ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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その字 美し 麗しの君

その字 美し 麗しの君

天丼

吉祥寺櫂スタジオ(東京都)

2013/03/29 (金) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

タイトルに秘められた意味は最後に明かされる
 犯罪者と罪を犯したか否かの自覚の無い冤罪犯の物語に筋の通った紳士協定が成立、それが最後迄守られた清々しいシナリオと隋所に鏤められた嫌みの無いギャグ。演技も自然で、芝居として“嘘”を真実味に転化し得ている。無駄な装飾を省いた舞台美術も良い。
 役者たちが、一所懸命に芸を追求している姿が好ましい。また、スタッフの対応も非常に感じの良いものであった。

ネタバレBOX

 少年刑務所には、ある噂があった。赤封と呼ばれる封筒が送りつけられた者は島流しに逢うというのだ。無論、誰にも、誰が何の目的で、無作為に誰かを選び、島流しにするのかは分からない。而も、流された先でどんな扱いを受けるのか、先に行かされた者はどうなったのか? 等々分からないことばかりだから、余計不安が募るのだ。今回特別房に集められたのは5人。定員オーバーの東西南北の各棟から一人ずつと少年院から送致された一人である。監守も居なければ作業もない、おまけに一人一台ずつのベッドもある。人数の割に広い等々良い所づくめだ。然し、彼らは1週間の間に、誰かが志願するか、或いは選出されない限り全員島送りになるのである。無論、誰一人、どうなるかも知れない所へなぞ行きたがらない。一方、囚われの身である以上、一人は期限までに送らなければならないのだ。
 致し方なく、5人は、対策を立てる為に会議を開き知恵を絞る。そこで決められた約束事は、事実を膨らませたり嘘を交えず話すこと。秘密を持たないことである。こうして話し合いを進めるうち、一つだけ合理的な答えが出たように思われた。その答えとは、各棟とも定員オーバーの所へ少年院から一人送致されて来たので、もうこれ以上、収容できない。それで、誰か一人を島流しにすれば問題は解決、少なくとも今迄の状態に保てる、というものであった。この答えは、皆に支持された。他にも様々な隠し事が明らかになる。例えば、情報屋が、他人の荷物を漁ることで情報を得ていること、ヤクザがアイドルの追っかけをやったりしていたことなどだ。が、少年院から送致されて来た者は冤罪の可能性が出て来た。彼は放火犯として、状況証拠を基に逮捕されたのだが、その時の記憶が殆ど無い。従って自分がやったのかどうかも定かでは無いのであった。彼は、その日、文通相手の女友達と駅の改札口で会う約束をしていたのだが、会う前に逮捕されてしまった。そして、彼が逮捕された、その日、その時には、大規模な停電事件があったのだった。 1時間ほども停電をし、大きな爆発音がしたので、街に居た者は誰もが3年前のその日を覚えて居た。偶々、ここに居る、他の4人もその日、火事現場近くに居たのであった。ひょっとしたら、彼の無実を証明できるかも知れない。犯罪者たちは協力して無実の可能性に挑んでゆく。
オムニバス読み芝居【パンドラ童話集1】

オムニバス読み芝居【パンドラ童話集1】

表現集団ATP

レンタルスペースさくら・原宿(東京都)

2013/03/29 (金) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★

もう少し鍛錬が必要
 三つの作品のリーディング。“呪われ姫君”“踊る道化師”では、リーダー達の背後に設えられたスクリーンにイマージュが投影される仕組みだ。“紅色遊戯盤”はリーダーのみである。

ネタバレBOX

呪われ姫君
 出生時、国中から集められた12人の魔法使いによって幸福の条件たる、知恵、美貌、魔力、長寿、健康、技能、誰からも愛される運命などを受け取った姫であったが、長ずるに及んで、これらの要素故に、城の高い塔に幽閉されてしまう。余りに言い寄る者が多かった為である。而も、長い間、父王を除いて彼女に会う者は一人の無いと言う有り様。その父も姫の下を訪れなくなると、今度は妃が姫の食事を運ぶようになった。而も妃は姫の食事に毒を盛ったのである。だが、誕生の折りに掛けられた魔法で姫は死ぬこともできない。そのうち、姫を求める男達の数は、王国の軍隊を凌ぐまでになり、クーデターが起こって姫は塔から解放されるが、最初の夫になった小国の王は、寄り大きな国に攻められて破れ、姫を奪われる。その後も、更に大きな国の王が姫を手に入れる為に、姫の居る国を攻め滅ぼしては、姫を手に入れて、姫は、一か所に一月も安住することができなかった。一番、強い国の王の妃となった後も、大泥棒にかどわかされてその妻となり、その後は、勇士に助けられてその妻となるが有為転変は変わらなかった。終に姫は、逃亡を図り、人々が恐れて近付かない森に居を構え、魔法を使って結界を幾重にも張り巡らせた。その結果、人はこの森に入ることはなくなり、平穏な生活を送っていたが、ある時、一人に成年が、姫の結界を軽々と破り、侵入してくる。彼こそ、
12番目の魔法使いであった。
 踊る道化師
既に栄える時期を過ぎ、滅びようとしている世界に笑いを齎す道化兄弟が居た。彼らは世界中を回り、笑顔を人々に呼び戻していたが。ある日芽を覚ました弟が見たものは
紅色遊戯盤
 基本的には、子供と母とのゲームという設定だ。但し、ゲームの中で戦うのは、神と魔女。神の軍団には、天使が居り、魔女の軍団には悪魔が居る。即ち、為政者は誰も傷つかぬどころか、ゲームを楽しんでいるだけなのであり、其処で生き死にする者達は、天使と呼ばれようが、悪魔と呼ばれようが所詮駒に過ぎない。そのことに、抗議する内容になっている。その効果を高める為に、魔女の長男ロゴスは、神の軍団の天使長とされ、母との確執に振り回されるべき存在として描かれる。同時に、末っ子のゼロスは母魔女のお気に入りであり、長男は、この事実を肯じ得ない。心理的葛藤も描かれる。然し、闘いの基本構造が神と悪魔という、一神教にとって最も大きく普遍的なテーマであるだけに、この程度の物語構造では、言いたい事充分に描けない。何となれば、神と魔女・悪魔の戦いが永遠に続く原因は、今作品に言及されていることが原因なのではなく、神が自らの本質的属性、善を証明する為に対立概念としての悪を必須とするからであり、人が神を創造した以上、人に対してそれを証明し続けなければならないからだ。
国家~偽伝、桓武と最澄とその時代~

