プランクトンの踊り場
イキウメ
赤坂RED/THEATER(東京都)
2010/05/08 (土) ~ 2010/05/23 (日)公演終了
満足度★★★
ゲシュタルト崩壊2.0
端的に言って、”私の知ってるあなた”を製造した私が、”あなたを知らない私”とコンフューズする、ある種のゲシュタルト崩壊に近い話だった。
ネタバレBOX
その動向を、入れ子構造的な回転扉を動かす速度や傾斜、光の造形によって場面設定を切り変える手法は観ていてとても面白かった。
ただ、インパクトのある舞台構造以上に印象に残るものが薄かった。
なぜなら描かれるキャラクターが表層的で、空疎な笑いで誤魔化していたようなてらいがあり、動的な舞台美術と停滞する心理描写に齟齬を感じてしまったから。
イキウメの笑いは、真顔でサクっと核心をつくスマートな笑いが特長だと思っていただけにこういう、いかにも笑いを取りに行こうとする世俗的な笑いで全編持って行くことには、肩すかしを喰らった。
要が滋に対する深い愛情のようなもの、あるいはまだ愛しているかもしれない疑惑を掬い取る心の揺れが見えにくく、たった2日間の記憶に執拗なまでに愛着を持つのは少々突飛なように思えた。
『妖怪レストラン 2D』
THE 黒帯
アイピット目白(東京都)
2010/05/20 (木) ~ 2010/05/23 (日)公演終了
満足度★★★
レストランは改装中。
ネヴァーエンディングストーリーやらポケットモンスターやら世界名作・童話やら好きな作品、全部まとめて、とにかく気合いで3Dシネマしてみました!みたいな少々強引なノリ…。苦笑
場合によっては遊園地のヒーローショーに見えないこともないが、童心にかえったつもりで見るとそれなりに楽しめる。ただあいにくレストランは改装中で、妖怪サンたちの接客シーンは一切お目にかかれないのだが。
ネタバレBOX
舞台装置は人の背丈の1.5倍くらいはありそうな、
巨大なレストランのメニュー表が真ん中にでーんと置かれているだけの簡素な舞台で、
メニュー表を開いたページが妖怪レストランの背景になる。この仕掛けはオモシロイ。
しかもその背景は真っ白で、両ページに大きな四角い穴があいている。
その穴は、レストランの椅子やらテーブルやら電話やら魔法の鍋やらそういったレストランに置いてあるモノすべてを吸い込んでしまう、タイムホールという設定も妙。
そして、これらは客としてやってきた人間のゴウリという絵本作家が持っていた『描いたことが本当になる』デスノート的な代物であることも、なかなかキャッチーだし、絵本の世界に入っていくというのも、古典SFによくありがちな方法ではあるものの、夢があっていい。
また、タイムホールに飛び込んでいく時の、照明効果もすごくいい。
そういえばこの作品、照明さんがかなり貢献していたとおもう。
物語を立体的に見せるために、多角的に照射すると共に、色や光の強度などのバリエーションを非常に豊かに表現していた。照明とタイミングよく入る音響もバッチリだった。
ただ、妖怪たちが絵本の世界をアドベンチャーに至るまでの導入部が時間的に長い。
登場キャラクターの紹介も、もう少しタイトにして欲しかった。
物語の展開については他の方々が既に述べられている通り、既存のおとぎ話の一場面をなぞらえながら、時折仮想空間に出くわす敵と戦いながらレストランのアイテムをゲットしていくという、(上にも書いたけど)まさにポケットモンスターそのもので。苦笑
時には、ゴウリの息子がウォーリーの仮面をかぶった悪魔となって登場し、時間を堰止めたり、カモフラージュをしたりしてイジワルなことをするのだが、
最後は無事、すべてのアイテムを取り戻し、絵本作家ゴウリと息子の守との確執も解消し、めでたしめでたし。後味は幾分、あっさりだった。
どこまでもゆける
水写
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2010/05/20 (木) ~ 2010/05/23 (日)公演終了
満足度★★
世界の定義が不鮮明。
世界が終わるまでの1年間を、オムニバス形式で描くお話。
終わりが決められた中でどう生きるか。ということは人間誰しもがいつか死ぬ存在である以上、逃れられない事実ですからこれを作品テーマとして選ばれたことは非常に興味深いですし、素晴らしいとおもいます。
ただ、個人的には春・夏・秋・冬、それぞれの季節をまんべんなく一話づつ描いていかれる方が季節を巡る度に気持ちも変化していくと言いますか、その方が幾分かナチュラルだったような気がします。
それでも舞台からは、木漏れ日のような暖かさや、柔らかな気配を感じ取れました。今度は長編に挑戦されてみては如何でしょうか。
ネタバレBOX
世界が終わると知らされたひとたちの1年を巡る話。
第一話はふたりのマンガ家と、マンガ家のアパートにいつからか住み着いたゴミ箱のなかに入っているゴミ女と名乗る女性、ランドセルを背負っている小学生みたいな男の子、出版社の編集者が、マンガ家のなかで交されるとりとめのない会話劇。
その中で、ふたりのマンガ家が『世界が終わる話』を雑誌に連載していたらそれが現実のモノとなってしまったエピソードや、小学生みたいな男の子が、希望を探して旅をしているエピソード、宇宙人がコンペイトウで出来ているエピソード、黒いランドセルを背負っている集団が暴動を起こしているらしいニュースなどが舞台の情報として、提示されるのだが、これらのエピソードが何となく楽しい感じのままで終わってしまってまい、話が広がらなかった印象を持ってしまった。第一話では、会話の終わりを意味していたのだろうか。
だとすると第二話で提示されていたのは、恋人関係の終わりだったような気がする。吉野家の牛丼がどうとか、アイスクリームがどうとか、花嫁衣装に着替えたりとか、それが世界の終わり=この世の終わりとどう関わりがあるのかはわかりかねるのだが…。
第三話では、かもめという名の飲んだくれ、かもめの娘の幸子、幸子のトモダチのヨウ、がうららかな春の日差しが降り注ぐ公園でお花見をしているところへエテルネル聖子という、イカサマ聖職者がルミエール様とかいう人間離れしたカエルが著者らしい啓発本を売りつけようとやってくる。
すると今度は、ヨウと音信不通の父に息子を助けてもらったという綾と名乗る女性が、本当にとりとめもなくやってきて、息子が助けてもらった経緯をつらつらと語るのだけれども、どうして綾と名乗る女性が、ヨウの居場所(しかも公園)を知っているのか、かなり謎。
この謎めいている感が笑いどころなのかもしれないけれども、
ちょっと意味がわからなさすぎてしまったてらいがあるように思われた。
三話目で提示されていたことは、人間的に終わってる、ってことだったのかなぁ。うーん、やっぱり謎だ。笑
こうして振り返ってみると全体的に、世界が終わるという響きで世界を構築してしまったような気がしてしまう。きっと、この話に出てくるひとたちが、世界が終わることを肯定してしまっていたからなのかも。誰かひとりくらい、世界を終わらせないようにがんばるひとがいてもいいような気がした。それこそ、ヨウのお父さんとかね。でもラストのシーン、みんなが冬眠に入る場面はステキでした。あの場面を紡ぎ出すために断片的な台詞を全体にちりばめて、詩的なモノローグや、音、光、佇むというミニマルな動きに特化した上演作品をつくられたら、独特の繊細さが滲みでるようにおもいました。
背馳【公演終了しました!ご来場誠にありがとうございました!】
ヲカシマシン
ギャラリーLE DECO(東京都)
2010/05/19 (水) ~ 2010/05/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
人間の一生をハイライトで。
時々すれ違う複数人の一生を、リアルな事象と仮想現実のハイライトによって時空間移動を繰り返しながらレイヤー状に描くこの作品は、重なり合ったすれ違いを時々共鳴しているように思わせてくれる、嘘のつき方がとにかく秀逸。そして時空を超えても尚、デス(コミュニケート)っている人間の普遍的なオカシさを根底に踊らせながらも、しかしまずはどうしたって観客たちを混乱させてやるのだぞ、という特殊な意気込みで攻めてくるため、開演直後から超難解ウルトラC級の時系列シャッフルの嵐がアナタの脳天を直撃します。
頭のねじは、何本か吹っ飛ぶかもしれません。それにエンゲキの概念だって180度変わってしまうかも。
きっと、観るひとがこれまでどういう気持ちで生きてきたか。人生において何を重きとしているか。あるいは平凡と退屈と、不滅についてどう考えているか。によって極端に評価の分かれる作品になるかもしれない。
ちなみに私は、まんまと混乱に陥って頭のねじがぜんぶ吹っ飛んじゃった側。
時々、どばどばと垂れ流されるどうしようもない時間の帯にむせ返るような沈黙を密かに感じ。その緩急が何ともドラマティックで感動すらしたのだけれど。
ネタバレBOX
楕円形状に配置された観客席の後方にはイントレ(鉄パイプ)がぐるりと組まれており、客入れ時からイントレの一部に黒い服を着た男が抽象的なポーズをとってひっそりと誰かの影の存在のように静かに佇んでいる。
どうやらこの黒い服を着た男が、物語の鍵をにぎっているらしい。
彼は神だとおもえば神にもなれる存在らしい。
そんな風に浮世離れした男から物語の登場人物の紹介と、
この物語の時間や混乱することに関するルール説明を受け、スタートする。
なんだか一度間違えたら死んじゃいそうなゲームみたいだ。
物語は非常に多岐に及ぶ。乱雑であるといっても過言ではない。
時空間を自由に行き来する物語の点、モノローグする演者の言葉をなぞり
観客がそれぞれ想像上で造形し補完していくスタイル。
登場人物は、作品タイトルにもなっている、どちらかといえば背徳的な二股男・ハイチと、ハイチが二股をかけている末期ガン患者・ハイジ、視覚障害者・アイリの3人に、
ハイジの担当医・タミチ&タミチの奥さん。
この5人の視点が混ざり合い、循環しながら描かれる。
途中で話しが変化してくることも多々あるが、
それは嘘をついているのではなく、伝言ゲームの過程において
今言ったことが”たまたま”伝わらなかった偶然、という感覚に近い。
それでも彼、彼女らの言うことをすべて信じていると時々、
わからなくなることがある。
それは、例えば誰かに「ずっと好きだよ。」と言われたとして、
それを信じていいのかどうかわからない気持ちに似ている。
人と人とが完全に”すれ違う”時。
時折軋むような音が聞こえてくる瞬間があった。
その音を聞くためにすれ違うのかな、と思うと無性にオモシロオカシくなるのでした。
ジョセフ少年の告発(ご来場ありがとうございました!)
