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電車は血で走る(再演)

電車は血で走る(再演)

劇団鹿殺し

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2010/06/18 (金) ~ 2010/07/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

ロックで、切ない叙情派
音楽は低音を響かせるロック。
派手な衣装と、生演奏。

だけど、そこで語られるのは、人と人のつながりの、切なさが溢れるストレートな物語。

初めて鹿殺しを観たけれど、なんか、こう、ぐぐっとくるところがあるんだな。

ネタバレBOX

電車は、郷愁を誘う。
私は、鉄っちゃんではないのだが、やはり、どこかへ、ガタンゴトンという音とともに揺られて行くというところに、哀愁も郷愁も感じる。

亡くなった親方が運転する宝電鉄の電車に揺られ、鉄彦は、昔の小学生のままの姿で帰ってくる。
昔の仲間たちは、すでに成人し、大工として働いている。そして、続けていた演劇を辞めようとしている。

ただし、昔の仲間たち、と思っているのは、鉄彦だけで、実は、その仲間たちからは、昔は疎まれた存在であった。
そんな切ない、片思いのような関係が、昔の記憶とともに、蘇り、成人していた仲間が感じていた「後ろめたさ」に気がついていく。

そして、演劇と劇団というキーワードは、イヤでも、それを演じている鹿殺しと、オーパラップしていく。演劇・劇団に対する想いが、この舞台にある。「劇場をつくろう」という歌とともに。

さらに、物語は、宝塚ということから、福知山線の痛ましい事故を思い出してしまう。その事故の扱い方には、異論もあるだろう。しかし、いろんな想いを乗せて電車は走り、その人たちの命を運んでいて、さらにその人たちを取り巻くたくさんの人々の記憶や想いも乗せているということが、ひしひしと伝わる。

楽団の電車は、金管楽器が中心で、その音色は、哀愁がある。歩き方にも注意が払われていて、それがとてもいい。
楽団のメンバーは全員、どこかを怪我していて、包帯等をしているのは、あの事故の列車だったからなのだろうか。

楽しいのに、切ない、そんな列車だ。

人と人との関係は、鉄彦を襲った不慮の事故だけでなく、意外と簡単に切れてしまうことがある。それは、劇団に集まった人たちも同じで、運命で集まったように思えても、ある日突然関係が断ち切れてしまうこともあるのだ。それがまた結びつくこともあろのだが、人と人との関係は、そんな危うさの上に成り立っているのだ。

鉄彦を演じたチョビさんが圧倒的に印象に残る。
「○○やんか〜」という口調で、例えば、犬に話し掛ける言葉までも、哀しく聞こえてしまう(この口調は好きだ)。

鉄彦が戻ってしまう電車を阻み、仲間の御輿電車で幕となるのは、とても美しいと思った。

ただ、歌、特にソロパートのところは、もっとロック調(ジャパメタ調、あるいはロック歌謡調)だったら言うことはなかったのだが。
「知恵と希望と極悪キノコ」

「知恵と希望と極悪キノコ」

LIVES(ライヴズ)

赤坂RED/THEATER(東京都)

2011/06/11 (土) ~ 2011/06/15 (水)公演終了

満足度★★★★★

さすがLIVES! 面白い。
「情感」があって笑いも豊富。
市井に生きる普通の人々の希望や哀感がある。
笑いが多く、楽しい舞台。

ダブルコールぐらいの拍手があった。

ネタバレBOX

仮面ライダー・イナズマ映画版の撮影初日。
キノコ怪人が作り上げたキノコ戦闘員役に、役者が集まってくる。

役者としてキャリアはあるが、映画が初めてだったり、定年後シルバー劇団に入り、演技自体が初めてな、“売れない”役者たちが控え室に集まって来る。
また、仮面ライダーの中に入り、顔を出すことのない経験豊富な役者、映画に出るのは20年ぶりのアイドル、ジャンケンだけでアイドルになったGKP(ジャンケンポンの略・笑)のメンバー、昼ドラの売れっ子女優に、彼女の尻に敷かれている脚本家、プロデューサーに監督、スタッフなどなど、大人数が登場し、映画の初日が始まる。
しかし、音声のスタッフが来られなくなったり、雨が降ってきて撮影も危ぶまれたりする。

戦闘員役の役者たちは、緊張しているものの、真剣さはがあまりないように見えた。そんな中に1人ピリピリしている、売れたいと強く願う男の熱い言葉に動かされ、また、ライダーの中に入っている役者の後押しもあり、やる気を出そうとする。

彼らは、台詞がほとんどなかったり、全然ないのだが、自分たちのシーンをきちんし解釈をして、自分たちが出演したという、爪痕を残したいと思うのだった。
中には、これで役者を辞めて故郷に帰ろうとする者もいて、その思いは強い。

しかし、彼らの脚本の解釈はどこかズレていたり、緊張で台詞がきちんとしゃべれなかったりする。
監督は、そのシーンをすべてカットすることに決める。

戦闘員役の俳優たちは、それをなんとか考え直してほしいと思い、あれこれと策を巡らすのだった。

そんなストーリー。

LIVESらしい、いるいる感の強いオジサンたちがとてもいいのだ。
彼らを含め、市井に生きる普通の人々の希望や哀感がある。
「役者」が主人公の舞台であり、笑いにしていたが、身につまされることもあるのではないかと思った。
かつて、そうであった自分たちを演じていたのかもしれない。

大人数の舞台なのだが、どのキャラクターもきちんと見えてくる。
つまり、それぞれへのスポットの当て方がよく、短い台詞でもきちんと印象が残るようにできているのだ。

説明がいちいち再現されるのは、少々丁寧さを通り越してしまうのだが、それをまた笑いに結びつけるのがうまい。

役者を辞める男の最後の台詞は、仮面ライダーの戦闘員の台詞なのにもかかわらず、ぐっと来てしまった。渾身の台詞を、本当に役者が渾身の台詞としていたことに感動した。

また、劇中に歌われる、アイドルグループと元アイドルの歌は、かけ声や振り付け、歌の外し方までが、とてもよくできており、本当に面白い。『ROPPONGI NIGHTS』を彷彿させる、やけにうまい男性コーラスがちらりとだけ聞けるというのも憎い。

笑いに関しては、普通1つネタについては、引っ張るだけ引っ張る(もういいよ、と思うまで)劇団が多い中で、さらっと流していく。
例えば、プロダクションの社長がセーラー服に着替えてきても、それで無理矢理笑いを取りにいったりしないし、アイドルグループの3人目の女の子(?)についても、いじり方は軽い。なんと言うか、年季の違いだろう。まだまだ面白いことはあるんだよ、という余裕すら感じる。
笑いには、瞬発的なものや、腰が砕けるようなしょーもないものまで幅広く盛り込まれている。「悲哀」の聞き違いはあまりにも、しょーもないのだが、それがいい塩梅に膨らんでくる。
辞める役者が「やっぱり役者続けるよ」というような大団円にならないあたりも、ある年齢以上の劇団らしいラストだと思った。

「どうやって自分たちのシーンをカットされないか」となってきたあたりから、バカバカしいことも含めての展開がとてもいいのだ。

とにかく全編いい感じで笑え、楽しい舞台だった。こういうLIVESは大好きである。

終演後の拍手は、ダブルコールぐらいの響きだったので、多くの観客も同じ感想だったのではないかと思った。
芸劇eyes番外編『20年安泰。』(各回当日券発売有り)

芸劇eyes番外編『20年安泰。』(各回当日券発売有り)

東京芸術劇場

水天宮ピット・大スタジオ(東京都)

2011/06/24 (金) ~ 2011/06/27 (月)公演終了

満足度★★★★★

「場」がなければ、何も育っていかない。舞台は創造したことに対して受け手があって初めて成り立つものだから。
好企画。
ショーケース的なものと考えていたが、それ以上に各団体の特色がよく現れていた。
しかも、公演の順番がお見事。
たっぷり楽しんだ。

ネタバレBOX

ロロ『夏が!』
男子中高生が妄想するような夏のアバンチュールというか、その妄想度が高い。なんたって人魚みたいだから。この世のモノではない、そんな何かに取り憑かれてしまう。『高野聖』的なと言うか。違うか。
海に見立てたブルーシートが楽しかったのか、海ブルーシートのシーンが多く、できればもう少し妄想度を深めてほしい気がした。
「いくら払えばいいんですか」の台詞がツボだった。

ジエン社『私たちの考えた移動のできなさ』
舞台とキャットウォークなどを使い、立体的な同時多発台詞が心地良い。
事象としては、まるで3.11直後の東京近郊を彷彿とさせるのだが、差し迫った危機感もなく、人と人との距離が縮まらない、表に出づらい苛立ちと、諦めが伝わる。
早くなんとかしなければ、と思いつつも、結局何もできずに今に至っている。
自分への苛立ちでもあり、東京に入れない、避難している、デモ隊が、という不安要素が充満している中での自分がいる。
キャットウォークをいつまでもくるくると歩いて回っている男女がすべてだ。どこにもたどり着けない。着いたとしても行く手は阻まれる。阻まれる意味もあまりなく理不尽。音楽をやってるんだという自負とも言えぬ、そんなものにしかすがれない。宗教というかセミナーみたいなものも自分のことだけで手一杯。
閉塞感とも違う、閉じた感。
見終わって、とてもすっきりした味わいであった。
…のだが、すっきりしすぎではないかとも思った。つまり、もっと混乱、ノイズが欲しいと思ったのだ。台詞なんてもっと聞き取りにくくていい。こんなにすっきり諦めてしまっていいのかと思ったのだ。


