黄雏菊 Rudbeckia : anjir zero
犀の穴プロデュース
犀の穴(東京都)
2018/06/22 (金) ~ 2018/06/27 (水)公演終了
満足度★★★
椎名さんと土田さんのお二人のモノホンにしか見えない?説得力が素敵でした。
何故かこの二人がいる場面って、空間がお二人に引っ張られて?背景が違って見えるレベルで素敵になる気がします。
麻草さんの演技って初めて見ましたが、流石は演出家さんだけあって、役を存分に楽しんでいる感じで面白かったです。
あと、鶴田葵さんがここまでしっかりとセクシーさを前面(全面)に出しての役って意外と今まで少なかった気がしていたので、
それを観る事が出来たのも大きな気がしました。
役者陣が十分に魅せられる方ばかりでしたので、ドラマの様な、映画の様な濃厚な空気感を堪能出来ました。
良い空間でした。
ホテル アヴニール
A.R.P
千本桜ホール(東京都)
2016/08/02 (火) ~ 2016/08/07 (日)公演終了
満足度★★★
Aチーム側を拝見。
劇場も小さく、少人数でのお芝居という事で非常に限定された条件下での作品作りでしたが、
十分に楽しむ事が出来ました。
一見すると繋がりが無いようにも見える作品達も実はピースがハマっていく様に繋がっていくのは、
観ていてその脚本の妙に感心をしてしまいました。
DVDも購入して観返しましたが、その印象は後になっても変わりません。
メンバーが変わるのは仕方ないとして、またどこかで観られたら良いなと思える作品でした。
HOMO
OrganWorks
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2020/03/06 (金) ~ 2020/03/08 (日)公演終了
満足度★★★★
「身体」と一口にいっても、一種の容器や形状として、器官の組み合わせとして、動きの源泉として、空間との関係……と探索すべき視点はさまざまです。「言葉」も同様で、音、声、意味、それらの関係など、分析し、考え始めればきりがないテーマです。
『HOMO』は、こうした、身体や言葉、とりわけ、それを扱う個や集団のコミュニケーションをめぐる複雑さ、無限に、果敢に分け入りながら、「人類とは何か」を探るダンス・スペクタクルでした。
大枠としては、最後の数人になってしまった「HOMO(人類)」と、彼らを看取る「LEGO(新人類)」のドラマに、コロスとしての「CANT(旧人類)」の存在が挟まれるという構成なのですが、特に序盤はそうした構図を読み取りつつ、舞台を追うこと自体がスリリングで、刺激的な体験となりました。舞台に並べられた、あの樹木のようで血脈や系図のようでもあるオブジェ、赤い布を垂らした場面のアングラ的な始原の風景とSFチックなLEGOの存在感のコントラストも印象に残っています。
何かを分析し、まとめ直す=図式をつくるということは、ノイズを取り除いたり、枝葉を切ったりすることでもあります。展開にしても踊りにしても、見えてくるほどに、もっともっと破綻や裂け目、混乱をを求めたいと感じる部分がありました。が、そのことこそが、ここで取り組まれているテーマの深さであり、また、前作から続く「人とは何か」の探索の可能性を示しているのだとも思っています。
まほろばの景 2020【三重公演中止】
烏丸ストロークロック
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/02/16 (日) ~ 2020/02/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
罪と迷いを抱えた青年の魂の彷徨を、山岳信仰と重ねて描く骨太なドラマ。
2018年にも拝見した作品ですが、冒頭の祝詞から厚みのある声の重なりに胸を突かれ、より鮮烈にこの作品の世界観、風景に「出会った」感がありました。
日常会話と語り(独白)、祝詞、神楽……。異なる言葉と身体を交錯させ、存在の根源を探ろうとする手法、テーマは、現代演劇の歴史の中でも長く受け継がれてきた、オーセンティックとも呼べるものです。でも、だからこそ、それを高い完成度で、今日に響くかたちに昇華させたことに意義を感じます。
ネタバレBOX
行方不明になった自閉症の青年を探し、山を歩き続ける主人公。
山行のなか、その胸に去来するのは、彼から目を離してしまったことへの贖罪の意識だけではありません。地元で舞った神楽のこと、東日本大震災の直後に再会した不倫相手とのこと、幼馴染にされた説教、そして、行方不明になった青年の姉との関係……山で出会う人(台本上は「なかま」と表記されます)によって演じられる回想はどれも、彼の鈍さや弱さ、迷いの根深さを浮かび上がらせます。
