「帽子と預言者」 「鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラ-」
名取事務所
「劇」小劇場(東京都)
2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
遠い国の話。だが。。日本には判官贔屓、宵越しの金は持たぬなんてのがあるが、予測づくが通る端から予測外が湧いてくる人間の(バランス感覚の)妙。天の邪鬼は集団的狂気から集団を救う。今の逆をやって見ようと思えるかは心の健康のバロメータ。
・・んな事で、これは観るべし。という事の他言うべき事がない。
(無論、芝居は言う事なし。)
Gengangere 再び立ち現れるもの 亡霊たち
CAPI-Contemporary Arts Project International
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
題(「幽霊」)に惹かれて数年前読んだ戯曲だが舞台は未見。あやふやな記憶ナビで楽しく観劇した。古典そのものより俳優陣に惹かれたのが正直な所。
最近の体調による例の睡魔が(瞬間的にだが数回)襲った間にワードを落したのだろう、作者の意図の取り違えが若干。後で筋を確認して修正した。
舞台は溌剌と進んで行くが、流麗さより俳優の個性の凸凹が面白い。ただし結句自分の関心は、台詞でのみ登場する幽霊(亡霊)が何を指すものか、戯曲の背景であろう時代の移り行き(近代化)の何処に何をイプセンが見たのかであったが、判りやすい解答はなさそうである。
まほろばの景 2020【三重公演中止】
烏丸ストロークロック
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/02/16 (日) ~ 2020/02/23 (日)公演終了
満足度★★★★
初演を観て、今回再演も観た。2年前と劇場は同じだが俳優6名から5名の減員、舞台装置の圧縮が、見える所での変化。テキストは変わらず演出が変わった、とは関係者の談、いずれにしても私には現前する舞台と現象が初演とは随分違って感じられた。いや、さまよえる青年の心模様と回想されるエピソードも、舞台風景も細部の違いを除けば初演と変わらない(と思う)が、発せられる言葉が「意味」として前面に出ている感じがある。
昨秋アゴラで観た怒濤の二人芝居の片割れ、小菅氏が今回は(も?)複数の重要な役を担うが、比重が増えた印象。初演に登場した無言の存在(山伏?)が不在。これが大きい。かの存在は山=自然と人間の間を取りなし、我々に山の存在を確信させる媒介者。この超然たる存在の前では、主人公という人間は小さく無力。初演の舞台全体を支配していたのはやはり「自然」であり、それに包まれる恍惚があった。初演ではあった舞台奥に組まれた大足場を、道のない山を登るように登るクライマックスは、視覚的効果としては万有引力の規模。しかし今回は、舞台中央に立てた幅狭の足場に登る動作は、ややシンボリックに止まった。その分より「演劇」らしくなり、言葉が前面に押し出されただけ批評の俎上に乗り易くなったような。
身体と自然の通い合いよりも、言葉が過剰に印象付けられた事は観劇前の期待からすればガッカリという事になるが、初演には宗教儀式に近いものを感じた位で、作り手は軌道修正を施したのかも知れない。
