tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ランボルギーニに乗って

ランボルギーニに乗って

劇団鹿殺し

あうるすぽっと(東京都)

2022/07/08 (金) ~ 2022/07/18 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鹿殺しを観たのは結構前のこと。(OFFICE SHIKA舞台は丸尾氏昨・演出で一応別物と考えている。こちらはここ数年に2、3本観ている。)「電車は・・(再演)」「無休電車」と立て続けに観たと思っていたが間に何年か空いていた。爆音とマイクで喋る台詞には、バンドのライブなら覚悟してノリに行くがここでは勘弁(だって動けないし勝手に休憩もできん)と、二つ見てきっぱり敬遠した。(OFFICE..の方も音デカの基調は変わらぬがバリエーションがある。)
8年程経って彼らも大人になり、20周年どんな構えを見せるのだろうと不安半分、好奇心で観に行った。(前置き長い。。)
どうも体調が良くなかったのだが、舞台の方は目を休ませず、場面転換もモード転換も華麗にして溜息をつく暇もない。でどうなったか。恐らく体は眠ろうとしていて眠れず、中盤を超えたあたりでげっそりしてきた。退場する程でないが、「少しだけ休ませて」と目を瞑っても寝落ちを許されない音、光、声である。
さて以上は(眠りたいのに眠れない時どうなるか、という事例ではあるが)芝居の評価とは全く関係ない。
別に判定を下す訳ではないが中々面白く、ある部分において素朴に感動できた。出色は以前は考えられなかった技術を駆使した演出そのもの。物語性のある部分は深みを与えきれずに終えている。が、舞台芸術、小説なんでも良いが、それを織りなす者が持つ表現したい共有したい「何か」(今抱いている人間や世界に対する感懐)を、この舞台で客に伝えるにおいて雄弁であったのはストーリーよりは断片あるいはその連なりであり、演出的工夫がそれをうまく伝えていたという印象である。(従って自分がダウンしそうになった、客の首根っこを揺すぶって寝かさぬ演出が、功労者という訳であった。)
お話は色々と錯綜して単線的に説明しづらいが、少し経ってそちらの感想も書いてみる。

私の恋人 beyond

私の恋人 beyond

オフィス3〇〇

本多劇場(東京都)

2022/06/30 (木) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初演を観たが、今回は題名に「beyond」が付いている。小説を読んでから観たのが仇したか初演は(小説の)筋を追い切れず、演出は面白いが楽曲のバランスがいまいちだったりした。進化した「私の恋人」が観られるのだと確信し、前回は最後方席だったが今回はなるたけ前の方(どうにか中程)を取り、役者の表情が見える観劇はできた。
のんの歌唱が劇的によくなり、渡辺えりとのハモりは泣かせた。劇の方は3○○の世界である。ただし歌が多めの。
舞台が進む内、(だいぶ忘れていた)話の筋を微かに思い出す。
・・主人公の青年は、ある特別な人物(男)の事を追っている。男が飛ばす車の助手席には女が居り、青年は彼女と恋人であろうとする者なのである。「特別な男」が余命の限られた身で人類史を辿る旅をする中、どん底から拾い上げたのが彼女で、挑戦が終りを見ない前に男は倒れたので、彼女は己にそれを継ぐ使命を課している。青年はその男と同時には生きていない。一方この青年は、原始時代、ナチス占領時代、そして現代日本と三つの人生を転生し、しかもその記憶を持つ存在なのだが、「どの人生」においても常に彼女の存在を探していた。ついに出会った彼女と、彼は恋人となるものの、決して「彼のもの」にはならない彼女とは別れの予感の中にある。とてつもない挑戦をした男をリスペクトしながら、それを否定せず彼女をどう愛そうかと迷っている・・大方そのような筋だったと記憶する。この小説が描いた図は一体何なのかと考え、手が届きそうに感じたイメージはこう。・・一人を愛することと人類に思いを馳せること、両極に見える両者は同じである、という方程式を成立させる哲学を持ち、それによって生きる。人生は終わらず続き、不在の中に存在を見、存在していても不在の影が重なる。彼は彼女を得るために、というより彼女を得ることの価値を最大化するために、そしてそれに相応しい自分であるために、壮大な物語を紡いでいる。

一時間半強のステージは目まぐるしく、小日向文世とのん、渡辺えりと、歌い踊れる4名のアンサンブルもガッツリ動き、ソロも歌う。
ある所までは筋を追っていた自分も3○○の不可思議の世界にいつしか浸り、漂う情感に身を委ね、そこはかとなく湧く切ない怒りや、軽やかな気分や、跳躍の不安と情熱に飲まれた。

アジール街に集う子たち

アジール街に集う子たち

劇団アレン座

吉祥寺シアター(東京都)

2022/07/02 (土) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

前回あたりから気になるユニットだったが、配信にて初・アレン座観劇。(映像は定点のみ。風貌・表情は見えないが人物識別にさほど難はなく、物語の流れは掴めた。)
アジール街、と俗称される地区はその意味通り避難場所となっている。ちょうどトー横区域のように家族問題を抱えた女子が流れ着く場所であり、男も居るが、その経済の大部分は女子が売春で稼ぐ金である。だが、男らは女の経済に寄生しながらも、アジールが守られるために存在しており、微妙なバランスがうまく描かれている。一つには、女子たちに自己決定の余地がある事に拠る。物語の冒頭、主人公が母親とのこじれた関係を振り切って噂のこの街へやって来た日、男らは彼女らにここで生きる手早い方法を教え、選択をさせるのだ。一晩寝れば三日間宿が確保される、と。少女は逡巡するが、決断する。通常は物語のもっと進んだ時点で訪れる分岐点を、易々と越える。そして彼女は街に住む者たちの物語を目撃する。(彼女の目を通して街が現れる。)
力なく崩れ行く悲しいエピソードたちは、現実をある仕方で映したものと言え、力なく名も無き者の末期を「ただ見届ける」という態度の内にのみ彼らの連帯があり、しかしアジール街は結局その名前を返上する事になる・・その予感を強く残して終わる(人によっては光ある未来を思い描いたかも知れないが)。

架空の街の不思議な(現実に置き換えればグロい)ユートピアの象徴は、ホームレスの男(30代の想定か)で、彼は彼の元にやって来て話したい者たちの話を聴く、その代りに少額のお礼をもらい、生き延びている。彼が語る哲学がその来歴と深く結びついている事を周囲が段々と知る所となり、皆が彼との間に友情を感じ始めた頃、外部の「暴力」により彼は亡くなる。
この人物の存在により、作者が「アジール」に込めた願いを覗く思いがする。
女子たちの「声」が特徴的(現代的?)で、最初はこれで成り立つのかと訝ったが、演劇空間としても独特な世界が生まれていたように思う。

ユー・アー・ミー?

ユー・アー・ミー?