とはいえ、「なかま」も、彼らが演じる登場人物も主人公を糾弾するために配置されているのではないはずです。劇中では、死んだ人は33年にわたって山をめぐり、生きていた罪をおとす、との山伏の言葉も紹介されますが、生きながらにして赦されることはないのか、あるとすればそれはどのように訪れるのか、というのが、この作品のテーマだからです。
登場する人たちは皆同様に、普通の、美しくも正しくもない、罪を持つ人たち。そして、この上演でいちばん印象に残っているのは、この「なかま」たちの、場面ごと会話ごとには「わかる」し、身近な存在にすら見えるのに、彼らを「(たいして)知らない」とも感じさせる奥行き、リアリティでした。とりわけ二人の女性(阪本麻紀さん、あべゆうさん)が醸し出す生活感と寂しさと色っぽさ、業のありようは、今も生々しく思い出されます。あの、よく知らない人たちの存在感があってこそ、終幕の広大な風景はありえたのかもしれません。
黒い砂礫
オレンヂスタ
七ツ寺共同スタジオ(愛知県)
2020/03/14 (土) ~ 2020/03/22 (日)公演終了
満足度★
観客として、想像力の焦点が合わせづらいなと感じました。舞台美術、衣装、身振り、それぞれの要素で観客の想像力を必要とする量がちぐはぐに思いました。
ネタバレBOX
同色の木材が段差になっているだけのシンプルな舞台美術を山に見立てるのと、ちゃんとしたアウトドアウェアを着た人が山を登る身振りをするのと、ハリボテが混ざった小道具でスープを飲むフリをするのとでは、観客の想像力を必要とする量がバラバラです。ここはリアルな設えでリアルにやるのに、そこは嘘でやるの…?と、そのバラバラさは私を困惑させました。バラバラであること自体が問題にならないようにもできると思いますが、そのバラバラさと他との関連が見つけづらく、私にとっては単にノイズとなっていました。
急に緑のムービングライトが下からバッと光って、俳優がギャグを言うシーンは面白かったです。そこだけやけに記号的な演出で、とことんバカらしく見えつい笑ってしまいました。そこで床下のムービングライト使うのか!的な驚きがありました。
また「負荷のかかった身体」の魅力をそのまま押し付けられたように感じるシーンがあり、私は距離をとってしまいました。流れに乗れませんでした。またその見せ方にも疑問があります。激しく運動し、息があがり紅潮した身体を無理なく見せる構成をとっていることは推察します。しかしその構成に乗れていたとしても、出演者全員が真面目な顔で皆同じく抽象的な身振りをしている場面では、いやさっきあんなにふざけてたじゃん!と、三枚目的な役につっこみを入れたくなると、私は思います。出演者全員でやらなくても良かったのではないでしょうか。
加えて、演技態が気になりました。必要以上に大きな声で発話してたように思いますが、それが良い効果を生んでいるようには思えませんでした。声でかいな!と思うと観客はある種の没入から離脱するわけですが、そのことによって観客を批評的な視点に持ち込むわけでもなく、単に流れから外れさせるだけであったように思います。
インテリア
福井裕孝
THEATRE E9 KYOTO(京都府)
2020/03/12 (木) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★
「コード(=ルール)からの逸脱がユーモアを生む」という旨のことが千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』に書いてあったと思いますが、この作品ではまさにルールを破ることでおかしみが沢山生まれていました。
ネタバレBOX
舞台は「もの」が散乱しているだけで、劇場の壁以外に空間を分割するものはありません。そこに俳優がやってきて、手を洗う身振りをします。ああ、あそこには鏡と洗面台があるんだな、と観客が了解し、俳優がリビングのような空間に移動したと思いきや、先ほど洗面台として使っていた空間に上着をばっと投げつけます。上着はさっき鏡がかかっていた壁があるところを、壁がないかのように通過し、現実に存在する劇場の壁にドンとぶつかり床に落ちます。え、そこ洗面台だったじゃん!壁の設定どうなったん!と観客は意表をつかれ、そのルールの逸脱に笑います。こんな調子で、ルールとその逸脱に笑いが起きる場面が多く、面白く観ました。
