tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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夢の泪

夢の泪

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2024/04/06 (土) ~ 2024/04/29 (月)上演中

実演鑑賞

満足度★★★★★

観た時間が楽しかった(過去形)に止まらない今もひた寄せるものを吐き出すと「おおおおお」とか「ぐぐぅっっ」「んやぁ!」、咆哮にしかならないのを、無理やり「良かった!」「泣いた」「楽しかった」といった語彙に頼るしかなくなるなあ。
それはともかく。。
開幕してより目が探すのは他でも無い我らが桟敷童子の板垣桃子その人で。これが中々見つからない。

ワイルド番地

ワイルド番地

ホチキス

あうるすぽっと(東京都)

2024/04/05 (金) ~ 2024/04/14 (日)公演終了

実演鑑賞

前回の観劇は割と最近ではあったが、二年位?、、と見るとまだ一年前の事。自分(と劇団との距離感)にしてはインターバル短めであったがタイトルに惹かれ観劇。テーマ性、リアリティ、暗喩(皮肉?)そして最近は俳優(の蠱惑的演技)を重視する自分には異世界のホチキスの「見方」が、幾分判った気がした。
近未来(又はあり得ない現代)の設定でのっけからリアルを飛び越えた漫画的キャラ演技で成行きを正当化、ストーリー展開させるが、僅かな隙にリアルを忍ばせる。そこが終極「感動」に繋がるので(無論感動アピールは抑制的だが・・小玉女史の演技がこれを象徴)、やはりリアルは演劇の要であるのには相違ない。
「決闘」する本人のような出立ちの小玉氏は市役所決闘課二課の課長で、「決闘の要望を実現させる」ために奔走する課の課員は生き生きと躍動的。一方の一課は「決闘をさせない=和解に持ち込む」役割を任じており、倦んだ勤務環境をデフォルメしたかのようだが老獪な課長は課長なりのスピリッツがある事が観客の前に表面化し、両課の二項対立は二課の新人社員の「恋」も絡んで物語的に激化し漫画的展開とナンセンスすれすれなゲーム感覚が暴発して行く。
醒めた目では楽しめないリアル外しに思えるが、テーマ性はそこはかと漂ってる感があり、メロウを嫌った終劇で笑いを誘う。
今少し述べたいが後日追記。

あとのさくら

あとのさくら

ここ風

「劇」小劇場(東京都)

2024/03/13 (水) ~ 2024/03/17 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

二度目のここ風。それでも「らしい」芝居だ、と思えるのは、前回観た記憶に引っかかる特徴と、符合する所があるからだろう。関西弁ががっつり登場するのは一つの特徴になる。人情物である事、家族の泣かせる話がある事、など。「確かあれだったっけ」と記憶と資料のページをめくるとタイトルは「チョビ」、幽霊だった、に帰着する「よくある」人情劇(涙の誘発の仕方も古典的)だが構造に工夫があってドライさが勝っていて、後味が良かった。
今回、途中が抜けた(例によって入眠によって)。台本を後で読み返すと、やはり抜けていた。やはり観た感じより、読めば完成度がある。
今回は幽霊でなく、回想が挟まれる構造の劇。三代前が開業して今は休業中だった山村の旅館を再開する前、特別価格のプレ営業に訪れた客四組(五名)と旅館サイドの人間(四名)による、旅館家族の秘密が明かして行く物語。
パズルのピースをはめ込むような脳内作業は大変で、眠気に勝てなくなった。
三代前の回想シーンがあり、二代目たちは不登場。台詞で語られる証言で事実を構成する。

イノセント・ピープル

イノセント・ピープル

CoRich舞台芸術!プロデュース

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2024/03/16 (土) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