国家~偽伝、桓武と最澄とその時代~

アロッタファジャイナ

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2013/03/27 (水) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

遷都の彼方に見えるもの
 最澄、桓武の改革を縦軸に、改革に反対する旧勢力との角遂を横軸に、時代の現実と理想実現の困難を描いて見せた。役作りは役者自身の掘り下げ、関係の把握を基本にしており、為り為りて成った形が、舞台上の表現というわけだ。色々な意味で力業である。

ネタバレBOX

 演出の技術レベルに対して、未だ若い役者達の自然な演技を引き出す為には致し方の無い方法であったかと思う。最澄役の遠藤 雄弥、桓武役の河合 龍之介は上手い。高い理想を理解せず、己の利害得失に腐心し俗世の権力に拘泥する墨染の衣を纏った衆生、我執や恩讐の頸木を逃れられず、他者を不幸に巻き込んで行く修道僧、遷都を巡る改革者と旧勢力。力無き民と統べる者。生きる苦難を前に、人は他者を救うことができるか? という難問。この問いに応える為に立ち上がった二人の人物、最澄と桓武。
 為そうとして為し得ぬ理想同様、思惑通りに実現できた部分は少ない。然し、だからこそ、単に国家変革というのみならず、理想実現の為には深い知恵と忍耐、揺るぎの無い志と同志、そして意思を継ぐ人材を生み出す為の時が必要であることを描きだし得たのではないか。その為に作・演出の松枝が取った方法は、芋である。最澄を描く為には、桓武を、桓武を描く為には、旧勢力を、という具合に芋づる式に時代を描いたのだ。その為、最澄と桓武が出会い、生涯の盟友として、互いの真価を認め合うシーンは、圧巻である。然し乍ら、この方法が持つ拡散というベクトルは中盤以降、劇的な収束力を弱める結果にもなった。
 劇的効果という側面に絞って言えば、ホメロスの叙事詩、“イーリアス”のような強烈な個性を中心に据えたままで、最後迄引っ張るか、時代を牽引する何か絶対的なものを最後迄隠しておくようなテクニックが必要であろう。秘すれば花なりだ。或いは、演出で役者の素を出させることと同様に、T.P.O.に応じて自ら持って生まれた自然の性(男なら男、女なら女)を殺すことによって滲みだす男の中の女性性、女の中の男性性というレベルを要求しても良かったのではあるまいか。もとより、生き残りは至難の技というのは、舞台に関わる者総ての認識であろう。高いものを目指さねばならない。それも一時ではなく生涯に亘ってである。
ご飯の時間

ご飯の時間

玉田企画

アトリエ春風舎(東京都)

2013/03/27 (水) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

地方の雰囲気も夫婦の茶の間から見える
 宗次朗役の玉田 真也が上手い。また、宗次朗の兄、圭太郎はだらしないが、自分が飲み食いしたい時に誰か他に人がいれば、必ずその人数分の飲み物などを持ってくるなど憎めない部分も上手に出し、リアリティーを持たせている。場の設定も良く、演技、演出、大道具は、ストーリー展開に過不足なく対応し、宗次朗の妻、佐江子の几帳面な性格と圭太郎のだらしなさとが、小道具の使い方で見事に表現されているなど、小道具も効果的に使われている。無論、場面転換の際の照明の用い方、音響効果についても効果的だ。

ネタバレBOX

 教師をしている宗次郎と妻の家庭に10年間音沙汰の無かった兄が転がり込んできた。母の葬式にも出ず、宗次朗たちの結婚式にも出席しなかった兄である。2~3日と言っていたのが、ずるずる居候し、碌に働きもしない。引っ越しのバイトをした翌日は筋肉痛になるから休み、と自主的に休んでしまう体たらくである。おまけに、鼻をかんでは塵紙を其処らにほっぽり投げて片付けもしない。世話になっているのに、自分の食事代も入れなければ、食器を洗うでも無い。部屋にある漫画や本などを寝そべって読んでいる。冷蔵庫にあるものは勝手に持ち出して来て食べ、容器や食べカスの片付けも一切しない。
 ところで宗次朗の妻佐江子は几帳面で、こんな、義兄、圭太郎のだらしなさが我慢できない。然し、宗次朗は、中々きちんと注意することができない。そうこうしているうちに、圭太郎は、女友達を連れてくる。車を乗り回す。終に事故を起こして車を大破させた。これには流石に宗次朗も堪忍袋の緒を切らし、兄に出てゆくように言い渡す。
 翌日、出て行った兄だが、2カ月後、東京の兄の友人が訪ねて来た。圭太郎が1カ月前から失踪したと言うのである。宗次朗達は、10年、何も音沙汰なしの経験があったので、この点については楽観していたが、友人、唐沢は、圭太郎がかなりの額の借金をしていたのを見付けた、とサラ金などの借用書を見せる。連帯保証人の名には宗次朗の名が書かれていた。
俺がヤギでもその手紙だけは食えない

俺がヤギでもその手紙だけは食えない

GORE GORE GIRLS

王子小劇場(東京都)

