満足度★★★
うめめ『ふじき』・初夜の会『水星の如く』・ニュートンズ『SとF』を観た
第1回・第2回は、地方から参加している劇団の公演日が限られていることから、全団体を観ることが難しかった。
今回はそうではなかったので、全団体を観ることができた。
全団体を観た観客は、いいと思う団体2つを選ぶことができる。
「2つ」というのがとてもいい。
今回は面白い作品が多く迷った。
次回もこれぐらいのレベルを期待したい。
ネタバレBOX
今回も役者やスタッフなどのクレジットがない。
団体紹介のVTRにはあるのだが、見終わってからそんなものは覚えているわけでもなく、劇団員以外に客演もあったりするので、コピー用紙1枚でいいから全団体のクレジットを配布してほしい。
H うめめ『ふじき』★★★★
導入部分は惹き付けられるが、どう展開するのかと思っていたら、変な両親だけではなくさらに1つ上の展開に笑った。恋人同士の普通感があるから、両親の一見普通なのに、が活きてくる。台詞の噛み合い方や、突っ込み具合がとても上手い。
緑顔の弟の人が良すぎる。とぼけ具合がいいのだ。
え? ということは、両親とその娘は……というラストのさらなる展開は面白いのだが、もっと効果的にオチとして見せる方法があったのではないかとも思う。
そこがドカンとくればなあ、と思いつつも笑ったのだが。
チープな宇宙船も良かった。
この劇団も本公演が観たくなった。
A 初夜の会『水星の如く』★★
延々と続くモノローグには退屈した。わずか20分程度の作品なのに。
そのモノローグは、ほぼ説明台詞なのでモノローグにする意味が感じられない。
渋いモノローグと変な男の対比にして、その落差で面白くしようと思ったのかもしれないが、そうはならなかった。もっとセンス良くまとめれば、奇妙なストーリーを楽しめたのかもしれないのだが。
まあ、変な男の話もそんなに面白くない。水かけるタイミングの÷さや、男の奇妙さの出し方が上手くないからだ。
そもそもペットボトルロケットは口が下。自転車の空気入れで空気を入れるなどの、それらしさを見せないと台詞だけの説明では面白くならない。
C ニュートンズ『SとF』★★
オープニングから最初の話は面白くなっていったのだが、オチが読めすぎた。
それよりも、テレビ番組の『世にも奇妙な物語』の音楽である。
1本目のあとにこれが流れて呆れた。あまりにもダサイではないか。使い古された人のコンテンツを使って。しかも上手く使うわけでもなく、文化祭でのクラスの出し物レベルである。使うならアイデアをプラスしてほしい(2本目のラストで、それらしいアイデアがあったのだが、それは詰まらなかった)。というか、全編テレビのパクリとかならば、面白みも出たかもしれないのだが、この曲だけを「SF演劇祭」の公演で、ただ単に使うのは思考停止だ。
2本目も完全な一人芝居ならばそれなりの面白さも出たかもしれないが、中途半端である。テンポが悪すぎて短いのに飽きてきた。
満足度★★★★
Eヒューマナムー『カット・エンド(略)』・Iたすいち『透明人間、消える』・Fハイバネカナタ『啼き声は大体うるさい』を観た
必ず前の回が押すので、必ず開場は遅れる。
第2回のときとは異なり、スタッフが開場の時間を告げるのはいいのだが、観客はどう待つのかの指示がない。
仕方がないので、観客同士がなんとなく話したりして列を作るのだ。
札幌ハムプロジェクトの東京スタッフは4人のようで、明らかに手が足りていない。
お手伝いの人もいないようなので、出演する劇団の人たちの手を借りてはどうだろうか。ローテーションを組んで。そうしないと、次回もっと観客が増えたりすると、観客同士のいらないトラブルが発生する可能性もある。
ネタバレBOX
E ヒューマナムー『カット・エンド・カット・エンド・カット・エンド・ハイパーラヴロマンス・カット・エンド・ディストピア』★★
タイトルがなんか凄そうなので期待したのだが、さほど面白くない。
ゼンマイのようなものを巻かないと動かない人間そっくりのロボット。
それで人間が何かを体験するという話。
舞台の上だけで、つまり自分たちだけで完結してしまっているようだ。
もう少し観客にも感じさせてほしい。
彼女が何を得ようとして、得られなかったのか、あるいは得たものを。
さらに彼女はなぜそれを得ようとしたのかが、きちんと伝わり、少しででも共感できるように。
I たすいち『透明人間、消える』★★★★
「透明人間モノかぁ」と思ったが、なかなかセンスがいい。
展開も意外で、面白くなっていく。
ただ、透明人間になっても透明人間は見えないのになぜストーカーはやって来たのか、また、ストーカーはなぜ主人公が透明人間になったことを知り、さらにその理由を知っているのかは不明だが、スピードに押し切られた。
展開として、「なぜ透明人間になったのか」が重要になってくるのだが、「光に嫌われている」の理由がとてもいい。まさかそんな展開とは予想がつかなかった。
プログラムの都合で、この作品は2回観ることになったのだが、2回目はテンポが良くなって、役者さんたちが乗っているのがわかった。観客の反応がいいからだろう。
F ハイバネカナタ『啼き声は大体うるさい』★★★
非常にラフな導入から、演劇的な緊張感の高まりが上手い。上手く役者を分けて使ったな、と思う。
ただし、構成がイマイチ。そもそも教授からスタートしてストーリーを展開していったのだが、中盤から無口の女が登場して、教授とはうまく絡めないまま、助手との会話になっていく。いったい教授はどうなったのだ、と思いながらのラストである。結構面白くなりそうなものなのに、雑然としていて、きちんと整理されていないので、観客に伝わりづらいのではないか。もったいない。
満足度★★★★
第1回から第2回、そして第3回と回数を重ねながら良くなってきた『小さいSF演劇祭』
観客が10人程度で、しかもほとんどが身内ではないかと思われた第1回から比べると、観客の数も増え、なによりも個々の作品の内容が確実にアップしている。
G 劇団回転磁石『ことづて』・D いぶくろ『宇宙人、争奪』・B モーレツカンパニー『トアル会議』を観た。
ネタバレBOX
前回のあまりにも酷すぎる、冒頭やセットチェンジに流す団体紹介のVTRの出来も良くなり、毎回のセットチェンジに同じVTRを流すという拷問も解消された。
さらに全員にスタンプカードを渡すことで、全作品を観て、投票することに促す仕掛けも出来た。
もちろん問題がないわけではないが、こうなると次回が楽しみになってくる。
G 劇団回転磁石『ことづて』★★★★
とても熱い。熱いのに鬱陶しくはならないのは、3人のバランスが良いことと、演出できちんと演技などがコントロールされているからだろう。
熱さがやや一本調子ではあるが、短い時間の作品であるのと、役者がいい感じなので引き込まれていく。
ぐいぐいスピードを増していきつつ、時間を猛スピードで突っ走って到達するラストの感じもなかなかいい。
普段の公演ではどんな感じなのか気になった。
D いぶくろ『宇宙人、争奪』★
いかにも、お芝居してますという演技。
ものすごく学芸会。
突っ込みがことごとく効いていない。
それは突っ込み役の女性が悪いのではなく、突っ込むための相手の台詞(脚本の台詞自体)が面白くないからでもある。
ある程度面白さがなければ、突っ込んでも面白くないし、突っ込むことで観客に面白さが伝わるような仕掛けが脚本になければならない。
ストーリーも面白くない。
B モーレツカンパニー『トアル会議』★★★★
非常に手慣れた感じ。とっても面白い。
登場人物たちが、きちんその役になり切っているので、とても自然に観ることができた。新人AD役の女性の初々しさと声のトーンと、他の人のトーンとの違いが良く、作品内の設定とぴったりだった。
もし、全員が配役を入れ替わっても、どの役者さんもぴったりとあてはまることができるのではないかと思わせる上手さを、役者さんたちに感じた。
ただし、ラストが弱い。ラストに爆笑したかった。多くの観客はそう思ったに違いない。
舞台上に「人」が出てこないから爆笑にはなりにくい。出ないのならば、もっと短く爆発的な何かがほしい。
この劇団は、本公演も観たいと思った。
満足度★★
退屈な90分
いかにもそれらしい雰囲気と台詞、そしてそれらしい音楽。
しかし、台詞が全然入ってこない。
見ているこちら側の問題なのか。あるいは役者や演出の問題なのかはわからない。
ただ、役者が本気でそう思って台詞を言っているようには私には感じられなかった。
退屈な90分。
退屈だけどなぜだか“苦痛”ではなかった。
それが救いか。
ネタバレBOX
岸田理生の『眠る男』は見たこともなく、読んだこともない。
母と息子、父と娘という関係だが、なぜだか「父のいない者は眠れない」という台詞が何度かある。
娘には父がいるだろうと思うのだが。
もし「いないも同然な父」ならば、母のほうもそうだろうに、と思う。
どうもしっくりこない。
父殺し、母殺し的な展開と女帝のエピソードの関係もなんだか。
「女帝」というほとんど実感のない存在もピンとこない。
その設定本当に必要だったのか。
裏表の眠れない男、眠れない女の三者が三様というわけでもなく、うまく重なるわけでもない。
裏表の関係なのだがほとんど同じ。さらに男たちと母の関係と、女と父の関係についても、対比でもなく類似でもないぼんやりとした位置づけに見えた。
役者で言えば、眠れない娘役の人のみが良かった。
この人の台詞のみがこちらに届いた。
しかし、舞台は1人が良くてもどうにもならない。
全体的に散漫でぼんやりした印象。
これがアバンギャルドというものなのか。
だとしたら、ずいぶん退屈で古くさいものなのなのだな。
満足度★★★★
『不眠普及』
新しい才能に出会えた
……のかもしれない。
なんとレベルの高い創作なのか。
60分少々の公演なのに、驚いた。
ネタバレBOX
不眠というのは誰もが体験したことがあるものなので、それに対する個人個人の感覚は違うものではないだろうか。
同じなのは、「眠れないことに“焦燥感”を募らせる」ぐらいか。
覚醒と睡眠は、薄いベールで隔てられている。
いつの間にかそのベールを越えて眠りに落ちているのがほとんどだろう。
「眠れない」と思いつつも、うつらうつらしながら実は寝ていることは多々ある。
「眠れない」という人が、今さっきまで寝息を立てていたのを知らずにいることもある。
舞台の上では眠れない苦痛が延々と続く。
3人の役者は、主人公の頭の中の声と、夢うつつと、現実とが混在していることを表している。
舞台の上のカーテンと糸ベールをくぐり抜け、意識の深いところと浅いところを行き来しているのだ。
その混沌具合が、いかにも「眠れないときに無闇に考えてしまうどうでもいいこと」に思えてくる。
その「どうでもいいこと」が次々と頭に浮かぶから、頭がより冴えて眠れなくなる経験をしたことがある人も多いだろう。
そうしたイライラが、舞台の上にはあった。
自分の頭の中の混沌を表現する戯曲と演出が巧みだ。
自分の声が頭の中で聞こえているのは、夢なのか現実なのかもわからなくなる。
夢の中では、自分の姿が見え、過去にあったりなかったりしたことを見ることがある。
まるで回想シーンのように、だ。
珈琲を引いたり、洗濯物を干したりという日常の情景も挟んでいるが、それも夢の中なのかもしれないのだ。
そう考えると「眠れない主人公」は本当は眠っているのかもしれない。
「感染」とか「宗教と思われて迫害」などという荒唐無稽さがそれを示しているようにも感じる。
この作品はまるで「小説」のようだ。
最初はリーディング公演の印象すらあった。
文字を読んだほうが、イメージがより膨らみそうである。
しかし、すべての戯曲が「文字を読んだほうが、イメージがより膨らみそう」と感じないのはなぜなのだろうか。
それは、舞台の上のほうがより「リアル」であるということ、つまり「意味」に近づいていると直感的に感じているからではないか。
戯曲を文字で読んでも面白いものが、舞台の上でさらに面白くなるのは、生身の人間が演じて見せて(説明して)くれている、という単純なこともあろう。
そのリアルさが文字に命を吹き込み面白くなる。
演出家の力で、読者の頭の中に広げられたイメージよりも、より説得力というか納得度が高くなっているのではないか。つまり、「戯曲を読んだほうが面白いのではないか」とはその時点では感じさせない。
しかし、この作品を観ながら思ったのは、「文字で読んだら面白いのではないか」「文字を読んだほうが、イメージがより膨らみそうだ」ということだった。
ただし、それは「舞台の上よりも“本当”は戯曲のほうが面白いのに」ということではないような気がする。
今回の作品は、戯曲としての面白さを、舞台の上で面白くすることで、さらにその先の、まるで一周回ったように、「文字の面白さ」を意識させたのではないかと思う。
役者と演出が「戯曲の文字の面白さ」を伝えているのではないだろうか。
それだけ戯曲のレベル、演出のレベルが高く、役者も上手かったのではないかと思うのだ。
ただ一点、これはとても大事なことなのだが、「眠れないから毎日男と寝る」という設定の納得度が低すぎた。ストーリーを進めるためだけに無理矢理そこへ持って行ったとしか思えず、そこへの道筋をもっと丁寧にストーリーの中に徐々にでも織り込んでほしかった。それがどんなに理不尽なものであっても、無理矢理でも観客を説得してほしかった。「(読書や映画など)の文化系のことが不得意なので」という主人公の設定1つだけではそこは突破できないと感じた。そこが残念。
まあ、それも「夢の中だから荒唐無稽」というのであれば、仕方がないのかもしれないのだが。
最初は鶴田理紗さんの強さがとても好ましいと思ったのだが、徐々に坂倉花奈さんと新田佑梨さんの良さも現れてくる演出で、3人もとても良かった。
『止まらない子供たちが轢かれてゆく』にも期待したい。
満足度★★★
あれ? この作品の構造って、ひっとしたら……
観ている途中で気がついて驚いた!