納得の舞台。
書いては消え、が続いて嫌気がさしていたが、気を取り直して一言でも。
キャスティングに感心しつつ観た。名を知るのは川田希、森下亮、山口馬木也、阿岐之将一、水野小論、保坂エマ(顔がちゃんと判るのは最初の二三名だけ)という案配で、後方席だった事もあって「あの役者は誰」の照合は難しく(上の二三名以外)、役人物の存在が舞台に充満して行く感覚であった。
畑澤聖悟による脚本は、原爆開発を行なった米国南端のロスアラモスの研究所が舞台。
冒頭はある記念式典のため久々にかつての研究仲間たちが当地に集まり、旧交を温める場面。
ホストファミリーの夫婦は共に当時の研究者であり、進路を探る年齢の二人の子ども(兄妹)もいる。家族まじえての交流の場で、戦争当時を回顧し、現在の情勢への思いを語り合う中、息子が合格通知をもらった優秀な大学を蹴って、海兵隊に志願したいと宣言した事がドラマの起点となる。ベトナム戦争が始まり、大統領の呼びかけに答え、若者は応召して行った。
時は移り、今度は娘が交際相手を両親に紹介しに戻って来る。相手は日本人しかも幼少時に被爆した当事者。反核キャンペーンの米国派遣団に選ばれ、渡米していた。娘は親が研究者であった事から核兵器に対する問題関心が芽生えていたのであり、必然的な出会いであったが、親は反対し、絶縁状態となる。この時既に、息子はベトナム戦争で負傷兵として帰還し、車椅子姿である。
他の元研究仲間には、罪意識を抱えて研究所を去り、一介の高校教師となって教え子と結ばれた者、郷土愛と愛国心に溢れ軍人の道を歩んだ者、二人を両極として、主役に当たるホストファミリーの家長と、あと二人がある(二人の人物的特徴は忘れた。一人は結婚し、一人は独身)。軍人のグレッグは冒頭のパーティに連れていた恋人と結ばれ一粒種が育っていたが、息子も親の思いを受け止め、海兵隊になる。
戦争当時の回想も挟まれる。轟音と火柱を遠くに眺めた彼らが「これで戦争に勝てる!」と沸き立つ中、後に高校教師になるマッケランは「あれを町の上に、落とすのか」と愕然とする。主役に当たるブライアンとジェシカが良い仲となり、会話を交わしている所へ、実験成功についての感想を聞きたく意気揚々と仲間がやって来る・・。回想場面はあくまでも明るい。
時が経ち、老境にある彼らは既にイラク戦争後の世界にいる。マッケランは既に自殺によって亡くなっている。元教え子の夫人が死ぬ前まで苦しんでいた夫の姿を述懐する。
グレッグの息子は出征したが、戦闘によってでなく、肺癌で死んだ。米軍が用いた劣化ウラン弾により被曝した兵士の多くが肺の病で亡くなったが、グレッグは味方がいるのにこんな兵器を使うとは軍人として信じがたいと憤り嘆く。だが核兵器使用を正義と主張し続けた男の言葉は、弱った男の周囲を虚しく巡る。
最終場面、日本からブライアンの娘の夫が訪ねて来る。既に妻のジェシカは亡くなっているが、息子はヘルパーをしていたベロニカへの反発を乗り越え、愛を受け入れている。前の場面ではネイティブ・アメリカン出身のベロニカが居住地にあったウラン鉱の採掘に親族らが駆り出され、病に亡くなった体験を語り、右翼的発言を止めないグレッグに黙らせるシーンがある。
ブライアンは婿であるタカハシからシェリルが亡くなった報告を受け、最後の機会だと家族三人で広島を訪れる。
日本人は皆、白い仮面をつけているが、以前観た舞台でも確かそうであったから演出の発案でなく台本の指定だろう。娘を弔った後、ブライアンはタカハシから紹介された娘の友人たちと対面する。彼らの言葉をタカハシが「●●はこう言っています」と取り次ぎ、父は娘の生きた足跡をこれを聴きながら噛み締めている。その最後、ブライアンは原爆開発に携わり、その結果として多くの人間が亡くなった事、についてどう思うかを問われる。直接的な質問が耳に痛く、会場に響きわたる。
元よりこの質問は無辜の立場から、悪を為した側への一方的なそれとしては成立しない。日本は罪多き戦争を始めた側でもある。従って「戦争を止めるため」が正論として成立する。だが、謀略を巡らして覇権を堅持するため手段を択ばぬ弱肉強食の帝国主義的あり方を脱し、別のステージを選んだのなら、その立場から問いを発する事ができる。一研究者として、科学的真理を追究する営為に、善悪はない・・ブライアンは一貫してその立場を明言し、是非を語らなかったが、娘の生き方はあたかも親の罪を償うために捧げられたかのようであったから、その前に伏し、彼は謝罪の言葉を述べる。何が解決したのか、一抹の疑問が過ぎる。だがその流れで、現われた孫娘と対面し、その頬へ手を伸ばそうとする手前、ブツッとテープが切れる音と共に照明のカットアウト。終演である。
このラストの解釈と感想は様々あるだろう。私の感想はまた時間があれば。

S高原から

S高原から

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2024/04/05 (金) ~ 2024/04/22 (月)上演中

