「空  踵の下の」 公演情報 KARAS「「空 踵の下の」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    日程が半減した影響だろうが、客席はほぼ埋まっていたのに驚いた。「緊急事態」がなんぼじゃと天邪鬼に出向いた自分はガランとしたアパラタス(会場)を確信していたのだった。
    佐藤利穂子のソロであったが、照明を勅使川原氏がライブでオペしているように見える瞬間が何度かあり、update dance初日の「探り」の雰囲気を微かに感じた所である。で、原作の無いダンスの創作を二人が何をよすがに、あるいは起点に据えてスタートしたかは判らないし、ある種の時代の空気であったり、まあそのあたりだろうな、と推量しながら鑑賞したが、見えて来るのは佐藤利穂子の身体(舞踊機械としての)の機能・性能・癖、動きの法則性であったりする。身体言語の体系を見ようとする目になる。身体言語を使った表現する「対象」を見ようとはするが、結局は身体言語の文法を見つけようとしている自分がいる。あるいは「美」を見出そうとしていたかも知れぬ。だが見えてくるのは固有の身体のありよう、という事だったか。
    カラスでは舞踊と、音楽(音)の両輪になる。装置はなく照明も複雑でないので最も雄弁に観客に手を伸ばしてくるのは身体(踊り)と音楽だ。今回冒頭と最後に味わいのあるピアノ曲を置き、その間に合唱曲がエンドレスに繰り返されるものだった。アフターの解説ではロシアの歌曲との事だが、グレゴリオのようにアカペラで聖歌の響きがある。これは昨年の『銀河鉄道の夜』(見そびれた舞台!)に用いられた曲であり、勅使川原氏はカンパネルラとジョバンニの「繋がり」の在り方をモチーフとしたかったと述べたが、音を気にする自分としては、同じ曲がループされるように巧く繋いだのは良いとして、これが一つの曲として聞かれる限界があり、今回はその時間を超えていた(私にとっては)。ループは地獄、又は狂気をイメージさせる。勅使川原氏がそれを狙った事は考えられず、だとすれば、そのように感覚する私のような客を想定しなかったというより佐藤女史の舞踊の着地を待ったという事なのだろう(タイミングでピアノ曲がフェードインし、合唱曲がフェードアウトする)。
    私がループの狂気を感じ始めた後半は、私が踊り手の動きからストーリー性でなく広い意味でのリフレイン、停滞を感じたのかも知れない。このMで踊るのは中々大変ではないか。1時間弱、踊り続ける体力は想像外だが、瞬間瞬間0.1秒単位で推移する「現象」が持つエネルギーは、恐らく感じ取っている。これに言語を与える事に終演後の勅使川原氏のトークがなったかどうかは別として、今のこの状況(コロナそのものではなくコロナに不随するもの、と私は読み取った)に耐える日々の中で、光明を見出そうというエールは心にしみた。

    0

    2021/01/16 00:50

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大