で、あれだけ大がかりなセット展開をできるというのには、驚きだ。本当に素晴らしい。

そして、どこまでもぼんくらな男性たちに対して、女性たちの、諦念とも言えるような察し方の雰囲気は素晴らしい。どの女性も、それで魅力的に見えていた。

中でも、七海を演じた永井幸子さんの、「あえて、イヤなことを言います」的な台詞回しは、誰にでもあることなので、ヒリヒリときたし、小島の妻を演じた深澤千有紀さんの「おばちゃんぶり」は素晴らしい。ラストの去り際で見せる台詞もとても効いていた。それは、唯一とも言っていい一筋の光だった。
さらに、工場の従業員を演じていた伊藤総子さんの、哀しみ溢れる姿は印象に残った。理髪店の兄を演じた岡山誠さんは、持ち味のキャラクター以上の鬱陶しさがナイスだった。
東京裁判

東京裁判

パラドックス定数

pit北/区域(東京都)

2009/11/13 (金) ~ 2009/11/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

ある意味、美しい舞台
脚本・役者・演出のどれをとっても、素晴らしいとしか言いようがない。
緩急の見事さ、舞台から放射される熱量にしびれた。
ここまでくると「美しい」と思ってしまう。

もちろん、このサイズの劇場ということも多分にあると思うが。

ネタバレBOX

いわゆる東京裁判をわずか95分程度で見せてくれると言う。
一体何が見せられるのか、あるいは何を見せてくれるのか、と思いつつ劇場に入った。
東京裁判の核心となるところを見事につかみ出し、われわれに見せてくれた。
戦勝国が一方的に裁く不公平な裁判ということだけでなく、被告人たちの「責任」や「罪」そのとらえ方の違いなどが、次々とあらわになっていく。

登場人物たちの、それぞれのバックボーンの持たせ方がうまい。
そのバックボーンからの発言があるので、いろいろな角度からこの裁判を見ることができるのだ。

余計な説明がないのもいい。
さらに、一人芝居のように、弁護人たちの台詞と演技だけが観客に届き、他の検察、判事、被告たちの姿も声も見えず、聞こえないという演出も効いている。
スピードを上げるところ、じっくり聞かせたいところ、それぞれをきちんとメリハリを持って見せてくれる。
ヒートアップするところ、呼吸を整えるところでは、観ている側もその呼吸になっていくようだ。

衣装のスーツは3つボタンや三つ揃えなどで雰囲気を出していたが、どうも眼鏡が気になってしまった。あとは帽子があったりすると雰囲気が出ていたかもしれない。

若い役者たちのノリに乗っているような、エネルギー溢れる演技が素晴らしい。
台詞間の間(ま)や、視線、表情、互いの言葉だけでないコミュニケーションのとり方など、細かいところでも見せてくれていた。
こんなに近いところで見ているのだから、ごまかしなどはきかない、まさに真剣勝負の姿があった。それは確実に心にも届いた。
これだけ、レベルがある程度揃い、観ていて気持ちいい演技もなかなかないと思う。

東京裁判を含め、戦前・戦中の歴史的な知識が多少でもあるとより楽しめる(逆にまったくないと楽しめないと思う)。

チケットもよく見るとなかなか凝っていた。

急遽時間ができたので、ダメもとで当日券で、と思ってでかけたのだが、観ることができてこれほどよかったと思ったことはない。

パラドックス定数、これから目が離せなくなった。
中国の不思議な役人【寺山修司×白井晃】公演終了

中国の不思議な役人【寺山修司×白井晃】公演終了

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2009/09/12 (土) ~ 2009/10/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

スマートに現れた寺山修司の混沌
30数年前の初演は知らないのだが、寺山修司さんの世界をスマートにして再現したように思えた。

寺山修司さんらしい、詩的とも言える台詞が要所要所できらめく。

アングラ度は低いけど、濃厚な舞台を堪能した。

ネタバレBOX

この物語の舞台となっている中国に限らず、歴史には死体の山が築かれていく。その場所・時に現れて、死ねずに死んでいく中国の不思議な役人。死ぬために死ぬ男。その男は、純愛にのみ死ぬことができる。


「影」「鏡」という、本体とは別の「本人」がキーワードとなって、全編を覆う。
自分の影を切り抜く、光のないところの影、絶えず現れる鏡売り、少女に贈る手鏡、過去や未来を映す鏡の間、こうした要素が物語の厚みを増していく。