前面に出てきた主人公のあてどない旅の風景(回想含む)は、それでも十分に精神世界の彷徨を描いて余りある。かつて交際のあった既婚女性が震災時、彼に助けを求めて連絡をよこしたが、気前よくシャワーを貸した彼に女は葛藤し、結局はきっぱり彼との間に線を引き直して泣きながら去る。地元仙台で少年時代、お神楽を一緒にやった幼馴染との場面では、熊本へボランティアに行った時の様子と自分の使命感を語る主人公に、相手は愛想尽かしの酷薄な台詞を投げつける(まずは自分の生活じゃないの。今のお前、何だよ。ボランティア。それはお前じゃなきゃやれない事なの?)。そして彼の「ギルティ」を決定づけた事件の当事者=彼が支援に関わっていた知的障害の青年と、その姉との事。山の麓にあるらしい施設から近くの神社へと夕刻出かけた青年と主人公は、その場から動けなくなる。青年の「いーーー!」(自閉症特有の状況不適応の激しい反応の事を言っていると思われる)が始まり、夕食の時間が迫り雨も降ってきたのに彼はテコでも動かず、その否定的反応に心が折れた主人公は彼をその場に置いて帰ってしまう。そしてそのまま行方不明となり、3ヶ月以上経った今も彼は青年の顔写真を持って山に入り、登山者に彼のことを尋ね、探し続けている・・。山を彷徨う彼の姿に、無常の世を生き蠢く人間の姿が重なる。障害を持つ弟と一緒に、と言いながら、放置する選択肢も厭わない己の心をさらして主人公に迫る姉は、薄幸の物語の主人公であると同時に罪深き女でありその赤裸々な告白者。恵まれているのに何故自分だけ逃げ出したいと思っているのかと自責を募らせる既婚女性、そして主人公は正に「罪に囚われて」生きている(あるいは敢えて自分に課している?)。もう一人の登場人物、主人公の父は、彼に神楽を教えた村の大人の一人であり、肉親としてはあやふやな関わりのまま離別した人間、と見える。
彼の中を通り過ぎた4人を、舞台では主人公の想念のように浮かび上らせ、主人公は彼らと神楽を踊り、山を登る。
悠久の時間と自然に通じる「神的なもの」に同期できるのは、思考ではなく身体=感覚。その象徴として修験者を(初演ではより明白に)描いたこの舞台は、何か解決の方法を探っているのでなく、ただ人間の再生を期して祈る姿を描いている。と思う。
『わたしたちはできない、をする。』
The end of company ジエン社
スタジオ「HIKARI」(神奈川県)
2020/02/15 (土) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★
まだ3回程度しか観ないジエン社だが、新たに生まれた(新調された)横浜の「小劇場」HIKARIスタジオで、試作品のような小品を興味深く観た。
主宰・山本氏のパンフの長文を半分読み、トークでの話を聴き、帰宅してパンフの残りを読んだ。思索の跡は大真面目に演劇する演劇人の孤高を示し、アポリアを前に演劇的な具現化に挑む姿には素朴に声援を送りたくなる。
ただし創作の成果への評価はそのものとして行なわれねばならぬ。
・・という前振りには合わぬが、好もしい作品であった。
Better Call Shoujo
シンクロ少女
シアター711(東京都)
2020/02/20 (木) ~ 2020/02/25 (火)公演終了
満足度★★★★
三鷹市芸文星のホールの<Next Sellection>を知った最初が2013年秋で、玉田企画と鳥公園、シンクロ少女だった。どんなだろ~とわくわく、今注目されている若手とくに女性のユニットを覗きたく、しかし枠は一本だけ。シンクロを止めて鳥公園にした。結局お初見は2015年1月空洞(あっさり美味)、その1年後スズナリ(濃味=三鷹と同演目)、2017年秋OFFOFF久々(あっさり薄味)、ペースは1年強に1本だがガッツリは1本のみ、だからか今回えらく久々感あり、そして無論ガッツリを期待である。
公演を2日前に知ったが小野寺ずるの名を観て即予約(口字ックでは見られなくなった...そういえば「かなこ」とだけある花鉢が受付に置かれてたな..)。
あの奇妙演技<妙技>を見たく足を運んだが、役どころは主人公、期待を裏切らず。舞台に調和をもたらすか、という点ではリスキーなアクトレスかも知れぬが(作品にも拠ろうが)、、部分的にであれ欲しい味を味わったので個人的に満足である(全く個人的なまとめ)。
メナム河の日本人
