稽古場レポート

シニフィエ『百合鴎』稽古場レポート

シニフィエ

百合鴎

9月18日(金)19:00 〜 9月19日(土)16:00

―今、そこの川辺で鳴いている鳥の名前はなんだろう。どこからきて、どこへいき、いつ飛ぶことを決め、いつ羽を休めるのだろう。誰かを探しているのか、誰かに待たれているのか。ここからどこかに旅立っていくのか、それとも還っていくのか。その鳴き声の宛先は、一体どこなのだろう。

窓の奥、岸の向こう、風景の行方に耳を澄ませ、目を凝らし、想像を尽くす。

隅田川の側で日々積み重ねられるシニフィエ『百合鴎』のクリエーションは、一言で言うならば、そんな細やかで果てしのないイマジネーションの旅のようなものだった。

9月18日(金)、19日(土)の2日間、すみだパークシアター倉にて上演されるシニフィエ『百合鴎』(すみだ五彩の芸術祭公募プログラム)。本作は、前作『ひとえに』で第69回岸田國士戯曲賞最終候補作にもノミネートされた小野晃太朗による新作戯曲であり、カンパニーにとっては2年ぶりの長編の上演でもある。夏が最後の本気を振り絞るかのような残暑の厳しい8月の昼下がりと、打って変わって冬の気配すらふと覚えるような9月の宵待時。二度訪れた稽古場は、朝から夜へと時間が流れ、夏から秋へと季節が移り変わっていくかのようにゆるやかに、しかしたしかな変化を帯びていた。

稽古場に到着すると、透明の扉の向こうに白、黒、赤、青と、色とりどりの衣裳が目に入る。その向こうから小野が手を振り、出迎えてくれた。出入り口がやや入り組んでいるから、と勝手口のようなその扉から中に入らせてもらい、衣裳ラック、そして、舞台上を想定したアクティングエリアを横断して机や椅子のある方に向かう。少し話をして、せっかく稽古も上演も墨田区だから、とスカイツリーを背に写真を撮らせてもらったり。そうこうしている内に俳優たちも徐々に揃い、稽古が始まった。なんとなく床に座る方がしっくりして、そこから稽古を見学させてもらった。この日は、冒頭から順番にシーンをさらっていくのではなく、理解や思考を深めたいシーンが断片的に返されていた。

小野晃太朗

まず、その鮮烈さに驚いたのは犯罪にまつわるシーンである。本作は「拐かし」「盗み」「殺し」の絡んだ物語である能の『隅田川』、歌舞伎の『隅田川続俤』、『都鳥廓白浪』の隅田川物の古典3作品を下敷きに、現代の「悪」をテーマに新たに立ち上げる群像劇なのだ。それだけに、いわゆる闇バイトや、連日報道されているトクリュウを彷彿させる会話が端々で繰り広げられる。ブラックであるはずのものが、ホワイトの顔をして日常にするりと紛れ込む恐ろしさ。それらが社会の一つのシステムとして整備されつつある、というリアルさも淡々と、生々しく展開されていく。その演出プランとして印象的なのが、衣裳の色彩設計である。全編にわたって、登場人物の衣裳の配色やアイテムの配分がかなり機能的に使われているので、是非注目してほしい。

左から反時計回りに堀夏子、金定和沙、菊池佳南、原田つむぎ

その中でも中心人物となるのが、藤家矢麻刀演じる操舵である。操る舵と書いて操舵という名であるが、藤家は、自分という舵の操れきれなさや、より大きな何かに自身そのものが操られ、取り込まれていく様もまた生々しく演じる。

「鳥の声が聞こえると、つい顔をあげてしまう」

そんな一言から始まる長い独白では、操舵の脳内に広がる都市の描写がそのまま背後に浮かび上がっていくような手触りがあった。「悪」というものの本質が「悪意」だけでは語ることができない、という複雑さを、藤家は持ち前の言葉への感度と翻訳力の高さを以て、観客へとひらいていく。

左から藤家矢麻刀、はぎわら水雨子

しかしながら、本作は“隅田川もの”である。トクリュウや移⺠問題などの喫緊の社会問題を織り込みつつも、親子・友人・恋慕の情などの古典劇の要素をも活かして、都市生活者の日常を切々と描いていく。中でも、能の『隅田川』から着想を得た親子の描写はその中核と言っても良いかもしれない。小野は、そこに現代における子どもの行方不明事件を、そこで疑いの目を向けられ、責められる親の姿を紐づける。