そして「仮面」。

それらによって、自分が自分であることの不確かさ、不安さが醸し出される。取れない仮面、影に染みだしてしまう自己、鏡に写らない自分。

舞台の隅々まで神経が行き渡り、隙がない。見事なフォーメーションで進行する様は見事としか言いようがない。
20年代の上海の混沌さ、猥雑さのイメージを、パルコ劇場の舞台の上に登場させたのだが、それは「バルコ劇場の」がミソで、かなり清潔で整然とした雑然さ、猥雑さであったとも言える。
本来の戯曲の持ち味とは変わってしまっているのかもしれないが。

今回のためにつくられた、三宅純さんの音楽もいい。おしゃれとも言える。
舞台上では、パーカッションと管楽器の生演奏がプラスされ、口当たりのいい音楽にライブならではの良さ、緊張感や雑音感、生々しさが加えられる。その選択がとてもいいのだ。
特にラストでは、楽器としてのグランイダーの登場で、火花という視覚的効果も加わる。

歌のパートでは、オリジナルの寺山さんの歌詞も使われているようだが、こうなると、オリジナルの音楽も聞いてみたいと思った。今回のこのテイストとはまったく違ったのだろう。

平幹二郎さんの存在感はやはり素晴らしいのだが、彼が登場するシーンはそれほど多くなく、ちょっともったいないとも思った。登場するシーンでは大仰な音楽と彼の重く響く高笑いがあるのだが、何度も繰り返されるとギャグのように思えてしまったのだが。

また、小野寺修二さんの動きには当然のようにキレがあり、明らかに他と違う輝きがあり、それには目を見張った。
さらに、大駱駝艦からの出演は、身体の使い方、立ち方ひとつをとっても、舞踏的であり、普通の舞台俳優とはまったく違い、場面ごとの雰囲気を高めていたと思う。
女性のコーラスとソロの歌もよかった。

女性将校役の秋山菜津子さんは、背筋がピッと伸び、ダンスも歌も華があり、大切な役の軸となっていた。
岩松了さんは、他の登場人物とは違う軽妙さを演出していたと思うのだが、発声なのか佇まいそのものなのか、他の重厚さのある登場人物たちと比べてやや浮いていたように思えた。

兄と妹の2人がもっと華があれば、言うことはなかったのだが。

私の行った回は、後ろのほうにかなり空席が目立った。これだけの舞台なのだから、満席にするためにも料金の高さはなんとかならなかったのだろうか。
観客全員が拍手をしても、これでは聞こえる音があまりにも寂しい。
まあまあだったね。

まあまあだったね。

あひるなんちゃら

OFF OFFシアター(東京都)

2012/03/02 (金) ~ 2012/03/06 (火)公演終了

満足度★★★★★

もう侘び茶の世界だよ
OFF OFFシアターのサイズ、シンプルなセット、シンプルな台詞、だけど深みがあったりなかったり。

ネタバレBOX

あつたり、なかったりのところは、観客の想像と思い入れの部分だから、なんちゃらーの私にとってはあったりする。

毎回いい感じにツボを刺激されてしまう。

あひるなんちゃららしい、常に何も起きない会話劇。
もう侘び茶の世界だよこれは。
コメディの侘び茶。

にじり口からOFF OFFシアターの客席に入りたいほど。

「まあまあだったね」の台詞のネタばれは、ここの説明文にもすでにあるというのに、笑ってしまう。

台詞のタイミング、というか呼吸のうまさなんだろうなあ。
全登場人物それぞれの持つリズムが良く、見事に1つの楽曲に仕上がっていようだ。

DM封筒持って行ったので、特製ライターをゲット。
したけど、タバコは吸わないし、BBQも花火もやる予定ないので、机の上にちょこんと置いてある。黄色いライター。

アンケートの感想として一番多かったのは「まあまあだったね」と予想。
学芸会レーベル♥KR-14【中屋敷法仁】

学芸会レーベル♥KR-14【中屋敷法仁】

キレなかった14才♥りたーんず

こまばアゴラ劇場(東京都)

2009/04/20 (月) ~ 2009/05/05 (火)公演終了

満足度★★★★★

中毒になるほど、面白いったら、面白い!!
とにかくテンションがいい感じに高いまま、流れるように見事に疾走していく。
それに振り落とされないようについていく感じの私。
最初から顔がゆるみっぱなしで、だらしない笑顔で観劇。

