MU、短編演劇のあゆみとビジュアル展(当日精算予約開始しました!) 公演情報 MU「MU、短編演劇のあゆみとビジュアル展(当日精算予約開始しました!)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    『戦争に行って来た』『その好きは通らない』
    ハセガワアユム的(美的)センスが光る。

    中編『戦争に行って来た』と短編『その好きは通らない』の2本立て。
    よくあるのは、短編先にして中編という順番だが、この公演ではそうしなかった。
    そうしなかったことを含めての、「ハセガワアユム的(美的)センス」の良さがある公演だった。

    長くて伝わりにくい感想を書いてしまいました。

    ネタバレBOX

    『戦争に行って来た』は初期の作品だと言う。
    見終わった感想としては、「最初からレベルが高かったんだなMUは」だった。

    とても笑いが多く、それが「笑い」としての「身構え」してないところに、センスの良さを感じさせる。
    コメディ的な「面白いことを言っている」という「身構え」がない、あるいは感じさせずに、きちんと笑わせてくれる、脚本と役者と、演出の見事な結果だ。

    しかし、ポイントはそこではなく、現代に生きる私たちが感じてしまう、どうしようもない焦燥感や不安を、「戦場で拘束されてしまい、日本中で話題になってしまった人たち」と言う、一見、私たちとは無関係な人たちに重ねてくることで鮮やかに見せてくれる。

    昔の作品では、MU、というか、ハセガワアユムさんという人は、「徒党を組むことに嫌悪感を感じているのではないか」と思っていた。
    今もそれはそうじゃないかと思っている。

    しかし、その根底には「今を生きる私たちの不安感」、それも「それについてうまく言葉では言えないようなヤツ」があるからだ、ということをこの作品は見せてくれたと思う。

    戦場カメラマンの五味がその中心にいる。
    彼は自分のやっていることに薄々、何かを感じていた。
    グロい戦場写真を撮りながらも、それを踏み台にグラビア的な写真にも進出している。
    戦場写真一本でやっていって、世界平和を! というわけでもなく、いや、単にというわけでもないのだが、やっぱりピースもラブも大事で、だけどマネーも忘れたくないというところにいる。

    すべてがバランス良く並び立つのかどうかはわからないが、少なくとも彼の中でのバランスは悪そうだ。

    彼が出会った、夫婦デュオの「普通」の「日常」を超えてしまったような、あるいは、まるで「飽きてしまった」ような振る舞い、彼にの「存在」が、彼の背中を一押ししてしまったことで、薄々気づいていた「コト」に「触れて」しまったのではないか。

    つまり、「そんなバランスの悪い(日常の)中に自分は立っているのだ」ということを「自覚させられて」しまった。

    彼はこれからどうするのかわからないし、もちろん自分でもわからない、窓の外で行われている暴力は、「窓の向こう側」だったのだが、ラストではそこに入ることを示唆していた。

    それは「あちら側」の人になることを決意したのでもないし、「当事者」としての腹を括ったのでもないだろう。
    単に「自覚」したのではないか。

    彼の不安定さと、焦燥的なものは、彼(ら)のような特殊な立場にいる者だけのことではなく、観客としてこの舞台を観ている私たちのことと同じだとは思えないだろうか。

    ハセガワアユムさんは、(たぶん)彼の中にもあるそうした不安を、彼(ら)を通して描いてしまったのではないかと思うのだ。
    よくこの短い作品の中で、そうしたものを、笑いとともに見事にまとめたと思う。

    笑いの中にもそうした「核」があるからこそ、MUは面白いのだ。
    核とは「メッセージ」とは違うものだと思っている。
    「伝えたいもの」「訴えたいもの」では「ない」ものだ。

    ラストは、サム・ペキンパーの唯一の(哲学的)戦争映画『Cross of Iron』(邦題が『戦争のはらわた』なんだけど・笑)のラストに重なった。
    映画のネタバレにもなってしまうので、そのラストについてはこの感想の一番最後のところに書く。

    つまり、何が言いたいのかというと、カメラマン五味は、今までの彼とは違うステージに行ってしまったのではないのか、行ってしまったというよりは「自覚した」というところか。

    映画『Cross of Iron』のラストで感じた感覚と、この作品のラストの近似性は、言葉では言い表すことができそうにない。
    だけど、根っこにあるものは同じなのではないかと思う。