私の隣の席には大きなぬいぐるみが座っていました。客いじりなどが苦手な私は、近くに俳優が来たら嫌だな…、と警戒していたのですが、結局俳優が近くに来ることはなく、最後までぬいぐるみは私の隣の席に居座ったままでした。どうやらこのぬいぐるみは「ものの観客」だったようです。「ものが来て、ものが観て、ものが帰る演劇」は面白い試みだと思うのですが、上記のように「人間の観客」からは、「ものの観客」が、観客なのか出演しているものなのかは、上演前や上演中に判別できません。その意味で、終幕までの間、私の隣のぬいぐるみは、私と同じ現実のレイヤーに存在しているとは思えず、現実からすこしずれたフィクションに近いレイヤーにいるように思えました。私としては「『ものの観客』が演劇を見ている、という演劇」を、私が見ている、みたいな感触を、事後的に持ちました。この事後的にしか「ものの観客」を認識できないという仕組みの遊戯性は、とても魅力的です。
全体的にルールと戯れる手つきには魅力を感じましたが、ルールが曖昧に見える場面も多く、よく見方がわからないシーンも散見されました。おそらく登場人物が変わるごとにルールも変わっているのだと思いますが、それに気付かせるにはもう少しルールがわかりやすい構成をとると良いかなと思いました。その曖昧さは私にとって、単にノイズとなっていました。
部屋と家の違いなど、概念的に整理できていない箇所もあるように見受けられました。
<参考>
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』:https://honto.jp/netstore/pd-book_30097183.html
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』書評:https://allreviews.jp/review/2013
是でいいのだ
小田尚稔の演劇
SCOOL(東京都)
2020/03/11 (水) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★
忘れることと思い出すことの関係について考えました。私は忘れっぽいのでよくリマインダーアプリを使うのですが、それは、「自分が覚えておくべきこと」を欠損させながらも、あえて記憶を自分の外部に委託することで、また自分が思い出せるようにする、という仕組みだと思います。「パンを買う」のような単純な行動であれば外部に委託した際に情報が減ることはないですが、複雑な事象や出来事の記憶を外部に委託すると、どうしても元より少ない情報量しか外部に記憶してもらうことはできないでしょう。
ネタバレBOX
それこそ、3.11の経験はそのようなものではないでしょうか。
情報を減らす、つまりあえて「少し忘れる」ことで思い出せるようになること。戯曲と上演、作品と記憶の関係にはそのようなものもあると考えています。
まさに『是でいいのだ』は、私にとってリマインダー的な作品です。正確には、今後なると思っています。3月11日にyahoo!で「3.11」と検索し、YouTubeで口ロロ『聖者の行進』とsalyu × salyu「続きを」を見る、という私の地味な3.11リマインダーに、『是でいいのだ』を読む(観る)ことが加わりそうです。欠損した情報もバリエーションが増えればそれだけ、総合的には元の情報に近づけると思います。
俳優の演技態が魅力的でした。書き言葉と話し言葉の中間のような文体のテキストを、語りかけと独り言の中間のように発話する。おそらく意識的に選択しているであろう狭い会場だからこそ違和感なく見ることができる演技態ではないでしょうか。観客とささやかな親密性を築くような演技態は、眠くなる時もありますが、日常的なエピソードを世間話的に伝達する方法として適しているように思います。
おそらく自身の経験や肌感覚をベースにしながら、地に足のついた言葉を丁寧に連ねていく姿勢が戯曲からうかがえ、好感を持ちました。一方で登場人物の年齢層やモチーフの幅が限定されていることも事実だと思います。発話者の年齢が変われば、「是でいいのだ」の意味合いも大きく変わってくるのではないでしょうか。
<参考>
Yahoo Japan 3.11特設ページ:https://fukko.yahoo.co.jp/
口ロロ『聖者の行進』:https://www.youtube.com/watch?v=FO4jSDN1sJk
salyu × salyu「続きを」:https://www.youtube.com/watch?v=gzBfx_UQVBU
HOMO
OrganWorks
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2020/03/06 (金) ~ 2020/03/08 (日)公演終了
満足度★★
