かもめ ~断章~(コーラス・ガールも上演決定!) 公演情報 劇団ING進行形「かもめ ~断章~(コーラス・ガールも上演決定!)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    青春ノイローゼなチェーホフ。
    チェーホフへの固定観念を打ち砕かれた先月引き続き今回は今年の6月に上演された『かもめ』と8月に上演したばかりの『コーラス・ガール』の2作品同時上演。
    『かもめ』は第四章のトレープレフと二ーナが再会する場面に焦点を絞り、大胆に構成。取り巻きの人々の雑念を排して『君と僕しかいない』セカイ系的世界観に徹したことが原曲よりもかえってふたりのダークサイドがフルスロットルに。繊細に積み重なって。気持ちをぶつける度に現実が絶望の吹きだまりと化す様にカタルシスを感じ。夢のなかで生きていたいと願う厨二病的葛藤もあり。適度なセンチメンタルもあり。極めて青春ノイローゼな味わいでありつつも、ここにいるのにここにいないようなニヒリズムが根底に流れていたこと、そうしたなかで生きることが『かもめ』へのアンサーであるように思えた。
    続いて『コーラス・ガール』。先月観た時より台詞の掛け合いがよく伝わってきた。反面、空間は丁寧に描き過ぎたようにおもえ、コロスの躍動感がペースダウンした印象。私が全体を俯瞰できる位置から観ていたからなのかもしれないけれど、空間に隙間が目立っていたようにも感じた。

    ネタバレBOX

    「わたしはかもめ・・・」
    という二ーナ(中山茉莉)のモノローグからはじまる『かもめ』。
    好きだった男に見捨てられ女優としても鳴かず飛ばずではあるものの、本物の女優として人生を演じ切ろうとする二ーナと、作家としてそれなりに知名度を高めてはいるものの、虚無感は拭えずに。心にぽっかり空いた穴を公二ーナに触れてほしいと願うトレープレフの相容れない想いが交差しないまま、投げだされる。
    ふたりは互いの言葉に耳を傾けることも、相槌を打つことも、向き合うこともできずにただ、ひたすら自問自答を繰り返しているよう。その内容はひどく内省的である。

    彼らの埋まらない距離感や内なる闇を、コロスらが代弁するように積極的に空間を動き回るのだけれど、実はこれに何となくもの足りなさを感じてしまった。
    トレープレフと二ーナが今、どこにいて、時間はどれくらいで、その日はどんな風が吹いているだとか、そういう抒情的な一面や、彼らの哀しみや心のざわめきなどの心情をコロスたちがイマイチ補佐しきれていないような、あるいはフォームの整合性だったりふたりの仲を乱すことだたったりに固執しているように見えてしまった。
    そんな事由から、二ーナとトレープレフの濃密な会話に対してドライでフラットなコロスが、各々独立しているような感覚に陥った。
    個人的には会話劇とコロスのシンクロする瞬間や、『詩』をもっと感じていたかった。

    終盤の、キレキレのダンスとチープな歌入りラップ音のミスマッチ加減はどうも頂けなかった。もっと硬質で暴力的なインストのテクノとかの方が合うようにおもった。
    最後の銃声も、羽の音とかにすると、二ーナが飛び立ったとか消えたとか、もう死んじゃっていなかったとか、色々含みを持たせられたような気がした。

    作品において二ーナ、トレープレフともに差異はあれど、夢想家であることにおいては大体同じでそれがふたりを繋ぎとめていて。
    そんなダウナーな完結した世界にいるふたり、というのは個人的にはとても好きな世界観なのだけど、意外な方向へ話が展開することがなかったのは少し気になった。たとえば『大人代表』みたいな立ち位置で登場したトリゴーリンが、トレープレフに『常識』を植え付けようとしたりちょっとした諍いがあったりするだけで空気感は変わったかもしれないなぁ、とナンセンスコメディの血は騒ぐのでした。まぁ、わざわざ変える必要もなかったとも思うのですが。一応意見として。

    『コーラス・ガール』
    ペトロヴィッチの可憐なる妻(中山茉莉)その取り立て補佐役としてのコロスたちの妙な連帯感、そしてコーラス・ガールのオカマ・・・。この3者の驚異的なアンサンブルはちょっとくらい勢いで走っては壊れない!笑
    こちらも反発と調和を幾度も繰り返した後に巡るカオスが絶妙だと実感すると共に、ing進行形の最大の魅力は、ゴシックでクラシカルな雰囲気を持つ紅一点の中山茉莉の美貌と圧倒的な演技力、彼女の魅力を引き立てるビジュアル系男子たちの統一感のある無個性なのではないかと訝しむ。

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    2010/10/01 01:12

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