東京パリ帝国
プロト・シアター(東京都)
2010/05/14 (金) ~ 2010/05/17 (月)公演終了
満足度★★
確かに恋と青春とロックンロール!の話ではあった。
目がチカチカするほどカラフルな衣装や、突拍子もなくはじまるギャグに寸劇、生マイクを使って柱書きをナレーションするスタイルなどは何処となく昭和臭を漂わせ、おまけに往年のロックスター(に扮した)たちも登場するものだから、とっても賑やかな雰囲気で、概ねつかみはOK!なのだけれども、単発的な自己完結型のエピソードが多く、物語がうねり出さぬまま終息していったこと、単純に登場人物が多すぎたのか、上手いことさばき切れていない側面があり、全体的につかみどころのない作品になってしまったように思われるのが本当に惜しい。
ネタバレBOX
とある国の15歳の王子、ジョセフ少年は、尾崎豊『15の夜』に感化され夏休みのある日、幼馴染を誘ってバンドを結成する。メンバーは幼馴染のモンテスキュー少年とユキちゃん。モンテスキュー少年はギターを、ユキちゃんは鍵盤を担当するのが決まった。
ジョセフ少年の「やっぱバイクは中免でしょ。」という鶴の一声で、盗んだバイクで走りだすべく(?)一同は自動車学校の門を叩くことになるのだが、3人はお金を持っていないため、自動車学校に通うお金を貸してもらえるよう、そこら中の自動車学校を尋ね歩く。
ようやく、お金を貸してくれる自動車学校が見つかって、無事入校出来ることになった3人だったが、この自動車学校には脱税をしているらしるらしい校長先生や、人類のやさしさを発見したら博士、エスパー少女まみ、女優志望のビバリなどがおり、これらの珍妙な人々に3人は巻き込まれていくのがはなしの主。
その中で往年のロックスターらが劇中劇として登場したり、モンテスキュー少年がユキちゃんを、ずっと好きだったとカミングアウトする話、自動車学校の先生のもとに届く脱税の通知書だと思われた面々は、実は郵便局員が国税局と恋文を交していたという話、エスパーまみが14歳の時にビートルズとセッションした話など、とりとめのないエピソードが挿入されるのだが、バンドをやりたい3人にしても、自動車学校の人々にしても、あまり他者に関心がないのだろうか自由奔放に振舞っていることがどうも気になってしまった。ましてやジョセフ少年の結成したバンド、結成しただけで活動してないし、持ち歌ゼロでやる気なさすぎだし。笑
作品タイトルは、集団のなかで自分勝手に振舞う人間たちの傲慢さ、その本性を告発するものかと思ったのだが、ジョセフ少年はモンテスキュー少年が好きということをみんなの前で告白しただけで終了…。(それ、告発じゃないじゃん、みたいな。)
私には正直言ってこの物語が何を求めていたのか、何を伝えたかったのか、イマイチよく理解できなかった。けれど好きなシーンはあった。それは、緊急招集されたロックの神さま、シド・ヴィシャス、フレディー・マーキュリー、カレン・カーペンター、ジョン・レノン、尾崎豊ら(に扮した)が登場し、we will rock youをうたう場面。
そういえばあの時、神の子が見つかった!なんてセリフをフレディーが言っていたけど、ロックの神からのお告げによってロックに目覚めたジョセフ少年をもう少し丁寧に、描いて貰えたらよかったかな、とおもいました。たとえば、ロックに目覚めた少年は、たった一瞬にしてバンドを結成。尾崎ばりにバイクをふかすべく、まずは皮ジャン&皮パンのオーダーメイドを実母に要請。バイクに跨るに相応しい姿が整ったところで自動車教習所の門を叩く。だがそこは自動車教習所とは名ばかりの、ROCKの教習所(ロック=ギターの速弾き=速度=車。的な)であり、ジョセフ少年らはエスパーを駆使した珍妙な人々にROCKのイロハを伝授され、ロックの殿堂入りをめざすべく地獄の逃避行(修行)を敢行する・・・などの方法で。
それからロックやりたいって動機を、モテたいとかスターになりたいとかそういうベタで不純な動機がプラスαあってもよかった気がしたのと、モンテスキュー少年は、名前からして哲学的な響きがあるのだから、それを生かして会話の端々にやたらと偉人の名言や格言を言うクセを作るのも手だったようにおもいます。たとえば、バントやろうぜってジョセフから誘われた時には「ロックはトモダチがいないヤツのための音楽なんだ。(←by甲本ヒロト)自分はビリーブマイセルフで行く。」と抗うなどして。
「ユー・アー・マイン」
クロカミショウネン18 (2012年に解散致しました。応援して下さった方々、本当にありがとうございました。)
駅前劇場(東京都)
2010/05/12 (水) ~ 2010/05/16 (日)公演終了
満足度★★★
シチュコメの教科書。
どうにかしなければならない状況下において困難を回避するために交される確信犯的な嘘。
嘘を物語るために、段取りを取り決めるひと、嘘をつくことを任されるひと、勘ちがいをして参加してしまうひと、嘘に騙されるひとたちの会話のなかから丁寧に紡ぎだされる笑い。
蜘蛛の糸のように複雑に絡み合った相関図も去ることながら、人を笑わせること、人に笑ってもらうこと、人が笑うことについて論理的に考察し、緻密に計算されたまるでシチュエーション・コメディのイロハを網羅する教科書とでも言うような趣きのある脚本と演出、すれ違う人間のおかしみを全力で演じる役者陣がとにかく素晴しい。またセット、挿入曲、衣装などのスタイリッシュ感もグッド。ただ、意外と浮足立ったキャラクターやベタなギャグで突っ走っているドタバタ感があり、少し違和感を感じてしまった。また中盤以降、実は○○だった。と続く種明かしは、これまでのパターンからある程度先が読めてしまうためにだんだん驚きが薄れてしまい、そうかといって登場人物たちの感情の変化がイマイチ伝わってこず、物語にイマイチのめり込めなかった。しかし最後まで笑わせよう、楽しませようとする団体の意向はひしひしと伝わってきた。コメディというフォーマットに乗せて重厚な人間ドラマをも絡み合わせたらきっともっとすごい作品が生まれるようにおもう。次回作に期待したい。
今宵 片眼は死に場所を探す
Island
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2010/05/13 (木) ~ 2010/05/16 (日)公演終了
満足度★★
ちょっと盛り過ぎてしまったような…。
呪われた王家の血筋と禁断の愛を、過去と未来を交錯させながら描く話。
アングラ演劇風のエモーショナルな喜怒哀楽表現を基調とするキャラクターや、現代風の若者言葉を多用した自虐的でコミカルなキャラクターたちが、余所者と内側で暮らす人々の差異を示すようで刺激的だったが、場面説明をするセリフが多かったためか、エキゾチックなイメージを持つというところまでは喚起されず。全体的にスローテンポで話が進んでいくことも気になってしまった。130分。
ネタバレBOX
全てが占いに支配される国家とHPには書かれているが、むしろ描かれるのは、占いを信望している、ある王家に脈々と受け継がれる奇妙な因縁の血縁関係であり、陰謀は国家レヴェルで行われるプロパガンダ的な事情ではなく、ある者がある者に対する歪んだ愛憎という形で提示される。
上流階級の家には、お付きの占い師がいるという習慣がこの国にはあるらしい。それはファオラ家でも例外でなく、ラウという高名な占い師を雇っていた。
ラウはこの家に住む、シャオラという美しい家主が好きなのだが、シャオラにはメイリンとメイシャンという双子の子どもがいる。双子が厭わしいラウは、
「この家には呪われた双子がおり、ひとりはもうすぐ死ぬだろう。」とでっちあげ、自暴自棄になった双子の兄、メイシャンは毒薬を飲んで自殺。
残ったメイリンも正気をなくし、後追い自殺をするために毒薬に手を伸ばす…。
ファオラ家の召使や、シャオラ、シャオラの弟やその奥さんやらが慌てふためく頃、高名な占い師であり公安の人間でもあるウーフェンが、ラウを逮捕するために、ファオラ家に乗り込んでくる&タオも一緒に乗り込んでくる。驚くシャオラ。
何故なら双子の兄妹であるシャオラとタオは14年前、ラウの占いの結果によって生き別れ、タオは死んだはずなのだった…。
ふたりの感動の再会を目にし、腹を立てたラウはファオラを人質にとり、ファオラの首筋にナイフをあてる。そして襲いかかってくるウーフェンに対しナイフを振りかざし、ついでに(?)タオを刺す。
一方、ファオラ家の召使アンジゥは自分のお腹のなかには、メイシャンと交わった子どもがいると告白。毒薬を口にしたメイリンが、その後口にしたのは解毒剤だったのか、そうではなかったのか、シャオラの弟と弟の奥さん(医者)は揉めるが結局ウヤムヤになる。
最後、意識が遠のくタオとシャオラが闇のなかで抱き合うシーンは美しく幻想的だった。
あと、かなり省略して書いてしまったが、物語の半分くらいはワンとその仲間たち、途中参加するタオとの珍道中だったり、14年前のファラオ家を回想をしたりするけれども、ワンと仲間たちは非常にコミカルなキャラクターで回想シーンにもしっかりツッコミを入れるため、非常にテンポがスロウリィ…。終盤は驚くほどの速さで話が展開するが、ちょっと急ぎ過ぎてしまったかな、という感じも・・・。もしも前半からサスペンスフルなタッチを意識してタイトに進めていたならば、かなり印象が違っていたようにおもう。
また、国家レベルの陰謀については最後のほうにちょこちょこっとそれらしい言葉が出て来たが、国家繁栄=子孫繁栄などという関係性がなかったため、ちょっと後付け感があり…。いっそのこと、陰謀か、愛情かどちらかひとつに的を絞り、双子をモチーフとしてとり込むと、ボリューム感は減るものの、各々の心理描写にあてる時間配分を増量せざるを得ない状況に陥るはず。
最後にもう一点。意味深な公演タイトルはとても好きだったのだが、片目=義眼=眼帯だったのは、なんだかちょっと勿体ない気がした。
『エレベーター音楽』公演終了 ご来場ありがとうございました!!