実演鑑賞

満足度★★★★★

青年団で「今的にgood」という意味で評価したのは、いずれも新作の「ニッポン・サポート・センター」「日本文学盛衰史」で、他の旧作再演は興味深くは観たが淡泊さが勝ち、ぐぐっと差し込んで来るものが無かった。
だが今回は(本演目は二度は観ているが)意固地に淡泊、と以前見えた印象がなくなり、実にハマった俳優とその演技が最大の貢献であるが、刺さって来た。何度か観た演目だから、確かこの人はこの先痛い目に遭うのだっけ、とか、先を楽しみに観られた面もあるし、アゴラでの最後(大規模なのは)のステージという事が俳優もそうだろうが自分も喰い気味な眼差しを送っていたかも知れぬ。
が、やはり、「死」と直面している場所である事と、その事実を踏まえての敢えての「意識してなさ」という微妙な線が、微妙に絶妙に出ていたから、と思う。
最も印象的であったのは、「死」に近いだろう存在として、中藤奨演じる福島が、友達三人(内一人が恋人、他二人が別のカップル)の訪問を受けて対応するエピソード。他の訪問者や入院者のエピソードの合間に、観客は断片を眺める事になるが、彼らは散歩から戻った所での会話で、じゃテニスをやろうとなり、福島当人は医者からストップが掛かっているので「見てるよ」と言い、皆が一旦部屋のほうに下がって後の展開。
どうやら当人は眠くなって暫く部屋で寝ちゃってた、と後で分かる。その前に三人組の一人の男が先にラケットを持って降りて来て暫~く滞在し、お喋りに参加するのだが、「見て来る」と絶妙に去る。やがて降りてきた福島と、三人が又喋ってる間、福島はまたソファに横になり、「すぐ行くから」と追いやる。恋人が気にして「寝れば」と告げ、他の二人(カップル)は先に行く、と去る。和田華子演じるその恋人も絶妙な距離感を出す。彼女も去り、その後他の人物が登場したり、最後は医師と連れだった看護師が、ある話の続きを「ここでいいから」と話して聞かせるも呆れられる、というくだりを二人は福島の様子を見ながらやるのだが、まだ起きない福島に部屋で休むようたしなめる。スタッフもこの場所が「死」と隣り合わせである事を一切おくびに出さないよう慣らされているらしい節度で、入院者に対している。その眼差しの奥を、観客は想像するしかない。
相変わらず寝ている福島。先の別のメンバーとの場面でも、話しかけられて返事をせず、寝ていると思わせて肝心な所では「違うぞ」と口を挟む。顔の前で腕を乗せて休んでいて、顔は見えない。
観劇中の居眠りに掛けては人後に落ちぬ自分だが、体内のコンディションによって睡眠量にかかわらず「どうしたって眠くなる」事は、それなりの歳になれば心当たりがある。福島の様子は、「横になる」という控えめな行為によって内臓がそれなりにやられてるだろう事をリアルに告げており、にも関わらず、認知的不協和を嫌う空気感も手伝って、あたかも何も起きていないかのよう。音楽もなければ劇的に不安を煽るような台詞もない。だが・・一つの肉体が滅びようとする時も、多くの人たちの生活の時間は刻まれ、淡々と流れて行く。
他の主なエピソードとして、恋人が訪ねて来たと喜んだのもつかの間、同伴したという友人から別れの通告を代弁された青年の背中が語るダメージも、かつての婚約者の訪問を受けた青年画家の語らない内面と表面的な対応の「大人」感も、味わい深かった。

平田オリザ氏が(恐らくは新劇や過剰なアングラへの「アンチ」として)日常性、現代口語へのこだわりをもって演劇を始めた事を、いつも念頭に青年団を観劇して来たんであるが、いつもそれを裏切って非日常が高揚をもたらす瞬間こそ面白いと感じ、感動を覚えてきた。
さて今後青年団はどういう変遷を辿るのか、未知数だけに楽しみである。

三人姉妹

三人姉妹

ハツビロコウ

小劇場B1(東京都)

2024/04/02 (火) ~ 2024/04/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「ワーニャ伯父さん」に続いてのチェーホフ作品公演。今回は異色であった。というより、ハツビロコウの真骨頂はこれなのか。古典・名作の上演ではテキレジが優れていると感じたのだが、今回の「三人姉妹」は場面の構成、つなぎも含めて大胆な展開であった。特に私にとっては「こんな三人姉妹は初めて」な部分は、チェーホフ作品の厭世観、救いの無さを前面に押し出したようなラスト。軍楽隊の音を聞きながら、不幸と不運にまみれた姉妹らが「それでも生きて行く」意思を確認するような堂々としたラストが、今作では力なく弱々しい、没落し行く人間の等身大の没落ぶりがあった。ただしその事を強調したというよりは、三人力を合わせれば・・と希望がのぞく青春物語のラストを止め、淡々と終わらせる事を選んだようであった。普通ならとうに別れを告げたはずの軍医がまだ居て、最後のニヒリズムな台詞を、長女オーリガの「それが分かったらねえ」の直前に持ってきて、去らせるテキレジである。
私としては、地元の学校長に担ぎ上げられた事でモスクワが夢となった長女、恋する軍人と永遠に別れしょぼくれた夫の元に残された次女、本物の愛の到来を諦め誠実な結婚生活を選んだ矢先に夫が殺された三女。等しく不遇に置かれた事で三人が漸く手を取り合う場面でもあり、劇的なラストなのだが、今舞台はそれを敢えて回避した。
要は、「変えた」所がはっきり見えてしまった。そこがこれまでの古典の舞台化と異なる点(といってもどの程度知っているかで「分かる」かどうかも決まる訳であるが..)。ラストの手前までは出はけを壁際の椅子で処理したのも含めて華麗な捌き方を味わって観ていた。私的には「危うい」挑戦であったが、ハツビロコウの志向がもたらした必然であれば、また前進して頂く他はない。

La Mère 母

La Mère 母

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2024/04/05 (金) ~ 2024/04/29 (月)上演中