範宙遊泳『うさ子のいえ』
演劇のアフタートークという形式を通じて、「真実」と「虚構」を見せた。
ただし、真実は何かということや2つの対比というよりも、「虚構」とは何かということではなかったのだろうか。
受け取る側にとっては「真実」でも「虚構」でも関係なく、「虚構」が大きくなれば、「真実」は単純に飲み込まれるというものだ。
外に通じるドアから見えた、自動車で走り回る姿のけたたましさに笑った。それは虚構が勝った瞬間だった。


バナナ学園純情乙女組。『【バナ学eyes★芸劇大大大大大作戦】』
始まる前のわくわく感がたまらない。アトラクションだ。カッパ着て、荷物をビニール袋に入れたりという準備があるから、それは否応なしに高まる。
そして、見事にコントロールされたカオスで、観客全員ニコニコ顔。
全力さがいい。1人ひとりの力が、きちんと活きているのがよくわかる。マスゲームのごとく動きが揃うところもツボ。
準備から後片付けまでがよくできたパフォーマンス。見どころ多すぎ。この大人数を、立体的に構成する力は半端ない。
アフタートークで、二階堂さんが「時間があれば練習して、ダメなところを1つでも潰したい」と言っていたのがよくわかる。
カッコ良すぎるぜ!
ただし、口に含んだ水を吐き出すのは正直好きではない。だって、男が吐き出した水が顔にモロかかっちゃったんだから(笑)。


マームとジプシー『帰りの合図、』
台詞のアンサンブルが美しい。
まるで歌詞のようなリフレイン。
ミニマムな出来事を切り取り多面的に見せる。
そして、ラストには、ぐっと胸に来る。
それは大声で叫ぶようなことではなく、静かに胸に染みこむようなモノであった。



今回は、「20年安泰」というタイトルだったけれど、彼らが演劇を今後20年間安泰にするわけではなく、彼らが20年安泰かどうかにもあんまり興味がない。
しかし、例 えば、バナナ学園純情乙女組などの登場により「これは演劇と呼べるのか」なんて、まったく愚にもつかない批評(感想)がされることがなくなるであろうことで、次々と新しい人や集団が出てきて、演劇は20年と言わず安泰となるだろう。
つまり、新しいことや、変化、破壊を恐れずにできるような「環境(場)」ができていけば、もっと凄い人や団体も出てくるだろう。今回早々とチケットがソールドアウトになったということは、そのための1歩となったのではないかと思う。
「場」がなければ、何も育っていかない。舞台は創造したことに対して受け手があって初めて成り立つものだから。
それは、新しいこと、変化、破壊であったとしても、同時に「場(観客や社会など…空気とも言う)」に受け入れられなければならない、一見矛盾しそうな関係でもあるのだから難しい。
とは言え、創造するときには「場」を意識する必要はないと思う。
それは、受け手の勝手な言い分だけど。


来年またこの企画があったとしたら、次の5団体はどんな顔ぶれになるのか、なんて考えながら劇場に足を運ぶのも面白いかもしれない
ドリーム オン ドリーム

ドリーム オン ドリーム

ヨシロォの夏は夢叶え冒険団3

中野スタジオあくとれ(東京都)

2011/08/09 (火) ~ 2011/08/09 (火)公演終了

満足度★★★★★

世界最強のぐたぐだ芝居冒険団ここにあり!
ま、なんていうか、ヒドイんですよね、いやホントに。
奥様も一度ご覧になってみればわかりますから。
いや、マジで。

ネタバレBOX

東西の裏の組織が麻雀で対決する。
そのために、資金と対戦するギャンブラーを集める。
という話なのだが、そこに「あンた、背中が煤けてるぜ…」の「哭きの竜」と「覚悟しーや」の「極妻」が乗っかって、長渕がいて犬を連れた西郷どんが出てきて、めちゃくちゃでデタラメな方言(〜ごわす、とか、〜どすなぁ、とか)が飛び交いながら、ゾワ…ゾワ…ゾワするような話、…である。

基本、マンガのキャラとか映画とかお馴染みのそうしたものをドンドン投げ込んでストーリーを作るのがここ流みたい。

それを、本気にぐだぐだ演じて(よく噛むし)、ドタドタとしたダンスまで場面展開に押し込んで見せるのだ。

それは普通にヒドイいと思う。
特に「お芝居が大好きざまぁす」的なおばさんたちとかは、頭から湯気を立てて激怒すると思う。というか確実にそうなるだろう。

そうなるだろうと思うのだが、へらへら笑って観てしまう私がいる。
しょーがないなぁ、ダメじゃないか、と思いながらへらへら。
不思議なことだけど、怒ったりしないし、イヤにならないんだよなぁ、これが。
たぶん次も観るだろうし。

ここに付けた星の数は、あまり意味を成していない。次回公演のときに、星の数だけ見てうっかり予約しちゃう人がいたら面白いかも、なんて。
どちらかと言うと、「こりゃヒドイなあ」と思った数だけ星を付けたと言ってもいい。
ここの場合、「こりゃヒドイなあ」は、誉め言葉なのだ。
…なのか?

でも誰に向けて公演しているのかな、ということは少し気になる。

コレ観に来たここの出演者と知り合いの演劇関係者の人は、終演後の出演者との面会の際に何って言うんだろう。「よかったよー」って言うのだろうか、それとも舞台の話はできるだけ避け、挨拶だけして「ごめん、ちよっと用があるから」と足早に去るのだろうか。どーすんだろ。

個人的には、突っ込みが素晴らしい異儀田夏葉さんと三瓶大介さんに心ゆくまで突っ込んでほしかったと思う。いいツッコミができるシーンがほとんどなかったので残念無念。

あと、「ヨシロォの夏は夢叶え冒険団」の公式HPはなんとかならないものか。劇場までの地図のリンクは切れているし、チケットの予約方法すらわからないのだ。
まあ、結局は行けたし、観られたからいいけど。
散歩する侵略者

散歩する侵略者

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2011/05/13 (金) ~ 2011/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

演劇の面白さに溢れている
面白い! 凄い! 
演劇にしかできない巧みさ。

立ち見がこんなに多いトラムは初めて。
人気があるのも頷ける。

ネタバレBOX

どうなっているのか、そしてどうなるのかという興味で進む、物語自体が面白いし、役者も演出もいいから引き込まれていく。
笑いも用意されている。

観ながら思ったのは、自分を含め、多くの人が「概念」をきちんと考えずに言葉を使っているのではないかということ。
どれだけの人が「概念」を意識して言葉を発していたり、受け止めていたりしているのだろうということなのだ。
一見、「概念」を奪われて大変なことになると思いつつ観ているのだが、ひょっとしたら、概念を奪われても、誰も日常生活にはまったく困らないのではないかと思ってしまう。
「言葉」は「言葉」だけで存在し、自由に行き来する。そんなに重みもないし、それが実態ではないか。

フリーターの丸尾と長谷部が言う「戦争」も「平和」も、本当に理解して発しているのかはわからない。単にそういう言葉があるだけなのだ。
(所有の概念を失っただけでそんなに共産主義っぽくなっちゃうのか、という台詞には大笑いしたけど・笑)

逆に、もちろん、言葉に付いてくる「概念」はあるということも言える。つまり、言葉に託している「気持ち」がそれにあたる。
その「気持ち」は、あまりにも個人的すぎて、誰にでも共感できる共通項にはなり得ない。それだけに、奪われてしまうことは怖いとも言える。

だから、宇宙人がどんなに「概念」を集めたとしても、人間の総体は見えてこないことになる。

つまり、もしこんな形で侵略してくる宇宙人がいるとすれば、でたらめで適当に発せられる概念なき言葉と、極個人的な概念に支えられた言葉、そういうものを集めてしまうと、宇宙人たちは困惑し、混乱するだけなのかもしれない。

それは、どういうことかと言えば、「人間同士だって、そんな簡単にはわかり合えない(理解できない)」ということなのだ。
言葉は適当だし、それに付いてくる「概念(思いとか気持ちとか)」は、その人の中にしかなく、それも発している本人が意識しているかどうかもわからない曖昧なものだから、その意味(気持ち)の交換と共有なんてできるはずはないということなのだ。

宇宙人じゃなくても人間は、わからないというのが本当のところなのだ。

物語の落ち着く先に「愛」があるように設定されていて、それを軸に新たに光の差す物語が展開するように見えるのだが、それは人間たちが勝手に思い込んで、盛り上がっているだけで、「愛」の概念を知った宇宙人の真治は何も言っていないのだ。
確かに人間の思考を手に入れ、あらゆる概念を知ったのだが、それによって真治は人間になったわけではなく、彼は、あくまでも人間とは異なる思考の者であるのだ。
だから、勝手に盛り上がる人間たちの思うようになるとは限らない、と思わせるあたりが、またSFっぽい幕切れでもあると思う。

灰色で、その存在を意識させないセットや道具が配置され、それを巧みに使いながら、時間や空間が重なり合う。
ふとした瞬間に自宅から病室に移ったりする。
そういう演出があまりにもうまい。一気に見せてくれる。

役者も誰もが素晴らしい。特に中学生・天野を大窪人衛さんの、あのイヤったらしさは凄い。宇宙人とは言え、イヤな中学生だ(笑)。
真治の妻・伊勢佳世さんの、後半にいくに従い感情が上がっていく様も見事だし、奇妙さがうまく表現されていた真治役窪田道聡さんとのコントラストもいい。真治の義理の兄・安井順平さんのきちっとした感じ、フリーターの丸尾(森下創さん)と長谷部(坂井宏光さん)のいかにも、もいい感じ。
花札伝綺

花札伝綺

流山児★事務所

円融寺(東京都)

