愛とか、愛、 公演情報 ConRary、「愛とか、愛、」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    アンコントロール、エクリチュール。
    演劇的なルールに抱くジレンマを、愛や祈りの『文脈』があれば大丈夫かもしれない。と仮説をたてて自演してみるという挑戦作。
    既作にたとえるのは野暮かもしれないがやはり、ソートン・ワイルダー「わが町」→ままごと「わが星」→ロロ「旅、旅旅」との類似点は否めないが、あえてこれらの文脈を踏襲することからはじめたその先にある何かを目指していたのかもしれない。
    伝えたいことを誰にでも伝わるようなかたちでわかりやすく象徴化して空間にフィードバックさせる方法を心得ているようにおもえた。
    心象風景を代弁するような照明は詩的でさえあった。
    今回の作品は『物語の否定』を目指したそうだが、どんなに物語ることを否定しても、話すことと、伝えたいことからは逃れられないことに作家は気づいているようにもおもえた。動向を追っていきたい。

    ネタバレBOX

    『親愛なる想像よ、わたしがおまえのなかで最も愛することはおまえが容赦しないことである』
    プロジェクターに投射されたアンドレ・ブレナンの名言が少しづつ欠けていき、やがて消滅する。

    そしてはじまる、演劇という丸い羅針盤で試す、雑然とした単語の羅列。
    そこにいるのはひと。あるいはひとでもないかもしれない。
    ”配役”は撤廃されているようだ。

    単語はゆっくりと『文脈』を持ち、モノローグへと変わる。
    それは『甘美な後ろめたさにも似た』強いといえば、愛に近い。

    『好き 好き 大好き』
    『音楽からはじまる匂い』

    各々が一斉にしゃべりだし、とてもすべては聞きとれないほど多くの言葉で溢れかえるが、誰かのためにならなかったそれらは溶けあい、音符が生まれ、響きがはじまり、ライムを踏んで、合唱になる。拍数がひとつ乱れ、数列がただれ落ち、文字は歪む。物語は揺らぐ。そして物語ることを拒絶した、しかし肯定に向けて前進する何か・・・。愛?

    『みんなで囲む食卓。愛してる。・・・』
    そのことばをきっかけに円形の舞台に登場するちゃぶ台。タンス。ラジオ。流し台。いそがしい朝の光景。台詞を読んでる誰か。舞台には誰もいない。

    ロックな音楽が流れ出し、ちゃぶ台を囲む家族が
    MTVでみるPVみたいなストップモーションで登場。

    これ、みたことある。
    あれ、どこかで聞いたことある、
    何かの本で読んだことのある、物語のはじまり。

    1993年5月3日。ありふれた日の朝。食卓を囲む家族。
    家を守る母さん。人殺しの兄さん。娼婦のねえさん。
    元気な弟と妹。は、学校へ行く。
    いつもの風景。退屈な光景。記号化された家族を自演する家族。

    「どうして?」記憶喪失の白い女は言う。

    右手には夢を、左手にはナイフを持っている兄さんは言う。
    「ここにいることは 家族になるということなんだよ。」と。

    兄さんに言われた通り、姉をはじめた記憶喪失の女はだんだん家族の一員として溶け込んでいく。

    談笑する家族の茶の間を、銃声が流れる。

    どこかの国では戦争が起こっているらしい。家族の父親も戦場にいるらしい。

    記憶喪失の女はそれをまったく信じられない。

    「かれらがいる、といえばいることになる。それが家族なのだよ。」と兄さんはいう。

    兄さんは舞台にひとがいる限り誰かを演じることから逃れられないということを、諭しているのだ。

    演じていることを自覚しているのに、それでも演じるフリをつづけることに
    堪えられなくなった記憶喪失の女は言う。

    「ここはどこ?」
    「あなたたちは誰?」
    「どうしてここにいるの?」
    「・・・・演じているの?」

    気まづい沈黙が流れる。
    これらの光景を、物語の一部として本を読みすすめていたとされる数人の若者たちの手から本は落ち。ページははがれて飛んでいき。
    時間が経過するごとにその絶対量は増え。物語はどんどん壊されていく。『僕らの』家族がもうすぐ終わる。

    兄さんは、演じることを続けるため、家族のみんなを守るため、
    ナイフを持って立ちあがり、女を殺した。

    女の死と引き換えに詩が生まれ。ことばが溢れだす。
    発光する白い光は黒い闇を打ち消して。
    それは痛みにも似た祈り。と願い。

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    2010/09/19 05:04

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