まず「人類」というテーマ設定に魅力を感じました。大きいなあ、と。最近、荒川修作のドキュメンタリーを観たのですが、「死なない」とか言ってて良いなと思った感覚に近い好感を持ちました。
ネタバレBOX
しかし実際に作品を観てみると、「人類」を描くにはあまりに洗練された身体しか登場しなかったように思いました。どうしてもHOMOの動きに違和感を覚えてしまいました。同期・直線的な身振りをするLEGOは、身振りと身体がフィットしているように見え違和感はありません。しかし、バラバラ・破線的な身振りをするHOMOは、「洗練された身体が、洗練されていない身体を演じている」ようにしか見えませんでした。日常から離れた身振りをすることに特化された身体の、スムーズできれいな身のこなしが、伝えたいイメージを伝達する上で障害になっているように思えます。つまり、ずっと「ダンサーの身体」が邪魔をしたままのように見えました。
個人的にこの作品の中で最も魅力を感じたのは舞台美術です。ダンサーが不意に美術に触れた時の、細い針金の揺れは、意味はよくわからなかったですが、単に面白かったです。「ダンサーの身体」にある種拘束されているように見えるダンサーの周りで、ぐらぐらと揺れる美術はとても自由に見えました。
また人類の描き方は少々ステレオタイプすぎるのではないかと思いました。デウスでもルーデンスでもファベルでもなんでもいいのですが、上演からOrganworksの人類観をもっと知りたかったです。物販で購入したアイデアノートを見るとわかる部分もあるというか、歴史を辿るようなプロットや意味をなさない発話によるコミュニケーションが登場した理由はなんとなく理解できるのですが、上演単体で考えると情報の整理がしきれていないように思います。
過剰に上司にゴマをするように手を頻繁に揉み込む浜田純平さんの動きが面白かったです。紫モヒカンにサングラスというちょっといかつい格好なのに、その動きからは虫とか鳥的な印象を受けました。何かに見えるような演技するのではなく、このように何かを観客の内面に想起させる身振りを全面的に採用して作品を組み立てると、また違った作品になるのではないでしょうか。
<参考>
岡田利規『コンセプション』:https://amzn.to/2xujYh7
(「何かを観客の内面に想起させる身振り」について語られていました)
『死なない子供、荒川修作』:http://www.shinanai-kodomo.com/
『死なない子供、荒川修作』視聴ページ:https://bit.ly/2yklkeI
(2020年6月末日まで無料公開中)
ゆうめいの座標軸
ゆうめい
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/03/04 (水) ~ 2020/03/16 (月)公演終了
満足度★★★
感想を書くために私小説に関するテキストをいくつか読んだのですが、あれ、これ作者=池田亮としてそのまま読めるんじゃないか、と思ったのは、坂口安吾「わが思想の息吹」です。これは一種の私小説論なのですが、安吾はこの文章の中で「いたわり」という言葉を使って、私小説の望ましい読み方について書いています。いわく、事実ベースの物語において、作者がどうやって登場人物を描いたり名前をつけているのか、という「いたわり」方から「作者の思想の息吹を読みとってほしい」。
ネタバレBOX
これを踏まえ、『弟兄』における池田さんの「いたわり」方に注目すると、登場人物がずいぶんキャラ化されているなあ、という印象を持ちます。その場面の笑いに奉仕するために選択されたエピソードやセリフ回しが多いように見えました。少しアニメっぽくもあります。それもあって飽きることなく見続けることができるのですが、その観客に対する隙のなさが、逆説的に、舞台にのらない切実なことを指し示しているように思いました。
また安吾のテキストの中で、作品中に実名を出すことへの言及もあります。いわく、作者の意図的な構成=「いたわり」から外れた事実を描く際には、仮名でしか書くことができない。
これを踏まえると、実名にこだわる池田さんは、意図的な構成=「いたわり」に固執していると言えるかもしれません。
総合すると、池田さんは、結果的に笑いが起きるような「いたわり」方にこだわって作品を作っていると言えそうです。
ただ池田さんの笑いは、コントや漫才などいわゆる「お笑い」ほどハキハキし過ぎていないように思います。俳優が結構リアルな演技をしていて、記号的な演技態でないことも「お笑い」との違いとして大きいように思います(逆に俳優の演技が記号的なものだったらほとんどコントに見えそうだなと思います)。