セリフも佇まいも物語そのものもキレがいい。

ネタバレBOX

禁じられた学芸会の「禁じられた」は、演じるということの楽しさが強すぎるってことなんだろう。
だって、舞台の上では、とにかく楽しそうなんだもの。
学芸会へいざなう、みゆき先生の目は、怪しく輝いていて印象的だったし。

ミもココロモも、取り込まれてしまってこそが「学芸会」。

これは禁じないと、誰もが中毒になってしまうのだ。

でもって、見ているこちらも「もっと見たい」「もっと見たい」と呻いて、中毒になっている。

・・・・ん、14才・・・それはまあいいや。
エル・スール~わが心の博多、そして西鉄ライオンズ~

エル・スール~わが心の博多、そして西鉄ライオンズ~

トム・プロジェクト

本多劇場(東京都)

2009/08/25 (火) ~ 2009/08/31 (月)公演終了

満足度★★★★★

登場人物がすべて愛おしい
人がいて(人が生活して)町がある。
町の記憶、町の匂い。
地に足つけて生きる人たち。

作・演出の東節炸裂とでも言おうか、もちろん桟敷童子とは違うテイストだが、根底に流れる、人、生命、絆、町(共同体)への強烈な想いは同じだ。

かなりベタなつくりかもしれないが、登場する人々がすべて愛おしい。
どんな仕事をしていても、チンピラであっても、人が人であること、生きていることが美しいと思える。

美しさの中には、強さと弱さと哀しさが同居しているのだ。

ネタバレBOX

住む人に愛された博多という町と、町の人に愛された西鉄ライオンズ、なくなってしまっても、あるいは、散り散りになってしまっても、それへの人々の想いは、消えてしまうことはない。
たとえ、町を離れても、心の中にはその想いがある。主人公の中には「エル・スール」(南へ)という形で強く刻まれている。

町はどうしても変わっていく。その善し悪しは別にして。
私自身が住んでいた町は、まさに高度成長期の頃から日々大きく変化していった。それは、前がどんな様子だったかを忘れてしまうほどだ。
町が変わることは、もう諦めている。そんなものなんだと。でも、町に対する郷愁や思い入れは多少はあるつもりだ。

とはいえ、私の想いは、この舞台に登場する人たちほどではないだろう。というか、作・演出の東さんの、町に対する想いの強さはどうだろう。

東さん作の「風街」も九州の北部が舞台だったし、桟敷童子の「ふうふうの神様」もやはり九州が舞台、そのこだわりはものすごいと思う。
東京に出て来て、芝居をやっている東さん自身の想いも、やはり「エル・スール」(南へ)なのだろう。それが、たとえ九州が舞台でないときも、色濃く出ているように感じる。

さらに、昭和30〜40年あたりへのこだわり、映画へのこだわりも強い。先日桟敷童子の「汚れなき悪戯」の元となった映画がまたこの舞台で顔を出した。なにしろ、「エメ・スール」というタイトルのスペイン語は、「汚れなき悪戯」がスペイン映画だったからなのだ。

それぞれの人物の描き方がいい。台詞の端々にその人の生きてきた道が浮かび上がる。単なる説明にならないところは当然としても、その塩梅がとてもいいのだ。たかお少年の純粋さが人を惹き付けるという構造もうまい。誰もに好かれ、誰もを好きな少年時代。

ラストに、その後彼らはどうなったのかと後日談をくどくど見せない潔さがカッコいい。それぞれがどう生きたのかを描くことができたのに、それを観客の心の中にゆだねてしまう潔さ。見事だと思う。

また、今回の舞台は、メインは5名の俳優が演じているのだが、どの役者もうまいと思った。そこにその人が生きているようだ。
たかお鷹さんにも、高橋由美子さんにも、松金よね子さんにも、有坂来瞳さんにも、清水伸さんにも、登場人物のすべてに、生きる強さ、生命の強さと、同時に人の弱さや哀しさも感じた。

たかおさんは、もちろん、どう見ても小学生には見えない姿なのに、なんとなく老けた小学生に見えてしまうというのが見事だ。60歳を過ぎた現在を演じるときに、わずかながら口調が変わるだけで、その違いをはっきりさせたのには舌を巻いた。

笑いも交えながらだが、後半は、涙なしでは観ることができなかった。

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