海の五線譜 公演情報 青☆組「海の五線譜」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    わずか95分間に、人と人との間に立つ波を、見事に表現していた
    青☆組を初めて観たときに、「なんて品のいい作風なんだろう」と思った。
    まるでビロードか何かのような手触りがする、こんな作風は今まで観たことがなかった。

    (ネタバレに長文書いてしまいました)

    ネタバレBOX

    時に、「昭和」を意識させるような時代背景が、その作風にマッチしていたりする。
    見終わったあとに、心地良さと、先ほどまで舞台の上にあった物語とその背景や前後を、反芻して帰宅する楽しさもある。

    しかし単に品がいいだけの作品ではなく、観客の心にさざ波を立てる(大波ではなくて)、センスの良さが憎いのだ。
    それを「切なさ」としか言えないボキャブラリーの少ない自分が情けないが、とにかくそうしたものが私の心を乱すのだ。
    しかもそれだけで終わらず、「未来」の「光」をキラリとラストに見せる上手さがある。
    それが、「いかにも」な感じだったり「取って付けたよう」な感じではないところに、吉田小夏さん戯曲の非凡さ、つまり、「品の良さ」を感じる。

    台詞で多くを語らせずに、登場人物たちの心情の有り様や、変化を感じさせるのは、戯曲の良さもあるし、演出の上手さもある。
    もちろんそれを体現する役者の技量もある。
    「語りすぎない」ところの「隙間」の具合があまりにも良いのだ。
    そこに観客の「想い」や「経験」が見事にはまるから、作品はさらに豊かになる。

    今回の作品は、「切なさ」が「苦しい」。「痛さ」もある。

    話は少々脇道に逸れるが、青☆組の看板女優とも言える福寿奈央さんが、実は少し苦手だ。
    それは、作ったような笑顔や表情が上手すぎて、観ているのが苦しいからだと今回の作品で思い当たった。

    女の人は、忍耐強いと思う。
    忍耐強くて、少し無理をしてしまうことがある。
    そんな表情を、的確に、福寿奈央さんはしてしまうのだ。

    そんな表情をさせてしまうことが苦しいのだ。
    恋人とか妻とかそんな身近な女性にそんな表情をさせてしまう自分がいる。
    それがわかったところで、例えば、「大丈夫?」と聞けば、「大丈夫」と答えるのがわかっているだけに苦しい。

    だから、この作品の、劇中での「ごめんなさい」なんていう台詞は、とっても「苦しい」。
    「ごめんなさい」のニュアンスの違いも上手い。
    文字にすれば同じ言葉であっても、言葉の表情で、その言葉の持つ意味、重さが変わってくる。
    そうした、微妙な差が、とても染みてくる。

    この作品はどの立場で観ていても苦しいとか、痛いとか感じてしまうのではないか。

    妻の典子にしても、夫の和彦にしても、典子が好きだった健介にしても、だ。

    典子と健介は淡い関係で、典子は恋人の健介を捨てて和彦に走ったわけではない。
    その「淡さ」ゆえの、「結ばれなかった」関係だからこそ、典子は、健介との「あったかもしれない世界」を心の中で育ててしまったのだということは、この年齢になるとわかってくる。

    典子は夫である和彦に不満はないだろう。
    しかし、「心の中で育ててしまった、健介への気持ち」を、(和彦との結婚までに)きちんと葬り去ることができなかったのはよくわかる。
    結ばれることがなかったから(告白されて付き合っていないから)、きちんとした「別れ」がなかった。
    単に距離が離れてしまっただけ、なのだから。

    だからこそ、新婚旅行で距離が近づいたことで、育てていた心の中の気持ちが芽を出しそうになってしまったのだろう。

    男は、とても未練がましい。
    体験的に自分でもよくわかっている。
    女性はそうではなく、スパッと切り替えることができるものだと実感していた。

    しかし、実は人の気持ちはそんな簡単に切り替えることはできないのかもしれない、と、この作品を観て感じた。
    それは、「切ない」より「苦しい」ことであり、かすかにでもそうしたことに身に覚えのある人は、身もだえしたのではないか。

