稽古場レポート

新国立劇場『パッシング・バイ』稽古場レポート

新国立劇場「20の物語―週末を、劇場でー」 『パッシング・バイ』

7月31日(金)18:30 〜 8月2日(日)15:15

7月16日から8月2日まで、新国立劇場にて「20の物語―週末を、劇場でー」が上演される。国内外のバリエーション豊かな短編・中編を中心とした作品群を複数人の演出家が演出し、週替わりで上演するという、この夏注目のアンソロジーフェスティバルだ。

その一つが、7月31日と8月2日に上演される『パッシング・バイ』。贅沢貧乏主宰の山田由梨にとって初の翻訳劇の演出となる本作は、オープンリーゲイの劇作家であるマーティン・シャーマンが70年代のNYを舞台にゲイ男性2人の出会いから別れまでを描いた60分ほどのリーディング公演である。出演は、オープンリーゲイの俳優で、自身が主宰する演劇ユニット宝宝でも積極的に現代を生きるゲイ男性の姿を描いてきた長井健一と、映画『炎上』(監督:長久允)をはじめ、様々な映像作品で個性の光る存在感を発揮する森かなた。翻訳はこれまで新国立劇場でも多様な海外戯曲を手がけてきた広田敦郎が務める。本記事では、その稽古初日の様子をレポートする。

『パッシング・バイ』稽古場より

稽古前にジェンダー講習を実施

はじめに、『パッシング・バイ』の台本冒頭に添えられた、2013年にマーティン・シャーマンが綴った言葉を引用したい。

“『パッシング・バイ』を書いたのは1972年秋のニューヨーク。もう大昔のこと。わたしが書きたかったのは、二人の男性のやさしく、ロマンティックで、愛に満ちた出会いだった。そこでは、ゲイであるということが一個の事実にすぎない−ごく普通であり、オープンであり、決して問題にならない、というものだ。”

稽古初日、クリエーションの始動にあたってまず実施したのがジェンダー講習だった。これには、演出の山田由梨のこんな思いがある。

「劇場主催の公演なので、クリエーションメンバーだけでなく、劇場と一緒に環境を整えることが必要だと感じました。私たちの座組や今回の作品のためというよりは、もっと広い意味で必要だと思い、劇場に要望を出して、実施することができました」

カンパニーが主導となってジェンダー講習の場を設けること、さらにその場を取材陣にひらくことはほとんどないのが現状であり、さまざまな演劇の創作現場に赴く私自身も、恥ずかしながらジェンダー講習に参加をするのは今回が初めてであった。クリエーションの一環としてこうした講習の記録が残ることも必要と考え、本記事ではその様子からレポートしたい。

講師を務めて下さったのは、LGBTQ +インクルーシブディレクターとして、映画『エゴイスト』をはじめ、様々な作品に携わるミヤタ廉さん。ミヤタさんは自己紹介に次いで、まず私たち参加者にジェンダー講習の受講経験の有無をたずねられた。

私をはじめ、参加者のほとんどがこれまで講習を受ける機会がなかったことを受け、ミヤタさんはそのこと自体に問題があるわけではない、とした上で、自身の経験をもとに、映像や舞台の創作現場で起こり得る差別的言動やマイクロアグレッションについて事例を交えながら、何が問題であるか、そして、どうしたらその問題を解決できるのかを話して下さった。

講師のミヤタ廉さん

その中で印象的だったのは、例に挙げられた差別的言動が起きてしまった現場がいずれもジェンダー講習を受講済みであった、ということであった。ミヤタさんはそれらの例を「創作の現場を代表する話ではない」と前置きした上で、講習が形式的なものになってしまうことの危惧を伝えた。ジェンダー講習を初めて受ける局面で、「講習を受けてさえいればいいわけではない」ということを念頭に置けたことはとても重要なことであった。というのも、私自身も、稽古取材の前にジェンダー講習を受けることができるとなった時、そのことにどこか安心をしてしまっている自分がいたからである。また、これらはジェンダー監修においても似たことが言えるのかもしれない。講習や監修を入れていることそのものに満足してしまうことや、場合によっては免罪符のようにすらなってしまっている例も実際にある。「講習や監修を形式的なものにしない」ということを創作の前提として認識するか否かによって、現場や作品の姿勢も大きく異なってくるのではないだろうか。