演劇ユニット TakeS

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2022/07/08 (金) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

実演鑑賞

知己から手渡されたチラシを見れば「作:鈴木聡」。ラッパ屋を1回しか観れてなく、別の鈴木コメディを手近に観られるぞ、と楽しみに出かけた。ところが開幕するなり既視感。初めてラッパ屋を観た作品がこれであった(これと合せて2回観ていた。先日のSPIRSLMOONと言い、題名で気づかないのか俺、と我が脳ミソを疑う俺。)
本家のモデルを思い出しつつ、比較しながら観てしまうとどうしてもあちこち不足感を抱く事になったが、お話はやはり面白い。
舞台は開幕から終演まで、とある会社のエレベータ前ロビー。時流に鈍感な主人公が、出世コースに乗り遅れるどころか、自分の「存在」まで脅かされる。時流とは例えばスタバ・コーヒーのカップ。メールチェックと反応の迅速さ。中身のない「スタイリッシュさ」が誇張されるが、主人公はどこ吹く風である。が、芝居の序盤で「異変」が起こる。現実にはあり得ないフィクションだが、現実にあり得る事態の「本質」を映した現象ではあり、主人公の焦燥は観客にも身につまされる。

舞台は、初日でもあってか、ギクシャク不具合がある。言ってしまえば「時間の処理」と演技のディテイルの詰めで損している。音響の手捌きも。。
会社勤めの「あるある」には作者鈴木氏の見聞の裏打ちを感じさせるが、中でも「悲哀」の側面は「正直者は馬鹿を見る」的な洞察・共感をもって描き、敢えて突き放し、戯画化して笑いの対象にしている。だがカリカチュアな笑いの根底にリアルがある。
この芝居の全体像(構造)を理解し共有する事が肝要だろう所、世界観の揃ってなさが時折気になった(皆が同じ場所を目指している事自体が芝居を支えている事は多い)。
戯曲上扱いが難しそうな最終盤(不条理に情勢逆転する)も、やはり難しい。理想的な和解が成立したその直前のクライマックスでは十分にカタルシスに至ってよく、その後のどんでん返しはお遊び的なオマケ(「しかしお客さん現実はこっちだよね」、という)、匂わす程度の終わり方にしたかった気がした(「終わり良ければ」の形をもう一歩探りたい)。
・・やはりどうしても本元と比べて観ざるを得なかった。

「# FAFAFA-ファウスト」 「Like Dream and Dreams(ゆめみたい)」

「# FAFAFA-ファウスト」 「Like Dream and Dreams(ゆめみたい)」

DE PAY`S MAN

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/06/22 (水) ~ 2022/07/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

青年団系劇団の舞台ににユニークな振付を提供していた木皮成が、この度は棟梁となり構築したパフォーマンス。
アゴラ劇場の通常のステージ側(入口の反対側)に客席を組み、建物の3階に当たる会場内ロフトには中央に出力機材があり、世界を統べる佇まいのDJが音を出し、人間界を操る垂直関係が視覚化される。
パフォーマンスのカテゴリーはDanceであり、出演陣は踊れる俳優が主軸。だが、物語進行の各場面は多様なアイデアが盛り込まれる。
全体的な印象は、場面の精度・雄弁さに凸凹がある(鮮やかな瞬間もあるが停滞と感じる部分もある)。ファウストのドラマツルギーと作り手の距離感をもっと知りたく思ったが、題材へのこだわり、情熱を信じるに足る内容ではあった。演出の造形欲求を満たし、俳優の身体を解放する「場」としてのファウストなのか(間借り)、譬えて言うなら永住を前提のレジデンスで取り組む過程に俳優が参与するという関係か。テキスト重視のタイプ(後者)と見えたので、分からなさも含めて受け止めようと言う気になったという訳である。次の一歩を気長に待ってみたい。

ネタバレBOX

余談であるが、客席から見上げる三階部分を演技エリアにした光景は、日暮里のd倉庫を思い出させた。この春になんと閉鎖されたという。
悪くない劇場だったが、どうにかならないのか。コロナ関連の補助はないのか。
現代劇作家シリーズ、ダンスフェス、俳小の舞台、アンサンブルもあった。・・特に俳小の「群盗」はこの劇場が生んだ秀でた舞台だった。
ハヴ・ア・ナイス・ホリデー

ハヴ・ア・ナイス・ホリデー

第27班

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/07/07 (木) ~ 2022/07/18 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

音楽自身が生む高揚を劇に包摂する舞台を作るユニット、と認識しているが、今回は演奏が一人、プラスαの趣向で、そこ一点突破な劇構造だったな、と一日置いた後思えて来た。そう考えて漸く、私にとっての「第27斑らしい」範疇に戻って来た。つまりは実際の舞台はその狙い通りには必ずしも行かなかった、という結論になるが...致し方ない。。
架空の設定の特区での若者たちの群像が描かれ、擬人化された存在も登場するが、「SFは設定が命」と最近よく思う通りで今作も些か詰めが甘い。話の舞台は不老薬が配られる「未来の村」という特区での設定で、畦道が伸びるだけの過疎地に人を呼び込む政策意図がありそうなのだが、薬は有料であるとか、だから仕事を(自力で)見つけなきゃならないとか、幾分無理が(説明し切れてなさが)ある。だが、移住してきた若者たち(背景はほぼ説明されない)にとってのアジール的空間がそこはかと立ちのぼりそうなのが良く、ブラッシュアップされた舞台をまた観たい世界であった。

ネタバレBOX

音楽的な高揚をそのまま劇的高揚とするのはミュージカルであるが、これは大がかりである。第27班のはそれとも違う音楽と劇の絡みがある。劇伴的に挿入する場合でも生であるだけに迫力があるが、所謂「劇伴を生でやる」定型とは異なる。真髄は音楽演奏が劇に生でピンポイントにハマる、これが快感である。今回はギター一本の弾き語りを村のラジオ放送局(空き家)を乗っ取って自分の曲を演奏し始めた移住者がやるのだが、音楽が作る本作のクライマックス場面は、同じく移住者である主人公が昔取った杵柄、ダンス、タップを訪れた放送局でDJに披露し、ギターとコラボをする、ここである。クライマックスを作れてはいなかったが・・。
本命がタップでその後にダンスもさらっとやるが、ダンスはやれてもタップは厳しかった。ダンスは音楽とのブレがあっても自由さが強調され、成立するが、タップはそうは行かない。身体の動きをオンタイムでコントロールする、という点では楽器の演奏の方が近い。しかも楽器は通常狙う場所までが近いのでスッと移動でき、狙う音が出せる。タップは右足か左足を体を支えるために用いつつ、音を出すために一度ジャンプしてその着地の瞬間にオンタイムで打音を出さねばならない。重力に任せる時間が生じるのだ。コントロールは(楽器のように)音を出す直前にその場所にスッと移動すれば良いのと違い、ジャンプする瞬間の力加減のコントロールが必要になる。言えばそういう事である。猛特訓をして漸く、劇的クライマックスを演出するレベルに到達するくらいのものではないか。
その結果、訓練したものを披露する、という舞台から現実に引き戻される時間が生じてしまう。
というのも、「昔やった」のなら、実際にやってる音がリズムからズレて来た時には「あ~」とか「あちゃ」とか、「うわ~ダメや」等の発語が思わず出ないのは、不自然なのである。「うまくやった体で」芝居を続ける(観てもらう)ことは、他の事ならともかく、第27班の音楽には難しい。音楽的高揚、音楽そのもののもたらす感動がそこに生まれなければ、それは第27班の芝居ではない。着想は良かったが、着想が狙っただろう形を、観ながら想像できたわけではない。
三好十郎の『殺意』