実演鑑賞

満足度★★★★

「父」をやった頃は公演情報にも触れなかった(多分現代翻訳劇にさほど食指が動かなかった)が、「息子」は観たくなって岡本父子共演を観た。息子が亡くなったという事実に直面できない父が最終的に死と向き合う話だったか、逆だったか・・実際には分かり合えなかった息子と「出会い直そうとする」父の姿があったと朧げに記憶する。
生活問題・金銭問題を捨象した近代的な室内で、家族の「関係性」のみを描写対象としたドラマであった点に、当時私は限定的な評価をしたように思い出しているが、観劇日はそんな事は一切忘れ、今回のゼレールの家族シリーズ第三作という事と、目玉である俳優・若村麻由美ともう一人いた(舞台上で伊勢佳世だったと確認)を観に行った。
若村氏の役者力炸裂であった。遅く戻った夫を迎える彼女が、認知の障害が危ぶまれるかと思うような応答をする。夫を翻弄するために敢えて演じている(身体をコントロールしている)のではなく、コミュニケーション意欲満々でいながら「そうなってしまう」内的必然性が「ある」と感知させる演技の流れがあり、圧倒され始めるのだが、その序盤はそれを受ける側の夫の当惑を想像して笑ってしまいそうになる。
そこで例によっての話だが、隣に地声の大きな、笑いが声に出る(しかも1テンポ遅れて次の台詞にかぶせて来る)男性がいて、「まじか・・」と自分の不運を嘆きそうになったが、何度目かの笑いのタイミングでため息と同時に姿勢をぐいっと変えるアピールした後は、どうやら自制をして下さった。さすがに入場料の額が札ビラの画像と共に頭をよぎったが・・助かった。
演技モードと照明と、若干の台詞の変化のある同じ場面が、不規則にリプレイされる構成が意味深で、今は何の場面なのか、訝りつつも場面の(日常性豊かな場面でさえ)張り詰めた空気に目が釘付けになっている。現実の場面なのか、彼女の想像なのか、実際の場面の回想(再現)なのか、彼女の記憶の再現なのか、あるいは上書きされた記憶なのか・・。
さほど違いのない(若干のニュアンスの違いはある・・淡泊だったり明るかったり)シーンの繰り返しは、彼女の認知と記憶は正確だが主観が反映されてる、という事が示されてるのか、法則性のある展開のされ方でないから、観る者にとっての拠り所もない。認知症患者の心情を想像した事があるが、自分の認知と記憶がブレている事それ自体に、彼らは不安を覚えている。パーになった訳ではないのだ。それゆえ、とも言えるが感情が増幅したり、逆に無気力(諦め)になったりする。
話は子供が自分の手を離れた寂しさから、不安定になった母の内面のループ化した変化の軌跡のようでもあり、現実での変化のようでもある。
後半になるとエッジの鋭い場面が訪れる。人生の目的を見失った母は、あろう事か息子の彼女をあからさまに敵視し、排斥して息子を自分の物に(まるで恋人のように)しようとするが、これに対しその恋人はあっさりと明るく「自分たちは若くて先が長い。貴方は残り少ない」と母に死刑宣告をする。また明らかに母の妄想だろう、夫とその愛人が妻の前で平気でジャレつつ出発していく場面。すなわち同じ場面の中で両者の認知がズレを起こしている。
だが認知の混沌は、主体が湛える感情の真実性を壊すものではない・・人は理解の壁に対面した苦しみを超えるため、そう信じようとする。感情は嘘がつけず、人はそこに真実の効能でもある信頼と安堵を見出す。
母は自身の人生への嘆きを、心を委ねる者の腕の中で、心を込めて嘆く。その姿を残像に最終暗転、芝居は終わる。

前公演と同様、本作も仏の演出家と装置家により作られた。発語のニュアンスの違いを、場面の変化に反映させ、構築する作業が、異言語によって進められた事に素朴に感心する。作為のない瞬間が一瞬もない精緻に作られた芝居。

とても簡単な物語

とても簡単な物語

Ova9

シアターX(東京都)

2024/04/03 (水) ~ 2024/04/08 (月)公演終了

実演鑑賞

Ova9初観劇。ベテラン新劇女優を軸に好きな作品好きな舞台をやってるユニットといった前評判で、演目はほぼノーチェックだったが、予期せず良品発見となった。作者はウクライナ出身の劇作家で、恐らくはソ連解体は今は昔の世代、しかし島国人の鼻はロシア文化圏の薫りを嗅ぐ。と言ってもロシア、ソ連は演劇大国であり一つの特色で語れないのだろうけれど。第一ソ連時代にはそれがウクライナのものかカザフスタンのものか、アゼルバイジャンのものか等気にもせずにいた。ウクライナが旧ソ連邦のなかでも農業も工業も盛んな地域であった事(それゆえ洗練された文化もあったろう)を知ったのも、ウ露戦争以降のこと。またついでにソ連に対する定評であった所の役人の腐敗に関してはウクライナがその筆頭だったらしいとも耳に入って来たが。
この作品の特徴は、農村のとある農家が舞台である事。さらに家畜(馬、羊、豚、鶏、犬...いや羊はいなかったか記憶が既に朧ろ)が、ごりゆかあさい人間たちをその脳ミソの大きさんなはかむしなりに観察している。つまりは、小賢しい台詞を喋る訳には行かない。台詞を構成する言語は平易で素朴で、難しい修辞は吐けない。
どの地域かに関わらず優れた作品はその事だけで称賛さるべきであり、と同時に作品を通して(とりわけ地域性を帯びた作品を通して)民族と国柄を知る。またそれを通してさらに人間を知る。
そんな作品の一つに出会った今回の舞台。後日追記(予定)。

TIME

TIME

(株)パルコ、朝日新聞社、集英社-T JAPAN

新国立劇場 中劇場(東京都)

2024/03/28 (木) ~ 2024/04/14 (日)公演終了

実演鑑賞

我が音楽脳に小さからぬ刻印を残した存在である故、「最後」ならば観て置こうとこれも迷わずチケット購入した。(見れば割安チケットであったらしい。)Corichに書き込むとは思わなかったが折角なので。
とは言えこの度も、普段の観劇同様チラシの雰囲気に惹かれた。モノクロの静謐に褐色系が微かな熱(情)といった色彩感は先日観た「船を待つ」の大阪バージョンの照明、東京バージョンの音が融合した感じ。過去の二人のワークを精査する事なく漠然と期待を抱えて新国立中劇場の一階席に座った。(実は一階席は初めて)