津田記念日
王子小劇場(東京都)
2010/05/12 (水) ~ 2010/05/16 (日)公演終了
満足度★★★★
だから、あなたは、そこにいて。
最初は頭のてっぺんにお花が一輪咲いているようなひとたちの現実味がなく、進展しない会話や難解な振る舞いに目が点になりつつ俯瞰しながら観劇していたけど、それがだんだんゴールを知らないロールプレイングゲームのなかで苦し紛れにロードとセーヴを繰り返しているような、真っ暗でそこには誰もいなくて、あぁきっとこれが世界の果てという場所なのかもしれないな。なんて、とにかく途方もないところへ来てしまったものだなぁというどうしようもない感覚に陥って、逃げ出したくなったりもした。
夜の音とか、風の音とか、哀しみの音とか、そういう音を聞いて、
終わる世界でこれからも生きていくことに、勇気もらいました。
ネタバレBOX
迷宮の入口のような不自然なアーチ状の木枠。その後ろには、びっくりするほど平坦な黄土色の雑居ビル…。ここ、がどこなのかまるでわからない。なんならビルごと宙に浮いていてもいささか不思議ではない。隕石が衝突しあうような、轟音が鳴り響き、ものがたりははじまる。
星がキレイな夜、ハミングバードのようにビルから飛び降りた女と女をずっとみていた壁との交流、女の意識下で繰り広げられる王女とサボテン&守衛らの寓話的な会話が夜が明けるまで交互に展開するのが主な流れ。
劇中に何度も「終わる」「世界」ということばが繰り返されるけれども、それは女が存在しない世界は、女がいない人生は、女にとって全く意味のないことであるから世界は終わる、ということ…。
あっけなく地上に落下した血まみれでぐっちゃぐちゃの女に壁は話しかける。
女は最初は訝しむがだんだん心を開きはじめ、野良猫を追いかけたことや、おいしいお好み焼きの食べ方など、他愛のない会話を通じて失いかけていたアイデンティティを取り戻しはじめる。と同時に女は、生きる意味を見失ったことを思い出す。いっそのこと戦争に行ってしまえばよかったのかな、とも。
壁は、女は本気で死のうとおもったようには見えないし、カミサマや運命も信じているのだし、世界を(=女)終わり(=死なせない)にしたくないとおもう。
一方、守衛のひとりは身体がしびれると訴えていた。
女王さまは「それは世界に対して敏感に生きていることなのよ。」というものの、世界の終わりは近づいていて、もう生きることはできないと知っていた。だから女王さまはオモシロイ話をするよう、守衛に言いつける。
守衛のひとりは女装したり、もうひとりの守衛は唐突にレズビアンであることを告白したりするも空回り。王女さまはちっとも笑ってくれない。今度は、サボテンの番。サボテンは自虐的に誰かに触れると、きまって棘で傷つけてしまうことにジレンマを抱えていることを告白するがもちろんそれは聞き流されてしまう…。
怒ったサボテンはある告白をする。それは、女王をはじめとしたこの4人は、よんぶんのいちになっていてもう生きられない、ということ。
すると女王は、ココロとココロのスキマに入りこんでサボテンはひとりだけ生きようとしたのではないか?と罵倒する。
そうこうしている間に時空は歪み、女王さま(=飛び降り自殺した女)の完全な死が迫っていた…。
それを止める方法はただひとつ。4人一緒にソウルトレイン(魂の旅路)に乗らなければならない。しかし女王さまはもう動けない。サボテンは女王さまを見殺しに出来ず死(意識の停止)を選択。イチかバチかで残りの守衛2人が手を繋ぎ、列車に乗り込む。真っ暗なトンネルの先にあったのは、天国だった…。
何のために生きているのか。
わからなくなることは誰にでもあるものだとおもう。
この物語は、壁と女の会話ではココロが、王女らの会話ではカラダがバラバラになってあの世で取り戻す、というとても哀しいはなしだった。
大切なのは、あなたがいないと寂しいとおもうシンプルな気持ち。
そしてちゃんと相手に伝えてあげること。それだけでいい。
個人的には、世界が反転する話は大好きなので、世界観に異論はないです。ただ、体内から溢れる音楽がたとえば、タップダンスのステップや手拍子や足音などの音同士のコミュニケーションがもっと取れていれば、更に世界観が深まるようにおもいました。
大家族、はじめました。
ひつじ同盟
タイニイアリス(東京都)
2010/05/01 (土) ~ 2010/05/04 (火)公演終了
満足度★★★
家族をお試し期間で選定する試み。
再婚した親を予期せぬアクシデントで亡くした両家の連れ子たち同士が、本当の家族になれるのか、確かめるためにひとつ屋根の下で生活を共にする話。
期日を決めてお試し感覚で敢行する、という着想が荒唐無稽で面白く、ミュージカル調の導入部やラストのダンスのようなポップさやギャグマンガのようにテンポよく進んでいく場面と、苛立ちや孤独感などの心の葛藤をみせる場面、スピード感を要する場面での空気感の高低差が丁寧でした。
ネタバレBOX
再婚した両親がハネムーン先で事故って死んだ。
残されたのは、父・野比トウジの子供4人と母・源カレンの子供4人。育った環境の違う彼、彼女らは5日間という期間を決め、共同生活をはじめることに。
家族は社会の最小単位と言われるように、家事をするひと、お金を稼ぐひと、甘えるひと、に役割分担を振り分けられる。
それを取り仕切るのは24歳塾講師の源 七海。
彼女は、家計簿をつけているため、家族の経済状況をよく把握している。
そんな彼女が気に入らないのが大学生の野比じゅん。
じゅんは七海に、稼ぎがないくせして昼食代をせびるのはどうか、となじられることに心底腹を立てている。両家が共同生活をすることにも反対で、サッサと5日間が過ぎてしまえばいいとおもっている。
そんなじゅんの意見に賛同しているのが、高校生の源ヒカル。
なぜならじゅんはヒカルのあこがれのひとだから。
物語は七海とじゅん、じゅんとヒカルの関係性を中心に、ラブラブな源大地&野比まちの社会人カップル、家事手伝いの野比のぶ、ニートの野比めい、女優志望の源美空が出入りし、そんな両家の子供たちの様子を幽霊として蘇った父トウジと母カレンが時々ちょっかいを出しながら子供たちが仲良く暮らせることをあたたかく見守っている…という筋。
後半、ヒカルの失踪事件をきっかけに、これまで足並みのそろわなかった家族が、ほんとうの家族をはじめたことに、安堵した。「いつ死ぬからどうなってもいい。じゃなくていつか死んでしまうから今どうするかが大事。」というセリフもスーッと胸に染み入った。
めいと美空の立ち位置はちょっとカブっていたような気がしたけど、助け合っていきることの大切さを投げかけるささやかなメッセージがあったため、浮ついた印象は受けなかった。
猫
シンクロナイズ・プロデュース
吉祥寺シアター(東京都)
2010/05/06 (木) ~ 2010/05/09 (日)公演終了
満足度★★★
猫と一緒にいる意義。
走馬灯のように駆け抜けたひとりの青年の人生を、彼自身が見る多層的な夢のなかで妖艶なサーカスやおどけるピエロ、あやつり人形などの虚構を介在させつつ幻想的に描こうとしている心意気は素晴らしかったが、如何せん妖艶なサーカスの見せ場の比重が大きくまた、青年の鬱屈したコンプレックスや自分を受け入れることを拒否する社会に対する怒りや憎悪、砂を噛むようなやりきれなさ、青年と猫との交流の中から紡ぎだされるはずの人間のあるべき姿、社会や家族の本質などが見えにくかったため、シーンごとに分割して観ると良質なのだが全体を通してみるとやや散漫であった。
ネタバレBOX
舞台装置は天井の中心部分に取り付けられた円形のカーテレールを取り囲む、サーカステントをモチーフにしたカラフルなストライプ模様の生地とその後ろに置かれた高台のみで、ほぼ素舞台に近い状態だが上手側にピアノ線のような糸がダイヤ柄状に張り巡らされ、また舞台両サイドの中二階にのぼる梯子を取り付けるなどの細工を施しており、独創的な舞台空間が創り上げていた。ただ少し気になったのは、梯子が素の状態だったことと、高台の置かれている位置。前者はペイントなり、紐を巻くなりしした方が雰囲気が出るように思え、後者はもう少しサーカステントから距離を置いた方が舞台の奥行きが出たのではないかとおもう。
冒頭の、高台から飛び降り自殺をする青年の姿を、やわらかな音楽にあわせてゆらゆらと漂いながら見上げる猫たちと最後の、地面でうつぶせになって死んでいる青年の描写から、この物語が、飛び降り自殺をする青年が地面に落ちて行くまでのほんの一瞬の間に見る心象風景を世間でよくいう『死に際に人は走馬灯のように人生を振り返る』という仮説にならい、青年がこれまでに関わってきた家族との関係や、人生で起こった出来事などを虚実交えて総括するものであったというオチは個人的には好きだが、どうして彼が自分にも世界にも絶望をするまでに至ったのか、その経緯や青年の心の暗部の描写が不明確だったため、ラストの衝撃度が薄かった。
物語の展開は、青年が何かしら思い出した順番に進んでいくために、時系列はバラバラであるが、並列すると、家族と過ごしたあの頃を回想するうちに、サーカスの経営は破産してじいさんが病気になった悲しい現実や、仕事が上手く行かずにクビになった日のこと、膝をかかえてテーブルの下でじっとしていたあの日のことなどを思い出し、やりきれなくなった青年が猫のサーカス団という幻想や、猫を買収し、猫と一緒に孤独な日々を過ごした、という妄想をつくりだし、それらの妄想を食い止めるために、インチキ占い師が登場し、青年に、エヴァンゲリオンのテレビドラマ版の最終話的な、自己と他者における実存的な問いかけを、クイズミリオネア形式で尋ねる・・・。というものだった。