三好十郎の『殺意』

演劇企画集団THE・ガジラ

APOCシアター(東京都)

2022/07/01 (金) ~ 2022/07/09 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鐘下辰男の洗礼を受けた若者らが舞台で咆哮する。桜美林の学生よりは年嵩だろうが、身体的な限界を攻めてる感じとその限界が見える感じは同じ。ただし学生の方が俊敏だったりする。岩野未知は脇役で補佐に留まっていたが、激情と淡調の振り幅、罵声の中にも繊細さを滲ませる岩野レベルの演技者をつい想定して、若い演者たちの「届かなさ」を想像で埋めている自分。この脳内作業を凌駕して刃を突きつけて来る瞬間を待ったが、必死に、誠実に、堂々と演じる若者たちの姿を認めつつも、鐘下舞台とあれば期待してしまう「打ちのめされる瞬間」には至らずだった。演技の問題か、戯曲(台本)演出の問題か自分の鑑賞眼の問題かは不分明。
以前の鐘下ワークショップ発表から一段上を目指した「SAT」ならば(料金もまあ普通であるし)差引いて観る必要もないのだろうが、SATの文字を見落としていて若手役者が登場すると「そうだ若手公演だった」と、仕切り直して観ている。さらに、これが「ワークショップ発表」だったとすれば、やはり見方が変り、「にしては」の枕が付いて「凄え」となったりする。料金と中身が皆直結してる訳ではないが、されど価格。観客とは現金なものと思う。

複数役に書き直した台本は原作に忠実なようだが(鐘下氏の加筆に思える台詞もあったが)、現代に重ねられている事はそこはかとなく伝わる。

当日配付の鐘下氏の文章を読んでみる。
今を生きる日本人、とりわけコロナ後の姿が語られている。戦後日本人の姿を告発的・暴露的に描いた三好十郎という作家は、本作でも戦前から戦後に橋を渡してその歩みをストリッパーに一人語りさせ、あるインテリゲンチャの変節スキャンダルを暴露させる。
鐘下台本は「語られる」人々に身体を与え、群像劇の様相となる。
だが、観ながら感じたのは、一人語りなら語られる人々は完全な主観を反映し、どう受け取るかを観客に委ねる。言葉が大きな比重を持つわけだが、これが役者の身体を借りて登場すると、語り手の統御を離れて存在してしまう。すると、様々な解釈が可能となる。これを言っては実も蓋もないが、この違いを埋めるのは大事である。「三好十郎の『殺意』より」と題した理由も納得する次第だ。
原作を「想像」し思いを馳せる。彼女が目撃し体験した事は、今この世の中を見る眼差しに深く反映している。左翼言論人の「現在」の素行の描写には、当時権威を持っただろう者たちへの私怨を感じなくもないが、彼らが語る「論」の虚しさが三好氏にその想像をさせたとも。
ただ鐘下氏は知識人の転向を描いたものとしてこの作品を規定するのは「矮小化」であると言う。
今現在の日本人は、昔読んだ萩尾望都の漫画『百億の昼と千億の夜』の「A級市民」に似ている・・このA級市民の説明はないが、想像を膨らませる事はできる。
鐘下氏の感覚に寄り添えば、戯曲の最初にストリッパーが冒頭で言う「世の中は広うございます」の「広さ」を、本当の広さとして感知できているかに疑問を呈する。この「広さ」を忘れて自分たちは「生きている」と錯覚している姿こそ、A級市民的だと言う。
例えばネットやニュースで見るウクライナ状勢に、広い世の中を実感するのも矮小化の一つであり、実感した気でいる錯覚がA級市民的である、と言う。
この一文には「言い切れてなさ」を感じる。また少し考えてみる。

JACROW#28『鶏口牛後(けいこうぎゅうご)』

JACROW#28『鶏口牛後(けいこうぎゅうご)』

JACROW

座・高円寺1(東京都)

2022/06/23 (木) ~ 2022/06/30 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

とあるアパレル系会社の中堅女性社員を主人公にすえた、一風変わった趣向の企業モノ。山東商会に勤める雨宮(川田希)は次のトレンドを見据えた新しいファッションを生み出すプロジェクトを半年間率いて今、部長(谷仲恵輔)、課長(佐藤貴也)、素材製造会社の担当者・武部(菅野貴夫)の前で若い部下たちと共にプレゼンをしている。
ファッションショー風な演出で、目を楽しませた開幕の後、照明が「会社」の現実に引き戻す。
拍手をして労う課長。労いつつも鋭く批判する部長。結果は不採用。だが審査側の3人が部屋を出ると、部長は強面を崩して自分が手掛けたブランドの新バージョンとしてアイデアを反映しようと無邪気に提案をする。
雨宮らの新ブランド<つなぐ>とは、環境問題をトレンドに押し出し、リサイクル素材(再生ビニール)100%のカジュアルを客単価17,000円で提示。
一方部長が手掛ける<エコ×××>は単価10,000円。これに再生素材を「幾らか」混ぜて13,000円で売り出す事となった。元のプロジェクトはこのチームにそのまま移行し、雨宮はチーフを任命される。一応は飲んだが、しこりは残っている。
素材会社と試行を重ね、単価13000円で可能なのは再生素材25%まで、との結果が出た。「これで環境に配慮した服だと言えるのか」と、雨宮の疑問は勢い高まる・・。

この舞台の趣向はパンフに解説があった。即ち、ベースとなる話の後、主人公の選択によって二つの異なる話「牛後」「鶏口」の両バージョンが展開するという。で、上記までがベースとなる話だ。「牛後」はその後、雨宮が会社にとどまって努力するケース。もう一つの「鶏口」は再生素材100%の商品を販売する新会社を設立するケース。

