じ・だん 公演情報 劇団鋼鉄村松「じ・だん」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    あれ? この作品の構造って、ひっとしたら……
    観ている途中で気がついて驚いた!
    なかなか優れている構造なのだ。

    『あ・うん』のトレース具合が凄い。
    ただし、「想いが強すぎて、手が追い付いていない」という、いつものジレンマで自爆していた。

    (今回も長々とネタバレBOXに書きました)

    ネタバレBOX

    この作品『じ・だん』は、向田邦子さんの『あ・うん』に対するオマージュ的な作品であるということは、なんとなく知らせてあったので、そのつもりを「なんとなく頭の隅に入れて」観た。

    なるほど、仲のいい男性2人と女性1人を巡る物語だね。
    と思っていたが、男性のうち1人(水田トモキチ)はその女性(水田邦子)と姉弟の関係なのだ。
    そこにトモキチ友人である、羽振りのいい八王子の不動産王・倉科が絡んでくる。倉科はトモキチの姉・邦子に気がある。

    倉科は、水田姉弟にとても良く尽くすのだが、邦子には直接アプローチしない。

    なんだか、やっぱり『あ・うん』の感じなんだが、少し様子が違う。
    『あ・うん』だと、水田は夫婦の設定でそこに友人の男が入ることができないという縛りがあったのだが、ここにはそれはない。

    ずいぶん話が進んでから、気がついた。

    「将棋なんだ!」と。
    つまり、『あ・うん』のときに、友人である2人の男の中心にいたのは「女」だったのだが、この作品ではそれが「将棋」なのではないのか。

    不動産王・倉科は、プロにはなれる可能性があったのだが、名人になれないと悟り、将棋から身を引く。かたや水田は、将棋を続けた。

    つまり、水田は将棋と一緒になったのだが、倉科はそうしなかった。
    しかし、多少なりとも未練はある。

    その「将棋」という両者の関係にとって微妙なモノが、『あ・うん』のときの水田の妻であるのだ。さらに、そこに実際の女性、水田の姉・邦子が絡んでくる。
    倉科の「ネジレ具合」がなかなかのものになってくるのだ。

    この設定がこの作品の根底にあると考えるならば、ラストもとても意味ありげである。
    もちろん倉科は「将棋」という「女」を、いまさら手にすることはできないが、水田も同様な立場にあることがわかる。
    『あ・うん』のラストは確か、夫に付き従って海外に行くかどうかということがポイントだったと思うのだが、妻は、夫の友人が戻るところがなくなる的な台詞で終わったように気がする。
    どういう想いがそこにあったのかはわからないが、この作品では水田は「自分では力不足だ」的な発言をポツンとして終わるのだ。
    つまり、『あ・うん』では触れなかった自らの立場を、悟らせているのだ。

    倉科と違い将棋を離さなかった水田は、将棋のほうから離されてしまったということを察して終わるのだ。

    なんという物語だろうか。
    手に入らないものがあって、それは手に入らないということを悟らせる厳しいラストなのだ。

    ボス村松さんらしい、なんという想い入れたっぷりの濃い話だろうか。

    しかし、今回もまたその「想い入れ」の強さほど、ボスさんの「手は動いていなかった」。
    エピソードがあまりにもバラバラなのである。

    詩的で想い入れの強い、とんでもなく熱い長台詞で、物語の中心をグイグイと持ち上げていく、ムラマツ・ベスさんのような強いキャラがいないのだ。
    しかも、そのためかそういうキャラを用意していない。

    なので力技で捻り込んできた今までのワザが使えないのだ。
    そこで、エピソードでそれを盛り立てようとしたのだろうが、それが活きてこない。

    ディズニーランドへのデートのエピソードや寺の住職と息子のエピソード、さらに水田の父親の羽振りがいいころのエピソードが宙に浮いたままなのだ。
    こうした数々のエピソードは、中心にある3人に捧げるべきではなかったのか。