2013/03/28 (木) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★

ロック
 自分はロックを自意識の崩壊する音だと捉えてきた。ジミヘンやジャニスなど天才ロッカーが生きていた時代、自分もロックを良く聴き、ライブハウスのスーパースターだった友人のライブに招待されて行っていた。そこで見たものは、ジミヘンやジャニスよろしく、地を這うような生き様に似た、自滅への彷徨だった。即ち、Lを含む麻薬、薬や、シンナーなどでラリっている多くの同世代だった。戦争に駆り立てられて罪も無い者を殺すより自滅する道を選んだ多くの若者、と言えば格好良すぎるだろうが、ベトナム戦争真っ只中、世界中で学生運動が燃え上がり、大人たちの既成社会に対して反抗し乍ら、同時に自らをも傷つけずには居られなかった世代から見ると、”オヤジ”という下らないレッテル貼りに一喜一憂するこの作品の登場人物は、浅く感じられる。

【ご観劇ありがとうございました!】うわさの家族

【ご観劇ありがとうございました!】うわさの家族

enji

OFF OFFシアター(東京都)

2013/03/27 (水) ~ 2013/04/02 (火)公演終了

満足度★★★★

面白い
 よく練られたシナリオだ。導入部、暗転の最中に音声のスピードを徐々に上げておかしさを演出した音響、照明などの効果も良い。大道具も良く作ってある。役者の演技もややアップテンポで、物語の性格に合っている。推理の要素が入っているので飽きさせない。トリックスターのように箍を外しにくる変なおばさん、門田の登場で上手く隙間が出来ていて、必要以上に深刻にならないように計算されている。また、舞台セットが正面奥の額縁舞台、もう一つが、手前の通常舞台の二重構造になっており、この二重構造を利用して、額縁舞台の方には、TV番組が映るのだが、番組のコンテンツ総てを実際の役者が演じており、手前の通常舞台で演じられることと、TV番組の内容がリンクしたりしていることもあって、推理仕立てのこの作品の、犯罪の内容説明や事件示唆などが自然に感じられる。おまけに、3次元用の眼鏡を掛けるとTVの登場人物達が、通常の舞台に飛び出してくる。

ネタバレBOX

 鈴木家の息子は、少女誘拐殺人事件の犯人かも知れない。息子が、友人宅に泊まると嘘をついていたこと、被害者の映った写真や、死体遺棄現場地図、犯行に使われたと考えられる凶器の形状をした血染めの鑿や衣類が息子の部屋から見付かるなど、情況証拠は、どんどん出てくる。それは、息子が犯人であると示唆するものばかりだ。やっと見付けた無実の証明、15歳の息子は免許を取れないし、バイクを見たことも無い。ということにも幾つもの反証が上がる。おまけに姉と結婚している警察官、岩瀬と岩瀬家の息子迄、訪ねて来た。警察官は、仕事柄、玄関にある鈴木家の息子の靴までチェックしている。少女誘拐殺人事件犯人の履いている靴と同じだ、と言うのだ。途中、物語が、如何に展開するかは、観てのお楽しみだが、最後迄、犯人と疑われる息子が登場しない点も、スリリングであり、登場の際、大きなマスクをしているのも不気味で良い。ラストでは、舞台の二重構造が活きる。


一方向

一方向

OM-2

日暮里サニーホール(東京都)

2013/03/23 (土) ~ 2013/03/24 (日)公演終了

満足度★★★

詰めが甘い
 同心円状に描かれた文様と裸舞台を見て、パフォーマンスに近い公演になることは容易に推測がついた。
 

ネタバレBOX

 が、バミの同心円を使ってするパフォーマンスでは、長いコードの先に電球をつけて振り回したりするので、観客席にも緊張感があった。
 一応、パートに分かれているので、それを構成と見れば、構成になっている。但し、それぞれが有機的に関連しているわけではない。
 第一パートのパフォーマンスで、パフォーマーが床を踏み鳴らすシーンがあったが、パーカッションが同期していなかった。外すのであれば、絶妙のセンスを持ったパーカッショニストに演奏させるか、もっと緻密な計算の上でずらして欲しい。今回は唯、拍子抜けするだけであった。
 また、Q&Aで客席に座った女優が舞台に入るシーンがあったが、質問を発した時点で先がミエミエでは芸が無い。
 一方向というタイトルでそれに拘った科白もありながら、舞台構造がそうなっていないのは、如何にも不自然。
 2番目のパートで、ホロコースト被害者にロマ族が挙げられていなかったのも片手落ちであろう。
 最後のパートでは、俳優が出捌け口に向かって科白を言っている場面があったが、全周に観客がいるのだから、科白を無化する演出的意図が無い限り、ああいったべシャリはまずかろう。
 全体として詰めが甘い。個々のパフォーマーの身体鍛錬レベルでは高い者もいるのだが、もう少し、緻密な演出を、デカルト流身体論では無いレベルで構築して欲しいのだ。
『熱狂』『あの記憶の記録』ご来場ありがとうございました!次回は9月!

『熱狂』『あの記憶の記録』ご来場ありがとうございました!次回は9月!