2011/08/06 (土) ~ 2011/08/06 (土)公演終了

満足度★★★★★

お寺の本堂で行われた白塗り大アングラ劇
目黒にある円融寺の本堂で行われた。
入口には白塗りの役者が立ち、寺山修司作のアングラ劇が行われるのを否が応でも期待させる。
本堂に入ると正面のご本尊である阿弥陀様を観客は背を向けて座ることになる。
舞台の正面には時計が付いた棺桶が立てかけてあり、その前では、白塗りの少女が手まりをついている(鞠はない)。
舞台にはお寺には合う白黒の鯨幕が張り巡らされている。
始まる前からワクワクさせる。

ネタバレBOX

まずは観客が背にするご本尊の阿弥陀様に、観客全員が振り返り手を合わせてから舞台は始まる。
そんな、前説が、手のメモを読むふりをしたり、変なつっかえ方してるなと思っていたら、実はここからが始まりだった。
そして、白塗りの登場人物全員が歌い、物語がスタート。
もうここだけで楽しくなってしまう。

アフターサービスだけではなく、ビフォアーサービスまで行っている葬儀屋が舞台の物語。
ビフォアーサービス、つまり、死へのお手伝いもするということなのだ。その人にふさわしい死に方を演出してくれるというもの。
葬儀屋は、死人を働かせていた。

葬儀屋には歌留多という娘がいる。しかし、まだ生きている。
その娘は大泥棒の墓場鬼太郎と恋に落ちてしまう。
葬儀屋の父親は、鬼太郎に娘を嫁がせたくない。
そこで、列車に轢かれて死んだ青年を娘のボーイフレンドにしようとする。
しかし…。

そんな物語が、ほぼ全編、歌によって進められる。
この歌が楽しい。
そして、衣装が凝っていてカラフルだったりする。
エネルギーが溢れ、とにかく楽しい舞台だった。

お寺の本堂という場所なので、大きな柱などがあって見切れてしまうシーンも多かったのだが、それでも満足したのだ。
もう1回観たいと思ったほど。
しかし、残念ながら東京ではこの1日のみの公演だった。

流山児★事務所は、最近、神社・寺・ライブハウスで公演を行っているらしい。ここの前は、山梨の善光寺で行ったということだ。
全国各地でこの公演を観ることができるのかもしれない。

円融寺は自宅に近いのだが、本堂に入るのは初めてだった。
初めて入ったのが演劇の公演だったというのもなかなかの経験だ。
ちなみに、観客には、年を召した方が多かったが、ご近所の方たちがいらしていたんだろう。
お寺でのこういう体験はとっても楽しい。
奴婢訓

奴婢訓

演劇実験室◎万有引力

シアタートラム(東京都)

2012/02/12 (日) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

溢れるダークなイメージたち
「舞踏」な感じの登場人物と演出。
舞台の上には一定の緊張があり、どこを切り取っても暗黒で美しい「画」となる。
それは無間地獄のような。

ネタバレBOX

スウィフトの『奴婢訓』に宮沢賢治のあれこれをぐいぐい押し付けてなすりつけたような作品。

つまり、主人がいない屋敷で、召使いたちが、それぞれ主人になりすまし、召使いがやってはいけないことを実践し、させるという「不道徳」なところに、「雨ニモマケズ」の賢治がやってくるという、皮肉の上に皮肉を被せてあったと言っていいだろう。

全体は18パートから成り、各パートごとに「やってはいけないこと」を披瀝する。
その様は、グロテスクでダーク。
とは言え、ちょっとしたユーモアもそこにはある。
ま、ユーモアもグロテスクとダークの裏打ちがされているのだが。

テーマになっているであろう「リーダー不在」や台詞にもあった「リーダーがいないことの不幸よりも、リーダーを必要としている不幸」に関して言えば、「本当のリーダー(主人)」ではない者たちが何人入れ替わっても、堂々巡りで悪ふざけにしかならず、無間地獄の様相を呈することになるということ。
それは、(ちょっと直截すぎるのだが)コロコロと短期間に首相が替わるどこかの国を見ているようであり、本当のリーダーがいないところは、よそから見るとこんなに酷いということだ。
つまり、その国では、リーダーは本物ではなく、その資格を持たないものが「なりすましている」ということになろう。

舞台は、高さのあるゴツゴツしたセットで、何だかわからない機械が点在する。
その高さと、客席にまではみ出してくる登場人物たちにより、会場全体が舞台世界に取り込まれていく。
存在感のあるセットをうまく活用し、自分でお尻を叩いたり、座席が上下にくるくると回ったりと、機能としては意味のない不気味な機械たちを駆使する。

そこに白塗り半裸だったり、頭をそり上げていたりという状態で、凝った衣装を纏った登場人物たちが「画」になるような形で揃う。
ちよっとしたシーンであっても、後方ではきちんと別の演技を続けていたりすることで、舞台の上には一定の緊張があり、とても美しいのだ。

頭をそり上げ半裸に白塗りという姿は、舞踏を彷彿とさせ、確かに動きも、舞踏それに似る。
こういう言い方は失礼かもしれないが、舞踏の身体を持つ人たち(つまり舞踏の世界の人たち)が、同じ演技をしたとすれば、さらに強いイメージがそこにあったのではないか、と思ってしまった。

しかし、演劇の身体であることで、できることがあるのも確かだ。

台詞は一部聞き取りにくかったのだが、それよりも、舞台から届く強いイメージを楽しんだというところだ。

音楽は、基本、生演奏で、客入れから鳴っており、舞台の上にも徐々に人々が現れていく。

生演奏というライブ感が素晴らしく、舞台のイメージと相まって、18楽章からなる音楽の、まるでイメージPVを観ているような感覚すらあった。
イメージPVというたとえは的を射ていないとは自分でも思うのだが、そだけ音楽に強さと主張、そして存在感を感じたということでもある。

めくるめく悪夢な感じと、会場を見事に使い切った舞台はとても素晴らしいものであった。

ダリア役の旺なつきさんの発声と歌はさすが!
存在感たっぷり。
無い光/変な穴(御来場ありがとうございました・御感想お待ちしています)

無い光/変な穴(御来場ありがとうございました・御感想お待ちしています)

MU

OFF OFFシアター(東京都)

2011/03/24 (木) ~ 2011/04/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

『変な穴(女)』今まで観たMUの中で一番笑った…が笑いの先には「穴」が
毎回「虚無」の穴がポッカリと舞台の上にあったMUだが、今回、虚しさの向こう側に、まさか笑いがあったとは!
しかし、笑いの向こうの「穴」の中で、作者のハセガワアユムは、にんまりと笑っていたような気がする。

ネタバレBOX

MUを観出したのは最近なので、それほど多くの作品を観ているわけではないのだが、初めて観たときから強く感じていたのは、作者の持つ「虚無(感)」だ。
それと、むやみに徒党を組む(群れる)ことへの嫌悪感のようなもの。

「虚無」はいつも舞台の上にポッカリと空いていて、そこを通る風がスースーしていた。そして、MUのちょっと気の利いた短編のようなまとまりある舞台が、さらにスースー感をアップしていたような気がする。

で、今回は、笑った。これはコメディだ。
しかし、ご主人様である小松は「穴」が空いていると言う。それを埋めるために、金に物を言わせて集めたドレーたちに、虚しいことをやらせて、埋めようとしている。
この薄ら寒い設定は、もう「虚しい」。誰もが穴を埋めることも、それが長続きしないことさえもわかっていながらやっている、すでに破綻している「虚しさ」である。

小松はあがいている。ドレーたちもあがいている。あがいているから、実は「虚無」には達していない。すべてを知ってしまって、諦念のような境地に達したときにやって来る「虚」の世界には達していないのだ。
まだこの時点では。

しかし、小松は、ラストに万引き商品の入った段ボール風呂に漬かりながら、安堵するのだ。ここに彼の穴がしっかりと本当の姿を現し、すべてを知ってしまったような境地に達してしまう。彼の居場所がここにあった。それは彼の「穴」の中。

小松の追い詰められ方、というか道程は素晴らしいと思った。なんといいラストだと。
「虚しさ」の向こう側に笑いがあり、その向こう側には「虚しさ」があるという構図は、とても酷い(笑)。クラインの壺のような構造をしている。

だから、作者のハセガワアユムさんは、観客がすくすく笑っている、このラストを観ながら(書きながら)、かなりにんまりしているのではないかと思ってしまうのだ。「みんな笑っているよな」って確認しながら、にんまりと。
ハセガワアユムさんにとって、意識しているのか無意識なのかはわからないのだが、毎回テーマは同じで、今回は笑いが増量されていただけで、いつもと同じMUだったというわけなのだ。
笑いながら、穴に落ちていくという「虚しさ」は素晴らしい。恐怖すら感じてしまう。それに気がついているのは(たぶん)作者本人だけ。だから、「にんまり」。
…ここは小松と同様の視線かも。

もう少し書くと、ドレーたちの変な一体感は自然であった。いつもならばもっとその一体感(徒党)に嫌悪しているはずなのに、と思ったのだが、ここにも仕掛けがあった。

それは、「作者ハセガワアユムの視点」がどこにあるかということだ。それがどこにあったかと言えば、ドレー5号の杉木にあった。これに気がつくと、全体がはっきりしてくる。
つまり、ドレー5号の杉木は、それまで小松のもとにいた4人のドレーたちの馴れ合いを非難・否定する。これはまさに徒党を組むことへの嫌悪感にほかならず、ハセガワアユムの心情が映し出されている。そして観客はその心情には共感できない。ドレー5号の杉木は「異端者」的な扱いとなり、「異物感」として舞台の上に佇むのだ。これは大きなポイントだ。誰にでも理解できるはずはない、と作者ハセガワアユムは考えているのかもしれない。

さらに、小松をラストに突き抜けさせるのも、ドレー5号の杉木であった。彼女は、小松がラストに舞台に現れるまで、万引き商品の入った段ボール風呂に漬かっており、さらに小松を追い込み、自分の入っていた段ボール風呂に導くという役目を負っているのだ。彼女がいる場所が「穴」の中である。
ドレー5号の杉木の存在がハセガワアユムであったというわけなのだ。