生きているのがツライと感じる青年が、痛切に求めていたことは、一体何だったんだろう。観ている間、考えていたのだが、結局あまりわからなかった。青年は自分の殻にこもり、だんまりを決め込んで、胸の内を話してはくれなかったから。青年の本当の気持ちを引き出して、青年を救済する役割が、青年の妄想が作りだした猫であるべきだったとおもったのだが、時系列をシャッフルするのに一生懸命なってしまい、青年の本心を描くところに気が回らなくなってしまったような印象を受けた。猫がストーリーテラーとなって話をぐいぐい押し上げていったら、また違う感想を持ったかもしれない。
Mr. & Mrs. Habit
劇団スクランブル
STスポット(神奈川県)
2010/05/07 (金) ~ 2010/05/09 (日)公演終了
満足度★★
真意は何処へ。
そこそこうまいことやっているようにしている風の建前と、相手に対する不満や不安を悟られまいとしてつく、小さな嘘のひとつやふたつくらいなんてことない!という開き直りにも似た本音を前提にして、そんな嘘をついていること自体、お互い見透かしていながらも、なしくずしの関係をつづけている倦怠期の恋人たちがすれ違う話。
登場人物たちの内面を照明で表現する方法や軽快なBGMによって、物語の流れを作りだそうとする演出はスタイリッシュな雰囲気を醸し出していたのですが、キャラクターの描き方がちょっと一辺倒だったような・・・。
ネタバレBOX
舞台は、清潔感のある1ルームマンションの室内。
同棲をはじめてから、かれこれ2年が過ぎた野江と木原。
木原は野江と結婚を意識していて、プロポーズを待っているが、野江は結婚をしたいとは思っているものの、そのタイミングは今ではないと思っている。
お互いの気持ちに微妙にすれ違っているふたりだが、別れるという選択肢はないようだ。
居て当たり前の存在になっているのだろうか。その真意はわからない。
そんなふたりには、お互いに知られたくないヒミツがある。
それはふたりして、美味しくないと思っているピザをやせ我慢をして注文しつづけている、ということ。
ふたりとも、お互いに対して「こんなモノのどこが美味いんだろう。」と疑問に感じていること。
とても些細なことですれ違うふたりの内面を、赤と青の照明を使って、モノローグさせる演出方法はオシャレ感がある。BGMも自然に耳に入ってきて心地よく、ここまでの流れはほぼ完ぺきだったが、この後の物語の展開に難あり。なぜって、ふたりと同じサークルの仲間だった砂原と木原が実は浮気をしていた、というエピソードと、砂原の彼女である雨実と野江のフランクな言動が、ほぼ終盤まで続いたから・・・。
同棲中の、マンネリ気味のふたりという設定は悪くないと思う。
ふたりがすれ違うのもわかる。
物語の展開も現実的にはよくありそうな話ではある。
ただ、それが=リアルで結実するには、リアリズムへ昇華させるためには、ふたりの関係性を象徴とする何かが欠けていたように思えて手持無沙汰だった。それを補佐するものは、ラジオから流れるDJの声と場面をリンクさせるとか、スクランブル交差点の雑踏とか。そういう音であるはずだったとおもう。
そして願わくば、互いを想いあっているからこそつく嘘、というものを、嘘をつく時のこころの痛みを、もっと丁寧に掘りさげてほしかった。木原と野江がマンネリ化しているとはいえ、お互いを好きあう気持ちがイマイチ伝わってこなかったから・・・。
それから役者の動きや表情が全体的に固かったのも気になってしまった。
相手の目をみて話すこと、相槌をうつこと、相手の欠点に目を瞑ること、笑顔で交すこと、大事です。
旅、旅旅
ロロ
王子小劇場(東京都)
2010/05/06 (木) ~ 2010/05/09 (日)公演終了
満足度★★★★
茶の間 de 脳内浪漫飛行
ロロ史上、最高傑作!というので、行ってきた。家に居ながらにして旅してきた気分を味わえるよう、子供がよくやる”ごっこ遊び”を中心に、あの手この手をつかって力の限り工夫して、満足感が得られるように家族が頑張る話だったような気がするけど、それもどうだか定かではない。
というのも、旅の定義がきまった何かではなく、旅という単語から派生する何かの連続であったため、旅=観光だったり、魂の旅だったり、運命の人にめぐりあう旅だったり、人生そのものを旅したり、色々だったから。
だから、アレ?このひとさっきまでここにいたよね?あのひとが、もうこのひとじゃなくなってる!!なんていう状態がよくあった。なので理解を求めるとすごく混乱する。でも、意味を求めることを諦めて一度ロロワールドに身を任せてしまうとすごく楽しい。
特に、なにげないしぐさやふとした言葉が誰かに飛び火して、音が鳴って、リズムになって、また飛び火して、どんどん感染していってグルーヴ感が生まれて、さらにオカシナ人間模様がフィニッシュする瞬間は、オーケストラとサーカスとミュージカルを一度に観たような、オンリーワンな世界観で、それはそれは言葉にならないほど強烈な演劇体験!!
しかも登場人物たちは誰もそのことには気づいてなくて。観客だけがそれを知ってるから、すごい優越感で。思い出し笑いをしてしまう・・・。
好みはきっと分かれるでしょうし、共感も出来ませんけど、とにかく圧倒されたい方、観劇倦怠期な方、ほがらかな刺激を求める方、変なモノ好きさんにはうってつけ。軽く飛べますよ。笑
アメリカン家族
ゴジゲン
吉祥寺シアター(東京都)
2010/04/29 (木) ~ 2010/05/02 (日)公演終了
満足度★★★★
慈悲深くあるために。
たとえ死ぬほど嫌いでも、どんなにひどい目にあったとしても、何とか信じていたいとおもう気持ち。
だって家族を否定することは自分を否定するのと同じようなことだから。
許す、許さない、アリ、ナシ。二者択一でジャッジしないで正しい心でいたいけど、期待の持てない現実に感情のバロメーターがオーバーヒートしてしまったら、何かを壊したくなったり、誰かを傷付けずにはいられない欲望に振り回されてしまっても仕方がないのかも。
最後はボロ泣き。人間の弱さとかエゲツナさを乗り越えようと、ちいさな一歩を踏み出したことに感動した。120分
ネタバレBOX
所々がチープだったり、トリッキーだったりする適度に現実味のあるマンションの一室が舞台。窓はないものの下手側の奥はバルコニーになっていて、窓から差し込む光の角度や強度、色使いで何時くらいの出来ごとなのか、おおよその見当がつく。時間の経過を物語る照明がすごくいい。
深夜のシーンからはじまって朝、慣れない食事をつくった父さんと息子3人が食卓を囲うまでの様子が舞台上で淡々と無言で繰り広げられるなか、母さんが出て行った大まかな経緯〰牧歌的に行われている誕生日会の映像がプロジェクター越しに投射されたものが並行するため、家族の回想(願望?)と家族の現実を比較しながら鑑賞できるのが画期的。
物語は、家族の誕生日には家族揃って家族だけでお祝いをすることに強いこだわりを持つ光田家の二男のサプライズパーティー(といっても毎年恒例だからだいだいパターンは決まってるのだけど)の準備をはじめるものの、母親が居ないために争いごとが起きてしまったり、部外者がワラワラ介入してきたために、なかなか事が進まないばかりか、家族の秘密が暴露されたり、カミングアウトしちゃったりして色々と面倒なことになる・・・というもの。
家の中では絶えず誰かが誰かを責めたてていておっかないけど、部外者が賛同すると家族は怒る。これはあくまで光田家という特別な間柄でのみ、行使できる権限らしい。自分勝手でめちゃくちゃで、何かが著しく歪んでいて、何かが底なしに欠落しているキャラクターたちが無自覚に、ストレートに壊れている様相は、ほんとうに無様で悲惨。なのに、鋭利な刃物を生身の人間に向けることや、殺しに纏わる過激な発言が幾度となく繰り返されるうちにだんだんと衝撃度が薄れはじめ、パターン化されていく壊れ方のタイミングを掴んでしまうと、妙に心地よくなったりもした。
後半、バースデーパーティーに母が不在というあるまじき現象と、部外者へのストレスや嫌悪感や苛立ちを制御しようとする二男の背中ごしに、部外者たちが誕生日パーティーを勝手に仕切りなおす異常な光景が繰り広げられるなか、怒りを露わにしながら彼らから隠れるように身を埋めて、ソファーで不貞腐れ寝たフリしている二男に「風邪引くぞ」なんてぼそっと呟き、さり気なく毛布をかける父さんは、なんだかんだ言ったって優しい人で、二男もそんな父親を大きな存在だって認めたくないけど、ほんとうはわかってるんじゃないのかな。そう思うとたまらない気持ちになった。
そして、この後すぐに家族が一時的にすばらしい結束力でもって他人の不幸を蜜の味にして楽しんでいる部外者たちをまるで悪霊退治をするかのように敷地内から完全に追い出した暴動は、何とも病的で、決してフェアーなやり方とは言えないけども、ガツンと来た。
表向きは暴力的でありながら、家族の前では揃いも揃って照れ屋サンで。愛しているのに、ぶっ殺す!とか平気で言っちゃうひとたちだから。ちょっとした言葉のアヤですれ違ってしまったり、遠回りしてしまうんだな。
みんなほんとは何がベターかわかっているのに、思った通りになかなか出来ない・・・。そんな人間の至らなさが、未熟さが、不完全さがなんだかとても愛おしかった。
