満足度★★★★★
すごいタイトル
親の事情で離散した7人の兄弟姉妹が再会する。
再会を呼びかけた長兄の思い、「忘れたいのに何を今更」と渋々やってきた者、
厳選された言葉と動きの少ない演出によって
それぞれが抱える荒涼とした風景が姿を現す、素晴らしい舞台だった。
ネタバレBOX
衝撃的な事件によって、幼い7人の兄弟たちは名前を変え
別々の家に引き取られて育った。
長兄が声をかけて初めて再結集したものの、
皆今更なんで?という思いで気持ちはバラバラ、
懐かしさは同時に苦い思い出でもあった。
長兄の問いかけに、次第に記憶を辿り始める3人の弟と3人の妹たち。
──父親は悪い奴で母親は可哀想な被害者
彼らが事実を変形させて記憶していたのには、それなりの理由もあって
辛く悲しい現実から逃げたいという子どもの心を責めることはできない。
長兄は皆が大人になるのを待っていたのだ。
事実から目をそらすな、逃げるなと呼びかける。
でもそんなすぐには変われやしない・・・。
あの父親の面倒を見るなんて、到底受け入れられない。
ルデコ5の横長のスペースに、木の丸椅子が7つ並んだだけの舞台。
一人ずつ登場して全員客席に向かって座る。
見事に一点に置かれた視線を動かさずに会話が始まる。
皆自分だけの孤独な荒野を見つめている。
ほかの誰ともクロスしない。
この図の素晴らしさは、話が進むにつれて効果を上げていく。
長兄役の成川知也さん、ストーリーを引っ張るのが
この方の魅力的な声なので冒頭から引き込まれる。
親を見るなら全員で、捨てるのも全員でという
強い決意のもと結集を呼びかけた長兄の思いが切ない。
最後に一人残った妹に
「家族が無いから不幸なんじゃない、家族があるから不幸なんだ」
と吐露する場面で、誰よりも荒涼とした風景を視ていることが伝わってくる。
理佐役の古市海見子さん、その意思的な強い視線が忘れられない。
瞬きをしないその視線の先にある過去、そして現在の孤独な結婚生活が感じられる。
4男を演じた小西耕一さん、一人イマドキの若者っぽくしゃべるのが超リアル。
本能的に傷つかない方向へ身をかわしながら生きる今の若い人を見事に再現する。
作・演出の高木登さんは、「家族の事情」という極めて個別のテーマを芯に
時に「あってもなくても不幸」な「家族」の普遍性を描いている。
この台詞と演出の前では、ぬるい幸福論など吹っ飛ぶだろう。
長兄は「今日で兄弟解散だ!」と叫んだ。
だが私は、このエンディングに何かほの明るいものを感じる。
「もう二度と会わないだろう」と言って去っていった者でさえ
きっとまたこの兄の元を訪れるような気がする。
新しい命の存在もそれを予感させる。
親はともかく、この「荒野」を共有できるのはこの7人しかいない。
元はひとつだった荒野を、7人で分け合っているからこそ兄弟なのだから。
「荒野1/7」、なんてすごいタイトルなんだろう。
満足度★★★★
夏休み
人は、いろんなものにつかまりながら立ち直っていくものなのだと感じさせる物語だった。
仕事や、仲間や、時には反発する相手にさえ、支えられている。
受け止める安定感ある大人たちを得て、達者な子役が圧倒的な存在感を見せる。この子はこれからどんな演技をするんだろう。
ネタバレBOX
舞台は毎日近所の常連客で賑わうスナック。
客の一人清水が交通事故により突然亡くなって、
彼からプロポーズされていた店のママ「まちこ」が失意のどん底にある姿から、話は始まる。
清水の一人娘の小学生「れん」と、
恋人に子どもがいるとは知らされていなかった「まちこ」の
反発しながら次第に理解し合っていく過程が描かれる。
子供特有の、自分の疑問に誰も答えてくれないことへの不満と孤独。
大人を問い詰めては「嫌われてる・・・」と落ち込む、彼女はまだ小学生なのだ。
「れん」の「早く大人になりたい」という叫びには、必死なものがある。
「れん」役の斉藤花菜さん、鋭い台詞の応酬での間が素晴らしい。
「まちこ」役の吉村玉緒さん、前半は
こんなに小学生相手に感情をぶつけるものかしらと思うほど怒鳴るが、
口紅をつけてあげる場面の表情は秀逸。
「れん」に自分の子供時代を重ね、喪失感を共有して次第に歩み寄っていく二人の関係を
巧みにリードしている。
店のチイママ(?)(役名を忘れてすみません)役の長澤美紀子さんが
衣装も客あしらいも実にリアル、絶妙なポジションを立体的に魅せる。
五郎役の鳥枝明弘さん、観客の声を代弁する台詞に情があって「いい奴だなあ」と思わせる。
ほろ苦いラストも、その後の展開を匂わせて上手い。
「れん」は自然と大人になっていくだろう。
「まちこ」は別の寂しさを覚えるだろう。
それを見守る店の人たちと常連客が変わらず温かいはずだ。
ハッピーなだけでない、こんな優しさのかたちもあるのだと思った。
忘れられないみんなの夏休みが過ぎていく──。
満足度★★★★
疾走するパン一男たち
前説のCR岡本物語が白いブリーフ一丁で登場したとき、その姿にある予感がしたが
“ガガ”に扮して歌い踊った増田赤カブト以外、
出演者は全員ボクサーパンツ一丁である。
パン一の男たちは、立ち見も出たゴールデン街劇場を90分間走り抜けた。
ネタバレBOX
伝説の刑事木村伝兵衛の元へ、富山から熊田留吉が赴任してくる。
伝兵衛の下には水野朋子という部下兼愛人がおり、
捜査報告書を捏造するくらい日常茶飯事の有様。
女工を絞殺したとして犯人の男が逮捕され、取り調べが始まるが
伝兵衛の望むストーリーに話はどんどん書き換えられて・・・。
シケた殺人事件が一流の事件になるにつれて、登場人物の”愛”が浮き彫りになってくる。
木村伝兵衛(サイショモンドダスト★)は首にお約束の蝶ネクタイ、
熊田留吉(野口オリジナル)は普通のネクタイ。
犯人(渡辺裕太)は装飾なし。
水野朋子(NPO法人)はショッキングピンクのパンツで、首にスカーフといういでたち。
ストーリーは想像と決め付けによってどんどん変化していくが
その中で語られる個々のエピソードが強烈な印象を残す。
犯人にも熊田にも、そして伝兵衛や朋子にも、共通する“愛”の迷走がある。
みんな上手くいかなくて孤独で、伝兵衛なんか朋子がほかの男と結婚することになっている。
これはつまり、事件の捜査というかたちを借りて
自分の恋愛のどろどろを白日の下に晒すという作業でもあったのだ。
改めてすごい本、台詞の質・量だなあと感じる。
その台詞をあれだけ聞き取りやすく大音量でキープしているのは
全員素晴らしいと思う。
ただ、のっけからハイテンションで始まるこの舞台は、終盤までそれを保とうとすると
台詞が単調な怒鳴り合いになってしまう。
サイショモンドダスト★という人は、伝兵衛の、硬軟・清濁入り混じった
ダメダメで時に哀愁漂うキャラにぴったりだと思う。
目や声に色気のある人なので、時には音量を落としても十分説得力はあるはずだと思う。
少し違った演出の、彼の伝兵衛も観てみたい。
朋子役のNPO法人が落ち着いた声で話す場面が多く、それがほっとさせた。
揺れる女心をとても繊細に表現していて良かったと思う。
ちなみにヒゲのまま頬紅を差した顔がめちゃめちゃ可笑しかった。
犯人が出てきて少し空気が変わった。