    そして、福寿奈央さんの、アノ表情である。
    内に秘めて、いや、押さえ込んで、笑顔を「(今の)最愛の人(たち)」に見せる。

    夫の和彦も、なかなか苦しい。
    典子と健介の淡い気持ちを知りながらの、プロポーズであるし、海辺での典子と健介の邂逅も目にしてしまった。
    なにより、「毎年(たぶん)、ミカンが送られて来る」ことで、健介が頭の片隅に居座っているのだ。
    さらに、典子は自分(和彦)のことを忘れそうになっている。
    自分(和彦)の代わりに、典子の頭の中には健介が今も、あの爽やかな姿でいるのではないか、と思うのも無理はない。

    健介には落ち度がある。
    家庭の事情で故郷に帰ったとしても、典子をつなぎ止めるために、手を尽くすべきだったと後悔をしただろう。
    そして、それをまるで罰するように、彼は独身のままだったらしい(遺品整理は健介の姉が行ったことなどからそう判断した)。

    典子が新婚旅行で健介の元に訪れたときに、一瞬火花が散るような感情が典子から現れたが、健介のそれとはシンクロしなかた。
    そのズレこそが、彼らが一緒になれなかったことを大きく表しているのではないか。
    そんな、ほんの小さなズレで、2人の人生は交差しても、結ばれることはなかったのではないか。
    そこが、実は健介と和彦との大きな違いだったのではないだろうか。

    2人が結ばれるときの「赤い糸」とよく言われるものは、実はそうしたタイミングとシンクロではないのか、と思う。

    典子がそのまま砂浜に留まっても、健介はそばにいるだけで2人は何もなかったように思える。
    時代背景がそうであるし、健介はそういう男であるように見えたからだ。

    典子は和彦と健介という2人の男の間で、波を立てる。
    いや、彼女自身が「波」だ。
    波は寄せては返す。
    波は男たちの足元を濡らし、大海原へ戻っていく。
    次に寄せてくる波は、同じものではなく、波の形も力も男たちには絶対に読めない。
    体内に海を持つ女性のことは、男には永遠にわからないのだ。

    海は、世界のどことでも繋がっているだけでなく、どの人とも繋がっている。
    海から生まれた生命は、いずれ大地へ空へ、海へと還っていく。

    典子はそう遠くない日に海に戻っていくのだろう。
    和彦は、それを感じながらも、(今まで通りに)生きていく。
    それが、夫婦なのかな。

    わずか95分間に、そうした人間模様と人の間に立つ波を、見事に入れたのは驚嘆してしまう。

    海流のように、舞台の上を役者が流れて、舞台の空気を少しかき乱すの演出のうまさ。
    さらにユーモアまであり、波のように舞台上を作品が動く。

    今回感じたのは、視野の広がりだ。
    青☆組作品の印象は、小津調とも言えるような、畳上からの視線だ。
    しかし、今回は、海と空、飛行機雲と沖合の船を描写することで、登場人物の視線の先に広がりを見せた。
    それが観客にも伝わった。

    光を織ったような舞台装置が印象的だ。
    舞台を邪魔することなく、煌めいていた過去の思い出や、キラキラ輝く海を想起した。

    5人の登場人物、典子 和彦、美幸、春江、健介が、それぞれに五線譜になって、歌を奏でていた。

    FUKAIPRODUCE羽衣の日髙啓介さんが、青☆組の舞台に出るということで期待していた。
    ロックで哀愁がある素晴らしい役者さんだと思っていて、ガッツリなストレートプレイの舞台で拝見したいと思っていたからだ。

    青☆組に登場する役者さんたちは、しょうゆ顔(笑)の印象がある。そこへ濃い日髙さんがどう絡むのかと思っていたが、見事にはまっていた。若い和彦さん役の荒井志郎さんとの対比だけでなく、後ろ姿がなんとも言えない。特に典子と海辺で会ったあとの姿がだ。日髙さんにしか出せない空気ではないかと思った。

    藤川修二さんが、健介ではなく、和彦だったということがわかる瞬間は、上手い、としか言えなかった。藤川修二さんのあたふたする感じが、見た目の年齢も相まって伝わるものがあった。

    典子は和彦とは違い、福寿奈央さんが1人で演じることで、昔に返ってしまった妻、それは年老いた和彦から見た姿であり、健介を思い起こさせる姿である、ということを見事に示していたと思う。
    若い姿の妻・典子は、和彦にとって、(今を忘れて)昔の時間に盗られてしまうような恐怖であったのかもしれない。

    改めてフライヤーを見ると写真が語っているな、と感じた。

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    2016/01/04 17:49

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