アキラの観てきた!クチコミ一覧

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悟りktkr(ご来場下さいまして、誠にありがとうございました!!!!!!!!!)

悟りktkr(ご来場下さいまして、誠にありがとうございました!!!!!!!!!)

宗教劇団ピャー! !

STスポット(神奈川県)

2011/11/24 (木) ~ 2011/11/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

一般客の扱いが酷すぎ、ってか最悪
なので、もう観ることはないと思う。
さよなら、宗教劇団ピャー! !




★の数は間違っていない。純粋に公演内容のみについて付けた。

ネタバレBOX

「今観たほうがいい若手の劇団ある?」と小劇場好きに聞かれたら、いくつかの劇団名の中にこの劇団を挙げるだろう。
ただし…。この後は後ほど。

中二病という安易な言葉を使うのはバカだと思う。
そんなレッテルに安穏としているのはバカでしかない。
さらに、それを自ら名乗るのは、「ばっかじゃねーの」と思う。
自虐的な意味で使っていたとしても、自分でつまらないレッテルを貼って、そのレッテルのうらで安心しているのが、大馬鹿なのだ。

しかし、そういうレッテルが欲しいという気持ちは理解できる。
「キャラ」という問題だ。それが安定しないと自分の居場所がない、と感じるからだ。
「演じる」という行為は「キャラ」とは切り離せないだろうから、「演劇やってます」ということは、やっぱり、この劇団の彼らにとっては、「宗教」に近いものがあるのだろう。

で、今回の公演である。

モロにソレなのだ。
「自殺未遂」というのが流行する。まるで悪いウイルスのように人々を苛んでいくという世界の話だ。
「自殺」ではなくて「自殺未遂」。
「死」が目的ではなく、「失敗する」ことが目的なわけで、単純に言えば、「死」と「再生」を繰り返していく行為でもある。
「生まれ変わる」なんて単純に言っちゃってもいいかもしれない。
それは「憧れ」ではないだろうか。

「自殺」なんてできないし、実際は死にたくないのだけど、なんか憧れるような感覚がある。
それが、自ら望んだわけではなく、老人から順々に低年齢化していくという流行なので、そうなってしまう、というのは都合がいい。
しかも死なない。安全。

そんな世界観の中で、自分のキャラを後生大事に、各登場人物が衣装に書いて、演じている。
登場人物が「演じる」という行為と、実際の役者が「演じる」という行為、さらに言えば、役者が「生きるために」日常生活で「演じて」いるという行為が、渾然となっていく。
「ktkr」(キタコレ)って自分をアップさせながら。

それは、前回も感じたことではあるのだが、今回はさらにヒートアップしていて、もの凄いことになっていた。
ホントに凄いと思うのだ。

「宗教(劇団)」の面目躍如ということろで、かなりの割合で、公演とその準備自体が、劇団員のリハビリになっているのではないかと思うのだ。
社会に適応していくためのリハビリ。

世界は大変なことになっているけれど、自分の周囲1センチぐらいだって大変なんだ、ということで、それを真正面から訴えるのは、なんかねー、なんだけれども、この作品では、彼らはきちんと向き合うとしているのではないだろうか。結果的なのかもしれないが。
役者の本気の目が、ビンビンと来るんだよね。ヒリヒリするし。

問題は、彼らが(役の上での「彼ら」ではなく、生身の「彼ら」が)「コミュニケシーション能力に欠けている」と思い込んでいることだ。
確かに、「会話」はダメなのかもしれないが、演劇を通してのコミュニケーションについて、もっと信じていいのではないかと思う。

つまり、やけに丁寧で説明的なのだ。
例えば、開演前に今回の内容について丁寧に解説してある紙を配ったり、同時多発的に起こる台詞の中で、観客に聞いてほしい台詞を、きちんと届けようとして、会話のトーンを意識して調整したりなどだ。

そんなことまったく気にしなくていいんじゃないかと思う。
無責任に勝手にやれ、ということではなく、「届けたい」気持ちがあれば、「届いている」と思う。演劇の中では、そんなに自分をセーブしなくても、いいと思うのだ。
つまり、演劇ぐらいは、もっと言うと「演劇している自分たち」ぐらいは、もっと信じていいのではないかと思う。

前回、今回と観てきて、役者や作者の、自分たちの作品へのめり込み具合、飲まれ方の厳しさは伝わってきている。
それだから、観ていて「凄い」と思う。
この作り方でいくと身体も心も保たないかもしれない。
だけど、乗り越えていけば、「リハビリ」にはなる……と思う。

なんかぶっ壊れるまでやってほしいなと思う。

今回のようにDJとかVJよろしく、照明とか音響をその場でマッチさせるというのもいいなと思う。彼らはど真ん中とか、祭壇のような場所の左右にいてもよかったのではないか。

で、冒頭の話に戻るわけだが、
「今観たほうがいい若手の劇団ある?」と小劇場好きに聞かれたら、いくつかの劇団名の中にこの劇団を挙げるだろう。
ただし、この劇団の姿勢(一般客への姿勢)は酷いものである。
そんな酷い目に遭うかもしれないし、遭わないかもしれない。
遭っても、「まあ、いいか」と思う人のみへのオススメである。


今回、何が起こったのかを一応書いておこう。
ここからは、鬱憤の撒き散らしになるので、そういうのが嫌いな方はスルーで。



会場に着いて、係の人に席に案内された。中央部分の見やすい席だった。
ところが、開幕から30分経って、その係の人が「席を移動してくれ」と、私と隣の人に言ってきた。上演中にだ。演出なのか何なのかわからないから席を動いたら、遅れて3人の男性が入ってきた。
そして、私たちが座っていた席に案内したのだ。
私は、端の後ろに折りたたみを出されて座らされた。
「何これ?」と思った。演出ではない。
単に、劇団にとって大切な関係者が来たので、見やすい席を案内したのだ。上演中なのに一般客を移動させてまで。
これは呆れてしまった。
そこで大人の対応で、セットを壊しながら大声で叫んでもよかったのだが、だらしないことに、結局そのまま我慢してしまった。

このエピソードの凄いところは、30分遅れてやってきたその3人の「劇団にとって大切な関係者」たちは、途中で出て行ってしまったということだ。
素晴らしいオチだ。私は笑った。

どうやら、彼らの公演は、今後のステップに大切な「関係者様」にご覧になっていただくためのPRの場であり、観客は公演を飾るセットぐらいにし考えてないんだろう。

で、もう行かないな、この劇団と思ったのだ。

その係の人がどうこうではなく、一般客を大切にしない劇団ということなのだろう。

さようなら、宗教劇団ピャー! ! さよーならー!
蟹

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2010/07/16 (金) ~ 2010/08/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

生きる、精一杯生きる
「待ってました」と大向こうから声がかかりそうなほどの、桟敷童子らしい物語と展開。
今回も(いい意味での)泥臭いセンチメンタリズムが溢れる。

そして、何よりも、役者の面構えと気迫がビンビンと伝わる。
それを観に来たと言ってもいいかもしれない。

約2時間。倉庫の会場なので、かなり暑くなるかと思っていたら、そうでもなかった(夜の回)。

ネタバレBOX

終戦直後、元海底炭鉱のあった寂れた集落に文雄と恒幸の2人の復員兵が帰って来る。そこには彼らが知っている者、彼らを知っている者はいなかった。

そこへ博多築港社に雇われたヤクザたちが現れ、自分たちのところの娼婦が襲われ、その犯人は、この集落に逃げてきたと言う。
集落の者は誰も心当たりはないのだが、娼婦たちの首実検の結果、復員兵の1人、文雄が犯人であると断定し、彼はやっていないと主張するも、ヤクザたちに連れて行かれる。

そんな中、集落に膳所婆が孤児を連れて戻ってきた。膳所婆は孤児を見つけると貧乏な集落に連れて帰って来るのだ。先の復員兵たちも実はこの膳所婆に連れられてきてここで育ったのだ。しかし、膳所婆は記憶がなくなっていて、2人ついても覚えていない。

ヤクザに連れて行かれた文雄は、リンチを受け、やっていない犯罪を認めてしまう。

その頃、集落には、被害者だったはずの標、千景、ミヒロの3人の娼婦が逃げて来る。彼女たちは、集落の人々に本当のことを話し始めるのだった・・・。

そんなストーリー。

今回も丸太を多様して組み上げられた舞台が、凄い存在感を見せてくれた。
一見、ごっつい作りなのだが、実は隅々まで気を遣い、よく出来ていると感心する。落とし穴やトロッコなど、大道具の力量もうかがえる。こんなセットを組み、水を大量に使える、いい会場を手に入れたなぁと思う。まさにベニサンピットなき後、桟敷童子にふさわしい会場だと思う。

その舞台の上では、役者たちが汗を流し、いい面構えと気迫を見せてくれる。
「そう! これこれ!」という感じだ。

特に、ボウボウを演じた板垣桃子さんと、標を演じた中井理恵さん、それに文雄を演じた池下重大さんは、本当にうまいなぁと思うのだ。膳所婆を演じたも鈴木めぐみさんは腰が大変だっただろうなぁと思ったり。
今回は、男2人が中心にあり、文雄と恒幸(松田賢二さん)のやり取りが熱いし、強い。いままでは、ひと目で弱者とわかる登場人物が、物語の中心に据えられていたような気がするのだが、今回は、見た目の弱者ということではなかった。
もっとも、ここには結局「強者」は出てこないのだか。

役者たちが、常に気を張っていて、立ち位置は当然のことながら、その姿勢までもきちんと制御され、「画」として成立させる細かい演出もいい。

全編博多弁(たぶん)で繰り広げられる物語は、(いい意味での)泥臭いセンチメンタリズムが溢れ、(いつもの)ウェットな感じが醸し出されていた。

文雄と恒幸は、故郷とも言える集落に帰ってきたものの、会いたかった膳所婆は、記憶を失っていた。しかし、彼ら2人は、「不味い」と言いながらも膳所婆の作ってくれたすいとんと芋の煮っ転がしを楽しみにしていた。カレーライスを「うまかった」と言う文雄の言葉などの、そんなエピソードが染みるし、だからこそ膳所婆のラストの台詞には泣けるのだ。
孤児役の外山博美さんの澄んだ歌声が荒んだ集落に響くのもいい(外山さんは、少年役からおばちゃん役まで、どんな役でもぴたっとくるのがいつも不思議だ・笑)。

今回は、ボウボウにより、笑いの要素がいろいろとあった。ベタすぎる笑いもありつつも、そのボウボウが単なる道化の役割でないあたりが、脚本がうまいと思う。

印象的なオープニング、そして歌、物語の展開とセンチメンタリズム、さらにスペクタクル的なラストという方程式は、ある意味、ワンパターンなのかもしれない。つまり、ストーリーの展開はわからなくても、行き着く先はなんとなく見えている。また、そういう状況の中で誰が死ぬのかが、「おきまり」的な感じと要素でもあり、その展開にやや強引すぎることもあるのだが、それに違和感はない。

なんとなくのパターンが見えてくるのだが、それでも「また観たい」と思ってしまうのはなぜなんだろうと思う。
もちろん、物語としての語り口のうまさは当然あるのだか、その理由の1番には、「人」の要素が挙げられるだろう。ドラマを越えた、「人の存在感」のようなものが、いつも桟敷童子の舞台にはあると思う。
それは、単純に「役者の姿と佇まい」と言ってもいいかもしれないし、物語の根底に流れる「人が生きること」と言ってもいいかもしれない。

今回、何度が語られる、「海の底の町に行くには、精一杯生きなくてはならない」という台詞が効いているのだ。

泥にまみれても、這いずり回っても、「生きていく」という強い意志が舞台から感じられる。それがいつも舞台の根底にある限り、私は「桟敷童子をまた観たい」と思い続けるだろう。

今回の『蟹』というタイトルから、ラストは大量の蟹が出てくるのかと思っていたら、そうではなく、そこだけはちょっと残念(笑)。
海底炭鉱の爆発により、人骨とともに海から蟹が現れたら(トロッコに少しだけ付いて出てきたが)、さらに意味が付加されて面白かったと思うのだ。

大量に降り注ぐ水や、プールになって張ってある水に、ずぶ濡れになって演じている様は、演じるほうも陶酔感があるのではないかと思ったりして。

細かいことだが、復員兵に米軍の軍服らしいものを着させている配慮もうまいなぁと思ってしまう。

直接の舞台の内容とは関係ないが、毎回のことだが、ここの客入れと客出しはとてもいい。
開演のギリギリまで、役者さんたちが総出で、客入れをしている。その声のかけ方も「いらっしゃいませ」だけでなく、気持ちを込めて迎えてくれているという意識が伝わるような言葉をかけてくれたりする。それだけで、本当にうれしくなるし、観劇の気持ちもさらに高まるのだ。
客出しも同じで、気持ち良く送ってくれる。こちらも「ありがとうございました」と頭を下げてしまうほどだ。
そんな気持ちにさせてくれる劇団だから、やっぱり、また観たくなるのかもしれない。
ドリルチョコレート「テスタロッサ」

ドリルチョコレート「テスタロッサ」

MCR

こまばアゴラ劇場(東京都)

2011/01/07 (金) ~ 2011/01/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

台詞のやり取りが気持ちいい!
スピード&リズム感と役者のうまさが光る。
そして、設定がナイス!