彼が変化して、熊田が変化して、朋子が変化していくのが面白かった。
朋子が戻ってくるラスト、ディープなキスに笑いながらちょっと安心した。
いい終わり方だと思った。
「熱海殺人事件」は、そのテイストがポップンに向いている本だと思う。
パン一男の熱い90分、果敢な挑戦に大きな拍手を送りたい。
満足度★★★★
ウェルメイド
初めての東京ストーリーテラー、初めてのシアターKASSAIは充実の一言。
終演後希望者のみに“ネタバレ・パンフレット”を配布するという姿勢、
作・演出の久間勝彦さん自らが観客に感謝の言葉を伝える前説など
劇団として「観る人が参加して初めて完成する演劇」を大切にしていることが伝わってくる。
ネタバレになるので多くを書けないのが残念だが、
それもこの作品を鑑賞する上でぜひとも必要なことだろう。
最後まで真実がわからない筋立てが素晴らしく、
ありがちな予想を立てていると見事にひっくり返される。
筋立ての面白さに加えてもう一つ、
登場人物の彫りの深い造形が、“ことの起こり”に説得力と必然性を与える。
濃密な世界を共有する師弟関係が、時間の経過とともに丁寧に描写されていく。
弟子の少年役が素晴らしくて、何も起こらないうちから泣けてしまった。
冒頭、主人公の説明的な台詞がテンションに引きずられて少し上滑りになった感があるが
ラストの別人のような表情は素晴らしかった。
「点描の絆」は、この瞬間のために語られてきたのだということがわかる。
こんな人間関係もあるのだと知らされる、幸福な謎解きだった。
満足度★★★★
毎日が”不条理”
別役実の不条理の世界、しかも二人芝居とあって楽しみに出かけた。
役者の個性なのか、演出なのか、“不条理”なんて忘れて普通に笑っちゃった。
それにしてもアトリエ公演、なんと素敵な空間なんだろう。
ネタバレBOX
下北沢のアトリエ乾電池へ初めて行った。
入口のスタッフさんといい、靴を脱いで入るアトリエといい、とてもよい雰囲気で
フライヤーのなんだか可愛い絵と同じ柄の当日パンフやチケットも嬉しい。
セットの“魔女の家”も、おどろおどろしいのではなくて“小さい魔女”の感じ。
横長のテーブルには乱雑にボトルやグラス、本などが置かれている。
上手側のテーブルには「わが町」のミニチュア、白い人形が配置されている。
やがて魔女(角替和枝)が登場、風邪をひいてアスピリンを探しているのが可笑しい。
魔法で治せないのかしら。
その家を訪れたのがマシュウ・ホプキンス神父(ベンガル)。
招待状を持ってきたのだが、招いた覚えのない魔女は困惑する。
二人の噛み合わない会話が始まり、次第に互いのことが明らかになっていく・・・。
魔女と神父の会話を聞いていると“不条理”とは
噛み合わない会話、すれ違う思惑、自己中な物言いのことだという気がする。
自分の価値観とずれている相手はみんな“不条理”なのだ。
真のコミュ二ケーションが成立しにくい今の時代では
毎日が“不条理”の連続だと気づく。
そしてそれこそがリアルな会話であることもわかる。
「だから、さっきからそう言ってるじゃないか」
「自分が言ったんだろう?」
「それはこっちの台詞だよ」
「はあぁ?」
1日に1回は口にしそうな言葉、
そう言いたくなる状況こそが“不条理”の世界なのである。
会話がひどくリアルなのは役者の力量だ。
静かなコントみたいに随所に笑いがにじむのは、
成立しないコミュニケーションをそれでも受け入れる経験値のなせる技だ。
だから若い役者さんにはこういう“不条理”は難しいのではないかと思う。
衣装、特に魔女の靴と神父の帽子が可愛くて見とれてしまった。
またよく似合ってるんだな、これが。
魔女も神父も孤独な人たちであり、孤独な商売である。
その二人が「わが町」の濃密な家族意識に向かい合うとき、
その孤独が共鳴して思いがけない親近感を呼ぶ。
相反する立場であるはずの魔女と神父が一緒に列車に乗って(多分無賃乗車で)
どこかへ旅立とうというラストは、それこそが“不条理“な話だろう。
にもかかわらずこの説得力はなんだろう。
孤独な二人が一緒に旅をする・・・そのことに
妙に安心してアトリエをあとにしたのであった。
満足度★★★
理想
「早く楽になろうよ」と囁く天使と「生きていればいいこともある」という悪魔。
二つの声に、雑居ビルの屋上に佇むツバサは今日も結論を先送りしたが
姉から渡された睡眠薬と「これ飲んで死ね」という言葉に、衝動的に自殺を決行する。
ラストは明るいが強い違和感を覚えたのは私が性悪説だからか。
ネタバレBOX
ツバサが目覚めるとそこは無人島。(って彼を取り巻く人々が全員いるんだから無人ではない)
そこで彼は理想通り、得意の空手を使ってこれまでの人間関係を逆転させる。
そこから天使と悪魔、それに死神が加わって翼の心の葛藤が始まる。
本当は色々な思いが有るのに伝えることができない、素直に表現できない人々の行動。
彼らの真意が明らかになってツバサは悩む。
自分を散々苦しめた者達を許すべきか否か、人は変われるというが本当なのか。
結論から言えば
「受け取り方次第で相手を理解するチャンスはあったはずだ」ということらしい。
睡眠薬を飲んで意識不明のツバサの元へ人々がやってきて
謝罪したり、考え直したり、修復したり・・・。
そして目が覚めたツバサは、もう一度生きてみることにする。
でも「これ飲んで死ね」と言って薬を渡した姉を許せるものだろうか。
いじめる人の心理や思惑まで考えていじめられる人なんているだろうか。
これでは死ぬほど追い詰められたツバサの気持ちは、ただの“勘違い”だ。
私はこの考え方の軽さ、解決方法に疑問を持たざるを得ない。
むしろ「いつでも俺を頼って来い」と言ってくれる空手の先生のような存在こそが
現実的には彼の救いになって欲しいと思う。
性善説をとって明るい終わり方をしたのだろうけれど
fitしない人を救うのはもっと別の方法ではないかという気がする。
この違和感があるせいで、天使・悪魔・死神の3人のギャグにもイマイチ入っていけない。
こなれたギャグだということはわかるしタイミングもいいのだが
ツバサがいじめや孤独に苦しむ姿があまりに痛々しくて笑えない。
さんざんツバサをいじめてきた友人や姉が(姉はべッド脇で泣いていたが)
反省の言葉もなくみんな仲良しになるのも納得できない。
現実を忘れてファンタジーとして楽しめばいいのかもしれない。
でも実際いじめにあっている、あったことがある人がこれを観たら、
どう思うだろうか。
天使のキャラは良かったし、
クワバタオハラの小原正子さん、説得力ある台詞で熱演。
現実の世界と無人島を切り替えるセットや照明はとてもよかったと思う。
客席で3~4歳の子どもを膝に乗せて見ていたお母さん、
いくらなんでもそりゃ無理ってもんだよ。
ぐずるし飽きるし動き回るし、子どもがかわいそうだ。
まだ終わるまで30分もあるっていうのに煌々とケータイ光らせる人が1人ならずいるし
小劇場の熱い観客とはあまりに違う雰囲気にびっくりがっかり。
観客もいろいろなんだなあと思った。
満足度★★★★★
病んでる時代
“異色セラピストコメディ”とうたっているが、個々のエピソードにホロリとくる。