次に、ミヤタさんがお話されたのは、差別やマイクロアグレッションをしないためにどんな言葉と行動に注意すべきなのか、選ぶべきなのか、という話であった。そこで重要なのは、誰がその場にいても問題のない言葉と行動を選ぶということだった。誰がLGBTQ +当事者であるかを見つけることや、誰が当事者を知ってから言動に気をつけたりするのではなく、どこで、誰に対しても言ってもいい言葉、とってもいい行動をするということ。ミヤタさんの「当事者はどこにでもいます」という言葉に、私は自分がどこかでしてしまっている線引きを省みた。「あの人にはこういうことは言わない方がいい」、「この人がいる時はこの話題は避けよう」。自分の中に潜んでいるそうした意識を改めて確認するような感触があった。これは自分の想像や認識の至らなさや内に潜む差別意識との厳しい対峙であるが、同時に必要な対峙でもあった。自分の中にある暴力性を確認するということ。確認し続けるということ。そのことからしか始まらない、ということを改めて気付かされる思いだった。

その後、さらに具体的な現場例を交えながら、クリエーションだけでなく、プロモーションにおいても起きがちな差別的表現について話がなされた。これは、私自身もどこかで見聞きしたことのあるものであり、また、ともすればインタビュアーとして活動する自分がどこかで類似した発言をし得るかもしれない、と感じるような事例であった。自戒の意味も込めて、ミヤタさんがお話して下さった例を以下にそのまま記録したいと思う。

  1. レズビアンの女性とその家族を描く舞台の稽古場で、演出家が出演俳優に対して「当事者だから気持ちわかりますよね?」と発言
  1. ゲイの男性の恋愛を描いた映画のインタビューで、インタビュアーが俳優に対して「ゲイ当事者ならではの演技で良かったです」と発言

これらの発言には、一人の俳優を当事者の代表にすること、作品の説明責任を当事者に負わせること、演技力を評価するのではなく本人の属性に言及すること、本人の私生活を作品のリアリティを保証する材料としてしまうことなど、様々な問題が混在している。また、レズビアンやゲイであればみんなが同じ経験や価値観を持つ、という決めつけでもあり、「属性からその人の経験や感情や能力を分かったつもりになる」という問題もある。また、本人がレズビアンやゲイであるかを公表していない場合においては、アウティングという加害にもなる。こうした局面で必要なのは、具体的な言葉を、正確に、必要な場面で使うということ。そして、必要のない場面では属性を持ち出さないということだ、とミヤタさんは言う。

一方で、SNSのPRやインタビューにおいては、俳優や演出家や監督による発言にも問題点や炎上の事例がある、と言う。

「男性同士だからということより、純粋なラブストーリーとして描きたい」、「人間愛であり、異性・同性を問わない普遍的な物語」。作品を外に打ち出す際のこうした文言には、同性愛が特殊なことであり、そうした物語を「普遍的」や「人間愛」という言葉で飾らないと受け入れられない、という差別意識が潜んでいるのではないだろうか。ミヤタさんのその言葉に、これまで自分が寄せてきたいくつかの作品への感想や、綴らずとも心の中で思っていたことについても改めて考える必要を感じた。また、同性の俳優が並んでインタビューを受ける際に「結婚会見みたいになっていますね」といった発言があった例を受け、同性婚が法制化されておらず、結婚の意思があっても叶わない現状があるにも関わらず、マジョリティによってジョークとして扱われる、という問題についても言及があった。これらは、マジョリティ側からマイノリティを同一化してしまうことが大きな原因でもある。社会生活を営む中での問題や苦悩は、たとえ異性愛者が同性愛者を演じたり、創作の題材に選んだりすることはできても、理解し得ない部分もたくさんある。セクシュアルマイノリティの置かれている状況を認識し、不可視化や漂白しない、という意識無くしては、これらの問題の解決には繋がらない。

最後にミヤタさんは、ご自身が仕事を引き受けるか否かの判断について、「監修や講習に自分の名前があることで安心している人を裏切るようなものは断る」と告げた。現場に人が集い、一つの作品をともに作る上で互いをリスペクトして進めていけるのか。そうした問いは、無論属性に限った話ではないが、セクシュアルマイノリティを登場人物に据えた物語が多く映像化、舞台化されている今、改めて立ち止まって考えるべきことなのではないだろうか。そして、それはミヤタさんをはじめとする講師や監修に当たる人や、問題に対し都度声を上げさせてしまっている当事者のみに任せていいことではない。今回の講習を受けて、私はこれまでの自分の言動を省みながら、そんなことを強く思った。

