稽古場レポート

『あたらしいエクスプロージョン』稽古場レポート

CoRich舞台芸術!プロデュース

あたらしいエクスプロージョン

2025/11/28 (金) ~ 2025/12/02 (火)

 その名の通り、小劇場カンパニーの名作戯曲を新たなスタッフ・キャストで上演するCoRich舞台芸術!プロデュース【名作リメイク】シリーズ。初回『イノセント・ピープル 〜原爆を作った男たちの65年〜』から約1年半ぶりとなる第二弾は、第62回岸田國士戯曲賞受賞作でもある、福原充則による名作戯曲『あたらしいエクスプロージョン』を堀越涼(あやめ十八番)が新たに演出を手がける。キャストには鈴木裕樹、浜崎香帆、金子侑加、段隆作、秋本雄基、猪俣三四郎の実力と個性を兼ね備えた面々が名を連ねる。
開幕を間近に控えた稽古場から、その創作の様子をレポートする。

物語の舞台は、終戦直後の日本。雨にも関わらず、まだ空襲による焦げくささの残る東京・浅草に二人の男の姿がある。男は指でファインダーをこしらえ、中を覗きながらこう呟く。
「撮りてぇな」
男の名前は杵山(鈴木裕樹)。どうやら映画を撮ろうとしているらしい。しかしながら、ここは焼け野原。カメラもフィルムもままならないどころか、旧知の役者仲間もほぼ戦死をしてしまった。それでも、映画が撮りたい。これは、敗戦後の混乱の中、映画に情熱を燃やす若者たちの姿を描いた物語。それもただの映画ではない、「邦画史上初のキスシーン」を撮るべく、奮闘する物語なのだ。

稽古場に入ると、そこには雨が降っていた。「雨」の描写がとても象徴的な名作戯曲であることは心得ていたものの、驚いたことはそれを表現しているのが俳優たちの身体であったことだ。柱やハンガーラックを手の平で叩いたり、スレンレスのトルソーを指で弾いたり、はたまた舌を器用に鳴らしたりしながら、その場に雨を降らせている。水こそ見えないが、稽古場一体がたしかに水の音に包まれる。滋味深い演出に思わず前のめりになる。強くなったり、弱くなったりと、止みそうで止まない雨の中、男二人が話している話題はもちろん、もっぱら映画の話である。

そんな稽古場の風景が、自ずと劇の内側と繋がる。カメラもフィルムもままならない時代に、持ち得るものを駆使して映画を撮ろうと苦心した、戦後日本のシネアストたち。劇場という限られた場で、身近にあるものからアイデアを発展させ演劇を作ろうとする、今目の前にいる演劇人たち。時代は違えど、表現を前に奮闘する人々、そこで出されるアイデアの数々には人間の想像力、そして生命力を痛感せずにはいられない。劇の中の風景にも、劇の外の風景にも「人と創作がともに呼吸している」という実感がある。

早速、堀越の演出が入る。傘の差し方、体の向き、歩く進路と、細部に通底する役の生理と感情を整えながら微調整が加えられていく。中でもその微調整、ささやかに見えるところにこそ人の心情は滲み出る、ということを思い知らされたのはこんな演出の言葉であった。
「口笛吹いている人って、どこを向いているんでしょうね」
「この状況で下を向いて吹くことってあんまりない気がしませんか?」

それを受けて、俳優も手を替え品を替え、より豊かな表現を追求する。口笛を吹く時の人の心はどんな状態であるか。さらに、このシーンにおいてはどういう角度や表情、リズムが適切・適温であるか。堀越の演出の鋭さはもちろんのことだが、俳優陣の果敢なトライと呼応した表現力もまた素晴らしい。こうした“小さな”積み重ねによって、演劇の“大きさ”は届けられていくのだ。

“この国のキスは、おれたちがはじめてみせる!”
繰り返しになるが、これは「邦画初のキスシーン」を巡る物語である。その称号を誰が得るのか。そうした詮索や駆け引き…生々しい人間模様もまた見どころの一つであるのだが、この戯曲の輪をかけて素晴らしいところが、それらの配役を俳優が複数役担う点、それも相反するような役どころを同じ俳優が演じる点にある。2017年に浅草九劇にて上演された、ベッド&メイキングスによる初演でもその俳優陣の個性と魅力は顕著であったが、リメイク版だって決して負けてはいない。

