満足度★★★★★
別倉庫に移ったすみだパークスタジオ倉にて千秋楽を拝見。新しい劇場は一見ほぼ前と同じだが天井はやや高め、ステージの奥行きも深い。横幅がやや狭く見えたのは錯覚か。案内された最上段からの俯瞰は中々気持ちが良かった。
毎度お馴染みの九州のどこかの山村のお話。それでも毎度新鮮であるのは台詞の巧さ、役者の巧さ。特徴的な人物、独自の世界観。今回は神業師という世襲制でない(修行による)存在がそれで、議決機関に当たる七人衆の話し合いでも最終決定権は神業師にあるのだが、独特なのは神業師になる人材は一度村を出たが落ちぶれて出戻った者や、傷を抱えた者。ちょうど俗世を逃れ仏門に入るのに近い。
この劇団に以前より感じている事だが、「今」の空気感に鋭く呼応する生き物的な敏感さである。今回はコロナが当然意識されているが、劇団独自の和む前説の工夫や、今まではなかった休憩、「唾を飛ばせない(けどマウスシールドはしない)」等との関わりで言えば、物語時空と素の時空の絶妙で柔軟な往復という役者の技、特にベテラン達がその時々の「物語熱」の濃度調整をピッタリ揃えている風であるのに私は驚いたのだった。
物語中でのコロナの象徴は、この村は吉凶が気に左右されると信じ、め外部の者は結界に当たる台座に厄が抜けるまで座らせ、その口には布を掛けられる。布を取ったり台座を下りようものなら口から不吉が漏れ出るので叱られる。この年、村には赤い花が咲き乱れ、不作に見舞われた(花は形からして彼岸花がモデルで劇中唱えられる朗誦に「曼殊咲く」等とある)。他の地域で「おなら花」と称し匂を発する花が今、不吉の兆候と見られ、花を焼き払う儀式を執り行う決定が為されるが、度々受け入れを打診されていた山民の衆が数名現れ、半ば強引に居座られた後、山民がこの花の球根をこねて饅頭を作る技術(飢饉の時に咲いて人を助ける)を伝え、いずれ来る兆しのある鼠の大群(地嵐だったか地なんとか)には鼠が嫌うこの花が役立つ事も伝え、これを信じる村人とそうでない村人との分裂が起きる。
村全体を食糧不足と不吉(空気)が覆い、不穏に染まる中で、それを中和、ないし風穴を開ける存在が、我々にとっても救いに思える存在として輝く。花を厄災と断じて焼き払いを独断で決行しようとする軍人気質の男(七人衆の一人)とその子分(村の不出来な双子の兄弟)は、少数派にも関わらず村の「不穏」を加速させる(ちょうど自粛警察のように)のに対し、板垣演じる女房のネアカ気質、また彼女らによってどうにか居留が許された山民らの「不吉」に囚われない空気感、特に跳ねっ返りの少女(大手)がKYと行動力の権化で抜けるような爽快感がある。双子の内の一人とこの少女がその相性からカップルとなる恋話もありつつ、村はいよいよ迫った鼠の大群に挑む事となる。
村を出る事になるカップルの瑞々しさや、一致団結し知恵を出し合い、最終的には自己犠牲(恩返し)によって襲撃に対抗した姿は、現実とは真反対の物語である。新型コロナ「対策」においてさえ利権の種にし民をないがしろにする某国の政治、不穏を蒔くだけで知恵の源(情報)を抑制するマスコミ。感動の源は荒廃した現実にある事を思う。