    さらに言えば、新宿コブラ名人は、倉科か水田のどちらかにするべきではなかったのか。
    そうしたほうが物語への求心力はグッと高まったのではないかと思う。

    もっと言ってしまうと、ボスさんが出しゃばりすぎた。
    オープニングで、なんか一発ギャグ的なものをやりたがっていたが、なぜそこに必要だったのか。
    終演後に、誰の制止も聞かずやっていたが、それはもう酷いものだった。
    芸人でもないし、誰もそんなものは期待していない。
    しかも、ストーリーとまったく関係のない「スキージャンプ」である。

    要所要所でストーリーに出てくるのはいいのだが、そこが強すぎて全体を殺してしまっているようにすら感じた。
    これでは観客の視点が定まらない。

    気持ちは少しわかるが、もっと作品を大切にしてほしい。

    今回は、前作『ミハエルとアイルトンとチュウカドン』のときに生まれた、新しい演劇システムが使われているのだが、あのときのような爆発はない。
    前回『ミハエルとアイルトンとチュウカドン』の公演が凄すぎたとも言えるのだが。
    (このときの感想は、『ミハエルとアイルトンとチュウカドン』のほうに、また後で書こうと思う)

    この新システムとはどのようなものかと言えば、作・演のボスさんの席が舞台上手にあり、音効のスイッチングも兼ねている。
    物語の途中でダメ出し的な声を挟んだり、コロスの一部となって歌ったりなど、自由に舞台の上に絡んでくるのだ。
    それが意外性というか、「なんだこれ?」ともいうべき感覚を生む。
    ひょっとしたら凄い発明で、使い方をうまくすれば、鋼鉄村松にとって、新しい武器になるかもしれないのだ。
    ほかの劇団ではこんなことできやしない。
    「演出家」のていの、役者が出てくるような芝居はあるが、演出家が「ガチ」で絡んでくる演劇なんてあり得ないのだから。

    今回は、中心が不在だった。
    ベスさんが抜けた後の中華丼さんの扱いがしっかり定まっていないからではないか。
    長く劇団の中心にいたベスさんの存在が大きすぎて、その後が定まらないのは仕方がない。次の中心を誰にするのはわからないが、中華丼さんには、中華丼さんの味があって、これがなかなかいいのだから、そこを上手く汲み上げてほしいと思う。

    作はボスさんで、演出をバブルさんに任せて、ボスさん自身が中心にいくという「て」もある。あるが「新演劇システム」が使えないか。

    ついでに書くと「将棋」である。将棋がわからない者としては、イマイチ乗れなかった。わからなくても「熱」の強さでグイグイ引っ張っていった、将棋が物語の中心の『二手目8七飛車成り戦法』は、十分に楽しめた。
    しかし今回は、先に書いたように、物語を支える軸が定まっていないことからの「将棋」であり、どうも「脇」のエピソード的な感覚となってしまって、中身がわからないので、楽しめないのではないか、と言うような感覚に陥ってしまったのだ。
    ラストに水田が一言「○○さんのように」のような台詞を言うのだが、その人が誰なのか皆目検討がつかないので、ラストはぽかーんとしてしまった。
    演出的なキレも悪いし。

    演出的なキレで言えば、「じ・だん」の頭突きも、いい塩梅ではなかった。
    もっと上手く使えて、3人の関係を見事に表すことができるいいアクセントとなったと思うだけに非常に残念だ。

    役者さんでは、水田邦子を演じた福満瑠美さんがとてもよかった。この人を立てて、ヒロインが主人公の作品でもよかったのではないかと思わせたほど。
    バブルムラマツさんは安定していた。村松中華丼さんは、全体に埋もれてしまいもったいなかった。
    コブラを演じた新宿ムラマティさんは、出オチならばいいのだが、舞台の上では台詞が埋もれてしまい、ベスさんがかつて演じたコプラの面影はまったく消えてしまっていた。

    柱となる役者さんたちが抜け、試行錯誤にあるのかもしれない。
    もう1人の作・演のバブルさんは、熱い演劇の王道路線を行っているように見える。ボスさんには、破天荒な熱い演劇を観たいと思う。なので、「新システム」は恰好な道具ではないのか、それを上手く使ってほしい。

    次回作に期待したい。

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    2016/06/27 06:19

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