国家~偽伝、桓武と最澄とその時代~ 公演情報 アロッタファジャイナ「国家~偽伝、桓武と最澄とその時代~」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    若者の光と挫折を骨太に描く
    周囲を観客に囲まれた、隠れることないステージの上で、若者たちの火花が散る。
    舞台はシンプルなのに、どのシーンも、どの一瞬も見事に「絵」になる。
    3時間超の作品なのに、ずっと息を呑んで観た。

    ネタバレBOX

    国家がどう生まれ(変わっ)ていったのか、ということよりも、「こうしたい」という熱く目標を掲げ、それに邁進していく若者たちの姿が印象的であった。
    熱い若者たちの舞台だった。

    連綿と続く古びて腐り始めた体制を、自分たちの手で変えたいという若者はいつの時代も現れてくる。
    しかし、当然それに対する反感も旧体制側にいる人たちから起こってくる。
    新しいことをしたいと思う者が、どうやって現れて、どうやってそれを成し遂げようとするのかは、桓武の時代であっても今の世であっても同じだ。

    異端の天皇として誕生した桓武天皇は、正統な系統から見れば、しがらみが少ない。だから思い切ったことを実践できるのだろう。「変化したモノが生き残れる」というのは、生物の世界にあっても真理だ。
    ただし、だからと言って、傍系からやって来た者が新しいことをしようとすれば、その出る頭は叩かれる。

    どんな時代にあっても通用するリーダーというものはいない。
    「変革の時代」には、「変革の時代のリーダー」が必要だ。

    桓武天皇は、まさにその時代に呼ばれてきたリーダーだ。
    人間力とビジョンが人を牽引する。

    リーダーを精神的にサポートしたのが、最澄だ。

    桓武天皇の「理想」「ビジョン」に最澄が共鳴しただけなのではなく、最澄の思う仏教のあり方(国家の精神的背骨となり得る)に桓武天皇も共鳴したのだろう。
    互いの熱き心が共鳴し合う姿が、舞台の上でも輝いていた。

    若者の熱き血潮の舞台と言えば、蜷川幸雄さんのさいたまネクストシアターを思い浮かべてしまう。
    蜷川さんは、力技で若い役者の熱さを引き出しているように思う。
    そして、無理矢理とも言えるような、独自の外連味的な演出で、観客をねじ伏せてくる。
    老人だからこその、手練れであり、その力は凄いと思う。

    翻って、アロッタファジャイナ、つまり、松枝佳紀さんの描く若者は、単に勢いや力だけではない。
    「誰にでもわかりやすく、いつの時代も同じな、若者の苦悩と生の迸りを描く」のが蜷川さんだとすれば、松枝さんは「今、目の前にいる若者の痛みと不安を含めての、若さを描いて」いると思うのだ。

    そして、蜷川幸雄さんがトップダウンであれば、松枝佳紀さんはボトムアップで舞台を作り上げているというの印象だ。

    演出家もまた座組のリーダーである。
    ひょっとしたら、松枝佳紀さんは密かに桓武天皇に自分を重ね合わせて演出していた、と思いながら観ると面白いのだろう。

    リーダーは決断をしなくてはならない。なので、孤独である。
    公式・非公式のパワーを使って、権限と人間力で組織を動かす。
    ビジョンや価値観を組織内でどう共有するかが課題だ。

    そして、目的に向かうときに邪魔になるものをどう遠ざけるかも大きな問題である。
    桓武天皇にとってのそれは蝦夷であった。
    この作品で、桓武天皇側が彼らをどう排除していくのかを見ると、逡巡が感じられる。

    アテルイを藤波心さんに配役したことで、福島がアテルイの背中に見えてきてしまった。
    この選択は、松枝さんがどういう思考回路で行ったのかはわからないが、主人公である桓武天皇と対抗する蝦夷(アテルイ)を両立させるわけにはいかないのだ。

    蝦夷を徹底した「異物」として扱わなかったことが、史実との折り合いとしての演出の苦悩と、作品中の桓武天皇の苦悩が重なっていくという、フィクションならではの面白みが見えた。
    そして、そのことへの逡巡が作品にも現れていた。
    個人的には、もっと非情であってもよかったのではないかと思うのだが。

    ストーリーの進行には、歴史アイドルの小日向えりさんが「小日向えり」本人で登場し、その間の歴史を語る。
    これはスピード感を殺すことになるのだが、全体のいいリズムになっていたと思う。
    ただ、「偽伝」と言っているのであれば、「偽伝」のまま突っ走ってよかったと思う。

    話を少し戻すと、この作品と蜷川幸雄さんのさいたまネクストシアターを比べたのだが、もう1点比べるところがある。

    蜷川幸雄さんは、ネクストシアターに限らず、何かを仕掛けてくる。
    例えば、『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』では、こまどり姉妹が登場し、嘆き悲しむハムレットを前に「幸せになりたい」と歌わせた。これに限らず、舞台の奥を開けて舞台の後ろを見せたりと、力ずくで演出し、それがいい意味での外連味となっていることが多い(少々ワンパターンだったりするが)。

    松枝佳紀さんにも独特の外連味がある(外連味とは悪い意味で使う言葉なのだが、フィクションを見せるときに、観客をハッとさせる瞬間があってもいいと思うので、私は外連味はいい意味で使っている)。
    それは、もっとポップな外連味だ。
    演劇企画「日本の問題」のような企画力に代表されるような、「今」をつかんだ上での、ポップさがあるのだ。

    今回で言えば、配役にそれがある。
    例えば、仮屋ユイカさんの妹・本仮屋リイナさん、反原発を掲げるアイドル・藤波心さん、さらに歴史アイドルの小日向えりさん、評論家の池内ひろ美さん、映画監督の荒戸源次郎さんたちを俳優として舞台に上げたのだ。

    これが外連味でなくて何であろうか。
    彼らの配役は、話題性もさることながら、そのポジションの位置、使い方がうまいのだ。

    先に書いたアテルイへ藤波心さんを配したことなど、彼女を使うことで意味がさらに増してくるし、「今」につなげてくる。
    歴ドルの登場も、まさに観客を現代へ一気に連れ戻す。

    荒戸源次郎さんの起用も、ある程度の年齢の俳優を使うことよりも、この人だったから出せたという雰囲気と、若者たちとのマッチ感があったと思うのだ。
    この人の役が、うますぎる老練な俳優であったとしたら、その俳優が飛び抜けてしまい、バランスを欠いただろう。なので、「あれぐらい」(笑)がよかったのだ。その点、池内ひろ美さんはうまくなりすぎていたかもしれない(笑)。

    こういう使い方は、悪い意味での外連味になってしまう可能性もあり、諸刃の刃でもあるのだが、そこに留まらせない見せ方のうまさが、この作品を含め、アロッタファジャイナにはあると思う。

    ラストに空海がきらびやかな印象で登場する。
    これって、ハムレットのフォーティンブラスじゃないか、と思ってしまった。

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    2014/02/05 17:42

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