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2020/02/15 (土) ~ 2020/03/07 (土)公演終了
満足度★★★★★
遠藤周作の戯曲の題名は知っていたが(家の本棚にもあったが未読)、見ごたえある作品であった。舞台は近世のタイはアユタヤ王国で、戦国時代以降、主君をなくして流れ着いた浪人や迫害を逃れたキリシタンによる日本人町があったという史実を基に書かれた歴史物語だ。
作品の規模に相応しく静岡芸術劇場の容積大のステージをフル活用した布が主体の豪奢な美術、そして俳優の動線ミザンスまで視覚的なメッセージを緻密に構築した今井朋彦氏の演出力に感服。
ポータブルトイレットシアター
「老いと演劇」OiBokkeShi
県民共済みらいホール(神奈川県)
2020/02/12 (水) ~ 2020/02/12 (水)公演終了
満足度★★★★
汎用性の高い演劇の未来を幾許かでも願わない事のない人なら気になるに違いない、岡山のOiBokkeShi。近場の桜木町で開催(しかも1ステージ)とあっては観て来いと言われたようなもの。
菅原直樹という主宰の事は知っていたが、この劇団が氏と現在齢九十を超える岡田忠雄さんとの出会いに発し、この岡田さんを主たる出演者として活動する団体である事は知らなかった。つまり岡田さんの個性と菅原氏の手法・理念の両輪がOiBokkeShiのすがたである、という事な訳である。
下世話な話、会場に客は結構埋まっていたが200か300か・・入場料2000円は演劇公演としては廉価だが、「素人」劇団が何を見せるか・・。私の目には「作品」を観に来た客が不満を残さず会場を出るラインを十分クリアする内容、及び料金設定と思えたが、適切価格でもって得た収入は旅費、助演者・スタッフ謝礼と会場費等を引けば、通常は何とか赤が出ない程度ではないか。後は(旅費を除く)支払い先の「協力」の申し出がどれ程あるか、という所だろうか。どのみち「稼ぐ」ための公演ではない(多分)。
介護、高齢者問題と、岡田さんを巧く「使った」このパフォーマンスは、コロンブスの卵であり演劇的工夫の成果であり、やはり岡田さんという存在の賜物。そしてこのパフォーマンスひっくるめた中に通うメッセージは、菅原氏の本分である介護従事者としてのそれ。でありながらここには演劇を観る観客とパフォーマーの関係が(有料で)成り立っており、これは演劇だ、とも福祉(の演劇活用)とも割り切れない稀有な領域が生まれていた。
結果、先の二分法の境界線を、実線を点線にする位には相対化した。そのことに拍手を送りたい。
東京ノート・インターナショナルバージョン
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2020/02/06 (木) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★
international ver.を観劇。過去に触れた東京ノートの「編曲版」(2本)よりもオリジナルに近い事がうかがえ、平田作品の中でも高クオリティたる所を感知した。「静かな演劇」興隆の起点となった代表作を放置していた不勉強を自戒。だがまだオリジナル版は観ていない訳である(観劇するつもりだが、さて..)。
このバージョンの評価すべき点は、帰属国(地域)の多さだ(台湾・韓国・タイ・フィリピン・ウズベキスタン・ロシア)。登退場は整理されているがブツ切り感は無く同一空間を共有し、共存し、世界的広がりの中にある我らがニッポンを意識させた(韓国人の比重がやや軽め、他、語り切れないものは多々残したにしても)。
美術館のロビー(展示スペースは別にある)には登退場ルートが上手下手各2、計4箇所あって(セミ)パブリック性高く、終盤日本人の親族らが漸く揃ってプライベートな会話になる所などは「美術館でそういうノリ?」と若干訝ったが、概ねリアルに収まっていた。