ネタバレBOX

パンクバンドをやっている、もう若くない3人とその恋人たちとの物語。

なんだかパンクバンドの3人より、もっとパンクな恋人たちがいる。
生き方がパンクっぽかったり、うるさかったり、奇天烈すぎたりと。

だけど、よくよく考えるとその中に「普遍的な恋愛」が見えてくるのだ。相手のことを強く想いすぎて、自分がコントロールできなくなったり、コミュニケーションがうまくとれなかったり、相手のことがわからなくなったり、そんなことは、誰でも経験したことがあるだろう。

恋愛の入り口だったり、中だるみだったり、終焉だったり。
そんなお互いのやり取りと、気持ちのシーソー的な動きを繰り返しながら、恋愛は進んでいくのだ。

例えば、近藤美月さん演じる中川の彼女の行動は、最初は面白いと思いつつも、次第にエスカレートしていく様は、理解できるものではなかったのだが、2人の関係がとてもいいことを見ると(手をつないだり)、これは彼女なりの彼とのコミュニケーションの取り方なのではないかと思ってくるのだ。
パンクな彼氏に、ある意味合わせて、自分に興味を持ってもらいたい一心で行っていることではないだろうか。
そういう意味では健気すぎるぐらいのことなのだ。

言うまでもなく、失礼ながら、パンクなバントのベースを担当している有川役の有川マコトさんがカッコよく見えてしまうのも恋愛マジックであろう。

声が聞こえなくなる、言葉を翻訳する、なんていうのは、まさに恋愛の比喩だしね。

櫻井智也さん演じる櫻井の彼女に対する想いが、他人(他の男性2人)にはイマイチ伝わらないことなどとも併せて考えると、そうした「恋愛中の行動」とは、得てして他人から見れば、奇異そのものではないのだろうか。
自分であってもあとから考えると、赤面以外の何ものでもないことを、平然とやってのけるのが、恋愛の面白さでもある。

そうした恋愛模様をやや肥大化させつつも、哀愁さえ感じさせる極端さが、とても染みるのだ。
それは、女だけでなく、男においても、滑稽であり、哀愁なのだ。

そうしたドラマが、とてもいいスピード感で進んでいく。
台詞の畳み掛けは、役者のうまさと演出の手際の良さからくるのだろう。

後半から中川役の中川智明さんが参加したということなのだが、もう、この役は彼しか考えられない、という感じに見えていた。
近藤美月さんの痛い役は、上にも書いたように、「健気さ」を感じたところから、痛々しさが見えてきて、「ああ恋愛なんだな」と思えてきた。
石澤美和さんの、独特の間のうまさ、見えているキャラクター以上の面白さがたまらない。
あずきさんを演じた小椋あずきさんの、一直線さは、実は恋愛時期にはありがちで、怖さもありつつ、ぐっとくるものがあった。

情報量が多い、過剰とも言える台詞は、なかなか気が利いていて、笑った。「パンクジャンケン」なんていう、センスの良さも光っていた。

ああ、そうそう「パンクバンド」っていう設定がいいなあ。
暗転の音楽も気が利いている。
ソウル市民五部作連続上演

ソウル市民五部作連続上演

青年団

吉祥寺シアター(東京都)

2011/10/29 (土) ~ 2011/12/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

『ソウル市民1919』 1919年には何が起こったのか?
この作品は、とても優れたコメディである。
…と言っていいかな…。

と同時に、「笑い」の向こう側(家の外)では何起こっているのか、を知っている観客たちに「考える」機会を与えてくれる作品でもある。

ネタバレBOX

この作品はとても優れたコメディでもある。
(私はコメディとして楽しませてもらった)
きちんと台詞と、その関係で笑わせてくれるコメディ。

実はもっと淡々としてものを想像していた。
それは、時代設定、場所の設定(1919年京城)があるからだ。

それはともかく、とにかく面白い。
爆笑してしまうシーンもある。
相撲取りが出てくるという、飛び道具的なところもあるのだが、それだけではなく、随所に面白さを加えてくる。

とは言え、そんな面白さの「外」では、三・一運動の気配が家庭内に忍び込んで来る。そういう(日本人から見た)不気味さを、女中がいなくなるというさりげないことで表し、さらに相撲取りという、非現実的なキャラクターと彼がいなくなってしまうという不安感で醸し出すうまさがこの戯曲にある。

この家では、そんな不気味さの上で、賑やかに歌い、「ここはどこなのか」「彼らはここで何をしているのか」ということとは無縁にいる。
この「呑気さ」、そして「悪い人たちではない」ということがこの作品の肝でもあろう。つまり、これが一般の人たちの姿だ。
内(家)の中の小さなさざ波が彼らの最大の問題であり、家の幸せがすべてなのが彼ら(我々)なのだ。
それによって見過ごしてしまうこともある、というのは深読みしすぎなのと、後知恵によるものであろうか。

もちろんこれは、「お話」だ。しかし、そのお話は説得力があるので、観客に「考えること」を与えてくれる。
舞台の上の家族の「外」で起こっていることを、観客は知っているからだ。
笑いながら、そうしたところに持っていくうまさ。

そして、今回も役者が皆うまい。
台詞の応酬の巧みさ、重なり合いは、前作『ソウル市民』ほどは感じないが、それでも自然にそういうシーンがある。
とにかく面白くってグイグイ引き込まれる。
こんな面白くっていいのだろうか、なんてこと思ったりもしてしまう。

こちらも1919年の設定なのだが、現代口語に違和感まったくなし。
戯曲と役者がうまいからだろう。

アフタートークは奥泉光さんと平田オリザさんだった。
奥泉光さんって、こんなによくしゃべり、面白い人とは思わなかった。久々に満足度高いアフタートーク。
平田さんと奥泉さんは大学の先輩後輩で旧知の仲ということで、トーマス・マンと平田さんなど実に面白い話が聞けた。
君といつまでも

君といつまでも

バジリコFバジオ

駅前劇場(東京都)

2010/06/17 (木) ~ 2010/06/21 (月)公演終了

満足度★★★★★

面白さの宝石箱やぁ〜〜! 不器用だけどねぇ
何と言ったらいいんだろう。
そう、

シアワセだなあ。
ボクはキミといるときが一番シアワセなんだ。
ボクは死ぬまでキミを離さないよ、いいだろ。

って、思わず「君といつまでも」by uozo kayama の歌中の台詞を言ってしまいたくなるぐらいに、シアワセ度が高く、私にとってのツボばかりが散りばめられているような舞台、というか劇団だ。

前説から始まって、ラストまでの約2時間は、楽しくってしかたない。ずっと見ていたい(前説も楽しいので、劇場にはぎりぎりではなく早めにどうぞ)。

ネタバレBOX

毎回フライヤーを飾る、一種独特の(翳りのあるというか特殊というか・・・)人形の造形と、それが動きしゃべるというだけで楽しいのだ。

また、どうでもいいような細かいディテールに溢れた、演出&演技には、笑みがとまらない。
例えば、オープニングで、焼き肉食べ放題の店に行ったカップルが話しているとき、身振り手振りで話す女性が、思わず手を前に出して、そこにある設定の焼き肉の鉄板に手が触れてしまったらしく、「アチチ」なんて言う、どーでもいいディテールなんかには見ほれてしまうのだ(ああ、この感じ伝わらないだろうなぁ・笑)。

物語は結構複雑。

初めてデートするカップルがいる。女性は、ホームレスに絡んでいたヤクザとケンカして約束の時間に遅れてしまう。そこで予定していた映画の前に食事に行くのだが、そこは焼き肉食べ放題の店であった。
そこで、男は、店の中の会話で、結婚詐欺の話、カッパの話を聞いてしまう。
カップルは、カッパのいるという川に出かけ、男はカッパを目にしてしまう。それを追っていくと、ホームレスのいる場所に出くわす。

一方、ホームレスを監視しているヤクザがいる。兄貴分は、映画の話に熱くなり、弟分はそれに付いていけない。

また、同じようにホームレスを監視している探偵と助手がいる。探偵はホームレスの中にいる女性を見て驚く。

ホームレスたちの中に入ったカップルは、ホームレスたちと、「星影のワルツ」でダンスを踊る。

カップルの男は、このときカゼを引き、それが原因で2週間後に死んでしまう。えっ!? 死んでしまう?? そうなのだ、てっきり主人公かと思っていた男は死んでしまうのだ。

ここで、タイトルが出る。そう、ここまでが今回の舞台のオープニングなのだ。

これだけいろんな、エピソードを含んだ登場人物が現れ、物語が進んでいく。さらに進むに従って、児童書の挿絵描きとその同棲相手とその母、あるいは結婚詐欺師やキツネや、神などがそれぞれの意味を持って登場し、さらにエピソードを膨らませていく。

いろんな疑問が浮かび、果たしてどこにどう結びついていくのか、という想いを載せて物語はさらに進行する。

亡くなってしまった妹を想う兄弟、相手を失ってしまったカップルの女、駆け落ちしてきた同棲中の男女、記憶を失ってしまった父を想う娘など、人を想う気持ちが、不器用にしか表現できない人たちが、不器用ながらも、気持ちに素直になろうとする様子や、気持ちが動いていく様子も、笑いの中に、丁寧に込められている。
不器用さが心に響く。
それが「君といつまでも」なんだ、まったくもって。

単に面白ければいいじゃないか、ということだけだはない、作・演出の良さがそこにある。

ラストに行くに従い、それが、じーんとしてきたりするのだ。ラストの楽園のシーンなんかは、台詞がないのに(妹の足が治っていたりして)、本当にいいのだ。結局のところ、優しい。

急に全員が舞台に現れ、踊り、歌うシーンには、うかつにも(笑)感動してしまいそうだった。

そう、劇中で使われる音楽も効果的だった(不気味すぎるオープニング映像のときの曲は何ていう曲だろう?)。

結局、すべてのエピソードがカンフーアクション的な展開になっていくという強引さも、なかなか捨てがたい。ここには「なぜ?」なんて理由を差し挟む余地はない。とにかくそうなっちゃったから、そうなるのだ。いいなあ、この感じも。

6月243日なんていう設定もいいなあ。梅雨も6月も終わらないなんていう。

役者では、最初にカップルとして登場する男女(三枝貴志さん&辻沢綾香さん)の雰囲気が良かった。男の語り口と、女のホントは強いという設定の表現が。
そして、同棲中の女の母(木下実香さん)のどこか飄々とした演技(娘:古市海見子さんとの危ないギャグの応酬も忘れてはならない)、また、探偵助手(新井田沙亜梨さん)の独特のテンション(唯我独尊の台詞回し)、児童書の挿絵画家(武田諭)の神経質な様子の演技なども印象に残った。

それと人形と美術を担当している木下実香さん(あのお母さん役の方なんだ!!!)の功績は忘れてはならない(マックセットに付いて来るノリスケ人形がよく見えなかったのが残念)。