全体的にちょっとたどたどしさがあったのだが、台詞などがいいタイミングで入り、とてもいい笑いを生んでいたと思う。
そして、女性陣のオーバーサーティぶりがとても自然で良かった。これは大切なポイントであったと思う。

音楽の出し方が、独特で、きちんとした劇場なのに、あえて舞台の上のGDプレイヤーを役者やハセガワアユムさん本人が使うというのが、虚構とのラインがギリギリな感じでとても興味深かった。

日程的に他の2本を観ることはできないのだが、今回に関して言えば、『変な穴(男)』は是非とも観たかった! と公演が始まって数十分で本気で思ったのだった。悔しい。
国家~偽伝、桓武と最澄とその時代~

国家~偽伝、桓武と最澄とその時代~

アロッタファジャイナ

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2013/03/27 (水) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

若者の光と挫折を骨太に描く
周囲を観客に囲まれた、隠れることないステージの上で、若者たちの火花が散る。
舞台はシンプルなのに、どのシーンも、どの一瞬も見事に「絵」になる。
3時間超の作品なのに、ずっと息を呑んで観た。

ネタバレBOX

国家がどう生まれ(変わっ)ていったのか、ということよりも、「こうしたい」という熱く目標を掲げ、それに邁進していく若者たちの姿が印象的であった。
熱い若者たちの舞台だった。

連綿と続く古びて腐り始めた体制を、自分たちの手で変えたいという若者はいつの時代も現れてくる。
しかし、当然それに対する反感も旧体制側にいる人たちから起こってくる。
新しいことをしたいと思う者が、どうやって現れて、どうやってそれを成し遂げようとするのかは、桓武の時代であっても今の世であっても同じだ。

異端の天皇として誕生した桓武天皇は、正統な系統から見れば、しがらみが少ない。だから思い切ったことを実践できるのだろう。「変化したモノが生き残れる」というのは、生物の世界にあっても真理だ。
ただし、だからと言って、傍系からやって来た者が新しいことをしようとすれば、その出る頭は叩かれる。

どんな時代にあっても通用するリーダーというものはいない。
「変革の時代」には、「変革の時代のリーダー」が必要だ。

桓武天皇は、まさにその時代に呼ばれてきたリーダーだ。
人間力とビジョンが人を牽引する。

リーダーを精神的にサポートしたのが、最澄だ。

桓武天皇の「理想」「ビジョン」に最澄が共鳴しただけなのではなく、最澄の思う仏教のあり方(国家の精神的背骨となり得る)に桓武天皇も共鳴したのだろう。
互いの熱き心が共鳴し合う姿が、舞台の上でも輝いていた。

若者の熱き血潮の舞台と言えば、蜷川幸雄さんのさいたまネクストシアターを思い浮かべてしまう。
蜷川さんは、力技で若い役者の熱さを引き出しているように思う。
そして、無理矢理とも言えるような、独自の外連味的な演出で、観客をねじ伏せてくる。
老人だからこその、手練れであり、その力は凄いと思う。

翻って、アロッタファジャイナ、つまり、松枝佳紀さんの描く若者は、単に勢いや力だけではない。
「誰にでもわかりやすく、いつの時代も同じな、若者の苦悩と生の迸りを描く」のが蜷川さんだとすれば、松枝さんは「今、目の前にいる若者の痛みと不安を含めての、若さを描いて」いると思うのだ。

そして、蜷川幸雄さんがトップダウンであれば、松枝佳紀さんはボトムアップで舞台を作り上げているというの印象だ。

演出家もまた座組のリーダーである。
ひょっとしたら、松枝佳紀さんは密かに桓武天皇に自分を重ね合わせて演出していた、と思いながら観ると面白いのだろう。

リーダーは決断をしなくてはならない。なので、孤独である。
公式・非公式のパワーを使って、権限と人間力で組織を動かす。
ビジョンや価値観を組織内でどう共有するかが課題だ。

そして、目的に向かうときに邪魔になるものをどう遠ざけるかも大きな問題である。
桓武天皇にとってのそれは蝦夷であった。
この作品で、桓武天皇側が彼らをどう排除していくのかを見ると、逡巡が感じられる。

アテルイを藤波心さんに配役したことで、福島がアテルイの背中に見えてきてしまった。
この選択は、松枝さんがどういう思考回路で行ったのかはわからないが、主人公である桓武天皇と対抗する蝦夷(アテルイ)を両立させるわけにはいかないのだ。

蝦夷を徹底した「異物」として扱わなかったことが、史実との折り合いとしての演出の苦悩と、作品中の桓武天皇の苦悩が重なっていくという、フィクションならではの面白みが見えた。
そして、そのことへの逡巡が作品にも現れていた。
個人的には、もっと非情であってもよかったのではないかと思うのだが。

ストーリーの進行には、歴史アイドルの小日向えりさんが「小日向えり」本人で登場し、その間の歴史を語る。
これはスピード感を殺すことになるのだが、全体のいいリズムになっていたと思う。
ただ、「偽伝」と言っているのであれば、「偽伝」のまま突っ走ってよかったと思う。

話を少し戻すと、この作品と蜷川幸雄さんのさいたまネクストシアターを比べたのだが、もう1点比べるところがある。

蜷川幸雄さんは、ネクストシアターに限らず、何かを仕掛けてくる。
例えば、『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』では、こまどり姉妹が登場し、嘆き悲しむハムレットを前に「幸せになりたい」と歌わせた。これに限らず、舞台の奥を開けて舞台の後ろを見せたりと、力ずくで演出し、それがいい意味での外連味となっていることが多い(少々ワンパターンだったりするが)。

松枝佳紀さんにも独特の外連味がある(外連味とは悪い意味で使う言葉なのだが、フィクションを見せるときに、観客をハッとさせる瞬間があってもいいと思うので、私は外連味はいい意味で使っている)。
それは、もっとポップな外連味だ。
演劇企画「日本の問題」のような企画力に代表されるような、「今」をつかんだ上での、ポップさがあるのだ。

今回で言えば、配役にそれがある。
例えば、仮屋ユイカさんの妹・本仮屋リイナさん、反原発を掲げるアイドル・藤波心さん、さらに歴史アイドルの小日向えりさん、評論家の池内ひろ美さん、映画監督の荒戸源次郎さんたちを俳優として舞台に上げたのだ。

これが外連味でなくて何であろうか。
彼らの配役は、話題性もさることながら、そのポジションの位置、使い方がうまいのだ。

先に書いたアテルイへ藤波心さんを配したことなど、彼女を使うことで意味がさらに増してくるし、「今」につなげてくる。
歴ドルの登場も、まさに観客を現代へ一気に連れ戻す。

荒戸源次郎さんの起用も、ある程度の年齢の俳優を使うことよりも、この人だったから出せたという雰囲気と、若者たちとのマッチ感があったと思うのだ。
この人の役が、うますぎる老練な俳優であったとしたら、その俳優が飛び抜けてしまい、バランスを欠いただろう。なので、「あれぐらい」(笑)がよかったのだ。その点、池内ひろ美さんはうまくなりすぎていたかもしれない(笑)。

こういう使い方は、悪い意味での外連味になってしまう可能性もあり、諸刃の刃でもあるのだが、そこに留まらせない見せ方のうまさが、この作品を含め、アロッタファジャイナにはあると思う。

ラストに空海がきらびやかな印象で登場する。
これって、ハムレットのフォーティンブラスじゃないか、と思ってしまった。
トロンプ・ルイユ

トロンプ・ルイユ

パラドックス定数

劇場HOPE(東京都)

2011/08/09 (火) ~ 2011/08/14 (日)公演終了

満足度★★★★★

サラブレッドのダンディズムで男たちに鞭を一発! −−演劇的トロンプ・ルイユ
演劇でしかできないシカケが見事に活かされる。
笑いも随所にある。
競馬の知識ゼロの私が観ても面白かったから、芝居を観たことない人で、競馬好きの人が観たらたまらないのではないかと思った。

ネタバレBOX

競馬はまったくやらないのだが、競馬は「馬」という動物が走るために、それに観客はついつい自分の姿や人生を重ね合わせてしまうということを聞いたことがある。
この舞台でもまさにそうした情景が数多く盛り込まれていた。

逃げ馬のロンミアダイムに入れ込む青年、中央から地方に流れてきて、さらに再復活を狙うドンカバージョに自分の果たせなかった人生を重ねる調教助手などだ。

これが、単に言葉だけであれば、「なるほどなあ」というだけのところではあるのだが、ここに演劇ならではの仕掛けがある。
「人」と「馬」が似てくる(似ている)ところがキーポイントでもある。

すなわち、「人」と「馬」を同じ役者が演じるというものだ。それによって、「人」が「馬」に同化するほど自らを重ねていく様子が鮮明になっていく。

冒頭で小野ゆたかさんが演じる青年が、自ら応援している競走馬と同一になっていることを匂わせる「わかるんだ」という台詞の入れ方(脚本的な)のうまさ。「人」=「馬」なのか、それとも別々の人格のある「別モノ」として演じているのか、で観客をちょっとゆさぶるいいシーンだと思う。そのあしらい方が、演劇的なのである。

さらに、演劇ならではの手法で、その「人」から「馬」、「馬」から「人」へ変わるのも瞬時行うことが可能だ。まさに「(演劇的)トロンプ・ルイユ」。
実際、舞台の上には見事にサラブレッドが登場するのだ。