なかなか優れている構造なのだ。
『あ・うん』のトレース具合が凄い。
ただし、「想いが強すぎて、手が追い付いていない」という、いつものジレンマで自爆していた。
(今回も長々とネタバレBOXに書きました)
ネタバレBOX
この作品『じ・だん』は、向田邦子さんの『あ・うん』に対するオマージュ的な作品であるということは、なんとなく知らせてあったので、そのつもりを「なんとなく頭の隅に入れて」観た。
なるほど、仲のいい男性2人と女性1人を巡る物語だね。
と思っていたが、男性のうち1人(水田トモキチ)はその女性(水田邦子)と姉弟の関係なのだ。
そこにトモキチ友人である、羽振りのいい八王子の不動産王・倉科が絡んでくる。倉科はトモキチの姉・邦子に気がある。
倉科は、水田姉弟にとても良く尽くすのだが、邦子には直接アプローチしない。
なんだか、やっぱり『あ・うん』の感じなんだが、少し様子が違う。
『あ・うん』だと、水田は夫婦の設定でそこに友人の男が入ることができないという縛りがあったのだが、ここにはそれはない。
ずいぶん話が進んでから、気がついた。
「将棋なんだ!」と。
つまり、『あ・うん』のときに、友人である2人の男の中心にいたのは「女」だったのだが、この作品ではそれが「将棋」なのではないのか。
不動産王・倉科は、プロにはなれる可能性があったのだが、名人になれないと悟り、将棋から身を引く。かたや水田は、将棋を続けた。
つまり、水田は将棋と一緒になったのだが、倉科はそうしなかった。
しかし、多少なりとも未練はある。
その「将棋」という両者の関係にとって微妙なモノが、『あ・うん』のときの水田の妻であるのだ。さらに、そこに実際の女性、水田の姉・邦子が絡んでくる。
倉科の「ネジレ具合」がなかなかのものになってくるのだ。
この設定がこの作品の根底にあると考えるならば、ラストもとても意味ありげである。
もちろん倉科は「将棋」という「女」を、いまさら手にすることはできないが、水田も同様な立場にあることがわかる。
『あ・うん』のラストは確か、夫に付き従って海外に行くかどうかということがポイントだったと思うのだが、妻は、夫の友人が戻るところがなくなる的な台詞で終わったように気がする。
どういう想いがそこにあったのかはわからないが、この作品では水田は「自分では力不足だ」的な発言をポツンとして終わるのだ。
つまり、『あ・うん』では触れなかった自らの立場を、悟らせているのだ。
倉科と違い将棋を離さなかった水田は、将棋のほうから離されてしまったということを察して終わるのだ。
なんという物語だろうか。
手に入らないものがあって、それは手に入らないということを悟らせる厳しいラストなのだ。
ボス村松さんらしい、なんという想い入れたっぷりの濃い話だろうか。
しかし、今回もまたその「想い入れ」の強さほど、ボスさんの「手は動いていなかった」。
エピソードがあまりにもバラバラなのである。
詩的で想い入れの強い、とんでもなく熱い長台詞で、物語の中心をグイグイと持ち上げていく、ムラマツ・ベスさんのような強いキャラがいないのだ。
しかも、そのためかそういうキャラを用意していない。
なので力技で捻り込んできた今までのワザが使えないのだ。
そこで、エピソードでそれを盛り立てようとしたのだろうが、それが活きてこない。
ディズニーランドへのデートのエピソードや寺の住職と息子のエピソード、さらに水田の父親の羽振りがいいころのエピソードが宙に浮いたままなのだ。
こうした数々のエピソードは、中心にある3人に捧げるべきではなかったのか。
さらに言えば、新宿コブラ名人は、倉科か水田のどちらかにするべきではなかったのか。
そうしたほうが物語への求心力はグッと高まったのではないかと思う。
もっと言ってしまうと、ボスさんが出しゃばりすぎた。
オープニングで、なんか一発ギャグ的なものをやりたがっていたが、なぜそこに必要だったのか。
終演後に、誰の制止も聞かずやっていたが、それはもう酷いものだった。
芸人でもないし、誰もそんなものは期待していない。
しかも、ストーリーとまったく関係のない「スキージャンプ」である。
要所要所でストーリーに出てくるのはいいのだが、そこが強すぎて全体を殺してしまっているようにすら感じた。
これでは観客の視点が定まらない。
気持ちは少しわかるが、もっと作品を大切にしてほしい。
今回は、前作『ミハエルとアイルトンとチュウカドン』のときに生まれた、新しい演劇システムが使われているのだが、あのときのような爆発はない。
前回『ミハエルとアイルトンとチュウカドン』の公演が凄すぎたとも言えるのだが。
(このときの感想は、『ミハエルとアイルトンとチュウカドン』のほうに、また後で書こうと思う)
この新システムとはどのようなものかと言えば、作・演のボスさんの席が舞台上手にあり、音効のスイッチングも兼ねている。
物語の途中でダメ出し的な声を挟んだり、コロスの一部となって歌ったりなど、自由に舞台の上に絡んでくるのだ。
それが意外性というか、「なんだこれ?」ともいうべき感覚を生む。
ひょっとしたら凄い発明で、使い方をうまくすれば、鋼鉄村松にとって、新しい武器になるかもしれないのだ。
ほかの劇団ではこんなことできやしない。
「演出家」のていの、役者が出てくるような芝居はあるが、演出家が「ガチ」で絡んでくる演劇なんてあり得ないのだから。
今回は、中心が不在だった。
ベスさんが抜けた後の中華丼さんの扱いがしっかり定まっていないからではないか。
長く劇団の中心にいたベスさんの存在が大きすぎて、その後が定まらないのは仕方がない。次の中心を誰にするのはわからないが、中華丼さんには、中華丼さんの味があって、これがなかなかいいのだから、そこを上手く汲み上げてほしいと思う。
作はボスさんで、演出をバブルさんに任せて、ボスさん自身が中心にいくという「て」もある。あるが「新演劇システム」が使えないか。
ついでに書くと「将棋」である。将棋がわからない者としては、イマイチ乗れなかった。わからなくても「熱」の強さでグイグイ引っ張っていった、将棋が物語の中心の『二手目8七飛車成り戦法』は、十分に楽しめた。
しかし今回は、先に書いたように、物語を支える軸が定まっていないことからの「将棋」であり、どうも「脇」のエピソード的な感覚となってしまって、中身がわからないので、楽しめないのではないか、と言うような感覚に陥ってしまったのだ。
ラストに水田が一言「○○さんのように」のような台詞を言うのだが、その人が誰なのか皆目検討がつかないので、ラストはぽかーんとしてしまった。
演出的なキレも悪いし。
演出的なキレで言えば、「じ・だん」の頭突きも、いい塩梅ではなかった。
もっと上手く使えて、3人の関係を見事に表すことができるいいアクセントとなったと思うだけに非常に残念だ。
役者さんでは、水田邦子を演じた福満瑠美さんがとてもよかった。この人を立てて、ヒロインが主人公の作品でもよかったのではないかと思わせたほど。
バブルムラマツさんは安定していた。村松中華丼さんは、全体に埋もれてしまいもったいなかった。
コブラを演じた新宿ムラマティさんは、出オチならばいいのだが、舞台の上では台詞が埋もれてしまい、ベスさんがかつて演じたコプラの面影はまったく消えてしまっていた。
柱となる役者さんたちが抜け、試行錯誤にあるのかもしれない。
もう1人の作・演のバブルさんは、熱い演劇の王道路線を行っているように見える。ボスさんには、破天荒な熱い演劇を観たいと思う。なので、「新システム」は恰好な道具ではないのか、それを上手く使ってほしい。
次回作に期待したい。
満足度★★★★
面白いパントマイム的なやつ
パントマイム“的”というのは、限りなく「演劇」であったから。
ストリートや国内外で鍛えられたパフォーマンスで、「絶対楽しませる」という気迫を感じた。
そして、気持ち良く笑った60分。
and ナイス! シマシマ!
ネタバレBOX
途中から入場ができないということで、開演は少し押した。
しかし、舞台の上には、野崎夏世さん(なのかな?)がすでにいて客席を和ませる。
まあ、客いじりなどである。
が、これがいちいち面白い。客席はすでに楽しんでいる。
お客さんの中にシマシマのボーダーを着ている方がいて、いい感じにいじっていた。
これがまさか伏線になるとは、このときは、客席の誰もが、というよりも出演者の誰も気が付いていなかったのだ。
パントマイムに日本語や英語、フランス語、無国籍の言語らしきものもが少し加わり、ダンスもあって(これは見事!)、さらに舞台のほとんどが暗闇の中ということもあり、独特の雰囲気なのだが、「笑える」のだ。楽しいのだ。
それぞれの出演者のパフォーマンスのレベルが高い。
きちっとしているから、面白くなるし、そうできなければ、この暗闇の演出が活きてこない。
だから、舞台の上に観客は心から入り込める。変な暇な時間を作ってしまわない。
「暗闇」がなければ成立しない内容で、「暗闇」の作り方があまりにも見事すぎる。なので、照明ももちろん素晴らしい。照明は、パスカル・ラージリさんという方で、フィリップ・ジャンティ作品にもかかわっているという。さすがだ。
ストーリーは単純だが、涙から海への展開と水中の表現など、なかなかである。
ほとんど言語に頼らない内容なので、小さな子どもから外国の方まで楽しむことができるだろう。
ただ、これだけの演出と演技ができるのならば、もっと内容のあるストーリーにできなかったのかと思う。
プロポーズするときに指輪をなくして、見つけるまでのストーリーなので、万人にわかるとは思うのだが、さらに現代を切り取るような深みがあったとしても、このパフォーマンスグループならば、笑えて楽しめて、さらに考えさせたり、うなずかせたりできる作品を生み出すことができるのではないかと思う。
または、世の中にある戯曲を「to R mansion」の解釈で演出しても面白いのではないかと思うのだ。
今後の活動に期待したい。
あ、そうそう、「シマシマ」である。
最前に座るシマシマの方がどうやらペットボトルを落としてしまったらしい。
ドンという音がしたのだが、そのとき舞台にいた出演者が見事にそれを笑いに変えてくれた。まるで客入れ時の客いじりが伏線だったようにだ(笑)。
こんなところや、客入れ時の客の扱い、フクロウの鳴き真似を観客にさせるなど、ストリートで培った経験が活かされているのだろう。このあたりにもこのパフォーマンスグループの強さと上手さを感じた。
ストリートや国内外で鍛えられたパフォーマンスで、「絶対楽しませる」という気迫を感じずにはいられなかった。
東京都のヘブンアーティストということなので、次は、どこかの街角で会えるかもしれない。
満足度★★★★
なぜコペンハーゲンを訪れたのか?
