Hell-seeの観てきた!クチコミ一覧

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【バナナ学園★王子大大大大大作戦】

【バナナ学園★王子大大大大大作戦】

バナナ学園純情乙女組

王子小劇場(東京都)

2011/05/17 (火) ~ 2011/05/22 (日)公演終了

満足度★★★★★

もはや人生の応援歌
ドヤ顔して何かを物語る的な説教臭いことは全然なくて、ライブハウスでもみくちゃにされながらお目当てのバンドの曲にノリノリになってる時のように、自分自身を解放(笑)し、場内のほとばしるエネルギーに飲まれてしまったモン勝ち!みたいなところとか、ここでは私が法律だ!とでも言わんばかりに会場内を荒しまくるバナ学の傍若無人ぶりがたまらなくすき。

ネタバレBOX

まず劇場はいると入り口付近で役者が普通に着替えてる。
ここは更衣室かよっ!と思わず突っ込みを入れたくなるが、チケットを買って入場した時点で観客はすべてバナナ学園の生徒のひとりとして受け入れられる。つまり、客入れ時から会場自体がバナナ学園として存在しているのだ。
その場所は実在と非実在が入り混じった半抽象的な場所として形成されており、空中にはハザードライトが旋回し、90年代のJ-POPや初音ミクなどをサンプリングした音楽が轟音で鳴り響き、学校の校舎や黒い空などの映像が壁に投射されている。雑然としたふてぶてしい終末観が渦巻く小さな宇宙、そこがバナナ学園だ。

観客が受け止める統一した物語性はないものの、劇中の膨大なシグナルの連続性が、個々の脳内でスクラップされ繋がりあっていく。
与えられるのではなくて、欲していく。
バナ学と観客の持つこのコールアンドレスポンスがたまらない。

ちなみに今回のバナ学をみて私のなかではこんな風に繋がっていった。
第三次世界大戦が勃発したトーキョーシティー。
戦火の記憶が今も尚、目に焼き付いて離れない。そんな昨今。
爆撃を逃れた軍事学校では兵士として使えそうな未成年たちが集められ日がなトレーニングが行われていた。

学園内で起こる暴力や抗争、恋人との別離・・・。
戦争を引き合いにしたこれらの事象とピンク色のチェックの制服を着てぶりぶり踊っていたあの頃のノスタルジーがオーバーラップする。この反復がなんとも切なくどうしようもない気持ちにさせる。

やがて時は流れ、また平和が訪れた。
しかし人々はみな孤独で自分の居場所を失っていた。
自殺願望を持ってる少女までいる。
それでもだれかと繋がりあいたいという欲求で世界はきっとまわってる。
ひとりじゃないって教えてくれる。

『ぼくらは夢みる』
ことしかできないかもしれないけれど、でも、だからこそ生きていられる。
そう気がついた時、なんかすごく救われた気がした。

そして最後、檄!帝国歌劇団を演者も観客もみんなで歌って。さわいで。
また明日から人生というクソみたいな場所で戦っていくさ、なんて超絶ポジティブシンキングになっちゃったりして。
カウパー忍法きりたんぽ

カウパー忍法きりたんぽ

ゴキブリコンビナート

タイニイアリス(東京都)

2011/02/17 (木) ~ 2011/02/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

下手したら人生観が変わってしまうかも。
たとえば飛び降り自殺の現場に群がる人々が携帯カメラで死体を撮影している光景だったり世界遺産に相合傘とか書いて思い出づくりしちゃってる旅行者たちのイノセンスな悪意に対して常識という名の偽善で落とし前をつけないで、ストレートに殺意を向けること、全力で嫌悪感を抱くことこそが市民感覚として正常なのではないかという歪んだ正義がもたらす優越感や、すべての人間には裏があってグロテスクな変態性が息を潜めているという他言厳禁な本音に向かってつき進んでいくときの奇妙な時めき、あるいは淫靡な愛欲に溺れ壊れゆく者の精神性や、欺瞞と虚飾に満ち溢れた世相の仮面が剥きはがされる瞬間の目を逸らしたくなる反面、最も知りたい人間元来の持つディープな本性、生理、潜在的な欲望をまるごとがっつり目の当たりにしているという罪悪感が何ともたまらない気持ちにさせられる。
これは観るひとによってはこれまでに信じて来た人間観/倫理観/価値観が覆されて下手したら人生観が変わってしまう演劇かもしれない。

ネタバレBOX

土地はやせ細り多くの者は貧乏で荒くれ者が私服を肥やす閉鎖的な村に暮らすうつ病を患うきりたんぽは、村の特産品としてきりたんぽバーガーを売って貧困から脱出しようと試みるが、周囲の人間に蔑まれ、子供たちは学校でいじめられる。

思考錯誤の末、今度は紙芝居屋でひと儲けしようとするが、柄の悪い学生たちに有り金全部を巻き上げられる始末。

甲斐性なしの夫をはげます妻の光恵は分裂病を患っており、起伏がはげしく夫婦間のコミュニケーションは家計同様、破綻寸前。最愛のふたりの子供たちは明るく元気ではあるものの、教育環境に貧しいためかどこか白痴めいていて、村人たちにはモラルという通念はなく暴力的で、欲望こそがすべての原動力になっている。

そんなある日のこと。塩辛四兄弟なる忍者衆が現れる。彼らはかつての闘志であったきりたんぽの匂い(!)を嗅ぎつけてはるばるやってきたのだった。
兄の身に危険を察知したきりたんぽの妹・おたべも加わり地獄の死闘がはじまる…。
するとこれまでの荒廃で殺伐とした陰鬱なトーンは一転し、ギャグめいてくる。両者とも趣向を凝らした必殺技を出しまくるのだけど、いちいち野蛮で下品。しかし戦の本質は愛する者を守るためにあるという人間らしさが邪魔をするのだからなんだかとてもやるせない。
そして勝つためならどんな手段をも厭わずやってのけようとする人間の愚かさや弱さが引き起こす残虐性は過激さを増すほどに、欲望が満たされていくようで。その異常性に気がついた時、急激に生理的嫌悪感に襲われた。

全体を通してみれば良くも悪くもくだらないなぁ、に落ち着くのだけれど、これほどまでに社会の有り様、人間の生き様/死に様を見せつけられると本当に有無を言えなくなる。
わたしたちはこんな風にしてトラウマになるほどの強烈的な体験をすることでしか、絵空事みたいな今に対して生きてる実感を持てなくなってきているのかもしれない。
かわいいめいしゃ展

かわいいめいしゃ展

sons wo: +ぽ・ぎょらん

ラ・グロット(東京都)

2011/02/19 (土) ~ 2011/02/20 (日)公演終了

満足度★★★★

あなたもわたしもここにはいない。
まるですべてが白昼夢であるかのような作品を目指しているというsons wo:のポリシーが気になったので急遽観ることに。
今回の公演は、ぽ・ぎょらんというアートユニットとの共作で、側面がガラス張りの近代的な三角形のギャラリーに一歩足を踏み入れるとゾンビや少女マンガ、ポップカルチャーなどがごった煮になったような、シュールでメルヘンちっく、それでいてちょっとグロテスクな人形、オブジェ、イラスト、マンガなどで満たされた空間が広がっていて、巨大なおもちゃ箱のなかへ入っていくような不思議な気持ちになった。
はじまりのあいさつがあるととふわふわとしたドリーミーな気分は一転し、張り詰めた空気がながれこんだ。

ネタバレBOX

すべてに対して極めて客観的であろうとつとめる『めくら』の妻と、それを全力で受け止めようとする『めいしゃ』の夫のすれ違いが描かれていたとおもうのだけれど、不可解なのは対話をしているはずのふたりの姿がどこにも見あたらないように感じられた、という実体のなさだった。

ざっくりいうと夫が妻の目の手術を施行する晩を起点にした『もしもわたしが○○だったら』の未来像が空想/妄想/夢想/回想交えて話しつづける妻とそれにひたすら付き合う夫、みたいな構図があったのだけれども、そんな仲睦まじい夫婦の静謐な情景は、ほたるの光のようにぽつぽつとう浮かび上がったかとおもうと雲隠れして。どれだけ言葉を重ねても、どんなに追いかけまわしても『あなた』も『わたし』もそこにはいなくて。夜は明けなくて。そればかりか時間は進んでいなかったかもしれないという疑惑は濃厚になって。すべてが泡のように消えてなくなるような儚さの余韻を残しながら、真実が煙に巻かれていくようなギミックなつくりになっていた。

まるでだれかの意識下にひそむ深い闇にもぐり、どこからともなく聞こえる声に耳をそばだてくっついたり、はなれたり、すれ違ったりするふたつの影を追いかけて行くような感覚。
触角をひっこぬかれて方向感覚を失った蟻のように無様に身悶えをする夫の痛烈な悪あがき。
私の、あなたのほんとうの姿をみつめることに『めくら』になって、魂のゆくえをくらます健気で汚れを知らない天真爛漫な少女のような妻。
そんなふたりの悲哀はお互いが異なる時空にいるかもしれないことを、予感させる。
あるいは誰も、何も、ここには存在しないことを強調しているようで、けれども、誰かの何かの気配がかすかに残る空間に横たわる軋んだ声のうねり、その記憶は残された者の自意識に飛び火して、脳内を無秩序に駆けめぐるその交り合わないちぐはぐな感じは死者の魂が人間というかりそめの『器』に憑依した狐にそそのかされているように不可解な、しかし奇妙な説得力を帯びていた。
そして誰でもない『わたし』という存在を持て余しくすぶるような苛立ちや、どこかにいると信じている『あなた』への慈悲深さがほんのすこしだけ触れ合う温度は『せつない』とも『せつな』とも判然しない熱量で迸り。
決して感動したわけではないのに。どうしようもなく胸を焦がされた。
(ひょっとしたら誰かに何かを伝えることの難しさ、語りきれないことの多さ、に感傷的になっていただけなのかもしれないけれど。)
死と再生とロックに

