ヒューイ
Amrita Style
小劇場 楽園(東京都)
2013/02/01 (金) ~ 2013/02/03 (日)公演終了
満足度★★★★
ギャンブラーの孤独
1928年のニューヨーク、安ホテルのフロント係チャーリーを相手に
酔ったギャンブラー、エリーがヒューイの話を延々と続ける。
チャーリーの前のフロント係だったヒューイ、
いつもエリーに「馬はどうでした?」と尋ねたヒューイ、
そして先週亡くなったヒューイ・・・。
男二人芝居の熱演、若干単調さは否めないが、時代の空気を感じさせる舞台だった。
ネタバレBOX
客入れの時点でもう舞台の奥、ホテルの受付カウンターには
男がひとり座っていて、ぼんやり客席を見ている。
先週ヒューイが亡くなり、後任のフロント係になったチャーリー(木下雅之)だ。
夏の午前3時、ニューヨーク・ミッドタウンの街を時折靴音が通り過ぎる。
やがて酔っぱらった常連客のエリー(高城ツヨシ)がやって来て、
新米のフロント係を相手に喋り始める。
彼の話は死んだヒューイのことばかり。
ヒューイはどんな時にも変わらない態度でエリーを迎え
その日のギャンブルの話を聞きたがり、自宅にも招待した。
エリーはギャンブルで大もうけをしたこともあるが、反対に大損した事もあった。
エリーは次第に、ヒューイ相手にホラ話をすることで
ギャンブラーとしての自信を回復し、また次の勝負に向かって行った自分に気付く・・・。
時々床に当時の白黒写真などが映し出されて、雰囲気は伝わるのだが
私の席からは良く見えなくて、何が映っているのか判らず残念だった。
エリーの酔っ払いぶりは終始スキがなくて良かった。
酔っぱらいながらも次第にヒューイに対する心情が変化するところが上手い。
ヒューイの家に招待されて、内心女房も子どもも面倒くさいと思っていたが
行ってみれば「子ども達もおとなしくて、悪くなかった」。
なのに「子どもは動物の話が好きだろう」と考えて
「馬の話」など始めて、ギャンブル嫌いのヒューイの女房から
ひんしゅくを買ってしまうくだり、可笑しくて客席からも笑いが起こった。
“ダメなやつ”呼ばわりしていたヒューイに、実は救われていたと認めるエリー。
次第にエリーの最近のツキの無さや、借金に追いつめられた苦境が浮かび上がってくる。
「これまで上手くやって来たんだ」と自分に言い聞かせるように繰り返すが
それはそのまま”今度はそうは行かないだろう”という予想と恐怖心、
そしてもう誰も自分の話を聞きたがらないという底なしの孤独感だ。
一方的に喋るエリーは、酔っぱらっていて動きも限られるし
同じような台詞回しになりがちだ。
エリーの話に関心を持てないチャーリーは、もっと動きが少なく
うんざりした顔で単調な“受け”が続く。
エリーとチャーリーがマジで絡まないので、二人はずっと平行線のままだ。
終盤ふたりの共通の憧れである大物ギャンブラーの話題で
ようやく接点を見いだしたところで舞台は終了。
そういう話なのかもしれないが、何だかひとり芝居でもいいような気がしてくる。
作者のユージン・オニールは“鬱とアルコール中毒”に苦しんだ人生を送り
貧困と絶望をテーマにした作品を多く残したそうである。
この重苦しい時代背景と、
“ギャンブルの浮き沈みとそれゆえの止められなさ”に激共感出来れば(私のように)
彼の言葉を酔っ払いの繰り言と聞き流すことは出来なくなるだろう。
テネシー・ウィリアムズ短編集
有機事務所 / 劇団有機座
阿佐ヶ谷アートスペース・プロット(東京都)
2013/01/26 (土) ~ 2013/01/28 (月)公演終了
満足度★★★
現代と不気味にリンク
名作「欲望という名の電車」等が書かれる前、彼の初期の作品だという
4つの短編はいずれも作者の生い立ちと時代を色濃く反映している.
今の時代から見れば古風な言い回しに、
若干ついて行くのが精一杯のような場面も見受けられた。
珍しく硬派なストレートプレイに取り組むこと自体評価されるべきだと思うが
2時間半はちょっと長い、と感じてしまった。
ネタバレBOX
演目は以下の4つ。
「財産没収」
「しらみとり夫人」
「踏みにじられたペチュニア事件」
「バーサよりよろしく」
テネシー・ウィリアムズは、父親の暴力や自分が病身であったこと等
余り恵まれた家庭環境ではなかったという。
彼の姉は精神疾患でロボトミー手術を受けさせられた。
南部の特権階級から貧しいアパート暮らしへの激変もつらいものであった。
それらは彼の作品に色濃く反映されていて、必然的に作品は暗く希望が見いだせない。
簡素なセットは1話終わる毎に役者陣がみんなで運んで準備する。
この動きが整然として無駄がなく好感が持てた。
ナビゲーター役の小田和也さんが柔らかな話し方で、作者とその時代について
解説をしてくれることが大変理解の助けになった。
作品で使われる若干古風な言い回しや時代がかった繰り返し等
役者さんも咀嚼しきれていない感じだし、それに伴って動きも単調になる。
その中で自然に役になり切っていたのが
「バーサよりよろしく」のバーサ役日下部あいさんだった。
精神を病んで、店の女主人から出て行くように言われる難しい役だが
追いつめられて行く中で、こわばっていく身体や病的な感情の揺れを表情豊かに演じた。
「しらみとり夫人」のムーア夫人や「バーサよりよろしく」のゴールディを演じた
翠野桃さん、プライドとしたたかさを併せ持つ人の台詞が上手い。
「しらみとり夫人」のワイアを演じた津本陽子さん、
魔女のような大家の言い分にも一理あると思わせる説得力があった。
ナビゲーターも最後に触れたように、
1940年代という戦争前の不穏な時代は、どこか現代社会と共通している。
家庭の崩壊、生活レベルの転落、環境の激変、そして精神を病んでいく人・・・。
それらが私たちの生きる時代と不気味にリンクするからこそ
今テネシー・ウィリアムズの短編を上演する意味があるのだと思う。
ならば尚更、時代に合ったテンポで効果的な見せ方をする必要があるのではないか。
コンパクトに凝縮すれば、“くり返すテネシー・ウィリアムズの時代”として
まるで現代社会の底辺をオムニバスで見るような短編集になるだろうと思う。
マザコンボンバイエ~星降る夜の願い事~
劇団マリーシア兄弟
戸野廣浩司記念劇場(東京都)
2013/01/26 (土) ~ 2013/01/27 (日)公演終了
満足度★★★
最近”おきに”の「ボンバイエ!」
奇抜な劇団名とキョーレツなフライヤーのイラスト、
どんだけ毒吐くのかと思いきや、意外とストレートなマザコンBOYSのママ賛歌。
このテイスト、若干ユルいが嫌いじゃない。
もう少し削ったら、いい台詞が刺さって来ると思う。
ネタバレBOX
舞台手前に天体望遠鏡があるほかには、上手にベンチ、
下手にパソコンを置く折りたたみ式のテーブルと椅子だけというシンプルな舞台。
舞台中央からは客席を二分する花道が奥まで伸びている。
舞台はある大学院の屋上。
彗星の接近を観察しようと夜中に集まってきたのは揃いも揃ってマザコンBOYS。
学長の息子タク(大浦力)、野球好きのケント(飯村孝太郎)、滑舌の悪いカツ(紀平悠樹)、
クールで秀才のキラ(坂田光穂)、プロレス好きのヨリトモ(静一)、
巨漢のカセ(吉田哲也)の6人。
学長の母親とあることをきっかけに上手くいっていないタクを
何とか仲直りさせたいと、幼なじみのヨリトモはある計画を立てる。
その計画を遂行中に、カセがヨリトモに告白したり
みんなのアイドル“まいちゃん”との合コンを企画したりするから
彗星観測の準備はちっとも進まない・・・。
6人のキャラがなかなか面白くて
幼なじみのタクの気持ちを理解して何とかしたいと奔走するヨリトモとか、
カセの「ゲイです」と告白してそれをまたメンバー全員に報告しちゃうところとか、
情報分析力抜群なはずなのに“まいちゃん”に論文パクられるキラとか
滑舌悪いままアナウンサーになりたいカツとか
群像ものによくあるキャラながら役者がはまって良かったと思う。
タクを演じる大浦力さん、濃い目のキャラで目力あるし、色気のある役者さんだ。
ケント役の飯村孝太郎さん、達者な人らしく安定感がある。
カセを演じた吉田哲也さん、「昼と夜とどっちが明るいと思う?」
みたいな台詞に味わいがあって聴かせる。
設定もキャラも面白いはずなのに、イマイチ笑いがおとなしかったのは
狂言誘拐の計画があまりにずさんで現実離れし過ぎているからかな。
あれを信じるにはちょっと無理がある。
狂言にしても、もうちょっと緊張感があれば説得力も出て
ついに本音を吐くタクを、私たちも「待ってました!」と迎えると思う。
ヨリトモの気持ちもより報われるんじゃないかしら。
タクのケースを主軸に、各自の“マザコンぶり”をもっと紹介したり、
“まいちゃん”のすごい悪女ぶりが露呈したりしたら楽しくなりそう。
花道の使い方もよかったけど、もっと使っても面白いだろう。
それから空調の音が結構大きくて、前の方の席にいても
時折台詞が聴きとりにくかったのが残念。