ディスカッションと読み合わせへ

その後、カンパニーは稽古場に場を移し、演出の山田主導のもと、講習を経た実感や、それぞれの意見や考えを共有するディスカッションが設けられた。キャストの長井は「ミヤタさんはご自身の経験や知識を交えながら多くの話をして下さった。そのことを有難く感じると同時に、あまりに多くのことを言わせてしまっている実感にもなり、もっといろんな人がやらないといけないことだと感じた」と語った。森は「講習で言及されたような問題が現場で起きた時に、誰によってどう対処がされるのかも把握しておかなくてはならない」と、カンパニー全体の構造としての問題についても言及した。そうしたキャストの言葉を受け、俳優部、制作部などセクションを分けて問題について考えたり、講習を受ける機会の必要性についても意見が交わされた。加害と被害のケースが複雑化していることや、相談される立場になりうる人への専門的な講習や育成も今後必要になってくることなど、創作の環境や構造やその課題についても視点が広げられた。

また、森は飛行機に乗った際に機内の映像端末に「PRIDE」というジャンルがあったことに触れ、「決して悪いことじゃないのに、そうしたジャンルを設けることにもある種の線引きを感じ、考え込んでしまった。その感情の正体を今も考えている」と日常で感じた違和感をその場にひらいた。それを受け、長井は実際に自身が他現場で受けた差別的言動についても言及し、「誰が何を言うか、ということをもっと考えなくてはならない」と提起し、翻訳を手がける広田も、「プライド月間などで企業がアライ表明をすることで勇気づけられる一方、なぜいつまでも結婚の平等は実現しないのだろう、とも思う。『パッシング・バイ』のような作品が、誰もが共感できる物語として〈消費〉されるのではなく、マイノリティの生きてきた歴史や現実とともに受け止められるようになってほしい。そのためにも自分たちの存在を可視化し続けることは大切だと感じる。」と意見を共有した。これらのディスカッションに立ち会って感じたのは、問題を考え、言葉にする意味の大きさであった。上演にさしあたって、「自分たちの現場でも起き得る問題」であると認識し、作品で描かれている内容とそれを立ち上げるカンパニー内で起きていることが乖離してしまわないために、準備をすること。そして、集団創作チームである演劇のカンパニーが、加害や被害についてはできる限り同じ認識を持って、健全な状態で安心してクリエーションに臨めること。そうした状態をつくるためにはまず、然るべき講習を受け、そして対話の機会をつくることが重要なのだと、改めて痛感した。

1時間ほどのディスカッションの後、初の読み合わせが行われた。

ここで、『パッシング・バイ』のあらすじにも少し触れておきたい。

1972年のニューヨーク。映画館で偶然出会った画家のトビーと元飛込選手のサイモンは、短い時間を共に過ごすうちに心を通わせる。仕事や恋に傷つき、そろって肝炎にかかり寝込んだ二人は、互いの看病の日々を通して、図らずも濃密な時間を共有することになる。ぶつかり合い、語り合う中で深まっていく絆。しかし、快方に向かうとともに、将来への価値観の違いが明らかになり……。(新国立劇場公式ホームページより)

『パッシング・バイ』は、そんな二人の日常会話を通じて、ゲイ男性の出会いから別れまでを、儚くも眩しい儚い人生のひとときを描いたラブコメである。

演出の山田は作品の魅力についてこう語る。

「70年代、不幸になる同性愛者がテンプレとして描かれがちだった中で、本作では男性同士のリアリティあるラブコメが描かれています。ここで描かれていることは今日本のどこかで交わされている会話にも通じる部分がたくさんあります。真剣な話とくだらない話のバランスも面白く、とてもやりがいがある戯曲で、作家の意図をみんなで考えることにも豊かさを見出しています。ラブコメだけに笑えるポイントも多く、そこに引っかけられたものにもみんなで気付けるよう、取り溢さず作っていけたら」

配役は、長井は画家のトービーを、森は元飛込選手のサイモンを演じるのだが、まず何よりも驚いたことは、今日、二人が初めて顔を合わせたということだった。ちょっとしたユーモアの投げかけやそのリアクション、二人の間に流れる饒舌や沈黙があまりに活き活きしていて、序盤から思わず「こっそり二人で先に読み合わせをした?」という感想が頭に浮かんでしまうほどであった。長井は持ち前のコメディセンスでトービーの何気ないセリフにも人間の可笑しみやその人固有のチャームを存分に宿らせ、森はサイモンがこれまで生きてきた中で獲得してきた自信と、それであるが故にふいに襲ってくる生きることへの不安を繊細に往来する。広田が手がける翻訳がまた素晴らしく、細部にわたって言葉の輝きが点滅し、心象風景が目に浮かび、シーンを追う度に、セリフが重ねられる毎に、私は物語の展開や二人の愛と人生の行方に一喜一憂をした。