出演者も多いがよく整理された構成と充実の劇中劇がテンポよく進み、
終わってみれば「私も行きたいクリニック」であった。
ネタバレBOX
内海心理治療クリニックは、飲み屋街の一角、
元スナックだった所に開業したクリニックだ。
カラオケステージやミラーボールがそのまま残っている。
内海年也(濱仲太)は、押さえ込まれた自分を開放するため、患者に演劇療法を施す。
ここへ、ヤクザの親分と舎弟、看護師、役者、数学の教師、女子プロレスの選手など
超個性的な面々が救いを求めてやってくる。
内海先生が当て書きする台本通りにセリフを言ううち、次第に素の自分が顔を出す。
堪え切れずに溜め込んでいたものを吐き出し、自分をさらけ出すようになる。
この過程がとても面白い。
コメディを面白くするのはマジなキャラと意外なバックグラウンドなのだと痛感する。
女子プロレスの赤マムシ三太夫(五十里直子)やリストラされた尾久(田口勝久)の
切羽詰った告白には思わず泣きそうになってしまった。
国会議員(中山英樹)の横柄な態度が素晴らしく板についていると思ったら
ゲイだったとわかって、それを隠そうともしないところがまた面白かった。
このクリニックは元スナックだった場所だが、
集まった中でも突出して愛想よくチャラい感じの男(濱崎元気)の
「実はここで店を経営していたのは自分で、破産して店も家族も失った」
という告白は、本当に切ない。
ヤクザの親分(二川剛久)と舎弟(原ゆうや)のストーリーには、
このエピソードで1本芝居が出来そうな重みと悲しみがある。
笑いながらも共感できるのは、一つひとつのエピソードが現実的なこと、
劇中劇が充実していて単なる再現ドラマに終わっていないことがあると思う。
参加者一人ひとりにスポットを当てるなど、照明もわかりやすくよかった。
全体を束ねる内海先生は常に「大丈夫です、やってみましょう」と励ましてくれる。
誠実さと温かさが伝わって来てとても心強い先生だ。
超個性的な相談者をまとめていく説得力とオーラがあって、観ている私にも安心感を与えてくれる。
彼自身も心に傷があり、それを忘れずにここでクリニックをやっている、
単なる熱血医師ではないという設定が良い。
ラスト、みんなでボールを回して最後に死んだ少女が持ったところで
じいんときてしまった。
「精神」という言葉の中には「神」がいる。
この神様は脆く繊細な神様で、この神を守るために私たちは闘っているのだという。
守りきれなくなったときに駆け込むのが、こんなクリニックであればいいな。
疲れた夜、だけどこのまま家に帰るのは辛い夜、ここへ来たら少し上向きになるような気がする。
今日、セラピーを受けたのは、実は私の方だったのかもしれない。
満足度★★★★★
みんなプライドで生きている
荒川良々ちょっと上手すぎの感もあるが、ガタイのいい12歳二人が
繊細な小学生のプライドを見せて泣かせる。
意地悪でやがて優しきハイバイの人間観察。
ネタバレBOX
ゲームがつながれたテレビと時折出てくる丸いちゃぶ台以外何もない部屋。
開演前は漫画やシャツが散らばった雑多な感じだったが
まもなくお母さんに叱られた欽一と吾郎によってあっという間に片付いた後は
人が変わるだけでこの部屋が2軒の家の居間になり、芝居の稽古場になる。
ドアノブだけの“ハイバイドア”がひとつついている。
友達の欽一とお金を出し合って新しいファミコンを買いに行った吾郎(荒川良々)は
店員(岩井秀人)に丸め込まれ反撃できない性格も災いして、
欲しくもないものを買わされて来てしまった。
おまけにその欽一(平原テツ)の家でおしっこを漏らしてしまう。
それも居間で・・・。
ちぎれそうなプライドを抱えて帰る吾郎、周囲の大人が彼に温かくて
見ている私がちょっと安心。
大人も子供も「察すること」を求められている。
うまく言えないけど察してくれよ、これじゃない、違うんだよ・・・。
察してくれよ、たまにはぱあっと飲んで金使いたいんだよ・・・。
察してくれよ、おしっこ漏れそうなんだよー!
察してくれよ、これがダメだとどうしていいかわかんないんだよー!
「察してくれない」ことに対する逆ギレという面倒なことも起こる。
演劇教室主催の橋本(岩井秀人)が、
別の解釈を提案する劇団員(欽一の母・川面千晶)を罵倒するのは、
自分の意見が無条件に一番と評価されないことに対して
どう対応したらいいのかわからないほど混乱するからだ。
“察してくれる”人の中でだけ評価されてきた人間の小さなプライドの崩壊。
相変わらずこういう”混乱をごまかそうとして屁理屈こねながら崩れていく”男を
岩井さんは上手いんだよなあ。
強気な言葉で攻撃しながら、実は必死に守りに入っているのがわかる。
日本的な「察する文化」のおかげで、言葉なんか要らないくらいにスムースに進むこともある。
演劇教室の場面で一番面白かったのは、
「台詞なし、動きだけでコンビニで買い物する場面」。
ゆっくりと舞うような動きでレジ袋に商品を入れ、
それを受け取って店を出る・・・。
この間客席から笑い声が途切れない。
”観客を育てる”とは言い得て妙、客が全てを察してくれれば
どんな芝居も成り立つわけだ。
首の皮一枚みたいなプライドを修復するにはどうしたらいいのだろう?
吾郎の場合は、欽一が来て思いがけない方法で一気に修復させる。
吾郎の家の居間で、欽一はおしっこを漏らしたのだ。
これで同じだ、という究極の“恥の共有”。
”察する”なんて精神論を超えた本能的な共有だと思う。
自分だけじゃないんだ、という思いが人を救う現場に立ち会ったような感じがした。
荒川良々さんの“大人っぽい”12歳が秀逸。
キャラにハマりすぎ、上手すぎなほど。
平原テツさんの欽一も好きだなあ。
ガタイのいい、あまり考えていないような欽一が、
実は吾郎の気持ちを一番思いやっている。
ラストその優しさあふれる長いお漏らしがとても感動的だった。(暗転してもまだじょーと音がしてた)
安藤聖さんのへなへなしない強い母ちゃんが美しくて良い。
言い訳と屁理屈の挙句逆ギレして逃れようとする夫(岩瀬亮)に、
胸ぐら掴んで最後通告するところ。
「実家の父は帰って来いって言ってる。あたし吾郎連れて出て行くからね」
あんまり「わかってくれよぅ」と甘えるとこうなるという感じ(笑)
その後父と子とがご飯を食べながら交わす会話がおかしい。
父に「(母を)好きなだけじゃダメなんじゃない?」と言う12歳の吾郎。
おしっこ漏らすくせにこういうこと言うから笑っちゃう。
岩瀬亮さんの父親が、ここでは素直に小学生の言葉に耳を傾けて微笑ましい。
この場面、珍しく本物のご飯と味噌汁、唐揚げみたいなおかずが並んで、
食べながらのリアルな会話に、“飯食いドラマ”のリアリティを思い出した。
上手い人は、食べながら台詞の間を自然に調節できるんだなあと感心。
大人も子供もプライドに支えられて生きている。
プライドを守るために働き、閉じこもり、逆ギレし、いじめ、神経をすり減らす。
大人にはもう、欽一のような修復はできないことかもしれない。
こうして見ると、このフライヤーの図は深いなあと改めて眺めてしまった。
さて、私に恥を共有する“おもらしの友”はいるか──。
満足度★★★★
びつくり!