終わってから大浦さんから挨拶があり、この後しばらく活動を休止するとのこと。
よどみなくなめらかな挨拶も気持ち良く(どこの挨拶もこうかと言えばそうではない)
続ければいいのに…と思ったがきっとまた復活することを願っている。
過去の作品のストーリーを見るに、どれも設定が面白そうだし
何と言っても男子だけの劇団というのが好きなんである。
寄り道して夕方帰宅の途についた時、月が煌々と明るく大きくて
思わずカセの台詞を思い出した。
「昼も夜も、明るさは同じなんだ」(確かこういう内容)
むしろ夜の方が明るいと、私もほんとにそう思った。
兄弟たち、早く帰って来てね。
ママは待っています。
人生はボンバイエ!(って今さらだけど使ってみたかった)
演劇集団 砂地 『Disk』
演劇集団 砂地
シアタートラム(東京都)
2013/01/24 (木) ~ 2013/01/27 (日)公演終了
満足度★★★★
私たちはDisk
舞台が「肉厚」な感じがするのは、役者陣が魅力的だから。
膨大な記憶を保存しながら生きる、私たちはDiskだ。
その記憶はなかなか消去されず、しかも時折無意識のうちに上書きされたりする。
保存した記憶が薄れないということは、かくも人を苛むものか。
ついには崩壊してしまうまでに・・・。
ネタバレBOX
舞台中央に描かれた大きな黒い円、これが男の部屋だ。
奥にベッド、手前にバスタブ、上手にパソコン、下手にはソファ。
ソファとバスタブの間にイーゼルが置かれ、白いキャンバスがかかっている。
客入れの時点からもう、男がひとりこの円の外側を走っている。
ほとんど30分近く、正確に同じペースで黙々と走る。
女が一人中央でそれを見守っている。
男の部屋のずっと奥にの方には自動販売機がある。
男(田中壮太郎)はイラストレーターでひとり暮らしをしているのだが
彼には死んだ恋人が視えていて常に会話している。
ランニングを見守っていた女(藤井咲有里)は、その自殺した恋人だ。
絵が描けなくなった彼に「そのままで大丈夫」と声をかける。
男には妹がいて、恋人と別れた彼女が兄の部屋に転がりこんで来る。
この妹(小瀧万梨子)は男運が悪く、時々死んだ父親と会話する。
二人の母親は施設にいるらしい。
この部屋に男の友人(岸田研二)、妹の友人(中村梨那)、
それに妹の別れた女房持ちの恋人(野々山貴之)らがやって来て
兄妹二人の感情に波風を立たせるから、二人は互いの人生に強烈なダメ出しをして
「出て行け!」「家族でしょ!」とつかみ合いの喧嘩をすることになる。
──兄も妹も、左肩に赤い大きな痣があるのはなぜか。
痣は父親の暴力の痕なのか。
この兄妹は父親の違う異父兄妹なのではないか。
そんな疑問が湧いて来るのは、何か危機感を感じさせる演出のせいだろうか。
切羽詰まった、追いつめられた感じが伝わってくる。
例えば“演技”と言うにはあまりにマジなランニングもそのひとつ。
開演前から走っていた男の疲労感が観ている私にずっと残る。
男は「絵を描いている時はいろんなことを忘れられる」と言うが
一向に描けないものだから“忘れる”ことができない。
だから走って忘れようとしている。(ように見える)
何かを念じるように、走ることに集中している。(ように見える)
また、新たな人物が登場するたびに大きな音と共に
天井辺りからその人のトランクなど大荷物がどっと降ってくる時の不穏な予感。
びくっとして緊張が走るのは、観ている私の方かもしれない。
予告なし、無遠慮な訪問の仕方を絵に描いたような演出だ。
人前でもすぐ衣服を脱いでバスタブに入る、妹のほとんど攻撃的とも言える無防備ぶり。
そうすれば誰かが一緒にいてくれると、本能的に知っているかのようだ。
その結果一緒にいてくれるようになった男とはいつもダメになるが。
「自分は絵も描けない、何も生み出せない」と絶望する妹に
「何かを生み出さなくちゃいけないのか?もっとささやかなものでいいんだよ」と言った兄。
その兄の選択が自分の血で絵を描くことなのか──。
ラスト、妹がオーストラリアの自動販売機の前で煙草を吸いながら語る。
時間と共に変化する空の色の美しさ、トラムの高さのある舞台が空を大きく見せて
繊細な照明に泣きそうになる。
田中壮太郎さん、結局恋人を放っておいた自分が彼女を死に追いやったのだと
責め続ける男の繊細さと最期の狂気の行為、二つの振れ幅が素晴らしい。
恋人の存在に依存しているかのような、ストイックな暮らしぶりの男が良く似合う。
彼は“忘れられない”のではなく“忘れたくない”のだということが次第に分かって来る。
それにしても良い走りっぷりだった。
小瀧万梨子さん、細くしなやかな身体を晒して肉体の雄弁さをいかんなく発揮。
この人のちょっとハスキーな声には不思議な魅力があって
台詞の生々しさに紗がかかる感じ。
藤井咲有里さん、死んだ恋人として男を見守る動きの少ない役はとても難しいと思う。
終盤大きく動いたのは、「わ・た・し!!」としぼり出すようにくり返した時。
見て欲しい人に見てもらえないまま孤独のうちに死んだ人の叫びが強烈に響いた。
「Disk」の4文字が裸の背中に照射される場面が二度あった。
最初は客席に背を向けた妹の背中に、もう一回は終盤兄の背中に。
その文字は肩甲骨に沿って幽かにゆらめき、生身の人間が背負った記憶に
押しつぶされて行く不安を暗示しているようだった。
世界を終えるための、会議
タカハ劇団
駅前劇場(東京都)
2013/01/23 (水) ~ 2013/01/27 (日)公演終了
満足度★★★
美しい選択
この世界を表わすかのような混沌として美しいフライヤーの色。
「5人を助けるために1人を殺すか」という問いかけが
“選択出来ない人間”と“解答を与えるシステム”の間を駆け巡る。
この質問、同時に私の正義も問われている。
ネタバレBOX
劇場に足を踏み入れると、客席が舞台を挟んで奥と手前の二か所に分かれていた。
舞台上に敷かれた敷物の上を歩いて奥の席に座る。
舞台は白一色、正方形の白いボックスが不規則に並べられている。
そこで客入れの途中から役者がオセロゲームを始め、それを覗きこむ人が集まってくる。
12人の登場人物は、暇つぶしをしているのであった。
彼らは人間ではない。
いわば“検索システム”だが、人間が求めている答えはただひとつだ。
システムは質問してくる人間に正しい解答を出す、それも即座に。
今や人間は、彼女に真実を打ち明けるべきかどうか、サプライズに何を贈るべきか、
果てはこの結婚が正しいかどうか等々、全ての選択を検索に頼って暮らしている。
全盛期は超忙しかった“システムたち”だが、
新バージョンにとって代わられて今はド暇になってしまった。
そんな彼らに「新バージョンを消去せよ」というミッションが下る。
自分達旧バージョンの方が優秀だという結果になったからではないかと沸き立つが、
では新バージョンと自分達はどこが違うのかと考え始める。
例えば「5人を助けるために1人を殺すか」という問いに対し
迷わず「Yes!」と答える旧バージョンに対し、新バージョンは・・・?
マイケル・サンデルの「白熱教室」みたいだと思ったら
当日パンフの「参考文献」にちゃんと書かれていた。
意表をつく設定と“哲学する”展開が新鮮で面白い。
システムたちの考える人間の不可解さ。
迷い、逡巡し、痛みを伴う決断には時間をかけたがり、
時に誰かを助けるためなら自分を犠牲にすることを“美しい”とする人間。
選択を迷うのはいつも誰か別の人間との関わりが絡むからだ。
合理性の対極にあるそれら非効率的な感情の揺れ、まさにその人間らしさが浮き彫りになる。
高羽彩さんの台詞は、“美しい選択”の概念を持たないシステムたちに
丁寧に質問を重ねて行く。
少し時間をかけ過ぎかとも思ったが、そこで客が置いて行かれると途切れてしまうから
哲学するならあのくらいが良いのかもしれないと思い直した。
ちょっとショックなオチがなかなか良く出来ているのでその先が知りたくなる。
彼の意図するところ、これからのこと、そしてあのセーラー服の彼女。
年齢不詳、小柄な少女の存在感の大きさがあまりに素敵なので
この後の彼女の行動を追ってみたくなる。
より人間らしさに近づくシステムとはどんなものか。
一緒に悩むのか、複数の解答を用意するのか、それとも沈黙するのか・・・。
前半をコンパクトにして、この先を見せて欲しいと思うのはわがままかしら。
システムが考える“人間らしさに呼応する解答”の行きつく先には
たぶん私たち人間の未来があるはずだ。
なにひとつ選択できずに、いちいち質問しては結論を他人にゆだねる
それはつまり責任を回避することで、そんな人類はどこへ行くのか。
浮き彫りになった人間らしさが、新システムでかたちになったら
新旧バージョンの解答が比較出来てエンタメとしてもっと面白くなりそう。
イマドキ感ありまくり、でも思わず考えさせられる舞台だった。
さて私は、5人を助けるために1人を殺すか、
あるいは自分を犠牲にするか──?