劇団チョコレートケーキ

サンモールスタジオ(東京都)

2013/03/23 (土) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

熱狂する者を見ているとシラケル
 ワイマール憲法が骨抜きにされた過程、ナチス内内部の権力闘争とヒトラー個人の資質、翼賛体制になってしまった後の容易ならざる不可逆性など、考えさせられる要素も多かった。また、第一次世界大戦以後、過大な賠償金を課されたドイツのハイパーインフレと庶民の成果苦の中で、ヒトラー演説の持った力の大きさは、恐らく我々の想像を遥かに超えるものであっただろうことも考慮する必要があるだろうが、ヒトラーの方法は、誰も見通せない未来にナチスの在るべき姿を描き、それを根拠に論を展開したことにあるように思われる。そういう意味では、計画経済を立て、それを実行してゆくことが最も合理的だと考えた社会主義国の発想と本質的に近い。そんなことを発見できたことも収穫であった。  


ネタバレBOX

 ヒトラーのしぐさなども随分研究したとか。ハイルヒトラーなどの敬礼も最初は気恥ずかしいのに、練習を続けてゆくと気持ちよくなってくるという話を聞くと、やはり気味が悪い。
『恋人たちの短い夜』

『恋人たちの短い夜』

東京ロックンパラダイス

シアターブラッツ(東京都)

2013/03/22 (金) ~ 2013/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★

抜群のシナリオ
 これぞ、会話の醍醐味と、思わず言わしめるほど素晴らしいシナリオ。これを息のあった役者2人が好演する。その呼吸は、観てのお愉しみだ。

負傷者16人

負傷者16人

かべにぶつかるたまごの会

あきゅらいず美養品 森の楽校(東京都)

2013/03/22 (金) ~ 2013/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★

マフムードの背景にあるもの
以下は、毎週非暴力抵抗運動を続けているパレスチナの農村の若者が、イスラエル兵士に惨殺された模様を書いた自作の詩だ。マフムードの背景にあるものの、参考までにと上梓する。また、タイトルの”ぞうさん”は惨殺された若者のあだ名。体が大きかったのでこのあだ名がある。

ぞうさん
ぞうさん あなたは その おおきな からだで たこをあげていたね
ちいさな むらの こどもたちの わのなかを ちょうちょのように まっていた
おっと こどもを うばわれ 
ひとりやむ おばあさんの くらい へやを
あなたの おおきく あたたかい からだ と はじける えがおで
とびまわった

なぜ ぼくは かこけいでかたらなければ ならない
もじが かすむ くもって みえない

しはいされるものに むずかしい じせいを
いまは まだ なのることさえはばかられる みんぞくに
ときに あなたは せまった

ひぼうりょくこうぎこうどうの さいぜんれつで きけんなこうげきにさらされながら
ほかのなかまを あなたの おおきな こころ と 
それに くらべて ちいさな からだで まもった おおきな おとこ

それで あなたの あだなは ぞうさん だった

なぜ ぼくは かこけいで かたらなければならない

にせんくねん しがつじゅうしちにち
あなたは いちども かかしたことのない 
こうぎこうどうの さいせんたん に いた
いつもの ように

そこにゆくまえ あなたは むらの おばあさん に
おはよう を いいに ゆき
たった ひとり の あに を ころされ
みずから も きず ついた しょうじょ の ために
ちぇっくぽいんと を こえて
いちりんの ばらを かい しょうじょをみまった

まとわりつく こどもたちと あそび
なかまと みずぎせるを すって
こうぎに きた

なぜ ぼくは かこけいで かたらなければならない


へいしたちが すいへいうち を し
ひみつけいさつが すぱいかつどうを くりかえし
てきの きょうりょくしゃ が 
ぐんじこうどうの ひきがね を ひくために
その ひとごろしを せいとうか する ために
まぎれこむ ことを 
こしたんたん と ねらって いる

そのなかで あなたは よびかけていたね

なぜ ぼくは かこけいで かたらなければならない

こんなんな じせい を 
あなたの いまは まだ 
みずからの みんぞくの なを なのることさえ はばかられる なかまに

てきの もくぜんで

そのときだ やぎ(ひつじ)が はいってきたのは
てき と あなたのあいだに

とうせきすらしていないが こうぎする あなたがた と
すいへいうちを やめない へいしたち の あいだに

あなたは うつな と
いいつづけていた やぎ(ひつじ)がいるんだ と
へぶらいごで

あなたがた のうみんにとって
いのちを かけて まもるべき 
なにも 
いまは もたない
とちを うばわれた 
のうみんに とって
たった いっぴきのやぎ(ひつじ)が
どれだけ おおきな いみを もつか
へいしたちにも わかった はずだ

だが へいしは うった

ぞうさんの ひだりむね を ねらって
かれの てきにさえ すかれて きた
あたたかい こころを
へいしのつみを たえがたい ものに したから

いっぱつ 
たった いっぱつ
しきんきょりからの
しんがたさいるいだんによる
そげきが 

おおきな おおきな こころに
たった ひとつ ちいさな あな を あけた

ぼくは なぜ かこけいで かたらなければ ならない

ちいさな さいるいだん が おおきな こころを ころしたあとにも
ちいさな むらに 
あさは きた
ひとびとの こころには
わらいが たえたように おもわれた

わらい が うしなわれたことの いみは わからなかった
はじめ 
むらの ひとびとは
まいにちの くるしみの なかで わらい の いみしたものが

だが ほどなく むらのものぜんいんが
うしなったものの おおきさに きづいた

なぜ ぼくは かこけいで かたらなければばならない

ぞうさん が なくなった 
よくじつ
へぶらいご を あやつる ひとびとの “くに” でも

ぞうさんぎゃくさつ に こうぎ する こうどう が あった

しかも このような へぶらいびと は まだ まれである

ちからで おさえつけることで 
みずからの はんえい を おうかするものは
みずからの つみから のがれるために
はじめに じぶん を あざむく
あとは うそを ぬりかためるのに いそがしい
“じぶん”たちが どれだけ おおきな
おおくの たいせつな ものを うしなったかを
きょえい で つつむ

ところで ぞうさん こころやさしい ゆうしゃ
ばっさむ いぶらひむ 
らはま の おとうさん

これが 
あなたを
いたむ
うただ

あなたを かこけいで かたらぬ ために

ぞうさん 
あなたの えがおを 
しいたげられたもの すべてのうえに
わけへだてなく
ふりそそぐ
ひかり の みなもととして
いま
われわれが ひきつぐ
ぞうさん
ぞうさん
あなたは 
みもしらぬ わたしのこころにさえ
ほのおのたねを まいた
どんなに しいたげられても
どんなに おおいかくされても
けっして きえることも とだえることもない ほのおのたねを