「人」として会話していた2人が、そのテンションのまま、2頭の「馬」になるなんて実にスリリングで楽しい。
「馬」としての形態模写を最小限にしたことが功を奏していると思う。
ヘタに「馬」の描写、例えばいななきとか、ギャロップとか、そんなことを入れ込まず、その立ち姿だけで「馬」(サラブレッド)を表現する。
そこは一番のキモであると同時に、下手をしたら、「馬が出ている」ということを壊してしまうことにもつながる微妙な演出だったと思う。
ほんの少しどちらかに転んだとしても、成立しなかったのではないだろうか。

「馬」に徹しすぎてしまえば、この物語が、演出家の意図する範囲で成立しなくなる可能性もあるからだ。

それはもちろん演出家の力もあるのだが、役者がいいということもある。品のある「馬」、それも「サラブレッド」を演じていたと思う。

さらに「人」と「馬」だけでなく、「馬」と「馬」、「人」と「人」もつながり、わかり合い、通じていくという姿が描かれるのが美しい。

役者はやはりすべての人がよかった。
ミヤコヤエザクラ(生津徹さん)の端正な感じと、馬主の懐の広さ、調教師(加藤敦さん)の揺るがなさと哀しみ。
ドンカバージョ(井内勇希さん)の若さから来る鼻っ面の強さ、厩務員(植村宏司さん)の感情の動き。そして後々まで語り継がれるのではないかと思う(笑)、アイゼンレイゲンとドンカバージョが海を見ながら大豆を食べるシーン。
ウィンザーレディ(西原誠吾さん)の気むずかしさ。そして、調教師と「つながった」ときの、観ている側に鳥肌が立つ感じ。
ロンミアダイム(小野ゆたかさん)の走ることの快感を語る語り口。
もうどれをとっても「いい!」としか言えない。

競走馬(サラブレッド)は美しい。1度だけ府中に行って実際に走る競走馬を生で見たことがある。競馬場の熱気の中で、観客の熱っぽい応援を一身に浴び、筋肉を躍動させ走り抜ける姿は美しものであった。
その姿は、凛々しくもあり、パラドックス定数的には、ネクタイを締めている感じなのだろう。スマートでどこかオフィシャルな感じなのだ。紳士ということころか。

作・演の野木萌葱さんは、「男」描かせたら右に出るものはいないような気がする。それは、カッコいい、男らしい男、男の中の男、ということはなく、弱さも含めていろいろな男が描けるところが素晴らしいと思う。
そして、そこにはダンディズムのようなものが必ずある。理想型かもしれないが。
そのダンディズムこそが「男」であり、今回の「競走馬」たちにつながってくるのだろうと思うのだ。

競馬場の競走馬たちを見て、野木萌葱さんは、そこに「男」の「ダンディズム」を見たのではないだろうか。そんな気がしてならない。
…競走馬には牝馬もいるというのは、この際横に置いておく(笑)。
ダンディズムは自らの拠り所でもある。何を自分の拠り所にするかを探しあがいて、「競走馬」に託してしまう男の弱さ。それは誰かに必ずたしなめられるシーンがあることから、「自分の足で立て」というのがメッセージなんだろうな、とも思った。

結局、どこかダンディズムがある男たちというのは、理想の男性像であって、野木萌葱さんは、競走馬と人を重ねることで、男たちに鞭を1発入れたのではないか、なんてことも思ってしまうのだ。

ドンカバージョの展開は読めたものの、それを物語のラストにしなかったことは正解だった。ラストの気持ち良さ、晴れ晴れさはいい舞台を観た、という感情に浸らせてくれた。

舞台に出てくる各レースに、本当に行き馬券を買うのならば、ネコマッシグラは必ず押さえておきたいと思った(笑)。
シャッフル・ルーム

シャッフル・ルーム

東京おいっす!

「劇」小劇場(東京都)

2009/12/01 (火) ~ 2009/12/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

とてもよくできたシチュエーションコメディ
初めて観た劇団だった。
で、まだまだこんなに面白い劇団が世の中にあるんですねえ、とつくづく思った。

自分にとって都合のよくないことを、他人に知られたくなくてその場逃れをしたり、ウソをついたせいで、さらにどんどん深みにはまっていくという、まるでお手本のようなシチュエーションコメディ

ネタバレBOX

夫婦仲のあまりよくない主婦しのぶは、テニスコーチと家で会う約束をしていた。しのぶはテニスコーチに自分が結婚していることを告げていない。なんとなくのアバンチュールの予感。

そこで、かつての恋人で、いまだ独身のラジオDJミッチーが同じマンションに住んでいるのをいいことに、マンションの3Fにある彼の部屋を一時的に借りることにした。このマンションは家具付きであり、同じ部屋の形というのがミソとなる。

ところが、しのぶとテニスコーチがいるミッチーの部屋に、ミッチーの現在の恋人涼子が急にやって来てしまう。
涼子はミッチーが結婚していると思いこんでいる。ミッチーは結婚が面倒なので、そう思いこませているのだ。
そこでミッチーは、マンションの11Fのしのぶの部屋を自分の部屋であると涼子に思いこませることにした。その部屋にはしのぶ夫婦の赤ちゃんがいて、ミッチーには家庭があるのだと涼子に思い込ませるには、さらに都合がいい。

しかし、しのぶの夫が予定よりも早く帰宅してきてしまった。
また、マンションの部屋に火災報知器を散り付けに来た男がいたり、ミッチーの仕事仲間が彼の家を急に訪れたり、ミッチーの妹が婚約者をミッチーに合わせるために訪れたりと、人が増え、事態は深みにはまっていく。

次々と現れる人たちには、しのぶとミッチーは適当なことを言って納得させるのだが、別の人が現れて、顔を合わせると、話の辻褄が合わなくなってくるので、さらに、その都度、その場逃れのことを言い、なんとかその場を切り抜けようとする。

これが、しのぶとミッチーの2つの部屋で同時進行していく。

さて、しのぶとミッチーはこの事態をどう切り抜けることができるのか、彼らを取り巻く人々との関係はどうなっていくのか、というこの設定だけでも面白そうなストーリー。

スタートの「?」となる見せ方と展開がうまい。ここから見事に劇中に引き込まれた。
スタートから徐々に深みにはまっていき、面白さがテンポアップしてくるのが、とてもうまい。

この企みをうまく進行させたい、しのぶとミッチーには、次々に試練が訪れ、その場逃れの話をしてなんとかその場を切り抜けるようとする。
彼ら以外の人たちは、意味が違う内容の話をしているのだが、日本語特有の主語がなかったりする台詞のやりとりで不思議と辻褄が合い、勝手に納得してしまう。だからあらすじを知っていたとしても、笑えるし面白いと思う。実にうまい脚本だと思う。

あり得ない、とんでもないキャラがテニスコーチだけだったというのも、うまい配分だと思う。
この配分が多すぎると嘘くさくなりすぎるからだ。
彼の突拍子もないキャラのおかげで、しのぶのアバンチュール的な動きにリアリティがなくなり、後の彼女の夫との復縁に無理がなくなるということも計算の上なのだろう。

火災報知器取り付けに来た男の、抑えたテンションが、ドタバタしすぎそうになる雰囲気をうまく中和しつつ、彼もこの騒動に巻き込まれていくあたりの展開もよい。一本調子になりそうなストーリーに、ちょっとした理由がわかっているサブを入れることで、またぐっと物語が面白くなるのだ。

また、ドア2つ、さらに出入口が4個所の舞台の使い方がとてもうまい。その場にいてほしくない人物の隠し方、現れ方がとてもよく、さらに階の異なる別の部屋の出来事を一気に見せてしまうなどお見事。

すべて丸く収まるところに収まると思っていたら、最後の最後にミッチーのカップルにだけ、破局が訪れたのはちょっと意外だった。さらに追加でハッピーエンドがあるのかと思っていたので。

本当に面白かった。こうなると次回も楽しみになってきた。
次回への期待も込めて星5つとした。
ナカゴー特別劇場vol.12『ノット・アナザー・ティーンムービー』

ナカゴー特別劇場vol.12『ノット・アナザー・ティーンムービー』

ナカゴー

北とぴあ カナリアホール(東京都)

2014/06/26 (木) ~ 2014/06/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

ブライアン・デ・パルマの作品を、トビー・フーパーが何かの片手間にリメイクしたら………
エロ・グロ・ナンセンス!
エロ・グロ・ナンセンス!
エロ・グロ・ナンセンス!
エロ・グロ・ナンセンス!
エロ・グロ・ナンセンス!

ネタバレBOX

今回の作品は、奇妙な宇宙人を自転車の前カゴに入れている、フライヤーの写真からもわかるように、映画を意識しているのではないだろうか。
……というか、タイトルにもあるしね。

それもC級のスプラッター・ホラーを。
トンデモ設定で脱力展開に苦笑してしまう、というやつだ。

下敷きは明らかに、デ・パルマの『キャリー』だ。
劇中何度も名前を「キャリー」と間違えられてしまうキャシーが、それだ。

だから、プロムパーティと騙されてキャシーの超能力が最大限に発揮されるラスト近くのシーンは納得。

しかし、ナカゴー、そう一筋縄ではいかない。
とにかく、下品である。
どこかポップなテイストもありつつの、下品が炸裂する。
ストーリー展開においても、台詞においても、キャラにしてもだ。
さらに毒がある。

今回は、客席が対面式になっていて、その間が舞台となっている。
なので、対面にいる観客の姿が目に入る。

とにかく爆笑している観客、少し怒りがあるような観客、うんざり顔の観客、口を開けて見入る観客などさまざまだ。
「受け入れる」「受け入れない」がはっきりしたようだ。

ナカゴーの観客は、いつもその2パターンなのだが、それがさらにはっきりしたように思える。

私はと言えば、もちろん、笑い、苦笑した。
急に思いついたように、名前を呼ぶときの、英語風な発音などの小ネタも豊富だし、舞台の上で同時に起こっている出来事の中にも、変質的なこだわりが笑わせてくれる。