    ラストで夫婦デュオに「武器となるボールペン」を持たせ、自らも手にしたカメラマン五味には、皮肉に満ちた笑いがあったように感じた。
    声を立ててないし、当然笑い声など聞こえないのだが、暗転の中で五味の笑い声が響いていたように感じたのだ。

    五味が写真を撮るために行き拘束されたは「戦場だった」のだが、実は帰国したはずの「ココ」も「戦場だった」というのは言い過ぎなのかもしれない。しかし、五味にとっては「同じ」ような感覚がどこかにあったのではないのか。
    私たちも、「今もそこにいる」ということなのだ。

    そうした中での彼らの反戦団体を取り巻くさまざまなゴタゴタとか、どうでもいいような近所との出来事には、何もかもがバカバカしくなってくるであろうし、かと言って、そこから逃げ出すこともできない。
    だから、自覚した五味は「笑う」ことしかできない。

    ……この感想、うまく伝わっていないと思うが、こうしか書けません。

    中盤ぐらいまでは、リーダー役の古市みみさんが抜群に面白かった。
    夫婦デュオは最高! ゲンズブール気取りの中年男とカヒミカリィみたいな女性Voの組み合わせで、反戦歌を歌わせるという、ハセガワアユムさんらしいセンスに大笑いした。

    中盤以降から五味役の福原冠さんがじわっと良くなっていく。彼が物語の中心になっていくとは思わなかった、ぐらいの感じがうまい。

    会場は、いわゆる劇場ではなく、ただのスペースにすぎないのだが、シンプルなのにセンスある家具などで部屋を見事に作り上げていた。
    特に、床に絨毯があるのが、これまたハセガワアユム的美的センスではないか。

    段差のある舞台ではなく、かつ客席との境がないので、当然床も観客の目に入る。ここに絨毯があることで、より部屋の深みが増したのだ。
    これぐらいのキャパで、こういう会場ならば、最低限の机に椅子ぐらいで済ませるところをそうしなかったことで、物語自体も生きてきた。



    10分間の休憩を挟み、『その好きは通らない』。

    短編のこちらを後にしたのはさすがだと思った。
    もし『その好きは通らない』が先だとしたら、次の『戦争に行って来た』の感じ方が相当違っていただろう。

    つまり、「笑い」というラインでつなげて見てしまうし、出演する役者が同じなので、『その好きは通らない』での役のイメージを引っ張ったまま『戦争に行って来た』を観てしまうと、大事なところを見落としてしまいそうだからだ。
    なので、『戦争に行って来た』『その好きは通らない』の順を選択したセンスにも拍手だ。

    パーラメント役の大森茉利子さんが、いかにもいそうなOLぽさがなかなかだった。
    相手の表情を読みつつ、気遣いしたり、ピースへの気持ちの微妙な表情と仕草がうまい。煙草の扱いとかも。

    ほかの役者さんたちも、短時間の中で、きちんと時間を切り取って、その人を見せてくれていると感じさせるほど、うまいと思った。

    人を見せて、きちんと笑わせてくれた。




    −−−映画のネタバレあり−−−−−−−−−−−−−−−

    『Cross of Iron』のラスト
    鉄十字が欲しいばかりに東部戦線に志願してきたシュトランスキー大尉と、戦場で生きる伝説となっているシュタイナー曹長との確執がストーリーの軸。
    ラストで、大尉によって、部下を殺されてしまったシュタイナーが、大尉を殺しに行くのだが、大尉の前に立ったときに、シュタイナーはその復讐心を超えて、大尉にサブマシンガンを手渡し、ともに銃を携えてソ連軍に立ち向かうラストとなる。
    そしてシュトランスキー大尉の、少し情けない姿を見たシュタイナーは、大笑いする。その悲痛に満ちた笑い声は、暗転し、戦場の外で殺された者たちの実写スチールとともにエンドロールに延々と重なる。

    MUの『戦争に行って来た』のラストで夫婦デュオに「武器となるボールペン」を持たせ、自らも手にした、カメラマン五味の中には、皮肉に満ちた笑いがあったように感じた。
    それは、声を立ててないし、当然笑い声など聞こえないのだが、私の脳内では、暗転の中で五味の笑い声が響いていたのだ。
    五味は戦場にいるシュタイナーと同じところにいるのだ、と感じてしまった。

    0

    2016/04/29 06:31

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大