ピーター&ザ・スターキャッチャー 公演情報 新国立劇場「ピーター&ザ・スターキャッチャー」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ノゾエ征爾ワールドを久々に思い出した。今回は海外戯曲の演出だが、新国立劇場<らしからぬ>秀逸な舞台を観たぞ、と心でニヤけっ放しであった。物語が終盤を迎えるまでは。
    氏が松尾スズキを師と仰ぐ演劇人である理由が分かり、物語の進行と停滞(戯れ)のバランスと変則表現の挿入が、絶妙なテンポを作り、それを担う役者連、中でも宮崎吐夢が大人計画流の飛躍力(演技の)を発揮。あとは物語がどこに収まるのか、という一点へ、集約されて来る訳であった。

    本作はピーターパンのスピンオフ作品の趣きで、ピーターが「パン」という姓が与えられる前、つまり時空を超越した存在となる前、普通の少年だった頃の冒険譚だ。
    元々小説があり劇化した2012年トニー賞受賞とのこと。巡り合わせで船倉で旅する事になる孤児3人組と、同じ船に乗り合わせた貿易商の娘モリーが出会い、スターキャッチャーと言われる呪術的な力のある何か、それと関連のある大きなトランク(モリ―の父が娘に託し自分は別の船に乗った)の運搬を使命と請け負い、困難を乗り越えて行く冒険物語は単純に楽しい。

    だが物語の終盤、ピーターがピーター・パンとなる経緯があって、最後に「別れ」が訪れる。ここで芝居のトーンが変り、腰砕けに感じられたのは、そこにいたるまで私が「勘違い」しながら芝居を見ていたのか、それとも戯曲の問題か、ノゾエ演出の問題か(戯曲の問題を知りつつ客を勘違いさせ最後まで引っ張った?)。。
    もう既に記憶が薄れているが、中盤~終盤の展開は次のような塩梅だ。
    少年らが乗った船も少女の父が乗った船も海賊にジャックされるが、2つの船が衝突し、沈没するというので皆逃げ出し、少年少女もそれぞれに島に流れ着く。二少年+少女より能力が抜きん出ているピーターはトランクを周到に上陸させ、追っ手から守るために山に隠す。皆はそれを聞いて喜ぶが、海賊という敵の他、この島の部族という障害も出現。「出し物」を披露して満足させなければ殺されて食べられる的なくだりもあるが、結果的に窮地を脱し、滞在を許される。
    さて問題は少女が父から受けていた指示には、トランクを海辺に運び、そこでフタを開ける事とあった。もう一山、大人との攻防がある訳だが結局敵に見つかり、人質を取られトランクを渡す羽目になる。
    ちょっと脇道。舞台で増産されていた笑える場面の一つが、中盤ピーターの心意気にモリーが感動して思わずキスをする。ただしモリーがピーターへと歩み寄り、接近する直前にさっとサランラップを取り出して遮蔽した上で行なう方式。
    少し時間を遡るが船の大破後、ピーターはトランクを運ぶ途中である人物と出会い、禅問答のような対話の後、いつしか異次元世界に迷い込む。「スターキャッチャー」という超越的な力を持つ物質?について語られ、その人物からピーターは「課題」を渡される。
    海岸の場面に戻る。海賊がトランクを開ける場面。すると中には「空っぽ」が入っていた。モリーの父の口から出た「スターキャッチャー」のワードで謎の人物の事を思い出したピーターがそれを話すと、事情を悟ったモリーの父曰く、トランクの中身は正にそのスターキャッチャーであった、ピーターは海に溶け出たスターキャッチャーが導く世界に入ったのだろう。だが・・するとピーターは(謎の人物が仄めかした)時間を超越した存在となるための洗礼を受けてしまった事になる・・。
    事情はともあれピーターとの永遠の別れを悟ったモリーは、自分とピーターとの関係を語ろうと言葉を紡いで行く。この言葉が我々とピーターパン、即ち有限な人間と超越的存在が結び合うイメージを提供する。モリーはピーターとの語り合いの時間を終えると、近づき、今度はアクリルボード越しにキスをする(無論これもウケていた)。
    芝居の方は皆が去り、ピーターパンが残され、最後は何か象徴的な形状が残像となる暗転、という〆めであったが、このラストが非常に勿体なく、それまで膨らんでいた風船がショボショボと皺になって終わった、というのが私の偽らざる印象。

    不満の源は戯曲の台詞か、演出法か、分からないが、ちょっと考えてみる。
    ・・ピーターパンという存在は、永遠に少年であり続ける存在であり、子供(の心を持つ人間)にしか見えない。「成長」して行く者にとっては、この存在は羨ましくもあるが、むしろ悲しい存在。孤独という文字が浮かぶ。ただ、彼は煉獄に繋がれている訳でなく、止まった時間の中で子供を生きているに過ぎない。
    モリーは好き合ったピーターと本当は一緒に成長し、時間を共有して行きたかった。だがそれが叶わないなら、ピーターに会えるのは将来の自分の子供、そして次はその子供たちだ・・そんな具合に自分(と今のピーター)を納得させる言葉をモリーは拾って紡ぐ。
    この場面は世俗に生きる者の側が、出家して行く人間と別れを惜しむのに似ている。ピーターは確か一言だけ、「いやだ」と言うが、それはモリーと別れたくないという意味だったのか、皆(が住む世界)と別れるのがいやなのか、自分が何者になっていくのか分からない不安か、それとも子供が一面では「成長」を目指し、背伸びもして生きていくのと全く逆のベクトル「成長しない」時間を強いられるとはっきり悟って「いやだ」と言ったのか・・。
    ピーターパンの前日譚として、観客は芝居を観ているから「あのピーターパン」に繋がる話というだけで演劇が果たす「統合」は遂げている、のだが、そもピーターパンとは?という作り手の解釈が、最終場面には反映すると思える。
    「不満」の理由がなかなか言葉にしづらいが、「変わらないもの」を巡っての何か、という気がしているので、ネタバレにてまたいずれ。(多分書くと思うが放ったらかしかも)

    ネタバレBOX

    ↑ 読み返すと何か物を言いたげだが「不満」の正体に触れてもいない。・・確かに何か非常に惜しいという思いはあったのだが時間を置いてクリアになる所か記憶が薄れてしまった。
    この時考えていたのは確か、ノゾエ演出の現代的感性が「演劇で解決しない」事を志向させている、例えば最後を盛り上げて終わる(解決する)事を選択しない、彼の持つ流儀がここで貫かれたのでは、といった事だったが言い得ていない気もする。(ここまでにしておく。)

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    2020/12/28 00:17

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