2時間10分程度の上演時間なのだが、15分の休憩を挟む。
一気に上演したらいいのに、と思っていたが、濃厚すぎる台詞のやり取りなので、頭がオーバーヒートする前に一休み入れるのが正解だった。
「コペンハーゲン解釈」などをチェックしておくと、ストーリーを読み解くヒントになるかもしれない……かも。
(ネタバレボックスにまた長文書いてしまいました)
ネタバレBOX
演劇の公演は、できるだけ前情報なしで臨みたいと思っているので、フライヤーも関係するHPも極力見ないようにしているし、上演が始まったらtwitterを含め感想等も避けるようにしている。
もちろん、チケット購入を決定するにあたっては、フライヤーも読むし、関連した公式HPにも訪れる。ただし、数多い公演の中のひとつとして、あまり頭の中に残っていないことがほとんどである。と言うよりも覚えられないということも、あるか。
この公演は、「コペンハーゲン」というタイトルと、物理学に関係するらしいということを観劇前にフライヤーでまた見てしまった。
物理学で、コペンハーゲンと言えば、「コペンハーゲン理論」というのがあったような気がすると思い出し、普段はまずそんなことをしないのだが、ついパソコンで検索をしてしまった。
「コペンハーゲン理論」ではなく「コペンハーゲン解釈」ということがわかった上に、関連する情報として「不確定性原理」や「シュレーディンガーの猫」なんてことも目に入ってきた。
細かい内容は理解できないが、ぼんやりとだけ内容をつかんで、シアタートラムへ向かった。
公演が始まると早速「ハイゼンベルクの不確定性原理」が出てきた。ハイゼンベルク自体も登場人物の1人であった。
そういうことかと理解し、「シュレーディンガー」の話も出て、「猫」のことも出てきた。
後半になると「コペンハーゲン解釈」も登場する。
さらに、「ハイゼンベルクの不確定性原理」を、室内の電気を消し懐中電灯を使って電子を補足することの困難さまで、ハイゼンベルクが自ら説明するのだ。
「コペンハーゲン解釈」は、登場人物の1人であるボーアの研究所で提唱されたものであり、シュレーディンガーもそこでボーアに学んでいたらしい。
「シュレディンガーの猫」は、「コペンハーゲン解釈」の矛盾点から考え出されたものらしいのだ。ボーアともう1人の登場人物ハイゼンベルクは、シュレディンガーについてチクリとした言葉を投げかけたりした。
公演が進むにつれてこうしたことが、実は物語そのものとリンクしているのではないかと思い始めた。
「コペンハーゲン解釈」とは、「量子力学での、粒子の存在に関する世界観の一つ。粒子の位置や状態は観測されるまで特定できず、空間の各点ごとの存在確率の大小としてしか把握できないとするもの」(goo辞書より)であるとされている。
つまり、これがこの物語の肝である「ハイゼンベルクが戦争中にわざわざ、ボーア博士に会うために、なぜコペンハーゲンを訪れたのか」そして、「そのときに2人は何を語ったのか」ということにつながっていく。
2人の邂逅は、デンマーク当局(と言うよりは、ドイツに対抗するデンマーク国内の勢力か?)も盗聴している中、誰にも聞かれないように2人だけで、わずかな時間の中で行われ、その内容は戦後になっても明かされることはなかった。
「観測者」がいないからである。
当人たちが何も語らなければ、何もなかったと同じなのだが、戦時中であることで、敵対する国の2人の科学者の間には何があったのか、いろいろ噂されるのだ。
「コペンハーゲン解釈」的に言えば、観察者がいるまで特定されることはないということ。
これはまた、「シュレーディンガーの猫」的な思考によれば、ひとつのパラドックスも生む。
ここで、さらに「ハイゼンベルクの不確定性原理」との関係も見えてくる。「ハイゼンベルクの不確定性原理」とは、「素粒子のような極小物質は、その位置を定めると、運動量が定まらず、運動量を定めると位置が定まらない」つまり「位置と運動量がトレードオフの関係になってしまうもの」というものであり、先に書いたように「懐中電灯を使って舞台上でやってみせた」それである。
それを物語と重ね合わせると「ある一定の視点(光を当てる)」からボーアとハイゼンベルク2人の考えたことを見る(観測する)と、それぞれに「内容を変化させてしまう」のだ。ある1つのものは見えても、その結果、別のもう1つのものが変質してしまう。
視点が変われば解釈も変わるのは当然だが、彼ら2人科学者が行っているのは、仮定と仮説と矛盾の堂々巡りな議論なのだ。実際に彼らが「何について語ったのか」については、驚くべき内容だったのだが見方を変えれば(光を当ててしまえば)1つに定まることはない。
ボーアが「(原爆を作ることができると証明するために)なぜ計算をしないのか」とハイゼンベルクに問うたことは、政治的な視点から見れば、それをすればドイツが原爆を作ることができるヒントになるのだが、科学者の視点からであれば、先輩科学者からの純粋な疑問でもあるのだ。
しかし、ボーアとハイゼンベルクは敵対している国同士の科学者であり、ボーアはユダヤ人でもある。
ハイゼンベルクが「拡散の計算をしなかった」のは、「(原爆を)作らないため」とマルグレーテの口を借りて語る。
ハイゼンベルクにとっては、「計算しないこと=作らないこと」は、すなわち「国への裏切り」であり、そうすることで「原爆が自分たちドイツ人の頭の上に落ちる可能性」を生んでしまうことにもつながってしまうのだ。
ボーアとハイゼンベルクは、いくつもの矛盾を抱えていて、さらにハイゼンベルクは彼の「ハイゼンベルクの不確定性原理」のように、あちらを立てればこちらが立たずの、トレードオフの関係について考え悩み苦しんでいたのだ。
ハイゼンベルクは政治的な視点から科学(原子力開発)を眺め、ボーアは科学は科学の見方しかしていなかったのだ。
つまり、1941年のそのときには。
その後1947年に会ったときにはそれが変化し、3人とも死んでしまった現在においては、その政治的・歴史的な意味が負荷されていく。
だから、死んだ「今」、41年に起こった「コペンハーゲンでの2人の科学者の話し合い」を振り返ることができるのだ。
41年にハイゼンベルクのコペンハーゲンでボーア博士に会うことは、「原爆を造らないこと」をボーア博士と共有したかったことがハイゼンベルクの言葉によりわかる。
イギリスやアメリカの科学者とも密かに交流のあったであろう、ボーア博士ほ通じてそのことを共通認識とし、どこの国も作らないことを約束したかったに違いない。
しかし、ボーア博士は、ユダヤ人であることと祖国デンマークがドイツに占領されているという「光の当て方」により、もうひとつのほう(原爆を作らないこと)が変化してしまったに違いない。
しかし、ボーア博士を含む大勢のユダヤ人が、デンマークを出てアメリカに亡命できたのは、ハイゼンベルクの手助けがあったことが、3人ともが死んでしまった今、初めてわかる。そこでボーアは自分の中で変化してしまったものに気づかされる。
ボーア博士は、戦中にアメリカに亡命し、原爆開発のマンハッタン計画にも加わる。
そのことをハイゼンベルクから指摘されたボーア博士の言葉の歯切れは極めて悪い。
ハイゼンベルクが原爆の開発をしたならば、原爆は誰の頭の上に落ちていたのか。
ボーア博士は大虐殺に荷担したのか。
ハイゼンベルクは誰も殺していないと言うが、マルグレーテは第1次大戦の戦後、死刑になる兵士をハイゼンベルクが監視していたことを挙げ、その1人を殺している、と告げる。
ハイゼンベルクは原爆開発においては、何もしなかったことで罪をかぶることはなかったのだが、その一方で「何もしなかった」ことで人が1人死んでいる。
これもまた矛盾であり、答えは出ない。
原爆はどこの国でも作られることはなかったのか? という命題に対しては、その開発にはボーアとハイゼンベルクだけがかかわっているわけではなく、戦争中であり、アメリカに亡命した多くのユダヤ人科学者は、ドイツを憎んでいるのだから、まったくそれはわからない。
仮定の話であり、やはり2人の考察は結論が出ない。
2人とも死んでしまった現在においてもだ。
「観察者」であるボーア博士の妻、マルグレーテがそこにいることで、われわれはブラックボックスの中を、少しだけ垣間見ることができるのみ。
したがって、「原爆を作り、使ったことは悪い」とわかっていても、あらゆる要素の中でどうなったのか、は誰にもわからない。
つまり、「シュレーディンガーの猫」は、死んでいたのか、生きているのか、誰にもわからないのだ。
舞台は、ボーア、マルグレーテ、ハイゼンベルクがほぼ出ずっぱりで、濃厚な台詞
が交わされる。
マルグレーテは、ボーアとハイゼンベルクの「観察者」的な役割であり、2人の思考や会話の手助けをしたり、状況を語る。
やはり、小川絵梨子さんの演出は硬質で好きだ。
満足度★★★★
やっぱり歌舞伎はとても面白いコンテンツなのだ
木ノ下歌舞伎は、歌舞伎を優れた古典としてリスペクトし、きちんと現代に伝える役割を担っていると思う。
「歌舞伎って面白いね」と言えるような。
今回は、それを感じた。
「判官びいき」で見たならば、判官を推さずに知盛、安徳帝側を推してしまう。
ネタバレBOX
オープニングの滑り出しがとてもいい感じ。
日本史の授業で受けたはずのことが、シンプルにさらさらと語られる。
音楽に乗り、ダンスのような感覚で、何がどうしてどうなったかと。
象徴的に日の丸が使われる。
現代的・義太夫節とでもいうべきか。
そして、安徳帝の入水シーンが。
今回の『義経千本桜―渡海屋』までに何が起こり、誰がどういう立場にいるのか、誰と誰がどういう関係にあるのかが、ざっとわかるようになっている。
そういう「説明」がないと、「義経」とは何者なのかを知らない観客にはちんぷんかんぷんになってしまわないように、という配慮なのだろう。
ところどころに歌舞伎のような台詞回しを入れながらも、現代語というより、今の話し言葉でストーリーは進む。軽さが心地良く、歌舞伎の台詞回しも違和感はなく、1つの「リズム」の中に聞こえ、響いてくる。
歌舞伎の要素としては、下手から舞台を出る通路を「花道」として設定し、また、後のシーンで知盛が亡霊の姿で舞台の下から現れるのは、花道のすっぽんだろう。すっぽんは、歌舞伎のお約束ごととして、「人ではない者が現れる場所」だから。
壇ノ浦の合戦では知盛演じる佐藤誠さんが、歌舞伎のシーンのように、錨を巻き付け見事後ろ向きで海に飛び込む。これがラストにきちんと活きてくる演出となっている。
義経が都落ちしていく様も、リズミカルでシンプルに描写していく。「実はキツネだった」という静御前を守る忠信も、この公演では『義経千本桜』の最後の段まで行かないので、一応は触れるが、まあ、それは『義経千本桜』を知っている人たちに対してのお楽しみでもあろう。
このように、「渡海屋」の段を楽しめるような前提が揃うのだ。
そして「渡海屋」の段になる。ここに入ってから建物への入口と奥の間への戸(壁も)舞台の上に設置される。
そこまでがシンプルだっただけに、これは必要なのか、と思った。
枠だけで、「あるていで」で良かったのだはないか。
歌舞伎に限らず、舞台では「壁はあるもの」という形で上演されるのだから。あえて「渡海屋」のシーンを強調するためにしても、八百屋舞台の上に微妙な斜めな壁は、設置時間がもったいなく、不安定な印象を受け、さらにビジュアル的にも美しくないので、なかったほうがよかったのではないか。
さて、渡海屋では死んだはずの知盛、安徳帝、その女官の3人が出てくるのだが、冒頭の安徳帝とその女官入水シーン、壇ノ浦での知盛の入水シーンが効いて、さらにラストでリフレインとなっていくので、その部分が強調され、彼らの無念さがグッと伝わってくる。
一方、義経一行は、軽いノリで平家の裏をかき勝利して、うっかり弁慶が鎌倉からの使者の首をねじ切ってしまうという演出であり、ラストでは満身創痍の知盛に対してカジュアルな服装なので、どうも義経に気持ちが行かない。
「判官びいき」という言葉があるが、判官を贔屓しようという感覚はなく、判官びいきするなら、知盛と安徳帝側になってしまうのだ。
無念を晴らすことなく死んでいく知盛、そして義経に連れててかれてしまう安徳帝。哀れである。
ラストは、盆踊りであろう。
すべての「怨」を背負って、死んでいった知盛と安徳帝の女官。
源平の戦いで死んで行った者。
彼ら、死者を供養する踊りではないか。
それはすなわち、運命が待ち受ける義経一行自身の供養でもあろう。
津波のときのニュース映像で何度も聞いたようにな、鳴り響くサイレンと轟音、そして忌野清志郎が歌う日本語歌詞の『イマジン』が流れる。
そこまでやるのはどうかな、とは思うのだが、これはいい意味での「外連味」なのではないかとも思った。
渡海屋銀平と知盛を演じた佐藤誠さんの、歌舞伎ではないところにおいての「怨」の強いエネルギーの内在する感じがなかなかだった。
清盛、弁慶を演じた榊原毅さんもとてもいい感じ。
銀平の妻と女官を演じた大川潤子さんの、一本真の通った姿が舞台を締める。
娘・お安、安徳帝を演じた立蔵葉子さんインノセントさもいい。