このたねは おおきな ぞうさんに にあわず
とてもちいさい 
ちいさすぎて ひとつ ひとつでは
ほたるのともす あかりにすら 
およばない

しかし
この ほのおのたねは
ひとびとの こころのおくに
ふかく しずかに
そして
ちゃくじつに
ね を おろして いる

ぞうさん
いつか
あなたのように おおきく
あなたを こえて 
さらに おおきく なってゆくさまが
わたしには みえる

だから
ぞうさん
あなたは
やすらかに
ねむりに
ついて
いいよ 

あなたの あげた たこが
わたしたちの こころのなかに あり
わたしたちが きぼうを すてないかぎり
あなたは わたしたちの ゆめを つかさどるのだから

ぞうさん
あなたの うえに とじた そら
ぼくたちは そこから はじめる
はじめるより ほか 
ないのだ

ぞうさん


へたくそな字たち※無事公演終了致しました!ありがとうございました!

へたくそな字たち※無事公演終了致しました!ありがとうございました!

TOKYOハンバーグ

ワーサルシアター(東京都)

2013/03/20 (水) ~ 2013/03/25 (月)公演終了

満足度★★★★

この国の真実と官僚というヒトデナシ
 舞台正面の黒板に、ハングル、漢字、日本語などで文字が書かれている。1988~9年頃、大田区糀谷の夜間中学が舞台である。息子に連れられて50過ぎの女性が、夜間中学の先生に面会にくるシーンから始まるが、彼女は挨拶時、腰を酷く深く折り曲げる。実際、自分がほぼ同時代東京の夜間中学の生徒さんとお会いした時の体験にも重なる。異様なほど腰が低いのだ。その様は、まるで自分が生きていること自体を恥じ入ってでもいるような、消えてしまいたいと願ってでもいるような幽けき姿であった。

ネタバレBOX

 コンプレックスというのが、単に劣等感という訳で片付いて仕舞うようなものではなく、当に社会的な矛盾が総て、最も弱い者に掛かってゆき、それに押し潰されそうな生き方を強いられて来た方々の全身から滲みでるような命の形が、こういう所作に現れる。
 文科省は、国民皆教育の立場から識字率100%を、主張、夜間中学の必要性を正式に認めなかった。目の前にある事実とは無関係。認識しようとすらしない朴念仁だったが、その姿は今、3.12以降の被曝問題に対する、現役の官僚の対応と変わる所が無い。こういう連中をヒトデナシと言うのだ。彼らは、官僚という名の鵺であり、官僚より前に人であることを忘れた存在であるから、ヒトデナシというのが正しかろう。そういう彼らの態度が、夜間中学生の社会的位置を“宙ぶらりん”のままにするのだ。ヒトデナシの都合で人が、宙吊りのまま放置されている。これを黙認と言うそうである。
 社会の根幹である教育が、その実施を実際的に担うべき官僚の手によって蔑ろにされ、ただでさえ資本主義の矛盾の生贄とされてきた社会的弱者のアイデンティファイを拒んでいる。一方、資本主義という体制のアポリアとして、この根幹の空白地帯に弱者の吹き溜まる構造があるとすれば、その場所の一つは間違いなく夜間中学であろう。字が読めない、字が書けないということが、この国にあって何を意味するか? その意味する所を抉りだすこと、抉りだされた内臓のようにひくひく蠢く柔らかく傷つきやすい傷口を、観客の目の前に提示することが求められている。何故なら、夜間中学があることさえ、多くの日本人は、知らないで済ませているからだ。敢えてするこの鈍感は、平和ボケだの、名ばかり~だのと同根のまやかしに過ぎない。まやかし、バイアスなしに事実の持つ凄惨を見て耐え、真実に昇華することが求められていると言えるのだ。
 この作品の良さは、こういった、この国の隠したい部分を、真っ向から、かなり真実に迫る形で演劇化した点にある。よく取材して、その本質を形象化している。役者達も、社会の矛盾を自らの内側から捉えて演ずる者が多く好感が持てた。
THE SHOW MUST GO ON!!

THE SHOW MUST GO ON!!

劇団天動虫

要町アトリエ第七秘密基地(東京都)

2013/03/20 (水) ~ 2013/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★

歌舞く 力強さ
 最初の35分くらいを観ることができなかったのだが、観はじめた所はお国歌舞伎のヒットから時は下って、舞台は三代目の時代。三代目は襲名したものの、彼女に才能は無く、お国歌舞伎の名を支えたのは観世流宗家の血を引く娘と十郎という役者の二大看板である。両名とも方法は異なるものの時代を歌舞き、本性を歌舞き、また常識を歌舞いて芸の肥しにすることに長けており、京でも評判を呼ぶ。
 然し、幕府の禁令により、女は舞台に立つことが出来なくなった。観世の娘は舞台を去り、十郎も江戸へ下って一派を起こす。

ネタバレBOX

 芸能の本質は歌舞くことにある。その本質を追究するに当たって命を賭け、世間体も何もかなぐり捨てて、芸の狂を極めようとする生き様に共感する。その社会的位置が河原者という被差別者であることにも。恐らく、美もまた狂乱にある。
かっぽれ!〜春〜

かっぽれ!〜春〜

green flowers

テアトルBONBON(東京都)

2013/03/20 (水) ~ 2013/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★

洒脱
 ”活惚”漢字で書くとこうなるそうだ。このキーワードが、“かっぽれる”となると激しく恋するという意味になるとか。落語界へ戻ることになった鈴木と見習い、まりの将来のカップリングを暗示していることを感じさせるような内容になっていると同時に、芸道の厳しさも描かれ楽しみながら同時に引き締まった側面を持った洒脱な舞台だ。

