ミセス・クライン Mrs KLEIN 公演情報 風姿花伝プロデュース「ミセス・クライン Mrs KLEIN」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    今年もやってきた風姿花伝プロデュース公演、ほぼレギュラー上村聡演出の海外戯曲だ。フロイトの弟子世代に当たる実在した精神分析医を描いた戯曲で、実在した人物をやるのは今回初めてだと演出は強調していたが、「勝手が違う」感が大きかったのだろうか。
    精神分析研究者として一定の地位にあるクライン(那須佐代子)、やはり研究者であるその娘メリッタ(伊勢佳世)、クラインに論文整理を依頼された若い研究者ポーラ(占部房子)。三人が、彼女らの研究対象である精神(=人間存在そのもの)のあり方を巡って厳しく対立し、言葉を応酬する台詞劇だが、軸は母娘の確執である(フロイトの薫陶を受けたクラインに対し、娘は異なる立場を取ったとは史実)。
    さて舞台は古い調度と書籍で埋まった研究者のそれらしい部屋(美術:乗峯雅寛)。このプライベートな場所に、ほぼ初対面のポーラを呼び入れた理由を説明するクラインの口は立て板に水、またその口は先頃聞かされた息子の死にもさらりと言及し、「今感傷に浸る暇はない」と深入りしないながら部屋の隅に置かれた息子の子供時代の玩具に手を伸ばして、クラインの職業人の顔と家庭人の顔が序盤で足早に紹介される。インテリらしい、一捻りも二捻りもある台詞が場のテンションを維持し、謎掛けと謎解きのリズムが作られている。

    しかし、、この芝居は優れた台詞劇として、台詞が導く芝居ではあるが、台詞の方向付けは演技によって違ってくる面がある。台詞を追いながら同時に、質の違う三女優の演技と交流の仕方も追って行った結果、終演の暗転の時、この劇が目指そうとした目的地は今見て来たものとは違うのではないか、という感覚に襲われた。
    その事の前に、久々に拝めた伊勢佳世はその非常に得意とする役柄とは離れていて、役作りに苦慮していると見受けた。母との対決場面や激情に見舞われる場面では「全力投入」してしまい、単色な大声が上滑りして見えた。インテリの役であれば尚更、内からどうしようもなく湧き出る感情と、自分を客観視する=律する視線(役者の目でもある)との引っ張り合いがあるだろう(そこが「役者冥利に尽きる」ポイント?)、そこを掴み損ねて見え大変勿体なく感じた。

    それはそれとして先の疑問点。歴史上の人物で母娘の対立も史実に基づくが、作者は母娘の積年の葛藤を、いずれは融けて行くもの(精神分析もそのためにあるもの)として、美しい物語として描こうとしたのだろうか? 母クラインが娘に語る言葉は一見冷たいが、それは「互いが別人格である以上どうしようもないのだ、それでも自分は肉親として娘の自立を切望しているのだ」、と終盤母は畳み掛けるように言う。その前段として、母が否定する学者への娘の傾倒があるが、何が母の逆鱗に触れているのか、若い頃親しい仲だったりして相手のことが判っているのか、それとは逆にクラインの「偏り」が示されているのか、台詞情報だけでは判らない。
    また、娘が母の逆を行こうとするのは母への当て付けが理由(あるいは本人も気づかない「無意識」領域?)なのか、それとも母が薫陶を受けたフロイトの時代ではもはやなくなりつつあり、娘は新潮流に傾倒しているに過ぎないのか・・。不明であるがために視点が定まらない部分が大きく開いた感は否めなかった。

    ただ伝わって来たのは、如何なる精神状態にあっても決して私情を研究(科学)に持ち込まない節度を堅守するクラインの態度。学説の主張や診断に厳しく求められる「根拠」について「科学者の誠実」が、クラインの姿勢に貫かれていること。
    娘や息子も診断の対象とした彼女は、そこに真実を見ている。自らも虐待を受けて育った彼女が息子らを十分に愛せなかった事は自明であり、直視するしかない単なる事実としてあり、彼女は自分にできる事をやるしかないと割り切っている事を言葉で表明する。一方、娘は屈折した感情を表明し続けている(ように見える)。占部房子演じるシングルマザーの研究者は行き係り上この屋敷に滞在しながら時々彼女の仕方で介入し、距離を置きながらも他人事にも思えない風で見ているが、どちらかと言えば娘の側に共感を寄せている。
    凡そそのような構図だが、物語の軸である娘の母への反発の、質というか度合いというか、研究への影響の仕方というかが、見えづらかったのはやはり演技の齟齬だろうか。
    息子の死の真相を書いた娘メリッタからの手紙を、母クラインは(自分が「鬱」を悪化させないか懸念して)読まない選択をするが、結局口頭で伝えられる。一方占部は気になって現地に電話して真相?を聞き出してクラインに告げるというシーンもあり、観客の興味を引っ張るものの、それが本筋に与える影響も見えづらい。
    脚本の説明不足も若干気になる所があったが、私の感じでは、クラインが臨床で探究したフロイトの精神分析学と、これに異を唱えた娘(が師事した学者)との知見の対立を、もっと具体的に理解したかった。戯曲にそれが書き込まれていなかったとすれば、今回の舞台の着地は致し方なかったという事だろう。

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    2020/12/27 06:00

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