ひょっとして壊れることは、失うことがすべてではない。って信じていたいから。なのかもしれないけど。
深い闇(痛み)が心の深奥まで到達しないように、家族たちは傷つけあいながら、かばい合って、必死に守ろうとしていたんじゃないかな。この家族を存続させるために。はなればなれになるのは寂しいけど、ちょっぴり成長した息子たちがひょっとして、家出した母さんを説得して連れて帰って来るんじゃないのかな、って、ラストのゆるやかに傾いていく陽の光のなかで、ぎこちなく言葉を交す家に残った父と子を見て、おもった。
満点にしなかったのは、母が父からDVを受けていたくだりや、長女の真穂子と夫の関係が尻切れトンボなっちゃってたから。(アフタートークでたまたま、続編があると聞き、腑に落ちたのですが・・・。)
あと、包丁を振り回したり、全員死ね。とか軽率にやってしまう辺り、アカルイ狂気や安直な絶望感が混ざり合うようで好きだったのですが、衝動とノリで走り過ぎていて精神面や感情面での、うねりの描写がやや追いついていない印象を受けました。それが狙いだったのかもわかりませんが・・・。突発的な行動って、子供のころの失敗談とか兄弟ゲン化カとか親に叱られた記憶とか、根に持ってるくだらないことが突然怒りにすり替わるようなイメージがあるので、ね。
リングワンダリング
Monochrome Plus
シアター風姿花伝(東京都)
2010/04/22 (木) ~ 2010/04/25 (日)公演終了
満足度★★★★
悪夢に魅せられて。
眠りのなかで覚醒した主人公が不可思議な数々に出会い『わからないけれど知っているような気がする』事柄を、おぼろげな記憶を頼りに紐解くお話。
バランスを崩した現実感とシャッフルされた時間軸、ワタシの夢の中へワタシが翻弄されていく筋書きは、ありがちではあるものの、SF好きにはたまらない内容。
核心に近づくたびにすれ違う様子を、前触れもなく擬物表現をはじめるところや、ひとつの単語を多面的な使い方をするところ、独特のセリフの間などを用いて表現されており、また、声の響きや風の匂いなど目に見えないものを色で取り囲む情景が、ノスタルジックで素敵でした。
ネタバレBOX
舞台の真ん中に、うねうねと天上に登っていく蛇のモチーフの彫刻が入った虹色の大きな長方形の塔があり、その周りを取り囲むように配置された、長方形の塔と同じように虹色に塗り込められたドーナツ状の舗道がある。下手に向かってくだり坂の、アンバランスな形状の舗道を行ったり来たりして物語は進んでいく。
気がつくと見知らぬ場所にいたイチゴのもとへやってきた悪魔のように全身真っ黒のパピコと名乗る変な妖精は 「アナタは桜の木の下で居眠りをしたのだから、スナークハントをしないと桜島からは帰れない」と告げる。
スナークとは記憶を食べて、記憶を虫食いだらけにするオバケで、ハントをするにはスナーク(信用できないヤツ)の目前で本気で死ね。と願って一回両手を叩くだけでいいらしい。
「試しにパピコを殺してごらん。」言われた通りにしてみると、パピコは死んで友だちのチトセの声が聞こえた。「いーっちゃん。」
我に返ったイチゴは、悪い夢を見ていたことを悟る。
一方、桜島ではイチゴの記憶を整頓する作業と、イチゴにトラップを仕掛けるための記憶の書き換え作業が、クランキーらの手によって同時進行されていた。
ひとつめは、イチゴとチトセが大学時代に所属していた都市伝説のサークル仲間と雨の日にしか現れない喫茶店がこの街のどこかにあることを、専ら話題にしていた記憶。
ふたつめは、子供のころにイチゴが近所の古道具屋の鍵の掛かる金庫(?)のなかに、ベルとマーブルを閉じ込めてしまった記憶。
このふたつのエピソードを完全に思い出した時、マーブルが妊娠した赤子は、イチゴの記憶の”鍵”を片手に握りしめて出生し、その鍵を受け取り、マーブルとマーブルの夫によって擬物化された”謎を解き明かす扉”をこじ開けると、雨の日にしか見えない幻の喫茶店、カフェ・ボエールにイチゴはいた。何かがおかしい・・・?
迷いこんだ夢のなかでワタシの意識が覚醒すると、今度はパピコやクランキーらがやってきて、なぞなぞを出題。「さて、スナークは誰でしょう?」当てずっぽうで、都市伝説サークルに所属していたベルに狙いを定め、両手を叩くとベルは死んだ。ホッと胸を撫で下ろすイチゴに「スネークはひとり。だなんて誰が言った?桜の木の数だけ、記憶はあるのよ。」とパピコは笑った。
「いーっちゃん。」友だちのチトセの声で目覚めたイチゴ。ふたりは笑い合う。
ここがどこか。なんてふたりには、まるで関係がないように…。
見ている本人ですら全てを思い出せない断片的な夢を、感覚神経を研ぎ澄ませて具象化したような舞台だったため、夢と現実の境界線が曖昧で、どこまでが嘘でどこからが本当なのか最後までよくわからなかったけれど、正解がひとつではないことは、安堵感にも似た不思議な余韻を残した。これは矢張り、俳優の表情とワンテンポ余白のある台詞の間に、虹色の照明がゆっくりと発光していたことが大きいように思う。
ストップウォッチとかめんどくさい。サボりたい。なんてぼやいてる時間ちゃんと、縦・横・高さだけ気にしていればいいから三次元なんて楽勝!って張りきっている空間ちゃんの観念キャラは、ちゃんと仕事をしてくれないと全人類にとって死活問題な、スケールのでかいことを話題にしてるのに、その辺の公園でダラダラしゃべってるような雰囲気で愉快だった。彼女たちが重い腰を上げて記憶がバラバラになっているイチゴに意外と貢献していたのも妙。ただ、後半に挿入される、春眠と名乗る異人が出て来て、暁が覚えられない、という『春眠暁を覚えず』になぞらえたベタな寸劇は正直に言ってしまうと、不要に感じた。
クローバー【終了】
東京アシンメトリー舘【閉舘】
レンタルスペースさくら・中目黒(東京都)
2010/04/16 (金) ~ 2010/04/26 (月)公演終了
満足度★★★
真ん中にLOVEがあんだよ。
ワイルド、フレンドリー、正義感の3拍子が揃ったキャラクターに、あまり他人に深入りせずに一歩引いた目線を保持しながら時折軽いジョークを飛ばし合う光景。
衣装、セリフの言い回し、ジェスチャーなどの外的要因含めてとにかくアメリカンであることにこだわっており、どこかで見たことのあるアメリカが、ぼくたちわたしたちの思い描くアメリカ像がギュッと凝縮されたような舞台。
会場の解放感もアメリカ的。75分。
ネタバレBOX
リップサービスなんだか本気でズレてんのか定かではない、LOVEが不用意にナナメってるひとたちが入り浸るレンタルボックス店、CLOVERを舞台にした群像劇。
大きなハプニングや時間軸のトリックなどは特になく、あくまで会話と振る舞いによってエピソードを小出しにしていくストレートプレイ。
物語はここに来ればすっげースクープがゲットできるのではないかと思い、CLOVERを取材しに来た大手出版社の崖っぷち契約社員、大橋ツバサの視点を通して描かれる。
このCLOVER、昼はレンタルボックス、夜は闇のレンタルボックスとして運営されている!って巷ではまことしやかにささやかれていて、その秘密を探るため、親友のリョーコに掛け合ってもらい、ツバサは取材にこぎつけた。リョーコはCLOVERの店長・シューの恋人で、シューはこの取材に乗り気ではなかったらしいが、リョーコの親友だからと渋々了解したという。・・・にしてはこの店長、店内を撮影しようとするツバサに対し、もっとオレを撮ってくれ、とせがむ無駄にワイルドなオラオラ系。笑
話は前半、このトゥービーワイルドなシューのナルシストぶりに辟易しながら傍観することになる。バーカウンターが手前に設置されている細長い奥行きのあるギャラリーをそのまま使用しており、CLOVERのバイト店員・のぞみは、そのカウンターのなかで平山夢明の本を読んでいたりもするが、基本的に放置プレイで、本筋に関わってくることはほとんどなく、彼女についての情報はおおよそにして、ハンニバルのレクターのモデルになったジェフリー・ダーマーに美学を感じるとか本気で言ってる害はないけど、無邪気に何かがズレてる人ってことくらいしか出てこない。都市伝説好きののぞみから、闇のレンタルボックスについての情報を聞き出したりすると、色々出てくるようにおもったのだけど、ツバサはシューを取材することに一生懸命になってるためか、話はさほど膨らまない。
誰かに口止めされているのだろうか。誰もこのことについて口を閉ざす。
闇のレンタルボックスの謎を知ってるのは、どうやらオーナーの彼女のアケミさんだけらしい。真実を炙りだすことを職務とする記者らしくアケミさんに問い詰めると、アケミさんは深く関わりあうと命を落とすと警告を鳴らした。
そんな折、強烈な個性を持ったふたりがツバサを惑わせる。ひとりは趣味で創作した作品をレンタルボックスで売っている大手家電メーカー社員のメガネ。もうひとりはちょっとした訳ありでワンボックスのなかに住む、電波少年的箱男の中国人、チェン。異なる理由でレンタルボックスを利用している彼らの振る舞いとツバサとの関係性が中盤以降、物語の中核となる。(ここでもちょっとズレてるキャラクターは健在で私の位置からは、CLOVERのオーナーの彼女、アケミさんが営業トークした後にチューして渡してくれたお名刺のキスマークに頬づりしちゃったりアケミさんの携帯番号を暗記するために、何度も繰り返し呪文のように唱えちゃったりする変態ちっくなメガネくんがとてもよく見えた。)