実を言えば、「混乱もあり得るので書いた」というパンフの解説を読まなかった私は、混乱のまま劇場を去った。二つの物語ではなく、「巻き戻し」の技を使いながら一つの話を描いた、と見たのであった。・・雨宮は会社に残って我慢の末、融資を取り付けた取引銀行の担当からあるベンチャー素材会社を紹介される。「良い出会いがありますように」と、舞台装置の中央に開いた神々しく光の溢れ出る扉の中へゆっくりと入って行く雨宮。このバージョンは「牛後」。2バージョンある、と観客に判らせるヒントは、雨宮のプライベートのシーンにある。タロット占いがその小道具である。
三姉妹の長女である雨宮には二人の妹がおり、一人は既婚、一人は婚約者(雨宮の部下でもある)がいる。
早くに母を亡くした三人が身を寄せるのは、育ての叔母と雨宮が住む家。下手側の装置の高台には広いリビングか屋上があり、ざっくばらんな会話が交わされるが、姉の現状を知った三女が、叔母の得意なタロット占いを勧めるのである。
同じアパレル業界の大手に勤める三女は、飽き足らない現状の反動からか、姉が会社から受けた扱いに不満を持ち、独立を勧める。これに対し堅実さを求める次女は三女を叱り、自分らの生い立ちを思い出させようとする。父は酒に溺れて死んで行った。大きな会社・組織に就職する事が何よりだ、とは叔母の口癖でもある。次女は不動産会社に勤める夫が時折、ネットの仮想通貨にハマっているのを見咎めつつ、「家計には手を付けないで」とだけ釘を刺して我慢している。これが後に離婚話の火種になるが、妻が「勝負」を嫌うのに対しこの夫は「勝負の無い人生って何だ」と真逆の考えを持つ。彼が雨宮に表参道の物件を勧めていた理由は、自分の業績になる事以上に、心底良い物件だから志の高い人間に使って欲しい思いがある。こうして私生活の中でも「安定か冒険か」、牛後か鶏口かの葛藤がある。
「鶏口牛後」とは本来は「大きな組織の末端にいるより小さくともそのトップになれ」と言った意味のようだが、この作品では前半の「牛後」を「大きな会社の中で自分のあるべき姿を見つけよ」といった意味とし、後半の「鶏口」は本来の意味としている。

さて暗転の後、実はもう一つのストーリーが始まっているのだが、私は雨宮の開業が前半の「続き」だと見たわけだった。その前にタロット占いの「結果発表」(カードにスポットが当たり、天からの声が聞こえる)の二度目が挟まるのだが、眠気もあったのだろう、大した意味とは捉えず、スルーした。
後半の鶏口バージョンでは、表参道の店は好調。新ブランドのコンセプトは注目され、雑誌にも取り上げられ、ネット上での発注数も上っている。が、歯車が軋み始めるのは、山東商会の部長が雨宮の「つなぐ」ブランドの先行きを過敏に意識していて、好調だと聞くなり妨害に走ってからの事。
ストーリーとしては、この部長の行動は「理がない」にも関わらず、これが功を奏するというのが難点である。もちろん「趣向」であるので、これを楽しむのが主眼ではあるが・・。
雨宮に振りかかった災難は、まず、彼女の思いを最も理解し、起業した後も二人三脚に見える程に意欲に答えていた素材会社リバースの武部が、震災後自分を拾って今の会社を紹介してくれた部長への恩義から、「取引ができない」と言って来た事である。
ただし表面上はリバースが会社の経営状況から「取引先条件」を改定し、「つなぐ」はそれに該当しない事になってしまった、という説明だった。だが物語は二転三転する。取引できるの条件の一つに「全額前払い可能な場合」とあった。直前、(リバースとの順調な取引が前提とはいえ)銀行から「融資」決裁が伝えられていた。従って条件はクリア出来る。山東商会を突如訪れた雨宮と、部長とのやり取りの中でそれは明らかにされ、最後に雨宮は「リバースとの取引が出来る事となった」と告げ、こう付け加える「あなたが介入していなければ」。部長の良心に迫った訳である。
ところが、物語の方はリバースの決定は変わらない。武部からの電話を受け取った雨宮の表情でそれが判る。現実はそのようなものだ、という空気が流れる。

ここは中々承服しがたいものがある。裏取引的な手回しを部長がやるにしても、個人的恩義のある武部にしか圧力はかけられないだろう。山東がリバースの発注元として力を利用するにしても、ある会社とは取引するな、といった要求は正面切ってはできまい。そもそもリバース側に素材を「売る」相手を限定する意味など殆どなく、あるとすれば踏み倒しのリスク(それは今回のケースには当たらない)、あるいは一度設定した単価が見直し対象になるといった事はあるだろうが、それなら再交渉という選択肢がある。このしこりが、その後の展開に響く。

「牛後」バージョンの終盤に新たな素材会社を雨宮に紹介した同じ銀行員が、小道具も共通にしたのだろう、表が青の「事業計画」を手に、「(融資決裁の結果を伝えて)雨宮さんの事業計画が素晴らしかったからですよ(毎度の定型句)」と言い、「相手さんも褒めていました」と、新たな提携先を示唆する。ところが、その会社は実は山東商会であった。
これも銀行員の台詞のリフレインだが、「Aは資金と販路はあるが、アイデアと技術がない、Bはアイデアと技術はあるが資金と販路がない。AとBを繋ぎ、結果ウィンウィンウィンをもたらすのがわが社のモットー、倍返しです」(ウィンが3つなのは一つがわが社の意)。

まとめれば、牛後バージョンでは、社内で素材含有率の頭打ちを乗り越えようとする雨宮にベンチャーの存在が現われ、その出会いに期待、という所で終了。
鶏口バージョンでは、理にかなった起業が私怨を抱いた元部長の横槍で敗北、相手会社にも大きなしこりを残し、結局元鞘に戻る(これをポジティブシンキングで明るく前向きに言う)。つまり銀行員の台詞は単なるおだてであり、実態は「敗北」。しかも敗北の原因を作った会社に「出戻る」という無惨な結末なわけである。(それを決定づけるのは、最後に雨宮が自己紹介する台詞「はじめまして、山東商会の、雨宮です」。芝居はなぜか爽やかに終わる。
雨宮はポジティブ思考で、「なぜ今まで気づかなかったのか」と、提携の選択肢を口にするが、「牛後」では元々のアイデアを蹴り、それを単独で実現しようとした試みを邪魔した山東商会が、なぜ今更、雨宮の案を飲もうと言うのか、この山東側の「変化」が判らない。
もっと分からないのは、「牛後」で銀行員が紹介したベンチャー(素材開発)が、なぜ「鶏口」では出て来ないのかだ。
「元鞘に戻る」は演劇的な構図ではあるが、後味は悪い。舞台は我々が「現実を苦々しくも受け止める」手助けではなく、苦々しい現実に傷つかずに済むようオブラートに包む方法を伝授しているかのようである。
痛々しい女性の姿に、「そこは突っ込まないでいて上げよう」と、誘導されてしまうがそれでいいのか、という感覚が脳ミソの端っこに残る。それをほじくり返してみた。
対立と葛藤、和解の可能性といった、溜飲を下げる場面が作品の質を押し上げているが、ストーリー自体には不服が残る。

小林秀雄先生来る

小林秀雄先生来る

ハルベリーオフィス

駅前劇場(東京都)

2022/07/01 (金) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

壱組印が2003年に初演、2008年に再演した演目で、当時の舞台に出演していた藤﨑卓也氏が企画し念願を叶えた舞台という事らしい。壱組印で大谷亮介が演じたカッコ付き「小林秀雄」を、藤﨑卓也氏が演じる。この作品の勘所は禁ネタバレであるが、よく書けている。作者の原田宗典の娘が、原田マハだったのネ(関係ないが)。

