満足度★★★★
流山児絡みでシライケイタ演出の韓国戯曲上演、という括りでは確かに「第三弾」となる。「代代孫孫」「満州戦線」(以上パク・グニョン作)に続く本作は実際にあった尊属殺事件を題材に書かれた戯曲(コ・ヨノク作)。解説を読むまでは、「殺人事件」にまつわる劇だとはっきりとは判らなかった。私の印象は、主人公である少年の閉塞、その原因かも知れない家族、そして作家的想像は家庭内殺人に及び、少年の心象風景から韓国社会の深層イメージが浮かび上がる・・みたいな。
芝居には恐らく死者である父母と、三人の「客」が登場する。寺十吾演じる主人公の少年がこの世ならざる存在と会話を交わす風景は、彼の内面世界、または彼の前に現われた幻と解釈するよう促している、それは判る。唯一彼が現実と交わるのは、中学校で引っ込み思案な彼が何故か告白してしまった行動力のあるKY女子(良い意味での)。彼女に対しては彼の好意がいかに本物であるかを大人ばりに的確に言語化し(ここは恐らく幻影でなく現実)、彼女との最上の場面が作られるだに、自分が抱える歪み(ここでは既に罪を犯した事によるものと思われる)を彼女に知られる訳に行かないと少年は強く思う。そして「向き合うべき問題」のある家に向かう。そこで、死んだ父母とよりよく対面し、問題を解決するために、彼は外で出会った三人の「客たち」を招き入れる、という筋になっているようだ。
洪明花(みょんふぁ)の翻訳は(役者としての戯曲理解はともかく)判りやすく言語化されていたと思う。が、舞台として客たち(ある名物ホームレス、猫、銅像)が果たしている戯曲上の役割、少年にとって何なのかは判りづらい。(招くに事欠いて・・という含みなのか。。)
回想に当たるリアルな場面が、最も現実離れした残酷な家庭内ネグレクトの描写になる。父母が何故そうするのか、、相互依存的な夫婦喧嘩の末にお互いが自分の不幸を確認しそれぞれ自分を慰撫するべく終息するという、何度も繰り返されたシーンの最後にはいつも「放置された子供」が残る。
母は息子を可愛がりもしたと証言し、「悪い事ばかりでなく良い事も思い出してよ」と訴えるが、作者は虐待の実態を「子供がどう感じたか」と「子供が理解できなかった親の事情」の相反する二面問題をどう整理し、劇の前提に据えたのか・・先日の「ミセス・クライン」ではないが、「程度問題」という言葉でうやむやになりがちなこの部分が本作ではどう扱われたかが明確には見えてこない。
とすれば、焦点は、少年の内面世界が少なくともどうあったか、タイトルが示唆するテーマに向かう訳である。だが名物ホームレス、猫、銅像それぞれが少年に何をもたらしたのかがよく判らないのである。
相当程度難解で象徴的表現に傾いた戯曲である事は押さえた上で、しかし何処か足りなさを覚えた観劇であった。