メガネくんは創作した頭がもげた大仏(!)をお世辞で褒めてくれたツバサに一目惚れして恋心が暴走。魂込めてつくった自分の作品を褒めてくれたことは、自分のすべてを認めてくれたってことなんだ!なんて自意識過剰に確信しちゃって今すぐツバサにプロポーズしようとする彼を、シューやリョーコは止めさせようと躍起になる。
後半、今日が〆日だ。との連絡が本社から入り、肝心の裏レンタルボックスについてスクープがまだ取れないことに追いつめられたツバサはついに、現実から逃走し、夢の世界でチェンと出会う。彼は夢の世界の住人で、とても自由に粘土で創作をしていた。そこで誰にも言わないでいた本当の気持ちをひとりごとのように呟きはじめるツバサ。それは付き合っていた恋人と将来を考えたときのこと。仕事なんかしないで彼のために生きることを選ぶことは”幸福な挫折感”なんじゃないかな。って考えたこともあるってこと…。膝を抱えてうな垂れるつばさにチェンは「わかるよ。」なんて笑っていう。チェンは言葉を理解できないから。そう安心していたツバサは衝撃を受けるが、チェンこそが私を本当に理解してくれるひとなのだと悟る。(背後にずっと流れてるエレクトリカルパレードが、胡散臭さとシニカルさを助長させていて効果的。)
程なくして現実世界に戻ってきたツバサにアケミさんは、書きたくもない記事なんか書かなくていいし、これ以上CLOVERを詮索して危険な目にあうようりも、安定した収入のあるメガネと結婚したら、どう?なんて一般論で迫めてくる。そして判断がつかぬうちにオレと一発ヤッタらいいスクープを与えてやる、なんて言いよってきたシューに魔が差してしまう・・・。結局。あんたバカね、なんてアケミさんに罵られながらもツバサはチェンを選び、一人前の記者になる夢を追いかけていくことを決心する。
誰に何を言われようと、最後は自分自身でしか決めることはできない。
迷いのない選択ができた時、ひとは4つ葉のクローバーを探し当てた時のような喜びに出会い、そこから本当の人生がはじまるものかもしれない。
ポップな台詞の掛け合いとアメリカンな世界観。を基調とするコンセプトから、何となく面白いことを言い合っているオフビート感を想像していたのだが思いのほか、自分は何者になりたいのか。今後、どんな人生を送りたいか。という誰もが一度くらいは考える普遍的な気持ちをテーマにしており、好感を持った。また場面転換や、心情を表わす表現として要所要所で用いられるダンスがブロードウェーミュージカルみたいで(←映像でしか観たことないけど)、ただ歩く。という行為ひとつにしてもキャラクターの特性が生かされている演出にセンスを感じたが、”観て触れる新感覚の芝居”と言える程のイメージは喚起されず。
特に触れることに関しては、レンタルボックスに置いてある品物に上演外の時間に手にとっみれることだけではなく、CLOVERを紹介する際の「どんなモノにも歴史がある。」という台詞になぞらえて解説するなり、CLOVERで働く者がリスペクトしていることなどを媒介にしてCLOVERがこころの深奥に触れ合える場所に成り得ることを、あるいはクローバーの名にあやかって、ハッピーになれるかもしれない場所であることを、もっと踏み込んで描く必要があったようにおもう。その役割を担うのは恐らく、店長のシューであったはずなのだが、ちょっと面白い自己中キャラというだけで、客に対して無関心で、主張はあるものの、信念が貫かれていなかったのは勿体ない気がした。CLOVERの真ん中にLOVEがあるのなら、あなたのなかにもLOVEはあって欲しかった。
あと、私の観た回がたまたまそうだったのかよくわからないが、客入れ時に出演者同士であったり、関係者の知り合いらしき観客とがお喋りをしており、そのあまりにも内輪的なノリにまったく馴染めず、受付を済ませた後、開演前まで近所で時間を潰してから行った。お喋りをするのは大いに結構だが、アメリカンな人たちならば、観に来た全員に楽しんでもらえる雰囲気作りをまず第一に考えるのではないだろうか。作品内容にさほど悪い印象を抱かなかったため、この点については少し残念だった。
もう一点補足すると、役者たちがえ?もうはじまるの?みたいな演劇的でない素の状態で舞台となる場所にしばらくいた後に、これから始めます。って前置きがあってから本編に入ったけど、それは狙ってやったことなのかどうかと疑問だった。前置きなんかしないで音楽がバーンて掛かった瞬間にキリっと表情が切り替るとメリハリがついて恰好いいんじゃないかな。
『オシャレ紳士 イン ワンダーランド』(ゲキバカ西川康太郎、石黒圭一郎、王者舘池田遼ら出演!共演は梅棒!!)
男衆ver.2.0 おしゃれ紳士
アサヒ・アートスクエア(東京都)
2010/04/16 (金) ~ 2010/04/17 (土)公演終了
満足度★★★★
脅威!ザ・Jパワー!!
大学内におけるダンスサークルの発表会と忘年会の宴会芸を極限までハイブリッド化したような内容。
普通だったらキワドイ路線をお洒落と紳士のオブラートで包みこみ、J-POPに合わせてぶりぶり踊り、5分かそこいらの曲のなかに起承転結のあるストーリー性を持たせるところが演劇的でハッとする。
ビートルズが好きだのセックス・ピストルズがカッコイイだの言っていても我々やっぱり日本人。J-POPは我々の故郷ですから否が応にも血肉湧きおどる!
ネタバレBOX
この公演は開演前の1ドリンクのチョイスでノレルかノレナイか概ね決まると言っても過言ではなかったようにおもいます。何というか、ホロ酔い気分で観るのが丁度いい感じのお芝居だったので、アルコールに毒された冷静でないオツムで観劇したのはイグザクトリーでした。なんせ、冒頭に登場する黒執事以外キャスト全員、裸にネクタイ&シルクハットですから(下は黒いズボンを履いてましたが。)私のなかのお洒落感は一瞬にして崩壊しました。(なぜなら私のなかでのお洒落紳士像は、たとえばジャン・ポールベルモントや舘ひろしのようなジェントルメンだからです。)
しかしスターウォーズのテーマ曲がかかり、キメキメでポージングするお洒落紳士らの背後から真っ赤なライトが照らされて、公演タイトルのワンダーランド的な要素でもある「エルドラドの秘宝にいざ行かん!」
というようなフレーズを言ったかとおもえば今度は「ざーんこーくーなてんしのよぉーにー」とエヴァンゲリオンのテーマソングの残酷な天使のテーゼが挿入される。この一連の動作にノックアウトされてからというもの、この後も何不自由なく楽しむことができました。
断片的に箇条書きにしますとこんな感じです。
・宇多田ヒカル travelingのPVのサビの部分で動物だかロボットだかよくわからない生き物たちがワラワラと宇多田ヒカルの後を行進しているシーンを真似てたのが妙にツボ。
・ハードコアの楽曲(洋楽)に合わせて相撲をとったり。
・ゾンビになったり。殺されちゃったり、かとおもえば阿波踊り。輪になって踊ったり。
・嵐 Truth&一青窈 もらい泣き、では国家レベルの刑事ドラマが前編・後編で展開。
・一方、T.M. Revolution Burnin' X'masでは彼氏の家で素敵なクリスマスを過ごすはずカップルがエックスガールフレンドの登場により、血まみれの聖夜に。
・エアーあややならぬエアーPurfumeでは、Purfume初の武道館公演のMCを完全コピー。2階〰 一階〰 アリーナ〰 の順番に盛り上がってるかメンバーが確認する時にその都度バーン!と入る照明のタイミングがすばらしい。
あの曲を聴くとあの頃を思い出す、ノスタルジーにおしゃれ紳士の体験が加わって、今度あの曲を聴くときには、思い出がまたひとつ増えるのだとおもうと、ちょっとほくそ笑みたくなりますね。
懐古主義としてのダンスという着想は非常に面白いとおもいます。
ダンスのキレ、キメの表情もすばらしく、男の美学を感じました。
ただ、公演タイトルのワンダーランド的な要素は終盤のブレイクビーツに合わせて進化論と近未来的なイメージをミクスチャーさせたようなダンスを踊るパート以外はあまり生かされていなかったように思います。ダンス自体はすばらしかったのですが、当パンのズラズラと書かれている演目がイマイチどれが何を示しているのかわからないことが多々ありました。そういったよく理解できない諸々を含めた事柄が”ワンダーランド”としてのアプローチだったのかもわかりませんが、個人的には、あの終盤の抽象的なダンスを残酷の天使のテーゼの後やそのほか、所々に絡めた方がワンダーランド的な要素が強まったようにおもいます。会場内のテンションはJ-POPが掛かった時の方が明らかにテンションが高かったですね。エンタメ性と抽象性のバランス、難しいところです・・・。
当パンのデザインがメンズノンノ的なオシャレ感のあるデザインであるにも関わらず、おしゃれが、トレンディー感ではなくマイ・スタイルが貫かれていることへの意思表示を意味している内容の文面もパンチがあってよかったです。
今度は、アニソン編とかV系編とかメガネ男子編とか違ったヴァージョンも観て見たいですね。ベストヒットUSAや夜もヒッパレ的なヒットチャート形式で行う公演や、リクエストの多かった楽曲に答える公演など、J-POPを介すると何でもできそうですね。一輪のバラを口に咥えてタンゴを踊る、Shall we dance?編なんていうのもアリかもしれません。
夕焼けとベル
カムヰヤッセン