ネタバレBOX

既に亡くなった坂本龍一の音源を活用したインスタレーション的な何かであろうかと、高谷氏の「本業」も知らず見始めたが、音、照明、映像いずれも精緻に作られ、観客は遠くからその様子が見て取れるよう正確な設えである。トーンを落とした声も、落としたニュアンスのまま、観客の耳に届くな・・と感心しつつ観ていたが、確かこの声は田中泯、と言う事は舞台上に居る胴衣姿の白髪混じりの男は、そうだ確かに。
始まりは客電が点いた時点から流れている、何かを作る工房で金製の何かを投げたチャリッという音や、自然音が心地よく聞こえていて、やがて笙の音が聞こえて来る。それっぽい物を口に当てた巫女風の和衣裳の女性が能に近い速度で横切って行く。やがて男が現われ、荷物から何かを取り出して何か作業をする。悠久の時をさまようイメージの中で、男の「する事」とは当然原初的なのであるが、どうやら目の前に現われた河を渡るため、石や枯木を投げ入れている。舞台中央には7、8メートル四方位だろうか、水が張られた四角形があり、その向こうのワイドスクリーンに映る映像を反射させている。
ギラギラの月

ギラギラの月

プレオム劇

ザ・スズナリ(東京都)

2024/04/03 (水) ~ 2024/04/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

中島淳彦作品と言えば随分昔、春風亭昇太らが出たバンド演奏付きステージを観ただけ(探せばもう一作位あるかも)という程度。今回スズナリでやるというので勇んで出かけて行ったのだが、大当たり。大泉サロンという、女性漫画家版トキワ荘と称される場所(トキワ荘は1950年代、こちらは1970年代前半)を舞台に、当時起きた三億円事件を絡めて漫画家に憧れ目指す女性たちの群像を描く。役名から思い当たったのは萩野素子(萩尾望都)、大山弓枝(大島弓子)、山西恭子(山岸涼子)くらい。中心的存在らしい人物(役名竹本ケイ)は一体誰かと後で調べてみると、竹宮惠子という著名な少女漫画家という。史実的には竹宮と萩尾が同居したのが始まりで、実家の離れを家屋として提供した増山法恵(役名増田典子。同じく漫画家を目指していたが彼女らの才能を見て世話役、助言者に回り、やがてプロデューサーとなる)の三名が中心だったよう。
既に時代遅れと煙たがられていた貸本漫画家と何故か意気投合しておどろおどろしい漫画を描く事になる山西(山岸)は居住者ではなく、実際はサロンに遊びに来ていた人。大山(大島)もガッツリ居住者のメンバーの役だが史実的には接点は無さそうだ。漫画家を夢見て上京して来た若々しい女の子の到着の日が芝居のオープニングとなる。この女子・坂口も恐らくサロンに出入りしていた一人(wiliにも列挙されている。地方の同人誌をやっていた坂田)と思われるが、具体的エピソードを模したものかは不明。他には、マイナー雑誌の編集者の岡島は不明、大手出版社で少女誌の新刊担当として来訪し手厳しく評する編集者・山本は実在したらしい(こちらは男性の山本順也)。残る一人が嵐の夜に逃げ込むようにサロンにやって来た謎の「手塚治子」は三億円事件の犯人?ではなく彼氏が主導する学生運動のマドンナ的存在にまつり上げられ警察から逃れてきた。本名笹塚奈々が名を借りたらしい漫画家はあるが(笹尾那美)エピソードの由来は不詳。だが大まかな背景を眺めた上で作品を想起しても、身勝手なフィクション化には感じられず史実へのリスペクトと漫画家を目指した者たちへの愛情が満ちている。後に竹宮と萩尾は距離を取る事となり、相互に精神的なダメージを負う事になったと「史実」には書かれているが、舞台は青春群像劇として完結し、魅力的な役者の存在感により味わい深い時間であった。

掟

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2024/02/15 (木) ~ 2024/02/25 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

TRASHのここ数回は配信で観ているが、台詞を明快に発する台詞劇で殆ど不足を感じる事がない。
で、今作だが、中津留氏の時として「え、ここでこの台詞?」と人物描写的に厳しい場面のある(それでも力技で捻じ伏せる)作劇が、影をひそめ、地方政治の因習?を抉り出す秀作だった。強いて言えば主役である新市長が反感を買う初動として議会でいびきをかいて寝ている議員がいた、とSNS上でつぶやく、それを受けて議会と協議した会合を「その後の経緯」としてSNS上に挙げた際「恫喝を感じた」とした。これらは場面として描かれ観客はその心証を持っており、「恫喝には見えなかったな。この市長大丈夫か」との印象を持つ。
後のこの市長の態度を「敢えて、挑発している」「議論を喚起しているのだろう」との推測を第三者にさせ、整合を付けているが、最初はポッと出の首長にやらせてみたらマズかったケースを描こうとしているのか、と訝った。
だが通常描かれない地方政治の実態に斬り込むドラマとして成立した。私は現在の日本社会の停滞の本質的な病根がそこにもある、と感じており、溜飲を下げたものの、多くの観客に届いただろうか、という些かの不安も。(つい先ほどJACROWに期待するテーマに地方政治を挙げたばかりだが、中津留氏の題材のチョイスは毎回さすがと感じる。)
特徴的な人物(当選回数の多い議員)を演じてるのは最初よく見えなかったが山本龍二。キャスティングも良かった。