個人的には「お笑い」的記号的な演技態と、ずっしりとしたリアリズムの演技態が混ぜこぜになった作品も観てみたいです。緩急をよりはっきりさせることで、作品の厚みが増すのではないでしょうか。
舞台美術が少し浮いているように思いました。赤が基調のパネルが舞台を取り囲んでいる様は、異様な印象を受けましたが、その色使いが上演に対して効果的だったようには思えませんでした。同時上演されていた他の作品ではメインで使われるものだったのでしょうか。私としては単にノイズになっていたように思います。
また公演があるたびに毎回良いなあと思っていたのですが、今回も宣伝美術が良かったです。団体活動初期から同じ質感のビジュアルで統一されており、ゆうめいという団体のイメージ形成に大きな役割を果たしていると思います。線の目立つイラストを工作的に切り貼りしたような手作業感漂うグラフィックには、池田さんの「いたわり」方に通ずるものを感じています。
<参考>
坂口安吾「わが思想の息吹」:https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42823_26494.html
まほろばの景 2020【三重公演中止】
烏丸ストロークロック
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/02/16 (日) ~ 2020/02/23 (日)公演終了
満足度★★★
衣装の対比がとても良かったです。
ネタバレBOX
他の登場人物はシーンに合わせて厚着になったり裸に近い格好になったりするのですが、主人公の福村だけはずっとアウトドアウェアを着ています。他人の家の中でも、飲み屋でも。それは終幕まで決定的な解決もなくだらだらと続く福村の苦悩を象徴するだけでなく、上演全体を通して被災のイメージをより強く意識させるものになっていたように思います。
この作品を見て思ったのは、そうか、いまやアウトドアウェアは災害をイメージさせる服になっているんだな、ということです。私にとってアウトドアウェアは、台風や豪雨などで被災した地域で働く作業員や災害ボランティアを想起させるからです。私はこの作品が、東日本大震災というよりも、近年の災害全般を想起させるものになっているように感じました。調べてみると、アウトドアウェアが日常着として定着したきっかけには東日本大震災の影響がある、という話も見つかり、私がアウトドアウェアから災害を想起したのはあながち自然なことなのかもしれないと思いました。その意味で、福村が最後までアウトドアウェアを脱げなかったことからは、個的な被災の果てしなさ、またその社会的被災とのギャップを考えました。
青白い照明で引き締められた空間に、天井から吊るされた白の薄布が何枚もゆらめく舞台は、とてもきれいなのですが、きれいすぎるようにも思いました。今回の舞台から生まれる崇高さは、山や信仰にまつわる崇高さの持つ土臭さや時間の堆積をどこか漂白してしまっているように感じました。
チェロの演奏とその演奏者が舞台上に存在する理由もよくわかりませんでした。演奏自体は祝詞や朗唱とのコントラストが面白く、また、良い音だなあ、と何度も思いました。
出演している俳優のみなさんの、神楽のシーンの演技態も印象に残っています。おそらく時間をかけて稽古を積み重ねてきたであろう神楽を舞う身振りは、他のシーンの演技とは異なり「嘘をついていない俳優の身体」が表出しているように思いました。つまり、演技として舞っている、というよりも、「単に舞っている」ように見えたのです。演技というより、鍛錬の成果を見せているように。それが良いのか悪いのかは、私にはまだよくわかりません。
<参考>
アウトドアがファッションになる「きっかけ」が生まれた時。:https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7789/
White Mountaineering:http://www.whitemountaineering.com/about/
(「服を着るフィールドは全てアウトドア」というブランドコンセプトについても考えさせられました)
インテリア
福井裕孝
THEATRE E9 KYOTO(京都府)
2020/03/12 (木) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★
2018年にスタートした「#部屋と演劇」と題されたプロジェクトの最新版。
観客は、部屋に見立てられた空間に、自分の部屋から持ってきたインテリア(といっても、サイズ的に生活用品や置物に限られますが)を配置します。
ネタバレBOX