ラフ・オア・ダイ

ラフ・オア・ダイ

崖っぷちウォリアーズ

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2013/03/20 (水) ~ 2013/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★

清々しい舞台
 第一回公演でこの内容は見事。役者の力の入った演技、突っ込みどころはあっても、ぐいぐい引き込んで行く展開の良さと自然な感じを出すことのできる力量、間や運び方の上手さ。これからが期待できそうである。

ネタバレBOX

 一見して片付けが苦手なことが分かる雑然とした地下の一室。腹違いの兄弟5人が同居しているのである。兄弟は、男4人に女1人。その他、2男の彼女がほぼ同居状態だ。
 ただ、この兄弟、全員、父が異なる異父兄弟である。紅一点の穂香は、母に似て大の男好き。ナンパされて、兄達が帰ってこないはずの住いに男を連れ込んだが、いざという時に兄達が帰宅。慌てて腹違いのもう一人の兄弟だとでっち上げた。二男は事情を正確に掴み乍らも妹達に合わせ、演技をしてくれるが、三男は、嘘を真と信じ込む。
 だが、このナンパには裏があった。穂香をナンパした九条は研究員で、1500万人に1人という奇病を患う五郎に近付く為に穂香をナンパしていたのである。九条の属する研究所では、五郎の病が脳内に分泌される物質の欠如が原因だと分かっており、彼の病因を突き止めて、この病を蔓延させ、世界を変革するという目的があったのである。幸か不幸か、九条は穂香に本気で惚れてしまったが。
 長男が、山下というヤクザの女を寝取ったことから話は、とんだ方向へ向かうことになる。一方で、二郎と三郎が、ある依頼者から頼まれて盗み出した殺人ジョークが、ヤクザに要求された慰謝料返済と絡んでこの作品の核心へとなだれ込む次第だ。上演中故、ネタばれと雖もここから先は明かさない。
第36回 シアターΧ名作劇場『巳之助の衝動』『天井裏の散歩者』

第36回 シアターΧ名作劇場『巳之助の衝動』『天井裏の散歩者』

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2013/03/12 (火) ~ 2013/03/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

新派
 我々の感覚からいうと既に古典に近い新派の作品だが、実に興味深い。時代をつくづく感じ、比較を楽しみながら、演劇の生きた歴史を振り返ってみることもできる作品群だ。

ネタバレBOX

巳の助の衝動
天井裏の散歩者
 両作品とも演技がこなれているのは無論であるが、とりわけ女優達の仕草が奥ゆかしい。和服を着れば、内股で歩くのは基本であるが、現在、街を歩く成人式の和服姿はあでやかでも、奥ゆかしさなどかけらも感じられない歩き方、身振りを見掛けることが甚だ多いのも事実である。
 奥ゆかしさは、何も歩き方のみに限らない。女性は、男以上に恋に身を焦がして来た。今も昔もその点に変わりはあるまい。ただ、今回、演じられた舞台で巳の助と天麩羅屋の娘、むつとの恋の場面は、男の照れる仕草に対して、むつの反応は、その時々でより具体的、細やかである。生業の天麩羅屋の匂いが、衣服に浸みついていないか、巳の助への贈り物も、二人以外の者に見られても問題の無い物、二人だけの、謂わば秘密としての、の二通り。殊に後者は、意味深長であることこの上無い。髪は女の命と言われた時代、その髪の毛を切って赤いリボンで結び、小箱に収めたものが、彼女からの贈り物である。
 父、母、姉、男友達との関係も旧制中学・高校があった時代の雰囲気を醸し出して、ゆったりした時の流れを感じさせる。

天井裏の散歩者
 乱歩の『屋根裏の散歩者』の5年後に書かれた作品だが、こちらは、軽快な喜劇になっていて楽しめる。「ボンクラ亭主としっかり女房もの」というジャンルがあるかどうかは知らぬが、そう名付け得る作品群はあろう。その群れの中で抜きん出た作品の1本と言うことが出来よう。
 長屋住まいの二組の夫婦(会社員森本・妻お杉、劇関係者鈴木、妻お糸)を中心に、大家、お杉の父、職人たちが巻き起こす上質なコメディーだ。
 鈴木は、酒を飲んでくだを巻いている。貰ったばかりのボーナス500円を盗まれたと言って騒いでいるのだ。だが、お杉は、自分に全部取り上げられるのが嫌で、理屈をつけて自由に使える金をへそくりしようとしている亭主の底意を既に見抜き、警察にも届けていない。亭主の目論見の先には、当然、カフェの女給との逢瀬もあると睨んでいるのだ。
 ところで、安普請の長屋故、隣家の話し声は互いに聞こえる。聞くともなく聞こえてくる話で、寝ることも叶わずに居たお糸の下へも亭主が帰ってきたが、こちらは、収入の安定しない演劇関係の仕事をしている。おまけにギャンブル癖が祟って家計は火の車である。味噌、醤油、酒、家賃など総てを借金で賄っている彼らの所へ天井から金が降って来た。天の恵みと大喜びした夫婦は、降って来た縁起の良い金を元手に賭場へ出掛け、儲けて帰って借金を完済するが、千切れた札が落ちて来るに及んで流石に気味悪くもなり、大家に千切れた札が落ちて来た件を話すが、森本は転寝しつつ、この話を聞きつけ、偶々、「屋根裏の散歩者」を読んでいたこともあって、隣人が怪しいと睨むや天井裏へ忍びこむ。
 そこへ大家や職人を戻ってきた隣室夫婦。天井を職人がつついて見ると怪しい手応えがあるので更に強くつついた所、人が落ちて来た。見れば、隣室の亭主。訳を糺すが舌を噛んでしまって要領を得た返答ができない。漸く話を繋ぎ合わせて事件の大要が飲み込めた皆であったが、こういうことだった。
即ち、森本が自分のへそくりを借家トイレの天井に隠しておいたが、喪失した。偶々、居眠りをするともなくしていると、隣家の夫婦が金の話をしている。てっきり彼らが盗んだと思ったが、証拠が無い。それで、確かめようと隣家の天井に上がって調べたところ、鼠が札束を隣の家の天井迄運んで札束で巣を作っていたのを発見した、と。
 そんな話をしていると、裏手で火の手が上がる。居合わせた者皆が火消しを手伝った為、ぼやで済んだ。災い変じて福と為し、雨降って地固まったわけだが、一件落着を祝って皆が宴会を開く。その席で「森本が隠した金総てを鼠にやられたと思っていたのは誤りだ」と鈴木夫婦。「無傷の札も落ちて来た」と60円を返す。森本が受け取ろうとした刹那、お杉が、これを取り上げて幕。
 大衆演劇の健康なしたたかさ、しなやかさ、靭さを感じる作品だ。