アメリカの青春モノ的な設定なのに、食人族や四次元がどうこうなどのトンデモ展開で、さらに酷い差別ネタや必要のないエロネタなど満載なのだ。スプラッターもあるし、雑でもある。
とにかく、ナンセンスのオンパレード(いつものナカゴーのナンセンス度をさらに拡大した感じ)で、展開がまったく読めず、あれよあれよと進む。

エロ・ネタは、前作『さらに』よりは、トーンダウンした印象はあるが、それでも女性観客の多くは顔をしかめること間違いない。
思わず笑っちゃたりもするのだが。

人を喰ったようなネタ(まあ、実際人が喰われるのだけど)で大笑いさせたり、下品なエロネタや差別ネタで苦笑させる。

何も考えずにその場限りの笑いの作品として観ても面白い。
「意味」みたいなものを問えば、もちろんなにがしかのテーマ的なもの、例えば、「黒人は奴隷ではなかった」からの、歴史観的な揶揄なども考えられるのだが、それはここでで述べてもしょうがないだろう。

ナカゴーの篠原正明さんは、いつも、どんな作品でも、アメリカの青春ドラマのような演技をしている。つまり、やけに翻訳っぽい台詞と肩をすくめるようなアメリカンな演技だ。
その演技スタイルが今回初めて作品とマッチした。
そこがバカバカしくて、最初から笑ってしまった。
台東区や荒川区一帯が舞台設定の場所としての印象が強いナカゴーなので、アメリカンな演技を必要とされる作品は、この先ずっとないだろうから、(たぶん)最初で最後の演技と作品マッチではなかったのだろうか。
作・演の鎌田順也さんは、この作品のために、篠原正明さんのアメリカンな演技を鍛えてきたのならば、凄いのだが。
……それはないだろうな。

ナカゴーと言えば、過剰な繰り返しなのだが、今回はそれを封印したようだ。
ただし、しつこさ、粘っこさという点では、過去の作品に劣らず、とにかくしつこい作品でもある。

ナカゴーからの出演は、篠原正明さんと鎌田順也さん(黒子?)だけなのだが、他の役者もナカゴーにきちんとはまり、吹っ切れた演技を見せてくれた。
そこがこの作品の一番のいいところであったと思う。

エロ・グロ・ナンセンスなので、万人にはお勧めできない。

しかし、次回は、近藤芳正さんを軸として、ナカゴーをはじめ、Mrs.fictionsや青☆組などいくつかの劇団が競演する作品が待っている。
ナカゴーは、近藤芳正さんに、アノ演技を強要するのだろうか。
青☆組を目当てで来たお客さんには激怒されるんじゃないだろうか。
楽しみであり、心配でもある。
スメル

スメル

キリンバズウカ

王子小劇場(東京都)

2009/07/04 (土) ~ 2009/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

やっばり、人は人と一緒にいたいんだ
まず、なんと言ってもフライヤーがカッコいい。素敵だ。
ここに惹かれた。

そして、舞台は、フライヤーのように素晴らしいものであった。
平日夜間に満席なのもうなづける。

表面に見えるテーマ的なものだけではなく、その根底にある人の姿、特に現代に生きる人の姿・気持ちが浮かび上がってきた。

ネタバレBOX

冒頭の「東京都永住禁止条例」についの説明にあたるシーンで、「この説明っぽさは、どうかなのかな・・」と思ったのだが、フリーターの男と都の職員が同窓であることが観客にわかり、さらに葬式シーンが続き、「なんだ?」と思ったあたりから、作者の術中にはまったと言っていい。
この展開、興味の持たせ方は、「うまいなぁ」と思わず唸ってしまった。

「東京って人多すぎ」ってなことを言っている自分が東京にいて、まさに多すぎの人々を自分自身が形成している。
「なぜ東京じゃなきゃダメなの?」と面と向かって訊ねられても返答に窮する人も多いだろう。
そんな人たち(大多数の観客たち)の気持ちに、ざわっとした空気を送り込むような舞台だったと思う。

東京一極集中、ゴミ問題に、介護や就職難なんていう今様のテーマと、親子の関係、男女の関係など普遍的テーマをうまく絡めて、テーマ、テーマしすぎず、見事に台詞で世界を紡ぎ出していた。
台詞の息づかいのようなものがとても素晴らしいと思った。

そんな表層のテーマとは別に、「人と繋がりたいのだけど、うまく繋がることができない人たち」の哀しさが舞台が進むごとにじわっとやってきた。
人恋しさとでもいうのだろうか。
だったら故郷に帰ればいいじゃないか、と言われても「いや、でも・・」と言葉は濁る。
ゴミ屋敷の清掃で人々はかろうじて繋がり、お金や(危ない)仕事、芸能人になるなんていう淡い夢で繋がる。
儚い繋がりと知りつつも、それにすがってしまうのだ。

これって、捨てられないゴミとの関係にも似ているのではないだろうか。
ゴミだから捨てないと、という気持ちと、いつか何かに使えるのではという気持ち。ゴミとわかっていてもつい拾ってしまうような。

本編ラスト(?)でゴミ屋敷の女主人が泣き、「さて朝ご飯でも食べるか」と言い放つ強さにちょっと感動しつつ、本当のラスト、というか蛇足ともとられかねないラストでは、さらにもう一度、人が人と繋がりたいという欲求と、人との繋がりの危うさを、皮肉を込めて見せてくれた。

台詞がよかったのだが、ゴミ屋敷の女主人の台詞も若者言葉にやや引っ張られているように感じた。普段あんなふうにしゃべっているのだろうか。ちょっとだけ気になった。

前作とゆるい繋がりがあると知ってしまったら、前作も観たくなった。再演してほしい。

蛇足だが、登場人物たちの名字が、1人を除きすべて世田谷区の地名だった。異なる1人というのが、娘の岡村。
この疎外感は一体なんだったんだろうか。たぶん意味があると思うのだが。
月光のつゝしみ

月光のつゝしみ

ハイバイ

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2013/09/20 (金) ~ 2013/09/26 (木)公演終了

満足度★★★★★

とにかくキツイ舞台だった
いろいろとキツイ。
会話がキツイ。
会話のないところがキツイ。
居心地の悪さはハンパない。

ネタバレBOX

「家族同士の付き合いがあるほどの関係ではない友人に家に行ったら、その友人が家族と罵りあっていて、どうしたらいいのかわからず、とてもいたたまれない気持ちになってしまった」
のような気持ちになった。
とても居心地が悪い。

台詞が痛いのだ。
無言の長さも恐い。
どこで姉が話し出すのか、劇場の空気が凍り付いたようにキンと張った。

他人が他人に向ける苛立ち、例えば、民男(弟)が妻に対して「(民男の実家のあった城下町に)一度も行ったことがないだと!」と言葉を荒立てることは、言われた妻だけでなく、その場に居合わせた人にも辛く響く。
誰の言葉の矛先が自分でないとしても、その場にいる人にはチクチクしてしまうのだ。

たとえ相手を思いやっているような台詞であっても、なかなか額面通りには受け取りにくい響きが絶えずする。
それを受ける側の緊張感までもが伝わる。

頭のいい姉には誰もついていけないが、実は同じように頭のいい弟にも妻はついていけてない。
彼ら姉弟は、気がつかずに自分の身の回りにいる「普通の人たち」を見下している。
つまり、自分たちと同じように考え行動できない者たちに苛立っている。
苛立ちは自分自身にも及んでいる。

あらゆるものに噛み付き、グイグイ、ネチネチと突いてくる。揚げ足を取る。言葉尻をつかまえる。
彼ら2人は、自分がそうしているという自覚はあるのではないだろうか。
頭がいいから、わかっている。
だから、相手の弱り具合までわかっているのではないだろうか。
しかし、サディストというわけではなく、それを楽しんでいるわけではなさそうだ。

楽しくないのにやってしまう。
すなわち、そういう毒が自分の身体にも回ってくる。
そういう彼らの悲しみがうかがえる。誰にも理解されない。
いや、姉と弟にしかわからない悲しみ。

控え目に言って姉のほうは頭がおかしい。
学校という狭い場所にいて、先生という王様になっているから、周囲との距離感や度合いがつかめていないのだろう。たぶんそれがもとで学校を出てきてしまった。

こういう先生はたぶんいる。いや、きっといる。
こんな風に「どういうこと」「どういうこと」と詰問される生徒はたまらない。

姉と弟の、自分を含めたあらゆる方向に向けられた刃によって、ある者は手首を切り、ある者はどうしたらいいのかわからず、途方に暮れる。
しかし、姉と弟のほうは底ではわかり合っている。互いが吐いた毒の中にいることもわかっている。
もちろん姉と弟だから、友人や妻などとは、歴史が違う。さらに彼ら特有の、「頭がいい」世界にいるという共通点もある。

どうやら徹底的にイヤなヤツというわけでもなさそうなのだ。
姉を好いている男もいろようだし、弟も結婚しているし、友人もいる。

ラストで姉と弟が雪が積もっている家の外にプレゼントを拾いに行く様子は、どこか楽しげ。姉弟ならではの、肉親の会話として聞こえてくる。
それを、たぶん寒いであろう家の中から聞いている、妻の心の中はどこよりも寒いだろう。
弟の友人はこの後、彼らと会うことはないだろうが、妻はこの姉弟と暮らすのだ。

彼女は、今までもずっと寒い部屋に1人でいて、これからも1人寒い部屋にいることになるのだろう。

ホントにキツイ舞台だった。


永井若葉さんという女優さんほど、困って泣きそうな八の字まゆ毛が似合う人はいないだろう。額の膨らみまで似合ってしまう。
平原テツさんほど、実はイヤなヤツだった、を演じられる男優さんもいないと思う。妻に対する本音には心底酷いなと思ってしまった。
姉役の能島瑞穂さんは本当に凄まじかった。恐いと思った。
弟の松井周さんも、姉、妻、友人という3人に対する自分の「役割」を見せるというところがなんとも良かった。