死と再生とロックに

ロ字ック

明石スタジオ(東京都)

2010/11/20 (土) ~ 2010/11/23 (火)公演終了

満足度★★★

ポップコーンムービー的死生観。
リアルに対してニュートラルな視点でありつつも、ニートの騒がしい思考がカラフルにぶちまけられたパンチのある演出に驚愕した初演。
その後の企画公演、鬼FES.2010ではバンドの追っかけをするバンギャの狂騒をぶった取り、『何も考えてなさそう』にしか見えないキャッチーな汚れキャラに徹する姿勢が潔く、強烈に印象に残った。
二作品とも、彼/彼女たちのアイデンティティの目印を間接的に示していたようにおもわれるのだが、今回の公演ではその兆しはポップと言えば聞こえはいいが、ポップコーンムービーみたいに安易でお手軽な自殺願望という形で表出する。
彼/彼女らは正気なのか。正気なフリしてSOSのサインを出しているのか。その真偽を見極める目から逃れられなかった。

ネタバレBOX

ネットを通じて知り合った自殺志願者たちが同メンバー(未亡人)の所有する別荘にやってくる。
彼/彼女たちは、まもなく訪れる死を祝い、これまでの人生をねぎらうパーティーを催してから練炭自殺をする予定。

クダラナイ世界には価値がないとか、かつては同士だった者の成功が憎いとか、フラレた腹いせに。とか死にたい事情は人それぞれ。

気持ちも気合いも整っているものの、心のどこかに迷いがあるのか自殺はなかなか決行されない。
そればかりか、パーティーさえはじまらない。
パーティーの終わりは、人生のピリオドを示唆する。

それを知ってか知らずか、未亡人はもたもたとパーティーの準備に徹している。
そうすることで逸る気持ちを落ち着かせているんだろうか。
準備を手伝おうとする者は特におらず各自、くつろいだり、時折口喧嘩をしたりしながらも間もなく訪れる己の死を想い、途方に暮れる…。

彼/彼女らは一体何を考えているのだろう。
自殺のこと、生きること、死ぬこと、誰かを愛するということ。
そういった誰それの気持ちが、イマイチよく掴めなかった。
そして、誰も本心を語っていないような疑惑に囚われた。
そういえば、いちばん最初にロ字ックをみた時も、そうだった。
ギリギリまで感情を吐き出さない若者を
『何を考えているのかよくわからない』とおもったのだった。

相手の気持ちがわからないことは日常生活を振り返ってみると決して珍しいことでははないし、相手に本心を見透かされないようにすることだって恒久的に行われている。しかしながら演劇というフィールドにおける『わからないこと』はなにかとネガティヴな感情として捉えがちである。(第一、自身が理解できないことをひとは恐れるし、場合によっては無関心にもなる。)
そういった摂理や事情があるなかで、それでもあえて本音を悟られない素振りをみせるのは、理解や共感を超えた世界が存在することを、それを認め合おうとしない趣向がはびこることへのアンチテーゼを臭わせる。そして誤解をおそれずに信念を貫くこと。
このセオリーは非常にロックだと私はおもう。

話はやがて、ぐだのパーティーははじまるものの、”生きたくない、逝きたくない”の振り子で自尊心もポリシーもふらついた鳴かず飛ばずのピン芸人が、売れに売れるばかりでなく、間もなく結婚式を迎える元相方を、死ぬ前にぎゃふんと言わせるためにメンバーらに協力を募り、花嫁を奪いに行って人生の目的(誰かのために生きること)を見つけた芸人は死にたいから生きたいへと転調し、事なきを得る。その他の者たちもそれぞれわずかながら、生きることに対して前向きの兆しが見えた。
それは表向きにはハッピーであるかもしれない。
そしていい大人たちのドタバタ劇を横目でみていた女子高生の叫び。
どんなに世界を憎み、蔑んだとしてもロックだけは自分の味方なんだって気付いたこと。ここにいていいんだよ、って教えてくれたこと。
裏を返せば誰もわたしを救わないシビアな現実をこれからサヴァイヴしていくことに気付いたことは、絶望的かもしれないが、女子高生の小さな成長をもたらしたのではないかとおもう。
だからラストで人類肯定曲が流れた時、なんか救われた気がした。
それは一瞬の儚い共同幻想かもしれないけれども、明日に繋がる希望だと信じるほかないという諦めや切なさを飲みこむ強さがあった。

欲を言えば、核心に踏み込みこまないことを武器にした”混沌とした乱雑さ”をもっと感じたかったし、“死“と”生”の揺らぎやその質感をざらついた感触でもって多層的に、そしてストイックに打ち出してもよかった気がする。
とはいえお得意のマシンガンジョークは笑えなさ過ぎてかえって笑けてくるし、心地よいタイミングでセンスの良い音楽が流れるのは流石だし、独自性を持っているロジメンも着実に増員しているし、次回は王子小劇場だし、見逃さないっ!
ワレワレのモロモロ

ワレワレのモロモロ

ENBUゼミナール

笹塚ファクトリー(東京都)

2010/10/23 (土) ~ 2010/10/24 (日)公演終了

満足度★★★

実体験を語る勇気。
ENBUゼミナールの演劇コースに2009年秋期より一年通学された生徒さんたちのこれまでの成果を発表する卒業公演。
劇場の折り込みチラシでハイバイの岩井秀人さんが携わっていることを偶然知って、観てきました。
どの作品も実体験を元に創作され、それを考案した人が出演するというスタイルのものだったのですが、そうすることによって、自身の作品に責任を持つことや作品に対してより理解を深めることを目的としていたそうです。上演時間は2時間で作品数は11本。
誰かにこの気持ちを伝えたいというパワーがみなぎる熱い公演でした。

ネタバレBOX

11作品観た中で特に印象に残ったのは4本。

『穴があったらはいりたい』は、一人暮らしのアパートを引き払って実家で暮らしはじめようとするハンパ者の娘と両親との距離感が絶妙なニュアンスで描かれていました。
たとえば、今までお金が必要な時にだけしか親に連絡しなかった娘の薄情さに母親が怒りを露わにする場面では、娘を生んだことを心底悔やむ母の毒々しい言葉が、娘には母がこれまで秘密にしてきた本心であるかのように思われ、その残酷さに耐えきれず、躍起になって家を飛び出し付きあってる男の家に転がりこむが、煮え切らないおもいでいる。そんな風にして世界で最も遠い存在であるかのような娘と両親の距離感を埋めるのもまたお金、という皮肉。それでも決して切り離せない家族の輪で繋がっている娘と両親は根底で信頼していることに背を向けるけれども、家族の絆を確認し合うためには時折無駄な駆け引きをする意地っ張りな三人に笑みがこぼれました。

『半熟たまごのオムライス』は、物心がついた頃に両親が離婚して姉は母、弟たちは父に引き取られ、大きくなるまで会うことのなかった3人の共同生活。
そこには小さな規範が根付き、弟たちを養うために働いている姉が絶対的な権限を持つ。
高校中退後ニートをしている弟は姉に従順で、もうひとりの弟は、反抗する若者である。定時制高校に在籍してはいるものの、不登校の弟は毎日テレビゲーム三昧で、夕飯をみんなで食べようと姉が声掛けしても言うことを聞こうともしない。
そしてはじまる姉と弟の喧嘩。姉に従順な弟は中立的な立場を守り、反抗的な弟に、どちらかが譲らなければ争いは解決しないことを教えるためにも姉に謝るよう促す。
いざ仲直りするとなると、照れくさくなってうつむき加減でぼそぼそと詫びを言う弟とそんな弟に背を向ける姉。ふたりのぎこちない態度がとても愛らしかったです。
姉や兄の二の舞になるのはいやだ、なんてジョークを飛ばしつつ学校を辞めない決意をする弟、バイトが決まった兄、とグッドニュースが舞い込んで終わるラストも清々しかった。
願わくは、オムライスが両親を繋ぐ接点であり、たまごが割れる=幸せが壊れた、というようなイメージの具象化があったらもっと引き込まれていたかもしれません。

体験を話す、というとどうしてもスピーチ形式だったり状況、心情、背景を
説明するモノローグが中心になっているような作品が多数見受けられるなか、本音と建前とが綱渡りをするようなギリギリのバランス感で会話がなされていた、という意味で上記二作品が圧倒的によかったです。

この他印象に残った二作品はまた趣きが違っていて、1アイデアの傾向が強いようにおもわれました。
まずは『幼き日々』。
これは、自身の性への成長&関心の経過を、その当時の家族のエピソードを交えた朗読形式の作品だったのですが、実体験という意識を頭に描いた空想の世界から掘り下げて、それを更にWant to beのリアリティと織り交ぜて私のエピソードとしてでっちあげた点が、非常に異質で今回みた作品群のなかでずば抜けて独創的だと感じました。真っ白なふわふわのドレスを纏った美女の人差し指には青い鳥。というビジュアルもメルヘンチックで世界観にマッチしていて、おとぎの国でおとぎ話を聞いているような不思議な感覚に陥りました。
『いぬのおまわりさん』の替え歌とお絵描きもおもしろかったです。
ピンク色の長い磁石を巷でみたらいろいろと思い出してしまいそうです。