どれも選択せずに逃げ出したいんですけど。
やわらかいヒビ【ご来場ありがとうございました!!】
カムヰヤッセン
シアタートラム(東京都)
2013/01/17 (木) ~ 2013/01/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
「1の証明」
世田谷パブリックシアターが
“未来を担う若手演劇人の発掘と育成”を目的として企画する
「シアタートラム ネクスト・ジェネレーション」。
今年は「カムヰヤッセン」と「演劇集団 砂地」の2団体が選ばれた。
そのうちのカムヰヤッセン 「やわらかいヒビ」を観る。
シアタートラムの高さのある空間を活かした舞台の上
巨大組織の上から下まで、各部署における人々の葛藤と競争、不安と後悔が
生死を分けるほどの熾烈さで繰り広げられる。
私たちの生きている社会とは、こんな価値観で回っているのか。
テクノロジー至上主義の先には、こんな未来が待っているのか。
暗澹としながらも、示されたひとすじの希望に涙があふれた。
夫婦の細やかな心情と、社会の大きな流れの両方が自在にリンクする
北川さんの脚本のスケールは、やはりネクストにふさわしいと思った。
ネタバレBOX
舞台から地下へ降りて行く階段が見える。
斜めに昇って行く二階部分はかなりの高さだ。
この階層がそのまま、「アカデミー」と呼ばれる巨大研究組織の階層に重なって見える。
冒頭、このアカデミーを取材する女性新聞記者(陣内ユウコ)が組織の概略を説明する。
ドクターと呼ばれる常勤研究員とポスドクと呼ばれる非常勤研究員には
研究予算がひとケタ違うと言われるほどの環境・待遇の差があり、
ポスドクは誰もがドクターを目指して研究成果を争っている。
成果も挙げるが強引な進め方で仲間の反感を買っていたドクターの上谷(工藤さや)は
計画的な追い落としに遭ってアカデミーを去ることになる。
同時に研究員に支給される薬(飲めば年を取らないと言われる)を入手出来なくなった
上谷の肉体は急速に衰え始める。
過酷な研究職を離れて初めて夫婦として向き合うことが出来、
残された時間を大切に過ごして行こうと話し合う上谷と夫牧(板倉チヒロ)。
だが、友人の新聞記者柏田(橋本博人)から渡されたファイルによって
アカデミーの真実を知った牧は、命をかけてある計画を実行する・・・。
テクノロジーは競争の中からこそ生まれるものであり、また犠牲を伴うのが当然──。
研究開発のためには研究員の人生も幸福も、果ては生命も犠牲になるのは仕方がない、
だって開発のためだもの、というアカデミーの体質は現代社会の延長線上にある。
この近未来が、つるつるした手触りと共に妙にリアルに感じられるのは
北川さんの創り出す登場人物の設定と、繰り出す台詞の豊かさだ。
優秀な妻を尊敬し、彼女を支えようとアカデミーの学生寮に就職した夫
牧を演じる板倉チヒロさんが素晴らしい。
生まれて来ることができなかった息子とのテンポ良い掛け合い、
心配かけまいと夫に病状を隠す妻にぶつける情けなさと怒りの入り混じった叫び、
素朴な言葉のひとつひとつに血が通っていて、観ている私たちは
彼の言葉に引きずられるように物語の核心へと入り込んでいく。
ラスト彼の行動に説得力を与え、感情移入が出来るのは板倉チヒロさんの台詞の力だ。
一体今何歳なのか自分でも分からなくなってしまった
少年のようなアカデミーの長官タダシ(金沢啓太)。
そのたたずまいと冷静な台詞は強烈な印象を残す。
彼の最後の選択に、“生き永らえる”ことと“生きる”ことは違うのだと改めて思う。
牧と上谷夫妻の、生まれて来ることが出来なかった子慧吉(辻貴大)の存在が面白い。
時々現われる、牧にしか視えないこの優しい子どもは快活な青年になっていて
妻を支えようとして思うように出来ない自分を責める父親を温かく見守っている。
最後、死んだ母に寄り添って自らも死を覚悟した父に向って叫ぶシーンは圧巻だ。
BGMの音量に負けないその声の力強さは、この舞台のテーマを語るにふさわしい。
──将来のことばかり心配して僕たちは不安になる
不安でしょうがないから人を傷つけ、自分を損なうような生き方をする
でも先のことより、今ちゃんと生きることの方がずっと大事じゃないのか
北川さんの脚本にはいつもピュアでストレートなメッセージを感じる。
それは自然な人間性を損なうものに対する素朴な疑問や反発、怒りだ。
私たちは誰ひとり完璧ではなく、皆“やわらかいヒビ”を持って生きている。
もし堅いヒビであったなら、私たちは簡単に壊れて二度と再生出来ないだろう。
やわらかいこのヒビを、私たちは大事にかばいながら歩いて行く。
その道に“人工的なブラックホール”の研究など要らない。
ただ大切な誰かと並んで歩いて行きたいと思うだけだ。
捨て犬の報酬
おぼんろ
レンタルスペース+カフェ 兎亭(東京都)
2013/01/12 (土) ~ 2013/01/14 (月)公演終了
満足度★★★★★
雪国に吠える
江古田にあるカフェ+レンタルイベントスペース“兎亭”が始めた
“小さなお芝居を集めた小さな小さな演劇祭”まめ芝。
その最終日兎亭でG枠を観る。
出演は3組。
おぼんろ、兎団、松×出 である。
江古田の駅を出るとそこは雪国であった・・・。
って感じで、東京では7年ぶりという雪の中傘を盾にして前へ進む。
写真入り案内どおりに歩いて行くと、角に男の人が立っていてホッとする。
兎亭の入口には痩身の末原拓馬さんがいて「寒いねー!」と声をかけてくれた。
おぼんろ、今日の「捨て犬の報酬」は高橋倫平さんだ。
(注:☆はおぼんろの評価)
ネタバレBOX
【おぼんろ 「捨て犬の報酬」】
バーミンガム闘犬会場で、闘いを制したのは一匹のみすぼらしい老犬。
ところが主催者は表彰をためらっている。
その犬が吠えることができないこと、過去に多くの犬を噛み殺してきたことがその理由だ。
老犬は語り始める、なぜそうなってしまったのか・・・。
彼がまだ子犬で、捨てられて段ボールの中にいた頃
その路地裏にひとりの盗賊が追われて逃げ込んできた。
彼は「月を盗みに行かないか」と言って子犬を連れて帰る。
そしてふたりは一緒に仕事をするようになった。
男は犬をポチと呼び、犬は男を大五郎と呼んだ。
ポチがその家の番犬に話しかけて気をそらしている間に、大五郎は仕事をする。
ところがある日、大五郎は約束の場所に帰って来なかった。
帰ったらポチの誕生日を祝う約束をしたのに。
そして20年が過ぎた・・・。
やがてそこへ主宰者であるバーミンガム侯が現れ、
ポチは隙を見て彼を羽交い絞めにする。
その途端ポチは撃たれて倒れてしまう。
倒れたポチに“ハッピーバースデー”と添えられたお祝いのえさが運ばれてくる。
貪るようにそれを食べて、死を悟ったポチは初めて吠えていいかと尋ねる。
暗転ののち、3度長く吠える声が響き渡り
「月を盗みに行かないか」というあの日の声が聴こえた──。
良く出来てるなあ、と感心してしまう。
“信頼”の半分は、相手任せの思い込みだ。
それは美しいが、時に向こう側からあっけなくほどかれる。
唐突に取り残された者は切れ端を手に呆然と立ち尽くし、やがてそれは怒りに変わる。
高橋倫平さんは、裏切られた哀しみを食べて生きて来たポチを全身で表現している。
ポチの強さが、その激しい感情の結果であることが伝わってくる。
キレの良い身体の動き、闘い続けた暮らしの証である目つきが素晴らしい。
最後の咆哮が、大五郎を赦すポチの優しさに溢れていて泣かせる。
30分という限られた時間で完結するストーリーには無駄なシーンが全く無い。
末原拓馬さんの書く芝居は、哀しいシーンよりも、歓喜のシーンの方が泣かせる。
それはキャンバスに最初に塗る色が、孤独と哀しみの色だからだ。
そのベースの上に何色を重ねても、底の方からじわりと最初の色がにじみ出る。
このひとり芝居、おぼんろのレパートリーとして再演を重ねて欲しい。
他のメンバーの芝居もぜひ観たいと思った。
【兎団 番外公演「鯨に呑まれた男たち」】
SF大河ロマンだという。
人間の住める星を探して旅を続ける宇宙船トライス号の中で、
3人の男たちが“永遠の命”を作り出す研究をしている。
30分バージョン用にあらすじを語ってくれたらすっきり腑に落ちたと思う。
事前に会場に並んでいる漫画を読むと理解の助けになると言われたが、
あの小さい椅子に座って、荷物とコートとドリンクを持った状態で
開演前に漫画を読むゆとりはない。
石になった男、まばたきもせず熱演だっただけにちょっと残念。
【松尾武志×出口健太 「イン・ザ・ポスト」】
ポストの精が、郵便配達の男の恋を見守るというファンタジー。
全身赤タイツのポストが「昨日まで本番だったから・・・」と台本見ながらの芝居、
これで笑いを取るのは本番中1回までだろう。
その後は会場から笑いも微妙に変化、相方の郵便配達が気の毒になった。
アドリブで切り抜けられないほどのストーリーとも思えなかったけど・・・。
ポストの精が手紙の行方を見守って、不器用な男の恋を助けるというのは
良いアイデアだしキャラの面白さもあったと思う。
コントをつなぐのでなく芝居として完成度を上げないと勿体ない気がした。
東京ノート
東京デスロック
こまばアゴラ劇場(東京都)
2013/01/10 (木) ~ 2013/01/20 (日)公演終了