左から菊池佳南、新田佑梨、藤家矢麻刀、金定和沙、はぎわら水雨子

「探し物をしている人間は、探している時間が長引くにつれ、物狂いの心境に近づいていくのではないかと思う」

そう話す人物が葉名という名で、彼女が母親であり、その“探し物”は我が子である、ということが徐々に明らかになっていく。これは自助グループの集会所のシーンで、トラウマや傷を負った人々が互いの声に耳を傾け、励まし合っているようなのだが、葉名がそこでもなお感じてしまう息苦しさ、分かり合えなさを吐露するシーンが切々と身に迫る。「おはようございます〜」と稽古場に入ってきた時の柔らかな笑顔が嘘のように、葉名演じる菊池佳南の、時の経過の険しさを感じさせる表情に目を見張る。今にも泣きそう、とか、怒りそう、とかそんな安直な言葉では形容してはならないような、哀しみと怒り、絶望と祈り、その他さまざまな感情が不可分に混ざり合った複雑な顔。別のシーンに移っても、ふとその残像が視界を掠めるように、心に張り付いた。

続いて返されたシーンでは、レポーターが子どもの行方不明を報じ、その子どもの印象や情報について近所の人々が言及していた。そう、度々ワイドショーなどでも見かける、当事者について部外者が好き勝手にコメントをするアレである。あの何とも言えない感触が目の前で立ち上がり、ふと耳が熱くなり、背中が冷える。今しがたそこで震えるように立っていた母・葉名の心情を思うと、どの言葉も全然、全く聞きたくない。なのに、日常においては、自分はこうした声をそれなりに傾聴し、さらには無責任に消費すらしているかもしれない、と瞬間的に気付かされてしまったからだ。そんな説明的なセリフは一切ないのだけれど、それでも、そうした実感を握らされることに戸惑いと驚きを覚える。俳優らが立ち上げる解像度の高い物言いや振る舞いによって、胸の中にひとつ、ふたつ波紋が広がっていく。

このシーンに限ったことではないが、前作『ひとえに』をはじめ、シニフィエの作品ではしばしば俳優らがメインの役とは別に複数の役を兼ねる。そして、そのことが単なる「演じ分け」にとどまらず、劇に多層的な広がりをもたらし、観客の新たな気づきへと繋がっていくのだ。例えば、新田佑梨は行方不明となった葉名の子どもである渓をメインに演じるが、別のシーンでは行方不明事件について無責任な憶測を口にし、手っ取り早くお金が入る闇バイトに手を染める学生・堰も演じる。相反する立場を往来するその姿は、誰もが加害/被害のいずれの当事者にもなり得る可能性を内包しているようにも思う。本作では、7名の俳優が20名以上の人物を見事に兼役する。メインとなる役はもちろん、兼ねる役とのコントラストや、それぞれの繊細で機敏な出入力にも是非注目してほしい。

シーンは変わって、いくつかの「二人」の関係性を立ち上げる会話が返されていく。

「『飛ぶ』って言われたらさ、何の事だと思う?」

そう訊ねるのは、待機である。人の名前だ。契約社員として働く男性・待機(藤家矢麻刀)は、目の前に座る女性・二三(金定和沙)にそう問いかける。二三はその言葉から想起するいくつかの情景を待機に伝え、時に笑い合う。なんてことのない日常会話であるが、金定と藤家が付かず離れずの絶妙な距離感を匂わせ、その関係性の輪郭をうっすらと浮かばせる。二人はパートナー関係にあるらしいが、どうやらそれだけではないらしい。

左から藤家矢麻刀、金定和沙

二三が親しげに話す相手は、待機だけではない。待機の先輩である海(原田つむぎ)を初対面にして家に招き入れる、というシーンがあるのだ。比較的人当たりがよく、相手を緊張させない。それでいて自分の心を誰に秘匿し、開示するかにおいては何かしらの定義を据えているように映る二三は、海に対して早いスピードで心を開いていくように見えた。

ささやかなやりとりの中で、大きな挙動を伴わずとも心の距離感を風景へと鮮やかに抽出する金定の表現力が素晴らしい。そして、私はそんな二三につい自分を重ねた。私もこんなふうにとても短い時間で、誰かと心、あるいは体の距離を縮めたことがある。そして、そのことをどこか理解されにくいことだと思って、あまり言えずにいたな、と思った。描いてくれてありがとう、と素直に思った。