印象づけられたのは俳優の「演技」。従来の平田オリザ演出舞台の俳優の印象は、舞台を構成する一機能として存在する抑制された佇まいであったが、これは戯曲の要請なのか何か別の要因があるのか、キャラクターと不可分な微かな心情の動きが舞台上に覗いている。如実にそれを感じさせたのは松田弘子演じる「長女」であったが、その長女と他の家族を待つ時間の仲良しな話し相手である義妹(能島瑞穂)や、佐藤滋演じる男等も、陰影が深く脳裏に刻まれた。
思い出せば、随分前に観た平田オリザ演出・松田正隆作「夏の砂の上」は衝撃で、戯曲の音譜を正確無比に再現したかのようであった。感情面も正確無比を期したのだろうか、とすればどのようにして・・。今回の演技の温度の通った印象は、それと通ずるのかそうでないのか。
・・回ごとに異なる範疇の現象を大層にピックアップしてるだけかもだが、台詞に裏づけられて行くキャラと、心情が溢れるような長女の動きには凝視させるものがあった。
どさくさ
劇団あはひ
本多劇場(東京都)
2020/02/12 (水) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★
若手の才能を初吟味、とは言いじょう本拠地早稲田どらま館からいきなりの本多劇場、ここで賞味するのはどうかと懸念したが、ちょっと残念。懸念は半ば当った。
無論、彼らの才能の在り処は目の当たりにし、よくやったとは思うのだが、それを十全に味わえる環境とは言えなかった。ただし美術、照明の申し分ないスタッフワークとはこの劇場だからこそ協働できた由であるから何ともだが、作品そのものは恐らくどらま館が相応しく、我々は初演、ないし(確か賞を獲った)昨年の公演を観た上で、その彼らがどう健闘したかを見に行く、が正しい順序だった、多分。声量とか、舞台の雰囲気も小劇場、狭小空間向き。
しかし演出は切れ者、俳優は若々しく身体性高し。それが、もう一つ何かがと思わせるのは、小さめの空間が相応しいと思わせる事と繋がるのか判らないが、能や落語に対する造詣や、演劇的意味を読み解く能力が、何に使われるのか、どこに向けられて行くのか、「何かありそうだぞ」と強く思わせるに今回は至らず、私には。という事のようだ。
ポストトークでは本多劇場公演が決まる経緯からスタッフオファー(ゆうめいの制作請負も含め)にも話が及び、明け透けに喋る若い演出者にも興味を覚えたが、タイプは違えど中屋敷法仁の早熟さに通じるような。中屋敷舞台に私が何処となく感じる「手法を使える職人だが創造者としては思想がない」演出家像、が浮かぶ。新機軸を打ち出し認知されたい野心を持って悪い訳はなく、職人技を磨いて演劇界で仕事をしたい、も有りだ。ある種の「成功」を日本の演劇界で為そうという野心が行き場を失うだろう事や、革新的であることを包摂しない日本社会で演劇というものが芸術本来の役割をどう遂行できるのか、未来ある若者の今後を思うと考え込んでしまうが、余計な心配ではあり、単純に楽しみである。能や落語とツールとしてでなく愛着の対象として付き合える素地には、好感。
少女仮面
トライストーン・エンタテイメント
シアタートラム(東京都)
2020/01/24 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
他の方の勧めや評判も耳にして腰を上げたのが正直な所だが公演半ば過ぎては当然ながら完売、当日券に並べる日もなく諦めていた所、ワンチャンスが成就し千秋楽を観劇した。ダメ元で劇場に開演ギリギリ(実際は2分過ぎ)駆け込んだ所がトラムシートをゲット、開演にも間に合った。
さて舞台。諸手の拍手とは行かなかった「理由」を考え始めるケースになった。
メアリー・ステュアート
アン・ラト(unrato)
赤坂RED/THEATER(東京都)
2020/01/31 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
