インテリア 公演情報 福井裕孝「インテリア」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    まず大事な前提として、東京公演ではなく、京都公演を観た。おそらくこれはまったく違う上演だったのではないだろうかと想像する。本作は“部屋の中の生活というスケールから、人・もの・空間の相依的な関係の顕在を試みた”とある。三鷹SCHOOLでの東京公演はビルの一室を用いた「部屋」での上演、京都公演は「劇場」での上演となると、そもそも企画の意図と効果が違う意味を帯びてくるのではないだろうか。ちなみに本公演は、三鷹SCHOOLで上演される「#部屋と演劇」企画、のひとつだ。

    ネタバレBOX

    という前提のもと、「『インテリア』京都公演(劇場)」について振り返ると、そこはあくまで劇場であり、訪れた人々はあまりにも観客であった。来場者はなにかしら自分の部屋にある「もの(インテリア)」を持ってきてステージに置くが、『人・もの・空間の新たな出会い、新たな関係の形成』という意味では、パーソナルな家からパブリックな劇場に「もの」を運んできたことによって、劇場内におけるその「もの」はよそ行き顔の特別な「もの」になってしまっていた。さらには、その「もの」が作品内でなにか用いられたり、関係性を発するわけではないので、舞台美術の一部になれず、場合によっては無いものとして扱われていたようにも見えた。

    そのなかでルンバが登場し、動きまわる。この「人(生命体)」ではないが動く「もの」の存在が、新たな関係性をうむ煌めく原石のようだった。劇場空間に対しては少しルンバのサイズでは小さい気もするが、きっとこれが三鷹SCHOOLの白い室内で観たならばかなり胸に刺さったと想像する。

    それら「もの」の効果と、観客(「人」)との関係は、劇場での公演にあわせたあえての演出なのかもしれない。けれどもフィクションの空間においては(しかも観客はステージを見下ろすタイプのすりばち型の劇場なので、多少なり「異空間から眺めている」という関係性のもと作品がスタートしている空間)、「もの」はもう少しフィクション性を持たないと存在できないのではないだろうか。

    #部屋と演劇、とあるが、「部屋」「空間」以外にも、「演劇」「劇場」とは……とあらためて考えさせられた。パフォーマンスではなく演劇であることの意義。演劇として劇場で上演することの意味。そのうえで、舞台上に人の身体が存在していること。では「もの」とはいったい……?

    さまざまな問いと本質が入り乱れる、可能性の溢れる企画だった。丁寧に組み立てられているのだろう。また、当日パンフレットの引用群は、ものを持ってくる観客として作品に関わる「人」に対して、さまざまな波紋をうむ石を投げていたのはたいへん面白かった(もうすこしガイドがあってもいいような気もしなくもないけれど)。

    ぜひ三鷹での上演を目撃したかったという気持ちもありますが、今後この作品が改訂を重ね上演されつづければ、ある程度どこで上演したとしても空間にフィットし、大きなインパクトをもたらす唯一無二のものになるかもしれない、希望が輝いていました。

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    2020/05/01 00:06

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