左から原田つむぎ、菊池佳南、金定和沙

しかしながら、海にもまた別の親密な相手・のの(はぎわら水雨子)がいて、「二人」というものの関係性はより複雑さを帯びていく。「海は賢く、奔放な人間だ」というあらすじの言葉通り、原田は、目には見えないはずの頭の回転の速さを言葉のちょっとした投げ方や意味の扱い方で魅せていく。ののに対してと二三に対して、それぞれに見せる異なる眼差しや声色を時に大胆に、時に細やかに表出する。この作品には、役を兼ねることで浮かび上がる多層性と、一人の人間の中で起きる多層性の二つがある。自他における複雑と自己における複雑がある。原田の演じる海の姿からは、そんなことを気付かされる。

「人間関係って、距離の近さと付き合いの長さの2つでしょ」

海が二三にそう問いかけるシーンがあるのだが、それで言うと、海と二三は「長さ」でなく、「近さ」の関係であるように思えた。対して、海は、ののにこんなことも言う。

「人の心を引き裂くのは距離じゃなくて時間」

距離は当然「近さ」だけではなく、「遠さ」でもあるし、時間も当然「長さ」だけではなく、「短さ」でもある。そして、それらの捉え方は相手によって変動するものなのかもしれない。と、書きながら、今、私は再び自分の胸に手を当てる。そこにいる人と人の関係を、親密さ、というものを他者は一体何で測っているのだろうか。測ろうとするのだろうか。測れるものなのだろうか。そうしたことを思わず自問してしまうようなシーンの連なりだった。

『百合鴎』で描かれるのは、恋愛やそれに類似したものに分類される関係性だけではない。のの(はぎわら水雨子)が友人の留学生であるニュン(新田佑梨)と互いの故郷について思いを馳せるシーンがある。育った場所の気候や慣習などの“違い”を語り合いながら、遠くを飛ぶ“同じ”鳥を見つめる瞬間がある。「魂が道に迷ってしまう」と呟くののを、「じゃあ、少し歩きましょう」と散歩へ誘うニュンの姿がある。ののが抱える悩みや迷いを、言葉のみに頼らず表情や声色の端々に忍ばせるはぎわらと、それらを救えるかは別としても、その荷物を少しの間だけでも一緒に持とうと寄り添う新田の屈託のない笑顔が印象的な、さりげなくも美しいシーンである。このシーンの後、はぎわらは実生活の中で経験したベトナムから来た留学生との交流について話してくれた。こうした交流はフィクションの中だけでは決してない。自分事としてインストールした人にしか出せない出力がある。私は、そうした俳優の、演技を飛び越える演技の力をとても信じている。

左からはぎわら水雨子、新田佑梨

また別の場所では、塞ぎ込んでしまった葉名の元に姉のなほ(堀夏子)が訪れる。なほは、なんとか葉名を外へと連れ出そうとするのだが、その強引さには、なんというか“姉”特有の責任感と、えも言われぬ温かな母性が滲み、肩を組み、そして抱き合う姉妹の姿に胸を打たれる。稽古場でも頼れる姉的存在である堀が、その懐の大きさをそのまま役へとスライドさせ、劇の内外を貫いて包み込む。

私もかつて、こんな風に、姉の強引で深い愛情に救われたことが何度かあって、思わず涙が出てしまう。他者と生きていくことは難しく、果てしないけれど、それでも時にはその手をとったり、肩や胸を借りることで、こうした人生のお守りになるような瞬間があることを、私たちは知っているがゆえに果てしない。この作品は、その果てしなさを追い、探すために立ち止まり、見つけてはまた立ち止まり、照射し続ける演劇でもあるのかもしれない。

手前から菊池佳南、堀夏子

演出においてとても印象的だったことがある。小野が返したいシーンについて、「○ページ」とか「○場」と言うのではなく、誰の言葉であるか、あるいは、誰と誰の関係であるか、一貫して役の名前でシーンを指していたことだ。それは、「自」を経由して「他」を見つめ、考える、という本作の基盤と深く結びついた振る舞いであるように思えた。もう少し踏み込んで言うと、小野はこれらの一つ一つを遠い誰かの物語である、とは思っていないように感じた。すぐ近くにいるかもしれない、決して自分と無関係ではない人々の話であるとして、言葉を紡ぎ、演劇を進行している。稽古の端々で、私はそんなことを感じていた。