ネタバレBOX

青森のど田舎でブンガクを志す若者たちがこなれた方言で夢を語り、同じ女を巡って悶着を起こす。彼らにとってはどちらも崇高で切実な「夢」に属するらしい。素朴で単純な心の形が、観客の感性の地ならしをする。この心の地面に、言葉が滴り、沁みて行く。
正義の人びと

正義の人びと

オフィス再生

六本木ストライプスペース(東京都)

2022/07/02 (土) ~ 2022/07/05 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「正義の人びと」6度目の上演という。Corichの過去公演ページの2公演を見ると役者数が少しずつ減り、今回は戯曲上の役は5名(他一名は作者の役)、上演時間も1時間45分で、大胆にテキレジを入れていると思しい(俳優座での上演と比較してもだいぶ削られている)。

演出が印象的だ。地下の一室の会場は、中央に地上階から階段がくの字に下り、奥側に大きく死角があるが、タイプ机が置かれ、作者カミュらしい男がタイプを打ったり佇んだりしている。役者も役人物として奥か上手ドアから出入りする以外は、ゆっくり移動したり佇んだりする。奥からの光が中央の「オブジェ」によって幻想的に動き、ドラマを胚胎す場所(あるいは歴史、あるいは人間の想念)であるかのように揺らめく。

物語は帝政ロシア時代の末期、大公暗殺に至るテログループの群像劇であるが、「正義」とその「実行」(暗殺)との乖離に揺らぐ人間心理が活写される。女優5名の内4名は男の役をやり、これが殆ど違和感も不足感もなく、非情な任務を自らに課する事となった緊迫感が、それぞれの個性において表現されていた。
ストレートな俳優座の上演より、戯曲の中心軸をとらえ、回した独楽の如く整然として切れ味がある。

ただ、暗殺を遂げ囚われの身となったカリャーエフの元に届いた大公夫人(未亡人)からの手紙が読まれるくだり、何処か冗長な感じがしたのだが、今言葉にしてみると・・
それまでの「内向き」の言葉の世界を表すに相応しい劇場環境と演出が、この時初めて、「外からの」声によって心がかき乱される、その瞬間として何等かの変化を見たかった所、「声」は相変わらず内なる心の問いのように響いている(演出的な工夫として、散在していた縦長の板(実は鏡だった)が彼を囲い込み、罪責感と向き合わせられるといった意味を付与していた)。
その声は、カリャーエフが元来持つ繊細で豊かな感性が、自らの良心から発する言葉とも思えるので、外界の、つまり実在の他者が物理的存在として現前した感じがしない、という憾みだ。
(そこが星5にはもう一歩、と思わせた要因のようである。)

しかし繰り返しになるが、愛を信じる故に悩むカリャーエフ(岩澤繭)、その恋人で爆弾製作を担うドーラ(あべあゆみ)、メンバーの扱いに長け理解力を示しつつグループの規律を重んじるアネンコフ(磯崎いなほ)、絶望と心中するかのように復讐の徒として暗殺計画を遂げようとしているステパン(加藤翠)、最初の計画で実行部隊となり、失敗によって心が折れた若いヴォワノフ(嶋木美羽)と、その演じ分け(役人物の内面化)には深く感じ入った。
最後は奥で作者を演じていた長堀博士氏(立ち姿を初めて見た)がつかつかと前に出、一人挨拶して終演を告げたのも、そぐわしかった。

ネタバレBOX

演出の高木氏の肩書「照準機関」は何時だったか目にした記憶があるが、職務的には「演出」の事をそう表現しているようである。同ユニットは2010年代に年2~3公演(3日間5ステージ)をコンスタントに打っているが自分は知らなかった。
見沢知廉の文章を取り上げていたりトークゲストに鈴木邦男氏の名があったり、取り上げる題材、関心対象が特徴的、「闘う人」の中でも独特な立ち位置がある。「正義とは何か」、そして孤高の存在。「正義の人びと」の舞台を手掛かりに問題関心の奈辺にあるかが推察できそうではある。正義を追求すれば先鋭化し、過激化しかねない。それにより(支配構造の中に生きる)大多数の人々の感覚から離れて行く。だが、だからと言ってそれが「正義でない」事になるのか。芝居を観る者と芝居の中で行動する者との間にあるのは時間差であって、歴史上の現時点での通念が、果して将来歴史を眺める観客の目にさらして「正しい」と言えるのか・・こう問うならその者は孤高への一歩を踏み出している。
サイは投げられた

サイは投げられた

劇団アンパサンド

アトリエヘリコプター(東京都)

2022/06/23 (木) ~ 2022/06/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

女優五名様によるナンセンス不条理おちょくり世相風刺入り脈絡ありそでなさそな愛と希望ほのぼの死屍累々スポコン人情劇である。(分からん物を名付けると長くなる)
五反田団系列、だろうか。新年工場見学会に似た乾いた笑いを誘うが、台詞の端々に現代風俗と皮肉がセンスがよく混じり、心地良い。だがストーリーは迷走気味。他の選択肢もあるがこちらを選んだか(作家は)、と思いながら観る。「こっちでなきゃならんかった」と思えるかどうか(戯曲の完成度のバロメータ)は疑問が残る。ナンセンスだから「何でもあり」ではあるのだが。。鄭亜美に電話で二度もアレやらせていた・・これは定番なのか。
ほりぶんの要素があったな(体を張らせたい意気込みとか)。

ネタバレBOX

落語のオチのようにサイが登場して劇を終わらせたが、「投げる」を必然化する要素はもう一押し欲しかった(途中も)。
人生損したと本人に言わせる驚異的な?(実はたいしたことない?)特技である「投げる」と、「枕投げ」に憧れながら踏み出せず「投げられない」のとは繋がらない。最初の場面に戻る、という事では枕投げに逡巡していた女の子が最後は投げる、の方がオーラス感が出る(オーソドックスだが)。それにはあの女の子が「出来る事」も挙げられてて、「それが出来ても投げられんのかい」と突っ込まれそうなやつで、それと「サイなら投げる」が繋がる、となれば理想。
難点、というか少し引っ掛かる部分。千羽鶴折りの女性(この鶴折りのボケにもスルーでなく何等かの突っ込み、リアクションが欲しいがそれは置いて)が「自分は見てなかったから見たい」には、「皆見てたのに何で」と突っ込みがある事で、わざとやらせようとしている可能性を消せる。そこも良いとして、私が嫌だったのは・・自分だけが見られないのはおかしい、と権利を主張する形で困惑させる攻撃、これはそれまでの彼女のキャラに合わない事もさることながら、物を享受する権利は平等に与えられるべき、という論理は全てのクレーマーの根底に潜む論理でして・・そんな平等なんかねえよ!と蹴散らすのが正しい。批判の対象として敢えてうざく描く、もありだが、芝居で取り上げなくても辟易するくらい見せられてる。逆に「それが普通」な展開として書かれたなら、「それが普通」という感覚、何かが摩耗してやしないだろうか・・と苦言を禁じ得ない。
とにかく台詞を書くセンスが優れ物であるので、期待。
パンドラの鐘