劇場から無言で帰宅する感じになった。
キネマの天地

キネマの天地

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2011/09/05 (月) ~ 2011/10/01 (土)公演終了

満足度★★★★★

井上ひさしさんの「役者LOVE」な物語
こんなストーリーだったとは! 
フライヤー等の説明(ここに書いてある説明も)を前もって読まなくてよかった、と思った。

ネタバレBOX

松竹の蒲田撮影所にあるスタジオに集まってくる。当代きっての大女優たち4名。
それぞれに自分が今の松竹を支えているというプライドがある。
彼女たちは、松竹の超大作に出演するということで、監督に呼ばれたのだった。

しかし、監督はその前に、彼女たちに前の年に、そのスタジオで行われた舞台をもう一度上演したいので、その読み合わせをしようと言い出す。

実は、その舞台の稽古中に、監督の妻であった女優がその場所で亡くなったのだった。

女優たちは、いやいやながら、監督の指示に従い、本読みを開始するのだが、どうも様子が変である。

そこに、掃除夫や脚本家、さらには築地署の刑事と名乗る男が次々と現れてくる。

監督の意図はどこにあるのか…。

そういうストーリー。

映画における、というより、役者たちのさまざまな想いや、感じ方、自負、苦労が、役者間のヒエラルキーに絡めて披露される。

特に、女優として、その道を切り開いてきた、トップ女優のエピソードは重みさえ感じる。


彼ら、つまり役者とは、濃くて、嫌みで、自意識過剰で、自己中心的で、そのくせ階級主義・年功序列がまかり通っていて、ということを、さらにをデフォルメして描いていながら、その視線は優しい。
彼らの姿が愛らしくなってくる。

本能的で、自分の欲求には誠実で、しかも自分の職業−役者−に、多大なプライドを持っている。

これは、井上ひさしさんの「役者賛歌」ではないだろうか。
それは、主演を張る大俳優だけでなく、脇を固める、すべての役者に向けられたものであったと思う。

そして、役者と言うのは、役者であるということに、貪欲な人々である、というところではないだろうか。また、それによって、自らの矜持が保たれているとも言える。
その彼らの性格を逆手に取って、見事な喜劇に仕立てていたと言っていいと思う。
しかも、単なる喜劇というのではない、役者たちへの愛が語られている。

幾重にも仕掛けられたラストへの罠が、巧みで面白い。
そして、刑事=犯人だった男の、ラストの台詞から瓶の中身を呷ってからの展開は、客席から思わず拍手が上がったほど、あざやかだった。

また、彼が、結局3回言う台詞が、シビれるほど、素敵で美しいと思った。
もうこれだけで涙モノである。
演じても演じても終わりはないし、役者すべての想いが詰まっていたと思うのだ。

大上段に天下国家にもの申すというのではなく、井上さんの間近にいる人たちを語り、彼らに捧げられた、美しい作品だと思った。

濃すぎて嫌みなほどの4人の女優陣(麻実れいさん・三田和代さん・秋山菜津子さん・大和田美帆さん)は、本当に素晴らしい。まさにその世代の観客たちを魅了していた、大女優たちだった。
さらに、木場勝巳さんも、エネルギーに溢れ、本当に見事だった。
明るい家族、楽しいプロレス!

明るい家族、楽しいプロレス!

小松台東

高田馬場ラビネスト(東京都)

2012/11/21 (水) ~ 2012/11/26 (月)公演終了

満足度★★★★★

登場人物が相互に、それぞれの役を成立させる見事な関係にある
それは物語と深くかかわっていて、誰かが誰かを気にして、支える、家族や友人のコミュニティの形に似ている。

コメディかと思ったらそうではなかった。
ストレートプレイ好きならば観たらいいと思う。

ネタバレBOX

異儀田夏葉さんがお母さん、佐藤達さんが小学生の息子、内山ちひろさんが中学生の娘、そして永山智啓さんがおじいちゃん……そんな役柄を見て、てっきりコメディかと思ったら(先日デフロスターズ松本企画のコントみたいなものを観たあとなので)、違った。いい意味で裏切られた。もの凄くいい会話劇。

89〜90年ぐらいの、宮崎にいる家族たちの物語。

中島家では、父は母との関係で、家に寄りつかず、たまに帰ってくる程度。思春期にある中学生の娘はそういう父親を嫌っている。小学生の息子は単純に父が好きで、なによりも今一番興味があるのがプロレスだ。
おばあちゃんは、痴呆か何かで入院中。母はパートをしながら見舞いに行っている。
おじいちゃんは、自分の息子が留守がちの家を気にし、毎日のように訪れる。自転車の「切り替え」好き。

そんな中島家を中心に、母の友人や、喘息持ちで、プロレス好きの近所の高校生、娘の部活で一緒の、シンバル担当の男子などが、どこか懐かしい香りがするストーリーを繰り広げる。


最初はコメディかと思っていたのだが、途中からそうではないことに気づき、また、「それから数年後」のような展開があるのかと思っていたのだがそうでもなく(大人が小学生を演じていたりするので)、その設定のまま淡々と物語は進んでいく。

そんな舞台に、実は違和感を感じることはなかった。なぜならば、ほとんどの役者が実年齢と違う年齢を演じているのだが、あまりにもしっくりくるからだ。

小学生を演じた佐藤達さんは、よく舞台で大人が子どもを演じるようなあざとさが一切なく、さらりと演じていて、小学生の息子になっているのだ。中学生を演じた内山ちひろさんも、同様にさらりと中学生の娘になっている。

そして、その2人の母を演じる異儀田夏葉さんが素晴らしい。2人への声のかけ方、夫や義理の父(おじいちゃん)への接し方が、リアルというか、さらりと「母親」「妻」になっている。
その台詞や動きが、まさに「毎日繰り返される日常」を体現しており、「お母さん」という感じ。兄弟げんかしたらあんな風に怒られたな、なんて素直に思える。

異儀田夏葉さんのお母さんが中心にきちんといるから、この舞台は、きちんと成立しているのではないか、とも思ってしまう。彼女が「お母さん」を演じているから、「息子」も「娘」も揺るぎなくそういう存在としていることができるのではないだろうか。
おじいちゃんも、しかりだ。頭を白髪にしても見た目は若いおじいちゃんが、「おじいちゃん」に見えて来る。

異儀田夏葉さんは、あひるなんちゃらで初めて観てから、結構気になっている役者さんで、この人の突っ込みのスルどさにはいつも感服していた。しかし、今回の芝居を観て、考えが新たになった。「突っ込みが凄い」のではなく、台詞のタイミングや声のトーンなどが的確な人なのだということだ。だから突っ込みもうまいし、今回のような芝居もできるし、西友のエスカレーターを不気味な笑顔で降りてこれる(笑)ということなのだ。
ますます目が離せない女優さんだ。

もちろん、今回の舞台は、異儀田夏葉さんだけが凄いということではなく、それぞれの役が、それぞれの役を見事に互いに支え、成立させていると言ってもいだろう。相手が本当にそういう役なのだ、と信じ切っている。そういう相互関係・信頼関係があるから、この舞台は成り立っているのだろう。

また、台詞のタイミングや絡ませ方、声のトーンなどなど、細かく気を遣っていて、それも見事であったと思う。役者の力量もあるのだろうが、そこには演出のうまさもあろう。

ストーリー自体も、母親の友人の息子の退学や、隣の高校生の入院(身体が弱いから近所の小学生の相手をしているのではないか、という切なさも含めつつ)、東京にプロレスを観に行けなかったり、娘の部活で一緒だった男子の転校など、ちょっとした波紋はあるものの、そこには、それらを支える、家族とご近所の関係(コミュニティ)がきちんとあるのだ。
今観ていて、逆にそこがちよっと切なくなったりするのだけど…。

心配してくれる家族や友人、知人がいて、遊んでくれるお兄さんが近所にいて、なんて、そんなことはもうないんじゃないかと思うからだ。
昭和から平成のころには、そんな関係が、宮崎ではまだあったのかもしれない、と思ったりもした。「ケンタッキーだ!」って喜べるのはいいよな、なんてね。

その「誰かが誰かを気にして、支えてくれる関係」は、先に書いた、「役者さんたちが、それぞれの役を成り立たせる関係」とよく似ていて、舞台のテーマと、演劇自体の在り方が、まさに密接な関係にあると言っていいだろう。

2代目の社長となった息子(中島家の父)を、なんとなく頼りないと思っている祖父が、小学生の孫(啓太)がカツ上げにあったと聞き、「タカシ(啓太の父)を呼べ」と思わず言ってしまうところや、ラストでみんなで食事をしようとなるあたりに、簡単には切ることのできない家族のつながりを感じたりもするのだ。

母親の友人・柴田薫さんのどこかにいそうな感じもよかったし、緑川陽介さん、塙育大さんの2人の男子の、少しエキセントリックだけど、実直さ、いい人ぶりも良かった。また、父親の野本光一郎さんの、実は真面目そうな感じ(だから家に戻れないような)、その友人の松本哲也さんの「一緒に風呂入るか」というような台詞に表現される、胡散臭い感じは、その風貌とともに短い登場ながらいいアクセントになっていた。

観た後、暖かいものが残る舞台だった。
ドリルチョコレート「テスタロッサ」

ドリルチョコレート「テスタロッサ」

MCR

こまばアゴラ劇場(東京都)

2011/01/07 (金) ~ 2011/01/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

台詞のやり取りが気持ちいい!
スピード&リズム感と役者のうまさが光る。
そして、設定がナイス!