王子小劇場(東京都)
2010/04/03 (土) ~ 2010/04/11 (日)公演終了
満足度★★★
複雑な想い・・・
統一された時間の概念が崩壊しているメランコリックなイラストに終わる世界の続いていく話。と詠う紹介文、それに加えてファンシーなタイトルから時空が歪んで世界が反転する、時系列シャッフルのダークファンタジーを想像したのが誤算だったようだ。
家族という誰もが逃れられない奥行きのあるテーマや、描かれる人間ドラマのなりゆきにまったく非はないのだが世界、終わる、という言葉に対するイメージの乖離をなかなか埋められず、少々もどかしい気持ちになった。
ネタバレBOX
北陸地方のどこか。定期便の船でしか本土に行くことのできない孤島が舞台。
2つの家族の日常を交互に描き中盤、銀行強盗に失敗し、島に逃亡してきたテロリスト集団によって物語は加速する。
ここが海に囲まれていることを主張しているような、しかしそれがまるで義務であるかのように淡々と脈打つことを恐れない波の音が聞こえる複雑な形をした島。
その島の周りを取り囲むように配置された客席からは、島の住人のものと思わしき使い古された持ち物や、営みを垣間見る道具が見え隠れする。
暗転になりきらぬうちにのっけから、白装束の集団がまたぞろやってきて円陣をつくり全員揃うと奇声を発声しながら奇妙な宗教的儀式を執り行う。
この集団は人間の臓物を売ったりしていて、島の住人は彼らとは距離を置いているらしい。
主人公はこの奇妙な宗教家の教祖の息子、拓。
彼は父親の後を継ぎたくないから小学校を卒業したら島を出て本土に行きたいと思っていることを、クラスメイトの女の子、静香に話す。静香には知的障害者のお姉ちゃんがいて、お母さんはお姉ちゃんばかり構うから彼女は姉をとても嫌っているけど、島を出て行きたい、とは思っていない。
この島で生まれてこの島で死んでいくことに概ね満足しているように見える。
この島に暮らしているひとたちは現実と向き合いながら淡々と毎日をこなしている堅実な人びとでもある。しかし、自分が本当に居るべき場所がここではないとおもう者にとって島で暮らすことは苦痛でしかない。男の子の家のお姉さんふたりもやっぱりこの島を逃げ出したかった。一番上のお姉さんは東京に行くことが出来た。二番目のお姉さんは、男の子のお母さんでもある。
自分が父との近親相姦によって生まれた子供であることを悟りはじめる拓の心は、お姉さんをひとりにできないこと、島を出て行きたいことの狭間でゆれる。
一方、すべてを終わりにしたかった男の子の姉はテロリストとなって、力には力でしか対抗できないとの声明文を表明し、銀行強盗を起こし、すべてを終わらすために島へ戻ってくる・・・。
静香の家族らはテロリストの人質となり、怖いおもいをしたことで家族の絆を思い出し、これからは姉に少し優しくなろうとする静香の小さな成長がとても愛らしい。
同じ頃、男の子の姉は生家を訪れ妹を殺そうとする。しかしそれも未遂に終わり警察に連行されて再び島を出て行くことに…。
最後、勢いよく飛沫をあげて発進する定期便の船にゆられる男の子は生まれ故郷を振り返らずにまっすぐ前だけを向いて姿勢を正す。
閉鎖的な村社会、謎のカルト集団、近親相姦、時刻の異なる時計、何層にも塗りたくられた薄暗く紫色の淀んだ空のイラスト、島を出たい少年。等のキーワードは寺山修司の半自叙伝的映画、田園に死すと共通するものがあるがこちらの作品は、これらのものに対して誠実であろうとしており、また本当の気持ちを伝えるために、一字一句丁寧に話そうとしていた。
家族。という絶対的な組織には言わんとしていることは伝わるはずだ。きっと通じ合えると信じていたい気持ちと、血が繋がっているからある程度は妥協しなければならないという強制が上乗せされているのではないだろうか。
その微妙なさじ加減が家族ドラマの醍醐味だとすると、息子と父親の関係性の描き方は少々軟弱なようにおもえてしまった。
臓物をえぐりだして売ってお金にしている父親みたくなりたくないし、そんな父親の後を継ぎたくない、第一気色悪い、という息子の常識人らしい感性はいいのだが、命を粗末にする父親に、どうしてそんなことをするのか。は、何を言ってもどうせ分かってくれないことを承知のうえで、結論だけではなくきちんと問いただして対話する場面は省略しない方が説得力が増したのではないかとおもう。あと、臓物はどこの誰のモノなの?というのが気がかりだった。なんかこういうのって島の若い女が生け贄になってるイメージだから。
それから作品タイトルを意識したと思われるベル(というよりも鐘)の舞台美術は非常に凝ったつくりであったのだが、副次的な要因を絡めると、違った味わいが出たかもしれない。たとえばベルを鳴らす日課は父親と拓との約束ごとである、臓物が奉られた時には鳴らす回数が変わるので村人たちは感付く、
ベルは12歳までの男子にしか鳴らせない、など。なぜって夕刻に鳴らす、という行為が退屈な終わりなき世界を終わらす方法であると同時に、長津田が売りさばく臓物もろもろ死者の霊を、拓が清めているように私には見えたから…。
Les Bonnes
M.M.S.T
横浜美術館レクチャーホール(神奈川県)
2010/04/06 (火) ~ 2010/04/07 (水)公演終了
満足度★★★
崇高なる様式美
ジェネ作品に人を深く信用していない者ばかりが出てくるように思えるのは
彼自身が愛の飢餓児のようなひとだからなのだろうか。
この作品には、自己愛第一、他人は第二の次、悪口至上主義な人間の醜悪さに己の利潤に矛先を向けようとするも空回りしてしまうあぁレ・ミゼラブルな滑稽さが目立つ。
そんな人間たちの負の財産を、極めて日本的な様式美で軽やかに讃える一作。
ネタバレBOX
ブルジョワのおくさまと旦那さまのお家に住み込みで働いている精根腐った女中姉妹の話。
目覚まし時計のベルが鳴ると音と光がゆっくりと動き出す。
その動きに伴奏するようにおんながひとり立ち上がり、目ん玉をギョロリさせて辺りを一瞥するとお能のような無駄のない動きで古びた木枠のスツールにこしかけ、ひとりごとを言う。それはあのひとはきっと私を愛してくれるに違いない。という願いやきっと大丈夫。などという祈りにも似たとても他愛もないこと。
耐えがたい沈黙をため息で繋ぐとおんなの思考をかき消すようにサックスの不協和音がなだれ込んできて夢見心地は終わり、ふと我に返るともうひとりの女はすでに床磨きを終えていた。
ボロい衣服を縫い合わせた美的感覚に乏しいちぐはぐな辛うじて服という形状を保っているみすぼらしい身なりのおんながふたり。姉はソランジュ。妹はクレール。
ふたりは女中なのでとりあえず、手だけは動かす。ついでに口も動かす。
まずは妹、クレールから。彼女は我が憐れみについてつらつらと述べる。
いつも妹が同じことを言うので聞き飽きているのだろうか。
黙って聞いていた姉が堰を切ったように、グチる。
おくさまが居ないことをいいことに、グチる。
まるで悪口を言うために生きているかのように、グチりまくる。
まくる。ぐらいだからもちろんグチの勢いは凄まじく高速であり、かつ情報量があまりにも多いため、イマイチ何を言っているのか把握できないことは多いものの、とにかくふたりはおくさまの存在が厭わしく、おくさまが何かをしくじることを期待して、あわよくばおくさまが不幸になられるように企てていることはわかった。
具体的な手段として先日、クレールは罪を偽造し、密告文書をねつ造し、ご主人さまをケーサツに突き出したのだ。しかしご主人さまは無実の罪にあるために間もなく釈放されるという電話がたった今掛かってきた。
筆跡でバレるのではないかと慌てふためくに妹に姉はおくさま殺しを提案するものの、旦那さまは間もなく帰宅。どうして電話が掛かってきたことを言わなかったのか、問いただされると、奥さまを驚かせようと思って・・などという苦しい言い訳をするしかなくなりにっちもさっちもいかなくなる。
とここで、パニクる姉妹の気持ちを盛り上げるかのようにオッフェンバックの天国と地獄のサックスの生演奏が入り劇中、常時ひとつしか点灯していない裸電球もこの時だけはチカチカと踊るように点滅するのが遊び心があっていい。
その後ふたりはお茶のなかに毒薬を入れ、奥さまにすすめるがあっさり断られ、妹の送った密告文書は日本対西洋、日本対アジアを主にした主張であった…。
団体が動くインスタレーションを提唱しているように美意識が強く、衣装や照明にもこだわりが伺え又、動作に無駄がなく美しい動きでしたが、それぞれのキャラクターが終始、鬼気迫る様相で会話をしているというよりもそれぞれ言いたいことをとにかく言い散らかしていて、しかもまくし立てるように喋るのが少し疲れました。姉妹と女中が前ぶれなく交互にすり変わるため、統一していたのかもしれないのですが…。
あと何か、姉妹がよく使う言葉、キャッチフレーズのようなものや姉妹独特のノリのようなものがあるとことさら愉快なようにおもいました。
パラレル
劇団箱オケ
北池袋 新生館シアター(東京都)
2010/03/27 (土) ~ 2010/03/28 (日)公演終了
満足度★★★
演劇のカラクリを弄ぶ。
ここはどこ。わたしはだれ。というアイデンティティの喪失に対し、演じる役と演じる場所を与え、緻密な会話によって実験が施される意欲作。
キーワードはサイコキラーとドッペルゲンガー。
ネタバレBOX