稽古の休憩明けだっただろうか。ふと、小野が鳥の鳴き声を流した。これは朝によく聞こえてくる声、こっちは夕方によく聞こえてくる声。いくつかの鳥の鳴き声が稽古場に響き、そこに、窓の向こうを飛ぶ鳥の鳴き声が混じった。時間は16時くらいだったかな。この鳥の名前はなんだろう。どこからきて、どこへいき、いつ飛ぶことを決め、いつ羽を休めるのだろう。誰かを探しているのか、誰かに待たれているのか。ここからどこかに旅立っていくのか、それとも還っていくのか。その鳴き声の宛先は、一体どこなのだろう。

ちなみに、日本の古典文学に出てくる「都鳥」は、百合鴎であるという説が濃厚らしく、昭和40年に「都民の鳥(東京都の鳥)」にも制定されたらしい。それでも、その行方は誰にも決められない。鳥たちは、岸から岸へ、国から国へと、渡っていくはずだろう。

「SEなのか、外の生の音なのかわからないですね」と小野が笑い、みんなが少しの時間、違う目で外の景色を一緒に眺めた。同じ鳥が飛ぶのを見ていたかまではわからないけれど、少なくとも同じ景色を捉えていた。短くも濃密な想像の時間だった。アクティングエリアの奥に外の風景が臨める、というこの稽古場の環境が、本作において有機的に働いていることを知らされる瞬間だった。

“隅田川もの”の古典を下敷きに複雑に絡み合ういくつかのトピックと、複雑に交錯する人々の関係や姿。そう書くと、複雑さゆえにわかりにくい、受け取りにくい作品に思われるかもしれないが、決してそんなことはなかった。稽古場を出て、劇場を出て、この後に続いていく日常、人生の中でふと反芻したくなるようなフレイズとの出会いがあった。その言葉の中に立ち止まっていられる時間があった。立ち止まってもいい豊かさがあった。

自分と他者の間にはいつでも大きな川が流れていて、同じ岸で生きていける他者もいれば、そうでない他者もいる。それでも、そうだからこそ、窓の奥、岸の向こう、風景の行方に耳を澄ませ、目を凝らし、想像を尽くす。隅田川の側で積み重ねられたシニフィエ『百合鴎』のクリエーションは、一言で言うならば、そんな自他という川を巡る、細やかで果てしのないイマジネーションの旅のようなものだった。その終わりのようで、実は始まりである開幕を待っている。今日もどこかで鳥が鳴く。あの声は百合鴎かもしれない。

取材・文・写真/丘田ミイ子

<公演情報>
すみだ五彩の芸術祭 公募プログラム
東京舞台芸術祭2026 Open Call Progams 参加作品
シニフィエ『百合鴎』

作・演出:小野晃太朗
出演:金定和沙、菊池佳南、新田佑梨、はぎわら水雨子、原田つむぎ、藤家矢麻刀、堀夏子

<会場>
すみだパークシアター倉

<日時>
9月18日(金)19:00
9月19日(土)11:00/16:00

※受付は開演45分前、開場は開演30分前

<料金>
一般:3,000円
一般戯曲付:4,000円
※割引:2,500円
U-18:無料(要予約)
※25歳以下の方、障害者手帳をお持ちの方とその同伴者のみご購入いただけます。

<チケット>
CoRichチケット!V2(事前決済・当日精算)
https://signifietext.corich.co/yurikamome/common

<スタッフ>
いっしょに考える人:松岡大貴
照明:山内祐太
音響:櫻内憧海
舞台監督:中西隆雄、黒澤多生
テクニカルコーディネート:井坂浩
演出助手:工藤咲喜
宣伝美術:トモカネアヤカ
制作:木香花菜
制作協力:黒澤たける
協力:青年団、ヌトミック、東京デスロック、うさぎストライプ、お布団、食む派、ウンゲツィーファ、コーポ 指、株式会社KIKONOKI、スコッド
主催:シニフィエ、「隅田川 森羅万象 墨に夢」実行委員会(事務局は(公財)墨田区文化振興財団が担っています)

共催:「すみだ五彩の芸術祭」実行委員会/墨田区
助成:アーツカウンシル東京[東京芸術文化創造発信助成(単年助成)]芸術創造活動
公式HP:https://www.signifietext.com

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