軽~いお話かと思っていたら、何だかブラックになって
すごいことになって終わった。
ほんとびっくりした。
ネタバレBOX
ミチル(岸潤一郎)は今日もバイトを休みたいと電話している。
同棲しているナツミ(山村涼子)が宙に浮くのだ。
でもそんなこと言っても信じてもらえないから、適当な嘘をついている。
生演奏(和田俊輔)で歌が挿入されるのが面白い。
とってもゆるい(笑)ミュージカルみたいで、のほほんと若いカップルの
よくある互いを理解するのに必要なプロセスである
“相手を試す可愛い嘘”のお話かと思って観ていた。
ところがナツミの悪魔憑きは嘘だったと判明してからの転がるような展開。
えーっ、そういうことだったのかと後から前半の伏線が浮かび上がってくる。
ナツミが通り魔の犯人であったという衝撃の事実が、それまでの軽い笑いをぶっ飛ばす。
隣の小野寺さん(丸山英彦)に対する優しさの直後の凄惨な殺人、
あれほど望んでいたミチルの「結婚しよう」という言葉に対する返事が
自分が通り魔であることの告白となってしまう。
神様のいなくなった、というか神に見放されたようなこの国で
悪魔のつけ入る隙ならいくらでもあるだろう。
そしてまさにナツミに、悪魔はとり付いてしまった。
豹変するナツミに説得力があるのは演じる山村涼子さんの力だ。
前半と後半のギャップの大きさ、孤独な殺人者の言葉が良かった。
ナツミを好きだった隣の小野寺さん役の丸山英彦さん、
誕生日のプレゼントを渡しに来た時にキャラがにじんでその後の展開を痛々しくする。
ミチルの同僚まどかさん役の國武綾さん、細い身体でパワフルな声、
「ウチが勝手に呼んだんじゃ エクソシストを~♪」と歌い
キレよく踊って存在感大。
当日パンフに挿入歌の歌詞が出ていて
「変わらないことなんか無い」という歌が出ている。
──土が揺れて 煙上がって 泥が汚れるように
変わらないことなんて無い
変わらずに居ることなんて無い
人も 土地も 誰も 彼も 国も 海も
変わらずに居ればよいと望みはするけれど
かわっていくものは 仕方が無い♪
震災後の日本の“神様のいない”状態にありながら
変化を受け容れたくない、今までのままがいいと言う自分を自己批判するような歌だ。
作・演出の竹内佑さんの“天から地へまっさかさま”みたいな
ギャップの大きさが描き出す、思いがけなくシリアスなテーマ。
どんでん返しの重なるブラックホラーコメディにびっくりしつつ
神様のいないシフトが当分続きそうなこの国を思い憂えたのだった。
満足度★★★★★
愛の失敗
フライヤーには赤い大きな星が描かれているが、
当日パンフでは青い星になっていた。
この“赤い太陽”と“青い太陽”が交互に昇る惑星は知性を持っていた。
惑星が知性を持つと、観察していたはずのヒトが観察されるようになる…。
ネタバレBOX
友人の数学者柳葉(藤井びん)に呼ばれてその惑星にやって来た
心理学者冬月(志村史人)は、彼の変わりように驚いた。
ステーションには他に生物学者の砂川(内藤羊吉)と物理学者猿田(園田シンジ)もいる。
何か隠している、そしてここには誰か他の人間がいる…。
そして柳葉が自殺する。
その夜、冬月が目覚めると死んだはずの妻が部屋にいた。
妻は彼との不仲を苦にして自殺したはず。
だが幻ではない証拠に、触れることも会話することもできるのだ。
恐怖と混乱で我を失う冬月。
やがて柳葉たちにも同じように誰かが(お客さんと呼ばれている)いることがわかる。
どうやら一番深い“心の傷”に関わる人物が現われるようだ。
そしてお客さんを送りこんで来るのは、知性を持つこの惑星の海らしい。
忘れたはずの傷がリアルに再現されて男たちはふたたび傷ついている。
今度は失敗しないように努力したり、
辛くて逃げ出そうとして、お客さんをロケットで宇宙へ飛ばしたり、
あるいは殺したり…。
だがお客さんたちはすぐに戻ってくる。
過去の記憶もなく、無邪気に、「不安だから一緒にいて」と──。
こうして過去の”愛の失敗”が際限なく再生される。
忘れようにも目の前に相手がいるのだから忘れられるはずがない。
科学者を惹きつけてやまない惑星は、同時に深層心理に忍び込んで精神に作用する。
観察していた人間は、惑星の海に“観察されていた”のだ
恐怖と懐かしさに翻弄される男たちは次第に疲弊していく。
柳葉は自殺し、砂川は一人地球へ帰った。
冬月はステーションから知性の海へと降りて行く。
ひとり残った猿田は科学者としてこの惑星を離れられなかっただけではない。
永遠の母親の愛を振り切ることが出来なかったのだ。
ラスト、知性を持つ海に立つ冬月を、照明が絶望の色で映し出す。
ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが1961年に書いた小説「SOLARIS」が原作。
あらためてすごい本だと思う。
「好奇心」と「探究心」に名を借りた人類の傲慢さが完膚無きまでにつぶされる。
「忘れる」という行為がいかに人を救うか、
逆に「忘れられない」ことがいかに残酷なことか。
冬月役の志村史人さん、最初はちょっと格調高すぎと感じたが
その端正な美しさ故、中盤次第にぐだぐだになっていく変化が際立った。
柳葉役の藤井びんさん、さすがのくたびれ具合に説得力あり。
素朴な口調が、翻弄された果てのあきらめを漂わせていた。
科学で説明のつかない出来事を苦悩しながら受け容れた結果
どこかで”永遠の愛”を求め続けて破たんしていくプロセスが鮮烈。
赤い太陽と青い太陽が交互に昇る惑星の時の移り変わりを示す照明がとても良かった。
この小説から50年経った今、人類はますます傲慢になって他の星を征服しようとしている。
だがそこがもし、知性を持つ孤独な惑星(ホシ)だったら
科学者も人類も敗北は目に見えている。
お得意の「忘れる」行為が許されなくては、人は生きて行けるはずがない。
満足度★★★★
女と犯罪
花で飾られた美しい銃のフライヤーが“女と犯罪”をイメージさせるが
”ヤワ”か”ヘン”な男に比べて、強い女の心意気が楽しい舞台だった。
ラストの「どっひゃー!」が良く出来ている。
ネタバレBOX
仲の良い5人(うち夫婦1組)が、メンバーの一人の父親が所有する別荘へやって来た。
台風に見舞われてようやく辿り着いたのだが、
何とそこには死体が3つと9900万円の現金が入ったアタッシェケース、拳銃付き。
警察へ通報しようにも携帯の電波も入らない山の中だし、車を出そうにも台風だし…。
というわけで謎解きするうちに「これ、山分けしない?」という話になっていく。
実はそれぞれ深刻な“金の悩み”を抱えていたのだ。
シングルマザーは、一人息子の病気の治療のために、
夫婦は友人の連帯保証人になったばっかりに借金を背負い、
別荘の持ち主のパパは、脱税の罪を一人で背負わされて捕まっちゃった…。