蜷川舞台の演助出身演出として、藤田俊太郎氏も大河内直子氏も未見だったが今回初めて大河内演出舞台を赤坂REDTHEATERで観、「演出」の仕事としてハッとさせられるものがあった。濃密な二人芝居、疲労のため一幕の後半は実に気持ちよく眠ってしまったが、後半集中できた。歴史の中の女性(権力者)の生きざまが現代的な視線によって再照射された戯曲は、作者の思いが硬質な作りの中から滲み出る風であった。メアリーを断頭台へと送った後、物語は色を変えた照明の中に浮き、二人は芝居の冒頭そこに居た両脇のそれぞれの机(楽屋の一角をイメージ)に戻り、黙って身づくろいをする。中央奥に据えられたアクリル製の?大鏡の周囲には雑然と歴史の遺物が積まれ配置されているが、空いた真ん中の演技エリアには土俵のような円が白く描かれ、芝居中にも活用されるが人と物がなくなったラストにはそれが歴史の表舞台の暗喩となり、薄れていく明りが最後にそれを残して消える。言語説明では追いつかない大きな文脈を表わす非言語表現になっており、これを描かせる感性は芸術家のそれであるなと、思わせるものがあった。
二女優を私は知らなかったが、素材の個性と堅実な仕事ぶりとが印象に。ただメアリー・スチュアートとエリザベス女王だけでなく、それぞれのお付とのやり取り等主役二名以外の役になり替わると、すぐには判りづらく台詞幾つか分置いて行かれる事も。展開の心地よい速度を優先し、俳優はよく動いていたが。。
野兎たち【英国公演中止】
(公財)可児市文化芸術振興財団
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/02/08 (土) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★★
久々のala公演、当りであった。
可児市発alaシリーズを知った最初は、懐かしい「秋の蛍」(2013)..プロデュース公演の匂いを初めて嗅いだという記憶が。頑固親父の背中、渡辺哲、おしん以来の小林綾子、今やお馴染み粟野史浩、福本伸一らも居たんだな。とある湖畔でのウェルメイドな鄭義信作のお話を松本祐子が演出。2度目の「黄昏にロマンス」(2015)は平幹二朗・渡辺美佐子による二人芝居、二人の出会いと別れのユーモラスで切ない劇は可愛げで機能的な装置が印象的。最後が谷崎潤一郎の戯曲「お国と五平」(2016)だから今回3年半振りになる。昨年の別役実「移動」には手が届かず悔しい思いをした。
新国立の主催でない公演を「小劇場」で観るのは初めてだが、この劇場が似つかわしく感じられる作品だった。優れた海外戯曲を闇の中に浮かび上らせる小劇場THE PIT。
片言日本語の英国人俳優2名(ダンとその母)と、婚約者ダンを両親に紹介するため英国から日本に帰国した主人公咲子(俳優自身はハーフのよう)が、時折Englishで会話する。その字幕を映す電光掲示板は、縦長~のと横長~い(調度仕立ての家庭用高級スピーカーのような)洒落た箱(全長3m程度か)が二つずつ計四つ。場面ごとに縦横に移動(横長のはバトンを使って上下に、縦長のは左右に)、庭の場面では緑を、別の場面では街区の風景を映し出す。この美術は・・と見れば松井るみ。新国立など大型劇場で馴染みの重鎮美術家は「目の醒めるような」装置を作る・・これには例外がないな、と確認(しかして「目の醒める舞台を作る美術家」と命名、思い浮んだ時はもっとタイトな気がしたが..まあいい)。
岐阜県可児市の一公共劇場が英国北部で精力的に活動する著名な劇場と共同し、質の高い舞台を作り上げた事に素朴に驚いた。物語も日英にまたがる新作戯曲。見開き4頁の当日パンフに載った三氏の原稿が、公演の背景を密度濃く伝えているが、それによると英国リーズ・プレイハウスなる劇場との提携契約は何と13年前。観客と相見える舞台としては初めて、漸く実った成果という。