僕たちの町は1ヶ月後ダムに沈む *TypeA*

僕たちの町は1ヶ月後ダムに沈む *TypeA*

ソラリネ。

上野ストアハウス(東京都)

2013/03/13 (水) ~ 2013/03/17 (日)公演終了

満足度★★★★

ダムから原発再稼働まで
 保証金を貰って、故郷を離れる人々と残った人々の話と言えば言える。この手の話の現実面を様々な類似ケースで聞いている。一時的に大金が入った結果、ギャンブルや酒色に溺れ、家族離散の憂き目を見た、とか新規に慣れない事業を始めたが失敗したとか、移り住んだ土地の人々との折り合いが悪く、学校で子供達が苛められ、親子共に精神的な苦痛を受けた等々、マイナス要素も多々ある。
 その辺りの事情をかなりリアルに再現して居る分、自分にとっては、ちょっと物が言い難い作品でもある。

ネタバレBOX

  話の内容が、重いので考えさせられはするが、芝居としては良く出来ている。演技、演出にも登場人物たちの抱えた問題の深刻さをキチンと伝えるだけの内容があった。殊に、最後迄、ダム建設地を去ろうとしないキャラクターを設定することで、この作品に重力が生まれていることも重要な点だろう。このような問題は、実際、日本中至る所でインフラ整備という名の下に産出され、蓋をされてしまった問題である。建築物の耐用年数の問題から、今既に、そして今後暫くの間は、補修や新・増設の話も出てくるであろう。時代がそれを望まないなら、別の形で。
 原発の再稼働を強行したがるのもゼネコン救済、ひいては銀行救済かも知れないのだ。例えば、原発関連の工事に鹿島が圧倒的に強いのは、中曽根 康弘の妻が、鹿島一族出身だからではある、が。工事の発注さえあれば、受注は、建設界の得意技、談合でどうにでもなろう。腐りきったこの「国」の「お偉方」など、この程度のものだ。
イノリガミ -浮世絵札の夢現-

イノリガミ -浮世絵札の夢現-

劇団 夢神楽

テアトルBONBON(東京都)

2013/03/13 (水) ~ 2013/03/17 (日)公演終了

満足度★★★

推理の緊張とファンタジーのふわり
 オリジナルの千枚絵札は奇跡を呼ぶ力を持つ。天才絵師一廓は、妻アネハと共に国命を受け、息子の風靡を人質に取られつつも制作に励む。然し、如何に天才とはいえ、描かれた絵に奇跡を呼び起こす力など本当にあるのか?

 推理すべき内容が随所に設けられ、飽きのこない展開になっている。一方、ファンタスティックなイメージを追及している分、深い所で腑に落ちるようなインパクトは、やはり弱い。

ネタバレBOX

  実を言えば、アネハの故郷はこの不思議な力を持つ者が生まれる隠れ里であり、アネハこそが、命の力の継承者であった。彼女の力が封じ込まれ一廓の絵は奇跡を起こす力を持ったのだ。
 この国の為政者は政を行うにあたって、民を操る為にその“霊力”を利用する為に、一廓夫妻を幽閉して千枚絵札を描かせ、人質として息子の風靡を監視下に置いたのだ。
 だが、絵師は千枚絵が完成すると同時に、作品を持って姿を消し、妻はエネルギーを使い果たして息を引き取った。息子は真実を知らぬまま、監視下でその後の10年を過ごす。
 そこへ一廓が一年程前に雪崩に巻き込まれて死んだ、とう噂が流れてきた。彼の死を確認した者もあるという。然し、死体は確認されていなかった。一廓は本当に死んだのか? 更に一廓と共に消えた千枚絵のオリジナルは何処でどうなったのか? 絵の霊力を用いて権力を維持しようとする者、事情を知らぬまま父を恨み母を恋う風靡、力が悪用されることを懸念して災いの根を断とうとする隠れ里の人々。1年前ではなく、3ヶ月前に一廓に会ったと言って訪ねて来た少女、ひなげし。彼女が会ったのは、一廓本人か、それとも天才絵師を名乗るだけの騙り者か? 終盤、これらの謎が、次々に解き明かされてゆく。人々の繋がりの謎も、王国のこれからも。
一遍~天演出編~

一遍~天演出編~

風雲かぼちゃの馬車

王子小劇場(東京都)

2013/03/14 (木) ~ 2013/03/17 (日)公演終了

満足度★★★

踊念仏の本質
 哲学としての宗教に或いは人間観に立った踊念仏を用いて衆生救済を目指した一遍は、900年ほど前に生きた人である。承久の変で兄弟の血で血を洗う戦の当事者であった一族の一方の当主であった武士の家に生まれ、幼年時代は、武士の子として育った一遍は、叔父に一敗を喫した父の配慮で、兄の訴追を逃れる為、仏門に入れられた。父も仏門に入ったことがあり、兄弟弟子に当たる尼僧の下に観を寄せることになったのである。