『ザ・シャワー』はまさに1アイデアの作品でした。
とある女子がシャワーを浴びながらシェーバーで脱毛をしている最中にあろうことか某所を刈り取ってしまったことから、何某を探すためあくせくする様、その苦悩と葛藤が凄まじかったです。大爆笑しました。ちなみにそれが何某だったかは・・・ここでは教えてあげません!笑
パジャマと毒薬~忘れられないパジャマ

パジャマと毒薬~忘れられないパジャマ

カリフォルニアバカンス

小劇場 楽園(東京都)

2010/10/20 (水) ~ 2010/10/24 (日)公演終了

オフビートな空気感はすき。
毒薬、パジャマ、ノートなどのアイテムを手掛かりにドラマが展開していくので、謎めいたミステリー風コメディかと思いきやナンセンスコメディにミステリー要素がちょろっと混ざった舞台だった。
ダサダサのパジャマや二次元の世界を愛して止まないだろう女子の衣装、
ファミコン画面を壁に投射したり、すこし斜めった造りの小部屋など舞台設計も非常に凝っており目を奪われた。
配役のバランスもよく良い空気感を醸し出していた。
ただひとつ気になったのは、あり得ないことが行われている不可解な状況下に対して注意深くディテールを重ねて核心に切り込んでいるにも関わらず、
物語が上手に運び過ぎているように思われてしまったこと。登場人物が場に立ち入るタイミングが良すぎてしまっていたり、場に人が集まり過ぎてリアクションやアクシデントによって展開せざるを得ない場面が続いていたように感じた。接触するタイミングがズレることによる情報齟齬や、もう少しランダムに含みをもたせて構成していく方が個人的には好ましかった。

私立肉体オルグ学園大文化祭

私立肉体オルグ学園大文化祭

肉体オルグ

不思議地底窟 青の奇蹟(東京都)

2010/10/30 (土) ~ 2010/10/31 (日)公演終了

満足度★★★

お下品なだけでもないみたい。
クラスの女子とまともに会話をした思い出が片方の指で事足りてしまうような(あるいは一度もないかもしれない)さえない男子学生たちが、せめて休み時間だけは愉快に過ごそうと編み出した小さな知恵、いわばインプロ的なくだらない下ネタベースのショートコントのパワープレイ。
狂言を模した演目まであり案外、ひねりが利いていた。
ラスト一作品では、会話のなかから事の成り行きや人物の背景を描いており、観ごたえのあるコミカルでウィットな青春劇だった。
大人にならない大人がここにいた。

ネタバレBOX

肉体オルグ学園大文化祭の名の通り文化祭であるのだけれども、文化祭らしい華やかさは場内を飾った折り紙で作ったカラフルな輪っかと学園祭のプレートの周りの紙花くらいなもので、心情的な盛り上がりはいまひとつ。
そんななかオープニングに登場したのは、マキ16才ドットコムという名のいかにもイタイアイドルになれなかった風の女子。しかも年齢詐称で実年齢は26歳。彼女がAKB48のポニーテールとシュシュを熱唱。(←もちろん振り付き)
それでも会場が盛り上がる気配がまるでないなか、朝まで生テレビをパロッた演目、徹底討論「セックスレス」。
パネラーの童貞君ふたりには予想と妄想でしか語り得ないものの、ほんのわずかな性に触れた体験を漫談風にやるメガネ君。女性のある部位と彼自身の一人二役をこなす様、その表情、一人ノリツッコミのタイミングまで完璧でおもしろかった。

この次に出て来たのは森を破壊し続けるニンゲン共を滅ぼそうと策略してる森の妖精たちのコント。上半身裸で片手に槍を持ち、頭のてっぺんにはチカチカ光るカチューシャみたいなのをつけててかなりベタ。宮崎あおいだけは守る!とひとりがいうとオマエには守れないともうひとりがいい、仲間割れして、ついには殺し合いにまで発展。不謹慎だなぁとおもいつつも、笑ってしまった。

ポストモダン現代萌え狂言なるコントもおもしろかった。
レディコミなんかでよくありがちないわゆる禁断の兄妹愛モノ。
それを兄役、妹役がそれぞれ淡々と音読をするが、だんだん過激な性描写のシーンになると、コロス的立ち位置のもうひとりがエロティックな擬音語を発し、兄と妹との台詞の掛け合いがリズミカルに進行。それがどうも狂言回しを意識しているとしかおもえないイントネーションで、こちらも不謹慎だなぁとおもいつつも笑ってしまった。最後はバシッとポーズを決め、はからずも圧倒されてしまった。

ラストの十月十日の旅は学園祭当日に学校を占拠した男子校生のドラマ。
隣のひとと手をつないでUFOが来るよう念じてください・・・と観客を巻き込もうとするものの、誰もその手には乗らないだろうことを計算した演出が強かだった。また、彼の好きな女の子が学校中でキモイと評判の化学教師の恋人で、
しかもそいつとの子供を妊娠中であることが発覚し、ゼツボーするしかないなか化学教師の本性も学校を爆破しようとするテロリストで、どっちが本物の侵略者なのか曖昧なところにも惹きつけられた。
ある時は悩める陰鬱な14歳、またある時はバカ騒ぎをする男子高校生という風に人間の二面性をコミカルで時にはウィットに描いていた点も物語に惹きつけられた要因だった。
各キャラクターの掘り下げとアウトラインを広げて、長編で観たい作品。
転転転校(千秋楽・当日券ございます)

転転転校(千秋楽・当日券ございます)

水素74%

アトリエ春風舎(東京都)

2010/10/26 (火) ~ 2010/10/31 (日)公演終了

同調しすぎるティーンエイジャー。
個人的な意見や感情がひとつの巨大な『わたしたちの気持ち』として集約された日常によって浸食されていく私という固体。集団における絶対的な歪みや不穏さに対して疑問を持たず、馴染み、正当化し、またスルーできるか?みたいな賭け事は、学校という場所が外的要因の多くを占め、まるでこの世のすべてであるかのように認識せざるを得ないある特定の時期を通過した大人ならば少なからず当時と重ねて観ることができるような類の光景が断片的に提示されるが、それによって胸に熱いものがこみ上げてきたり感傷的になったりするようなことはなく、ひたすら行動原理を追っていくミニマルな状態が続いた。
それに反して登場人物たちのあっけらかーんとした妙にファンキーな振る舞いだったり、残酷なまでにポップな台詞だったりに時折クスリとすることはあったのだけれど、それが作品のバランスを若干崩してしまったような気もした。
とはいえ、事あるごとに集団と個を使い分け、更に共感、傍観、客観的立ち位置までをも活用することは、大人の階段を上るためのトレーニングであると同時に、人間の本質は悪だ!という認識を擦り込んでいるようでなんだかおかしかった。
ティーン特有繊細な心の揺れやエモーショナルな何かを期待していくと肩透かしを喰らう恐れがあるが、私を含め感情移入をすることに疑問を感じているようなひとには何となく腑に落ちる点が見つかるかもしれない。

izanami・(&#x00A0)

izanami・(&#x00A0)

アメウズメ

プロト・シアター(東京都)

2010/10/08 (金) ~ 2010/10/11 (月)公演終了

満足度★★★

いつ立ち止まってもいい場所。
あの世とこの世の境界線で痛切な懺悔と壮絶な赦しが混濁する。
前回に引き続き、閉鎖的な『ある世界』を寓話的に描き、独自の視点で普遍的な死生観に挑む真摯な姿勢に好感を持った。
ただテーマ性だけでなく、メタ的要素が前回と被っているパートがあり、やや新鮮味に欠けているような気もした。
質素だけれど世界観に寄り添う形で構築されている舞台美術、照明、衣装が印象に残った。

ネタバレBOX

とある貧しい浮浪者の若い男女と乞食の女がひっそりと暮らすうす暗い掃き溜め。その中心部から延びる三叉路のひとつはあの世への入口で一歩足を踏み入れると二度と戻って来られないという言い伝えがある。
死は恐怖に他ならぬことを知っている3人は『そっち』へは決して足を踏み入れぬよう日々最善の注意を払っている。
そんなある日、紛失したメモ書きを探しにサラリーマン風の男性がやってくる。
生きることへの不安や不満、諦めなどを抱えるひとびとが、負の引力によって引き寄せられ、苦し紛れに辿りついた終着地での話。

全編通して緊張感に張り詰めた舞台だった。
登場人物の誰もが死を意識し、死と隣り合わせにあり、苦悶している。
その絶叫がこちらの骨の髄まで感染してくるようだ。
誰も笑わないし、笑えない。笑う気力すら残されてはいない、極限状態。
しかしながら飄々とした佇まいもあり、特に自殺が救われる唯一の方法だという意見で合致したサラリーマン風男性と貧しい浮浪者の若い男女が電気コードを首に巻きつけていざ集団自殺!という時に「痛い・・・痛い、苦しい。」といって浮浪者の若い男がのたうちまわる場面など笑っていいのかどうか迷ってしまうほどのコミカルさがあった。
痛い・・・痛い、苦しい・・・って電気コードで首絞めるんだからそりゃそうだろ、と。死ぬことすら満足に出来かねるへタレなのか、と。
けど、死にたいのに死ねないなら生きてるしか仕方がないよね・・・。という消極的なポジティブさは、現代を生きる人々の本音なんじゃないかとおもう。