パンドラの鐘

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2022/06/06 (月) ~ 2022/06/28 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昨年初観劇した(内容も初めて知った)戯曲。元は蜷川幸雄が野田氏にオファーしたものだとか(初演1999年)。他の演出家に手渡すべく書かれた戯曲を昨年は熊林弘高氏、今回は杉原邦生氏の演出で観る。真逆である。
熊林演出版は、静けさと透明感があって私は好んだが、今回はほぼ対極に振り切ると知って何故チケットを早々に仕入れたのかと言えば、出演陣、特に葵わかなの名があった故で。
朝ドラ「わろてんか」をネットで全編観終えた後、独特な笑顔で「こなしてる」葵わかなのプロフィールを見て驚いたのが出演時の年齢(20歳そこそこ)。他で目にしなかった名前を芝居のチラシで発見し、その舞台はコロナで流れたが、それで「今度こそ」とギアがかかったようである。純愛物やコメディならまだしも、野田氏の屈折戯曲を彼女がこなせる気が全くしないのに、である。杉原演出舞台も、甚だ失礼ながら「KUNIOハムレット」以来成功作にまみえた記憶がない。「外れだろうな」と期待をしていないのに楽しみに足を運んだという奇妙なケース。

舞台は意外にも、「パンドラ」の正解とは思えない出来(予感どおり)にも関わらず、楽しく観た。約めて言えば杉原邦生演出は「異化」に彩られており、一方戯曲にあるのは、眠っていたリアリズムの怪獣が姿を現わす大詰めのカタルシス(又はカタストロフ)。時系列無茶苦茶でもそれを捻じ伏せる言語力が売りの野田戯曲に対して、熊林演出は正しく、言わばレイヤー幾層も重ねる形で処理していた。軽々と捲ったり戻したりし、最後は一挙にそれを捲って「原爆」という歴史のリアルを見せる。現代と古代が、明確な区別とその侵食の具合が判るように熊林演出は見せ、全体には霞をかけていた。演技陣では古代の女を演じた村岡希美のキャラが立って関係が明確であった。
これに対し杉原演出は古代と現代の区別、それぞれの超課題、二つの関係性等が、演技を通して明確に伝わって来るという具合には行かなかった。演技陣が揃っていながらのこの状況は、少々残念である。ただ、明るい照明の中でハキハキと演じられる芝居は、「台詞を聞かせる」面で誠実さはある。熊林版では「雰囲気」で聞き流していたらしい台詞が聞こえて来たりもした。その事により、古代と現代の関係の(戯曲の)破綻具合も浮き彫りになるが、ボルテージが高まる終盤の高揚は否定しがたい。
感動の演出であるが、しかし原子爆弾の秘密が埋め込まれた古代王国の鐘を、敵方から守り切れず長崎の町を壊滅させてしまったと、現代(この芝居では現代=戦時中)の男が嘆き、それと古代の男とが「共鳴」するのであるが、因果関係を超えた殆ど「詩」の世界が、杉原演出では即物的というか「字義通りでございます」となる。
杉原氏の天然さ加減(そう仮定してみると合点が行く所も)は持ち味であり、欠点を補って余りある面もありそうではある。
さて我らが葵わかな女史は、声の良さが必死さ一辺倒の演技を補い丸みを持たせ、(杉原氏に通じるかもだが)天然ぽさが(人物造形とは関係ないところで)華を与えている感もなくはない。大型俳優が並ぶカーテンコールは壮観ではあるが、もっと「役」の存在として見えたかった。

ネタバレBOX

長崎に落とされた「原爆」という事物が芝居の終局で裸のまま提示される(それまでの台詞が全てそれを覆い隠すためのシーツであったかのよう)、という構図は、「フェイクスピア」の最後のシーンに通じる(野田戯曲の基本構図なのかも)。そのシーン即ち日航機の墜落までの時間を一塊のコロスらが演じた形が、今回の原爆のシーン(こちらは短いが)に用いられていた。元ネタが想起されたためか、コロス様式そのものの持つ効果か・・真実性を垣間見た人間の目を多くの観客がしていた事だろう。日常ではかなり目は曇らされており、晴れる時は稀だ。「真実」とはかけ離れた日々を送っている証左。だからこそ芸術を、真実なる知を、求めるのであるが、、近年感じている事の一つが、選挙前はえらく目が曇らされている気がする。
今「問題」があるからこそ人は投票行動で問題解決を誰に委ねたいか(どの考え方での解決を望むか)を意思表示するのであるが、今現在何が重要な問題として挙げられるか、テレビ媒体が親切に取り上げる事は(アリバイ的に「特集」をやる以外は)ほぼ無し。つまり「問題」は無い、が基本的なトーンだ。あるとすれば、今回で言えば防衛が危ういから軍備を増やす、位か。だが何が「問題」だから軍事力が必要か、の理由が希薄。「軍備増強」を打ち出し、これを否定する明確な論拠がなければやって当然、となる。軍備を増やせば予算割で他の支出を圧迫し、声を上げる余裕もなく単純明快なスローガンに飛びつきやすい貧困層を再生産する路線がまた踏襲される(それが政権に利する事は説明するまでもない)。

今の日本で演劇表現が生き続けている事は、一定の民度を保ち凋落を食い止めているとかねてより思っているが、健全(というより普通の)思考の源がまずテレビのコメンテータやMCの交代という形で断たれ、ネットではある言説まるごと「赤」「反日」に括って排除する仕組みも浸透し、いずれ演劇がそのままカテゴリーとして「囲われる」日もいつか来ると未来予想している。小説等の分野では作家個人が(学術会議問題で個人が標的になったように)吊し上げ。カテゴリーの囲い込みと言えば「人文系」への軽視が徐々に広まっているし。
演劇は「一部の不逞勢力が」という匂わせ付でカテゴリーごと批判対象とされ、元凶探しの動きが出、分断が成功する(許される演劇と許されない演劇)。発信する者はかつてと異なり、それで「飯を食う」方法の模索が優先されているので、いずれは足下を見られる。踏ん張れるのかな。。
ジョージ・オーウェル〜沈黙の声〜

ジョージ・オーウェル〜沈黙の声〜

劇団印象-indian elephant-

駅前劇場(東京都)

2022/06/08 (水) ~ 2022/06/12 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