満足度★★★★
TOKYOが際立つ演出
私が「東京ノート」の舞台を観るのはこれが3回目だが
これほど「東京」を意識して観たのは、このデスロック版が初めてだと思う。
そして更地(?)になったアゴラ劇場を見たのも初めてであった。
デスロック4年ぶりの東京公演は、「ここ東京で」演じ、観ることを強く意識させる舞台だった。
ネタバレBOX
貴重品以外の荷物を預け、靴を脱いで劇場への階段を上がる。
なんで靴脱ぐの?と思いながら劇場へ入った途端「へー!」と声を上げてしまった。
真っ白なふわふわ毛足の長いじゅうたんが敷き詰められ
ベンチにはもう座る余地がなくて、大勢の人が絨毯の上に思い思いの格好で座っている。
どこで芝居するのかなと思うほど、特に空いているスペースもない。
やがて役者さんが観客の中に混じっているのに気づく。
ミラーボールが下がり、大きなスクリーンや鏡が私たちを見下ろすように設置されている。
オープニング、ひとりの役者さんが立ち上がって出身地について語り始める。
次々と役者が立ち上がり、出身地とそこでの思い出などを語る。
同時多発的に発信される出身地情報は、「場所」だけははっきり聴きとれるように
あとは尻つぼみに声が小さくなり、やがて途切れ、また続きが始まったりする。
客の間を、敢えて狭いところを選ぶように縫って移動しながら…。
やがてスクリーンに映し出された2013年の文字が近未来に変わる。
演出の多田淳之介さんが登場して
「どうぞ好きな所へ自由に移動しながら観てください」と言った。
そして、ヨーロッパで戦争が起こり貴重な絵画が東京に避難して来ているという
その美術館で、日本人の日常が語られ始めた・・・。
地球のどこかで大きな戦争が起こっている時に
東京の美術館では、めったに見られない絵画を鑑賞しつつ兄弟が再会しようという
平和でのどかな集まりが計画されたりしている。
絵画好きな長女(松田弘子)を中心に久しぶりの再会を喜び合いながら
実は親の介護、夫の浮気など様々な問題を抱えた人々が集う。
東京デスロック主宰の多田淳之介さんは、この4年間東京公演を休み、
埼玉県富士見市の市民文化会館「キラリ☆ふじみ」の芸術監督として活動し
同時に東京以外の場所とネットワークを育んできた。
この間彼がやってきた“さして芝居に関心のない人々を劇場に呼ぶ”ということ
そのための様々な試みが集約されているような東京復帰公演だった。
興味を惹かれ、驚き、参加することで、演じる側と観る側が一体となる空間。
「なんだろうねぇ?」「これ、どうなるんでしょう?」という暗黙の
客同士のゆるいコミュニケーションから始まって
途中見えにくいからと移動したり、足が疲れて投げ出したり自由な感じが新鮮。
ただね、ちょっと疲れました・・・。
居酒屋だって掘りごたつ形式が主流でしょ。
床に座った位置から役者さんの表情を見上げる、高い所のスクリーンの文字を見る、
その動作に首が疲れて途中下向きたくなるし、
やっぱり椅子に慣れた生活していると、アフタートークも含めて2時間強
床に座る姿勢がちと辛いかな。
背もたれのないちっちゃいスツールでもいいからあったら嬉しいと思った。
でもあの自由度の高さと白いじゅうたんの触り心地は最高で、横になりたかったくらい。
青年団の松田弘子さんは、前回上野の美術館での公演に引き続き長女役で
安定感と同時に“市井の暮らし”を感じさせてとても好き。
この人の日常感が、戦争している世界とのギャップを際立たせる。
多田さんはこの4年間“大きくなりすぎた地方都市”としての東京を見て来たのだろう。
デスロックの東京での活動は、劇場を一度更地にするところから始まった。
名作と言われる作品でも、余白では気負いなくこれをやっちゃうところが素敵。
多田さん、ふじみもいいけどこれからまた東京も楽しみが増えました。
ゴリラと最終バス
ぬいぐるみハンター
駅前劇場(東京都)
2013/01/07 (月) ~ 2013/01/14 (月)公演終了
満足度★★★★
演出とキャラとゴリラ
オープニングからおーっと思わせる池亀三太さんの演出が面白い。
バカバカしいけど真実、真実だけどありえな~い!
きゃーきゃー言ってる合間に点在するきらっと光る台詞。
ベタな家族愛の話なのに、ナイーブな台詞と力のある役者によって
ファンタジーワールドがぐんと広がる。
“ゆるみ”のないコメディの中で、ゴリラの腹がぷよんぷよんと揺れる。
ネタバレBOX
何にもない舞台、奥の壁はゆるい半円を描いている。
出ハケはどこからするのかしらと思いながら開演を待っていたが
短い暗転の直後、いきなり10数人が舞台上に登場していてびっくりした。
どこから出てきたのかと思ったら、半円の壁のように見えていたのは
幅広のゴム(?)で、そこを割って出入りしていたのだった。
この演出で、終始スピーディーな場面転換が可能になっている。
ストーリーを追うよりはキャラの面白さが目を引く。
話の中心となる家族の小学生清盛(松下幸史)とその妹円(浅利ねこ)、
彼らの母茜(片桐はづき)、その姉(神戸アキコ)、
清盛の同級生蛾次郎(北尾亘)、
そしてゴリラ(ぎたろー)ら“はみ出た”人々が超個性豊かで可笑しい。
「んなこと面と向かって言えるかよ!」という“照れ”と“自意識”。
内面深く沈めるか、大音響でがなりたてるか、両極端の自己主張。
現代人のコミュニケーションの不器用さを体現する登場人物たちが
時折はっとするような台詞を言うので、ますます魅力的に感じられる。
ラスト近く、茜と姉がしんみり話すところなどそれまでの落差もあってとても効果的だった。
キレの良いダンス(振り付け北尾亘)にインパクトがあって、2時間を飽きさせない。
ゴリラが回転したのにはマジで驚いた。
ちなみに私は最初、ゴリラは2頭出て来るのかと思ってしまった。
だって五郎の勤め先の小結(橋口克哉)とゴリラ、巨漢で双璧をなしているんだもん。
“太刀持ち露払い”でセットだと思うじゃない?
全体がもうちょっと短くても良かったような気もする。
初見の私にはわからないファンサービスがあったのかなとも思うけど
一つひとつのエピソードがもう少しすっきりしたらテンポが上がって
疾走感がリアルになったのではないか。
力のある役者さんが全力で走る、その振り切れたエネルギーが
観ている私たちに伝わって来て体温が上がる。
それにしてもゴリラ、君はいい奴だなあ。
久しぶりにゴーゴーカレーが食べたくなったわよ。
初雪の味
青☆組
こまばアゴラ劇場(東京都)
2012/12/28 (金) ~ 2013/01/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
【会津編】母の言葉
【会津編】を観劇。
“万感の思い”という言葉が浮かんだ。
ふるさとの「家」は「家族」であり「母」である。
これらいずれ喪うであろうものに対して、切なる寂しさを抱く人にとっては
吉田小夏さんの台詞と役者の力の前に、涙せずにはいられないだろう。
”言外の思いが聴こえる台詞”が素晴らしく、
思い出すと今も泣きたくなる。
ネタバレBOX
舞台に広々としたこたつのある居間が広がっている。
横長のこたつのほかにはテレビもなく、会津の民芸品が飾られた棚がある。
市松柄の障子戸の向こうは廊下で、上手は玄関、下手は奥の部屋へと続いている。
八畳間の清々しい空間。
この家には母(羽場睦子)と次男の孝二(石松太一)、それに母の実弟で
結婚せずに役場勤めをしている晴彦(鈴木歩己)が住んでいる。
長男賢一(和知龍範)と長女享子(小暮智美)が帰省してくる大晦日の夜を、
4年間に渡って描く物語。
最初の年の瀬、母は入院していて留守である。
次の年、その次の年と母は家にいるが、最後の年は葬儀の後初めての大晦日だ。
ふるさとの「家」は「家族」であり「母」である。
そこでは毎年お決まりの会話が繰り返され、それが”帰省”を実感させる。
母は次第に弱っていくが、比例するようにその言葉の重みは増していく。
しばらく帰省しなかった長女が、その理由を話そうとして話せずにいるのを見て
「無茶するな、でもどうしてもしたいことなら無茶すればいい」
という意味のことを言って明るく笑う。
享子は顔を覆って泣いたが、その包み込むような言葉に一緒に泣けてしまった。
死後幽霊となって弟晴彦の前に現われた時は
「旅をしないのも勇ましいことだ」と彼に告げる。
町を出ず、結婚せずにずっと自分を支えてくれた弟の生き方を肯定する言葉に
晴彦は涙をためて姉を見つめたが、私は涙が止まらなかった。
初演は8年前、これが4度目の再演だというこの作品で
羽場睦子さん1人が初演からの出演だという。
この人の体温を感じさせる台詞が素晴らしく、
役者が年齢を重ねることの意味を考えさせてくれる。
弟晴彦役の鈴木歩己さん、素朴で実直な独身男の不器用さが
そのたたずまいからにじみ出るようで秀逸。
姉を喪い、家も買い手がついて、この人のこれからを思うと
どれほど寂しいことだろうかと、私の方が暗澹としてしまう。
次男孝二役の石松太一さん、「キツネの嫁入り」でも素晴らしかったが
定職にもつかず母と同居して、何かしなければと焦っている様がリアル。
女に振られる辺り、多分したたかな女に振りまわされたのだろうと充分想像させる。
素直で世間ズレしていない感じがとても良かった。