そしてそんなひとびとのおかしみを、寝そべりながら見届ける男は、あの世とこの世を行き来する、いわば神の使いのような者である。
ある時男は、田中さんという人物宛てに靴を届けにやってきた。
自分は田中ではないだろうが、その靴は自分のものだろうと主張するサラリーマン風の男性。そういえば彼は裸足だった。飛び降り自殺をする前に脱いだ靴だったのだろうか。しかし、靴の汚れ具合から自分の物ではないと判断したその靴は乞食の女へと渡り、女は知ってか知らずか『そっち』へと足を踏み入れ、戻ってきた時には古事記のイザナミとなって帰ってくる。なぜか?
靴はカルマを、暗示していたのだろうか。
そして、サラリーマン風の男性が紛失したというメモ書き。
あれは、遺書だったのではないだろうか。
だとしたら、一体どんなことが書かれていたのだろう。
その一切は明かされない。
誰にも本当のことはわからない、ということなのだろうか。
会場内をぐるりと取り囲むように整然と敷き詰められた夥しい数の黒いゴミ袋からは死臭が鼻をつくようだった。

一点補足を。
当パンの挨拶文に当初はイザナミを殺した青年の話にする予定だったと書かれていたけれど、イザナミを殺してしまったバックグラウンドを持つ青年像というは残しておいた方が罪悪感への負荷が伝わりやすかったんじゃないかとおもった。
「ファイナルファンタジー」「やがて僕は拒絶する」

「ファイナルファンタジー」「やがて僕は拒絶する」

劇団エリザベス

タイニイアリス(東京都)

2010/10/14 (木) ~ 2010/10/18 (月)公演終了

満足度★★★★

青年の苦悩が詰まってる。
2作品観劇。両方とも僕のあがきやもがき、苛立ちを濃縮還元にして制限時間内いっぱいにフルスピードで押し切ったような、俗に言って青年の苦悩をテーマにしていたが、見せ方も演技の質も全く違っていて、ほんとうに同じひとが描いた作品なのかと疑うほどだった。
なんでも当パンの主宰のあいさつ文によると片方の作品が好きだともう片方の作品はキライになるように心掛けたそうでご多聞に漏れず、私もそのようになった。
『やがて僕は拒絶する』の方は登場人物たちが自分の気持ちを素直に吐き出すことが多かったので、それぞれの苦悩がよく伝わってきたが、そのすべてが僕が僕を肯定するためにでっちあげるたくさんの嘘だとすると、言葉の持つ意味合いが反転するように思える演出が秀逸。
一方、『ファイナルファンタジー』は、つまらない日常から全力で逃走しようとしている僕の話。
現実なんてクダラナイぜ。っていう精神状態を中指を突き立てて大人に歯向かったり、世の中に対する不平不満をそーゆー仲間を集めてロックな音楽に乗せて歌ったりするようなわかりやすすぎるエネルギー行動に流れずに、何かのせいにしてヘラヘラ笑ってフラフラネトゲーに勤しんでいる『僕』の不健全さ、そのアナーキズムが最高。
そして、大事な言葉をあえてサラリと受け流すスノッブさが、現代口語演劇をアイロニカルに表現しているようでかなりツボだった。
どちらを観ようか迷ってる方は両方見たほうがいいとおもうけど、安全な場所からダメ人間を眺めていたいひとは『やがて僕は拒絶する』を、現実逃避が趣味なひとは『ファイナルファンタジー』を個人的にはお勧めします。

ネタバレBOX

両作品とも登場するのは僕の母、僕の彼女、僕の友人で、僕をとりまく身近な人々との対話が『僕は拒絶する』では僕の脳内において、『ファイナルファンタジー』では細々とした会話が僕の部屋で交される。

ただこの作品のなかで特徴的なのは、僕以外の登場人物たちの実体が見えにくいというか、消失している、妄想の産物ですらあるように見せている点であろう。

事実、彼/彼女たちは、それぞれ僕の『彼女』『友人』『母』を演じているに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。だから、余計な感傷も感情移入も受け付けないし、無印良品の商品みたいにクリーンでドライなイメージだ。

そして、彼/彼女たちの言動はとっても軽いから、自意識過剰の僕には重すぎる。重すぎるから、他者とのコミュニケーションをファンタジーである。と受け止める。なぜなら、そうしなければ現実をまともに生きていられないからだ。

しかしそんな風にはぐらかして自分を騙し続けられるほど『僕』は強くないし、強くないと信じていたい。だからいつか心はぐしゃっと潰れてしまう。
するともう、目の前には絶望しかなくて。死にたい、だなんて安易な欲望にすり替える。

生きるか、死ぬかの瀬戸際で関わりあった彼/彼女たちとのオモイデを頭んなかに描きながら自己対峙するのが『僕はやがて拒絶する』であったのではないか、とおもう。

この作品のなかで『僕』は28歳で派遣切りにあった障害者として描かれる。
おそらく、生きることへの苦難や苦悩を障害者という形にして表現していたのだろうが、これらの情報は不要におもえた。
そんな風な設定を整えなくたって充分伝わる内容なのではないか、と感じたのだ。
それに、障害者だから健常者より生きるのがつらいよね・・・的な差別心がとても頂けない。
僕が好きなら僕の糞を食べるべきだ、というくだりにも絶句した。
(←しかも人糞はネタ的にも新しくない。ソドムの市とかピンクフラミンゴとか見てるひとたちに対して不親切!笑)
更に、客入れの時に筋肉少女帯の『踊るダメ人間』がヘビロテされてて苦行の30分だった。
ほんとにダメなひとは筋少なんか聞かないだろうし、踊るダメ人間のサビでジャンプしたりしないでしょ。笑

あと気になったのは、物語が全体的に、ダメなひととはこーゆーひとのことを言うんじゃないだろうか。的な一般論の偏見で満たされているような感じがしてしまったこと。

脚本のなかで唯一、すっごいオリジナルとおもったのは、パソコンけーたい破壊自殺のくだりと、僕の彼女に好き好き大好きとか超言いまくるところ。あれはすごくよかった。

ネタバレ外にも書いたけど、この作品はとにかく空間演出が優れているとおもった。僕と対話するひとをひとりづつロシアンルーレットのように回転させて、『僕』の混乱をも表現する。キミもボクも地球だって、ぐるぐる回る。

ただ、役者の演技についてはちょっと過剰だったような気はした。自分がどちらかといえば、辛い時にほんとにひとは辛いと言えるのかな、とか泣きたい時に泣けないことだってあるんじゃないか。とかおもったりする側だから、なのかもしれないけれど。
あと、妖精ちっくな衣装も、正直言ってあんまり・・・だった。
30まで童貞だったら妖精になれるとかいう都市伝説をベースにしてるっぽくて、そういうのもなんだかなぁ・・・苦笑

というわけで、この作品に対して抱いた感想ははっきり言うと『嫌悪感』だった故、まんまと公演の意図に乗せられたのだけれど、
この作品の次の日に『ファイナルファンタジー』を観る予定を入れていたので、一抹の不安がよぎったことも確か。しかし、それは杞憂に終わった。
それどころか『ファイファン』最高!でございます。
もっと言ってしまうと、ファイファンしか観ていなければ、満足度は星5つあっても足りないくらいだった。それほどまでにグッときたのだった。

話のなかで言わんとしていることは『やがて僕は拒絶する』と同じではあるものの、『僕』と僕をとりまく人々のそれぞれの生活感が身体に染みついる感じがして、説得力が凄まじかった。

『僕』は観客のいる客席という現実から背を向けて、ひたすらネトゲーというめくるめくファンタジアと向き合っているわけだけど。そんな態度であるくせに、ティーシャーツの背中には『僕』という意思表示をしっかり行っていて。
僕は確かに今ここに存在しているということを叫び、訴えているようだった。

『僕』と世界を繋げるものは、ネトゲーと携帯電話だけで。それ以外の物、たとえばお風呂とか冷蔵庫とか、スイカとかそーゆーものは普通にあるけど、適当に抽象化されている。ドアなんて、普通に透明。日常会話も普通にあるし、友だち・彼女・親とだって普通に話す。それなりに。
まったく楽しくもない、生産性のない会話。一方通行の関係性。
そしてだらだらと果てしなく続いていく日常。その倦怠感。わかるな、この感覚。そして「オレの人生、レベルアップするだけだから。」とか、「目が死んでるところが最高なんだよねー」という台詞とか、自分が戦うのは怖いから、誰か代わりに戦ってくれよ。みたいな他力本願さとか。共感するばかりだった。

だけど、いつか現実を直視しないといけない時は必然的にやってくるわけで。
そん時は自分自身で戦わなくちゃいけない。終盤でコントローラーに操られてゲームの世界を走り回る『僕』は、現実と向き合うための訓練をしていたのかな。最後、『僕』はうつむきながら正面を向く。
『クダラナイ日常』と向き合うことは絶望的ではあるけれど、それが希望だと信じるフリして生きるほかない。それが、『ファイナルファンタジー』だとおもった。