言葉の温度に応じて色合いの変わる声、抑揚の行き届いた表現力と確かな存在感で観客を魅了する鈴木裕樹を筆頭に、ふとした仕草、その細やかな表象の変化にも情緒を忍ばせる浜崎香帆、哀切の滲む眼差しから愛嬌あふれる横顔までを鮮やかに彩る金子侑加、創作への真摯な眼差しを以て人間の持つ癖や味わい、複雑な心理描写を体現する段隆作、クスッと笑える人間の可笑しさからシリアスなシーンの緊迫までを漏れなく伝える秋本雄基、豊かなキャリアと経験に裏打ちされた技量を以て、どこにいても、誰に扮していても職人技で圧倒する猪俣三四郎。6名の俳優の個性と技量、そしてそれが適材適所で輝く演出の妙。その全貌もどうか劇場で見届けてほしい。

そして、この作品を語る上で忘れてはならないのは、「映画」のみの話では決してないということである。この演劇を、史実を踏まえながら「戦後」を描いた作品として観るとき、よりいっそうに様々な実感と多くの気づきに導かれるのだ。混乱を生きる人々のタフな姿が力強く描かれながらも、その中で失われたもの、深く負った傷をもが掬い上げられていく。圧倒的なセリフの仕掛け、その巧さはさることながら、それらによって観る者の脳内、あるいは心中に生々しい心象風景を立ち上げる。そうした連動によって劇全体を、劇場全体を揺さぶるということ。まさにユーモアとペーソスを織り交ぜた緻密な構成、シーンの数々である。

今日の稽古で重点的に繰り返されたのが、まさにそんなシーンであった。
それは映画の撮影現場から一転、戦後の凄惨と混乱の中で自分を捨て、別の顔に扮して生きることをやむなくされた石王時子という一人の女性が、辛く哀しい過去を回想するシーンであった。モノローグ、いわゆる独白である。しかし、この回想シーンで行われるありとあらゆる演出や転換、小道具や衣装の変幻には全俳優が一丸となって参加する。それはどこか、戦争によって彼女が負った底のない哀しみを彼女一人に背負わせまい、という祈りであるようにも私には思えた。

戦争という事実の延長線上にある今という時代。多くの焼失の上に今の町があり、いくつもの命の重なりのその上に、今、私が、あなたが生きているということ。
戦後80年となる今年にこの作品が【リメイク】されること。これもまた本作の意義の一つなのではないだろうか。一人の女性が辿った痛ましい過去に胸を締め付けられながら、そんなことを思う一幕であった。

【リメイク】において特筆すべきは、もちろん舞台美術や造形のユーモアさだけではない。セリフとセリフの関係、人と人との態度や距離に内包されるプレッシャー、会話の余韻や緊張感…。言葉をまず解体して、その一つひとつの必然性を確かめること。その上でどの言葉を重く、長く滞空させるか。堀越の演出はそうした言葉、そして行間の扱いに余念がなかった。それは、劇作家である堀越の戯曲や劇作への真摯な眼差しであると同時に、福原充則という劇作家へのリスペクトでもあると私は感じた。稽古の終盤、堀越は俳優にこう告げた。

「福原さんがこれを書いた時、きっと筆が乗っていたと思うんです。福原さんが書いた時の熱量がここにこのままあるはず。それを伝えなくちゃ」
 
気鋭の劇作家によるタッグ。そんな新たな可能性に触れられるのも【リメイク】ならではの魅力である。そして、それはキャストにも同じことが言える。後の時代に長く残すべき名作を、今という時代を眩しく生きる俳優が語り継いでいくということ。そのことは、観客にとってもまたかけがえのない機会と可能性となるのではないだろうか。『あたらしいエクスプロージョン』。この名作戯曲が、新たな演出とともに、少しでも多くのまだ見ぬ人々へと届くことを切に願う。(取材・文:丘田ミイ子)

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