結局、歌舞伎はとても面白いのだ、ということ。
このコンテンツをもっと利用すべきではないか。
シェイクスピアみたいに。
木ノ下歌舞伎には、いろいろな歌舞伎の演目に挑戦してほしいので、期待している。
満足度★★★★★
メシアはどこに現れるのか
江戸時代の天一坊騒動を軸にした物語。
初演の『天一坊七十番』の「七十」込められたものは何なのか、そして、今回の「十六」には何が込められているのか。
メシアとは何者か、それは舞台の上に現れてくるものなのか。
(ネタバレボックスに長々書いてます)
ネタバレBOX
青年座だから、こってりとストレートプレイかと思っていたら、いい意味で裏切られたオープニング。
なるほど、近藤良平さんが振り付けしているんだ、と思い出した。
ダンスシーンがなかなかいい。よく演劇公演で見かける、「役者が一応踊ってます」という感じとは少し違う。
きちんとしているのだ。個々の動きがとてもいいし、それは全体のバランスがいいからに違いない。プロの振り付け師が携わるとこんなところに違いが出るのだ、と実感。
現代の作家が戯曲を書いているシーンから始まり、これが演劇であることを明らかにする。
劇中の主人公、天一坊とは、作家の知り合いイワン・イワノビッチ自身の話を江戸時代にトレースしたものだと言う。
天一坊は、小鳥の声を聞き、貧しい者に施しをし、欲もなく、どこか仙人めいている。
そんな天一坊の不思議な魅力に惹かれた人々が集まって来る。
前半は、天一坊が将軍の御落胤ではないかということで、奉行・大岡越前と絡んでくるのだが、大岡越前も天一坊に惹かれていく。
そのあたりから話がぐらりと変化し始める。
イワン・イワノビッチも、あるお方の御落胤である、つまり「神の子」と等しい存在であるという話とも全体が重なってくる。
天一坊が民衆に受け入れられ、その存在が大きくなってくることで、彼の存在に恐怖を感じた幕府は、彼が御落胤というのは偽りではないのか、という疑いをかけ始める。
その結果、世の中を騒がせた罪により縛り首になるという。
天一坊は周囲の人々に別れを告げるのだが、それがまさに「最後の晩餐」となっていく。
ワインを飲み、パンを与える天一坊。
天一坊がイエス・キリストになぞられていく。
「将軍の御落胤であると偽り国を騒がせた」というのは、イエスが「イスラエルの王だと自称し、ローマ帝国に反逆しようとしている」というエピソードに重ねているのだ。
だから、天一坊を罪人にしたくない大岡越前は、総督のピラトであるということなのか。
ただし、イエスのときのように天一坊を裁けという民衆はおらず、天一坊も死ぬのはイヤだと言い出す。
天一坊は「きちがい」であるということで、落着しようとするのだが、彼はその中に収まることができなかった。
ラストに作家が「荒野で呼ばわる者の声がする……」という一連の台詞を言う。
もちろんこれは聖書の中の一節で、ヨハネの言葉である。
ヨハネは「自分はメシアではない」と言う。自分が荒野で呼ばわる声は消えていくものであるということなのだ。
「メシアを示す声」とともに消えて行く。
われわれは「メシアを待望しているのか?」
この作品が初上演されたのは1970年、戯曲の書かれたのが1969年だという。
60年代最後の年、1969年は全共闘など学生運動が最も参加で、アメリカは国内の反戦気運の高まりから、ベトナム戦争から撤退し始める年でもある。
そんな中で「メシア待望」という気持ちが出てくるほど、ナイーブな感情があったとは思えず、逆に「メシア」ではなく「大衆」や「世論」と言った多くの人の声が最も力があると信じられていた時代ではなかったのか。
つまり、「お上」という威光はなく、だから「メシア」への期待もない。
そういう時代の中で、ウソの御落胤騒動「天一坊」がテーマとっているのだ。
幕府と将軍は、天一坊を祭り上げる「民の声」に恐怖し、弾圧しようとするという図式が、この時代にマッチしてくるのではないか。
安田講堂の攻防も確か1969年だったのだから、『天一坊十六番』(戯曲発表時は『天一坊六十九番』)の実際の作家・矢代静一さんには何か予感があったのかもしれない。
そして、天一坊はどうするのか、その去就について作家が先に進めることができないのはそのためだ。
混沌と静寂の中へ物語は収束していく。
『天一坊十六番』の「十六番」とは何なのかと思ったら、上演した年のことを示しているらしい(1970年の初演は『天一坊七十番』というタイトル)。
つまり、その時代性を矢代静一さんは「六十九番」のタイトルの中に込めていたのだろう。
さて、天一坊と時代の関係についてはそんなことではないかと考えるのだが、もうひとつ「荒野で呼ばわる者の声がする……」の台詞には別のものも込められているのではないだろうか。
それはつまり、この台詞は劇中で「天一坊」を書いている作家が口にするのだ。
作家の「声」は、舞台の上の荒野に響くのだが、消えていくものである。
「自分はメシアではない」と述べるヨハネと同様、作家の物語も作り物である。しかし、ヨハネがキリストを指し示したように、作家は「真実」を指し示すことができる。
そして、作品が立ち現れてくれば、作家そのものは消えて行くという運命にあるのだはないかということだ。キリストを指し示したヨハネのように。
「メシア」=「真実」を指し示すことが、ヨハネ、つまり作家や演劇に携わる人の役割ではないかということなのだ。。
これがこの作品に込められていた、もうひとつのテーマではないかと感じた。
天一坊を演じた横堀悦夫さんは、無欲な形で立ち、話す姿が見事だ。「きちがい」となって激高する姿との対比もうまい。
大岡越前守を演じた山路和弘さんも、声もいいし、台詞を笑いに変えるタイミングもさすがである。
椿を演じた安藤瞳さんの、美人風からの豹変ぶり、天一坊への憎悪のようなものは恐ろしかった(笑)。
ダンスと歌の合唱隊は、リズム感もチームワークも良かった。生演奏もいい感じ。
セットや衣装はシンプルながら、要所要所にセンスが感じられ、小劇場で活躍している人たちの参考になるのではないかと思った。
特に後ろの幕の使い方、ビジュアル的にもナイス! 衣装の色合いも。
演出の金澤菜乃英さんは、この作品で演出家デビューと言う。しかし、複雑な作品を、わかりやすく、見やすく、うまくまとめたと思う。なかなかの力量ではないか。
ただ、『天一坊十六番』としたのだから、2016年をきちんと舞台にしてほしかった。
戯曲に手を入れるのはためらわれると思うが、「佐藤栄作」ではピンとこない観客も多いのではないか。
満足度★★★★★
黒だったのか白だったのか
『消失点』と同様の、脚本:吉水恭子、演出:中村暢明コンビによる作品。
事件的なテーマを扱う劇団が数多くある中で、JACROWは独自のカラーがある。
“見苦しさ”がぶつかりあう台詞劇。
JACROWらしい作品。
ネタバレBOX
吉水恭子さんの作風は、当たり前だけど、とてもJACROWのイメージと合っている。
しかし、中村暢明さんの作品のような重苦しさと後味の悪さ(後味に残る苦さ)のようなものはあまりない。
一応「終わる」からだろうか。
と言っても、『消失点』も、この『くろはえや』も「事件(災害)」をストレートに想起させ、さらに事件(災害)のことではなく、そのことによって炙り出されていく人の「気持ち」あるいは「業」について、観劇中も、観劇後も考えさせられることが多いのは、JACROWならではと言っていいのかもしれない。
その点が、JACROW作品の肝であろう。
この作品も、まさにそう。
「脱ダム宣言」をした県知事が長野県にいた頃、平成18年の下諏訪を、作品基本設定としている。
下諏訪を襲った豪雨対策の災害対策室の一夜を中心に、対策室に集う町役場の人々を描く。
雨が豪雨となり、想定外の災害を引き起こす可能性が出てくることで、対策室内は、ちょっとしたパニックとなり、普段は口にしないような「本音」が現れ、「人が剥き出し」になっていく様が、なかなか「見苦しく」って良いのだ。
誰もが何らかの鬱屈した気持ちを抱えていることがわかり、それが「地縁」「血縁」という自縛に囚われていることから起こってくる。
役所の人たちと言っても、当然そこに暮らす人たちだもあり、災害に遭っている人ということが、その「地縁」「血縁」と絡んでくるところがとても上手い脚本なのだ。
切り離せないからこそ、人々の間に軋轢が起こり、関係が歪み、ギシギシと悲鳴を上げる。
「地縁」「血縁」の良さも当然あるのだが、悪さ、醜さもある。
本人が望まぬ形で出戻ってきた、役場の職員の一人、守屋を通して見せることで、地方から出てきた観客の多くは、自分の故郷のことに重ねたのかもしれなない。
彼が役場という仕事に就けたのは、まさに「地縁」によるものに違いない。そんな彼が、自分の故郷が自分を縛っていることを呪うように言葉を吐き出す。
その怒りは自分に向けていることもわかっているのだ。
そうしたことがわかるからこそ、イライラが募り、この災害発生時のタイミングなのに、周囲に喰って掛かるのだ。
豪雨により、時々刻々と状況が悪化していく中で、対応策はとっていくものの、それぞれの思惑とイライラがぶつかり合い、外の豪雨に負けない嵐が会議室内で起こっている。
登場人物たちの表情が、徐々に「悪く」なっていく様が上手い。
「悪いことを言う」顔なのだ。
イライラが伝染していくように、さらにそれが助長していく。
「何言ってるんだ、こいつ(ら)、このタイミングで」と観客の多くは思ったに違いない。しかし、この期に及んでも、いろいろな思惑や、ここで言ってしまえ、といった感覚があるのか、あるいは仕事とプライベートがぐちゃぐちゃしがちな地方ならではの感覚なのか、誰かが何かのタイミングで静止しなければ止まらないのだ。
平成18年に実際に起こった豪雨災害を下敷きにしているという。
この「平成18年」という設定が実は効いている。
「脱ダム宣言」の長野県というだけでなく、東日本大震災も熊本の震災もまだ起こってはいないからだ。
もし、その後の設定であれば、「避難勧告」についてのためらいは出てこなかっただろうし、「想定外の出来事」は常に起こる可能があること、さらに災害に対する対応方法も異なったに違いない。したがって、こうした内輪もめのような事態に陥ることも少なかったのではないかと思うのだ。
そのあたりが上手いと思う。
総務部の危機管理室長・守屋明美は、このゴタゴタの中で、唯一職責をまっとうしようとしている人で、「女が働くことへの風当たり」にも「子どもを残している」ことへの罪悪感のようなものにも、耐えている。
彼女の存在が、災害対策室の崩壊を免れることになっているのだと思う。
だから、ストーリーは破綻せずに地に足が着いたものとなっているのではないか。
地方から東京圏に来て暮らしている観客は、この作品をどうとらえたのか気になるところだ。
「あるある」で「イヤだな」なのか、「それでも懐かしい」なのか。
後日談はさらりとしたところがいい。
「黒南風」だったのか「白南風」だったのかはわからない。
ラストで守屋・兄妹が、ダム予定地で父親の後ろ姿を見つけるシーンはとてもいい。
会議室のみの設定かと思っていたので、それに対する意外さ、つまり、視野の広がりもあったが、何よりも、劇中で何度も出てくる「中止になったダム」の存在と親子、という「地縁」と「血縁」の象徴として、「建設予定地」の古びた看板とともに、きちんと物語に効いてくるのだ。
危機管理室長・守屋明美を演じた蒻崎今日子さんの、子持ち・女性管理職としての安定した演技は、やはりいい。東京から出戻った、守屋徹を演じた小平伸一郎さんの、まるで反抗期の子どものように、捻くれた姿からの、ラストでの故郷への複雑な愛情を吐露するあたりが、とてもいい。自分の気持ちを絞り出すような、感じが。
総務部の若い女子職員・御子柴を演じた森口美樹さんの、若くて仕事をテキパキこなす姿から、物事をはっきり言う本来の姿を見せ、憧れていた田舎暮らしへの嫌悪を、静かに剥き出しにしていく様も良かった。
総務部の足の悪い五味を演じた菅野貴夫さんの、守屋の父親を知っています、からの、事故の責任を問う鬱屈した台詞がとてもいい。
豪雨の中で、ガラス窓の外に水を流すというセットは、細かいことだが、かなりの効果が上がっていたと思う。
JACROWは、もっと大きな劇場で、作り込まれたセットの中での芝居も観てみたい。
近い将来そういう公演が打てることを期待する。
観劇した日は、初日ということもあり、台詞などに固さが残っていた。「宣言を設置する」なんていう台詞もあったりして。特に方言が、長野地方の人間ではないのだが、どうもこなれ切れていないような印象を受ける。
公演後はイベントがあった。緩く観客も参加する形で、この作品のテーマでもある「地方と東京」についてのものだった。
なかなか面白かった。蒻崎さんのところどころで炸裂する突っ込みには笑った。谷仲さんがクラブに行ったとの発言(!)の後に、クラブの騒音の中っぽく「どこから来たのーって言うの?」という突っ込みとか(笑)。
満足度★★★★★
生きるために演じる、演じることで成長する
情熱と青臭さ!