あの人形たちの携帯ストラップが、グッズとして販売されていたら、買うんじゃないかな、いや、私ということではなく、誰かが、たぶん。
「テヘランでロリータを読む」

「テヘランでロリータを読む」

時間堂

シアター1010稽古場1(ミニシアター)(東京都)

2013/01/19 (土) ~ 2013/01/28 (月)公演終了

満足度★★★★★

「抑圧」の部屋から、「(隣の)青い芝生」が見える「窓」を開ける
オノマリコさんの戯曲が素晴らしい。
それを具現化した黒澤世莉さんの演出も見事。
もちろん役者さんたちもいい。

オノマリコさん × 黒澤世莉さん の生み出す作品って本当に素晴らしい。

ネタバレBOX

最初から、革命後のイランはイヤだなー、とだけ思って観ていた。
もちろん、この舞台以前から、イランではこんな大変なことが起こっているとニュース等で報道されていたこともある。

先生と週の終わりの木曜日に読書会をしている彼女たちは、「目に見える抑圧」を受けている。

彼女たちは、「先生」によって巧みにチョイスされた「外国文学」で、「知って」しまったのだ。
自分たちが「抑圧されている」ことや、「敵」が誰なのか、そして「(自分たちの欲している)理想」「自由」がどこにあるのかを。
活字の中にある、西洋=自由。

先生は、「外国文学」を「隣の青い芝生」の見える「窓」にしてしまった。
窓からは明るくて煌めく青い芝生が見える。そこには「抑圧」はない。
そして窓から振り返り、自分のいる場所を改めて見ると、暗く陰湿で陰のある部屋しか見えない。

「先生」は罪作りだ。
彼女たちに「目に見える敵」と「目に見える理想」を気づかせてしまった。刺激的な『ロリータ』という書物を、野球の「ピンボール」のごとく、彼女たち意識の近くに放ってきたのだ。
彼女たちへの効果は抜群で、ロリータに自分たちを見出すだけでなく、「こんな内容の書物が許される世界があるのだ」ということも同じに知ることになる。

知ることで、自分が不幸であることも知ってしまった。

この舞台で「先生」の役はいない。
いない先生を取り囲む女性たち。
この作品が素晴らしいのは、こうしたセンスだ。

先生が彼女たちを読書によって導いている様が、「ガイド」しているようになってしまっては、彼女たちが自分たちの頭で考え、発言し、行動しようとしたことが薄れてしまうからだ。

「自分の不幸を知る」ことで、「希望」が生まれ、「未来」が生まれていくのも事実だ。ただし、そのためには「強い意思」が必要ではないか。
彼女たちの多くはそれを持ち、ある者は命がけで外国へ行く選択をする。

その時点で彼女たちにとっては先生は「不在」となる。先生とのかかわりの中から、自分の「意思」を知ってしまったからだろう。

「知る不幸」は「知らない不幸」よりも何百倍もいい。
知ってしまったことへの苦悩を伴うとしても。
と、つい簡単に書いてしまうが、彼女たちが受ける苦悩は精神的はもちろん身体的な苦痛を伴う。生命の危険さえ伴う過酷なものだ。
それを乗り越えてまでも「何かをしたい」「どこかに行きたい」、つまり、「自分を取り戻したい」という気持ちを強く感じる。その欲求は強く、意思も強い。

彼女たちにそれを感じた。
ただ1人自らオールドミスと言っていたマフシードも、自分が強く信じるモノがある。

先に書いたように、小説『ロリータ』のロリータに彼女たちは知らず知らずのうちに、自分を重ねていく。
舞台の中では、ロリータを彼女たちが演じることで、それを表現し、さらにロリータの中の登場人物ハンバート・ハンバートが彼女たちを悩ます。
ハンバート・ハンバートが、彼女たちを悩ます、あらゆる「陰」となる。ハンバートがイラン革命だったり、為政者だったりするわけで、それに人生を奪われたロリータが彼女たちだ、というのだ。
読書会の彼女たちが、読む書物の中に重なり、交錯していく戯曲が見事だ。本当にスリリングで面白い。

そして、彼女たちは被害者として存在する、ロリータのことからしかモノが見えていないことが露わになる。それは彼女たちがロリータだからだ。この構図は、舞台の中でも、男性が彼女たちに「自分は違う」「男性も悩んでいる」と主張しても理解を得られないことに似ている。

「男」は「抑圧している側」の象徴でもあり、彼女たちにとって、常にハンバート・ハンバート(側)であるからだ。「ベール」「化粧しない」等々の理由が男性側にあるということもあろうし、男女の「感覚の違い」というのは、簡単には理解し合えるものではないということもあろう。

で、そして、ふと思った。「今ここで、この公演が上演される意義は?」。いや、そういう大上段に構えたソレでなくて、なんか心が動くな、と思うところがあったからだ。

それは「何」だったのだろうか。

世の中には、政治であったり、差別であったり、格差であったりの、「抑圧」が存在している。
しかし、「抑圧」は、そういった「目に見える」ものだけではない。
「目に見えない抑圧」もある。
したがって、「他人に理解されない抑圧」もある。

つまり、「テヘランであったことは世界のどこにでもある」のではないか、ということ。

「抑圧されている」ということを、自分のせいにして、つまり、「悪」を自分の中に見つけ、それを悔やみ、嫌悪することで閉じていく人もある。

だから「外に敵を作れ」「目に見える敵を作れ」とは言わない。
彼女たちから「学ぶ」とすれば、それは、痛みも伴うこともあるということを理解した上で、「自分で考え、行動する」ことであろう。

そういう、少し脇道に逸れた見方もあるのではないか、と、彼女たちの強さに、感じた。

彼女たちの中には、外国に渡った者もいる。
「自由」と「理想」に近づいた彼女たちの、「次の敵」は何だったのだろうか。
だぶん「見えない敵」にも遭遇したのではないだろうか。
それは自分で見つけることができたのだろうか。それにも「強い意思で対処していけたのであろうか」。
そんなことが気になった。

シンプルな舞台なのに、シンプルであるとか簡素であるとは感じなかった。
役者たちの絡ませ方がうまいからだろう。
台詞に無駄がなく、そのときの感情を見事に表現しているように響く。

2時間近い舞台なのに、最初から最後まで引き込まれた(お尻は痛くなったけど・笑・クッションぐらい欲しいところだ)。

四方を観客で囲む舞台だったが、どの場所で観たとしても、まったくストレスはなかったと思う。
ライティングを含め、役者の動かし方がうまい。

ちょっとずらして折ったフライヤーなどのアートワークもいい。
受付、客入れも丁寧。

また、兄弟や夫婦、肉親の関係を、衣装の色で見せるというのは、なかなか面白いと思った。
ロリータがサングラスを頭に、とかハンバートのみがダークスーツで革靴というのも。
さらにニーマを除き、イランの男性が全員ヒゲを蓄えていた。
黒澤さんはもの凄いヒゲ面だった(笑)。
公演の直前に実際にテヘランに行ったということだが、それがどれぐらい公演に反映されたのか、は知りたかった。



蛇足ながら、ミニシアター1010には初めて行った。
家からは遠いのだが、いい会場だ。思ったよりも広さがあるし、トイレもちゃんとしていて、駅に直結。
終演後であっても、1つ下の階で食事もできる。
エスニックな公演の後、中村屋でカレーを食べた。美味しかった。
くろはえや

くろはえや

JACROW

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2016/06/05 (日) ~ 2016/06/11 (土)公演終了

満足度★★★★★

黒だったのか白だったのか
『消失点』と同様の、脚本:吉水恭子、演出:中村暢明コンビによる作品。
事件的なテーマを扱う劇団が数多くある中で、JACROWは独自のカラーがある。

“見苦しさ”がぶつかりあう台詞劇。
JACROWらしい作品。

ネタバレBOX

吉水恭子さんの作風は、当たり前だけど、とてもJACROWのイメージと合っている。
しかし、中村暢明さんの作品のような重苦しさと後味の悪さ(後味に残る苦さ)のようなものはあまりない。
一応「終わる」からだろうか。
と言っても、『消失点』も、この『くろはえや』も「事件(災害)」をストレートに想起させ、さらに事件(災害)のことではなく、そのことによって炙り出されていく人の「気持ち」あるいは「業」について、観劇中も、観劇後も考えさせられることが多いのは、JACROWならではと言っていいのかもしれない。
その点が、JACROW作品の肝であろう。

この作品も、まさにそう。

「脱ダム宣言」をした県知事が長野県にいた頃、平成18年の下諏訪を、作品基本設定としている。
下諏訪を襲った豪雨対策の災害対策室の一夜を中心に、対策室に集う町役場の人々を描く。

雨が豪雨となり、想定外の災害を引き起こす可能性が出てくることで、対策室内は、ちょっとしたパニックとなり、普段は口にしないような「本音」が現れ、「人が剥き出し」になっていく様が、なかなか「見苦しく」って良いのだ。

誰もが何らかの鬱屈した気持ちを抱えていることがわかり、それが「地縁」「血縁」という自縛に囚われていることから起こってくる。

役所の人たちと言っても、当然そこに暮らす人たちだもあり、災害に遭っている人ということが、その「地縁」「血縁」と絡んでくるところがとても上手い脚本なのだ。
切り離せないからこそ、人々の間に軋轢が起こり、関係が歪み、ギシギシと悲鳴を上げる。

「地縁」「血縁」の良さも当然あるのだが、悪さ、醜さもある。
本人が望まぬ形で出戻ってきた、役場の職員の一人、守屋を通して見せることで、地方から出てきた観客の多くは、自分の故郷のことに重ねたのかもしれなない。
彼が役場という仕事に就けたのは、まさに「地縁」によるものに違いない。そんな彼が、自分の故郷が自分を縛っていることを呪うように言葉を吐き出す。
その怒りは自分に向けていることもわかっているのだ。
そうしたことがわかるからこそ、イライラが募り、この災害発生時のタイミングなのに、周囲に喰って掛かるのだ。
豪雨により、時々刻々と状況が悪化していく中で、対応策はとっていくものの、それぞれの思惑とイライラがぶつかり合い、外の豪雨に負けない嵐が会議室内で起こっている。

登場人物たちの表情が、徐々に「悪く」なっていく様が上手い。
「悪いことを言う」顔なのだ。
イライラが伝染していくように、さらにそれが助長していく。

「何言ってるんだ、こいつ(ら)、このタイミングで」と観客の多くは思ったに違いない。しかし、この期に及んでも、いろいろな思惑や、ここで言ってしまえ、といった感覚があるのか、あるいは仕事とプライベートがぐちゃぐちゃしがちな地方ならではの感覚なのか、誰かが何かのタイミングで静止しなければ止まらないのだ。

平成18年に実際に起こった豪雨災害を下敷きにしているという。
この「平成18年」という設定が実は効いている。
「脱ダム宣言」の長野県というだけでなく、東日本大震災も熊本の震災もまだ起こってはいないからだ。
もし、その後の設定であれば、「避難勧告」についてのためらいは出てこなかっただろうし、「想定外の出来事」は常に起こる可能があること、さらに災害に対する対応方法も異なったに違いない。したがって、こうした内輪もめのような事態に陥ることも少なかったのではないかと思うのだ。
そのあたりが上手いと思う。

総務部の危機管理室長・守屋明美は、このゴタゴタの中で、唯一職責をまっとうしようとしている人で、「女が働くことへの風当たり」にも「子どもを残している」ことへの罪悪感のようなものにも、耐えている。
彼女の存在が、災害対策室の崩壊を免れることになっているのだと思う。
だから、ストーリーは破綻せずに地に足が着いたものとなっているのではないか。

地方から東京圏に来て暮らしている観客は、この作品をどうとらえたのか気になるところだ。
「あるある」で「イヤだな」なのか、「それでも懐かしい」なのか。

後日談はさらりとしたところがいい。
「黒南風」だったのか「白南風」だったのかはわからない。

ラストで守屋・兄妹が、ダム予定地で父親の後ろ姿を見つけるシーンはとてもいい。
会議室のみの設定かと思っていたので、それに対する意外さ、つまり、視野の広がりもあったが、何よりも、劇中で何度も出てくる「中止になったダム」の存在と親子、という「地縁」と「血縁」の象徴として、「建設予定地」の古びた看板とともに、きちんと物語に効いてくるのだ。