この作品は、色んな事象がメタファーで彩られていたから、観るひとがそれぞれ想像できる自由度があって。押しつけがましくない感じが観ていてとても心地よかった。多くの台詞は鋭利なナイフのようにささくれ立っていたけれど、それ以上に空気感で何かを伝えようとしているように思えて、それもよかった。
あと、全編に散りばめられたギャグセンスもすばらしかった。特に、性行為が『はばたき』のイメージっていうのはかなり面白かった。妖精役のひとの動き・表情も変態気質でかなり萌えた。Wあと、手塚の○○○。あれはズルイ。けど相当面白い。大人しく退場せずに、カーテンからチラチラと客席を伺う時のあの顔には奥ゆかしささえあった。笑
あと、尾崎豊を『自殺』『恋人』『若者』のメタファーとして登場させる手腕がアイロニカルでいいとおもった。

終盤のコントローラーに操られた僕が走り回るシーンでwowakaの『ロンリーガール』が流れた時はかなりビビった。あの曲、死ぬほど好きだから。だけど、なんでオリジナルの方じゃなかったのかはかなり謎。原曲のキーはもっと高いハズなんだけど。あと、歌詞の内容を重視するなら、ロンリーガール&ロンリーボーイの両面で作品をつくって、繋がりたいのに繋がれない、繋がらない僕たちとか、出会いたいのに出会わない、出会えない、出会うことを拒絶する僕たち、とかっていう形にしてもよかったんじゃないかとおもった。

それから気になったのは、弾道ミサイルのくだり。『壊れゆく世界』を気に留めない僕、だったり終末感的なデカダンを表現していたのかもしれないけれど、ちょっと中途半端だったとおもう。今、日本は戦地でどこもかしこもすごいことになってる、みたいな混乱をもっと話のなかに噛ませてもいいとおもった。

ともあれ、自叙伝的な2作品だと勝手に想像したので、次回作がどうなるのかかなり期待。
かもめ ~断章~(コーラス・ガールも上演決定!)

かもめ ~断章~(コーラス・ガールも上演決定!)

劇団ING進行形

神楽坂die pratze(ディ・プラッツ)(東京都)

2010/09/30 (木) ~ 2010/09/30 (木)公演終了

満足度★★★

青春ノイローゼなチェーホフ。
チェーホフへの固定観念を打ち砕かれた先月引き続き今回は今年の6月に上演された『かもめ』と8月に上演したばかりの『コーラス・ガール』の2作品同時上演。
『かもめ』は第四章のトレープレフと二ーナが再会する場面に焦点を絞り、大胆に構成。取り巻きの人々の雑念を排して『君と僕しかいない』セカイ系的世界観に徹したことが原曲よりもかえってふたりのダークサイドがフルスロットルに。繊細に積み重なって。気持ちをぶつける度に現実が絶望の吹きだまりと化す様にカタルシスを感じ。夢のなかで生きていたいと願う厨二病的葛藤もあり。適度なセンチメンタルもあり。極めて青春ノイローゼな味わいでありつつも、ここにいるのにここにいないようなニヒリズムが根底に流れていたこと、そうしたなかで生きることが『かもめ』へのアンサーであるように思えた。
続いて『コーラス・ガール』。先月観た時より台詞の掛け合いがよく伝わってきた。反面、空間は丁寧に描き過ぎたようにおもえ、コロスの躍動感がペースダウンした印象。私が全体を俯瞰できる位置から観ていたからなのかもしれないけれど、空間に隙間が目立っていたようにも感じた。

ネタバレBOX

「わたしはかもめ・・・」
という二ーナ(中山茉莉)のモノローグからはじまる『かもめ』。
好きだった男に見捨てられ女優としても鳴かず飛ばずではあるものの、本物の女優として人生を演じ切ろうとする二ーナと、作家としてそれなりに知名度を高めてはいるものの、虚無感は拭えずに。心にぽっかり空いた穴を公二ーナに触れてほしいと願うトレープレフの相容れない想いが交差しないまま、投げだされる。
ふたりは互いの言葉に耳を傾けることも、相槌を打つことも、向き合うこともできずにただ、ひたすら自問自答を繰り返しているよう。その内容はひどく内省的である。

彼らの埋まらない距離感や内なる闇を、コロスらが代弁するように積極的に空間を動き回るのだけれど、実はこれに何となくもの足りなさを感じてしまった。
トレープレフと二ーナが今、どこにいて、時間はどれくらいで、その日はどんな風が吹いているだとか、そういう抒情的な一面や、彼らの哀しみや心のざわめきなどの心情をコロスたちがイマイチ補佐しきれていないような、あるいはフォームの整合性だったりふたりの仲を乱すことだたったりに固執しているように見えてしまった。
そんな事由から、二ーナとトレープレフの濃密な会話に対してドライでフラットなコロスが、各々独立しているような感覚に陥った。
個人的には会話劇とコロスのシンクロする瞬間や、『詩』をもっと感じていたかった。

終盤の、キレキレのダンスとチープな歌入りラップ音のミスマッチ加減はどうも頂けなかった。もっと硬質で暴力的なインストのテクノとかの方が合うようにおもった。
最後の銃声も、羽の音とかにすると、二ーナが飛び立ったとか消えたとか、もう死んじゃっていなかったとか、色々含みを持たせられたような気がした。

作品において二ーナ、トレープレフともに差異はあれど、夢想家であることにおいては大体同じでそれがふたりを繋ぎとめていて。
そんなダウナーな完結した世界にいるふたり、というのは個人的にはとても好きな世界観なのだけど、意外な方向へ話が展開することがなかったのは少し気になった。たとえば『大人代表』みたいな立ち位置で登場したトリゴーリンが、トレープレフに『常識』を植え付けようとしたりちょっとした諍いがあったりするだけで空気感は変わったかもしれないなぁ、とナンセンスコメディの血は騒ぐのでした。まぁ、わざわざ変える必要もなかったとも思うのですが。一応意見として。

『コーラス・ガール』
ペトロヴィッチの可憐なる妻(中山茉莉)その取り立て補佐役としてのコロスたちの妙な連帯感、そしてコーラス・ガールのオカマ・・・。この3者の驚異的なアンサンブルはちょっとくらい勢いで走っては壊れない!笑
こちらも反発と調和を幾度も繰り返した後に巡るカオスが絶妙だと実感すると共に、ing進行形の最大の魅力は、ゴシックでクラシカルな雰囲気を持つ紅一点の中山茉莉の美貌と圧倒的な演技力、彼女の魅力を引き立てるビジュアル系男子たちの統一感のある無個性なのではないかと訝しむ。
JTANフェスティバル2010

JTANフェスティバル2010

JTAN(ジャパン・シアターアーツ・ネットワーク)

神楽坂die pratze(ディ・プラッツ)(東京都)

2010/09/27 (月) ~ 2010/10/03 (日)公演終了

逃げ場のないどこかで語られた何か。
『素舞台において、身体のみで舞台に立ち、表現の意義を問うこと』
を目的とした試みに興味を持ち拝見させて頂きました。
以下、ネタばれにて各団体の感想を。

ネタバレBOX

■aji 「one  mile」
とある一組のカップルの別離の時を、記憶の反復や気持ちの齟齬など意識下レベルから洗い直していく、ディスコミュニケーションをテーマにした作品だったように思えました。

彼が彼女を、本当はまだ好きであることを伝えられないもどかしさを表現する手段として彼の意識下に潜むヘッドフォンをつけた風変りの男が立ち現れて、
『言葉にならない』レベルにまで言葉を砕いたそれがDJのスクラッチ風にリヴァースするのを必死に阻止しようとする場面や、懐中電灯を『眼』に見立てて、あの頃の思い出や残像をモノローグするなど、実験的な試みも多数見受けられ、全体的にアナーキーな印象でした。
あと光、の使い方が美しかったです。

■さのともみ 「ろうのどく」
小学生の頃に冬になるときまって鼻水を垂らしていた『わたし』に鼻の通りがよくなるようにと鼻の下にリップクリームを塗ってくれた母。
しかし『わたし』に使用する銘柄を選ぶ余地はなく、辛くかなしい思いをしたのでもしも自分に子どもができたなら、子どもに銘柄を選ばせてあげたいと思う・・・という内容の、まるで私小説的を朗読しているような、ノスタルジー漂う素朴な一人芝居。

淡々とした語り口のさのさんと、二胡奏者の柳 静さんのアップテンポでのびやかな演奏とがきれいなコントラストをなしていました。
『わたし』をとりまく家族も気になり、長編で観てみたい欲が生まれる世界観をもった作品でした。

■浅見入江門馬+(武藤) 「きょうのからだ」
ビッグバンから進化論、胎内記憶を辿り生誕した人間のダイナミズムのようなものを中盤までは感じたのですが、後半は出口のない真っ暗な闇に閉じ込められた『現代人』が意志を持てぬまま、機械仕掛けに時間に毒されていくような無機質なイメージから都会的な印象を受けました。
しなやかに空間を動き回る浅見さん、マニッシュな雰囲気の入江さん、コケティッシュな門馬さん、それぞれの個性が光っていました。