「映画」で“映画”のことを語るように、「演劇」で“演劇”のことを語るのは、少し野暮ったいのだが、それをも含めて「演劇」だった。
(ネタバレボックスに延々と書いてしまった)
ネタバレBOX
DULL-COLORED POPは、たぶん初めての観劇。
何かのフェス的なもので、短編(中編?)を観て、頭でっかちな感じで、あんまり面白くはなかったので、それ以来観ようとも思わなかった。
しかし、twitterである人のお知らせを見て、興味がわき、DULL-COLORED POPのHPの次回公演を見た。
「演劇を見慣れた皆さまへ。−これは特殊な「演劇」です」という惹句がとても気になったので、見に行くことを決めた。
谷賢一さんの“前説”のようなところから、「演劇」は始まった。
「あー、これ、例の頭でっかちなやつなのかな? やっぱりそうなのか?」と身構えたのだが……。
続いて、小学生の男子2人が舞台の上へ。
この2人のやり取りで、そうした危惧は吹き飛ばされたと言っていい。
“ぼく”役の百花亜希さんと、鈴木役の小角まやさんである。
この2人のエネルギーというか、勢いというか、噛み合わせというか、“舞台の上の強さ”に、一気に作品へ引き込まれた。
後はもう、そこには「面白い」しかなかった。
“ぼく”の家での、他人から見れば、ほんのたわいないエピソードも、“ぼく”から見れば、それなりのことであって、彼の“今”はこうした数々の要素によって作られていくのだな、ということを感じさせた。
友だちの鈴木くんとのやり取りもそうである。
見栄のようなものを張ったり、自分のことを見せたり見せなかったりと、すでに彼の中では確実に「(彼の)演劇」は始まっているのだ。
鈴木くんも同じで「鈴木」であることで、「普通」(どこにでもいる、ありきたりの)という言葉にこだわって、すでに「(彼の)演劇」は始まっていたのだ。
彼を取り巻くいろいろな出来事だけが彼を形作るのではなく、彼自身が「彼を演じていくこと」で彼が形作られていくということ。
「演じる」ということは、「対話」でもあるということが、そこに示されていた。
一人芝居もあるだろ、という突っ込みもしたいところだが、彼を形作るには「対話」が必要なのだ。
ここが「演劇」なのではないか。
割としつこく「演じること」について登場人物たちは要所要所で言及する。
ラスト近くでジャージ先生が“ぼく”に、「俺はお前だ」的なことを言う。続けて「悪の組織の一員になる」的なことも言う。
それって、「大人になっていくこと」は、すなわち「“役割”を演じていくこと」であり、つまり、「演じること」は「悪」であるということを言っているのではないか。
しかし、これは「演劇」である。『演劇』というタイトルまで付けた「演劇」である。
「演じること」=「悪」であるというのは、子どもの“ぼく”から見た大人の姿であって、何かに流されていくことで、自分を偽る=演じることは「悪いこと」であると思ってしまう。いや正しくは「大人になった自分を子どものときの自分が見た姿」なのではないか。「(不承知ながら)役割を演じている自分の姿」が哀しくて。
さらに言うと、大勢に流され、「自分が本当には思っていないことを、仕方なく口にしてしまう」「演じている=偽っている自分」がいることを自覚した者(大人)が思うことなのだろう。
自覚があるかないかということは大きな問題だ。
先に書いた通りに“ぼく”の「演劇」は始まりつつある。
「ぼくの演劇」は、自我の形成、すなわち、「自分というものを形作っていく」ことにほかならないのではないか。
「演じること」が悪いのではない。
「演じること」は「偽りを形作る」ものではなく、「自分を形作る」ものであるということだ。
「キャラ」を作る、なんていう言葉があるが、「キャラ」を作ることで「自分のポジション」を確保したりする。
誰もが、自己防衛のために、あるいは無意識にそうしたことを行っているのではないか。
家の自分と学校の自分、友だちの前での自分がある。
全部「同じだ」と言い切れる人はいないのではないか。
これは「人生」を「演劇」にたとえるのではなく、「生きるために、演じること」を、さらに「演じることで、成長していくこと」を見せた作品ではないか。
先生たちの会話はとてもスリリングで緊迫感があった。
対して、小学生の“ぼく”の世界は、その「リアル」とは別の「彼にとってのリアル」がある。
実に“演劇的”で、イマジネーションを見事に膨らませ、虚実がない交ぜになった演出でそれを表していた。
それは、成長期における児童から少年への端境期でもあり、彼の世界が広がり、虚実で表されているように、狭間でもがく少年の姿なのだ。
そし、虚実の、この両者の世界の対比が、「演劇」であった。
そして、第二次性徴的な発育とともに、アレのでっかい作り物が2つの玉を従えて登場するのも、少年期への扉であり、もがく少年の姿でもある。さらに言えば、そうした演出は、「演劇的な楽しさ」でもある。やっぱりこれは「演劇」だったのだ。
少年の成長と大人の自分との対比、それを「演劇」という手法で、虚実という形にし、さらに時間と空間を交差させて見せていく手法は素晴らしいと思った。
舞台の上には「情熱と青臭さ」が炸裂していた。
「ああ! 演劇だ!」と思った。
作品ごと抱きしめてやりたいほどの「情熱と青臭さ」の愛おしさ。
久しぶりに観ていて熱くなった。
意外と言うか、実に「真っ当」で、「オーソドックス」な「演劇」がそこにあったと言っていい。
キャラということでは、小角まやさんは、アマヤドリなどでのイメージでは、作品中の保健の先生タイプなのだが、小学生・鈴木くんでは、観たこともない爆発感があった。(当たり前だけど)その姿にはためらいも何もなく、実にストレートで、キラキラし素敵であり、ぼく役の百花亜希さんとのコンビネーションは抜群だった。
百花亜希さんの健気な姿と視線には、グッと来るものがあった。
特に家のシーンから「何もない」と苦悩するシーンや、“あの子”を連れ出すあたりのスピード感と熱量は素晴らしかった。
ジャージ先生の東谷英人さん、柏倉先生の井上裕朗さんの台詞のバトルは良かった。井上裕朗さんのねちっこさは、たまらない。本多先生の井上裕朗さんの苦悩を抑えた感じもいい。
保護者会の代表的な渡邊りょうさんの、最初は柔らかくって、本多先生に詰め寄るところの、目の恐さは、なかなか。モンペにしか見えない大原研二さんも迫力があった。DVのエピソードが効いてきて、恐さが増した。
ホームレスな人とスクールカウンセラーを演じた中田顕史郎さんも良かった。ツバが盛んに飛んでいた。熱い台詞がいいのだ。
この日はプレビュー公演だったので、これから回を重ねるごとに、さらに良くなっていくのではないかと思う。
ラストに谷さん(?)が何か言葉を発していたようだが、聞き取れなかったのは残念。
オープニングのパートを受けての、つまり、作品を括る大カッコの閉じの部分にあたるのではないかと思ったのだが。
『演劇』というタイトルは、結局「どうなのよ」と思ってしまった。
公演中、「演」という単語が出るたびに意識してしまうし、少々直接的すぎないかと思った。
「演劇を見慣れた皆さまへ。−これは特殊な「演劇」です」も大げさすぎやしないか、とも思ったが、まあキャッチフレーズなのでしょうがないか、とも。
逆に「演劇好きで、気になるのならば、演劇っぽさ満載なので観たほうがいい!」というのが結論である。
「演じる」あるいは「演出する」ということで言うと、役者さんや演出の人たちは、この作品をどう見るのかが、非常に気になった。
劇場に行ってから知ったのだが、活動休止公演だと言う(HPに大きく書いてあったのに、まったく見てなかった・笑)。
これを見逃すとこの先2年は見られないことになったので、観て良かったと思った。
2年という期間限定なので、どこかに行くとかなのかな。
そして、蜷川さんの訃報を、この作品の前説のようなオープニングで知った。
テレビや写真で見る最近の蜷川さんの姿は痛々しくって、心配していたのだが、衝撃だった。オープニングで観客とともに蜷川さんへ15秒間の黙祷を捧げた。
まだまだ書きたいことはあるのだが、これぐらいにしておく。
満足度★★
ほぼ何も感じず、ただぼんやり見ていた
75分ぐらいを……。
ネタバレBOX
「わかば」と言う名のゴトーを待っているような作品なのかと思ったら、そうではなかった。「待つ」ことにはあまり意味がないようだ。
ロープと赤いハイヒールの男という設定で、板付きで舞台の上にいる様子が、いかにも「つくりました」という感じで、最初から「あ〜あ」な印象だった。
まあ、徐々にその理由が明らかになるだろうな、と思っていたらその通りだったし、それほど「へぇ」とも思わなかった。
「それで……」としか思えず、なんとも薄っすい印象で、75分ぐらいをぼんやりと見るだけだった。
男が妹・ふたばをいきなり蹴り、ハイヒールで殴るシーンには、狂気を感じてこれから面白くなるぞ、と期待したが、それもあまりにも意味がありすぎてつまらなかった。殴られて倒れたふたばが、マイクを持って歌い出すところでは、「おっ! 面白くなってきたぞ」と思っていたのだが。
いきなりのこの暴力シーンは、実は男のほうから妹・ふたばを求めていたのではないか、とあとからわかるのだが、それとのちの男の行動が結びついていかない。
「ベッドの下に…」という展開は悪くなかったのだが。
男は1日中後ろ手に縛られているわけだから、「トイレはどうするの?」の観客に思われた時点で、舞台上の世界観が作り込まれていないのではないか。
少なくとも私は「トイレはどうしてるのか?」と思った。ずっと縛られて食事も取らせてもらえずにいたときも。
そんなことは関係ないぐらいの不条理感が舞台の上にあれば、そんな余計なことは思わないし、思っても納得できる。また、ある程度、(観客側との)現実と地続きとして舞台の上を成立させたいのであれば、そんなどうでもいいころを含め不都合なこともうまく適当にかわしてほしい。
女に対して従順な男が、(前の)妻・わかぱに求められたことを素直に実行して、また、その妹・ふたばに求められれば、その通りに実行しただけにしか思えなかった。
「従う」こと、「縛られる」ことにそれ以上の意味を見出せなかったからだ。
もちろん、男女の関係以上に、人間の関係や、拘束についてなど、いろいろと深読みすることも可能だが、深読みしたいと思うほどの面白さが感じられなかった。
縫いぐるみを使った食事も、最初は「!」と思ったが、2回目からすでに飽きていた。
例えば、こういうところを徹底的に面白くするか、あるいは徹底的にうんざりさせるかのどっちかにしてほしい。乾いた笑いでも起きればなあ、と。
いろんなところで変な間があって、それがなんか気持ち悪く、気持ち悪さを意図して、変な間を設計してあるようには思えないところが、また気持ち悪くって、どうも楽しめなかった。
役者の出し入れとか、位置とか、まあそんなところが微妙すぎたのではないか、舞台の上に変な緊張感が欲しかったので、そのあたりは精緻に設計すべきではなかったのか、と。照明も含め。
せっかくの役者の身長差も、なんかもったいない。
満足度★★★★★
『戦争に行って来た』『その好きは通らない』
ハセガワアユム的(美的)センスが光る。
中編『戦争に行って来た』と短編『その好きは通らない』の2本立て。
よくあるのは、短編先にして中編という順番だが、この公演ではそうしなかった。
そうしなかったことを含めての、「ハセガワアユム的(美的)センス」の良さがある公演だった。
長くて伝わりにくい感想を書いてしまいました。
ネタバレBOX
『戦争に行って来た』は初期の作品だと言う。
見終わった感想としては、「最初からレベルが高かったんだなMUは」だった。
とても笑いが多く、それが「笑い」としての「身構え」してないところに、センスの良さを感じさせる。
コメディ的な「面白いことを言っている」という「身構え」がない、あるいは感じさせずに、きちんと笑わせてくれる、脚本と役者と、演出の見事な結果だ。
しかし、ポイントはそこではなく、現代に生きる私たちが感じてしまう、どうしようもない焦燥感や不安を、「戦場で拘束されてしまい、日本中で話題になってしまった人たち」と言う、一見、私たちとは無関係な人たちに重ねてくることで鮮やかに見せてくれる。