吉田小夏さんの作品には、いつも滅びゆくものに対する哀惜の念を感じる。
部屋のしつらい、繰り返される行事、慣れ親しんだ習慣、そして方言。
何気ない家族の会話がひどく可笑しいのは、このおっとりした会津方言の
音やリズムのせいもあるかもしれない。
タイトルの「初雪の味」のエピソードも、人生の苦味を感じさせて味わいがある。
じわりと変化する照明も巧いと思う。
アフタートークには田上パル主宰の田上豊さんが登場、
今回方言翻訳・会津編演出を担当した「箱庭円舞曲」の古川貴義さんとこたつで対談。
田上さんも熊本の方言で芝居を書くそうで、方言の演出についての話が面白かった。
標準語を方言に直すと句読点の位置がずれるという。
個人の言語感覚の根底にあるのだなあと改めて思った。
私の2012年のラストを飾る1本は、
言葉の美しさと台詞の妙、役者の力がそろった作品だった。
滅びゆくものたちへの言葉、それはまさに演じては消える生の舞台の宿命にも似て
だからこそ私たちはまた劇場へと向かうのだろう。
儚いものを目撃するために・・・。
埋める日
スポンジ
OFF OFFシアター(東京都)
2012/12/26 (水) ~ 2012/12/30 (日)公演終了
満足度★★★★
観客を信頼して成立するストーリー
最小限の台詞で紡ぐ母親の葬儀の日の出来事。
舞台上に再現された団地の一室のセットが素晴らしく緻密かつリアルで
これから始まる物語の繊細さを予感させた。
そこで繰り広げられた人間模様は、大胆なプロセスの省略によって
より人間関係が際立つ結果となった。
ネタバレBOX
劇場に入ると緻密なセットに目を奪われる。
古い団地のリビングダイニング、流しの上の棚に置かれたジューサーや
下がっている手拭きタオル、冷蔵庫と流しの間の可動式ワゴン、
茶箪笥の中の湯のみ茶碗、隣の畳敷きの部屋のソファ、古めかしい額…。
全てが“誰かの日常”であり、私はそれを覗いている感じがする。
やがてここへお骨を抱えた一族が帰ってくる。
海外出張から飛んできた長女(横山美智代)と秘書らしい男、
この部屋に住んでいた死んだ母親と同居していた次女(太田雪絵)と夫、
葬儀屋の男である。
後から、葬儀に参列しなかった三女(如月萌)とBFのDJの男もやって来る。
この葬儀を終えたばかりの人々の心に、さざ波を立てるような出来事が次々に起こる。
例えば次女の浮気の発覚。
これには伏線があって
母親の介護を次女に押し付けて、君は何も手伝わなかったのかと問うDJに三女は答える。
「だってそんなこと言えない雰囲気ですごかったんだもん」(みたいな意味のことを言った)
浮気が発覚したあと三女に激しく責められ、つかみ合いの喧嘩になった時
次女は短く本音を叫ぶ。
これが本当に短い。
言い訳にもならないほどの短い台詞を吐くのだが、
そして次の瞬間舞台は場面転換する。
次のシーンで、三人は何事もなかったように談笑している。
次女が叫んだあのあと何が起こったのか、それが何となく判るのは何故だろう。
それまでの三人の言動や、互いの行動を見る目からごく自然に判ってしまう。
この“説明せずに場面転換”して話を切り上げる方法が何度か見られたが
その都度この省略に違和感はなかった。
むしろよくある話なら結論だけ伝えてくれればいいのだ。
省略されるにはそれだけの理由があって、つまりプロセスは大したことではないのだ。
大事なことは「浮気がバレた」→「別れるか否か」→「別れない」ということであって
その結果を見ればこれまで築いてきたものがおのずと判る、ということだと思う。
この舞台で完全暗転は1回だけだったと思う。
ほかはソファの部屋のテレビが砂嵐のように明るく点いて
その間に出演者は自然に(時には言葉を交わしながら)小道具を持って移動する。
この場面転換が新鮮だった。
荷物を持って出て行ったり、グラスを持ってソファへ移動したりする人々を見て
そこに時間の経過を自然に感じる。
真っ暗な中を黙って“段取り”に奔走するだけが場転ではないのだと思った。
淡々としたストーリーながら登場人物の緊張感が素晴らしく
観ている方も緊張して手に汗握ったりするものだから
メリハリがついて飽きさせない。
田所(牧野はやと)が流しの開きを開けようとした時
その場にいる全員が一斉に包丁を遠ざけようとダッシュしたが
あの時は観客も同時に駆け寄る気分だったと思う。
そういう一体感が生まれるような緊張感の共有があった。
斬新な場面転換と省略によって、物語は削ぎ落されたように骨格を露わにする。
敢えて言わずに想像させる、そして大体それは当たっている、という
観客を信頼して成立するストーリーが面白い。
それにしてもスポンジ、繊細な台詞と大胆な演出をする劇団だなあと思う。
掃き出しのサッシを開ける度にマンションの新築工事の轟音が聞こえる。
元は廃校となった小学校で、そこから何か四角い箱が掘り出されたという。
「埋める日」に「掘り出されるもの」「埋め戻すもの」様々が去来する話だった。
弔いの鐘は祝祭(カーニバル)の如く
天幕旅団
劇場MOMO(東京都)
2012/12/20 (木) ~ 2012/12/24 (月)公演終了
アーメン
清々しい作品へのコメントと一緒に書きたくなかったので別にここへ書く。
どうしてスマホをいじりながら舞台を観るのか。
小バッグを胸に時々手を突っ込んで返信している。
当然顔を照らすほど明るくなる。
それも一度だけではない。
作品にも演者にも非常に失礼なこういう観客は
きっと誰からも注意されたことが無いから
「えー、けっこう大丈夫だったよ~」とか言いつつ
あちこちでひんしゅく買って歩くのだろう。
もう一度返信したら後頭部を張り倒してやったわ。
そんなに大事な返信なら表へ出ろ、芝居を観るなと言いたい。
舞台人が成長するのに観客が成長しないのは誠に情けない。
ドームコンサートでも、携帯で撮影しようとする客に
やんわり注意するスタッフが客席のあちこちにしゃがんでいた。
客席後方に非常識な輩に注意するスタッフを配置して欲しいと思う。
そして前説ではっきり伝える。
「携帯電話等をご使用になりますと、スタッフがお声を掛けさせていただきます。
近くに使用している人がいる、と思われましたら上演中そっとお手をおあげください。
スタッフがお近くへ行ってその方に注意します。
途中退場など、不愉快な思いをしないためにも皆様電源からお切りください」
神よ、クリスマスを前にこのようなお願いをすることをお赦し下さい。
あのケータイ女に天罰を与えたまえ。
アーメン
弔いの鐘は祝祭(カーニバル)の如く
天幕旅団
劇場MOMO(東京都)
2012/12/20 (木) ~ 2012/12/24 (月)公演終了
満足度★★★★★
クリスマスキャロル エピソード 1
この劇団の特徴である美しい舞いのような動き、
ストップモーションとなめらかな動きの組み合わせ、
何かを象徴する時の静かな動作、明確な目的を持った移動と待機時間など
演劇的表現にはまだまだ無限の可能性があるのだと思い知らせてくれる。
この“絵のように美しい”舞台が跡形も無く消えてしまうことが惜しくなる。
たとえそれがまさに天幕旅団の目指すところであったとしても・・・。
ネタバレBOX
円形の舞台の周囲には高さの違うポールが10本程立っていて
その1本ずつにカラフルなチェックのシャツやコートのようなものがかけられている。
冬物らしくネルシャツのようだ。
舞台上には1本だけ奥の方にポールが立っていて、長いコートと帽子がかかっている。
やがて四方から5人の役者が登場、
それぞれかかっているシャツやコートを羽織って歩き始める。
金貸しのスクルージ(菊川仁史)があの長いコートと帽子を身につけると
人々は丁寧にお辞儀をし、挨拶をして通り過ぎる。
スクルージは取り立てが厳しい。
今月3回目の遅刻をした従業員のボブ(佐々木豊)に“クビ”をちらつかせたりする。
年に一度のクリスマス休暇をしぶしぶボブに許可したその夜、
彼の前に“ゴースト”と名乗る少年(加藤晃子)が現れて
彼に過去・現在・未来を再現して見せる。
それは7年前の、親友であり共同経営者でもあったマーレイ(渡辺望)の死にまつわる
後悔と懺悔の旅路の始まりだった・・・。
あのクリスマスキャロルが実はこういう話だったのかと思うほど
自然に本歌取りしていることにまず驚かされる。
情け深かったスクルージが守銭奴と化す理由が素晴らしく良く出来ている。
これは「クリスマスキャロル エピソード1」だ。
あまりの自然な流れに原作を読んでいても混乱しそうなほどの説得力。
マリアの衣装などエッジの効いたロンドンファッションのようにちょっと前衛的だし
チェックを多用したシャツや、不規則な汚しのような柄のジャケット、
それらを人々から奪って何枚も重ね着し、着ぶくれていくスクルージ、
やがて1枚ずつはぎとられ全てを失ってひとり死んでいくスクルージ、
時折掌でコインを小さく投げ上げてチャリ、チャリ、という音を立てるその効果音、
全てが象徴的で美しく、雄弁でありながら厳選されていて無駄がない。
無駄がないと言えば役者の動きも整然としてまさに無駄がない。
舞台をおりて静かに椅子にかけている時も視線は舞台にひたと置かれたままだ。
わずかな小道具である小さなテーブル2つと椅子2脚、
それらが軽々と空を舞うように動き、舞台から消え、
事務所の仕事机として、貧しい家庭の食卓として再び登場する。