■長堀博士+奥村拓 舟橋聖一『華燭』
学生時代つるんでいた仲間同士の結婚式でスピーチをする男の一人芝居。
新郎とは恋敵だったこともあって、嫉妬や羨望、絶望、失意・・・あらゆる気持ちが渦巻く複雑な心境で、とても素直に喜べない。そんな気持ちが、男と新婦とが出会った経緯を詳細に、だらだらと未練がましくモノローグする場面で、色濃くなって。それでも新郎新婦には男がもはや立ち入ることのできない強固な絆があって、新郎に自分は勝つことは出来ないと悟ると気持ちはふっきれて、最後は全力でふたりを祝福するに至る。

スピーチ原稿を読む。というシンプルな行為のなかから、ジェットコースターのように変化する男の心境を、シリアスすぎず、コミカルすぎない絶妙なバランスで、声のトーンと表情で見せる奥村拓氏が熱演。

どの作品も、張り詰めた緊張感のなか、逃げ場のないどこかで語られた何かだったように感じました。
心の余白にわずかな涙を

心の余白にわずかな涙を

elePHANTMoon

王子小劇場(東京都)

2010/09/16 (木) ~ 2010/09/20 (月)公演終了

満足度★★★★★

生きることへの渇望、生命力が心の奥にじんわりと広がる。
この作品を観に行くのに自宅の最寄駅から乗った電車が人身事故に合ってしまって。
生き方を決める人たちの話を観るまえに、偶然にも人生に大きな決断を下してしまった人の片燐に触れてたような気がして、立ち会った現実と切り離せないまま、祈るような気持ちで観ていました。
どんなことがあろうとも生きることに対して真剣であったひとたちをみて、何だか荒んでいた心が浄化されたような、明日から前向きに、ひとにやさしく生きようとおもえました。

ネタバレBOX

本土から離れたとある小さな島。
島で唯一の教会の神父であった父親が女を作り出て行ったことに負い目を感じたからだろうか。長男の光広は神父となり、父親の教会を継いだ。弟の祐治は東京で司法試験の合格を目指していたが、その夢は諦めて結婚をし、塾講師を続けながらそれなりに幸せに暮らしていた。
そんなある日のこと。何の前触れもなく結婚相手は自害によってこの世を去った。祐治はその死を今でも受け入れることができないでいる。
救い、あるいは沈静を求めて実家へ戻ってきたことをはぐらかす弟と、自己犠牲を払い神父になった兄とのぎこちない会話からはふたりの間には長い空白の時が流れていたことを予感させる。そして、どんなに取り繕っても埋まらない心の溝があることも。祐治は光広に電話のひとつもしなかったのだろう。光広の祐治への記憶は司法試験を目指しているところで止まっていた…。

そんな兄弟の確執を知る由もない美佐子は、祐治の帰郷に喜びを隠せない。祐治は美佐子の初恋相手なのだ。かつて祐治のある言動によって美佐子は心に深い傷を負ったがそれでも祐治のことが忘れられず、ひそかに祐治への思いを胸に抱えたまま、光広と共に生きていて。けれども閉鎖的な島から私を連れ出してほしい気持ちを少しだけ期待して、美佐子は祐治に『あの時』の気持ちを確かめる。

また、美佐子と同じく祐治の帰郷を喜ぶ晴美は夫・五郎と五郎の妹・由真を心から愛せずにいた。由真は、美佐子の働くふれあいの家(学童保育的な場所?)で面倒をみている子どもなのだが、発達障害を持ち、五郎が漁師をしていることも相まって学校でいじめを受けている。
情緒不安定で何を考えているのかイマイチよくわからない由真と距離を置きたい晴美もほんの少しの逃避願望を持って、祐治と接する。

一方、晴美の姉・明恵は、婚姻予定の韓国焼肉店店主・李との間に子どもが出来ないことで李の両親からくどくど文句を言われていることや、李が不妊治療に積極的でないことに悩み、恋人を自動車事故によって重傷を追わせてしまった李の焼き肉店のアルバイト店員・伊崎は、彼女の入院する本土の病院へ毎日定期船に乗って見舞へ行き、彼女の病状の回復を教会で祈り、そして罪を償うためにも教会の清掃を日課としていて…。

現状の生き方への不安や戸惑い、迷いを肌で感じる人たちが教会で、これから生きていくための大切な決めごとを誓うまでの心の揺れを繊細に紡いだ作品。

教会を訪れるほとんどのひとは十字を切らなくて。祭壇の前で二拍してしまう者さえいるのだけれど、おそらく彼らは願いは叶わないことも、祈りが届かないかもしれないことも知っていて。それでも藁にもすがるおもいでやってきて。
そんな人々を『祈り続けること』でしか救えないことを、神父が理解していることは、なんとなく虚しさを誘った。
カミサマはほんとうに救われなくてはならない人を、救わないものかもしれないけれど、李さん夫妻も、伊崎くんも、藤田さん夫妻と由真ちゃんにしても、みんなそれぞれ自分自身で答えを出して未来への舵を切りはじめた。
その誓いには、たよりない希望が宿っていたようにおもう。

ラスト、光広が聖書をかばんにしまって振り返らずに教会を出て行く場面は、故郷からの旅立ちとさすらいの人生のはじまりを予感させた。
祐治に拒絶された美佐子はその後を追うだろうか。そうであってほしいと願う。夢みることは忘れないでいてほしい、とも。
そして、祐治は島に棲みつき自らを戒めるためにも主(神父)となり、生きながらえていくような気がしてならなかった。

物語の中核を成すと言っても過言ではない、役者さんたちのひとつひとつの表情、まなざし、小さなしぐさからじくじく湧き上がる登場人物たちの胸の奥に抱えるずっしりとした淀み、さりげなく刺々しい言葉の数々には心がひずみました。
暗転のタイミングとその時にかかる楽曲には心地よさを覚えました。

ひょっとしたら観るひとによって捉え方が著しく異なる作品だったのではないかと感じました。かもしれない、という可能性を含む『余白』や沈黙が何かを語ることが多かったようにおもうのです。粗筋に関してはあらゆる憶測を含みつつ記憶をたぐり寄せて書きましたので精密さは危ういです。ご了承ください。
ЖeHopмan【シャハマーチ】 下北盤

ЖeHopмan【シャハマーチ】 下北盤

電動夏子安置システム

Geki地下Liberty(東京都)

2010/09/21 (火) ~ 2010/09/26 (日)公演終了

満足度★★★★

敵はどこにいるのか。
Mヴァージョン観劇。
勝利は行動あるのみ!と言わんばかりにゲームに翻弄されて立ち往生する傾向を持つKチームに対しMチームは、冷静沈着の頭脳集団。相手チームの行動心理を手にとるように読める神の使いのような者もおり、勝敗は戦わずして明らかであるようなものなのですが、たとえこのゲームに勝ったとしても、シャハマーチのシステムは消滅しないということへの葛藤や、ゲームの存在を疑う視点が中心となり、それがチーム間に軋轢を生みつつも、見えない巨大な敵に対する戦いを挑むという点が、非常に興味深かったです。
また、脳内仮想空間と思わしき場所で行われているこのゲームが細胞レベルで組み込まれたある種のマインドコントロールによって統制されているものなのかとおもうと空恐ろしくもあり。
それでいてシャハマーチの世界に大いに魅了されました。

ЖeHopмan【シャハマーチ】 下北盤

ЖeHopмan【シャハマーチ】 下北盤

電動夏子安置システム

Geki地下Liberty(東京都)

2010/09/21 (火) ~ 2010/09/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

シャハマーチは現代社会の縮図。
Kヴァージョン観劇。簡単に言ってシャハマーチという名の盤ゲームを『K』『M』2つのチームがゴールを目指し争っている様子を観る、というもの。駒をすすめていくには『課題(ノルマ)』をクリアーしていかなければならず、言わずものがなチームが一丸となりフォローし合えるかどうかが勝敗の鍵を握るといっても過言ではないのですが、物理的なトラップや、チームメイトにおける疑惑&憶測が矢のように飛び交いますので、とても一筋縄ではいかないようです。そうやって盤上で右往左往するひとたちの様相や小さなトラブルやドラマの連なりは、人間が社会の駒(歯車)となって生きることの世知辛さや諦め、さらには哀切すら醸しだし、あらゆる困難を乗り越えて会社がひとつのプロジェクトを達成させる過程に類似しているようにもみえます。
また、劇中繰り出される数々の会話のなかには、あからさまな理不尽さや不当な扱いを受ける場面もあり、共感するとともに、なぜそんな思いをしてまでゲームに参加するのか?という謎がなぜ人は生きるのか?という根源的な命題に直結し、生きるということは人間としての義務『ノルマ』をこなしていくことこそに意味があるのだろうか・・・と考えさせられました。
シャハマーチの存在自体が資本主義社会をメタファーにしていることや、ヒエラルキーの構造をゲーム仕立てにわかりやすく解説しているように思われる点も世界観の奥行きを感じさせますが、堅苦しいことや難しいことは何もなく、時にはコミカルなコントを挟み、ガス抜きをしつつ見せてくれますので気軽に楽しめるのが嬉しいです。作品は、K&Mのどちらかを選択したチームをクローズアップしてゲームの動向を追っていく見せ方なのでやはり、2ヴァージョンみて、あの時敵陣営はどんな作戦を立てていたのか?などの裏を知り、その世界をより一層深めていくのが楽しそうです。私も日を改めてMヴァージョンを観にいきます。皆さまも現代社会の縮図ともいえるシャハマーチに踊らされに行きましょう!笑

視点 vol.1 Re:TRANS(MU×ミナモザ×鵺的) 満員御礼、審査発表をblogにて公開しました!