昔の作品では、MU、というか、ハセガワアユムさんという人は、「徒党を組むことに嫌悪感を感じているのではないか」と思っていた。
今もそれはそうじゃないかと思っている。
しかし、その根底には「今を生きる私たちの不安感」、それも「それについてうまく言葉では言えないようなヤツ」があるからだ、ということをこの作品は見せてくれたと思う。
戦場カメラマンの五味がその中心にいる。
彼は自分のやっていることに薄々、何かを感じていた。
グロい戦場写真を撮りながらも、それを踏み台にグラビア的な写真にも進出している。
戦場写真一本でやっていって、世界平和を! というわけでもなく、いや、単にというわけでもないのだが、やっぱりピースもラブも大事で、だけどマネーも忘れたくないというところにいる。
すべてがバランス良く並び立つのかどうかはわからないが、少なくとも彼の中でのバランスは悪そうだ。
彼が出会った、夫婦デュオの「普通」の「日常」を超えてしまったような、あるいは、まるで「飽きてしまった」ような振る舞い、彼にの「存在」が、彼の背中を一押ししてしまったことで、薄々気づいていた「コト」に「触れて」しまったのではないか。
つまり、「そんなバランスの悪い(日常の)中に自分は立っているのだ」ということを「自覚させられて」しまった。
彼はこれからどうするのかわからないし、もちろん自分でもわからない、窓の外で行われている暴力は、「窓の向こう側」だったのだが、ラストではそこに入ることを示唆していた。
それは「あちら側」の人になることを決意したのでもないし、「当事者」としての腹を括ったのでもないだろう。
単に「自覚」したのではないか。
彼の不安定さと、焦燥的なものは、彼(ら)のような特殊な立場にいる者だけのことではなく、観客としてこの舞台を観ている私たちのことと同じだとは思えないだろうか。
ハセガワアユムさんは、(たぶん)彼の中にもあるそうした不安を、彼(ら)を通して描いてしまったのではないかと思うのだ。
よくこの短い作品の中で、そうしたものを、笑いとともに見事にまとめたと思う。
笑いの中にもそうした「核」があるからこそ、MUは面白いのだ。
核とは「メッセージ」とは違うものだと思っている。
「伝えたいもの」「訴えたいもの」では「ない」ものだ。
ラストは、サム・ペキンパーの唯一の(哲学的)戦争映画『Cross of Iron』(邦題が『戦争のはらわた』なんだけど・笑)のラストに重なった。
映画のネタバレにもなってしまうので、そのラストについてはこの感想の一番最後のところに書く。
つまり、何が言いたいのかというと、カメラマン五味は、今までの彼とは違うステージに行ってしまったのではないのか、行ってしまったというよりは「自覚した」というところか。
映画『Cross of Iron』のラストで感じた感覚と、この作品のラストの近似性は、言葉では言い表すことができそうにない。
だけど、根っこにあるものは同じなのではないかと思う。
ラストで夫婦デュオに「武器となるボールペン」を持たせ、自らも手にしたカメラマン五味には、皮肉に満ちた笑いがあったように感じた。
声を立ててないし、当然笑い声など聞こえないのだが、暗転の中で五味の笑い声が響いていたように感じたのだ。
五味が写真を撮るために行き拘束されたは「戦場だった」のだが、実は帰国したはずの「ココ」も「戦場だった」というのは言い過ぎなのかもしれない。しかし、五味にとっては「同じ」ような感覚がどこかにあったのではないのか。
私たちも、「今もそこにいる」ということなのだ。
そうした中での彼らの反戦団体を取り巻くさまざまなゴタゴタとか、どうでもいいような近所との出来事には、何もかもがバカバカしくなってくるであろうし、かと言って、そこから逃げ出すこともできない。
だから、自覚した五味は「笑う」ことしかできない。
……この感想、うまく伝わっていないと思うが、こうしか書けません。
中盤ぐらいまでは、リーダー役の古市みみさんが抜群に面白かった。
夫婦デュオは最高! ゲンズブール気取りの中年男とカヒミカリィみたいな女性Voの組み合わせで、反戦歌を歌わせるという、ハセガワアユムさんらしいセンスに大笑いした。
中盤以降から五味役の福原冠さんがじわっと良くなっていく。彼が物語の中心になっていくとは思わなかった、ぐらいの感じがうまい。
会場は、いわゆる劇場ではなく、ただのスペースにすぎないのだが、シンプルなのにセンスある家具などで部屋を見事に作り上げていた。
特に、床に絨毯があるのが、これまたハセガワアユム的美的センスではないか。
段差のある舞台ではなく、かつ客席との境がないので、当然床も観客の目に入る。ここに絨毯があることで、より部屋の深みが増したのだ。
これぐらいのキャパで、こういう会場ならば、最低限の机に椅子ぐらいで済ませるところをそうしなかったことで、物語自体も生きてきた。
10分間の休憩を挟み、『その好きは通らない』。
短編のこちらを後にしたのはさすがだと思った。
もし『その好きは通らない』が先だとしたら、次の『戦争に行って来た』の感じ方が相当違っていただろう。
つまり、「笑い」というラインでつなげて見てしまうし、出演する役者が同じなので、『その好きは通らない』での役のイメージを引っ張ったまま『戦争に行って来た』を観てしまうと、大事なところを見落としてしまいそうだからだ。
なので、『戦争に行って来た』『その好きは通らない』の順を選択したセンスにも拍手だ。
パーラメント役の大森茉利子さんが、いかにもいそうなOLぽさがなかなかだった。
相手の表情を読みつつ、気遣いしたり、ピースへの気持ちの微妙な表情と仕草がうまい。煙草の扱いとかも。
ほかの役者さんたちも、短時間の中で、きちんと時間を切り取って、その人を見せてくれていると感じさせるほど、うまいと思った。
人を見せて、きちんと笑わせてくれた。
−−−映画のネタバレあり−−−−−−−−−−−−−−−
『Cross of Iron』のラスト
鉄十字が欲しいばかりに東部戦線に志願してきたシュトランスキー大尉と、戦場で生きる伝説となっているシュタイナー曹長との確執がストーリーの軸。
ラストで、大尉によって、部下を殺されてしまったシュタイナーが、大尉を殺しに行くのだが、大尉の前に立ったときに、シュタイナーはその復讐心を超えて、大尉にサブマシンガンを手渡し、ともに銃を携えてソ連軍に立ち向かうラストとなる。
そしてシュトランスキー大尉の、少し情けない姿を見たシュタイナーは、大笑いする。その悲痛に満ちた笑い声は、暗転し、戦場の外で殺された者たちの実写スチールとともにエンドロールに延々と重なる。
MUの『戦争に行って来た』のラストで夫婦デュオに「武器となるボールペン」を持たせ、自らも手にした、カメラマン五味の中には、皮肉に満ちた笑いがあったように感じた。
それは、声を立ててないし、当然笑い声など聞こえないのだが、私の脳内では、暗転の中で五味の笑い声が響いていたのだ。
五味は戦場にいるシュタイナーと同じところにいるのだ、と感じてしまった。
満足度★★★★★
「日本オペラの金字塔」という惹句にふさわしい作品
1999年に東京文化会館で上演された、同作品を観た。
今回はそれ以来、16年ぶりの上演となる。
今回の『金閣寺』は、1999年のそれとは、かなり受ける印象が異なる。
ネタバレBOX
臨済宗の「仏に会っては仏を殺し……」の合唱が、主人公・ 溝口に降り注ぐのが、とにかく印象的だった前回と比べ、今回の作品はかなり受ける印象が異なる。
前回は、主人公・溝口の暗い情念を、観念的、抽象的な世界として見せていたのに対して、暗さと情念は同じではあるが、その見せ方が異なっていた。
すなわち、溝口が「寺は焼かねばならぬ」と思い込む様が、ロジカルに描かれているのだ。
「どうして彼はそうした」のか、がわかりやすいとも言える。
内なる、自分ではどうしようもない気持ちを、外に向かわせる方法として、金閣寺の放火しかなかったという観念的なものが、「物語」になっていたと言っていい。
そういう意味において演出は、演劇的であり、どのシーンもわかりやすくなっていて、具体的に見せてくる。
前回あったかどうかは忘れたが、足利満義の姿さえある。
ただし、その結果がないことから(オペラの中で結果どうなったのか、がないため)柏木が溝口に尺八を渡すシーンはカットしたと言う。
また、確か、「猫」のシークエンスもなかったように思える。
これも、拾った猫の処分と、溝口とを重ねるという意味があるのだが、わかりにくいからか、それをカットされていた。
正直、こういうカットはあまり好きではないが、今回の演出意図としては、それはそれで成立していたのではないか、とも思った。違和感がなかったためか。
小森輝彦さんの演じた溝口は、パリトンでぐいぐいやってくる。
追い詰められた者、というよりは、「決心した者」の印象が強い。
彼の悪友・柏木は鈴木准さんは、長髪の感じが不気味であり、とてもわかりやすいキャラとして見せていた。
これも今回の演出の方向性だろう。
舞台中央に、立体的に、そして観客へ鋭角を向けてそびえ立つ、輝く金閣寺のセットの存在感は凄い。
ラストに炎に巻かれる姿は圧巻であり、これだけでも満足度は高かった。
合唱が録音だとしても。
(まだ書き足りないが、時間がないので……)
満足度★★★★★
パラドックス定数『東京裁判』=pit北/区域の最後
実は、pit北/区域ではパラドックス定数の『東京裁判』しか観たことがない。
しかし、この劇場の特殊な空間とサイズを見事に活かした作品である、パラドックス定数の『東京裁判』をここで観ることができるのが最後ということで、それならばと最終日に出掛けた。
ネタバレBOX
パラドックス定数の公演は、会場も作品の中にあることが多い。
『怪人21面相』や『戦場晩餐』などがそうだ。
そして、この『東京裁判』もpit北/区域という場が、作品の一部になっている。
展開ももちろん、今回で4回目となる『東京裁判』なので、作品内の出来事はすべてわかっているのにもかかわらず、やっぱり作品に引き込まれてしまう。
偶然だが、ここで過去2回観た席とは今回は方向が異なったことで、役者さんの別の表情を観ることができた。
役者さんの視線の配り方とか、身体の方向の向け方、西原誠吾さんの唇がわなわなと震えている演技に初めて気が付いたりしたことも得した気分であった。
今回pit北/区域が最後の最後ということもあって、やや演技の熱の度合いが強すぎた感はあるが、笑いのシーンではきちんと観客が笑い、舞台との一体感まで感じられた。
これが「pit北/区域」での「パラドックス定数『東京裁判』」なのだなと実感した。
パラドックス定数は、先に書いた『怪人21面相』や、226を描いた『昭和レストレイション』など、歴史的な事件や事実を背景に作品を作り上げているジャンルがある。
「伝奇ものSF」の作家・半村良さんが、伝奇モノを書くときにどうしているか、という問いに対して「2万5千分の1の地図を広げて、そのどこかにスッとカミソリを入れ、そこを指で広げた場所を描く」というようなことを言っていたような気がする(たぶん・笑)。
パラドックス定数の野木萌葱さんの作品は、まさに「歴史や事件の時間軸にカミソリを入れ、そこを広げた時空で演劇を描いている」のではないだろうか。
実際の事件や歴史上いた人物や、その場にいかにもいそうな人物を配し、そこで起こっていたような出来事を妄想する、そんな感じではないだ。
パラドックス定数の『東京裁判』は、観客の知識の濃淡をある程度踏まえて、基本的なところは押さえつつ、知識の濃淡に応じた楽しみ方ができるのもテーマの選択の上手さかもしれない。
「東京裁判」についてほとんど知識がない人にとっては、初めて聞くような内容や登場人物だったり、ある程度の知識がある人にとっては、思わずニンマリしてしまうような設定や展開だったりだ。
しかも、机1つに椅子5脚だけのシンプルな装置なのに、巨大な裁判所が浮かんでくるのだ。
5人同士に向かう熱や外に向かって発せられる熱のバランスも良いから、5人が(立ったり座ったりの動きがあるものの)机の前にいるだけで延々会話するだけなのもにかかわらず、緊張感は途切れず、物語の動きやうねりを見せてくれる。