「drama」とはこういう舞台を指す言葉ではないか。事態を興味深く進行させながら、狭間に微かだが確かに提示される社会的なテーマ。社会生活の中で「問題」を背負った当人の「不在」(このドラマの主題は失踪)が、彼を思う舞台上の人物たちと同じステージへ観客を引き込んで行く。微細を描いて太い幹を感じさせる優れた仕事であった。
不思議の国のアリス・オブザデッド
虚飾集団廻天百眼
ザムザ阿佐谷(東京都)
2020/01/28 (火) ~ 2020/02/03 (月)公演終了
満足度★★★★
廻天百眼inザムザを昨年に続いて2度目の体験。血しぶき(私はノーサンキュー)は極僅か。紅日女史の嗜虐性をくすぐるキャラが残酷物語プロパー劇団の支えである(言うまでも無いが)と感じ入る。他の嗜虐アイドル(M系だったりS系だったり)にもスポットが当り、不快な幻想空間は孤から群像への昇華を遂げて「程よい刺激」により生命を覚醒させる場となっている。その需要のありかを感覚し、思いを廻らす時間であった。
コタン虐殺
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2020/02/01 (土) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
久々の詩森ろば戯曲舞台をスズナリで(敵陣に乗り込む構えで?)観た。力作であった。流山児氏の立ち姿も久々に拝んだ。密かに期待していた音楽・鈴木光介は生演奏でフル活躍(ペットを使えるのは大きい..)、劇との見事な絡みを堪能した。
キャバレーすすきのの支配人(流山児)とレディ達による2度挟まれるレクチュア・・「アイヌについて」「アイヌの世界観について」もリズミカルで小気味良く内容も的確。
舞台ではアイヌの二つの部族が同族意識を分断されていく様を明確に描き出す。「和を尊ぶ」正直なアイヌの真のリーダー像と、嘘と策謀にまみれた倭人(松前藩)の権力者との見事な対照が、残酷な悲劇を敗北者側の視線に徹して描いた事で鮮明に浮かび上がった。会場には意外に若者も多く、いたいけなアイヌ娘の悲恋の逸話が涙を誘っていた。
真正直な男を演じれば一品の俳優・杉木氏による(私としては「4cm」以来の)面目躍如たるシャクシャインが、敗北を前にしてさえその吐く言葉がヤセ我慢や高揚感の言わせた台詞でない、と信じさせた事が勝利である。
おんにょろ盛衰記
糸あやつり人形「一糸座」
座・高円寺1(東京都)
2020/02/05 (水) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
演出家としての名前はよく聞いていた川口氏の本格舞台を初めて鑑賞。上手花道に謡い方と太棹の弾き手が二名ずつ、下手側には敷物の上に太鼓と鳴り物の演奏者。おんにょろ役に元唐組俳優丸山厚人、他は黒衣裳で人形を操る。途中、京劇あり、大蛇のうねりの舞いあり。伊藤雅子の装置の特筆は舞台下手上方に吊られた、うねる曲線で切り取られた大きな板。背後の黒にくっきり浮かんでいる。照明の当りで見え方が変わるが、後半、村人が喋くる場面でふと、板の輪郭が裏返し、周囲の黒部分が山、境界が稜線に見えた。
「おんにょろ」は以前戯曲を読んだが舞台は初めて。糸操り人形劇である事、語りや音曲の使用により、民話的世界がうまく舞台化されていた。
沖縄世 うちなーゆ
トム・プロジェクト
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2020/01/25 (土) ~ 2020/02/02 (日)公演終了
満足度★★★★
古川健氏の新作戯曲を久々に。青年座、昴、文学座、「斜交」と、評判の聞こえた書下し作品はいずれも見逃したが、今作はテーマが沖縄という事で足を運んだ。