職務に忠実だった刑事の真実(竹内もみ)も、友人たちの苦境を知ってついに折れた。
「どうせ被害届なんて出せない金に違いない」
「死体さえなければ事件は無かったことになる」
「だから死体を切り刻んで消してしまおう」
という結論に至るのだが、同時に謎解きも試みられる。
この3人は誰なのか、なぜ大金が(妙に半端な)残されているのか。
銀行強盗説、悪の組織説、仲間割れ説、男女関係のもつれ説等々…。
仮説が立てられるたびに、いきなり死体が動き出して再現ドラマが始まる。
これがメチャメチャ可笑しい。
3つの死体の中でも、ヘンな顔とヘンな動きで“怪しさ全開”の男(中根道治)が
毎回他の2人の女をイラつかせて強烈な印象を残す。
そして最後の再現ドラマには、刑事の真実が加わっている。
彼女こそが、3人を殺して金を奪った犯人だった。
刑事としての仕事に限界と疑問を感じ、
困っている友人たちを救いたいと決断しての犯行だった。
その再現ドラマの終盤、第一発見者の祐花(藤井牧子)が
死体の次に金に気付いてバッグに詰め込むところが再現された。
そして叫び声を上げて仲間を呼ぶ前に、客席を向いてにやりと笑う。
そのスゴイ迫力に火サスもびっくり。
この人の台詞のテンポやギャグの間にセンスを感じる。
全ては、ラストのこのギャップの為だったのだ。
スピーディーな展開とシャープな切り替え、
個性的なキャラ設定が功を奏して
コンパクトな上演時間ながら充実してとても楽しかった。
犯罪者の背中を押すのは、時に正義だったりする。
たとえそれが独りよがりで偏った正義だとしても。
それにしても己の信じる正義の為なら殺人もやってのける決断力、
こういう腹くくった潔さ、やっぱり男より女だわ。
満足度★★★★★
驚愕の7人の小人
“白雪姫の遺体”から始まる今回の本歌取りファンタジーは
ダークな、だが今の時代に超リアルなサスペンスファンタジーだった。
ネタバレBOX
劇場に足を踏み入れると、長方形の大きなテーブル、椅子が4つというシンプルな舞台。
その舞台を二方から臨むように客席が用意されている。
暗転の後、テーブルの上には両手を胸の上で組んだ白雪姫の遺体。
3人がそれを椅子に座って見守っている。
やがて時間が巻き戻され、「白雪姫」の物語が始まる──。
白雪姫の渡辺実希さんがとてもきれいで役にぴったり。
イケメン王子の渡辺望さんととても良いコンビだ。
ちょっとごつい佐々木豊さんが女王になった時、一瞬意外な感じもしたがすぐ馴染んだ。
7人の小人を演じ分ける加藤晃子さんのメリハリある切り替えに脱帽。
この人の演技がラストですごい効果を発揮する。
全員が様々なデザインの白い衣装をまとい、複数の役を担う。
役者2人がカラーゴムを持って窓枠や鏡を作ったり、
赤い毛糸で流れる血を表現したり、リンゴになったりといった小道具も面白い。
舞台をハケても丸見えの状態で、役者は待機したり小道具を用意したりする。
天幕旅団の4人の息の合った動き、バランスのとれた個性を見ると
とても良いチームだと思う。
冒頭少し4人のダンスのような動きが挿入されるが
もっとメリハリつけてはっきり“踊る”か、
台詞に集中するかどちらかにした方が良いような気がした。
台詞と説明が早口で最初のうち少し落ち着かなかったせいもある。
言葉が転がってしまって、十分伝わって来ないもどかしさがあった。
コビトが出て来てストーリーが熱を帯びてくるとそれは気にならなくなった。
さて、小人の家で彼らの世話をしながら暮らすことになった白雪姫だが
小人の暮らしは激変した。
最初は衝撃的な出来事も、日々繰り返されるうちにそれは当り前の日常となる。
それが幸福な日常であれば、習慣化するのも早いだろう。
守るべきものを得て初めて、人は失うことを怖れるようになる。
崩壊の予感に怯え、過敏になり、侵略者など到底許せない。
後から来たくせに白雪姫を奪おうとするこの男を受け容れることなど出来るものか。
「白雪姫」の物語の中で善人の象徴みたいな存在である7人の小人が
ここでは屈折したキャラクターとして描かれ、大きな鍵となる。
加藤晃子さんのコビトのキャラが後半揺れて交差するあたり
絶妙のバランスに見とれてしまった。
そうだったのか、7人の小人!
これはまるでコミュニケーションに病み疲れた現代の若者ではないか。
あんまり面白いのでネタバレするのが勿体ない。
ただ一つ言えるのは
「白雪姫よ、お前を憎む女王よりも、
お前を愛する者にこそ気をつけよ」
──これじゃバレバレか。
満足度★★★★★
「詩」が「劇」になるとき
私にとって初めての燐光群を梅ヶ丘BOXで観る。
「宇宙みそ汁」は詩人清中愛子さんの詩や手記、メールなどを、
坂手洋二氏が一切書き加えることなく編成して劇に仕立てたというものである。
その結果、戯曲として書かれたものではなかったにもかかわらず
「詩」が自然に伸びをして四肢を広げたような世界が現われた。
ネタバレBOX
「地球に向かってただ一人 パラシュートで降り立っていく」
と小さな台に乗った役者がバッとエプロンを広げる冒頭のシーン。
主婦の孤独な日常を俯瞰する象徴的なオープニングだ。
孤独なのに、力強くて明るい。
清中愛子の視点は、台所の定点カメラが次第にひき上げられて
東京を、日本を、地球を俯瞰してどんどんヒキの映像になっていくように
そしてまた台所へと戻っていくように伸縮自在だ。
彼女は自分の感情よりも、息子を含めた日常を寄ったり引いたりしながら眺めている。
社会から切り離された親子2人だけの孤独と濃密な時間を
シャカリキになって働く一方で、距離を持って眺める視点を感じる。
「詩」が、朗読ではなく戯曲として成立するのだという新しい発見。
それはもともと「詩」が厳選された言葉=台詞で出来ているからだろうと思う。
清中愛子の言葉は極めて具体的に自分の日常を語り、
聴く者の想像力を大いにかき立てる。
ただし坂手氏による、詩人の手紙やメール等の散文を加筆せずに織り込むという
過程があって初めて実現するもので、この繊細な構成作業が素晴らしい。
この作業の結果、朗読ではない三次元の劇として立ち上がった。
役者の動きも、リーディングによく見られる“控えめな動作”ではなく
“言葉から派生した”動きが、きちんと“振り付け”されているから説得力がある。
もうひとつの「無秩序な小さな水のコメディー」は
「入り海のクジラ」「利き水」「じらいくじら」の、水にまつわる3小品である。
くじらの「頭」「肉」「骨」に分かれた3人の姿勢など演出の工夫が面白く
短いながら戦争や原発問題の本質を突く内容となっている。
詩の言葉が持つリズムと勢いを再現した役者陣は皆熱演で
画期的な本を豊かな表現力で忠実に再現している。
年配の役者さんの言葉に安定感と味わいがあって劇団の個性を感じる。
公演のあとのアフタートークで、20周年を迎えた
梅ヶ丘BOXの歩みや思い出などが語られた。