危機管理室長・守屋明美を演じた蒻崎今日子さんの、子持ち・女性管理職としての安定した演技は、やはりいい。東京から出戻った、守屋徹を演じた小平伸一郎さんの、まるで反抗期の子どものように、捻くれた姿からの、ラストでの故郷への複雑な愛情を吐露するあたりが、とてもいい。自分の気持ちを絞り出すような、感じが。
総務部の若い女子職員・御子柴を演じた森口美樹さんの、若くて仕事をテキパキこなす姿から、物事をはっきり言う本来の姿を見せ、憧れていた田舎暮らしへの嫌悪を、静かに剥き出しにしていく様も良かった。
総務部の足の悪い五味を演じた菅野貴夫さんの、守屋の父親を知っています、からの、事故の責任を問う鬱屈した台詞がとてもいい。

豪雨の中で、ガラス窓の外に水を流すというセットは、細かいことだが、かなりの効果が上がっていたと思う。

JACROWは、もっと大きな劇場で、作り込まれたセットの中での芝居も観てみたい。
近い将来そういう公演が打てることを期待する。

観劇した日は、初日ということもあり、台詞などに固さが残っていた。「宣言を設置する」なんていう台詞もあったりして。特に方言が、長野地方の人間ではないのだが、どうもこなれ切れていないような印象を受ける。

公演後はイベントがあった。緩く観客も参加する形で、この作品のテーマでもある「地方と東京」についてのものだった。
なかなか面白かった。蒻崎さんのところどころで炸裂する突っ込みには笑った。谷仲さんがクラブに行ったとの発言(!)の後に、クラブの騒音の中っぽく「どこから来たのーって言うの?」という突っ込みとか(笑)。
キネマの天地

キネマの天地

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2011/09/05 (月) ~ 2011/10/01 (土)公演終了

満足度★★★★★

井上ひさしさんの「役者LOVE」な物語
こんなストーリーだったとは! 
フライヤー等の説明(ここに書いてある説明も)を前もって読まなくてよかった、と思った。

ネタバレBOX

松竹の蒲田撮影所にあるスタジオに集まってくる。当代きっての大女優たち4名。
それぞれに自分が今の松竹を支えているというプライドがある。
彼女たちは、松竹の超大作に出演するということで、監督に呼ばれたのだった。

しかし、監督はその前に、彼女たちに前の年に、そのスタジオで行われた舞台をもう一度上演したいので、その読み合わせをしようと言い出す。

実は、その舞台の稽古中に、監督の妻であった女優がその場所で亡くなったのだった。

女優たちは、いやいやながら、監督の指示に従い、本読みを開始するのだが、どうも様子が変である。

そこに、掃除夫や脚本家、さらには築地署の刑事と名乗る男が次々と現れてくる。

監督の意図はどこにあるのか…。

そういうストーリー。

映画における、というより、役者たちのさまざまな想いや、感じ方、自負、苦労が、役者間のヒエラルキーに絡めて披露される。

特に、女優として、その道を切り開いてきた、トップ女優のエピソードは重みさえ感じる。


彼ら、つまり役者とは、濃くて、嫌みで、自意識過剰で、自己中心的で、そのくせ階級主義・年功序列がまかり通っていて、ということを、さらにをデフォルメして描いていながら、その視線は優しい。
彼らの姿が愛らしくなってくる。

本能的で、自分の欲求には誠実で、しかも自分の職業−役者−に、多大なプライドを持っている。

これは、井上ひさしさんの「役者賛歌」ではないだろうか。
それは、主演を張る大俳優だけでなく、脇を固める、すべての役者に向けられたものであったと思う。

そして、役者と言うのは、役者であるということに、貪欲な人々である、というところではないだろうか。また、それによって、自らの矜持が保たれているとも言える。
その彼らの性格を逆手に取って、見事な喜劇に仕立てていたと言っていいと思う。
しかも、単なる喜劇というのではない、役者たちへの愛が語られている。

幾重にも仕掛けられたラストへの罠が、巧みで面白い。
そして、刑事=犯人だった男の、ラストの台詞から瓶の中身を呷ってからの展開は、客席から思わず拍手が上がったほど、あざやかだった。

また、彼が、結局3回言う台詞が、シビれるほど、素敵で美しいと思った。
もうこれだけで涙モノである。
演じても演じても終わりはないし、役者すべての想いが詰まっていたと思うのだ。

大上段に天下国家にもの申すというのではなく、井上さんの間近にいる人たちを語り、彼らに捧げられた、美しい作品だと思った。

濃すぎて嫌みなほどの4人の女優陣(麻実れいさん・三田和代さん・秋山菜津子さん・大和田美帆さん)は、本当に素晴らしい。まさにその世代の観客たちを魅了していた、大女優たちだった。
さらに、木場勝巳さんも、エネルギーに溢れ、本当に見事だった。
ノルウェー国立劇場『人民の敵』

ノルウェー国立劇場『人民の敵』

特定非営利活動法人舞台21

あうるすぽっと(東京都)

2010/11/17 (水) ~ 2010/11/18 (木)公演終了

満足度★★★★★

独特の斬新なスタイルに、リズム、持続する熱量が素晴らしい
ノルウェー語で上演(字幕付き)なのに、ぐいぐい引き込まれた!
役者もいい。

ネタバレBOX

温泉施設の専属医師であるストックマンは、温泉施設の水が工場のせいで、人の健康を害するほど汚染されていることをつきとめる。
それを新聞『人民新報』の編集者に伝えたところ、すぐに新聞に掲載したいと言う。また、旅館組合の組合長は、民衆(絶対的多数)の代表として医師の支持を約束する。

その情報を知った医師の兄であり、町長兼警察署長は、町の評判を落とし、町が凋落していくことを防ぐため、弟の医師に事実の発表をやめるように言う。
汚染防止のためには莫大な資金と時間が必要だからだ。
しかし、ストックマン医師の意思は固く、兄の意見には従わない。

そこで、ストックマン医師の告発は、町の評判を下げ観光地としての魅力がなくなる、汚染防止費用のために増税がある、工事中は温泉を休業しなくてはならない、ということになると告げられた旅館組合長や新聞社は、自らの考えを翻し、医師に事実の発表をするなと言い出す。
さらに、医師の妻の父は、汚染源である工場を持つ経営者であり、ここからの圧力もストックマン医師とその家族にかかってくる。

そして、町民集会が開かれ、町の利益を損なおうとする医師を「人民の敵」とする決議を行ったのだ。
医師は温泉専属医師の職を解かれ、教師であるその娘も退職させられてしまう。

そして、医師は決断をするのだった。

そんなストーリーが、本当にまったく何もない、黒い舞台の上で繰り広げられる。。

ノルウェー語で上演され、字幕頼りに観劇しているのに引き込まれる。
古典なので、てっきり重々しくいかにもなスタイルで上演されるのかと思ったら、いい意味で裏切られた。
独特の斬新な演出スタイルがある。
ダンスの様な動きや、登場人物たちの関係性を具体的に見せるような、ねちっこい演出。
一瞬で変わる場所と時間。連続性とスピーディさ。
リズム感と緩急、そして持続する熱量が素晴らしい。
役者も力があるのだろう。特に主人公ストックマンを演じた俳優の、正義への情熱が、抑圧されつつラストに行くに従い、いろんなところから噴き出してくる様が素晴らしい。

「内部告発」という現代に通用するテーマを軸に物語は進行する。
そこで描かれるのは「絶対多数」というものの危うさである。
それは、民主主義の危うさでもある。同時にそれには「古めかしさ」も漂ってしまうのだけど(ラストとか)。
「自由」は「絶対多数」によって脅かされるという事実。

そして、主人公が「正義」のようであるが、追い詰められて発する彼の「正義」の理論は、「少数派」「純血」というキーワードによって、「正義(感)」の危うさまで浮き彫りにしていく。
つまり、「正義」とは今も昔もそんな危ういバランスの上に成り立っているということなのだ。

「内部告発」することが、行為としての、社会との関係における「正義」と、周囲への影響や自己満足(自分の姿に酔いしれる)ということとのバランスというだけでなく、なんかもっと根本的なところにも言及している、そんな印象を持った。

これが今、この舞台を上演する意味や意義ではないのだろうか。

ノルウェー国立劇場『人民の敵』は、とてもよかったのだけど、客席には空席が目についた。「国際イプセン演劇祭」は短期間に集中して上演されるので、時間の都合がつきにくい、それと料金がもう少し安ければと思う。
五反田の夜

五反田の夜

五反田団

アトリエヘリコプター(東京都)

2011/11/17 (木) ~ 2011/11/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

台詞&会話の掛け合いからずるずると出てくる物語
やっぱり、台詞と会話が面白い。
わくわくしながら成り行きを見る。
全編笑いっぱなし。
それは、他人のことだから。
すなわち、自分のことでもあるから、笑うしかない。

ネタバレBOX

姉弟がいる。
姉は、「五反田絆プロジェクト」というボランティアのような活動をしている。
弟は、不動産屋をリストラされた。

「五反田絆プロジェクト」は、西田が中心となって、何かをしなければいけない、という衝動に駆られた人たちが集い、折り鶴を折るグループだ。

西田は、どこにでもいそうな俗物で、「自然農法」とか「成城石井」(笑)とかの、ブランドに弱く、どこから来るのか、強靱な自信を持ち、あらゆる相手を下に見る。
グループのメンバーである中川は、西田にいいように言われまくる。

プロジェクトは、五反田肉祭りに参加することになるのだが、西田の横暴ぶりに業を煮やした後藤と大山が結託し、新たなグループ「五反田絆の会」立ち上げる。

一方、不動産屋をリストラされた弟は、不動産屋の社長の娘に気持ちを寄せていて、仕事の最後の日に、西洋の神々が争って飛び出してくる映画に誘うのだった。

そんなストーリーである。

あいかわらずの気持ちいいほどの台詞回しと、その応酬。
と言っても、リズムがいいので、「凄い」というオーラを押し付けるようなものではない。
実に自然(風)な、台詞と会話だ。

この台詞と会話から、ずるずると物語が編み上がって出てくるようなのだ。
丁度、リリアンというか、そんな感じにずるずると下から物語が出てくる。

それがとにかく面白い。

台詞と間と、そんな雰囲気が笑いに変わる。
全編笑っていた、という印象だ。

人が集まれば、組織っぽくなって、組織っぽくなれば、権力闘争的な方面へもつれ込ませたい人たちも出てくるし、そう意識していなくても、運営や人間関係でゴタゴタしてくるものだ。
表面は何もないようでも、水面下ではいろんなことが蠢く。

そんな、他人事のゴタゴタは面白いわけで、少々身につまされながら笑ってしまう。
それにしても、グループのリーダー、西田は強烈だ。「ああ、こんな人、いるいる」を少しだけ通り越してしまっているのだが、ニュアンスはわかる。
いる、こういう人。

自然農法的なモノを成城石井のようなブランドと同格にして(成城石井をブランドとしてとらえるという視点は今様でナイスだ!)、それを崇め、さらに人に「いいものだから」と押し付けるところがなんとも言えない。そういう自分が好きだというのもよくあることだ。
そうした人(たち)を笑いものにして、ナニかを批判している、ともとれるのかもしれないが、それよりは、人の中に「面白いモノを見つけた」から描いてみました、というあたりが本音ではないだろうか。

人を、つまり、他人を見ていると、面白いコトはたくさんある。
それは他人だから。「他人を観察する」はすなわち「自分観察」でもあるわけで、他人の中に見えるものを自分の中で探すという作業は、役名と実名が一緒であるという、この舞台において、そういう作劇の工程は、たぶん、相当愉快で、少しスリリングでもあろう。
もちろん、その工程を考えてみるまでもなく、やっぱり舞台の上の出来事は、観客自身のことでもあるということで、だから、観客は大笑いしてしまうという構図になってくる。