花田少年史

花田少年史

人形劇団ひとみ座

川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)

2024/03/26 (火) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ひとみ座を見始めたきっかけが同じ劇場で観た70周年記念と力の入った「どろろ」。今回も劇団総出の力の入った公演、観るしかないと足を運んだ。
終演後、自分には意外だったのが今回が75周年だった事。つまりひとみ座観劇歴史は5年。えーもっと前かと思った。。やはりコロナ禍が時間感覚にかなり影響している。
作品は所謂「人形劇=子ども対象」の範疇。そこが「どろろ」と大きく違う。題材がこれなのでそうなるかという所ではあるご。。
面白い演出ではあった。いや存分に趣向を凝らしこのコミックのドラマ世界を具現していた。ただ、ドラマの強度が気になった。同じ筋書きで別の色合いは出せた、かも知れないが、脚本かな・・。
冒頭とラストでロック調のテーマソングが
生演奏で披露されるが、この曲は悪くないが、ラストではオープニングにはなかった歌詞、あるいはCメロが欲しかった。カーテンコールで同じ曲のサビ〜ラストを一クサリやったのもお腹一杯であった。音楽監修が入ったらそこは意識してアレンジを施したのではないか、と想像をしてしまう。終わり良ければ、なのである。

正夢

正夢

星歌オムニバスひとりしばい公演

北池袋 新生館シアター(東京都)

2024/03/28 (木) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

頑張っていた。
・・というコメントは一番無粋な類だとは思うが、見たそのままの感想が出た。五名の劇作家のラインナップは目を惹くが、書き下ろしとなると贅沢な反面「出来」も気にかかる。もう一つ別の舞台と散々迷ってこちらを観た。どっちが良かったとは判定できないが、結果的に良かった。北池袋駅周辺の長閑な地区に降り立ってすぐの新生館という空間も駅も初めての場所で、昼下がりに池袋駅方面へ歩く道行きも新鮮で久々に旅気分込みの観劇であった。
演目の方はそれぞれの劇作家らしさのある作品、10〜15分程度の、と当初書いたらしい宣伝文句の中にあったが、前説で115分と案内される(とすると一作15〜20分の勘定)。テーマ設定がない分、この星歌なる若輩のパフォーマーにインスパイアされて書いたと思しい作品が多い。手作り感のある劇場には星を誂えた美術が、最後の演目(柴幸男)に寄せたのかとも思ったが、「星歌」に寄せたのだな。ムシラセ・保坂萌の作はゾンビがいるディストピアな未来に、一人でやってるラジオ放送を聴きながら「読まれる」はがきを書こうと頭を捻る少女の話、笑いを好む作者らしい内容。続くMCR櫻井智也は先頃別れた彼氏の悪態をつきつつ想念から離れない二律背反に悶える女性の話、オノマリコの作品が最もスケール感とスピード感があったのは意外だった。続く鈴江敏郎は友達から聞いて作った物神との対話(自己問答)、柴幸男のは宇宙を旅する者の語り。「他者」が出て来ないほぼ独白は詩の朗読の域で、ラスト2つ抽象的舞台が続いて体力もそろそろで眠気が襲ってしまった。見て判りやすいものが三つ続いた後でもあり、順番的にどうだったかな、と。体力さえあれば終盤に抽象度の高い世界に入るのも悪くはないが・・。
しかし全体として中々なレベルであった。

船を待つ

船を待つ

ミクニヤナイハラプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2024/03/23 (土) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

台詞のある矢内原美邦舞台=ミクニヤナイハラプロジェクトであるが、その特徴でもあった喧噪は影を潜め、登場人物は三人、矢内原女史の舞踊主体の創作ユニットnibrollの音響と照明メンバーがこちらに参入し、芝居と空間演出の贅沢なステージが出来た。大阪公演キャストと二組の上演がある。

大阪公演キャストのバージョンも観た。俳優陣に佐々木ヤス子の名があった事もあるが、映像・照明、音のワークによる「快楽」をもう一度とリピートしたのだったが、大阪バージョンでは映像、音がなかった(フラットになった会場片隅のオペ・ブースは暗く空席であった...)。
途中でそれに気づいて落胆したが、素手で戦う大阪キャストの格闘家振りを見ている内にこれはこれで完結した演出の形と見えても来た。
テキストも東京キャストバージョンに比べて短い。(なおこの日は序盤に言及されるはずのくだりが飛んだと思しく、予定は90分だった所80分程で終わっていた。それが作品性を損ねていた訳ではなかったが。)
モノクロとセピアの二種で構成する絵画のような照明の中で、「人間」が突出している。東京版は異国からの移住者役とその従者的な存在が女性、そこに登場する男、という構図だったのが、従者に当たる存在が男で東京版では「ヘイ!ゴドー」と話し相手をさせられるAIに見えていたが、こちらは同道する者(用心棒的な?)で機械っぽさは出していない。後で現われる男は東京版は十代に屈折した経験を経て何とか逞しく大人になった風で苦労人の様相だったが、こちらは色白で生ッちょろさを感じさせる若い経験浅の風貌。紅一点だ。
東京版はテキストを「足した」のか大阪版は催し用に圧縮したのか・・先日東京版では後半主人公が兄を自死で亡くしたその男に捧げると言って(それまで反目して激しく公論していたのが)詩を読むと言って語り始めるのだが、大阪版はその詩が大変短かった。
東京版で流れた観客を未来へ、あるいは時空を超えた想念の世界に誘う音楽を大阪版ではカセットデッキを持ち込んだ男がプレイを押してノイズだらけの音で流す、という演出、モノクロに時折橙が混じる照明(太陽に言及する際に照らされる)と相似に、無音の中のワンポイント流される音は鮮烈に印象付けられる。
大阪バージョンはミクニヤナイハラプロジェクトの空気感が残る(無音である事と、俳優の台詞が基本激しく強い)。