それらを流れるような動作で正確に行い、場面転換をし、効果音を入れ、
ポールを移動させて時には階段の手すりに、時にはドアにと変身させる。
ポールにシャツをひっかけ、それを外し、スクルージに奪われ奪い返し・・・。
舞台上で台詞を言う以外に、これだけの動きと流れをたたき込むのは
並大抵のことではないだろうと思う。
常に先の段取りを考えながら目前の台詞に集中する、
当然のこととはいえ素晴らしい。
スクルージ役の菊池さん、最後にゴーストがプレゼントした
死んだマーレイとの再会の場面が秀逸。
自分の死に責任を感じ、冷徹な金貸しとして生きることを選んだスクルージに
「照れくさいから一度しか言わない、ありがとう」というマーレイに
「え?」と大きく聞き返してもう一度言わせようとするが
「さよなら」とマーレイは背を向ける。
スクルージの目から涙があふれて、私はもっと泣いていた。
マーレイを演じた渡辺望さん、作・演出にも突出した才能を感じるけれど
マーレイの根っからドライな金銭感覚・価値観を迷いなく演じて見ごたえがあった。
ゴーストの加藤晃子さん、相変わらず完璧な少年っぷり。
潔癖で一途な少年の優しい気持ちが哀しいほど伝わってくる。
前公演の歪んだ少年も素晴らしかったが、このひたむきさもこの人ならではの存在感。
ボブ役の佐々木豊さん、貧しくても幸せな家庭を築いている男の
優しさと切羽詰まった生活感がとても良く出ていた。
守銭奴と化したスクルージに対して、昔の彼を彷彿とさせるキャラだ。
マリア役の渡辺実希さん、金を借りに来るたびに
暮らしの追い込まれ方が深刻になっていく様が手に取るようにわかる
台詞の変化がとても良かったと思う。
哀れな死に方に説得力が生まれた。
天幕旅団は育ちの良さを感じさせる品の良い劇団だと思う。
台詞の言葉もきれいで崩れていない。
きちんと伝えたい、大事に伝えたいという気持ちに満ちている。
ぽーんと投げて自由に解釈してね、というのとは違う“手塩にかけた”創り方だ。
いろんなタイプがあって良いと思うが、天幕旅団はそういう劇団だと思う。
当日パンフによれば、渡辺望さんは墓地を見下ろす“絶景”のアパートでこれを書いた。
死者からのメッセージは、ある意味クリスマスにふさわしいかもしれない。
弔いの鐘と共にこの素晴らしい作品は降りて来たのだ。
そのアパート、神様の贈り物だと思う。
肉のラブレター
MCR
駅前劇場(東京都)
2012/12/19 (水) ~ 2012/12/23 (日)公演終了
満足度★★★★
こんな風に死にたい
櫻井智也さん曰く「父親がリアルにガンになった」ことから
この題材を選んだという、病人とその周囲の物語。
人は「死」を意識して初めて本当の意味で「生」を意識するのかもしれない。
「死にたい」も「死にたくない」も「生きること」の裏返しだ。
大笑いしながら一緒に考えさせられ、笑った後私はまだ考えている。
ネタバレBOX
会場に入ると、全体が少し照明を抑えて薄暗い。
舞台中央少し高くなった所に置かれた自転車が夕陽のような色に浮かび上がっている。
冒頭、北島とスズエが登場、二人乗りしながら最期の時のことをあっけらかんと語る。
北島(北島広貴)が不治の病になった。
櫻井医師(櫻井智也)によると「現代医学ではどうしようもない、まだ名も無い病気」らしい。
恋人百花(百花亜希)は動揺し、いつも北島の側にいるスズエ(金沢涼恵)のことを
問い詰めたりする。
共通の友人堀(堀靖明)は、彼らの間で翻弄されながらもいつも側にいる。
看護師の小川(おがわじゅんや)やスズエ達は、北島に「生きる意味」を与えようと
何か目標を持つことを勧め、みんなで一緒にダンスをしようと張りきる。
しかし当の北島は、みんなそれぞれ自分の為に何かをしたがっているのであって
そのために北島の病気を利用しているに過ぎないと感じている。
北島とスズエが共に孤児院で育ち、一緒に無茶をした仲間であるという
強烈な体験を共有する者だけが持つ“同士”の感覚が、まず前提にある。
スズエは彼の最期を見届ける覚悟で、恋人に出来ないことも自分なら出来ると信じている。
百花は病人の自分に気を使うだろうから別れようという北島が理解できない。
それはたいして好きじゃないからだろう、スズエと一緒にいたいからだろうと考える。
医師、看護師、ダンスの先生、友人たち、
それにストリートミュージシャンとその追っかけまで巻き込んで
彼らは生きる意味を考え始める、北島の為だけでなく自分自身のこととして。
そして北島の“余命”が少しずつ終わりに近づいていく・・・。
櫻井さんが医師というスタンスがまず絶妙。
患者やその身内の人間でなく、情も思い入れもそこそこの医師が
ビジネスライクに、またノーテンキに新種の病名を考えたりするところが可笑しい。
「内蔵バンバン病」って・・・(笑)
この医師が、ダンスがヘタで歩くことしかできないくせに時々いいこと言うんだよなあ。
堀靖明さん、見た目も説教も暑苦しい(すいません)友人堀の心の中にある
優しさや切なさが伝わって来るその熱い語り口、ほんと隙がなくて素晴らしい。
北島広貴さん、まるで素のような飄々とした口調で冷静さを装ってはいるが、
実は誰かに最期まで見ていて欲しいというすがるような気持ちがにじむ。
「このあとどうする?」と言いながらスズエと無茶した時代の回想シーンが泣かせる。
“このあと”が無くなって行く者にとって、あの時代の輝きが哀しい。
スズエの本心が吐露されるこの場面がとても印象的だ。
ストリートミュージシャンの追っかけを演じた伊達香苗さん
初日の少し硬い舞台にあって、素晴らしい滑舌と台詞回しが光っていた。
口下手なミュージシャンに代わって歌詞を解説するところ、ほんと素晴らしかった。
百花亜希さん、余命宣告された恋人から「別れよう」と言われる混乱ぶりがリアル。
最後にはきちんと自分から別れを告げる潔さと誠実さが美しい。
ダンスの先生(上田楓子)も含めて、みんな余命宣告された北島に積極的に関わろうとする。
それが時に方向違いであっても、だんだん足が遠のく寂しさに比べたら
北島にとってはどれほど心強いことだろう。
面倒な病気であればあるほど、人は次第に遠ざかるものだ。
かけるべき言葉を探してうろうろするのが苦痛だから、
見ていられないから・・・。
どう見ても意味の良くわからないフライヤーの写真も(踊ってるんだね)
舞台を観終わって見れば「生きとし生ける肉体からのラブレター」のような気がして
「こんなことするのも生きている間だけなんだなあ」と愛おしくなるから不思議だ。
初日に観たのに体調を崩して投稿が遅くなってしまった。
たった2,3日寝込んだだけで人は心細くなるものだ。
死ぬ時はひとり、とかいうけれど、死に至るプロセスはひとりでいたくないと思う。
やはり誰かに「一緒に踊ろう!」なんて言われたいなと思ったのだった。
ゴジラ
雀組ホエールズ
千本桜ホール(東京都)
2012/12/18 (火) ~ 2012/12/23 (日)公演終了
満足度★★★★
やっぱりゴジラじゃだめなのか?
離れて見るとますます素敵なフライヤーも魅力的な「ゴジラ」。
あり得ない話にどんどん客の心を惹き込むのは、主演の迷いのなさ。
世間知らずでピュアなお嬢さんの一途な思いがゴジラに火を吹かせる。
それにしても、恋をするなら「ヒト」でなくてはダメなのか?
ネタバレBOX
畳敷きの部屋に丸いちゃぶ台。
この家の三姉妹のうち、長女のやよいがカレシを連れて来たからさあ大変。
何と言ってもカレシはゴジラだし、身長50メートルで火なんか吹くし。
反対する家族を説得しようと奮闘するやよい。
ついにゴジラはウルトラマンに変身したやよいの許嫁ハヤタ(阪本浩之)との対決に及ぶ。
そして思いがけない決断をするのだった・・・。
劇団離風霊船 大橋泰彦さんの荒唐無稽な作品には
「愛ってなに?」という普遍的な問いと同時に
「それでもあなたは愛せるか」という障害を前にした者に対する問いかけがある。
この場合障害が「あまりにも大きい」ので、のっけからコメディになるのだが
冒頭から“夢見る夢子”の如きのやよい(棚橋幸代)の台詞にブレや迷いが一切無いので
一直線の純愛のスタートと同時に客も一緒に走り出す感じ。
当日パンフにある通り、ゴジラの大きさは観客の想像力に委ねられている。
そこにゴジラ(持永雄恵)のなりきりぶりと効果音のタイミングがあいまって
千本桜のゴジラは一気に50メートルの怪獣と化した。
円谷英二の登場や配給会社絡みのネタも楽しいが
円谷英二のゴジラに向ける親心にはほろりとさせられる。
ザ・ピーナツの「♪モスラ~」の歌とダンスも懐かしくとても良かった。
当日パンフの「みんなの怪獣大ずかん」も
教室でジャミラとかピグモンの物真似をした世代としては大変嬉しい。
ひとり山へ戻る決心をしたゴジラの悲痛な気持ちが伝わってきただけに
見送るやよいにもっと混乱と絶望感があったら、さらに泣かせただろうという気がする。
それがラスト、島から避難する途中やよいがひとりの青年(持永雄恵)と出会った時
再び心に火が灯る場面につながって幸せな気持ちが倍増するから。
ちょっと気になったのは畳の部屋に靴をはいて登場するシーンがけっこうあったこと。
演出上仕方がないのかな?と思った。
やっぱり「ゴジラ」じゃダメなのか?
人は人しか愛せないのか?