例えば、組織の人間関係、人間模様だったり、例えば、弟と不動産屋の娘との、映画終わりの手つなぎシーンなどだったりする。手つなぎシーンは、こってり見せてくれて、「恋愛あるある」から逸脱していくのだが、そういう滑稽さは、やっぱり「あるある」であり、「なんか、わかるよねー」の感じになる。それを超えるので笑いになっていくのだが。

こうした日常的な「あるある」感の、少し歪んだ描写は徹底しているから面白い。ホントに他人のことは面白いのだ。
これは「自分たちのこと」なんだよねー。

…このあたりのことは、「他人の描写=演じる」っていうことは、結局「自分の中にあるものを整理してみる」ということなのかな、という、当たり前っぽい展開になっているかもしれない…。

そして、場面展開の面白さがある。例えば、キャスター付きの椅子に座ってガラガラと現れたり、会話の途中で、人々に指だけで担がれて舞台を去っていったり、そんな演出も、うまい塩梅で面白い。
さらに、移動撮影的な、映像的なラストシーンのバカバカしさは、お見事。

そして、当パンを見ると、山田さんが急病で降板したことがよく伝わった(お大事に!)。

さらに成城石井が五反田にも出来たことを知った舞台でもあった。
『三月の5日間』100回公演記念ツアー

『三月の5日間』100回公演記念ツアー

チェルフィッチュ

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2011/12/16 (金) ~ 2011/12/23 (金)公演終了

満足度★★★★★

人や世界(社会)との微妙な距離感
出来事や人間関係に全方位的で、かつ微妙な距離感を保っている人たちの話。

「三月の5日間」の出来事が、「物語」となっていく、ある種の「ぶゆうでん、かっこわらい」な物語。


素晴らしい戯曲と役者たち。
1時間30分+休憩15分。

ネタバレBOX

2003年3月のイラク空爆を挟んだ5日間の話。

イラクの戦争なんてまったく関係ないや、と思っているような若者たちなのだが、やはり気にはなっている。
ラブホに長逗留していても、「家に帰ったら終わっていたりして」のように、どこか頭の片隅で意識している。

反戦デモに参加している2人組も、もちろんそうなのだが、過激系なデモの先頭にいたり、警官を挑発したりしている人たちとは、距離を置いている。

イラクは気になるし、戦争は嫌だけど、ほどほどの距離感でいたい。

それは、「戦争」という、遠い海の向こうの出来事に限らず、彼らにとっての、隣にいる友人との距離感も微妙なのだ。

ラブホで朝起きたら隣に寝ていた知らない女や、映画館で出会ったアズマとミッフィーの距離感の微妙さは当然としても、ライブにわざわざ誘って出かけたミノベとアズマ、デモに一緒に出かけたヤスイとイシハラの距離感も、友人であろうが、かなり微妙なのだ。

相手を気遣っているようで、その実、相手の話をきちんと聞いておらず、「あ、そうなんだ」と、上の空の同じ返事を繰り返していたり、自分の話たいことを、例えば、アンミラの制服話を無理矢理ねじ込んでみたり、なんだか「自分に好都合な距離感」ともいえる。

友人関係を壊すことなく、かといって、踏み込むでもなく、「丁度いい塩梅の距離感」だ。

「戦争」との距離感も、戦争そのものは、反対だし、もちろん、巻き込まれるのは絶対にイヤ。「反対」はしておきたいし、でもハードにかかわるのも、ちょっとな…というところ。「関心」があっても深くのめり込まない。
「評論家的」には、世界とかかわることができる。
そしてそれは、傷つきやすく、だけど傷つきたくない。つまり、自分を守るために、全方位的な関係でもある。

そうした若者たちを巡るストーリーは、すでに「物語になっている」。
「語られる対象」となっている、あるいは「過去の話」になっている、と言ったほうがいいか。

つまり、「あの2003年3月のイラク空爆を挟んだ5日間に、渋谷のラブホに居続けたんだぜ」という「伝説」のような「物語」になっているのだ。
それをミノベから聞いたアズマは、ほかの友人に話すし、そのとき自分はどうしていたのか、も加えて「語る」わけだ。

「じゃ、それをやりまーす」と言って始まるのは、その物語を「語っている(再現している)」わけであり、すでに「過去の物語」になっているということ。

過去の物語だから、何度も同じことを繰り返しているようであり、本人であり、第三者的でもある。つまり、自分の記憶を語るのは「第三者的」な視点が入り、「盛ったり」もする。
コンドームの話とか、どちらが先に「ここだけの関係にしよう」と言い出したのか、なんて微妙なことは、曖昧にしておく。

ラブホにいたミノベは、最初はチャラい感じなのだが、後半は、 オラオラ系な前に出るタイプになっていく(語る役者が変わっていく)。

全体的に、傷つきやすい系の中の、オラオラ系とも言えるキャラは、「伝説の象徴」と言ってもいいのではないだろうか。
つまり、語られていくことで、「ぶゆうでん、かっこわらい」になっていっているということ。

出来事や人間関係に全方位的で、かつ微妙な距離感を保っている、という今の人たちの微妙なバランスを観たということだ。

独特の長台詞と台詞回しが素晴らしいと思った。
役者としては、メガネのミッフィー(青柳いづみさん)が、戯画化されすぎてはいるが、面白いと思った。

で、スズキはどうした?
天守物語

天守物語

SPAC・静岡県舞台芸術センター

舞台芸術公園 野外劇場「有度」(静岡県)

2011/06/18 (土) ~ 2011/07/02 (土)公演終了

満足度★★★★★

夜の野外にふさわしい美しい舞台
山の中にある夜の公園は、ときどきパラつく雨や、あるいは濃霧のように身体にまとわりつくような雨によって、しっとりとした色と香りをたたえていた。

その中にある野外劇場は、物の怪たちが主人公の、この舞台にふさわしい場所であった。

ネタバレBOX

太鼓の音に導かれて始まる舞台は、極彩色の衣装と相まって、プリミティブな力が強く出ていた。
それは、しっとりした森に響き、共鳴するような様だ。
暗闇の中の、物の怪たちの姿は美しい。

女性の肉体に男性の声、男性の肉体に女性の声を配し、異物感のぶつかり合いで、一種異様な世界と、男女の情念を描く。
演じる者(ムーバー)と台詞を言う者(スピーカー)が異なるという、人形を人に替えた文楽のようで、朗々とした台詞も物語にマッチしている。
さらに歌舞伎の要素も垣間見られる。

太鼓を中心にした音楽の中に、フォークソング調のテーマ曲の入り方(重ね方)も独特であり、男女の使い方を含め、違和感とその化学反応が素晴らしい。

役者の身体のキレがとても美しい。カタがビシビシと決まる。脇の役者を含め、隙がない。常に全体の美のバランスを保っている。

さらに、衣装の美しいこと! それが舞台に見事に映える。
身のこなしもいいからだろう。

和のテイストを響かせながら、それだけにとどまらない生演奏の音楽もいい。

すり鉢状になっている客席の通路を花道に見立てて、役者が登場し、退場するのも楽しい。劇場すべてが「舞台」になっていた。

雨天決行ということで、観客のほとんどは雨合羽で客席にいた。てっきり舞台の上には(例えば、日比谷野音のように)屋根があるのかと思っていたら、まったくなかった。舞台裏で演奏している場所にもなさそうだった。
屋根がないので、舞台裏の正面にある木々が美しい。

この舞台で雨天決行ということは、雨が本降りになったとき、あの衣装でずぶ濡れになって演じるつもりだったということなのだ。
上演時には、雨は止み、よかったと思ったのだが、自分もずぶ濡れになってもいいから本降りの雨の中で観たかったな、と勝手なことをちょっとだけ思ってみた。
愛と平和。【ご来場ありがとうございました!!】

愛と平和。【ご来場ありがとうございました!!】

バジリコFバジオ

駅前劇場(東京都)

2012/01/19 (木) ~ 2012/01/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

最高傑作! ストーリーを貫くアガペー。
前にも書いたけど、ここの舞台は前説から観たい。
なんとも楽しいから。

そして、毎回、どこにどう向かっているのかわからないストーリー展開と、過剰なモロモロの中に埋もれてしまいそうだけど、細かくて粘着質で、微妙な台詞そのものと、台詞回し&やり取りがとても楽しいのだ。

人形の登場もわくわくする。

ネタバレBOX

今回、見終わって感じたのは、「これって、ここの最高傑作なんじゃないの?」というものだ。
確かに、短編は別にして、以前の作品に比べ(全部観ているわけではないが)ストーリーの落としどころや、全体がまとまりすぎているかもしれないのだが、でも、全編を貫くテーマがはっきりとしている。
いや、テーマがはっきりとしているから「最高傑作」というわけではないのだが、面白さに、確実に「何かをプラス」してきた感があるのだ。
それが愉快でもあり、ジーンときてしまったりするのだ。

だからこの際「最高傑作だ」と言ってしまおう。

中学生の葉隠弓月は、姉・さくの影響が強い。シスコンと言っていいほど。
姉の期待を背負って彼はトレーニングに励む。姉の理想のタイプになるため。そのタイプとは、姉が子どもの頃見ていたヒーローモノの主人公であった。
姉がいなくなり、弓月は友だちのオカマの金吾郎とともにバイクで町を飛び出す。

一方、騙されてAV出演をさせられそうになったニコという不幸を撒き散らすと思い込んでいる女がいた。
彼女は、その現場からリンとともに逃げ出す。
AVの女社長のあかりは、ヤクザに依頼し、彼女たちを連れ戻すために追いかけさせる。

逃げ出したリンは、かつて助けてもらったことのあるヒーロー、エレファント・ヤンキーとエレファント・ホームレスを呼び出し、窮地を救ってもらう。
そして、彼らは伝説の象、トンキーに合いに上野動物園へ向かう。

その頃、弓月と金吾郎は……。

というストーリー。

一見して、一体何がどうなるのだろうという広げ方で、登場するキャラクターも多い。しかも各キャラクターごとに、かなり濃い味付けがされている。

伝説の象、トンキーだって、戦時中に軍の命令で殺されてしまったはずなのに密かに生きている、なんて設定だし、ヤクザも元広島カープのピッチャーで両親を失った娘を養っている、なんて設定なのだから。

確かに、ヒーローになれ、と言われてきた弓月が、ヒーローになって活躍するという話になっているのだが、実のところ、そこが軸にはなっていない。

物語の軸はズハリ「愛」。

ヒーローモノなので、「悪」の設定はある。それもヤクザの養女が深いところで悪になっているということで、絶対的な悪のように見える。さらに彼女と一心同体、あるいは彼女を操っているような悪の存在があるので、さらに「悪」に対決するという図式が見えているのだ。

しかし、対決するといっても、戦うシーンはあるものの、それは表面上のことであり、最後は「赦し」「包み込み」といういうような手段で、相手を「負け」されてしまうのだ。
それが「愛」。「アガペー」と言ってもいいかもしれない。

劇中で、バッターとしてピッチャーに対決するあかりの従弟・秋助が、あかりの兄から授かった打法は、「相手のピッチャーもボールもバットも観客もすべてを愛せ」だったように。

例えば、娘を誘拐したサチに対して、母の春子は一度は殺意を抱いたものの、彼女を赦してしまう。
また、弓月の姉のトドメを差した金吾郎と弓月の対決にしても、「力」ではないところで勝負は終わる。勝ち負けのない勝負の付き方で。
そのときに、悪の権化のような魔物は、簡単に隅へ追いやられるだけで、こと足りてしまうのだ。

つまり、これは言い古されしまった言葉だけれども、「暴力は暴力しか生まない」という「負の連鎖」を、「愛」で初めから断ち切ってしまっているということなのだ。つまり「平和」。
『愛と平和。』、モロなタイトルだったわけだ。
少々甘くてもそれでいいじゃないか、と思う。

また、「周囲を不幸にしてしまう」と思い込んでいた女は、「月」になって、「人を照らす」なんていう展開はたまらなかったりする。ここは作者から登場人物への「愛」なのかもしれない。