手堅い印象のある小笠原響によるタイトな演出であったが、難点を先に言えば演技面で人物に入りづらさを覚えた。作品へのこだわりと制作(集客)面と、バランスを考えつつのキャスティングも悩む事だろう。
歌い手・島田歌穂が一つの目玉ではあったが(といっても披露されるのは島唄を鼻歌程度)、技を持つ俳優ゆえか、それとも演出か、技巧的・作為的演技は魅せるが、その時その人物に「なっている」のでなく「見せている」、役と役者との距離を感じる箇所が気になる。意図明確な場面での作り方は流れるようだが、最後は人物そのもの、そこに確かに誰それが居る・・その確信に勝る娯楽はない(と最近どこかで書いたが)という意味で、主要人物だけにもう一歩深い彫りが欲しかった。それは他の俳優にも散見されたのだが、古川健の大人しめの台詞運びが「書き切れていない」のか、台詞の背後を「読み切れていない」のか場面処理の問題かか・・勿体無い感があった。
この作品の命は、瀬長亀次郎(沖縄戦後史で最も著名な政治家)をモデルにした島袋亀次郎が、沖縄人民に向かって語り掛ける言葉である。島袋役の下條アトムが、彼が人心を掴み、鼓舞し続けた演説を生の声にした。この芝居の要はこれに尽きると言って過言でない。
ドラマの構造は圧政に屈せず道理を訴えていく勇気を鼓舞するこの演説の、背景としての人々の暮らしがあり、その事がまた演説に反映されていく関係にある。願わくは平場のエピソードが、「人々の暮らし」として普遍性をもって見えて来たかった(彼に繋がる人らの逸話は史実がモデルなのだろうけれど)。
見終えて思うのは、「大和」の罪の裏返しとも言える土地であり、一つのテーマでもある「沖縄」を語る難しさ、そして大事さ(無論ヤマトンチュにとっても)。東演「琉球の風」(中津留章仁)、文化座「命どぅ宝」(杉浦久幸)、そして今作。もっともっと語られたい。
苺と泡沫と二人のスーベニア
ものづくり計画
上野ストアハウス(東京都)
2020/02/05 (水) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
ものづくり計画初観劇。知人が過去作に出演していた事を知り親近感UP、また再演を重ねた前回公演の評判も記憶に。今回はレギュラー作演出でなく、勝又悠氏という映画畑の作・演出二度目の公演であるが、上野ストアハウスは冒険に相応しい劇場。
演劇とは興味深いもの。不思議な感覚の中で興味深く舞台上の「現象」を目で追った。
クリシェ
ティーファクトリー
あうるすぽっと(東京都)
2020/01/29 (水) ~ 2020/02/02 (日)公演終了
満足度★★★★
パフォーマーとしての川村毅は新人戯曲賞審査会で垣間見ていた。「やり手」であった(審査員や司会としてだが..何しろ声が通る)。その川村氏が昨年の審査会に姿を見せなかった。昨秋の劇団公演あたりからどこか孤独な勝負師のオーラを出していたが(個人の印象)、どうやら劇作家協会からも撤退したらしい(恐らく)。
組織に居る事の安定と窮屈さから抜け出たのだとしたら、やはり真っ向勝負を始めたという事ではないか・・。等というのはゴシップ並の憶測であった(失礼)。だがそんな想像と今回の「クリシェ」は妙に馴染んだので、ゲテモノ見たさに足を運んだ。
劇場へ走ったが冒頭を見逃し、語り手役の男が導入で語った情報がどこまでであったか・・老いた元女優姉妹が住まう邸内の状況が、見終えた時点で悔しくもスッキリ解明できず、未消化(いつか戯曲を立ち読みするつもり...コラ)。
だがそれをおいても、過去の栄光に浸り、今がその時であると倒錯し、周囲を巻き添えにして生きる・・その姿そのものを「こわい」と思うのは何故か。自分がそうなりたくない(だがなるかも知れない)醜さへの恐怖。守りたいものなど無い、と思っている者でも、恐怖映画を見て恐怖をおぼえるのは、やはり何かを守ろうと構えているから。恐怖はだから、己が美的感性、願望を指し示している。そして勿論、そこには差別の根源がある。
