磁界 公演情報 オフィスコットーネ「磁界」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    JACROW中村氏の新作書き下し上演。コットーネとしては小さい頻度で開催される日本の現役劇作家による新作公演であるが、今回はプロデューサー綿貫凛氏追悼公演の趣きであった。コットーネの演劇活動は最後ではなく、故人の志を継いで今後も継続との事である。(良かった)
    舞台は幕が開いた瞬間から劇世界に飲み込まれる。明快すぎる、と言える程の警察組織批判のドラマだ。市民の相談に応じる生活安全部(生安と略される)という不人気な部署をキャリアとして志望し配属された青年。久々に見る西尾友樹氏の立ち回りはこの人物の心の動線をはっきり伝えて来る。
    ある時(冒頭)高額なお金を無心して来た妹を心配して相談に訪れたという女性(及び妹の双子の片割れ)に彼は対応する事となるが、この相談案件の話と並行して、彼が「組織人」となって行く過程が克明に描かれる。
    中村氏作・演出の舞台は最近観始めたばかりで今作は三作目?(配信を含め四作か)、傾向を掴んでいる訳ではないが、今作はTRASHに通じる「テーマ」ありきのタッチが窺える。が、警察内部の(通常は知られない)ディテイルを絡めた作劇は「企業エンタメ」で培われたものか。人物の行動の正当化が難しい部分もあったが乗り切り、警察を題材にした「お役所仕事」の弊害をくっきりと描き出していた。

    ネタバレBOX

    相談は、「事件性のあるもの」に絞り込んで追求する。後は切り捨てる。・・この効率性が、結果的に市民のための警察の役割を最大化する。
    もっともな論理だが、許容範囲が決まっていて「事件性の無さ」ではなく「希薄さ」の程度によって下から切り捨てているとすれば、それは許容量を問題にしていない点で不適切という事になる。
    僅かな予算、人員で頑張っている、という弁明も、必要ならば応援を頼んででも対応すべき、という正論に理屈上は勝てない(はず)。
    この劇で扱う「そこにいない妹」の危険は、「可能性」の範囲を出ず、蓋を開ければただの迷惑な女性が居ただけ、という事になりかねない。→「こんな事で応援頼みやがって」と、評価されてしまう組織風土が実は問題なのだが、こう考えて行くと、結局のところ、「事件性の有無」を最終的に判断するのはベテランの上司であるべきで、「担当」とは言え経験の浅い巡査部長に判断を任せた事は結果から見ても内部的にも「不適切」となりそうである。
    何度も相談に訪れる婦人に対し主人公は苛立ちを覚える。同時に、「もしかしたら」とも思う(それが見てとれる)。だが、妹との電話録音を聞いても妹自身は別に脅されてる訳じゃないと言い、本当にホストクラブで借金こしらえたのでお金が要ると言い張っている。だがこういう態度をする妹じゃない、と女たちは言う。主人公は「ホストに入れ上げてるだけの女」とカテゴライズする。最初の相談は車に傷をつけてしまったから200万円、その次が100万円、今回が飲食代で80万と実は並んでいるので、何かを疑おうとすれば疑える余地はある、が、どれも自分の遊興費をせびってるだけ、と解釈するのは可能。だがここで「可能」というのは、「そう解釈する余地があるのでそうさせてもらう(人と時間がないので)」という裏事情がある。時間と余裕があれば、「悪い方」の想定をして事を構える、そしてそれが筋だ。時間と余裕がない、とは言い訳であり市民に対する説明にはならない(勿論予算配分の問題は国民の問題ではあるが)。
    主人公は、上司に「軽い案件かもしれない」と思うと言えない、という心理が働く。事件だと確信できなければ、そんな事にかかずらう余裕はないと訓示を垂れられると読める。
    だがこの作られた空気に従っただけの判断が、担当者の責任における判断であり、最終的には彼が残した対応の記録にも、事件性を疑う余地がなかったので話を聴いてもらって帰ってもらった、とだけが書かれている。妹が永遠に帰らぬ被害者となった時、この記録が警察の瑕疵を否定する根拠となる。
    だが・・主人公は「どこで間違ったのか」と振り返る。「もしかしたら」と思えたタイミングがあった、というのが彼自身の実感である。心の疼きを晴らすかのように、彼は被害者の姉を訪れ、謝罪をする。この事が重大な問題となる。
    警察で埒が明かず後に相談をしていた弁護士(実は主人公の従兄)が怪訝そうにする。警察が「謝る」とは・・。この事から損害賠償を求める国賠訴訟の遺族の意思に積極的に応えようとする。こうした場面の間、舞台の一方ではゼスチャーで主人公が二対一の指導を受けている。警察が「誤る」等という事があってはならない、それは市民の信頼がなければ協力が得られず、市民の協力なくして警察の任務は遂行されないからだ・・。
    警察は誰にでもわかる「明白な誤り」を犯した場合、謝る事によって信頼を回復する、それが理想である。が、そこが逆転している。「警察は誤りを犯してはならない」が第一義の使命。「だから誤りを犯さなかった事にしなければならない。だから、謝罪をしてはならない。」
    この転倒は社会のあちこちに蔓延っていそうだ(自分の周りも)。結論を導くための根拠が後付けで準備され、実態との間に乖離があっても事実の方を変える、あるいは、事実を解釈する。
    人は空気によって結論を予感し、その結論を待望する(この決定なら誰それが傷つかなそうだとか、誰それの逆鱗に触れなさそうだ、とか、世間の批判が少なそうだといった「周囲を気にして」の決定。だから原則論や合理的判断とは離れている)。
    そしてその結論を正当化する材料を後から探す。うまい材料を見つけたり理屈付けのできる人が、尊敬を集める。空気の全てが誤りという事でもないだろうが(言葉にならなかったものに後から説明が与えられる事もあるだろう)、この慣習が闊歩している限り論理すなわち言葉はいつでも軽視され、超法規的決定も許す土壌を許していると言える。

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    2023/02/13 04:21

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  • ご来場ありがとうございました!

    2023/02/15 00:04

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