満足度★★★
風姿花伝の舞台に黒(濃緑?)を基調とした物の配置を見て、バランスが良いなと思う。演出(主宰)は美大卒だったと思い出した。冒頭、期待感を高めるムーブがあり(照明も見事)、「半神」上演のためのオーディション風景から、物語に入って行く。30代~アラフォーが中心だろうか、身体性を要求する作品/演出にレスポンスできる役者達のようだ。
さて、「半神」の世界はやはり面白かった。体の一部が繋がった姉妹。知能は高いが醜い姉は、知能が低く美しい妹と違って可愛がられず、妹の世話を引き受けて日々を送っていたが、ある日医師から二人の内一人しか生き残れない時期を迎えたと告げられる。手術を受けるにあたり、父母は「どちらを生かすか」に悩んだ末・・。
生き残ったのは容姿と性格の愛らしかった妹、だが脳みその中は頭脳明晰だが容姿と性格が醜かった姉であり、姉が妹の身体を占領した格好。この後の展開は説明不能、ただ姉の人格的な変化があり、最後にある種の統合がもたらされ、一応のハッピーエンディングに到達する(喜ばしいそれだったか悲しげなそれだったか忘れた)。
さてこれから苦言に入る。この舞台、ある程度のクオリティを遂げていたと思うのだが、ある決定的な誤算(私に対しては)をしていた故にかなり渋い評価となってしまった。
問題は「内輪ウケ」を多用し過ぎであった事。求心力を確認するように、あるいは求心力が「ある」と既成事実化するため、一定の実力ある演出家の舞台、又は実力ある役者が使う場合に許される事はあるだろう。「ちょっとこれ笑っちゃうよな(俳優自身として)」と、素の笑いを挿入する技は、突発的な事態に機転を利かせた振舞いに「素」が混じるか、そう見えるように完璧に演じるか、多くの場合「その人自身」が人の耳目を集めるような人気役者がやる類だろう。何か勘違いしているのか、それとも演出の指示なのか(多分そうだろうと推測)、「素」の空気を挿入して観客を「味方にする」(事を強要する)技を結構やって来るんである。
この「技」?を初めて観たのは20年前、石橋蓮司と柄本明がやった「ゴドー」であったが、確か序盤あたり、相手の出方を見て間合いを図るのに「待ち」が生じるその瞬間に「あれ?来ないの?」的な疑問の目を相手に向け、相手はその意味を探り察知するかどうかする、そんな具合にして「素」の瞬間が生まれる。柄本明も石橋蓮司も銀幕かテレビの向こうの人であった自分には、殆ど何の感興もなかったが、会場はクスクスと笑っていた。彼らでさえその程度である(この間合いは舞台に「テキトー」を持ち込みたい志向の柄本氏が仕掛けたのだろうと今は推測)。今回の出演者は多少は認められた円熟役者なのだろうけれど、広く言えば「無名」と言って誤りでない役者達の舞台で多用され、ある一線を超えると、申し訳ないがもうこれは興ざめの嵐なのである。
野田秀樹もこういうの好きそうだ。NODAMAPでの技を、野田カンパニーのレギュラーであった若手女流演出はやろうとしてるな~と見ていたが、「作り方」は巧くてもドラマにとって必須ではない。「それ無し」で魅せる舞台を作れないから反則技を使うのか?恐らくそういう訳ではないだろうに勿体ない事である。
一箇所「おっ」と思ったのは、野田氏の引用だろうか、稽古風景を模した場面(「半神」を劇中劇に置く形にしている)で役者に「批評性が無いぞ!」とダメ出しが飛び、「批評性とは自分を見るもう一人の自分がいるという事」と説明されるシーンがある。
役者が「役」の人格と「素(自分)」の人格を行き来できる事は有批評性の証明である。これは「息苦しい」「わざとらしい」、従って「嘘っぽい」無防備な演劇に対するアンチという意味では、有効な面があると思う(新劇・アングラの2領域へのアンチで演劇界の路を開いた野田氏や平田オリザの小演劇の立ち位置をよく表す)。
だが「笑い」をもらうための多用はその意味を超えた過剰=不要であって「不要」は削いだ方が良いと思う。笑っていた客はコアな客か、「既成事実化」された空気を信じた、又は乗っかった客か、判らないが、どちらも「内輪」な現象であるのは(石橋と柄本も同様)変わりない。ドラマ上の笑いでない素の笑いは、本来禁じ手、ドーピングだ。ちょっとしつこいか。