アンドーラ

アンドーラ

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2024/03/11 (月) ~ 2024/03/26 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

隣国「黒い国」と緊張関係を持つ架空の国アンドーラを舞台とし、ユダヤ人差別を軸に展開する不思議な味わいのドラマだった。文学座のアトリエ公演は濃い。秀逸。

天の秤

天の秤

風雷紡

小劇場 楽園(東京都)

2024/03/29 (金) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々の風雷紡観劇。再演だったとの事。好評ゆえとすれば納得である。冒頭でよど号ハイジャック事件が題材と分かる。透明プラスティックの椅子二台を動かすだけの転換で、場面を淡々と構成。「楽園」の狭い舞台で感情が爆発するとダイレクトに波動を受ける。ハイジャック犯一人の他は、機長、副操縦士、CAのキャップと部下二名、行政官(大臣と政務次官)、キャップの先輩も行政サイドに居る、という人物構成で、事件解決に向かう人物たちの群像だ。乗客がゼロ、ハイジャック犯が一人(ここはやや気になったが)でも、この歴史的事件をうまく現代に浮かび上がらせ、観客に強い関心を持って事件を見据える事を促している。各場面が事態の進行と共に人間模様の簡潔な描写を兼ねて面白い。後半の展開のテンポも良い(程よく間を省いている)。

新ハムレット

新ハムレット

早坂彩 トレモロ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2024/03/22 (金) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

演出の勝ったステージ、という意味では予想の範囲であった。戯曲に対し「揺さぶり」の要素は配役、と言えるか。濃茶に塗った木製の床几、椅子、梯子等を組み合わせ、絡ませた杉山至氏のオブジェ風装置を中央に、劇展開させる。見終えて一等最初に素朴に思った事は、太宰治の「新ハムレット」を知った上で観るのが良いかも、という事だ。(ネットの青空文庫に上っている。)
この作品が、原作ハムレットをどの程度、どんな角度で翻案した作品なのか(またはタイトルを借りた全く違う代物か)を知らずに観ると、途中までは沙翁の「ハムレット」とどう違うのかが分からない。細かな台詞回しはともかく、叔父クローディアスの反応を見て疑惑から確信に至る寸劇をやるのが旅芸人でなくポローニアスら友人だったり、、オフィーリアでなく母が溺れ死んだり、最後の「死」の順序が違う(ここで母が池に身を投げる)等とあるが、もしこれらを広い意味で「演出」の範疇だと説明されたとしても、意図(作り手の欲求)が想像されれば、チケット代返せとまで怒る観客はいないだろう。
ただ、「なぜそう変えたのか」。それは「新ハムレット」を上演する事のエクスキューズでもあるが、そこから演劇の「謎」は始まっており「謎解き」が要請されているとすれば、その問題の深掘りは私の目には見出せず、太宰作の認知された一作品を「かく料理した」にとどまった。
小説「新ハムレット」の序文的な文章で太宰治が「この作品は」と解説を施しており、戯曲の形式を取った一つの小説と思ってほしい、という趣旨を述べている。舞台ではこの部分を「男」が本を片手に読み、やがて本編へと誘うのだが、男が読む間オブジェを覆うシートの中で俳優らが蠢き、「待てない」のか、装置からはみ出して来る、という演出があって、最後は彼らがコート、帽子、靴等を持って来て文豪の衣裳を男にまとわせ、拍手で褒めちぎって体よく退場させた(体よく、というニュアンスをもっと感じたかったが)後は、男は登場しない。
テキストに忠実に、とは演出の一つの有り方ではあるが、地の文で書かれたこの序文の箇所は、演出がむしろ「このたび、なぜ『新ハムレット』か」を(はったりでも良いので)押し出す部分ではなかったか、と素朴に思った。
(芸術作品全てが、あるいは芸術を扱う・語る場合にも、「今なぜ」は常に潜在的に問われる問いだと思っている。「演劇は謎かけの謎解き」理論からすると、上演を決めた時点で謎かけがある。天賦人権論と相容れぬ狭量なこだわりかも知れぬが。。)