靴を脱いで上がるこの小さなアトリエに
役者さんの創意工夫と制作のプロセスが沁みついていることが伝わってきて、
改めてしみじみとアトリエ空間をながめた。。
熱い出汁に落とした味噌の塊が次第にほどけていく感じにも似て
「詩」の世界がゆるりと四方に広がり始める。
この場に立ち会えたことをとても幸福に思う。
私もエプロン広げて、みそ汁の鍋を高みからのぞき込みながら──。
満足度★★★★
フェルメールなう
東京都美術館の講堂ロビーで行われた公演で、初めての「東京ノート」。
ミュージアムショップの前を通り過ぎた突当たり、階段を降りたところに講堂ロビーはある。
美術館という空間に溶け込むような演技だった。
ネタバレBOX
物語は美術館のロビーで待ち合わせて、久しぶりにみんなで食事をしようと
レストランを予約している家族の会話を中心に繰り広げられる。
独身で親と同居している長女を始めとする5人兄弟に、
長男次男はそれぞれの連れ合いも加えて総勢7人の一族が集まってくる。
親の老後、離婚問題、仕事や結婚などそれぞれの抱える悩みが
ちょこちょこ顔を出しては押し戻されたり押し殺したり…。
「久しぶりなんだからそんな話はよそう…」と言いつつ
「そんな話」しかもう話題がなくなっているかつての家族──。
この一族の他にもロビーには様々な人々が行き交う。
ヨーロッパで起きた戦争は次第に拡大しそうな様相を見せていて、
NPOの平和維持活動に参加するという恋人を引き止めたい若い女性や
かつての恋人と偶然再会した女子大生、
この美術館に父親から相続した絵を寄付しようとしている女性、
美術館の学芸員等々…。
戦争というとんでもない現実が日本にも影響を及ぼそうという時に
人々は足元の日常ばかりを見つめ
半径3キロメートルの生活圏で嵐のように翻弄されたりしている。
爆弾でも落ちてこない限り、戦争も原発も遠いところで起きているにすぎない。
悲惨なニュースを見ながら普通にごはんを食べるような両極の混在。
戦争を話題にし、時に涙し、十分憂えてもいるのに、
取り敢えず当面の大事は親の面倒を誰がみるか…それが日常。
相変わらずのリアルな同時多発会話に自分がロビーにいるような錯覚を起こす。
いや、本当にロビーにいるのだ。
そして役者たちが「フェルメールの絵」のことを話している。
今会期中の話題の画家について、まるで展覧会と連動しているみたいだ。
「私たちはこの絵の光の当たっている部分しか見ていない。
光の当たらない暗い部分は無いも同然・・・」という意味のことを言っている。
これは世界のごくごく一部だけを見て生きている私たちそのものだ。
大事なことを話す時、私たちはこんなにためらい、沈黙を必要とするのか。
どれほど他人の気配を感じながら、目の前の人と会話しているのか。
改めて日々のコミュニケーションを観察する思いで舞台を見つめる。
長女を演じる松田弘子さんの存在感、リアルなキャラが印象に残る。
一人で親をみる覚悟と不安、それを吹き飛ばすための前向きキャラ、
明るい押しの強さ、「人の不幸話を聞くと嬉しい」と素直に口に出す呑気さなど
「こういう人いるいる」感満載。
画家の絵画表現と人生の重ね方が巧みで、今回のフェルメールの企画の一部みたい。
美術館の構造を生かした舞台も面白い。
東京都美術館の奥行きあるスペースを取りこんでいたので
役者さんの移動に若干時間がかかり、その分テンポが落ちた気もするが
それさえも場の個性と言えるかもしれない。
美術館によって別の動線、別の演出になるだろうし、その変化も面白そう。
空間の力を味方につけた芝居であり、観る側もそれを楽しめる芝居だった。
満足度★★★★★
役者の力と演出の力
客席のあちこちから知り合いを呼びとめる弾んだ声、
団扇パタパタ、ビール飲みながら開演を待つ。
見下ろすセットは土埃巻き上がる廃線路引き込み線の奥、野原、立ち並ぶバラック。
歌謡曲がたっぷり流れて昭和の匂いが立ち上る。
野外劇の喧騒と解放感が今年もやって来た。
ネタバレBOX
紙芝居屋(外波山文明)が自転車をひいて出て来る。
紙芝居仕立てで客に注意事項を伝え、これも恒例となった
「花園神社は新宿区の避難場所に指定されております!
皆さまはもうすでに避難しているのです!」
という言葉に今年も客席は爆笑、こうして夏の椿組が始まる。
舞台は関西の地方都市。
戦争で傷ついた身体を寄せ合うように4姉妹とその家族が暮らすのは
廃線路の引き込み線の奥にある小さな一角。
バラックの汚れとしみったれ具合、トタン屋根などがリアルに再現されたセット。
戸口にかかる布が花園神社を吹き抜ける風でハタハタとひるがえり
吹きっつぁらしの野原の風が客席まで通る。
野外劇の土と空間を生かした素晴らしい舞台美術(島次郎)だ。
国から立ち退きを迫られている場所であり、「むこう」側へ出て行く住民もいる。
「むこう」は楽園だと信じる若者、どこへ行っても同じとあきらめる者、
ここに残ってもがいている者、小さなコミュニティは毎日嵐のようだ。
物語は、4姉妹の長女冬江の娘ミドリの子ども時代を中心に
長じてミシンの訪問販売の仕事で再びこの町を訪れた彼女の心情を挟みつつ展開する。
この子ども時代のミドリを演じる青木恵さんが素晴らしい。
ミドリは「俺は男になって船乗りになるんや!」と叫ぶ“男になりたい少女”である。
男性が演じているのだと思って当日パンフを何度も見たが
可愛らしい女性の写真にびっくりした。
少年役の中で最も男の子らしい男の子だった。
話す口調、仕草、黙って立っている時から、潔癖な子どもらしさまで
21歳だという若さだけではない、なりきりぶりと作り込みが素晴らしかった。
長女冬江役の水野あやさん、美しい人なのに
徹底的に水商売のケバくてくたびれたおばちゃんになっていてとてもよかった。
子どもミドリの為に水商売に入ったであろうに、その職業ゆえ
ミドリから「お母ちゃんみたいになりたくない」と言われてしまう。
その哀しみが伝わって来て最後じーんとしてしまった。
次女秋江役の福島まり子さん、“大助花子”の花子みたいなおばちゃんが
あまりにもハマっていて、大いに笑った。
三女春江役の井上カオリさん、足の悪い(こちらが痛くなりそうな歩き方が上手い)
全てをあきらめて笑っている菩薩のような女かと思いきや
実は自分に正直な業の深いところを合わせ持つ複雑な女を熱演。
この春江をめぐって男二人が争う場面がものすごい迫力でハラハラした。
春江の夫役池下重大さんと、夏江の夫役亀田佳明さんが取っ組み合いのけんかをするのだが
井戸端に置いてある桶の水に顔をつっこんでいるうち、
亀田さんの口の辺りから超リアルな血が流れて
客席が一瞬ひやりとしたのを感じた。
だって血糊をつける暇なんて無かったはずだし、
でも口からシャツが真っ赤だし、血糊より薄い色だし、あれ本物じゃない・・・?
大丈夫だったんでしょうか、亀田さん?