残念なことに、pit北/区域という会場の面白さである地下の舞台を見下ろす1階席(傍聴席)から観ることができなかったのは残念ではある。
また、どこかで『東京裁判』を観ることができると思うが、そのときにも是非行きたいと思う。
『東京裁判』の作品の中にあるような、良い会場だとうれしい。
満足度★★★★★
シンプルな舞台か らの熱量は凄まじい
今回でこの作品を観るのは3回目。
今までの2回はpit北/区域という観客の集中度が増すサイズと空間の劇場だったので、今回のような、“普通の”舞台で演じるときに、同じような感覚を得られるのか、あるいは演出を変えてくるのか、が興味の中心にあった。
ネタバレBOX
しかし、果たしてそんな事前の感情を吹き払うような、素晴らしい舞台だった。
劇場に入るとあえて舞台裏が見えるようになっている。
「虚構である」ことを意識させるためかなのか。
と思いもしたが、よくよく考えるとpit北/区域では観客の姿や気配を感じる舞台だったので、こうした「虚構である」という企みはすでにあったかもしれない。
先に書いたとおり、この作品を観るのは3回目だ。
それにもかかわらず、まるで初見のようにラストまでの1時間40分間、惹き付けられた。
改めて戯曲や役者の上手さ、演出の確かさを感じた。
舞台から届く緩急の波、熱量、役者の一体感が素晴らしい。
pit北/区域では表現しきれなかったであろう、微妙な照明変化もいい。
満足度★★★★★
わずか95分間に、人と人との間に立つ波を、見事に表現していた
青☆組を初めて観たときに、「なんて品のいい作風なんだろう」と思った。
まるでビロードか何かのような手触りがする、こんな作風は今まで観たことがなかった。
(ネタバレに長文書いてしまいました)
ネタバレBOX
時に、「昭和」を意識させるような時代背景が、その作風にマッチしていたりする。
見終わったあとに、心地良さと、先ほどまで舞台の上にあった物語とその背景や前後を、反芻して帰宅する楽しさもある。
しかし単に品がいいだけの作品ではなく、観客の心にさざ波を立てる(大波ではなくて)、センスの良さが憎いのだ。
それを「切なさ」としか言えないボキャブラリーの少ない自分が情けないが、とにかくそうしたものが私の心を乱すのだ。
しかもそれだけで終わらず、「未来」の「光」をキラリとラストに見せる上手さがある。
それが、「いかにも」な感じだったり「取って付けたよう」な感じではないところに、吉田小夏さん戯曲の非凡さ、つまり、「品の良さ」を感じる。
台詞で多くを語らせずに、登場人物たちの心情の有り様や、変化を感じさせるのは、戯曲の良さもあるし、演出の上手さもある。
もちろんそれを体現する役者の技量もある。
「語りすぎない」ところの「隙間」の具合があまりにも良いのだ。
そこに観客の「想い」や「経験」が見事にはまるから、作品はさらに豊かになる。
今回の作品は、「切なさ」が「苦しい」。「痛さ」もある。
話は少々脇道に逸れるが、青☆組の看板女優とも言える福寿奈央さんが、実は少し苦手だ。
それは、作ったような笑顔や表情が上手すぎて、観ているのが苦しいからだと今回の作品で思い当たった。
女の人は、忍耐強いと思う。
忍耐強くて、少し無理をしてしまうことがある。
そんな表情を、的確に、福寿奈央さんはしてしまうのだ。
そんな表情をさせてしまうことが苦しいのだ。
恋人とか妻とかそんな身近な女性にそんな表情をさせてしまう自分がいる。
それがわかったところで、例えば、「大丈夫?」と聞けば、「大丈夫」と答えるのがわかっているだけに苦しい。
だから、この作品の、劇中での「ごめんなさい」なんていう台詞は、とっても「苦しい」。
「ごめんなさい」のニュアンスの違いも上手い。
文字にすれば同じ言葉であっても、言葉の表情で、その言葉の持つ意味、重さが変わってくる。
そうした、微妙な差が、とても染みてくる。
この作品はどの立場で観ていても苦しいとか、痛いとか感じてしまうのではないか。
妻の典子にしても、夫の和彦にしても、典子が好きだった健介にしても、だ。
典子と健介は淡い関係で、典子は恋人の健介を捨てて和彦に走ったわけではない。
その「淡さ」ゆえの、「結ばれなかった」関係だからこそ、典子は、健介との「あったかもしれない世界」を心の中で育ててしまったのだということは、この年齢になるとわかってくる。
典子は夫である和彦に不満はないだろう。
しかし、「心の中で育ててしまった、健介への気持ち」を、(和彦との結婚までに)きちんと葬り去ることができなかったのはよくわかる。
結ばれることがなかったから(告白されて付き合っていないから)、きちんとした「別れ」がなかった。
単に距離が離れてしまっただけ、なのだから。
だからこそ、新婚旅行で距離が近づいたことで、育てていた心の中の気持ちが芽を出しそうになってしまったのだろう。
男は、とても未練がましい。
体験的に自分でもよくわかっている。
女性はそうではなく、スパッと切り替えることができるものだと実感していた。
しかし、実は人の気持ちはそんな簡単に切り替えることはできないのかもしれない、と、この作品を観て感じた。
それは、「切ない」より「苦しい」ことであり、かすかにでもそうしたことに身に覚えのある人は、身もだえしたのではないか。
そして、福寿奈央さんの、アノ表情である。
内に秘めて、いや、押さえ込んで、笑顔を「(今の)最愛の人(たち)」に見せる。
夫の和彦も、なかなか苦しい。
典子と健介の淡い気持ちを知りながらの、プロポーズであるし、海辺での典子と健介の邂逅も目にしてしまった。
なにより、「毎年(たぶん)、ミカンが送られて来る」ことで、健介が頭の片隅に居座っているのだ。
さらに、典子は自分(和彦)のことを忘れそうになっている。
自分(和彦)の代わりに、典子の頭の中には健介が今も、あの爽やかな姿でいるのではないか、と思うのも無理はない。
健介には落ち度がある。
家庭の事情で故郷に帰ったとしても、典子をつなぎ止めるために、手を尽くすべきだったと後悔をしただろう。
そして、それをまるで罰するように、彼は独身のままだったらしい(遺品整理は健介の姉が行ったことなどからそう判断した)。
典子が新婚旅行で健介の元に訪れたときに、一瞬火花が散るような感情が典子から現れたが、健介のそれとはシンクロしなかた。
そのズレこそが、彼らが一緒になれなかったことを大きく表しているのではないか。
そんな、ほんの小さなズレで、2人の人生は交差しても、結ばれることはなかったのではないか。
そこが、実は健介と和彦との大きな違いだったのではないだろうか。
2人が結ばれるときの「赤い糸」とよく言われるものは、実はそうしたタイミングとシンクロではないのか、と思う。
典子がそのまま砂浜に留まっても、健介はそばにいるだけで2人は何もなかったように思える。
時代背景がそうであるし、健介はそういう男であるように見えたからだ。
典子は和彦と健介という2人の男の間で、波を立てる。
いや、彼女自身が「波」だ。
波は寄せては返す。
波は男たちの足元を濡らし、大海原へ戻っていく。
次に寄せてくる波は、同じものではなく、波の形も力も男たちには絶対に読めない。
体内に海を持つ女性のことは、男には永遠にわからないのだ。
海は、世界のどことでも繋がっているだけでなく、どの人とも繋がっている。
海から生まれた生命は、いずれ大地へ空へ、海へと還っていく。
典子はそう遠くない日に海に戻っていくのだろう。
和彦は、それを感じながらも、(今まで通りに)生きていく。
それが、夫婦なのかな。
わずか95分間に、そうした人間模様と人の間に立つ波を、見事に入れたのは驚嘆してしまう。
海流のように、舞台の上を役者が流れて、舞台の空気を少しかき乱すの演出のうまさ。
さらにユーモアまであり、波のように舞台上を作品が動く。
今回感じたのは、視野の広がりだ。
青☆組作品の印象は、小津調とも言えるような、畳上からの視線だ。
しかし、今回は、海と空、飛行機雲と沖合の船を描写することで、登場人物の視線の先に広がりを見せた。
それが観客にも伝わった。
光を織ったような舞台装置が印象的だ。
舞台を邪魔することなく、煌めいていた過去の思い出や、キラキラ輝く海を想起した。
5人の登場人物、典子 和彦、美幸、春江、健介が、それぞれに五線譜になって、歌を奏でていた。
FUKAIPRODUCE羽衣の日髙啓介さんが、青☆組の舞台に出るということで期待していた。
ロックで哀愁がある素晴らしい役者さんだと思っていて、ガッツリなストレートプレイの舞台で拝見したいと思っていたからだ。
青☆組に登場する役者さんたちは、しょうゆ顔(笑)の印象がある。そこへ濃い日髙さんがどう絡むのかと思っていたが、見事にはまっていた。若い和彦さん役の荒井志郎さんとの対比だけでなく、後ろ姿がなんとも言えない。特に典子と海辺で会ったあとの姿がだ。日髙さんにしか出せない空気ではないかと思った。
藤川修二さんが、健介ではなく、和彦だったということがわかる瞬間は、上手い、としか言えなかった。藤川修二さんのあたふたする感じが、見た目の年齢も相まって伝わるものがあった。
典子は和彦とは違い、福寿奈央さんが1人で演じることで、昔に返ってしまった妻、それは年老いた和彦から見た姿であり、健介を思い起こさせる姿である、ということを見事に示していたと思う。
若い姿の妻・典子は、和彦にとって、(今を忘れて)昔の時間に盗られてしまうような恐怖であったのかもしれない。
改めてフライヤーを見ると写真が語っているな、と感じた。
満足度★★★★★
160分間の苦痛
肉体的にも精神的にも疲れ果てた。
上演時間160分で休憩なし、のアナウンスに恐怖した。
まさに恐怖はやって来た。
(うまくまとまっていませんが、ネタバレボックス内は長文になりました)
ネタバレBOX
オープニングから苦痛とも悲鳴ともつかない叫びと、身体の芯に響くような重低音が会場を充満する。
さらに下着を脱いでの自慰が舞台の上に。
激しい男女の台詞。字幕の文字が追い切れないほど捲し立てる。
舞台上方にある字幕と舞台上の俳優を交互に観ているから、目もつらい。
ワルツの生演奏とダンスで箸休め。
箸休めと思っていたら7曲ぐらいも続く。
意外と気持ちいい。
そしてラストの超個人的カオス。
たぶん1時間以上も1人で叫び、囁き、歌い、がなった。
圧倒される。
そんな160分。
終演後は、身も心も疲れ果てていた。
作・演出のアンジェリカ・リデルの内面がグロテスクなほどさらけ出される。
ラストのモノローグだけではなく、オープニングからラストまで延々と「彼女」が語られる。
アンジェリカ・リデルは1人で立っている。
どこにいても1人だと感じている。
「ウトヤ島」。
その名前だけ聞いて、申し訳ないが凄惨な事件と結び付かなかった。
彼女の孤独とウトヤ島で命を落とした若者たちの、断ち切られてしまった未来が重なる。
それは彼女を産んだことで、彼女から憎悪を浴びせられることになる「母」の存在をも巻き込んでいく。
「生」と「死」。
「生」に結び付かない「性(行為)」である“自慰”は、「母」への憎悪の象徴だ。
しかし、ラストへの展開で、そのすべてがクルリと裏返ってしまったように感じた。もちろん意図的に。
つまり、彼女が、「自分の母」から、「世のすべての母」への憎悪を拡大していくアジテーションの中で繰り返し繰り返し叫び、吐き出していたものが、ラストに見せるウトヤの光景(少年との邂逅で)で一瞬にして「生(命)」というものの大切さ(もっとふさわしい言葉が思い浮かべばいいのだが、残念ながら今はこれしか浮かばない)にひっくり返されてしまったのではないか。
彼女が作った作品であるから、ウトヤ島の事件から彼女が長年抱えていた問題(母とか母親とか)への、1つの糸口が見えての、この作品ではないのだろうか。
「母への憎悪」とともに、生きていることの尊さ、ありがたさも同時に感じているのではないか。
「老い」への恐怖を道連れにしながら。
「ウェンディ」は、「母」の象徴だ。
気ままに暮らすピーターパンの母親役を務めさせられる。
まさにアンジェリカ・リデルがなりたくないモデルが「ウェンディ」である。
ウェンディという女性は、なぜ作られるのか?