さらに言えば、いくつかの「家族」の「物語」が語られていく。

弓月と姉のさく、あかりと兄、サチと両親という、血のつながった家族は、すでに崩壊している(失ってしまった)のだが、弓月と金吾郎、あかりと兄嫁の春子、サチと養父となったヤクザの津々岡、さらに最後には弓月と春子という、血のつながらない家族の強さが語られていく。
「失ってしまった」後の人の処し方とでもいうか、後の「家族」「つながり」がそこにある。

彼らの間に流れるモノこそ「愛」であり、「赦し」であり、「信じる」ということではないのだろうか。
ラストに弓月と春子が手に手を取り合って旅立つときに、登場人物たち全員が現れ、彼ら2人を乗せた舞台を回す、という演出は、自分たちだけで生きているのではない、という、これも強いメッセージではなかったのだろうか。
だからこそ、グッときてしまうシーンになったのだ。

今回、バジリコFバジオは、予測不能なストーリー、妙にひねりのある設定と、細部に凝った台詞を、畳み掛けるように進行させながら、その根底には、確かなメッセージが確実にあるようになってきたのではないだろうか。
もちろんそうした姿勢はもともとあったとは思うのだが、さらにそれが強く感じる作品だったと思う。

また、ラストの選曲はベタながら、全員が歌うシーンはとてもよかった。そして、シーン展開ごとに流れる曲が、見事に決まっていて、選曲の巧みさに舌を巻いた。バラエティに富んだ既製曲を、多く使って、これだけうまくはまることはそうないのではないだろうか。

ラスト、シスコンの弓月は、亡くなった姉にそっくりな旅館の女将・春子(姉と二役)とともに旅立つのだが、ここにシスコン極めり、で、作の佐々木さんにお姉さんがいるのならば…。いや、まあ、それはいいいか。

出演者はどの役者もいい。
特に、弓月を演じた三枝貴志さんは、あいかわらずいい。中学生には見えないけれど、熱さと適当さの同居がたまらない。一本調子になりがちな役だろうが、そのブレーキのかけ方がうまいのだ。
そして、姉・さくと女将・春子を演じた浅野千鶴さんの、「姉」「年上」感(笑)がなかなか。
また、元広島カープのピッチャーで現在ヤクザの津々岡を演じた嶋村太一さんの、はぐれモノなりの哀愁と、養女への愛情がよかった。

今回人形の出番があまりなく残念だったが、象のトンキーは、あまりにも傑作で登場シーンで思わず笑ってしまった。おでこに顔なんだもの。
あと、「月」はいい味出していた。
それに人力で動かす回り舞台も、人力の意味がきちんとあり、とてもよかった。

エレファント・ヤンキーとホームレスのマスクは、バットマン風、そして、黒い帽子に白の上下にステッキ、目のメークで、エレファント・ホームレスが「雨に唄えば」を歌うとなると、『時計仕掛けのオレンジ』。さらに野球のユニフォームのヤクザは『ウォリアーズ』かな。野球ユニフォームのヤクザだから『カマチョップ』だとマニアックすぎか?(笑)。

サチの在り方に、宮部みゆき『名もなき毒』の影を見たような気もするのだが。

劇場ロビーでは、過去に使用した人形を、なんと200円で販売していた。
「これ欲しい」と思っていた「アソム君」を購入した。
家では家族に「目に付くところには置くな」と厳命されてしまうような、でかくて不気味感漂う人形だが、自室に飾りご満悦である。
アパッチ砦の攻防

アパッチ砦の攻防

劇団東京ヴォードヴィルショー

紀伊國屋ホール(東京都)

2011/09/23 (金) ~ 2011/09/28 (水)公演終了

満足度★★★★★

進化し続け、笑い度アップのアパッチ砦
笑った、笑った。
それは力技。
ライブ感、躍動感もあるところが、うまい人たちが演じているのだと実感できる。
単なる再演というだけでなく、前に観たお客さんも楽しめるように、毎回ブラッシュアップしているというのも素晴らしい。

ネタバレBOX

再演を重ねている作品だ。
基本構造は同じだが、加筆等で初演とはまったく違う作品のようにさえ感じた。
…と言っても初演15年前なのでよく覚えてないけど(笑)。

コメディの教科書のような設定の連続で、ハラハラさせたり、「そりゃいくらなんでもないだろ!(笑)」と思わせたりがいいのだ。
むちゃな設定が連続しても、テンポと役者の力量で、それを納得させてしまう。
それはある意味、力技。
もの凄い力技で、観客を笑わせてくれる。
笑わすためなら、何も厭わないという姿勢が気持ちいい。

演出は、テアトル・エコーの永井寛孝さん。コメディが面白いエコーだから、やっぱりうまい。
役者は本当にみんないいし、その人でしか出せない良さがきちんと表現されている。それは演出と役者のうまさだ。

そういえば角野卓造さんの役は、初演は伊東四郎さんだった。だから巻き込まれ方の反応が違っていたんだな、と納得。

今回で再演6回目ぐらいだが、再演ごとに進化している作品なので、次回また再演されて観に行っても十分に楽しめるだろう。

ヴォードヴィルショーの40周年記念公演は、来年から4作続くということだが、その予定演目がロビーに貼り出してあった。どれも楽しみなものばかり。
毎回「今回がヴォードヴィルショーに書くのは最後」と言い続けて、脚本を提供しているらしい、三谷幸喜さんの作品も予定されていた。
ざくろのような

ざくろのような

JACROW

サンモールスタジオ(東京都)

2015/10/08 (木) ~ 2015/10/13 (火)公演終了

満足度★★★★★

会社は、まるで“ざくろの実”のようだ
「人」という1つひとつの小さな実で構成されている。

会社は人で構成されているはずなのに、人を幸福にしないことがあるのだ。

(ついついネタバレボックスにだらだら書いてしまいました)

ネタバレBOX

現実に起こった三洋電機の買収・解体を思い起こさせるような作品。

実際にある企業に似た、山東電機、松川電器、中国のハイミといった名前の企業が登場することで、技術力があるが業績不振の電機メーカーが大手メーカーに買収される、というストーリーから企業と人という視点ではあるが、どちらかというと経済系、社会派的な話ではないかと思って観ていたが、どうもそうではない。

もちろん「企業と人」の話ではあるのだが、特に「人」に焦点を当てている物語だった。
人がどうするのか、という話だ。
それが「どう見えるのか」ということでもある。
我々、「神の視線」から観ている観客が感じることは「人からどう見えるのか」なのだ。

タイトルにある「ざくろ」という植物の実は、割ると中に赤い粒々が見えてくる。
その粒々は、ミカンなどの柑橘類のような、「実の中身」というものではない。
粒々1つひとつにタネがあり、その粒々の1つひとつが「実」としての存在を示している。
つまり、ざくろの粒々のような我々は、ざくろという実を構成する1つの部品なのではなく、その1つひとつが芽を出し成長することができる、1つの実であるということなのだ。
(タネに対して果肉の部分にあたるところが少ないので、食べても充実感に乏しいということは、横に置いておく・笑)

つまり、「ざくろ(の実)」とは「企業(会社)」そのものではないのか。
企業は、粒々、すなわち「人」の集まりであり、それが「会社」という皮、というか共同幻想みたいなものに包まれているだけであり、「企業の実態」とは「人」にほかならないということなのだ。

「会社は」とか「企業は」とかのように、ついつい会社や企業を主語として1つの存在のように語ることが多いのだが、それは「皮」のことであって、実際はそれを構成している人の集まりのことを指しているのだ。しかし、「会社」や「企業」と言うときに「人」を思い浮かべることはほとんどないだろう。

だから、「人=会社」なはずなのに、「会社にとって」のような理論で、いつの間にか本来の実態である「人」がないがしろにされてしまうことがある。それが酷い状況になると、「ブラック企業」などというものになってしまったりする。

企業を構成する人が我慢したり、不幸になったりすることで、その集合体であるはずの「会社」が良くなるばすがないのに、だ。最近言われ始めている「人本経営」はそこから出てきた考え方なのだ。

しかし、「会社にとって」という、どこから出たのかわからない声(や意思)によって人は我慢を強いられたり、不幸になったりしてしまう。

この作品の登場人物たちも同様である。

経営不振による買収からの、会社の解散(倒産・消滅)という不測の事態に遭遇したときに、消滅する側の会社では、あるいは買収する側の会社では、属する従業員たちはどのような行動をとるのかが、この作品で描かれていた。

つまり、企業経営というような、経済的な範疇での、社会派的な物語ではなく、ここには困惑しつつも自ら決定して行動する人の姿が描かれていた。それは普遍的ものであろう。

ほとんどの演劇がそうであるように、観客はあり得ない視線で舞台上の人々を観る。
つまり、それは「神の視線」であり、物語の当事者ではないので、冷静に人々の行動を観察できるのである。

買収される会社は、一部の人は気づいているように「今まさに沈没しつつあるタイタニック」のようなところにまで来ている。
しかし、呑気に翌日のゴルフについて話をしていたりする。
また、会社に残りたい一心で、上司を陥れようとしたりもする。

そういう人たちを、「ダメな人だな」「イヤなヤツだな」と思って観てるのは、我々が「神の視線」から観ているからであり、実際にその立場、その状況に陥ったとすれば、どう立ち回るかわかったものではない。
つまり、神の視線は「他人からどう見えるのか」がよくわかる視線でもある。

神の視線から観ているから、舞台の上には悲劇があり、喜劇があるのだとも言える。

それは買収される側(山東電機)の人間だけのことではなく、買収する側(松川電器)の人間も同様である。
買収する側の人間は、冷静に、かつ冷酷に山東電機の社員をどう処遇し利用していくかを考え実践しているのだが、彼らもまた買収される側と同様に、「会社」という共同幻想の中に閉じ込められていて、その共同幻想、皮の「会社」の「意思」に従っているだけなのだ。

彼ら自身の意思で業務を遂行しているわけではない。
つまり、いつ立場が逆転してもおかしくないのだ。

観客は買収する側(松川電器)の室長の冷静な判断と計画を観て「冷酷だな」「会社の命令だからな」「会社がなくなっては元も子もないし」と、いろいろなことを考えるだろうが、それは安全な神の視線の側にいるからなのだ。自分がその室長の立場だったらどうするのか、情に流されずに業務を遂行できるのかということだ。

室長は、この仕事をどう考えているのかの本音は、室長とその部下の課長との会話で、室長がふと漏らす台詞からうかがえる。彼女(室長)の「人」が見えてくる一瞬であり、この台詞はなかなかうまいと思った。

副部長が部長を追い落とすような仕掛けをしたり、蔦サブリーダーが副部長に昇格することで、彼のリーダーだった野間に本年を叫ぶように吐露するシーンは、なかなかだ。
なかなかイヤな姿だが、ひょっとしたらどこか天井から眺めている神の視線によれば、自分たちの姿なのかもしれないのだ。

サブリーダーの蔦が副部長になって、(野間が辞めて中国のハイミへ転職したいと思っていたことを知っているのにもかかわらず)あそこであんなこと言うか、と観客は思ってしまうが、それも冷静に観ている神視線の観客だからこそわかることなのだ。後悔先に立たずとはよく言ったもので、我々もそんな過ちをしてしまっている。

山東電機の上司と部下たちに欠けていたのは、心理的契約と言われるような相互理解の関係だ。
暗黙に理解し合えるような関係があったとすれば、買収する側に対しても組織として対応できただろうし、野間に対して営業系の役員が振ってきた急ぎの案件も、うまく対処できたのではないだろうか。

野間と蔦の関係でも同じだ。
蔦は「上司の命令だから野間の言うことを聞いてきた」というが、単にそれだけの関係であって、野間と蔦の間にはそうした暗黙の相互理解がなかった。
だから、立場が逆転してしまっても、それは生まれることがない。蔦は押さえ込んでいた気持ちを吐き出すだけだ。