秋江の夫役恒松敦巳さん、片腕を失って尚一家の大黒柱であり、情に篤い男の
誠実な人柄がにじみ出ていてとても良かったと思う。
この人が出て来ると場が安定して落ち着く。
ミドリを含む少年たちの遊びのシーンに、定型でない勢いがあって
それがテントの中の空気を一気に“あの時代”に変える。
ストーリー全体に骨太な演出の力強さを感じる舞台だ。
ラスト、大人になったミドリが、大嫌いだったあの町のあの時代を
ずっと大事に抱えながら生きてきたことがしみじみと伝わってくるが
それを丁寧に説明するあまり若干引っ張り過ぎた感がある。
向日葵のシーンが出色なだけに
そこへ辿り着くまでが少し冗長な印象を受けた。
これも恒例の“毎日打ち上げ”と称する公演後の飲み会も楽しかった。
このセットを組み、芝居をし、バラして、役者たちはまた次の仕事に備えるのだろう。
21世紀になって、あのころよりずっと暑い夏が過ぎて行く──。
満足度★★★★
二度観チケット
二度観チケットとは、チケット1枚で1度観てもよし、2度観てもよしという
観客へのサービス精神と己に鞭打つサディスティックな試練に満ちた取り組みだ。
この日、私は2度目だが他のお客さんの多くは1度目だろう。
そのどちらも満足させる舞台をどう作るのか、楽しみに出かけた。
ネタバレBOX
「2度目のお客様に差し上げております」と
受付で素朴なオリジナルプリントのエコバッグをいただいて中へ入る。
このエコバッグ、“夏休みの提出物”っぽい柄なんだけど
夢現舎らしさ満載で何だかかわいい。
さて、舞台は中盤まで前回と同じだったが、
相談者が来た辺りからちょっとずつ削ったりしてテンポ良く進む。
そして「魔方陣」(エロイムエッサイムの魔法陣ではない)が出て来たあと、
前回とは全く違った展開を見せた。
何と大天教授(益田嘉晴)が客席へやって来たのだ、電卓を持って…。
おっとそう来たかという展開に笑ってしまった。
研究所の職員は皆大天教授を尊敬していたのに
次第に教授の過去が明らかになり、彼の“逃げ”の人生も明らかになる。
でも「あの時のあんたのひとことで俺の人生は狂ってしまった」
「私を救ってくれるのはあなたしかいないんです」
な~んて言われてもねぇ教授、困りますわな。
他人の人生にそこまで責任を求められる、生きにくい世の中であり、
“思いこみ”と“他力”に頼って生きる人が多くなったということか。
その結果ストーカーや通り魔事件、宗教がらみの事件などが増えたのかもしれない。
しかし大天教授は「知らねーよ、そんなもん!」とは言わず、彼らの前から姿を消した。
テレビで引っ張りだこの有名人だったのに
どこかで責任を感じ、自分を責めて、社会の隙間に逃げ込んだのだ。
いい加減な人のようで、実は一番誠実な小市民は彼ではなかったか。
その彼を救ったのはただ一つ「まあ、いいか」という言葉だったのだ。
誰も言ってくれないから、自分で言うしかなかったのだ。
役者陣は皆熱演だが、振れ幅の大きさ、自在さと言う点では
大天教授(益田嘉晴)が群を抜いている。
どんどん顔色が悪くなっている研究員溝口(高橋正樹)の
糸電話による告白シーンはとても面白かった。
夢現舎はこの二人によって色が決まる感じ。
その意味で以前の「ああ、自殺生活」の濃密な空間に最もそれが色濃く出ていたと思う。
「人間科学隙間研究所」…それは大天教授が唯一逃げ込める小さな空間だった。
あの変な狭いところから“貞子”のように這い出て来る、その奥の空間が
教授の平穏を保つただひとつの場所だったのである。
研究所を閉鎖し所員もバラバラになって、彼らはこのあとどうなるのか。
次なる隙間を求め「諸事情」を抱えて、それぞれの人生を探しに別れ別れになっていった。
きっとまた新たな隙間を見つけて、自分の居場所を確保するものと私は信じている。
ああ大天教授よ、どこへ行く・・・。
追伸
これまで3回のロンドン公演、エディンバラ演劇祭全期間出場を自力で敢行した夢現舎が
次はフランス公演を目指して参加者(俳優・制作・スタッフ等)を募っている。
すごい!自力で海外公演?!
この”無謀なる”企てに参加したい人、どうぞ応募してください!
私は何もお役に立てないが、あとでDVDなど観たいと思います。
(人間が小さくてすいません…)
満足度★★★★★
構成・役者・美術
劇場に足を踏み入れた途端、あの美しいブルーのフライヤーの続きが現われ
一体この部屋の主はどんな人なのだろうと想像しながら開演を待った。
最後の最後まで目が離せない脚本構成の上手さと
2時間15分緊張を途切れさせない役者のレベルの高さが素晴らしい舞台だった。
ネタバレBOX
フライヤーを再現したかのような照明に浮かび上がる部屋が美しくて見とれてしまった。
ぎっしり並んだ本や、木の温もりと古さを感じさせるベッド、机、ベンチ、テーブルなど。
舞台の左右には木が枝を伸ばしている。
ぴちゃん、ぴちょん…という水滴の落ちる音に引かれて
アメリカ各地から7人が辿り着いた場所、それがこの部屋だ。
彼らに面識はなく、関連性も無い。
ここがどこなのか、なぜ自分たちがひき寄せられたのか誰も分からない。
なぜアメリカでアメリカ人なのか、その必然性はあとになって判る。
第1章から8章まで、8冊の本全てを見つけ出した時全てが分かる、
しかも見つかる本の順序はバラバラ、というこの構成が素晴らしい。
中盤、神父が見えない相手に向かって自分の想像するストーリーを叫ぶのだが
これが時空を超えた物語を整理してくれて、観ている私たちに大きな助けになった。
その後の展開が判りやすく、謎がくっきりと浮き彫りになった。
こういう設定によくあるヒステリックな女性を一人混ぜたりせず
7人のキャラクターが類型的でなく魅力的なのもとても良かった。
役者陣のレベルが高く、“信じ難いことを信じて結束していく”様が
鮮やかに描き出されている。
Aバージョンの神父役BOBさん、謎の多い奥行きある性格が舞台に緊張感を呼ぶ。
同じくAバージョンの学生役山上広志さん、苦痛の演技がリアルで説得力抜群。
医師役の下田修平さん、イケメンでチャラいイメージだったのが
次第に医師としての責任を全うしてリーダー的な役回りも担う変化が素晴らしい。
役者全員に、台詞のない時でも自然と目が行くようなサスペンスのだいご味があった。
このテーマ、この構成を書く滝一也さんとはどんな人なんだろう?