ネタバレBOX

 自由奔放、而も心優しく明晰な一遍は、古法に則り、新たな展開を認めようとせぬ勢力からは忌み嫌われることになる。偶々、仏門に入って間もなく、それ迄入門僧の間で幅を利かせていた兄弟達と喧嘩になり、罰を受けることになった。だが、兄弟、日光、月光の母は病に伏せっているという。そして、罰を与えられたのは当初彼らだけであった。一遍は、彼らの罪は、自分も同じ、罰するなら自分も同じように、と主張する。この主張が認められて、双方ともが罰を受けることになるが、一遍は兄弟に、謹慎中の身ではあるが、母が病であれば、会いに行け、と詰め寄り、出掛けてゆくこととなった。結果、尼僧の慮りで、わざと閉門していなかった裏門から一同は、まんまと抜け出し、兄弟の母のもとへ向かった。今日だとの面会を果たした後、母は亡くなるが兄弟も面目を施したのである。
 帰って来た彼らは、然し規則を破って、謹慎中の身でありながら、更なる規則破りをしたので、罰されねばならぬ。然し、尼僧は、彼らのかばい合う姿を見て、温情ある裁定を下す。一遍には、当時、諸外国からの情報も入る太宰府へ赴き修行することを命じたのである。彼は、大宰府で修行の日々を過ごしていたが、父の訃報が届き、還俗することになった。叔父の娘、一と結婚し娘を設ける。然し、平穏な日々は短かった。家督相続を巡って兄と対立することになったのである。城は焼け落ち、叔父も兄も決戦の末、命を断った。再び、一遍は僧侶として生きることを選ぶ。妻、子も従うということになって下男として幼児からずっと付いてきたと共に、踊念仏を広めることになった。然し、この事態に業を煮やした勢力があった。彼らは一遍が仏法を愚弄し、幕府に抗っていると主張、一遍と仲間を捉えさせる。裁きの場で、実際の踊り念仏を将軍の前で舞った彼らは、無罪の判決を得るが、保守派の僧侶は更なる論争を挑み、結果、一遍に負けて命を落とすこととなった。
 ところで、この作品、踊り念仏の一遍を描いている関係で踊り、つまりダンスが出てくるのは当然なのだが、その踊りの内容が余りにも陽性である。もっとタメを使うなりして、踊りその物の中にドラマを作り込んで良かろう。まして、一遍は、殆どの人が経験せずに済んだ地獄のような苦痛を味わってきた人物である。また、踊念仏は、踊る人自身が、踊りを通して納得する為の訓練プログラムであってみれば、この方が、踊念仏の本質を描くには相応しかろう。
ぶっ壊したい世界

ぶっ壊したい世界

劇団TEAM-ODAC

青山円形劇場(東京都)

2013/03/13 (水) ~ 2013/03/20 (水)公演終了

満足度★★★

久々の円形劇場
 春一に限らず、素直に物を見また判断して、自分の人生に活かすことは難しい。常に難易度の高い問題ばかりでは無いにせよ、勇気や訓練も必要だ。 春一を実体とシャドウに分けた発想は正解だ。友夏の反大人としてのキャラクターが、他の登場人物達を浮かび上がらせる構造になっていることも評価できる。

ネタバレBOX

 円形の劇場という構造上全周に観客が居る。役者、演出の技量を験し、高める為には、良い構造だろう。
 ダークな世界の表象として春一のキャラクターにかぶってくるのが、通り魔の佐川やヤクザ達だが、彼らへの対抗勢力として、牧田や桜田兄弟を配し、セクシャルマイノリティーというキャラクターを加えることなど人物創作にも気配りが見える。
「さくら」~あの満開の桜の下で~

「さくら」~あの満開の桜の下で~

劇団デジハリ堂

吉祥寺櫂スタジオ(東京都)

2013/03/16 (土) ~ 2013/03/17 (日)公演終了

満足度★★★

ねがわくは
 現代のタウン誌編集部と幕末の函館を絡め、西行の名歌“ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃”を挿入してこの作品の厚みを増した。真琴役を演じた女優が、終始内股で歩いていた点も評価できる。また、個人的には、現代メディアの最大の悪弊である自己規制がちゃんと描かれていた点が気に入った。ホントの事を書くと発表させないメディアが多い、のは事実である。

ネタバレBOX

 だが、物語の展開として、「呪い桜」と呼ばれる桜が、真琴の怨念の故に花を咲かせないということにリアリティーを与えるのは、難しい。その前に、真琴の恋した雪之承が幽霊になって現れているわけだから、ここで言うリアリティーは、合理性・非合理性の問題では無い。観客が納得できるような強い思念を生むだけの、真琴の境涯が描かれていないことが原因である。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」は誰でも知っている作品だが、何故、四谷怪談がこれほどまでに人口に膾炙しているかと言えば、赤穂浪士の外伝という側面と、伊右衛門によって殺された岩の境涯が、余りにも悲惨で、化けてでも出なければその恨みは、果たせないということを、誰よりも観客が思うからであろう。無論、其処までキチンと書けば、それだけで脚本が一冊出来上がってしまう。
 然し西行にも詠まれた桜であるらしいことを匂わせたのだから、その霊木の生命力を封じるだけの力を真琴の思念は持っていなければなるまい。この点で真琴の思念が深まる過程が脚本中に出ていないことが嘘臭さを観客に感じさせるのだ。演劇に限らず表現は総て、表現する者と受け手とが、通じ合った所に立ち現れる何かである。そして、そこで問題にされるリアリティーとは合理的な真実ばかりではない。寧ろ、そのように動かざるを得ない何らかの力の強度、誰しも認めざるを得ない強度を、或いは弱さを、体現する人物が舞台上に表現し、其の表現を観る者が納得できる時に成り立つのだ。

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