それは、「社会」がそうさせる。
すなわち「女性は結婚して子どもを産んで幸せに……」というまったく変わらない世の中の考え方があるから。
「産む性」である「女性」に期待されるものは結局のところこれなのだ、ということ。
アンジェリカ・リデルはそれがたまらなくイヤなのだろう。
ここは、自分の「母」との関係ではなく、そうした社会の“在り方”と「自分自身」の“在り方”の関係性から出てきたものではないのか。
それが彼女独自の「母」への気持ちと結び付いた(付けた)。
劇中で何度も流れるアニマルズの『朝日のあたる家』。
歌(歌詞)も出てきたのでアニマルズであることがわかる。
アニマルズ版の『朝日のあたる家』は、少年が主人公である。
しかし、伝承曲のオリジナルに近いであろう、ウッディー・ガスリーやボブ・ディラン版では、主人公は女性なのだ。
高田渡も『朝日楼』のタイトルで訳して歌っている。こんな歌詞(訳詞)だ。
「ニューオリンズに女郎屋がある ひと呼んで朝日楼 沢山の女が身を崩し そうさあたいもその一人さ…」
つまり、アンジェリカ・リデルは“あえて”「アニマルズ版」を使ったのではないか。
「娼婦」の歌を「少年」の歌にしてあるほうをだ。
「娼婦」とは、「ウェンディにされた女性たち」のことではないのか。
アンジェリカ・リデルはそこを捻ってみせたのではないだろうか。
『朝日のあたる家』が何度も流れ、自らも歌ってみせることで、彼女の叫びは「朝日のあたる家」=「朝日楼」の中にあるということを。
彼女は「母」が悪いと言う。
世の中の「母」がすべて唾棄すべきモノだと言う。
それは本当なのだろうか。
「母」が「母」となるのは自然のこととしても、「社会的」に「母」になっていく(なることを期待される)のは、「社会」との関係ではないのか。
自らも「ウェンディ」と結びつけているのだし。
だったら、「母」をこのように激しく攻撃することは違うのではないのか。
彼女が向かうべきは「社会」である。
そして、ウトヤ島の殺人犯が向かうべきなのは、ウトヤ島の若者たちではなく「社会」なはずなのだ。
そして「銃」で向かうのではない。
ラストにそのことが提示されたのではないのか。
アンジェリカ・リデルは、殺人犯であり、殺された若者たちでもあった。
アンジェリカ・リデルは1人で立っている。
どこにいても1人だと感じている。
たぶん孤独だと思っている。
外国人として過ごすことができる上海では、それが“外国人”というレッテルで隠れたようになる。
上海でワルツを踊る老人たちには「老い」の「醜悪さ」は感じない。
「老いていく」自分の存在の、諸悪の根源である「母」という図式がここでも少し崩れたのではないか。
1曲踊るだけではなく、7曲もワルツは演奏され、老人たち以外も踊るのだ。
「老い」「死」へのワルツを。
160分間の苦痛は、アンジェリカ・リデルの内面での葛藤だ。
それを観客である我々に押し付けてきた。
アンジェリカ・リデルは1人で立っていて、(彼女にとって)すべての出来事の中心にいる。
当然、我々も、“我々にとって”すべての出来事の中心にいるわけだ。
しかし、そうしたすべての出来事を背負うことはできない。
背負えば狂ってしまうだろう。
狂う前に吐き出すこと、それが生きる術なのではないか。
若者たちが血を流し横たわるラストは、延々と続いたアンジェリカ・リデルの叫びよりもズシンときた。
個人的な「母」への憎悪が、世の中すべての「母」に対する憎悪へ拡大することには、もう1つ「何か」ありそうな気もする。
それは彼女が「女性」だからだ。
しかし、この作品では、そこには蓋をしてしまっている。
そこまでは露出しなかったのだ。
その蓋もいつか開けるときがくるのではないか。
満足度★★★
なぜ今、クラッシックなスパイモノを……
競泳水着の上野友之さんと、クロムモリブデンの吉田電話さんの新ユニット。
面白そうだなと、期待した。
しかし……。
ネタバレBOX
スパイモノだということは、フライヤー等からもわかっていた。
とても練られた上野友之さんらしいストーリーで、吉田電話さんを含め、役者の皆さんもなかなかの上手い人揃いだ。
しかし、今なぜこんな古めかしいスパイモノをやるのか、その意図がわからない。
スタイリッシュな演出と演技で、ストーリーを楽しむということなのだろうが、ストーリー重視のためか登場人物に深みがなく、いい役者を揃えたにもかかわらず、それが活かされていないのが残念。
どこかの、特定しない西側の国のスパイたちの話らしいのだが、時代設定が現在ではなく、東西冷戦時ぐらいにしていることは、“東側”という台詞や(今や東側はロシア1国と言っていいから)、「写真とネガ」という台詞からもうかがえる。
そういうスパイの時代を舞台にして冒頭からかなりスタイリッシュな演出で滑り出しは良かった。
その前の前説的な吉田電話さんの雰囲気もとてもいい。
しかし、どうも“人”が見えてこない。
最初は諜報員4が主人公かと思っていたが、どうやらそうでもなく、“スパイたち”の群像劇的なものだとわかってくる。
ところが、彼らの人物が浮かび上がってこない。台詞による関係の説明ぐらいしか。
人事調査部の男とその妻との関係などは、短い台詞の中からきちん見えてきそうなものなのに、男が気持ちを単に台詞で簡単に言ってしまう程度なのだ。
登場人物たちが、ストーリーを進めるためだけの駒にしか見えてこないのだ。
だから、シリアスで、スタイリッシュなのが、薄っぺらく見えてしまった。
役者さんたちの雰囲気は抜群に良いのだから、もったいないと思う。
短い台詞ややり取りで、それぞれの関係や立場がもっと深さを増すことは十分にできたのではないか。
そうなれば、ストーリーももっと面白く感じたのではないだろうか。
ストーリーは練られていたと書いたが、実はそれほど意外感はない。
裏切り者が誰かということで言えば、登場するスパイは4人。
1は一番怪しいという舞台上の設定なので、裏切り者ではないだろう。新人は時期的に合わない。
そうなるとスパイ4と人事調査部の男になるのだが、“一番意外性がある”というセオリーから考えると、裏切り者は人事調査の男しか考えられなく、果たしてそうだった。
次にエレファントは誰か、という点については、一番普通な展開の、大使館の女であった。
1がエレファントで、失った部下(生きていると後でわかるのだが)との関係で裏切り者であるが、実はダブルスパイだったのだ、なんていう、もう一捻りがなかったのが少し残念である。
ラストに、ホテルのオーナーが登場するのも、いかにもどんでん返し的で、なんだかなーの印象しかない(一体どこから撃ったんだよ、は別にして。・笑)。
結局、人物の造形が薄いので、誰が裏切り者であってもエレファントであっても、どうにでも理由が付けられるな、という感じなのだ。
まあ、ストーリー展開とスタイリッシュな演出と役者を楽しめばいいのだが、やはり、「なぜこんな古めかしいスパイモノをテーマとした作品なのか」の意図がイマイチわからない。
あえてクラッシックな雰囲気のスパイモノにしたのならば、その雰囲気を楽しめるような台詞や登場人物たちにしてほしかったと思う。007のような非現実的な、いかにも「スパイです」というようなぐらいの。
あるいは、そんなことに想いを巡らすことのないぐらいに展開や演出が疾走してくれれば、それだけで楽しめたのだが。
例えば、終盤から観客の興味は、“どう上手くこの芝居を終わらせるのか”ということへの一点にのみになっているので、ラストをうまく終わらせるなど。
後は、スタイリッシュなシーンのつなぎや演出があるのだから、それを活かせるような気の効いた台詞がほしいところだ。ジェームズ・ポンドや電撃フリントみたいな感じのね。
情報屋が殺される再現シーンは蛇足だった。
それを見せるならば、そこに何か伏線などがほしいところだ。
もう誰が犯人なのかわかっているのだから、わざわざ見せる必要はなかったと思う。
途中ホテルの説明をするときに、「ケネディ」の名前出て、観客の1人が思わず吹き出してしまったが、まさに「ケネディ」はないよな、と思った。
リアリティのないスパイモノのストーリーに中途半端なエピソードを付け加えてしまうことで、さらにリアリティに欠けてしまった。
その人はその後も要所要所で笑っていたが、ひょっとしたらそういう見方が正しいのではないか、と思えてきた。
すなわち、古めかしいスパイモノをシリアスに演じて見せることの面白さ、おかしさが本来のテーマなのではないかとも思えてしまうぐらいの中途半端さだ。
気になったシーンが1つある。
ホテルのオーナーが部屋を去るときに、部屋にいる全員が彼に対して深々と頭を下げるのだ。腰を折って。
「え?」と思った。てっきり“どこか明らかにしない西側の国”の登場人物たちだと思っていたからだ。
それって、「日本人」の仕草ですよね。
欧米人がそんな挨拶しないですからね。
ということは、日本のスパイ??
先ほど、ケネディで思わず吹き出してしまった方ではないが、全員がきれいに揃って頭を下げている姿がおかしくって、笑いを堪えるのに苦労した。
舞台の後で、ホテルのオーナーが一言付け加えるのだが、これがまた“いかにも”な感じで、これは笑っていいものだった。
冒頭でスパイ4が、いい感じでオープニングを務めるのだから、ここも彼が閉めたほうがすっきりしたと思うのだが。
………遊び心、なのかな。