オープニングなど、もう少しテンポ良く進んで2時間で収まったらと言う気もするが
暗転の度に思わず(何これ、すごい…)とつぶやいて、ラストはじわりと涙がにじんできた。
メガバックス、余韻にひたりつつもう次を楽しみにしている。
満足度★★★
69歳のキツネ
私はダンスをよく知らないし、ほとんど観たことがない。
友人に勧められてようやく今回大駱駝艦を初体験したのだが、
漠然とイメージしていたよりはるかに洗練されていて、かつ
麿赤児のしなやかさが強烈に印象に残る舞台だった。
ネタバレBOX
私が日頃観に行く舞台とは少し客層が違う。
「ダンスやってる」系の若い人や、「アートが仕事」なおじさん風が多い。
歴史あるカンパニーだからだろうか、ファン年齢層の幅広さに驚く。
蜘蛛の巣のような太いネットが舞台いっぱいに張り巡らされ大勢の人がうずくまっている。
やがて音楽に合わせて彼らの身体が震えはじめる。
震えるだけで腹筋が鍛えられそうなほど長く続くその動きに
スポーツのような肉体の鍛錬を感じる。
次に男性が大きなワニの人形を持って踊っているうちに早くも少し飽きてしまった。
ダンスを観るポイントを知らないからどこを見ればよいのか判らない。
勢い、リズムとか動きの斬新さ・美しさを期待してしまうからなのだろう。
舞踏は、静止している時の身体がそのクオリティを表わす気がする。
鍛えられていなければ、長い時間同じ姿勢を保つことなど出来ないだろうし、
しかもそれが美しく緊張感を保持しているところがすごい。
麿赤児がキツネに扮して踊った時が、私的には一番盛り上がった。
くるくる変わる表情、顔ではなく身体全体で表す表情が豊かで楽しい。
ためらったり疑ったり、決心したり思い切って進んだり、という変化が鮮やか。
キツネは、何を言っているのか判らない言葉をもにょもにょ言って
そのたびに会場から笑いが起こる。
音としか聞き取れない中に、感情が見え隠れしてひどくおかしいのだ。
69歳の肉体が観賞に堪えるというだけでも感動する。
大向うから歌舞伎のようなかけ声が飛んだ時にはびっくりした。
年季の入った渋い声で
「麿!」
とやるのは、よほどの古参ファンだろう。
舞踏を見慣れない者としては、公演時間がもう少しコンパクトで
ソロと群舞が交互にあったりしたら、間延びしなくて楽しいのになと思う。
ファンは少しでも長く観ていたいのかもしれないが・・・。
最後の挨拶で、全員が御大を中心に楕円形を作り
その密度と厚みを崩さずにゆっくりと舞台前方へにじり寄ってきたとき
改めて大駱駝艦の凄さを感じた。
個々のメンバーの完成度と全体としてのバランスが集約されている感じ。
そしてやはり、顔といい動きといい、麿赤児さんが強烈な存在感を示した公演だった。
満足度★★★★
老舗の蕎麦屋
劇団史上もっとも長い名前だという今回の公演は、
人生や世の中の隙間を研究して来たこの研究所が経済的についに立ちゆかなくなり、
本来の研究ではない裏ビジネスを始めるというものである。
ダメダメ教授の「言葉」へのこだわりにひき込まれていつしか「隙間」へと入り込んでいく。
ネタバレBOX
よろず相談と言っても、相談員も怪しげなら相談に来る方も怪しいことこの上ない。
ピンクのシーツ(?)をマントみたいに首に結んで「空を飛びたい」という男とか、
相談されてもなーと思うような面々がやってくる。
ところが実は彼らには密かな目的があったのだった。
そして所長の謎に包まれた過去が明らかになる・・・。
劇団夢現舎は、その案内に始まって「二度観チケット」システムや
家でゆっくり書いて返信用の封筒で送るアンケートの方法など
手作り感あふれる対応が楽しい劇団である。
大勢お客さんを呼びたいというよりは
顧客満足度を上げることに重きを置いているような所があって
老舗の蕎麦屋のごとく1日限定20食を丁寧に作って出す感じに似ている。
コストパフォーマンスとしては大丈夫なのかと余計な心配をしたくなるが
いずれその辺りも聞いてみたい気がする。
今回も客に「二度観」を勧める以上、
少しずつマイナーチェンジをするはずで
「な~んだ、何にも変わってないじゃん」と言われないようにするのは
相当なプレッシャーだろう。
夢現舎の芝居の面白さは、「言葉の追求」だと思う。
日常の中で聞き流す言葉を拾い上げて、分解したり磨いたり削ってみたり…。
「ま、いいか」と言わず徹底的に「言葉」にこだわりこねくり回すところから
シニカルな面白みが「隙間」からにじみ出て来るのだ。
今回も研究所職員同様、観ている私たちも
教授(益田嘉春)に翻弄されたのであった。
しかも懲りずに二度も翻弄されに行く予定。
二度目は何がどうなるのか、ぜひ比較して観たい。
変化に気づかなかったらどうしよう…。
「ま、いいか」
満足度★★★★★
今も「骨唄」が聴こえる
再再演とのことだが、私はこれが初めての「骨唄」体験。
客席に着いた途端泣きたくなるような舞台美術が目に入る。
そこかしこに死者の気配が漂う千坊村があった。
ネタバレBOX
火をつければ勢いよく燃えそうな粗末な家。
火の見の為なのか、梯子で上がれる高いやぐらが家にくっついて組まれている。
舞台奥には裏山へ向かう道、手前には町と「エミューの里」と呼ばれる
町おこしの施設へ向かう道が舞台に沿って続いている。
そして無数の白いかざぐるまが時折軽い音と共に一斉に回る・・・。
もう二度とここへは帰らないつもりでいた故郷へ
薫(冨樫真)が18年ぶりに帰って来たところから物語は始まる。
18年前、母の葬儀の日にある事故が元で妹の栞(新妻聖子)は左耳の聴力を失った。
薫はずっとその責任を感じながら生きている。
母の死後、妹とは別々の親戚にひきとられて暮らしていたが
突然その妹が失踪したという連絡を受け、彼女を探しに故郷へ足を踏み入れたのだった。
頑固でわがままで母親を大事にしなかった父(高橋長英)を、薫はずっと嫌っている。
死んだ人の骨に細工をほどこして身近に置くという風習も、
その細工をする職人である父も、薫には受け容れ難いものだ。
父との再会は、逃げ出したエミュー(ダチョウのようなオーストラリア産の大型の鳥)を
捕まえようとするバタバタの中で意外とあっさり果たされる。
この再会がべたべたウジウジしなくて心地よい。
妹を治すという共通の目的をはさんで、確執のあった親子は次第にほぐれて行く。
それと反比例するように栞の病状は悪化の一途をたどり、彼女を奇妙な行動へと駆り立てる。
3人を結びつけるのは「かざぐるま作り」だ。
不器用な薫が次第に腕を上げて、昔駅員がリズミカルにはさみを鳴らしたように
小ぶりのトンカチでリズムをとりながら、1000個のかざぐるまを作ろうと励む。
1000個のかざぐるまが海に向かって一斉に回るとき
伝説の蜃気楼が現われて、1年中桜の花が舞う世界が見える。
そうすればどんな願い事も叶うのだと言う。
壊れて行く妹を、父と薫は守ろうと必死になるが・・・。
土地の風習とはノスタルジーだけではない、何か人を救済する力を持っている。
最後に3人のよりどころとなったのは、この切り捨てられようとする風習や伝説だった。
栞が唄う「骨唄」が美しく哀しい。
新妻聖子さん、繊細な演技とこの歌で冒頭から惹き込まれる。
何と透明感あふれる人だろう。
冨樫真さん、薫の骨太な感じ、父とのやり取りの可笑しさが
哀しいのにどこか土着の力強さを感じさせて素晴らしい。
メリハリのある演技が悲劇を予感させる舞台を明るくしている。
高橋長英さん、こういう父親の愛情表現もあるのかと思わせる。
ラスト、薫に向かって「俺より先に死ぬな」と言う時の温かさが心に沁みる。
残された父と娘が絆を取り戻したことが、観ている私たちを少し安心させる。
これが桟敷童子の舞台装置だそうだが、本当に素晴らしい。
栞の死の瞬間、バックに現われた無数のかざぐるまが一斉に回る。
死者を弔うかざぐるまが生きている者を救う瞬間だ。
不変のキャストで再演を重ねる理由が判る気がする。
このキャストで、また次を観てみたい。
舞台も役者もかざぐるまも回る、私の頭の中で今も回り続けている。