確かに「ゴジラは痛みを感じない」「ヒトは痛みを感じる」
けれど人間だって他人の痛みは所詮想像力でしか感じられない。
去って行く50メートルの背中に私は呼びかけたくなった。
「ゴジラよ、そこらへんの小さい男なんかより
あなたの方がずっと人を幸せにする」
すべての夜は朝へと向かう
劇団競泳水着
サンモールスタジオ(東京都)
2012/12/12 (水) ~ 2012/12/24 (月)公演終了
満足度★★★★★
そして人は朝を待つ
特別な事件は起こらないが、リアルでありながら厳選された台詞と構成が素晴らしく、
群像劇の登場人物がそれぞれ丁寧に描かれて“おまけのキャラ”なんてひとりもいない。
”芝居のリアル”の面白さを堪能させてくれる作・演出が秀逸。
泣くような話じゃないのに、ラスト何だか涙が出て来た・・・。
ネタバレBOX
舞台は上下2つの空間に分かれている。
それぞれにソファとテーブル、上は元予備校教師修(武子太郎)の部屋で
下は神田夫妻(根津茂尚・細野今日子)の部屋だ。
冒頭、修が登場して自分の恋愛顛末を一人称で語り始める。
予備校講師だったとき、生徒の高校生千晴(相楽樹)と交際して振られ、
別に職場にバレたわけではなかったが、結局予備校を辞めてしまった。
今はバーテンとして働いている。
高校生千晴の姉が、下の空間の妻・神田真希だ。
修の部屋に飲みに来た予備校講師仲間4人それぞれの恋愛模様と
神田夫妻の静かなすれ違い生活が描かれる。
妻の心を知りたくて友人に「妻を誘って反応を教えて欲しい」と持ちかける夫、
彼の妻に近づきながら次第に心惹かれていく男、
年下の彼氏に執着し過ぎて振られる女、
喧嘩しないと本心が伝えられないカップル、
ひと回りも年下の男の子から告白される女・・・等々
みんなすんなり転がらない恋に悩んでいる。
上野友之さんの脚本・演出は奇をてらったものではないし、大事件も起こらない。
でも登場人物の心の揺れが水のように沁み込んで来て深く共感してしまう。
照明の効果でテンポ良く場面が切り替わって、次のカップルに焦点が当たるという構成。
一人ひとりに丁寧に添うような無駄のない台詞と自然な仕草。
ヘタな役者なら退屈になりかねないところだが、皆見事にはまって生き生きとしている。
客は“不自然”に敏感だし、リアル過ぎると余計なものまでついて来る。
“芝居のリアル”は日常から普遍性を抽出したものであると思うが、そこの加減が絶妙。
元予備校講師修を演じた武子太郎(たけしたろう)さん、
艶のある声で、でも張り過ぎず、不思議な色気のある人だ。
どこかで聴いた声だと思ったらサイバー・サイコロジックの「掏摸」に出ていらした。
その時は役の特殊性もあってあまり入り込めなかったのだが
今回どこにでもいる普通の男という逆に難しい役を自然に繊細に演じて素晴らしい。
つきあっている年上の女に別れを告げ、ひとまわりも年上の女性に告白する
元ひきこもりの青年を演じた大柿友哉さん、ストーカーめいた行為に辟易しつつ
勇気を振り絞って別れを告げるところ、ひきこもりだったというコンプレックス、
それらがとても素直に伝わってきて、東京駅での告白に“朝”が来たことを感じさせる。
高校生役の相良樹さん、恋の意味は良く分かっていなくても、
姉夫婦の不和は微妙に感じ取る繊細さを持つ千晴を自然に演じている。
制服の高校生を演じると妙に力が入る役者さんを見かけるが、千晴の適度な脱力感が超リアル。
終盤、千晴と修は街で偶然再会するのだが
千晴が立ち去った後、修は「本当に好きだったんだ」とつぶやく。
その短い言葉に、千晴より大人で“執着”や“替え難さ”を覚えた男の哀しみが溢れていて
せつなくて泣きそうになった。
「明けない夜はない」けれど、時に「明けても夜のままの人生」はある。
それでも私たちは「朝」を信じて眠りにつく。
その繰り返しの中でちょっと立ち止まって考えさせる舞台だった。
「朝」って、きちんと向き合わないと訪れないものなんだね。
バルブル
げんこつ団
駅前劇場(東京都)
2012/12/12 (水) ~ 2012/12/16 (日)公演終了
満足度★★★★
「芸者を呼べ!急げ!」
フライヤーの熱帯ムード(?)に象徴される暑苦しい程のオーバーアクト。
“女だけの芝居は理屈っぽい”というイメージを持っている人、
このナンセンスアマゾネス軍団を観よ、ここには論理など存在しない。
だいたい前説からしてふるってる。
「他のお客様のご迷惑になるヘンな癖のある方は存在を消してください」って、確かに。
炊飯ジャーの製造会社社長多根松氏に、社員から“一代記ビデオ制作”がプレゼントされた。
制作会社からやってきた取材スタッフ2人は、社長や社員の話を聞くが失望する。
彼らが欲しいのはそんな“いい人”の話ではない、
もっと劇的で悲惨でドラマチックな“別の人生”の話。
そこで社長の人生を源流へとさかのぼって、時々バルブを開けたり閉めたりすると
選択されなかった別の人生が流れ出すのだ・・・、脈絡もなく。
なーんてストーリーを追ったりするのはやめだ。
「腰布一枚の」息子を探して歩く聖母マリアが時折通り過ぎたりするのだから。
げんこつ団副団長の植木早苗さん、この人がどうしてこういうテイストに走るのか…?
と思うほど素顔は“ヅカ風”のキリリとした美人だ。
なのに惜しげもなくハゲのヅラでオヤジと化す所が潔い。
それにダンス。
サラリーマンネオみたいに全員がスーツで踊る、これにはびっくりした。
なんでみんなこんなに上手いの?
映像の使い方も洗練されていて舞台の延長線上のように感じられた。
テレビで時々見る「もしも…」のコントをふくらましたような
そこをゲバゲバ90分が横切るような
っていう表現は劇団に失礼かしら?
でも女同士、小奇麗にまとめた“ほっこり”“心温まる”“ほろりとさせる”コメディじゃなくて
“強烈なナンセンスしかもブラック”にこだわるところに超個性的な劇団の存在価値があると思う。
今回客席の反応が良かった所を強調するためにも、
もう少しテンポ上げてコンパクトにしたら
もっと笑いが来る気がするけどどうだろうか。
緊急時に警察じゃなくて「芸者を呼べ!」と叫ぶところが好きです。
植木早苗さんがはんてん着て転がってるところが好きです。
この人が普通に美しいところもぜひ観てみたい。
しかし駅前劇場、「演出の都合上寒いので」とブランケットの貸し出しがあったが
ホントに寒かった。
どんな演出であんなに寒くなるの?
バルブを開けると風が出るってことか?
見渡すかぎりの卑怯者
ジェットラグ
赤坂RED/THEATER(東京都)
2012/12/08 (土) ~ 2012/12/16 (日)公演終了
満足度★★★★★
卑怯者の国
「自分を評価するのは常に自分以外の人である」という事実は、時にひどく人を苛む。
いくら自分を信じても、誰も正しいと言ってくれなければそれは勘違いに他ならない。
精神病棟を舞台に「正しい人間」「正しい治療」「正しい選択」をめぐって
患者・医師・家族全ての人々が自分を責めながら悩んでいる。
まるでサイコサスペンスのような、ラストの衝撃が空恐ろしい。
ネタバレBOX
舞台正面に巨大なキャンバスを据えて、黒ずくめの男がひとり絵筆を握っている。
彼の妻が、謝罪して頭を下げる担当医に投げつけるように言う。
「謝らないで下さい!それじゃまるでこの選択が間違っていたみたいじゃありませんか!」
画家の権田(若松賢二)は、どうして自分が精神病院などに入れられたのか判らない。
誰かの首を絞めたらしいのだが覚えていないのだ。
患者を平気でキチガイ呼ばわりして薬物治療を信じる院長(三浦浩一)は
権田の担当医(内田亜希子)とことごとく意見が合わず衝突してばかりいる。
権田の病室にはもう一人の入院患者、坂東(若松武史)がいる。
彼は権田の絵の師匠で、権田は偶然の再会を喜ぶが
坂東もまた妻の首を絞めてここに入れられたのだという。
坂東の妻(佐藤真弓)は担当医と頻繁に話し合いにやって来る。
ここには又、指示待ちタイプの看護師(若葉竜也)がいてぼんやり患者を見守っている。
ここで言う「卑怯者」とは
「うすうす感づいているくせに気付かないふりをしている奴」のことだ。
精神病棟という特異な空間に慣れ切って感覚がマヒしているかのような院長が
権田の錯乱をきっかけに深い洞察を見せるところが面白い。
院長の「治るって何なんだろうな」という一言は
患者にとって自然な状態を、「治療」と称して敢えて不自然な状態にすることへの
強烈な違和感とそれに加担する職業のジレンマを表わしている。
この「サイテー医師」から「立ち止まり悩む真摯な医師」への変化、
患者の錯乱状態で目覚めたと言うだけではイマイチきっかけが弱い気もしたが
三浦浩一さんの演技は、どちらもひとりの医師の中にある葛藤で
根っこは同じなのだという人格の統一感が感じられた。
一見正義感あふれるかに見える担当医が、実は「治してみたい」という
自分の欲望に抗えず、院長に内緒で実験的な治療を施してみたりする。
周囲の承諾を得たとは言え、結果的に彼女のエゴが権田の人格を崩壊させていく。
夫が精神病院に入院した事によって経済的・世間的に大きな影響を受ける妻は
「治って欲しいのか治って欲しくないのか」自分でも良く分からなくなっている。
もう一度絵を描いて欲しいが、精神病患者の絵などもう売れないかもしれない。
新しい治療をすることで国からの手当てがもらえなくなるのは困る。
夫を追い詰めた要因のひとつは自分の言動であることに、彼女は気づいているのか。
佐藤真弓さん演じる妻は“ひとりだけ素人”の立場からの発言が率直で可笑しい。
なめらかな声で、天然のボケぶりとしたたかさを持ち合わせる妻を演じた。
若松武史さんの、どこか泣き笑いのような表情が哀しい。
抑圧された自己と向き合う為には、こういう方法しかなかったのか。
飄々と軽やかな台詞回しの中に、追いつめられた者の叫びが聞こえる。
松田賢二さんの、身体の動き・強張り方・苛立ちがリアルで
人格の入れ替わりが良く分かった。
どうして入院させられたのか全く思い当たらないという混乱ぶりに
観ている私も自然と感情移入出来た。
非常に興味深いのでネタバレするのが惜しいから敢えて書かないが
脚本がとても面白くて謎も緊張感も尻上がりに高まって行く。
箱庭円舞曲の作・演出である古川貴義さんは、台詞にメリハリがあって聴かせる。
劇的な照明と共に、テンポの良い展開と場面転換でキメの台詞が際立つ。
そしてラスト、冒頭と同じ場面が繰り返されるが、今度の画家は白ずくめだ。
客席を振り向いて「卑怯者・・・」とつぶやく彼の視線の先には
ここもまた見渡す限りの卑怯者が並んでいたことだろう。
Knight of the Peach
劇団パラノワール(旧Voyantroupe)
サンモールスタジオ(東京都)
2012/12/05 (水) ~ 2012/12/09 (日)公演終了
満足度★★★
正邪いっぺんに観たい
エロ・グロもキャラ設定も面白いが、似たようなシーンが多くてちと長い。
邪道に2時間10分費やすより、1粒で2度おいしい公演にしたら
登場人物の魅力がより伝わるような気がする。
もっとコンパクトにして正道・邪道いっぺんに観たいというのは我儘か?