やがてこの部屋に男が帰宅し、日々のルーティンをこなしたのち、出かけていきます。と今度は舞台奥のドアから女が入ってきて、やはり自分の時間を過ごし、出かけていきます。男は舞台の手前、女は奥を主に使うので、二つの部屋は隣り合っているのでしょう。ただし、壁はないので「インテリア」は共通です。さらにこの空間に(想定される「部屋」とは関係なく)絵やオブジェなどを運び込み、展示する女性が現れます。これが3度繰り返されます。
ものの配置は男女それぞれの行動に合わせて変わる(変えられる)ため、特に几帳面に同じ行動を繰り返す男性の暮らしに、女性の暮らしが一部干渉、浸食しているように見えます。実際、女性の置き換えたものによって、男性の行動は向きを変えたりもします。台詞もほとんどなく、事件が起こるわけではないのに、なぜか見ていられるのは、こうした変化を、無意識にでも追っているからでしょう。また、全編を通じて、自分の持ち込んだアイテムからがどう扱われるのか、そこから見た風景を想像してみる、という関心もあります。
人やものの移動が、周囲の空間や他者の行動を書き換えること、時には「展示空間」のように、その場所自体が意味の異なるものになる可能性。いま考えるとこれは、その作品世界に、外部から観客=ものがやってくることも含めて、とても「劇場」らしい演目だったのかもしれません。
ゆうめいの座標軸
ゆうめい
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/03/04 (水) ~ 2020/03/16 (月)公演終了
満足度★★★★
CoRich舞台芸術まつり!の審査として『弟兄(おととい)』を観劇しました。
作・演出の池田亮さんが演劇作品をつくり始めた現在から、中学時代に経験したいじめ、その後高校で知り合った親友=「弟」とのエピソードを回想する物語。
ともすればやや乱暴にも感じられる大胆な踏み込みと、何重にも考えられた繊細さの両方を味わう、複雑な観劇体験でした。
ネタバレBOX
俳優が演じる「池田亮」さんが、「池田亮です。初めまして、どうぞよろしくお願いいたします」と話し出す冒頭から、現実との境目は曖昧。以前はいじめっこも実名で演じていたのを今回は取りやめた、と説明する台詞にもリアルな憤りが滲みます。
序盤で描かれる苛烈ないじめの実態には目を覆いたくなる部分もあり、リアリティがあればあるほど、むしろこれは(実名はとりやめたにしろ)作品の形を借りた「暴露」「復讐」なのではないかという疑念さえうかぶほどでした。ですが高校の陸上部で出会った「弟」の登場以後、グッと視点は複雑化されます。同じいじめられっこの「弟」との関係は対等のようでいて、やや「兄」の方が世間ずれしていて上でもあり、特に卒業生を送る会の出し物をめぐる二人の感覚の差を描いた場面は秀逸でした。程度の差はあるものの、そして、見たところは踏みとどまってはいても、人は容易に加害者にもなれるのです。
大学進学から現在を描く終盤は、さらに「赦し」について考えさせられる展開になりました。我慢しない、痛快な(?)復讐のさなか、夢の中に現れた弟との再会、暗転直前の、池田が伸ばした手がギリギリ弟に触れない、その距離に胸を突かれました。
黒い砂礫
オレンヂスタ
七ツ寺共同スタジオ(愛知県)
2020/03/14 (土) ~ 2020/03/22 (日)公演終了
満足度★★★★
演劇を観に来た……!、という嬉しい興奮を味わえる開場時間。制作スタッフの方々に迎え入れてもらえるというこの感覚は、小劇場のひとつの魅力だなと思っている。空間もまた、近くの方々に愛されているのだろう空気が漂う。
ネタバレBOX
「山と女性」の話らしい、という情報だけで観劇したけれど、これは「女性と山」を主軸とした演劇だと感じた。女性の切実さ、無念さ、傲慢さ、特権などを盛り込んでいて、胸抉られるシーンや表情や主張が幾度も出てきた。それでも、そこに終始せずにだんだんと人間の傲慢さと欲望とが膨らんでいったことが好ましかった。また、登山部のメンバー達の明るさと、運動量と、あえての「部活」としての記号的な演出が、この作品を外に開いていた。
キーパーソンの女性登山家の葛藤とそこへの立ち向かい方は、今の世、もしかしたらこれからの世でもっと一般的になるかもしれない。演劇という方法で描こうとすることそのものに希望と強さを感じる。
山に見立てた美術の組立と、ロープのアイデア、そこから広がるイメージはさまざまなものを想起させた。ロープの色も、さまざま想像してみたが結果良かったと思う。強いて挙げるのであれば、クライマックスの巻き戻しの方法についてはなにか他の方法があるような気もしますが……俳優達の力強さによって説得力があった。
