「テヘランでロリータを読む」 公演情報 時間堂「「テヘランでロリータを読む」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    「抑圧」の部屋から、「(隣の)青い芝生」が見える「窓」を開ける
    オノマリコさんの戯曲が素晴らしい。
    それを具現化した黒澤世莉さんの演出も見事。
    もちろん役者さんたちもいい。

    オノマリコさん × 黒澤世莉さん の生み出す作品って本当に素晴らしい。

    ネタバレBOX

    最初から、革命後のイランはイヤだなー、とだけ思って観ていた。
    もちろん、この舞台以前から、イランではこんな大変なことが起こっているとニュース等で報道されていたこともある。

    先生と週の終わりの木曜日に読書会をしている彼女たちは、「目に見える抑圧」を受けている。

    彼女たちは、「先生」によって巧みにチョイスされた「外国文学」で、「知って」しまったのだ。
    自分たちが「抑圧されている」ことや、「敵」が誰なのか、そして「(自分たちの欲している)理想」「自由」がどこにあるのかを。
    活字の中にある、西洋=自由。

    先生は、「外国文学」を「隣の青い芝生」の見える「窓」にしてしまった。
    窓からは明るくて煌めく青い芝生が見える。そこには「抑圧」はない。
    そして窓から振り返り、自分のいる場所を改めて見ると、暗く陰湿で陰のある部屋しか見えない。

    「先生」は罪作りだ。
    彼女たちに「目に見える敵」と「目に見える理想」を気づかせてしまった。刺激的な『ロリータ』という書物を、野球の「ピンボール」のごとく、彼女たち意識の近くに放ってきたのだ。
    彼女たちへの効果は抜群で、ロリータに自分たちを見出すだけでなく、「こんな内容の書物が許される世界があるのだ」ということも同じに知ることになる。

    知ることで、自分が不幸であることも知ってしまった。

    この舞台で「先生」の役はいない。
    いない先生を取り囲む女性たち。
    この作品が素晴らしいのは、こうしたセンスだ。

    先生が彼女たちを読書によって導いている様が、「ガイド」しているようになってしまっては、彼女たちが自分たちの頭で考え、発言し、行動しようとしたことが薄れてしまうからだ。

    「自分の不幸を知る」ことで、「希望」が生まれ、「未来」が生まれていくのも事実だ。ただし、そのためには「強い意思」が必要ではないか。
    彼女たちの多くはそれを持ち、ある者は命がけで外国へ行く選択をする。

    その時点で彼女たちにとっては先生は「不在」となる。先生とのかかわりの中から、自分の「意思」を知ってしまったからだろう。

    「知る不幸」は「知らない不幸」よりも何百倍もいい。
    知ってしまったことへの苦悩を伴うとしても。
    と、つい簡単に書いてしまうが、彼女たちが受ける苦悩は精神的はもちろん身体的な苦痛を伴う。生命の危険さえ伴う過酷なものだ。
    それを乗り越えてまでも「何かをしたい」「どこかに行きたい」、つまり、「自分を取り戻したい」という気持ちを強く感じる。その欲求は強く、意思も強い。

    彼女たちにそれを感じた。
    ただ1人自らオールドミスと言っていたマフシードも、自分が強く信じるモノがある。

    先に書いたように、小説『ロリータ』のロリータに彼女たちは知らず知らずのうちに、自分を重ねていく。
    舞台の中では、ロリータを彼女たちが演じることで、それを表現し、さらにロリータの中の登場人物ハンバート・ハンバートが彼女たちを悩ます。
    ハンバート・ハンバートが、彼女たちを悩ます、あらゆる「陰」となる。ハンバートがイラン革命だったり、為政者だったりするわけで、それに人生を奪われたロリータが彼女たちだ、というのだ。
    読書会の彼女たちが、読む書物の中に重なり、交錯していく戯曲が見事だ。本当にスリリングで面白い。

    そして、彼女たちは被害者として存在する、ロリータのことからしかモノが見えていないことが露わになる。それは彼女たちがロリータだからだ。この構図は、舞台の中でも、男性が彼女たちに「自分は違う」「男性も悩んでいる」と主張しても理解を得られないことに似ている。

    「男」は「抑圧している側」の象徴でもあり、彼女たちにとって、常にハンバート・ハンバート(側)であるからだ。「ベール」「化粧しない」等々の理由が男性側にあるということもあろうし、男女の「感覚の違い」というのは、簡単には理解し合えるものではないということもあろう。

    で、そして、ふと思った。「今ここで、この公演が上演される意義は?」。いや、そういう大上段に構えたソレでなくて、なんか心が動くな、と思うところがあったからだ。

    それは「何」だったのだろうか。

    世の中には、政治であったり、差別であったり、格差であったりの、「抑圧」が存在している。
    しかし、「抑圧」は、そういった「目に見える」ものだけではない。
    「目に見えない抑圧」もある。
    したがって、「他人に理解されない抑圧」もある。

    つまり、「テヘランであったことは世界のどこにでもある」のではないか、ということ。

    「抑圧されている」ということを、自分のせいにして、つまり、「悪」を自分の中に見つけ、それを悔やみ、嫌悪することで閉じていく人もある。

    だから「外に敵を作れ」「目に見える敵を作れ」とは言わない。
    彼女たちから「学ぶ」とすれば、それは、痛みも伴うこともあるということを理解した上で、「自分で考え、行動する」ことであろう。

    そういう、少し脇道に逸れた見方もあるのではないか、と、彼女たちの強さに、感じた。

    彼女たちの中には、外国に渡った者もいる。
    「自由」と「理想」に近づいた彼女たちの、「次の敵」は何だったのだろうか。
    だぶん「見えない敵」にも遭遇したのではないだろうか。
    それは自分で見つけることができたのだろうか。それにも「強い意思で対処していけたのであろうか」。
    そんなことが気になった。

    シンプルな舞台なのに、シンプルであるとか簡素であるとは感じなかった。
    役者たちの絡ませ方がうまいからだろう。
    台詞に無駄がなく、そのときの感情を見事に表現しているように響く。

    2時間近い舞台なのに、最初から最後まで引き込まれた(お尻は痛くなったけど・笑・クッションぐらい欲しいところだ)。

    四方を観客で囲む舞台だったが、どの場所で観たとしても、まったくストレスはなかったと思う。
    ライティングを含め、役者の動かし方がうまい。

    ちょっとずらして折ったフライヤーなどのアートワークもいい。
    受付、客入れも丁寧。

    また、兄弟や夫婦、肉親の関係を、衣装の色で見せるというのは、なかなか面白いと思った。
    ロリータがサングラスを頭に、とかハンバートのみがダークスーツで革靴というのも。
    さらにニーマを除き、イランの男性が全員ヒゲを蓄えていた。
    黒澤さんはもの凄いヒゲ面だった(笑)。
    公演の直前に実際にテヘランに行ったということだが、それがどれぐらい公演に反映されたのか、は知りたかった。



    蛇足ながら、ミニシアター1010には初めて行った。
    家からは遠いのだが、いい会場だ。思ったよりも広さがあるし、トイレもちゃんとしていて、駅に直結。
    終演後であっても、1つ下の階で食事もできる。
    エスニックな公演の後、中村屋でカレーを食べた。美味しかった。

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    2013/01/23 05:48

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