野間は正論を言っているようで、組織の一員としては問題がないわけではない。
それも実際に同じ組織にいれば、わかるのではないだろうか。

舞台の上での人間模様はとても面白かった。
それは戯曲自体もそうなのだが、役者がとてもいいからだろう。

室長を演じた榒崎今日子さんは、あいかわらず感情を殺して仕事を遂行するという姿が、刃物のように鋭くカッコがいい。
野間を演じた小平伸一郎さんは、オタクな感じを漂わせて神経質な感じがとてもよかった。
サブリーダーの蔦を演じた狩野和馬さんは、野間をしっかりと支えている人というイメージから副部長になるということがわかってからの、感情の爆発が凄い。こんなに感情を剥き出しにしたのは見たことなかったと思う。舞台の上に釘付けになった。

中野副部長を演じた谷仲恵輔さんは、やっぱり上手い。どんな役でも自分の姿にしてしまう(ほとんどがイヤな役なのだが・笑)。部長の前で泣いて見せ、呑みに行こうとするときに蔦に呼び止められ、こちらを振り向いたときに、実は泣いてなかったということがわかる顔には、ゾッとした。人の暗部を一瞬で見せてくれたようだ。
鈴木副部長を演じた佐々木なふみさんは、有能な上司でありながらも(野間は認めていた)、同じ女性社員に対し毒女的、お局様的な毒の滲ませ方が上手い。ロッカーの福山は笑ったけど。
部長を演じた吉田テツタさんの、呑気で人がいいけど無能そうな上司の空気感がいいし(まるで子どものような逆ギレのところとか)、中国人に切り替わったときの殺伐感もいい。

演出的にはホテルの喫茶室のシーンがなかなかだと思った。
普通はウエイターの設定はまどろっこしくなるので、割愛することが多いのだが、この作品ではいちいち注文を取り注文の品を持って来て、を見せる。しかし、それがまどろっこしくはならず、むしろ会話を途切れさせたり、間となったりすることで、ある種のリアリティを感じさせるのだ。
これはなかなかできないと思う。
前作『消失点』でも同様に、婦警さんを登場させることの上手さを感じた。

ただ、後日談のような中国企業のシーンは必要だったのだろうか。
野間は、妻に離婚届を出したことで、(そのことは蔦との会話に出てきたように)中国企業へ転職する意思が固まったことが、観客にはわかったのだから。
蔦が殴りかかるなんていうのは、どうなんだろう、と思った。

ラストにロボットが机から落ちるシーンがある。
人である前に「会社員」である者をロボットにたとえ、それが壊れた様を見せたのではないかと思った。

……野間が中国で突貫開発した電池が不具合を起こしてしまうということを暗示しているというのは、……深読みしすぎか(笑)。
蒲団と達磨

蒲団と達磨

サンプル

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2015/03/06 (金) ~ 2015/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

居心地の悪さが、ぶすぶすっと、燻るように劇場に充満する
例えば、聞きたくもない他人の込み入った話を聞かされているような、そんな感じ。

岩松了さんとサンプルの組み合わせは、あまりにも良すぎて、気持ち悪い、が増幅された。

ネタバレBOX

岩松了さんの初期の戯曲をサンプルが上演するという。

で、戯曲の完成度には驚いた。
一見、なんのことはない台詞だけなのに、見える景色が違うのだ。
たぶん、演出として、特別に台詞などに手を加えてないだろうと思うのだが、言ってしまえば、なかなか気持ちの悪い作品である。

松井周さんが、岩松戯曲の気持ち悪さをうまく取り出したのかもしれないが、その根底に流れている気持ちの悪さ、居心地の悪さは、戯曲本来の持ち味だろう。
さすが、岸田國士戯曲賞を取った作品だと思った。

主人公の夫は生物の先生。
娘の結婚式後の深夜から早朝までの話。

主人公の若い後添えが、家を出てアパート暮らしをしたいと言い出したらしい。
それを止めようとしているところではあるのだが、どうも積極的に止めているふうでもない。
「行かないでくれ」と懇願するわけでもなく、歯にモノが挟まったような、遠回しな感じなのである。

どうやら、いわゆる「夫婦生活」にナニかがあるらしいのだ。

そのもぞもぞした感じが充満する、夫婦の寝室に、結婚式に出た夫の妹や、妻の弟夫婦、夫の友人たち、さらにこの家に住み込んでいるらしいお手伝いさんが出入りする。

夫はタイトルにあるように、布団の上に達磨のように座り込んでいる。
夫婦間の話に、他人が入り込む形になってしまうのだが、夫はなぜだかそれを厭わず、彼らに酒を飲もうとまで言い出す。

今読んでいた新聞を「これは夕刊じゃないな」と言い出して、妻との会話につなげようとする、下手くそな会話能力が、この夫の姿なのだろう。
上手く言えないし、コミュニケーションが下手すぎる。

妻のほうも、「路地の先にアパートが」「朝になると路地を人が通って」みたいな話しぶりなのだ。

全編、夫が、一体何言いたいのかが、判然とせず、それを聞かされるほうは、困惑しつつも、適当に相づちを打つばかり。

そういう、きちんと相手の話を聞いていない会話、「いいお天気ですね」的な、内容のほぼない会話が舞台の上にあり、それが実に気持ちが悪い。普段我々がしている会話の大部分が、たぶんソレなのだが……。

冒頭の夫婦の会話は、ぼそぼそしていて、空間が広くて、その広い空間に、独特の居心地悪さが広がっていく。サンプルらしい空気感だ。

夫を古舘寛治さんが演じる。その時点ですでに怪しいし、気持ちの悪さが漂ってしまう。

夫が達磨のように座り込む布団の下には、夫の性癖の一端が隠されていた。
なるほど、これが後添えとの溝を生んでしまったのかと思わせる。しっかりと見せることはないのだが、色合いとか、そんな感じで観客は察してしまう。「ははぁ〜ん」って。
また、いきなりポラロイドで後添えを撮るあたりにも、それがうかがえるのだ。

ひっとしたら、他人を自分たちの寝室に留めおこうとすることすら、それなのかもしれなかったりして。妻の前の夫を同席させるなんて、まさにそうかもしれない。

夫は自分のそうした性癖を性急に妻に迫ってしまったのではないか。
持ち前の口下手さ、コミュニケーション能力の低さで。

妻は「勉強がしたい」ということを家を出る口実にしている。
夫婦間のことなので、当然「何が原因か」は2人の間では判明しているのだろうが、夫の性癖の押し付けも、言葉少なで、というか、何も言わずに迫ったのだろうから、そのことは「なかった」ことのように、2人の間では扱われているようだ。

当然わかっているのに、建前でのやり取りになっている。
「何の勉強をするんだ」「フランス語とか」というような。
しかし、時折、「回数なのか!」的な発言(確かそんなこと)が爆発するあたりが、やっぱり気持ち悪い(笑)。

古舘寛治さんだからこその、この夫である感じがなかなかたまらないのだ。
キャスティングですでに成功が決まっていたと思ってもいいぐらいだ。

妻の弟夫婦は、頭が明らかにおかしい。2人の間だけのつながりがあり、そこから外との関係が歪なのだ(夫婦間も歪ではあるが)。
しかし、彼らだけでなく、全体的に、とても不穏な空気が流れている。

弟夫婦の、弟が言っていることはどこまで本当なのか、妻もウソをついていることが観客には明らかになったところで、背筋がひやりとした。
あのタイミングで「金貸してくれ」はないだろうに。

お手伝いさんも男を連れ込んでいるし、そのお手伝いさんが盗み聞きしているのだろうと思っている夫のことも、夫の友人たちも、微妙な空気。
夫の妹も、妻の弟の嫁に対して、何かある。
妻の前夫が登場するのも異様だし。

妻が困惑するのもわかる。
夫は「夫婦生活」に問題があるのではないか、と思い込んでるだけで、実は、それだけではなく、すべてにおいて、気持ちの悪さが妻には感じられての、家を出る、という決断ではないのか、と思えてくる。

介護が必要な夫の母が、奥にいるという感じも、舞台に、じんわりと効いている。

物語の中心にある夫と妻の関係がグラグラと不安定なだけではなく、登場人物たち全員が、どこか不安定なところに立っていて、グラグラしながらそこにいる。
小さな悪意と不安定さ。
その不安定さの中心は、やはり、達磨である夫だ。

達磨って、起き上がるけれども、ちょっと触れただけで、グラグラしてしまう。
そのグラグラの波動が全体に波及していくことで、物語の気持ち悪さが増幅されていく。

波動は観客席まで流れ出て、とても居心地が悪くなっていくのだ。
マイクロバスの運転手の痛むお腹のように、牛乳飲めば治るかもしれないのに、牛乳がない。

時折、それらの不安に中で、小爆発が起きる。

一家の知り合いの1人コンちゃんが夫の妹に迫ったり、妻の弟の癇癪だったり、コンちゃんの「よいとまけ」の歌だったり。
それが物語に独特のリズムを与えている。

布団が敷かれている夫婦の部屋の狭さがいい。
そして、ポツンと立っている庭木のバランスもいい。
根元が白く、寒々しく立っている。

表立って何か言うわけでもないのに、会話の背景が見えてくる。
そして、その居心地悪さの空気が伝わってくる。

それは、別に聞きたくもない、他人の込み入った話を聞かされているような、そんな感覚だ。
特に、夫婦生活とか。
そんなうまさが戯曲と演出にあった。

岩松了さんとサンプルの組み合わせは、良すぎる。
良すぎて気持ち悪い(笑)。
この組み合わせ、また観てみたいと思った。

役者は、夫役の古舘寛治さんは、いつものとおりなので、それが見事だったのだが、それに対する妻役の安藤真理さんの、姿勢が崩れない感じ、つまり身体の姿勢ではなく、心の姿勢というか、それがしっかりとしているからこその、古舘寛治さんの夫が際立つという夫婦役の噛み合い方がとてもよかった。
妻の弟の嫁役の野津あおいさんの、少しほろりと崩れたような脆い佇まいもナイスであった。印象として、客席にはほぼ背中だけしか見せていないので、横座りな感じが病的さを醸し出していた。


フライヤーのイラストはいがらしみきおさんが描いたものだ。
観劇後に見ると、ひっくり返った洗面器に、ポラロイドから牛乳パックまであり、舞台のセットそのもので、見事に、この作品の世界であった。
奴婢訓

奴婢訓

演劇実験室◎万有引力

シアタートラム(東京都)

2012/02/12 (日) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

溢れるダークなイメージたち
「舞踏」な感じの登場人物と演出。
舞台の上には一定の緊張があり、どこを切り取っても暗黒で美しい「画」となる。
それは無間地獄のような。

ネタバレBOX

スウィフトの『奴婢訓』に宮沢賢治のあれこれをぐいぐい押し付けてなすりつけたような作品。

つまり、主人がいない屋敷で、召使いたちが、それぞれ主人になりすまし、召使いがやってはいけないことを実践し、させるという「不道徳」なところに、「雨ニモマケズ」の賢治がやってくるという、皮肉の上に皮肉を被せてあったと言っていいだろう。

全体は18パートから成り、各パートごとに「やってはいけないこと」を披瀝する。
その様は、グロテスクでダーク。
とは言え、ちょっとしたユーモアもそこにはある。
ま、ユーモアもグロテスクとダークの裏打ちがされているのだが。

テーマになっているであろう「リーダー不在」や台詞にもあった「リーダーがいないことの不幸よりも、リーダーを必要としている不幸」に関して言えば、「本当のリーダー(主人)」ではない者たちが何人入れ替わっても、堂々巡りで悪ふざけにしかならず、無間地獄の様相を呈することになるということ。
それは、(ちょっと直截すぎるのだが)コロコロと短期間に首相が替わるどこかの国を見ているようであり、本当のリーダーがいないところは、よそから見るとこんなに酷いということだ。
つまり、その国では、リーダーは本物ではなく、その資格を持たないものが「なりすましている」ということになろう。

舞台は、高さのあるゴツゴツしたセットで、何だかわからない機械が点在する。
その高さと、客席にまではみ出してくる登場人物たちにより、会場全体が舞台世界に取り込まれていく。
存在感のあるセットをうまく活用し、自分でお尻を叩いたり、座席が上下にくるくると回ったりと、機能としては意味のない不気味な機械たちを駆使する。

そこに白塗り半裸だったり、頭をそり上げていたりという状態で、凝った衣装を纏った登場人物たちが「画」になるような形で揃う。
ちよっとしたシーンであっても、後方ではきちんと別の演技を続けていたりすることで、舞台の上には一定の緊張があり、とても美しいのだ。

頭をそり上げ半裸に白塗りという姿は、舞踏を彷彿とさせ、確かに動きも、舞踏それに似る。
こういう言い方は失礼かもしれないが、舞踏の身体を持つ人たち(つまり舞踏の世界の人たち)が、同じ演技をしたとすれば、さらに強いイメージがそこにあったのではないか、と思ってしまった。

しかし、演劇の身体であることで、できることがあるのも確かだ。

台詞は一部聞き取りにくかったのだが、それよりも、舞台から届く強いイメージを楽しんだというところだ。

音楽は、基本、生演奏で、客入れから鳴っており、舞台の上にも徐々に人々が現れていく。

生演奏というライブ感が素晴らしく、舞台のイメージと相まって、18楽章からなる音楽の、まるでイメージPVを観ているような感覚すらあった。
イメージPVというたとえは的を射ていないとは自分でも思うのだが、そだけ音楽に強さと主張、そして存在感を感じたということでもある。

めくるめく悪夢な感じと、会場を見事に使い切った舞台はとても素晴らしいものであった。

ダリア役の旺なつきさんの発声と歌はさすが!
存在感たっぷり。
明るい家族、楽しいプロレス!