トービー役:長井健一

サイモン役:森 かなた

劇中では、肝炎の看病を通じて二人が心を通わせていくのだが、広田によって「病気で弱っている局面だからこそ、いかに自分の弱さを認め、ありのままの自分を受け入れていくのかが問われる」と解説が加えられたことによって、偶然にも二人が出会い、図らずもそれぞれの傷や弱さを見せ合う、ということに一層の深みを感じるような心持ちになった。また、広田は本作が書かれた時代背景にも言及し、「作品が書かれた1972年は、性的少数者の解放運動が徐々に盛り上がりを見せていた時期だった。しかし、若い男性同士の恋愛をあっけらかんと描き、ゲイの人物が悲惨な結末を迎えることなく、ストレートの人々と同じように日々の喜びや悩みを抱えて生きていることを描くお芝居は、当時まだ画期的だった。ところが、多くの命が失われたエイズ禍の80年代、同性愛と病気とを結びつけるひどい中傷が広まったことから、肝炎のくだりがそういう偏見を助長してしまうことを作者自身危惧し、作品をいったんお蔵入りにした」と説明を加えた。知らずにいたことと、知らずにいられてしまったことの双方を握りしめる気持ちだった。これまで知らなかった『パッシング・バイ』という作品が、自分にとってもいかに必要な作品であったのか、そして、それが今、リーディング公演として上演されることの意味を強く感じる読み合わせだった。

稽古を終えたところで、山田が本作への思いや稽古初日の手応えを語ってくれた。

「オファーをいただいて台本を読んだ時、トービー役は長井健一さんにお願いしたい、とすぐにお顔が浮かびました。長井さんはオープンリーゲイとしてご自身のユニットでもゲイ男性を積極的に演じてきた俳優であり、この作品が持つコメディタッチな部分を大いに生かしながらトービーのキュートさを体現できるのは長井さんしかいない、と思いお声がけしました。さらに、映画『炎上』でのミステリアスな存在感に魅力を感じていた森かなたさんがサイモン役を引き受けて下さり、この企画が実現しました。サイモンは、根は繊細だけど、フィジカルの強さが重要視されるアスリートでもあります。体力や若さがステータスだった人が病にかかりアイデンティティを失う、といったシーンでは、元フィギュアスケート選手でもある森さんがその揺らぎを細やかに表現して下さっています。また、同じくマーティン・シャーマンの『BENT』で翻訳家としてのキャリアをスタートされ、多くの作品に携わってこられた広田さんの存在も大きく、この題材に取り組むにあたってベストなキャスティング、カンパニーであることを実感する稽古初日でした。みんなでジェンダー講習を受け、それをきっかけにディスカッションができたこともとても大きなことでした。同時に、これで十分なのか、ということについては考え続けていかなくてはならないと思っています」

これまでいくつもの稽古場レポートを書いてはきたものの、稽古初日に立ち会わせてもらうことはそうなく、講習、ディスカッション、読み合わせを通じて『パッシング・バイ』という作品が今まさに動き出すその瞬間を目の当たりにし、私はとても高揚した。心に響いたいくつかのセリフに線を引きながら、そこに人の命が、人生が宿っていくのを感じながら、やがてくる開幕を心待ちにする思いだった。

本レポートの最後に、その中から、特に印象的だったセリフを二つ引用したい。

「自分自身に忠実にいれば、それが何であれ、不死身になれる」

「俺がこのままニューヨークにいたいと思ったのはそっちのせいだろ。おかげで自分は現実の人間だと思えた。俺を現実の人間として接してくれた。必要なのはそれだけだった」

帰りの電車の中でそっと台本を開いて、トービーとサイモンのこのセリフを何度も反芻する。長井と森の掛け合いを思い出しながら。上演は二日限り。これからますます鮮明に立ち上がるであろう『パッシング・バイ』という作品が、二人の声が、なるべく多くの知らなかった人の元に届くことを切に願う。

取材・文/丘田ミイ子

<公演情報>

新国立劇場「20の物語―週末を、劇場でー」

『パッシング・バイ』

作:マーティン・シャーマン

翻訳:広田敦郎

演出:山田由梨

出演:長井健一、森かなた

<会場>

新国立劇場 小劇場

<日程>

7月31日(金)18:30

8月2日(日)15:15

<チケット>

3,300円

※全席指定
https://nntt.pia.jp/event.do?eventCd=2610001

<公式HP>
https://www.nntt.jac.go.jp/play/short-stories

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