ネタバレBOX
黒っぽい舞台の奥、中央のひときわ高い所は王様が座る場所だ。
左右から段差の大きい階段で上るようになっている。
鬼ヶ島に棲む王様と兄君は、供される素行の悪い女ども「桃姫」を食べて生きている。
王様は「桃」=「お尻」しか食べない。
この「人を食う」場面を中継する番組があって、世界中に愛好者がいる。
御前と呼ばれる大財閥の会長は有力スポンサーだ。
あろうことか、この御前の娘キジが生贄として島に送り込まれてきた。
この会長と娘の親子関係、桃太郎と父親の世代交代、食われる桃姫たちのプライド、
裏ビジネス・・・それらを軸にストーリーは展開する。
出演者の「桃」は確かに魅力的だし(桃太郎の桃も!)、
「桃姫」たちの衣装も、台詞を言うたびに腹筋の動きが見えて面白い。
正道バージョンと表裏一体で初めて個々のキャラが立体的に見えるのかもしれないが
邪道バージョンだけ観たのでは人物像が少し物足りない。
興味深い桃太郎の親殺しの心理や、桃太郎に食べられる事を選んだキジとの関係、
桃太郎を助ける従者サモエドの心理等を丁寧に描いたらもっとドラマチックになっただろう。
番組放送シーンや桃姫折檻シーンを減らしてもそっちが知りたかった。
ラスト30分、桃姫の一人が舌を切られる場面からメリハリがついて一気に引き込まれた。
御前役の秋山輝雄さん、でっぷりしたお腹に着物が良く似合って存在感大。
「これは筋肉だ」という台詞に大いに笑った。
キジ役の川添美和さん、よく分かる台詞でヤンキー娘らしさ全開。
父親に中指立てて桃太郎に食われるラストシーンは最高!
サモエド役の伊藤亜斗武さん、キャラを活かした変化のある台詞が良かった。
この人にもっと硬軟取り混ぜたキメの台詞を言わせて欲しかった。
桃太郎ビズラ役の平良和義さん、台詞の少ない役だったが強烈な印象を残す。
それだけに正道とセットで観て、その行動の裏を知りたくなる。
同じ人を食う鬼でありながら、父親と兄を退治するに至るプロセスが分かって初めて
エログロシーンも生きて来ると思う。
2バージョン方式は流行りかもしれないが
片方しか観ない客をどこまで満足させるかが、鍵かなと思った。
テロルとそのほか
工場の出口
アトリエ春風舎(東京都)
2012/12/01 (土) ~ 2012/12/07 (金)公演終了
満足度★★★★
他人の思考を思考する作品
プロセス共有チケットを購入して、最初の稽古見学に行ったのは11月17日だった。
稽古は合計3回見に行って、12月1日初日の舞台を観た。
俳優の提出したテーマを作・演出の詩森さんが共有して脚本を書き
稽古の過程でさらに双方向から意見をぶつけ合って変化させていく。
この「他人の思考を思考する」というプロセスで創られた作品は
初日今度は「観客が思考すること」を求めて来た。
多少なりとも思考する人間は、交差する複数の思考回路へ足を踏み入れるだいご味を味わう。
漫然と見て「何かくれ」タイプの人には向かない作品かもしれない。
ネタバレBOX
作・演出の詩森さんが好きだという、俳優や照明が映えそうな黒っぽい舞台には
公園にあるようなベンチとテーブル、椅子が全て裏返しになって置かれている。
やがて私たちが入ってきた入口のドアが少し開いて
ダークスーツの男が中を一瞥してから入って来た。
「今不安に思うことは、ターゲット以外の誰かを巻き込むかもしれないということだけだ」
舞台中央に立ち、テロリストは語り始める。
「わたくしの一生をすべて無にしてまで撃つべきものは権力である」
淡々と語るテロリストヒガキを演じる朝倉洋介さんの論理に思わず引き込まれる。
3ページに及ぶモノローグ、少し手ぶりは入るが足元は微動だにしない。
稽古でこの人のモノローグの場を見ることが出来なかったことが本当に残念だった。
完成形に至る不完全なかたちを見ておきたかったのに・・・。
稽古場で話しかけて下さったとき、
「自分が提出したテーマでも、台本になって渡されると言いにくいところもあるし、
自分の言葉だけに熱くなりすぎたりする」
と笑っていた朝倉さん。
誰よりも早く台詞が入り、他の人の台詞を受けて変化する余裕さえあった。
緊張感が途切れないのに力みのない声、直前まで普通の市民として存在した
まさにテロリストにぴったりなキャラは
ヒガキか、朝倉洋介か・・・?
このヒガキを中心に、タカハシ、コレエダ、キジマの4人が久しぶりに集まった。
共通の友人マエカワが死んだことがきっかけだった。
その死に方の異様さに、4人は衝撃を受けている。
中でも、かつてルームシェアしていて親友同士だと思っていたコレエダ(西村壮悟)は
まだこの事実を冷静に受け止め切れずにいる。
親友だと思っていた自分が、一言の相談もしてもらえなかったことに打ちのめされている。
コレエダを演じる西村壮悟さんは、クールな声とルックスで淡々と友人の死を語る。
稽古の時詩森さんから
「言えなかった、でも言いたかった、そしてもう言えなくなった言葉」を
今口にする気持ちを考えるように、というアドバイスがあった。
西村さんは涙で言葉を詰まらせ、私はそのモノローグに泣いた。
初日の舞台で、西村さんはもう泣かなかったが、私はやっぱり泣いてしまった。
キジマ(生井みづき)はそんなコレエダと別れようとしている。
コレエダも今いっぱいいっぱいだが、キジマもまた別の意味で限界だと思っている。
放射能や遺伝子組換え食品、食品添加物を浴びるように取り入れて暮らす私たち。
経済や効率、生産性を優先する世間の価値観と、
それに反発しつつも完全に排除できない自分の生活。
そういう自分を説明することを、もう止めたいと思う。
そしていつか説明しなくても共有できる人と共に過ごしたいと思うのだ。
超マイペで自分の関心事を常に優先したいキジマの長ゼリ。
詩森さんが「自分の気持ちを伝えるには事実を伝えることだ」と言ったが
キジマの目下の最大関心事である食品をとりまく事実をきちんと伝えることが
キジマの気持ちを伝える効果的な方法だという意味だった。
カレシの優しさを拒否してでも、今この問題を突き詰めたいという必死さが
生井さんの台詞からあふれていた。
その結果客席からは何度も笑いが起こった。
二人が必死になればなるほど、かみ合わないズレが大きくなって可笑しかった。
大学生タカハシ(有吉宣人)は、大学を辞めようかと考えている。
現在の教育システムに失望し、小学校教師を目指して一からやり直そうというのだ。
ヒガキ先輩に相談して、妙に熱く語ったかと思うと
自信の無さからか背中を押してもらいたがったり
とにかくタカハシは自分の回りをぐるぐる回っている。
タカハシ役の有吉さん、稽古では結構ダメ出しされていたと思う(笑)
「声が大き過ぎる」に始まって「興奮して喋ってるだけ」「ひとりで空回りしてる」
「テンションが上がり過ぎて制御不能になった」等々。
4人の中でひとりあからさまにオロオロするキャラだから、難しいこともあるだろう。
狂言回しとしての役割もあって切り替えも必要だ。
だが本番で私はタカハシの空回りに人柄の良さを感じた。
「なにみんな平気な顔して遺品整理してんですか!?」という
“ウザいけどいい奴”キャラが、有吉さんにはまっていたと思う。
4人の俳優が提出したテーマにそれぞれデータによる裏付けをして、厳選した台詞で語らせる。
詩森ろばさんの脚本は巧みな構成で交差する4つの人生を描く。
静かな落ち着いた場面転換の動きや映像の使い方も洗練されている。
いずれも岐路に立つ出来事を抱えている4人のうち
未来を語るタカハシの言葉で終わるというのもよかったと思う。
はっきりしなかったタカハシに最終決断させたのはテロリストヒガキの存在と行動であった。
「その行動を支持はしないが、ヒガキ先輩は大好きだ」というタカハシがとても良い。
稽古場とは比べ物にならない空間の違いが、距離感を変え台詞を変える。
改めて企画の意図とキャスティングの妙が面白かった。
俳優個人と役が重なって、台詞が自分の言葉になる。
考えてみれば「他人の思考を思考する」とは演劇の原点であり
コミュニケーションの原点ではないか。
作・演と俳優、俳優と俳優、作品と観客、皆他者の心理を想像するところから始まる。
一番難しくて、誰もが欠落していて、でも上手く行けばこの上なく幸せな作業だなあと思った。