満足度★★★★
円も久々にして4度目くらい。実は内藤裕子作の舞台を見そびれて今回やっと初お目見え。題材と誠実に向き合い、テーマを見透した作劇は予想と随分違った。オーソドックスだが芯の通った人間ドラマであった。
林業を実際に営む家族を登場人物にした舞台としても特記すべきではないか。場所と時期が異なる二家族が同じ舞台装置で交互に登場、ある女性だけ両方に登場し、物語も繋がっている。二家族は家風はもちろん林業経営のスタンスや状況も異なり、2ケースを描く事で林業が抱える事情を立体化する事にも成功している。
幕開き、「奥居林業」の自宅兼事務所では未だ現役の祖父・正利、社長であるその息子・恒利(妻とは死別)が、居間で雑談している。話題は跡取りの孫息子・和利と、その少し年上で仕事熱心な女性従業員ユリさんについて(二人はお似合いではないか、いや孫息子より優秀だからダメだ、等)、また新任の女性従業員・河野はこの仕事が続くかどうか・・など。そこへお茶を運ぶ社長の娘(和利の妹)奥居智子は母代りに主婦を務め、正利や恒利のあしらいも板についている。
二家族を跨ぐ従業員・沢村由里子は「学ぶ」姿勢に悲壮感とも言える切実さがあり、何かの事情を匂わせるが、彼女の存在が和利には刺激になり良い影響をもたらしている、といった様子。やがて和利が新人河野と戻り、山の早い夜のとばりの中で皆一日の仕事を終えた安堵に包まれる。
暗転を挟むと、別の家族・沢村家になっている。ここでは一場で熱心な従業員だった由里子が、家業である林業の跡継ぎ候補(由里子の目論見)として婿入りを承諾した直樹と、結婚生活を送り、息子も居て将来は「木こりになりたい」と言っていると喜んでいる。同居人には妹江里子、母里子、そして父民雄がいる。江里子には、林業の組合に勤める恋人・祐二がおり、苗植えの手伝いをして父と顔を繋ごうとその朝やって来た。江里子の言いなり感満載だが、喜劇調の場面から次のこの沢村家の場面では一転、「家族の事情」のリアルな空気が漂う。
まず家業に入れ込んでいる婿の直樹が、今勤めている安定した職を辞め家業(林業)に専念したいと考えていた所、ついに先方に辞表を出したと妻由里子に語る。ところがその会話中、居間に入って来て言葉尻を聞いた父から「仕事がどうした」と問われ、なし崩しに話をする事になる。寡黙な父は一旦部屋を出て行くが、折しも、前場面で父に「伝え」そこねた祐二が「今日こそきちんと父に伝えて」と江里子に含められ(玄関外でどうやらそう言われたらしい)、部屋を出た父を追って行こうとするも「今はダメ!一番ダメ」と引き留められるくだりがある。
その前の奥居林業の場面では、由里子がなぜ家族を離れて奥居家に出入りしているのか、について「10年前家族が災害に遭った」との情報だけさらっと挿入されている。それを受けての先の沢村家の場面である。
居間に戻って来た父の寡黙ゆえに「判りづらい」感情が、表出する。まず婿の申し出を受け入れる表明があり、そして姉妹の幼い頃の父の思い出話から明かされた、詩などが色々書かれた父の手帳の事や、幼い頃よく絵本や詩を読んでもらったという話を受けて、祝いの酒に酔った父が宮沢賢治を朗誦する。由里子と婿、妹、父の四人の美しい場面だが、その少し前、父がただ自分の机の前の椅子に座り、茶碗に酒を注ぐしぐさの中に嬉しさが滲み出るシーンがあって、観客もこの父のいかつい顔から人間味がこぼれ出るのを見る。
山奥の生活の静けさの中に美しく映える小さな幸せの図だ(宮沢賢治の全文朗読は少々長かったが)。
林業行政の政策の問題点も語られ、皆伐と言って山のある斜面の樹木を全て伐るよう行政が指導する(それにしか補助金が出ない)が、山の土砂崩れ等の原因を作っているとも言われ、奥居家では計画的に木を伐り、苗を植える「森を育てる」林業を行っている。対して沢村家は皆伐の指導に従っていたが、10年前由里子は、土砂崩れで父と母、夫、息子、妹を失っていたのだった。
劇の終盤、妹の恋人だった祐二が由里子を探し当てて訪ねて来る。由里子は父が守った山を自分が支えるつもりで林業を学んでいたが、彼は山林の所有者が由里子になっている事を伝え、その処分についての判断を訊きに来たのだ。彼は補助金の書類作りばかりやっていた組合を考えあって辞し、山林を育てる事業に関わる仕事に今は就いているという。そして由里子に山を手放さず山を育てて欲しいと思いを伝える。
由里子は自分が山林の名義人になっていた事実を知らされた事で、ようやく自分が家族を失った事を生々しく実感する。山林は元来男が代々受け継いで行くもの。女である自分はそれに立ち会うだけの存在だったはずであるのに、自分の手元に権利書がある。由里子は災害後、初めて泣く。
作者は精力的な活動を行なう当事者に取材され、その志を反映した物語を書いたと思う。だが現実には林業の家族経営は立ち行かず、殺伐とした厳しい状況があるのではないか。
第一次産業までが国が守る必須項目から外され、大資本に売り渡されようとしている時、都市生活者の私はこれを批判しながら当事者の事を何も知らず、この芝居のリアリティについて何も言えない。
ただ「百年先のために木を植える」を比喩でなくやっている人がいる、という事実は、客観的には美談、しかし自分の事として想像すると、正直重く、苦く、飲み込みづらい。でもこの芝居は飲めた。ど素人には程よく分かりよく新鮮な舞台であった。芝居は娯楽に違いないが、単なる娯楽で通過すまじ。(真面目なアンケートのような感想になった。)