「ケストナー」「藤田嗣治」に続き今作も映像での鑑賞となった。
前作より構造がシンプルで、この著名な小説家・エッセイスト・ジャーナリストの「内側」を覗けた。二つの軸があり、一つはインドとの関わり、一つは彼が影響を受けた、マーレー・コンスタンティンと名乗る作家(これは作者の創作だろうか)。男性と思わせて実は女性であったこの作家は、ナチスが世界を征服した近未来を描いた処女作で文壇に衝撃をもたらした(オーウェルの「一九八四」を連想させる)としているが、作者は彼女をオーウェルの前に姿を現わし、女性が己自身を名乗って生きる困難さを語らせ、問いを投げかける。同時にオーウェルもその当事者となる「闘い」の同志とも見える。
インドとの関わりは、イギリス政府がインドにおけるナチスの暗躍=ラジオ放送を使った反政府(反植民地)気分の醸成に対抗し、ラジオ放送の作家としてオーウェルを招いた事で具体的な形をとるが、ラジオ局にはイギリス在住のインド人もおり、戦局や情勢によって彼らとの関係も変容する。インド生まれのオーウェルは植民地経営を担った父親がおり、彼らにとってはイギリス人・政府を代弁する立場に見える。時代は反ファシズムの機運、インドでもガンジーらが独立運動により意思を表明している中、「戦争が終れば英国政府はインドを解放する」という前提が共有されているが、何が本当かは分からない。
大日本帝国の台頭も彼らの視野に入って来る。インドの独立派の中には日本をアジア解放の旗手として歓迎する動きがあった(既に対米開戦、マレーシア・インドネシアを落としている)。だが、英国内だけでなくインド本国でも英語を「強要」されている状況に疑問を呈する「反植民地主義」を採るラジオ局内の友人も、日本のアジア進出を歓迎する動きを始めようとしていたが、もう一人の友人である女性が、朝鮮半島の植民地化を例に「解放どころか、自分らの言語と名前を朝鮮人に強要している」実態を告げ、相手を苦悩させる。

口角泡を飛ばす演技が、舞台にメリハリを付けているが、中津留作品に通じる議論劇の要素は、外国を舞台にしたフィクションである事で馴染んでいる感じも受ける。

下谷万年町物語

下谷万年町物語

新宿梁山泊

花園神社(東京都)

2022/05/12 (木) ~ 2022/06/25 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

本作初観劇。誤解を恐れず言えばストーリーは何でも良い。瞬間の煌きが唐十郎@梁山泊の真骨頂。
六平直政の古巣での出演は30年振りなのだとか。パンフに熱っぽく書かれていた六平氏の文字は、劇団を出て羽ばたき続けてきた自分の視界に、雲間から顔を出す劇団の姿を見出したという趣旨を述べていた(高みから下りてきたのではない、という意味を込めたかったのだろう)。彼は三幕にようやく「お市」という風俗(おかま)の元締めとして女装で登場し、長口上を言うのだが、不思議な感覚であった。爆弾キャラでハチャメチャに掻き回す光景を想像していたが、意外に折り目正しく繊細である。
一方の見どころな役は、ヤクザな界隈の手練れ共の手を逃れて健気に生き抜こうとする元娼婦(蜂谷眞未)と若者二人(中嶋海央・二条正士)の三人組(唐組で観た「黄金バット」にもあった“3”のチーム感がいい)。ヒロインの蜂谷は「娼婦・奈津子」で度肝を抜く存在感を見せたが、通じる役で今回も圧倒した(見事というしかない)。常連の大鶴氏、松田氏他の面々、また紅日女史が五人の女性コロスの一人に収まっているという贅沢な陣容。役者一人一人、隅々までポテンシャルが高く、もしやこれも六平効果か...? とふと思った。

夏芙蓉/ふぶきのあした

夏芙蓉/ふぶきのあした

くじら座なごや

スタジオ空洞(東京都)

2022/06/17 (金) ~ 2022/06/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

劇団名の由来にひどく納得したので観たくなった。60分以内という制約がある高校演劇だが、高校演劇「臭さ」を感じず新鮮に観た。「学園物」だが普遍性がある。二作品の最初は5人、後のは大勢。人物のキャラ分け、演者の演じ分けは明瞭できめ細か、目が醒める。
「ふぶきのあした」の女生徒(ふぶき)は見覚えあり、確かMyrtleArtsの第Q藝術公演にて私が「涙を抑えて欲しかった」と書いたお人であったが、今回も見せた涙は芝居にそぐわしかった。

絶対に怒ってはいけない!?

絶対に怒ってはいけない!?

劇団チャリT企画

駅前劇場(東京都)

2022/05/18 (水) ~ 2022/05/22 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

チャリT企画特有の「テーマ追求型演劇」の匂いがしない公演だった。今作のテーマが「パワハラ」であった事と関係がありそう。「乱暴な態度・言動」なんてものはどこにでもあり、普遍的だ。映画界、また演劇界のパワハラ・セクハラが話題になっているが、時代の過渡期にあって、パワハラを単純な善悪論で解決しようとするのでは、本質的な解決と限りなくズレて行く気がしてならない。
正しさが蔑ろにされた不透明極まりない政界、霞が関をお上に頂きながら、そこだけスッキリと「善悪」が見え、ある者が批判の的になる状況は甚だ怪しい。
この芝居では、やはり劇団を率いるリーダーの態度が、最悪の結果を招く顛末である。だが断罪型の結論をうまくかわしていて、後味は悪くない。

ネタバレBOX

劇団が今度やろうとしている平和のためのリーディング企画の台本について、やり取りする場面が中盤にある。この中で「戦争」をウクライナ戦争にとどめず、米国による侵略以外の何ものでもなかったイラク戦争にも言及した元台本に対し、知名度の高い客演女優が注文を付ける場面だ。このイラク戦争が、「大量破壊兵器は見つからず、あの戦争は誤りだった。日本はこの戦争を支持した(実際自衛隊を派遣した、が誤りだったとは総括していない)」代物である事をしっかり台詞に入れ込むなどはやはりチャリT、抜かりない。
ゴンドラ

ゴンドラ

マチルダアパルトマン

下北沢 スターダスト(東京都)

2022/06/15 (水) ~ 2022/06/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

旧ユニットでは1、2度、新ユニットでは短編を一度観たのみで久々に池亀作のまとまった芝居を観た。丁寧な作りに少し感心。「為にする」要素を感じさせない台詞と自然な演技を楽しんだ。

ネタバレBOX

田舎に引っ込んだ男は父の介護をしており、就職もしていない。時々妹が夕飯を作りに来る。そして彼が関心を寄せるヘルパー。三人はゆっくりと進む時間の中で、徐々に、まるでそこに居る者同士が助け合わねばならない宿命でもあるように・・ゴンドラに乗り合わせた者同士のように・・見えて来る。別の展開へ進んでも良いのだが作者はこの男を見守り、エールを送る。突き放すが見捨てない、といった所か。距離感が良い。
小刻みに戸惑う神様

小刻みに戸惑う神様

SPIRAL MOON

「劇」小劇場(東京都)

2022/06/15 (水) ~ 2022/06/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

開幕と同時に既視感。ジャブジャブサーキットで観たやつじゃん。題名で気づかなかったの?と自問。「いや最近は一度中止になってタイトルだけ知ってる公演多いし」と自答。妙な形の初SPIRALMOON体験になってしまった(と言っても、はせ作品だから観に行った訳でもあって、仕方ないのであるが)。
しかし芝居はジャブジャブ版より緻密な演技・演出で、はせ作品特有の「如何にも伏線/如何にも回収」、いやそこまで求めてないよ的意味深場面や台詞が、この舞台では漂白され、じんわりリアリティさえ醸して来る。(幽霊は別にして)現実にあったら「奇譚」の類が、あり得る話であるかのように収まり、(死者の面影、ではないが)舞台も余韻を残した。