ネタバレBOX

渋い意見を続けてしまうが・・
公演序盤ゆえか、と思わなくもなかった点が、ある意味主役であるクローディアスの造形。いわゆる悪役だが、今回俳優はその風貌を活用して役を演じていた。ただ台詞が馴染んでいないのをおっとっととカバーするのに「悪役らしさ」を押し出せる太田宏氏の持ち技を繰り出していた印象(少々意地悪か..)。
忠臣蔵を吉良家の目線から描く作品があるように、「ハムレット」をクローディアス目線で描くと云う要素があったのか、無かったのか・・。原作を読んで書くのが妥当にも思うが、・・つまりそこがぼんやり霞んでいた。
シンパシーを幾許かでも寄せる役柄を演じるならもっと違ったあり方があり得たろうし、憎らしい存在に徹するなら、またもっと別なアプローチがあった気がする。
公演も後半になれば違った劇風景が見えて来るのかも・・と言っても観る事は能わず、いつか配信等あればぜひ、と願望だけ書いておこう。
かもめ

かもめ

Ito・M・Studio

Ito・M・Studio(東京都)

2024/03/26 (火) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

愉しい観劇であった。俳優諸氏が提示するキャラが芳醇で堂に入っていて(過去観た「かもめ」だって役者は堂に入っていたはずなのだが)、本物だな、と思わせるものがある。翻訳劇である「かもめ」が持ち得る世界観の研ぎ澄ました一つがここにある、と思った。発する言語の意味ニュアンスは的確で切れ味よいが、役人物の性格、心理といった側面からのアプローチで果してこういう仕上がりになるだろうか・・?(研究所の設立者である故・伊藤氏は大変厳しいであったと聞いた事があるが、娘に受け継がれたそのメソッドを聞いてみたいものだ。)
劇空間の快楽。救いのない苦い物語を観客に飲ませる甘味さがある。

ネタバレBOX

温暖となったこの日、劇場内も半端なく暑かった。そんな中、大ラスでトレープレフはニーナとの久しい対面の後、絶望を噛み締めてその時点までに書いていた原稿を破くのだが、一枚一枚、同じテンポで八等分に破いて行く時間は暑さも手伝って耐えがたいものになった。8枚近く破いていたが、断念の意志と未練との分裂した感情からか、死への準備の時間だったか・・意味的には解釈も可能だが、自分が生み出した言葉を無意味だと宣告する行為の中に、自棄の感情が突起のように小爆発が起きないものか・・存分に未練を湛えながら、自分を死へと追いやるという虚しさ、「死に価しなかった死」(中二病的な?)としたかったのか。一時的な衝動による自死=軽い死ではない、という事を示そうと、自死は衝動的な死以外の何物でもないのではないか。
the sun

the sun

カンパニーデラシネラ

シアタートラム(東京都)

2024/03/22 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

いつもの、と枕が付くデラシネラ舞台。
この日は劇場をハシゴしての観劇日となり、この前に眠い身体も叩き起こすパワフル舞台を観た直後。後部席から「さあ存分に寝てくれ」と言わんばかりの抑えめの照明では、抗いようもなくほぼ全編寝落ち。耳をつん裂く三味線の音だけが覚醒の足掛かり。
凡そどんな動きをしていたかの断片が網膜に映るのみ、「the sun」のモチーフをその中に見出す高度な情報処理は無理であった。
その動きとアンサンブルはデラシネラのもので、私が初めて観た頃はこの動きの連鎖の美そのものを味わっていたが、ある何かを抽象化した表現として鑑賞する時、この比喩性は些か難解だ。
今作では手話を繰り出す踊り手がいて、聾者とのアンサンブルという難易度の高い身体表現を密度高く仕上げていて、その模様もつぶさに観察したかったが...終演の拍手で目を覚した。残念であった。
三味線奏者は歌も歌い、和風の謡いのみならず(三味線の伴奏に乗せた)洋楽をオペラ風の発声で歌うなど何気に際物をやっていた。

自慢の親父

自慢の親父

工藤俊作プロデュース プロジェクトKUTO-10

シアター711(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

やっぱオモロイなァ。オイスターズ平塚氏の世界が炸裂である。ふとした不安から不条理を極めた態度を見せる存在が、一人に加えて、二人目が出てきて関係者一同カオス化したのち、二人目の不条理が一人目の不条理への「返し」と思しく見え始め、ようやく「さて次の日=を待つのみ」と落ち着いた夜が明け。実は前夜に二人目が「おや?」と引っ掛かる台詞の伏線通り、卓袱台返しをして平然としてるのに唖然、も束の間、新たな不条理言動の登場でカオスだ〜というオチであった。構成はシンプルだが笑いどころ多々あり、余は満足であった。

ネタバレBOX

脚本としては二つの読みを残していて(作者的には一つなのかもだが)、20年ぶりに親父に会いたいと携帯メールに送ってきた息子に、会えるのかどうかという所で当日を迎え、現れた「息子」(平塚直隆氏)を、芝居では20代前半だったはずが「どう見てもそう見えない」事になっており、「これは一体どういう事か」不条理を解明する挑戦を再び始める、というオチになっている。「こっち」では本当の父が今の自分を見せたくないというので代わりを立てたのだが、どうやら「そっち」でも同じ事が起きたらしい、という彼らが考える線と、芝居中では一言も語らせなかった「詐欺」の可能性もチラッとよぎる。全く想定していなかった事が終幕の次の瞬間始まる余地も残して(相手も随分間抜けな詐欺師だな、とはなるが)終わるのが良い。

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