作品としても、劇団としても、個性がありながらもその一体感はとても力強いです。ずっと、あと何十年も上演できることを願います。また、もし実現できることがあれば、ニノキノコスターさんの書くこの物語の先の光景を観たいと思います。
黒い砂礫
オレンヂスタ
七ツ寺共同スタジオ(愛知県)
2020/03/14 (土) ~ 2020/03/22 (日)公演終了
満足度★★★
空間に充満する熱量に圧倒されました。多数の登場人物もきちんと整理されていて、テンポよく話が進んでいきます。計算された演出と、それを具現化するため俳優の努力がとても見て取れました。だからこそ、お客さんが呼吸できる時間があるともっと相互関係が生まれるのではないかと感じる部分もありました。
コロナ対策が徹底されており安心して観劇できました。地元名古屋の人々に愛されているのがよくわかる公演でした。
インテリア
福井裕孝
THEATRE E9 KYOTO(京都府)
2020/03/12 (木) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
演劇を普段どう捉えているかによって、どこに面白さを見出すか、それどころか面白いと感じるかどうかすら変わってしまう作品だと感じました。
物と空間の位置関係への異常な執着心がまず目を引きましたが、カリカチュアされているだけであって、自分の行動を客観的に見れば同じように見えるかもと若干の恥ずかしさを覚えました。
ラストに客電がついて部屋を片付けていく(=バラシていく)と、これまで意識しなかったブラックボックスの劇場が露わになっていき、リアルが剥がされフィクションが立ち上がっていくような感覚を受けました。これは通常の演劇とは真逆の体験で興味深かったです。そして物が片付けられた舞台上で、それまでと同じような動きを始めるのですが、まったく違和感なくむしろとても演劇的に感じました。観客の想像力が演劇たらしめるのではないかという当たり前の前提を、純粋直接的なものとして提示された気がしました。
ソリッドでチャーミングな動きを繰り返した俳優の貢献度もとても高いと思います。
是でいいのだ
小田尚稔の演劇
SCOOL(東京都)
2020/03/11 (水) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
本作のモノローグには、自分語りの押し付けがましさが一切なく、むしろ震災を間接的に扱うフィルターとして成功していると思いました。大勢の人が共に被災しているにもかかわらず孤独を感じたあの時間は、登場人物が語る私的な話のすぐ裏側に潜んでいるということを思い出させてくれます。
社会的な装置としての演劇の強さと、柔らかな劇空間のコントラストも印象的でした。4度目の上演ということですが、この先も続けて上演されることを強く願っています。
HOMO
OrganWorks
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2020/03/06 (金) ~ 2020/03/08 (日)公演終了
満足度★★★★
人類を問い直すためのダンス作品。規則的な動きを繰り返す人類と、変則的なうねりをつくる人類が交錯していくことで作品は進んでいきます。
人類が別の人類に出会ったとき、お互いの差を受け入れたり拒絶したりすることで生存の可否が決まっていく。これは生物的な普遍性でもあり、現代社会においては多様性や外交的課題にも繋がってくると思います。
果たして私たちはこれからも生存できるのか、より成熟した社会をつくっていけるのか。その答えはこれからの自分たち次第なのだけれど、このコロナ禍でさっそく生存戦略を迫られている中での上演となりました。動きの美しさに魅了され、物語のロジックを解く快感を得つつも、作品と現実を何度も行き来してしまう不思議な体験でした。
ゆうめいの座標軸
ゆうめい
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/03/04 (水) ~ 2020/03/16 (月)公演終了
満足度★★★★★
実体験したイジメを昇華していく過程を見る体験は、鳥獣が捌かれる様子を見る時の、恐ろしくも目が離せない心理状態に似ていると思います。それは自分の中に眠る暴力性と対峙する時間でもあるかもしれません。
再再演となる『弟兄』は、これまでとは異なり実名を伏せての上演となりました。初演と再演も拝見していたため、比較するとその影響は小さくないように感じました。エネルギーの向かう先をうやむやにされたような物足りなさもありつつ、それって不必要な刺激なのではと、自分の倫理観とクリエイションへの献身性を試されるような部分があったのは事実です。