ネタバレBOX

パンクバンドをやっている、もう若くない3人とその恋人たちとの物語。

なんだかパンクバンドの3人より、もっとパンクな恋人たちがいる。
生き方がパンクっぽかったり、うるさかったり、奇天烈すぎたりと。

だけど、よくよく考えるとその中に「普遍的な恋愛」が見えてくるのだ。相手のことを強く想いすぎて、自分がコントロールできなくなったり、コミュニケーションがうまくとれなかったり、相手のことがわからなくなったり、そんなことは、誰でも経験したことがあるだろう。

恋愛の入り口だったり、中だるみだったり、終焉だったり。
そんなお互いのやり取りと、気持ちのシーソー的な動きを繰り返しながら、恋愛は進んでいくのだ。

例えば、近藤美月さん演じる中川の彼女の行動は、最初は面白いと思いつつも、次第にエスカレートしていく様は、理解できるものではなかったのだが、2人の関係がとてもいいことを見ると(手をつないだり)、これは彼女なりの彼とのコミュニケーションの取り方なのではないかと思ってくるのだ。
パンクな彼氏に、ある意味合わせて、自分に興味を持ってもらいたい一心で行っていることではないだろうか。
そういう意味では健気すぎるぐらいのことなのだ。

言うまでもなく、失礼ながら、パンクなバントのベースを担当している有川役の有川マコトさんがカッコよく見えてしまうのも恋愛マジックであろう。

声が聞こえなくなる、言葉を翻訳する、なんていうのは、まさに恋愛の比喩だしね。

櫻井智也さん演じる櫻井の彼女に対する想いが、他人(他の男性2人)にはイマイチ伝わらないことなどとも併せて考えると、そうした「恋愛中の行動」とは、得てして他人から見れば、奇異そのものではないのだろうか。
自分であってもあとから考えると、赤面以外の何ものでもないことを、平然とやってのけるのが、恋愛の面白さでもある。

そうした恋愛模様をやや肥大化させつつも、哀愁さえ感じさせる極端さが、とても染みるのだ。
それは、女だけでなく、男においても、滑稽であり、哀愁なのだ。

そうしたドラマが、とてもいいスピード感で進んでいく。
台詞の畳み掛けは、役者のうまさと演出の手際の良さからくるのだろう。

後半から中川役の中川智明さんが参加したということなのだが、もう、この役は彼しか考えられない、という感じに見えていた。
近藤美月さんの痛い役は、上にも書いたように、「健気さ」を感じたところから、痛々しさが見えてきて、「ああ恋愛なんだな」と思えてきた。
石澤美和さんの、独特の間のうまさ、見えているキャラクター以上の面白さがたまらない。
あずきさんを演じた小椋あずきさんの、一直線さは、実は恋愛時期にはありがちで、怖さもありつつ、ぐっとくるものがあった。

情報量が多い、過剰とも言える台詞は、なかなか気が利いていて、笑った。「パンクジャンケン」なんていう、センスの良さも光っていた。

ああ、そうそう「パンクバンド」っていう設定がいいなあ。
暗転の音楽も気が利いている。
明けない夜

明けない夜

JACROW

サンモールスタジオ(東京都)

2009/07/17 (金) ~ 2009/07/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

物語と演出の巧みさに引き込まれた
よくぞこの時間内にうまく収めたと思う。無駄がない。
この時代設定だからこそ、なしえた物語でもある。

ネタバレBOX

現在から過去、それが徐々に現在に近づきつつ、物語の核心に迫ってくるので、観る者を釘付けにしてしまう。

自分のことと今回の事件をダブらせて、血気にはやる若い刑事がいることで、緩急もついた。緊迫感もある。子どもの誘拐という、やるせない物語に、さらにそれぞれの想いや感情や思惑が交差し、やるせなさが倍増してくる。

ちょっとした台詞などで、登場人物1人ひとりのバックボーンや関係性が徐々にうっすらと見えてくるのも素晴らしい。

足りないとすれば、「汗」と「扇風機」か。
汗をにじませたり、扇風機にあたったりという演技・演出が加われば、「暑さ」も獲得できて、このやるせない話がさらに辛くなったように思えるのだ。

一番の問題は、「外伝」があることだ。
観客としては、この本編だけということであれば、舞台で観た情報だけを頼りに自分の中で整理して、鑑賞するのだが、すでに「外伝」があることを知ってしまっているので、いったん頭で構築したものを、できれば答え合わせのように確かめてみたいという欲求が生まれてしまうのだ。予定に組み込めなかった観客には、ちょっと酷。本編がよかっただけに、できれば観たいと思うのが人情だ。
だから、この2本は、できれば1つの作品として上演してほしかった。

平日の20時開演はありがたい。
ソウル市民五部作連続上演

ソウル市民五部作連続上演

青年団

吉祥寺シアター(東京都)

2011/10/29 (土) ~ 2011/12/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

『ソウル市民1919』 1919年には何が起こったのか?
この作品は、とても優れたコメディである。
…と言っていいかな…。

と同時に、「笑い」の向こう側(家の外)では何起こっているのか、を知っている観客たちに「考える」機会を与えてくれる作品でもある。

ネタバレBOX

この作品はとても優れたコメディでもある。
(私はコメディとして楽しませてもらった)
きちんと台詞と、その関係で笑わせてくれるコメディ。

実はもっと淡々としてものを想像していた。
それは、時代設定、場所の設定(1919年京城)があるからだ。

それはともかく、とにかく面白い。
爆笑してしまうシーンもある。
相撲取りが出てくるという、飛び道具的なところもあるのだが、それだけではなく、随所に面白さを加えてくる。

とは言え、そんな面白さの「外」では、三・一運動の気配が家庭内に忍び込んで来る。そういう(日本人から見た)不気味さを、女中がいなくなるというさりげないことで表し、さらに相撲取りという、非現実的なキャラクターと彼がいなくなってしまうという不安感で醸し出すうまさがこの戯曲にある。

この家では、そんな不気味さの上で、賑やかに歌い、「ここはどこなのか」「彼らはここで何をしているのか」ということとは無縁にいる。
この「呑気さ」、そして「悪い人たちではない」ということがこの作品の肝でもあろう。つまり、これが一般の人たちの姿だ。
内(家)の中の小さなさざ波が彼らの最大の問題であり、家の幸せがすべてなのが彼ら(我々)なのだ。
それによって見過ごしてしまうこともある、というのは深読みしすぎなのと、後知恵によるものであろうか。

もちろんこれは、「お話」だ。しかし、そのお話は説得力があるので、観客に「考えること」を与えてくれる。
舞台の上の家族の「外」で起こっていることを、観客は知っているからだ。
笑いながら、そうしたところに持っていくうまさ。

そして、今回も役者が皆うまい。
台詞の応酬の巧みさ、重なり合いは、前作『ソウル市民』ほどは感じないが、それでも自然にそういうシーンがある。
とにかく面白くってグイグイ引き込まれる。
こんな面白くっていいのだろうか、なんてこと思ったりもしてしまう。

こちらも1919年の設定なのだが、現代口語に違和感まったくなし。
戯曲と役者がうまいからだろう。

アフタートークは奥泉光さんと平田オリザさんだった。
奥泉光さんって、こんなによくしゃべり、面白い人とは思わなかった。久々に満足度高いアフタートーク。
平田さんと奥泉さんは大学の先輩後輩で旧知の仲ということで、トーマス・マンと平田さんなど実に面白い話が聞けた。
家の内臓【作・演出 前田司郎】

家の内臓【作・演出 前田司郎】

アル☆カンパニー

川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)

2010/06/04 (金) ~ 2010/06/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

「アレだから」的な前田ワールドが、うだうだと炸裂していた
「家族」「温泉旅行」というキーワードが前回と共通していたが、前田さんの手によるものだから、違うものになるだろうと期待して観に行った。

やはり違っていた。前回はハードな内容で、シンプルで簡略化された舞台装置がそれを引き立てていた。
今回は、リアルな温泉宿内で、カバンやふとんやいろいろなものがある。それに包まれた話には、温かさがあった。

めんどくさいけど、楽しい感じ。
わかるなあ、その感じ、と思う。

ネタバレBOX

深夜で、ちょっとアルコールが入った状態のテンションが見事。
言葉の絡み方がとてもいい。
空気感までうまく作り込まれている。

出演者がとにかくいい。
「ほら、あれ」とかの言葉も、逆に平田さんの年齢だからよけいに活きてくる。歳取ると言葉でないことって多いし、深夜だし、眠いし。
五反田団があと10年、20年たったときにも、こういう雰囲気になっていくのだろうなあと。

とても眠い様子がまたいい。わかるその感じ、の演技が秀逸。
細かい動きや位置、姿勢までもきちんとコントロールされ、それが自然の形に見えてくるあたりがうますぎる。

夫婦も親子も会社も、そして劇団もみんな家族。
夫婦はもともと家族ではないのだが、ある日突然家族になる。
そして突然また他人に戻る。
親子は、生まれたときから家族になって、両親が別れても、子どもが嫁いで名字が変わっても家族として続く。
社員も長く一緒にいると、まるで家族のような関係になることもある。
同じ職場にいたり、特に零細・中小企業ならば、そういう関係になる可能性は高い。

別れて家族でなくなった元夫婦や親子が、同じ会社でまた家族になっていく(る)というねじれた関係性が面白い。「家族だ」と宣言しなくても成立する家族。たぶんそれは純日本的な感覚ではないだろうか。
温泉旅館で、川の字に布団を敷き、うだうだするのがとても似合う日本の家族だ。
何気ない会話と、1時間ちょっとの時間の中で、「家族」というテーマが見事に結実していたように思えた。

とてもいい舞台だった。

しかし、「家の内臓」≒「家の内装」だったとは(みんなが勤めている会社が内装業・笑)。

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