視点 vol.1 Re:TRANS(MU×ミナモザ×鵺的) 満員御礼、審査発表をblogにて公開しました!

視点

ギャラリーLE DECO(東京都)

2010/09/21 (火) ~ 2010/09/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

リリカルなアンサンブル。
何かを表現したいひとがいて、それを見たいとおもうひとがいて、そういうひとたちがひとつの場所に集まれば、成立するよね?
そんな風に演劇の原点に立ち返り、シンプルなことをスタンダードなスタイルとして広めていこう!というすてきなプロジェクト。
複数の団体がひとつのテーマ性に沿って創作するというコンセプトを持っているため、多角的にひとつのニュアンスを味わえるおもしろさがありました。
今回の作品群は、フラットな日常を操縦するアンバランスな自意識が感情のメーターごとふりきれてしまった時に溢れだす思いが出口のない闇をさ迷う誰かとシンクロした(かもしれない)一瞬に感じる痛みや余韻を丁寧に描いていたようにおもいました。
作品ごとに印象に残った点を投票できますので、参加してる感がありますし、上演後の結果を知る楽しみも生まれます。
人気のあるイヴェントなので会場は混みますが、座席の窮屈さを差し引いても行く価値はあるとおもいますよ。

ネタバレBOX

■ミナモザ「スプリー」
夜な夜な入院患者の骨を折っている精神科女医(木村キリコ)は、動機はあれど理由なき反抗を繰り返す。そんな彼女のターゲットになったのは、17才の女の子をバイク事故で轢いてしまい、自らも重傷を負った青年(宮川珈琲)。そして精神科女医と不倫関係にある青年の担当医(実近 順次)が織りなすドラマ。

骨を折ることを正当化しようとするために、あれこれと御託を並べてめちゃくちゃな論理を振りかざす女医の暴走の切実さ。
それを頭ごなしに否定できないまま、時々何気に共感しつつ正確にツッコミを入れていく青年がいい味を出していて。
女医は、猟奇的なひとに見えにくい普通っぽさが人格ベースになっていたので、ひとつアクションを起こしたり、ほんの些細なひとことで精神があっけなく崩壊してしまう心の揺れが繊細に伝わってきました。

中盤、女医との別れを切りだした青年の担当外科医が窓から投げ捨てた得体の知れないぐねぐねとうごく物体は、気色悪い女医の姿を投影化させているようで恐ろしく、その彼との関係性の後退がかえって女医と青年との関係性を進化させて、『あなたの痛みは理解できる。』という予感によって立場が逆転するばかりか、誰かを傷つけた罰を受けることで『赦し』を享受し、ひとつの世界にのみ込まれていく終盤が興味深かったです。


■鵺的 「クィアK」
男婦の近藤史信(平山寛人)、彼を週一で買ってる木谷鑑(今里真)、木谷を過剰に愛する菅野紗代(宮嶋美子)それぞれのピュアに屈折した愛憎渦巻く作品。

平面的で絵画的な構図から、徐々に誰かの背景が浮かびあがり、混沌とした時間の流れにのみ込まれていくような異世界が物語として立ちあがり、緊迫した空気が空間を満たします。

序盤は女卑を中心とした場面が多く、息苦しさが伴いますが、真のセクシャリティを反発している感情をポーズ(代弁)をとるための、パフォーマンスという意味のある行為であって。これに相対する文脈としてアイデンティティの齟齬を克服するためにクィア理論の観点に基づいた便宜的/疑似的パフォーマンスをも踏襲したふたりが『痛み』と『赦し』によってひとつに溶けあっていくという点は、ミナモザのスプリーと繋がるテーマでふたつの作品がわたしのなかでひとつに重なりました。


■MU 「無い光」
臨死体験ルポを雑誌で連載している後藤が連載の最終回のゲストに選んだのは同級生で人気イラストレーターの理英(秋澤弥里)。理恵に片想い中の同級生の修造(武田 諭)と、後藤のアシスタントの朝子(金沢涼恵)も加わって、理恵が不倫相手の家に向かう途中に自動車事故を起こした時に彼女が見た『光』について話を聞いていくうちに、後藤と修造のなかでも『死の記憶』が蘇って・・・。

自分の気持ちを誰かに話すと気が楽になるものだよ。とはよく言うけれど、誰かに話せばはなすほど、自分の手から離れていって『物語』になる、という発想がすてきでした。
ひとは結構その『物語』に救われたりするものだから。そこには夢も希望もあるのではないのかなぁ、と。
そして、『希望の光』とは、みえるものかもしれしれないけれど、また見えなくなる可能性も残されているのならば、光なんて無いモノなんだ。っておもうことにして生きて行くほうがずっと気楽なんじゃないの?っていうメッセージもとても心強かったです。
小ネタでは、ドナーカードのように遺書を携帯するのがトレンディにな・・・らないあのギャグセンスは突き抜けていて最高でした。あと、理英が10年前に借りたCDとか本を後藤に返す時マイブラのラブレスが入ってたのは個人的には胸キュンポイントでした。笑

傷ついている誰かと誰かの闇が呼応する・・・というのは3作品とも共通する認識だったようにおもうのですが、この作品ではお互いが傷つけあっているわけではないので、最後は『赦し』をこえた『願い』がきれいな弧を描いているように感じました。
聖地

聖地

さいたまゴールド・シアター

彩の国さいたま芸術劇場 小ホール(埼玉県)

2010/09/14 (火) ~ 2010/09/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

究極の等身大の演劇。
唯一無二の表現方法とは、そのひと自身がこれまでに歩んできた道、経験/体験したこと、年齢と共に積み重ねて来た歴史、生きざまから滲み出るそれらを等身大で表現することに他ならないのではないか?という観点を大切にして活動しているさいたまゴールド・シアターは蜷川幸雄氏率いる平均年齢71歳の超高齢者団体。
私は今回の公演ではじめてゴールド・シアターの存在を知りました。
総勢40名のおじいちゃんおばあちゃんはひたすらパワフルでチャーミング。
ユーモラスもたっぷり。キラキラと輝いていて。舞台はゴールドシアターの方々のパラダイス、『聖地』と化していました。
作品は、高齢者の視点から老いをテーマにした、ある意味究極の等身大の演劇とも言える趣きで、背景に流れる死の足音と、それを笑い飛ばすかのような明るさが美しいコントラストを描きます。
手放しで楽しめる類の作品ではないかもしれませんが、人生の先輩方が役を、自身を真剣に生きようとする姿に今を生きるひとなら誰しも胸が熱くなり、生きる勇気をもらえるはずです。私もすっかり打ちのめされてきました。
今からでも間に合います。是非、聖地へ。

愛とか、愛、

愛とか、愛、

ConRary、

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2010/09/15 (水) ~ 2010/09/19 (日)公演終了

満足度★★★★

アンコントロール、エクリチュール。
演劇的なルールに抱くジレンマを、愛や祈りの『文脈』があれば大丈夫かもしれない。と仮説をたてて自演してみるという挑戦作。
既作にたとえるのは野暮かもしれないがやはり、ソートン・ワイルダー「わが町」→ままごと「わが星」→ロロ「旅、旅旅」との類似点は否めないが、あえてこれらの文脈を踏襲することからはじめたその先にある何かを目指していたのかもしれない。
伝えたいことを誰にでも伝わるようなかたちでわかりやすく象徴化して空間にフィードバックさせる方法を心得ているようにおもえた。
心象風景を代弁するような照明は詩的でさえあった。
今回の作品は『物語の否定』を目指したそうだが、どんなに物語ることを否定しても、話すことと、伝えたいことからは逃れられないことに作家は気づいているようにもおもえた。動向を追っていきたい。

ネタバレBOX

『親愛なる想像よ、わたしがおまえのなかで最も愛することはおまえが容赦しないことである』
プロジェクターに投射されたアンドレ・ブレナンの名言が少しづつ欠けていき、やがて消滅する。

そしてはじまる、演劇という丸い羅針盤で試す、雑然とした単語の羅列。
そこにいるのはひと。あるいはひとでもないかもしれない。
”配役”は撤廃されているようだ。

単語はゆっくりと『文脈』を持ち、モノローグへと変わる。
それは『甘美な後ろめたさにも似た』強いといえば、愛に近い。

『好き 好き 大好き』
『音楽からはじまる匂い』

各々が一斉にしゃべりだし、とてもすべては聞きとれないほど多くの言葉で溢れかえるが、誰かのためにならなかったそれらは溶けあい、音符が生まれ、響きがはじまり、ライムを踏んで、合唱になる。拍数がひとつ乱れ、数列がただれ落ち、文字は歪む。物語は揺らぐ。そして物語ることを拒絶した、しかし肯定に向けて前進する何か・・・。愛?