ただ何にせよエンタメとしての完成度も高く、演劇には人生を豊かにする力があると信じる方にとってはその確証となるべく作品で、多くの人に観てもらいたいと感じました。
まほろばの景 2020【三重公演中止】
烏丸ストロークロック
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/02/16 (日) ~ 2020/02/23 (日)公演終了
満足度★★★★
山岳信仰をベースに展開していくストーリーですが、俳優が唱える祝詞にチープさは一切なく、深い山を思わせる美術には美しさと悍しさがあり、まずその世界観の説得力が素晴らしかったです。
本物の水と照明効果によって侵食されてゆく舞台は、物語の始まりである震災を思わせ、逃げることの出来ない主人公の心理状態を高めていきます。
最後に山頂へと登ってゆく様には、それまで主人公が抱えていた感情から積極的に脱却していく力強さを感じさせつつ、登頂=解決と安に捉えてはいけない複雑さを演じた、俳優・小濱昭博さんの眼差しがとても印象的でした。
最後まで舞台奥に鎮座するチェロ奏者に畏敬の念を抱かせる構成も見事でした。アンコントローラブルなものへの畏れと強さが通底している舞台の象徴となっていたと思います。隙のない演出と、説得力を持った俳優のフィジカルが結実した作品でした。
インテリア
福井裕孝
THEATRE E9 KYOTO(京都府)
2020/03/12 (木) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★
まず大事な前提として、東京公演ではなく、京都公演を観た。おそらくこれはまったく違う上演だったのではないだろうかと想像する。本作は“部屋の中の生活というスケールから、人・もの・空間の相依的な関係の顕在を試みた”とある。三鷹SCHOOLでの東京公演はビルの一室を用いた「部屋」での上演、京都公演は「劇場」での上演となると、そもそも企画の意図と効果が違う意味を帯びてくるのではないだろうか。ちなみに本公演は、三鷹SCHOOLで上演される「#部屋と演劇」企画、のひとつだ。
ネタバレBOX
という前提のもと、「『インテリア』京都公演(劇場)」について振り返ると、そこはあくまで劇場であり、訪れた人々はあまりにも観客であった。来場者はなにかしら自分の部屋にある「もの(インテリア)」を持ってきてステージに置くが、『人・もの・空間の新たな出会い、新たな関係の形成』という意味では、パーソナルな家からパブリックな劇場に「もの」を運んできたことによって、劇場内におけるその「もの」はよそ行き顔の特別な「もの」になってしまっていた。さらには、その「もの」が作品内でなにか用いられたり、関係性を発するわけではないので、舞台美術の一部になれず、場合によっては無いものとして扱われていたようにも見えた。
そのなかでルンバが登場し、動きまわる。この「人(生命体)」ではないが動く「もの」の存在が、新たな関係性をうむ煌めく原石のようだった。劇場空間に対しては少しルンバのサイズでは小さい気もするが、きっとこれが三鷹SCHOOLの白い室内で観たならばかなり胸に刺さったと想像する。
それら「もの」の効果と、観客(「人」)との関係は、劇場での公演にあわせたあえての演出なのかもしれない。けれどもフィクションの空間においては(しかも観客はステージを見下ろすタイプのすりばち型の劇場なので、多少なり「異空間から眺めている」という関係性のもと作品がスタートしている空間)、「もの」はもう少しフィクション性を持たないと存在できないのではないだろうか。
#部屋と演劇、とあるが、「部屋」「空間」以外にも、「演劇」「劇場」とは……とあらためて考えさせられた。パフォーマンスではなく演劇であることの意義。演劇として劇場で上演することの意味。そのうえで、舞台上に人の身体が存在していること。では「もの」とはいったい……?
さまざまな問いと本質が入り乱れる、可能性の溢れる企画だった。丁寧に組み立てられているのだろう。また、当日パンフレットの引用群は、ものを持ってくる観客として作品に関わる「人」に対して、さまざまな波紋をうむ石を投げていたのはたいへん面白かった(もうすこしガイドがあってもいいような気もしなくもないけれど)。
ぜひ三鷹での上演を目撃したかったという気持ちもありますが、今後この作品が改訂を重ね上演されつづければ、ある程度どこで上演したとしても空間にフィットし、大きなインパクトをもたらす唯一無二のものになるかもしれない、希望が輝いていました。