明るい家族、楽しいプロレス!

小松台東

高田馬場ラビネスト(東京都)

2012/11/21 (水) ~ 2012/11/26 (月)公演終了

満足度★★★★★

登場人物が相互に、それぞれの役を成立させる見事な関係にある
それは物語と深くかかわっていて、誰かが誰かを気にして、支える、家族や友人のコミュニティの形に似ている。

コメディかと思ったらそうではなかった。
ストレートプレイ好きならば観たらいいと思う。

ネタバレBOX

異儀田夏葉さんがお母さん、佐藤達さんが小学生の息子、内山ちひろさんが中学生の娘、そして永山智啓さんがおじいちゃん……そんな役柄を見て、てっきりコメディかと思ったら(先日デフロスターズ松本企画のコントみたいなものを観たあとなので)、違った。いい意味で裏切られた。もの凄くいい会話劇。

89〜90年ぐらいの、宮崎にいる家族たちの物語。

中島家では、父は母との関係で、家に寄りつかず、たまに帰ってくる程度。思春期にある中学生の娘はそういう父親を嫌っている。小学生の息子は単純に父が好きで、なによりも今一番興味があるのがプロレスだ。
おばあちゃんは、痴呆か何かで入院中。母はパートをしながら見舞いに行っている。
おじいちゃんは、自分の息子が留守がちの家を気にし、毎日のように訪れる。自転車の「切り替え」好き。

そんな中島家を中心に、母の友人や、喘息持ちで、プロレス好きの近所の高校生、娘の部活で一緒の、シンバル担当の男子などが、どこか懐かしい香りがするストーリーを繰り広げる。


最初はコメディかと思っていたのだが、途中からそうではないことに気づき、また、「それから数年後」のような展開があるのかと思っていたのだがそうでもなく(大人が小学生を演じていたりするので)、その設定のまま淡々と物語は進んでいく。

そんな舞台に、実は違和感を感じることはなかった。なぜならば、ほとんどの役者が実年齢と違う年齢を演じているのだが、あまりにもしっくりくるからだ。

小学生を演じた佐藤達さんは、よく舞台で大人が子どもを演じるようなあざとさが一切なく、さらりと演じていて、小学生の息子になっているのだ。中学生を演じた内山ちひろさんも、同様にさらりと中学生の娘になっている。

そして、その2人の母を演じる異儀田夏葉さんが素晴らしい。2人への声のかけ方、夫や義理の父(おじいちゃん)への接し方が、リアルというか、さらりと「母親」「妻」になっている。
その台詞や動きが、まさに「毎日繰り返される日常」を体現しており、「お母さん」という感じ。兄弟げんかしたらあんな風に怒られたな、なんて素直に思える。

異儀田夏葉さんのお母さんが中心にきちんといるから、この舞台は、きちんと成立しているのではないか、とも思ってしまう。彼女が「お母さん」を演じているから、「息子」も「娘」も揺るぎなくそういう存在としていることができるのではないだろうか。
おじいちゃんも、しかりだ。頭を白髪にしても見た目は若いおじいちゃんが、「おじいちゃん」に見えて来る。

異儀田夏葉さんは、あひるなんちゃらで初めて観てから、結構気になっている役者さんで、この人の突っ込みのスルどさにはいつも感服していた。しかし、今回の芝居を観て、考えが新たになった。「突っ込みが凄い」のではなく、台詞のタイミングや声のトーンなどが的確な人なのだということだ。だから突っ込みもうまいし、今回のような芝居もできるし、西友のエスカレーターを不気味な笑顔で降りてこれる(笑)ということなのだ。
ますます目が離せない女優さんだ。

もちろん、今回の舞台は、異儀田夏葉さんだけが凄いということではなく、それぞれの役が、それぞれの役を見事に互いに支え、成立させていると言ってもいだろう。相手が本当にそういう役なのだ、と信じ切っている。そういう相互関係・信頼関係があるから、この舞台は成り立っているのだろう。

また、台詞のタイミングや絡ませ方、声のトーンなどなど、細かく気を遣っていて、それも見事であったと思う。役者の力量もあるのだろうが、そこには演出のうまさもあろう。

ストーリー自体も、母親の友人の息子の退学や、隣の高校生の入院(身体が弱いから近所の小学生の相手をしているのではないか、という切なさも含めつつ)、東京にプロレスを観に行けなかったり、娘の部活で一緒だった男子の転校など、ちょっとした波紋はあるものの、そこには、それらを支える、家族とご近所の関係(コミュニティ)がきちんとあるのだ。
今観ていて、逆にそこがちよっと切なくなったりするのだけど…。

心配してくれる家族や友人、知人がいて、遊んでくれるお兄さんが近所にいて、なんて、そんなことはもうないんじゃないかと思うからだ。
昭和から平成のころには、そんな関係が、宮崎ではまだあったのかもしれない、と思ったりもした。「ケンタッキーだ!」って喜べるのはいいよな、なんてね。

その「誰かが誰かを気にして、支えてくれる関係」は、先に書いた、「役者さんたちが、それぞれの役を成り立たせる関係」とよく似ていて、舞台のテーマと、演劇自体の在り方が、まさに密接な関係にあると言っていいだろう。

2代目の社長となった息子(中島家の父)を、なんとなく頼りないと思っている祖父が、小学生の孫(啓太)がカツ上げにあったと聞き、「タカシ(啓太の父)を呼べ」と思わず言ってしまうところや、ラストでみんなで食事をしようとなるあたりに、簡単には切ることのできない家族のつながりを感じたりもするのだ。

母親の友人・柴田薫さんのどこかにいそうな感じもよかったし、緑川陽介さん、塙育大さんの2人の男子の、少しエキセントリックだけど、実直さ、いい人ぶりも良かった。また、父親の野本光一郎さんの、実は真面目そうな感じ(だから家に戻れないような)、その友人の松本哲也さんの「一緒に風呂入るか」というような台詞に表現される、胡散臭い感じは、その風貌とともに短い登場ながらいいアクセントになっていた。

観た後、暖かいものが残る舞台だった。
悩殺ハムレット

悩殺ハムレット

柿喰う客

シアタートラム(東京都)

2011/09/16 (金) ~ 2011/09/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

マヂ、パネェ〜、ハムレット!
マヂ、パネェ〜、ハムレット!

マヂ、ハムレットだったんじゃね。
ていうかぁ、女優たち、カッコよすぎっしょ。
マヂ、リスペクトじゃね。
台詞、原典の翻訳、超カッコウィ〜。
からの〜、思わず、笑っちゃう系の、シビレた感じぃ〜の〜。

だったわけで、面白くって、もの凄く楽しい舞台だった。

ネタバレBOX

いつもの、と言えば、いつもの柿喰う客ではあるのだけど、ビートに乗った台詞と動きが、ホスト的なチャライ感じに、ド・ストレート。
物語を強い力で、グイグイと前へ引っ張っていき、観客は笑いながらそれに気持ち良く乗っかっていくという感じだ。

「キング」って台詞が、なんだかストリート・ギャングのキングとか、ホストクラブのナンバーワンの名称のように響く。
つまり、デンマーク王を巡るあれこれが、ストリート・ギャングのドンの椅子や、ホストクラブ「デンマーク」のナンバーワンホストを巡るような感じに聞こえ、それが素敵すぎるのだ。

女優が全員イキイキして、輝いている。
舞台から発せられるテンションの高さは、幕開けから終演まで凄いことになっていた。ポテンシャルも完成度も高い。見事!

ハムレットの台詞は、聞き覚えのあるものもいくつかあるのだが、その中で特に印象的、象徴的なものは、うま具合に残してあり、それらが、こうなるのか! という驚きと、楽しさが満載であった。

台詞のあまり多くない、七味まゆみさん演じるノルウェーの王子、フォーティンブラスだが、ラストで、いい緊張感の中、素晴らしい台詞が聞けて、なるほど、このために、万全の配役として、彼女をこの役にしたんだと思わず納得した。
このラストの台詞は、抗争の後の幕引きとして見事であり、本当に素晴らしいものであった。

ハムレットを演じた深谷由梨香さんも、ぐいぐい物語を牽引していたし、それを受けて立つ、クローディアスのコロさんもカッコいい。マーセラスを演じていた岡田あがささんは、全面に出るシーンは少ないものの、その得意な表情は周囲とは異質なオーラを放っていた。そして、長身でスリムなレアティーズ(葛西幸菜さん)や、ローゼンクランツ(葛木英さん)とギルデンスターン(大杉亜依里さん)たちのなんてカッコいいことか。いちいち様になっている。
ガートルード(右手愛美さん)の「私はエロい」の台詞のタイミングのよさ、しなやかさ、オフィーリア(新良エツ子さん)のキャラにも笑った。

もちろんほかの女優たちもいいわけで、つまり、光輝く女優たちの姿とオーラを存分に味わう舞台だったと言っていい。

001とあったので、さらに女体シェイクスピアは続くものと思っていたが、どうやら、次回は『マクベス』ということだ。たぶん全作品を女体シェイクスピアとして上演してくれるのではないかと思う。
スタートがこのレベルなので、次回以降も期待せざるを得ない。

PPTで、中屋敷法仁さんが、「今回の公演は、演出とか戯曲ではなく、俳優のためにすべてを行った」と、「台詞は俳優によって、どうにでも表現できる」だから「これからは翻訳なんていらなくなる」と言っていたのが、印象に残った。初日のせいか、妙にテンションの高いしゃべりも(笑)。
まあまあだったね。

まあまあだったね。

あひるなんちゃら

OFF OFFシアター(東京都)

2012/03/02 (金) ~ 2012/03/06 (火)公演終了

満足度★★★★★

もう侘び茶の世界だよ
OFF OFFシアターのサイズ、シンプルなセット、シンプルな台詞、だけど深みがあったりなかったり。

ネタバレBOX

あつたり、なかったりのところは、観客の想像と思い入れの部分だから、なんちゃらーの私にとってはあったりする。

毎回いい感じにツボを刺激されてしまう。

あひるなんちゃららしい、常に何も起きない会話劇。
もう侘び茶の世界だよこれは。
コメディの侘び茶。

にじり口からOFF OFFシアターの客席に入りたいほど。

「まあまあだったね」の台詞のネタばれは、ここの説明文にもすでにあるというのに、笑ってしまう。

台詞のタイミング、というか呼吸のうまさなんだろうなあ。
全登場人物それぞれの持つリズムが良く、見事に1つの楽曲に仕上がっていようだ。

DM封筒持って行ったので、特製ライターをゲット。
したけど、タバコは吸わないし、BBQも花火もやる予定ないので、机の上にちょこんと置いてある。黄色いライター。

アンケートの感想として一番多かったのは「まあまあだったね」と予想。

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