『みんなで囲む食卓。愛してる。・・・』
そのことばをきっかけに円形の舞台に登場するちゃぶ台。タンス。ラジオ。流し台。いそがしい朝の光景。台詞を読んでる誰か。舞台には誰もいない。

ロックな音楽が流れ出し、ちゃぶ台を囲む家族が
MTVでみるPVみたいなストップモーションで登場。

これ、みたことある。
あれ、どこかで聞いたことある、
何かの本で読んだことのある、物語のはじまり。

1993年5月3日。ありふれた日の朝。食卓を囲む家族。
家を守る母さん。人殺しの兄さん。娼婦のねえさん。
元気な弟と妹。は、学校へ行く。
いつもの風景。退屈な光景。記号化された家族を自演する家族。

「どうして?」記憶喪失の白い女は言う。

右手には夢を、左手にはナイフを持っている兄さんは言う。
「ここにいることは 家族になるということなんだよ。」と。

兄さんに言われた通り、姉をはじめた記憶喪失の女はだんだん家族の一員として溶け込んでいく。

談笑する家族の茶の間を、銃声が流れる。

どこかの国では戦争が起こっているらしい。家族の父親も戦場にいるらしい。

記憶喪失の女はそれをまったく信じられない。

「かれらがいる、といえばいることになる。それが家族なのだよ。」と兄さんはいう。

兄さんは舞台にひとがいる限り誰かを演じることから逃れられないということを、諭しているのだ。

演じていることを自覚しているのに、それでも演じるフリをつづけることに
堪えられなくなった記憶喪失の女は言う。

「ここはどこ?」
「あなたたちは誰?」
「どうしてここにいるの?」
「・・・・演じているの?」

気まづい沈黙が流れる。
これらの光景を、物語の一部として本を読みすすめていたとされる数人の若者たちの手から本は落ち。ページははがれて飛んでいき。
時間が経過するごとにその絶対量は増え。物語はどんどん壊されていく。『僕らの』家族がもうすぐ終わる。

兄さんは、演じることを続けるため、家族のみんなを守るため、
ナイフを持って立ちあがり、女を殺した。

女の死と引き換えに詩が生まれ。ことばが溢れだす。
発光する白い光は黒い闇を打ち消して。
それは痛みにも似た祈り。と願い。
ZOKKYののぞき部屋演劇祭2010

ZOKKYののぞき部屋演劇祭2010

ZOKKY

王子小劇場(東京都)

2010/09/10 (金) ~ 2010/09/20 (月)公演終了

満足度★★★★★

神経細胞に効く。
性年団リンク・竿☆組「来い!如意棒達」、妄想組曲「組曲「妄想」」、当日券でmicroZOKKY「エロスの解剖」を体験。
今回は余計なことは何も考えないでただただ圧倒されてきました。
感想はシンプルに大満足。このひとことで充分です!笑
ちなみにmicroZOKKY「エロスの解剖」は 岡田あがささんの歌う同タイトルのCDを購入された方は絶対に観たほうがいいとおもいます!

ネタバレBOX

■性年団リンク・竿☆組「来い!如意棒達」

ある時を境に某所に刺さった釣竿と共に生きることになった沙織(石井舞)は
漁師の早乙女(和知龍範)にスカウトされてマグロ漁船に同乗し、太平洋沖へ出発。
荒れ狂う波に揉まれ海水が顔面を直撃するなか、見事黒マグロの一本釣りに成功した彼女はマグロ漁船は男の世界という固定観念の撤廃に一役買うと同時に、男女の境界をも超える・・・。

生きる意味を見失っていたひとりの女の子がマグロ漁業に出会い、困難を乗り越えて生きる価値を見つけるまでの魂の成長を描いたハートウォーミングストーリーでもあったような。だからでしょうか。底なしにすがすがしかったです。

しかし冒頭の、沙織の苦悩、釣竿ヒストリーのモノローグは、眼力で呪い殺す幽霊のような形相の顔面どアップでしれっと目を合わせてくるのでギョっとしましたが、チャーミングなトラップだったようで安心しました。笑

また、沙織に竿の振り方をレクチャーする早乙女の背後で、果敢に竿を振っていた乗組員の橘(松本隆志)が、荒波に飲まれ海へ投げだされる様は、男のロマンの幕引きを無言で象徴しているようでした。


■妄想組曲「組曲「妄想」」

こども相談室にやってきた男(原田紀行)の悩みは、自分が6歳児だということを周囲は誰も信じてくれないこと。
それもそのはず。彼はどうみても大人の男。しかし心は子どものままで6歳から精神面の成長がとまっている。
困ったひとね・・・と言いつつも男の無意識下に眠るトラウマを解きほぐすかのようにして、女(葛木英)はやさしくカウンセリングをはじめる・・・。

多くを語らなくとも男と女がいればいづれふたりは無言で見つめ合うことをはじめるだろうことを、淡い幻影のなか、丁寧に紡いでいるようにおもえました。
みえないふたりの呼吸が不思議な残像として、胸に残っています。


■microZOKKY「エロスの解剖」

KIKKYを体験した小部屋。部屋に入ると仰向けに寝るよう指示される。
加えて『男性目線で観ること』という諸注意も。了解した後、透明の筒が渡された。
両手で筒を囲い利き目にあてて、もう片方の目を閉じる。

白衣を着たふたり(柴田ヂュン&三谷奈津子)が『眼』を覗く。
こちらは勿論、覗かれている・・・。
まさに『マイクロ』な覗き。笑

どうやら『眼』は2階の女子トイレの便器のなかでみつかった謎の生命体であるらしい。
研究員の彼らはそう話している。そして挑発してくる。気が気でない。

やがて、『男性目線で観ること』の意味が判明。
熟女の痴態・・・に『眼』が泳いだ。笑
ラストのオチも・・・・・笑った。

シュールでナンセンスな5分間のSFと、普遍的なエロスの真意に迫る離れ業。
細胞レベルで響かせる「エロスの解剖」に恐怖を覚えました。
今回の演劇祭で体験したなかでこの作品が動揺指数&ラブ度数がマキシマムでした。
アイツは世界を変えるらしい

アイツは世界を変えるらしい

けったマシーン

しもきた空間リバティ(東京都)

2010/09/17 (金) ~ 2010/09/19 (日)公演終了

満足度★★★

闇に沈殿する謎。
あのひとはイイひとそうに見えるけれどあぁいうひとに限って裏では恐ろしいことを策略しているのではないか、と頭のなかで勝手に悪いひとに仕立て上げるあの無邪気な悪意にも似た感覚が延々と続いていくようで、なんとなく後ろめたさを覚えました。
物語は現実と地続きのようなことが起こるのですが、事の真相に迫ることにあえてウェイトを置かずに謎として残しておくことを意識しているようにおもえました。
一見、どこにでもいそうな普通のひとびとも、どことなく本心がすっぽりと抜け落ちている感じがなんだかとても不気味でした。
全体的にスローペースで話はすすみますが独特の照明の使い方が不思議な間合いを生み出していました。

ネタバレBOX

NPO団体・創造開発都市の一億円を着服した女が逮捕された。
逮捕されたのは、TV局でADの仕事をしている金山の大学時代の元恋人・アユミ。
彼女は無実でありながら、犯人に仕立て上げられてしまった。

アユミのニュースを報道しているTV局につとめる金山はそのことに気が気ではなかったものの、大学の卒業を目前に控えたある日、踏切前で彼女にフラれた記憶を糧にして、仕事と割り切り、連日連夜彼女のニュース映像を編集していた。
しかし彼女への後ろめたさや罪悪感にさいなまれ、あの時彼女は別れを切り出さなかったと自分に嘘をつき、彼女の無実を証明するために、奔走…。

そして真犯人は現市長の東別院だと判明した。
彼は元々、創造開発都市事業部の局長で、発展途上国に趣き人道的支援を行っていたが実績をあげるために人身売買まがいのことすら行っていた。
やがて政界に乗り出した彼は各報道機関に巨額の賄賂を用意し、印象操作を行った結果見事に当選。

そんな政治と報道の癒着の実態が明らかになるのが先の事件。
これに関連する事柄が、5年前から操作の及ぶとある通り魔事件。
その真犯人は、金山と同じサークル仲間だった同級生・黒川のバイト先の先輩・日比野で、彼女は強い殺意を持って東別院を殺害する。

彼女が殺意に駆り立てる動機や、東別院or秘書の本山との関係性がイマイチ見えにくかったのでその行動は突拍子ない感じに見えないこともなかったが・・・、
そんな彼女のことを買い、商談を持ちかける聾唖のフリをしていたカメラマンの砂田。
東別院の秘書であった本山は、市長の死をほくそ笑み、次期市長の座につく自身を想像し、より一層笑みがこぼれた。

あらすじ書きからファンタジー色の強い作品を想像していましたので、現実的にありそうな社会派ドラマだったのは意外でした。

白いテーブルに椅子が4脚という抽象的で簡素な舞台美術ながら、シーンごとに登場人物たちが立ち会う場所が異なる演出が巧みで引き込まれました。

ひとつひとつのエピソードもよく練られていて引きつけられるのですが
重要なエピソードが終盤に固まり過ぎているようにおもわれたのが勿体なかったです。
全体的に情報を分散するだけで印象が変わってくるとおもいますし、時系列を乱していく構成にすると、『おとぎ話』っぽさがもうすこし出るような気がします。

踏切前が世界を変える方法を象徴とする場所で、都合の悪いことは「なかったこと」に電車の音に紛れて記憶をかき消す着想や、群青色とぼんやりと浮かぶピンスポットを交差する幻想的な照明はとてもすてきでした。

役者さんの演技と、キャラクター演出も総じてよかったとおもいます。特に印象に残ったのは、聾唖のフリをしているカメラマン役の益岡幸弘さん、自分を期待の新人と言い切る新人AD役の宮尾政成さん、ハイテンションで暴走気味な秘書役の望月智和(劇団LYM)さん。
こういうひとは普通にいそう、な領域からほんの少しだけ抜け出す、さじ加減が絶妙でした。

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