ナルシスティックな悲劇的な叫びを観客が受け止めるのでなく、グロテスクの様相に観客が叫びを上げる。最大のガス抜き。もっとも今作は謎解きの順当な道筋をたどる折り目正しいお話のようで。
グランギニョル、という見知らぬジャンルを観たく一時期焦がれたものだが、今作がそれだとしたら想像と違った。BGMに阿鼻叫喚の声、人が死にまくる、血を浴びて快感!・・そういう劇団既にあるが、これは何だろう。破壊願望か。ふと思い出したのは、小学生の頃、お化け屋敷に憧れ、住みたいと思った。怖いものと同化したい欲求・・少年期特有のもの? 性的な領域とどこか繋がっていた気も。。
人が人でない存在によって不可避に苛まれる状況が、人を「生」へと駆り立てる・・その力を求めていたのかも。
一体何の話だ。
まじめが肝心
文化庁・日本劇団協議会
恵比寿・エコー劇場(東京都)
2020/01/24 (金) ~ 2020/01/30 (木)公演終了
満足度★★★★
たまにはエコー劇場で気の利いた喜劇を、と足を運んだ。かのオスカー・ワイルドが書いた18世紀の戯曲だったとは観劇後に知った。階級意識丸出しの婦人の台詞や牧師の登場など古めかしさが漂うが、作り込まない美術や人物の按配に現代感覚がある。演出・大澤氏は「翻案」とあった。
人の取り違えから大騒動に発展する喜劇では双子(又は兄弟)、あるいは瓜二つの人間という設定が常套だが、この話は架空の「弟」アーネストという存在が(居ないながら)中心となる。前半は伏線のための平常なやり取り、それが後半一挙に立ち、ドタバタとスピーディに喜劇が展開する。最も深刻なはずのエピソードの伏線が、ついでの如くサラリと回収され、最後を締めて大団円。
青春の門ー放浪篇
桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>
桜美林大学・町田キャンパス 徳望館小劇場(東京都)
2020/01/25 (土) ~ 2020/02/02 (日)公演終了
満足度★★★★★
鐘下OPALで忘れ難いのは「汚れつちまつた悲しみに」。その後も蛇口の水滴が時を刻むヴァイオレントな鐘下舞台を桜美林で観てきたが今回はその衝撃に近い。同演目は以前虚構の劇団による千葉哲也演出版を(確か雑遊で)観たが、彼らも若かったが現役学生、即ち登場人物である学生劇団メンバーと同年代である俳優らの存在感が数段優っていた、というより彼らそのものである。その分年齢の遠い役では苦戦していたが。だがその高い壁に向い、がむしゃらに食らいつく姿がある意味作品中の彼らに重なる訳でもある。
入場すると茶系の時代がかった柱や台、周囲に眼を向けるとやはり赤茶けたトタン板が張り巡らされ、塗装が剥げて焦茶の地肌が覗く鉄骨が劇場全体、天井にまで渡されて居る。ふと何処かの倉庫劇場かと違和感なく客席で場に馴染みそうになるが、いやいや全て設え物(のはず)である。両面客席が棚田のように組まれ、奥が闇に消えている。劇場の隅々まで舞台の時空を行き渡らせたい学生らの?ひたむきな心を想像する。
威しの音響が若者向け、ライブハウスで大音量に身を任せた昔を思い出す。かと思えば遠くで唄う声など繊細な仕事は、プロの手触り。随所に演出的趣向があるが、何よりイノセントを旨とする(巧まない)若い俳優らあって初めて効奏するもので、補助というよりハードルである。
自由の境域の先へ踏み出す危険と快楽がそこにあった「良き」時代、男前の作者の「出来すぎた」青春の日々を如何に憧憬しようとも絵に描いた何とかの部類、以前は決して自分の人生とシンクロしない話なのであったが、ここ桜美林徳望館劇場で展開するのはその炭坑出身の学生が主人公ゆえのカタルシスがトタンに囲まれた箱の中に反響し、、恐らく自分がその位置にあるだろう周囲の者共の中に突き刺さり、観客も彼の挙動に完全に同期する。
全員が孤高であり一まとまりに出来ない痛々しい「個」でなければ真の群像とはなり得ない事を感動とともにかみしめた。