恭しき娼婦

恭しき娼婦

TBS/サンライズプロモーション東京

紀伊國屋ホール(東京都)

2022/06/04 (土) ~ 2022/06/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

衝動買いでチケットを取って観劇したが、体調すぐれず(が原因で)3、4場あたりで寝落ち。フレッド父(町議員)と娼婦リッジーの会話の最後あたりで覚醒した。後の展開から推せば、空白の間にリッジーが「言いくるめられ」、後に良心の呵責に悩む原因となる出来事が発生している。
「どう言いくるめられたのか」が抜けており、終演後も不十分感が残ったので後で戯曲に目を通せば・・
なかなかの中身が詰まっていた。わあわあと台詞が鳴っているのは聞こえていた(言葉の意味が全く入って来ないが)ので、少しの間かと思えば、三場がまるごと抜けていた(二場の途中で眠り、四場の終り頃=長議員の言葉にリッジーが言いくるめられる場面で目覚め、休憩となった)。

という訳で、戯曲から、舞台をある程度再構成して照合してみた。演出が何等かの狙いを定めて舞台を取りまとめた印象はあるが、それが何か。。
古典と言える小編(同作者の「アルトナの幽閉」の半分程度の尺か)の栗山演出舞台の印象は、かなり大雑把に言えば、栗山氏の自発的な仕事というより「請負仕事」、奈緒の持ち味をどう生かして「恭しき娼婦」を成立させるかに腐心したと見受けた。

冒頭、ミュートでつぶしたトランペットが鳴り、時刻不明の外明かりに目覚めたシュミーズ姿のリッジーをけだるく彩る。娼婦リッジーの「生態」に照準が当たるドラマかと思わせる。
が、これ以降「娼婦」が焦点化される事はない。娼婦である事による必然の展開はあるが、彼女が娼婦である事により「何者」であったのかが炙り出されて来るようなドラマではなく、黒人差別が猖獗を極めるある土地の「真実」を伝えるのに娼婦である必要はなく、(戯曲の問題なのか演出の問題なのか)どちらを軸に据えたドラマなのかがくっきりとは伝わって来なかった。

ネタバレBOX

主人公のリッジーは天涯孤独の身で、一日前にこの町の駅に降り立ち、この部屋を契約した。普通ならこの娼婦が新しい町で商売を始める事になったいきさつに関心が向きそうだが、作者は観客の関心をそこに止めず、事態の推移へと振り向けさせる。

冒頭の彼女がけだるさを振り払い、掃除機でガーガーと掃除を始める。そこへ男が訪ねて来る。窮迫した様子で彼女に救いを求める台詞から、彼は「黒人」であるらしい(この時点ではこの作品がサルトルの母国フランスの話だと思っていたので、黒人=アルジェリア人で民族独立に絡む話だと想像してしまった)。
彼は昨夜、列車だか駅で白人女を強姦したという嫌疑で追われる身となった黒人の一人だという。列車に居合わせたのがリッジーであったので、彼の無実を証明してほしい、というのである。
売春婦の身でしかもこれからこの町で暮らそうという矢先の厄介事は御免だと、彼女は断るが、既に絶望的な事態であると彼は嘆き、裁判になったら証言してほしいと泣きつく。リッジーは「分った」と返事をする。ここでの彼女は口先だけでなく彼の言葉に少なからず説得された要素がある。(ちょうど逆の事が、同じ日の後に起きる。)
男が出て行った後、リッジーはシャワールームのドアに「もういいわよ」と声をかける。一夜を過ごした客、フレッドは先の黒人の「事件」と無関係ではない事がその後判る。フレッドは町議(戯曲では上院議員)の息子であり、地元では名士の家柄。従弟が黒人の片割れを酔って銃殺したというのが実は前夜の事件であった。
ここでの伏線は、フレッドが予想外な事にリッジーを気に入ってしまった事。家柄ゆえに女性経験の乏しかった男が、初めての女性に熱を上げるケースにも見えるが、彼はこの町ひいてはアメリカの歴史を担った家系の末裔であり、やがて政界に進む宿命に自負を抱いている。家系を重んじるフレッドは、リッジーが黒人「事件」に関係している事を知っており、それで近づいた訳でもあったが、「心」を奪われた(らしい)事が彼の計算外であったと後の場面で判明する(そのように装っているだけ、と解釈する事も可であり、リッジーの目線ではどちらに解釈しようが結末は同じである)。

私が見逃した三場は、警官が訪れ、黒人を匿うことに釘を刺し、あった暴行を正直に証言せよと迫る。だがそこには「結論ありき」の強引さがある。そこへ姿を現わすのが、先のフレッドの父である。老獪な彼は、「嘘の証言をさせるつもりか」と警官らを牽制し、彼女に「正直に」発言する事を勧める。だがその後、巧みに彼女の態度を変えさせる。彼女の弱点(家族がいないこと)に突け込み、彼の妹すなわち銃殺したフレッドの従弟の母親のはリッジーに感謝し、花束を贈るだろう事、きっとリッジーを家族同然に扱うだろう事を芝居心たっぷりに喋くるのだが、リッジーの脳裏に自分には手の届かなかった「家族」の風景が花咲き、思わず「証言書」にサインをしてしまう。直後、我に返った彼女は町議を呼び止めるが時すでに遅し、というのが「まるめこまれ」の場面であった。

(続きはまた。)
『器』/『薬をもらいにいく薬』

『器』/『薬をもらいにいく薬』

いいへんじ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/06/08 (水) ~ 2022/06/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

一度短編をチラ見した程度で、実質初観劇のユニット。完売のため当日並べる日を選んで「薬」を拝見した。
観客の忍耐力を当て込んだ間合いたっぷりの場面と、絶妙な跳躍とのバランス、状況の全てが判らなくともふいに胸を突く台詞があったりと、好感触であった。全体のバランスという事では冒頭、中程、終幕で流れる「如何にも・らしい」ラジオ番組が良い背景になっていた(声:松浦みる/野木青依)。放送は一方通行で完結しているがだが、ドラマのトーンと微かに近似性があり、ミクロな世界に「世間」という裏打ちを与える。
主要人物を演じた三名は「だんだん見えて来る」人物像を形象し、引き込まれるものがあった(特に「全部見えちゃってる」ハヤマのキャラ)。

ネタバレBOX

ラジオ番組を織り込んだ典型と言える秀作は、自分としては20年前に黒テントが上演した「メザスヒカリノサキニアルモノ、若しくはパラダイス」という松本大洋による書き下し。これに楽曲を提供した荻野清子がラジオパーソナリティを演じ、夢うつつを行き来するような芝居を締め括る。
真似が絶対に出来ない奇跡のような舞台(と自分は思っている)は、ラジオというアイデアに依る所大で、今回の「薬・・」もラジオの貢献を思う。

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