暗闇の中、ヴーンヴーンと鈍いモーター音が鳴り響き、ドンドンタンタン、と何かを地面に激しく打ちつける音がした後に舞台がパッと明るくなった。
そこは白い壁に囲まれた精神病棟の一室でパジャマを着た男と刑事の女がひとり。
刑事はオダハルキの婚約者とオダハルキの家族もろとも惨殺した男の逮捕状を取るためここに来た。現場には残された証拠と、犯行現場の目撃証言があり、あとは男が自供するだけでよかったのだがなかなか口を割らないため、頭をかかえていた。そこに彼を担当する医師、ドクターゴトー(ドクターコトーをモジッたフザケタ名前)がやってきて彼、オダハルキは自分の名前すら記憶できない重度の記憶障害を患っているため、何を言っても無駄なこと、逮捕しても精神鑑定にひっかかり無罪になるため無駄足であることを聞かされる。そしてゴトーは「アナタモ、マイゴデスネ・・・」と意味深なセリフを残し去っていく。
それでも何度も病室に足を運び、犯行を自供するよう粘り強く取り調べを行う刑事に対してゴトーはオダハルキを追い詰めぬよう要請し、またもや「アナタ、マタ、マイゴ二ナッテマスネ・・・?」と、不気味な笑みを零しながらぽつり呟く…。
ここで言うところのマイゴとは、役を演じる事に対して戸惑いを覚え、演じる意識が不鮮明になっていくことを意味しており、取り調べを行う場面がしつこく何度も繰り返されるのは舞台に立つ限り刑事役を演じ続けなければならないという演劇的ルールを意識下に擦り込ませ、「こんな退屈な芝居に出るのはもうウンザリ!」という本音とも嘘ともつかないセリフを刑事に舞台袖で吐かせることを目的とした、気味の悪い複線なのだ。
そして、コレを待っていました!とばかりに「あなたは台本通りに演じる素晴らしい役者です!」と絶賛するゴドーの言葉は、台本通りに演じることと演じていない素の自分を揺さぶる罠のようなもので、この悪質な催眠術のように手の込んだある種のソフトな拷問にも似た作業によって混乱し、すっかり疲れ果てている間に罪の意識がすり変わり、容疑者との立場が逆転すると刑事の口からは一切セリフが出て来ず、オダハルキにセリフを教えてもらうしかなくなるのである。
それでいよいよ追いつめられた刑事は無断で舞台を降りるという、台本と異なる行動をしようとすると今度は、”照明さん”が怒ってしまい、ちゃんと照らすことを拒否した”照明さん”が舞台の天井でぐにゃぐにゃに揺れる…。
それもこれも台本の一部であることをゴトーはあっさり種明かししてしまうと
『パラレル』の戯曲の台本を貼り付けた本日付の新聞紙をぐしゃぐしゃに丸めて捨ててしまう。
台本がゴミになったのを見届けた刑事は自分は女優で、女優は舞台の上でしか本当に生きられないことを確信し、これからもそのような人生を演じていくことを決意したものの時はすでに遅し。この日は楽日で自分はもう舞台の上にはいられないことを知ったのだった。
一方オダハルキは終盤、すべての記憶を取り戻し自分が真犯人であることをうわずりながら嬉しそうに告白し、冒頭の取り調べ室の席に戻った彼の背後にはメラメラと燃える炎と、ナンバーガールのNUM-AMI-DABUTZが爆音で鳴り響く…。
全体的に静かに調子の狂った作品で、冒頭の鋭いモーター音はミヒャエル・ハネケのファニーゲームを彷彿とさせる見せない怖さがあった。
同じ場面が繰り返される退屈な事情聴取が、中盤からラストにかけての台本の定義や俳優の存在意義を揺るがし、演劇のカラクリを弄ぶ場面にまでに発展するとは思いもしなかったのでかなり驚いたが、派手な音響を一切使わずに、俳優の演技力のみで構成される心理的な駆け引きは物語のなかで最も優れている箇所だった。
また、照明さんが怒るシーンは印象深く、役名のゴトーという名前についてはゴドー(神)を模していることも明確であった。
ただひとつ残念だったのは舞台美術。きっと全体的に白い空間にしたかったのだろうけど物理的に困難だったのだろうなぁ、という印象が残ってしまった。
ヒメ
チェリーブロッサムハイスクール
吉祥寺シアター(東京都)
2010/04/01 (木) ~ 2010/04/04 (日)公演終了
満足度★★★
サクラ・クロニクル
出会いと別れを見守るかのように咲き誇る春の風物詩、桜。満開の桜の樹の下には死体が埋まっているかどうかは定かではないものの、桜には何かしら不思議な力が隠されているような気がしてしまう。そんな素朴な疑問に寄り添うように展開されるこのドラマは桜の満開なこの季節にふさわしい、さわやかなペーソスに満ち溢れていた。
ネタバレBOX
サノ教授はどうして死んだのか?
教授が大切にしていたヒメザクラと呼ばれる一本の桜の樹と20年前をキーワードに迫るミステリーテイストの学園ドラマ。
俳優、脚本、音響、空間演出、舞台美術とどれをとってもまったく非の打ちどころがなく、特に両サイドの通路、6つの出入り口、中二階をくまなく用いた空間演出は過去、吉祥寺シアターで観劇した作品のなかで最も空間の奥行きと広がりを感じた。
そして照らす。ことを楽しんでいるかのような照明がすばらしく、あんなにも照明に対して躍動感を抱いたのははじめてだった。冒頭と中盤のダンスも圧巻であった。
しかし照明、ダンス、音響、空間演出のグルーヴ感に比べると、物語があらすじ通りに進んでいるというか、上手にまとまりすぎていてるというか、全体像がぼやけているような印象を持ってしまった。
これは多分、主役が不在という訳ではなくて、教授の謎とヒメザクラの謎を主軸にした人間ドラマのなかに解き明かされない心理的な謎や、心にひっかかるような余韻が希薄だったからのように思う。
校内における謎の大半が生徒らのくだらない噂話によってつくられるものだとしたら、20年前というキーワードは、そういった中から出てくるべき証拠であるはずで、ヒメザクラを切ろうとした時にユキの父親が交通事故に合ったのは、大変なスクープでそれこそ、ヒメの呪いだ!などと言って騒ぎ出す輩がいてもおかしくないような気がするのだけれど、舞台はとても淡々としていた。
要所要所に出てくる桜井くんという学祭で使うかぶりものが出てきたり、うっかりかぶってしまったためにカワイイキャラクターを演じなければならななくなったオモイガワとアリアケなどはコミカルで面白かったのだが、ユキ、ウコンなど、ぶっとんでるキャラクターが少々空回りしているような殺伐とした空気が場内に立ちこめていた感は否めない。
学校には必ずしもハメを外してしまうおバカさんがいるものだ、という固定観念がどうも私の頭の中から抜けていかないのだという物言いは安直かもしれないが、やはりどうしたって私はトキメキたかったのだ。サノ教授と奥さんのエピソードなど、もっと聞きたかったのだ。
(こう言う言い方は間違っているかもしれないが団体名の通り、ここはストレートに(?)桜高校を舞台にしたお話にしてもよかったのではないか、とさえ思ってしまった。)
そうは言っても物語の中でサノ教授の真相を代弁する役として登場するアンタは、オマエがヒメで20年前に死んだ奥さんの生き写しであり、品種改良に失敗した散らない、咲かない桜であるという、ヒメザクラの謎解きをするストーリーテラーとして上手に機能しており、ミュージシャンのチェリーの想いとヒメの記憶とがシンクロした時に起きた奇跡には目を見張るものがあった。3人の演技もすばらしかった。
ただ、サノ教授の謎に迫る学園内の設定や動きに関しては少々首をかしげるところがあった。それはあらすじに書いてある、どこにあるかは誰も分からないであろうヒメザクラが、生物学部の敷地内にあることが序盤であっさりわかってしまったこと。これには少々げんなりしてしまった。
それからサノ教授はオオシマ准教授が殺したのではないか。と疑うコトとフジカワのくだりは理解できるが、ヒメザクラを売って欲しいとやってくるOLのヤナギは、オオシマ准教授を学園外に連れ出すために配属されたようにしか見えなかった。彼女こそ、ヒメザクラの知られざる秘密の情報を握り、ヒメザクラの謎に迫る人物ではないか。と思われたのだが…。
また、カモイダについては冒頭、ひとひらの花びらを片手に桜を枯らしてしまった、世界の終わり、など詩的なセリフを述べるものの、何としてでも桜を咲かせようと奔走する熱意というか動きが見られなかったため、ラストでの彼女に桜が降り注ぐ場面には、あまり感傷的になれなかった。
カモイダが生物学部を訪ね、噂で聞いた散らないサクラを学園祭で何とか咲かせることはできないか交渉すべきだったのではないだろうか。
しかし20年前の事故によるサノ教授、オオシマ准教授、サノ教授の奥さん3人の因果関係と木を切ろうとしたユキの父親の事故の奇妙な関連性、20年前のカレンダーがサノ教授の遺品のなかから突然見つかるというエピソード、ヒメをエキスに作ったドラッグを使用したフジカワがあちらの世界へ身体を持って行かれそうになるところなどは、SF的要素の含まれたミステリードラマとして楽しめた。
あと、給食室をたまり場にしたのはすばらしいアイデアで、トオヤマさんのキャラクターもナイスであった。個人的にはトオヤマさんは勤続20年くらいのベテランさんであってもいいような気がしたけど、それだと色々と知りすぎてしまっているから若い女性ぐらいで丁度良いのかな、なんてぼんやりおもったりもした。
上述したように物語はとてもキレイにまとまっており、エンターテイメントとして気軽に楽しめる作品だったのだが、何かが物足りないように感じてしまったのは事実。非常に完成度が高い作品なのにどうしてなのだろう。と考えた末、ひょっとして説得力に尽きるのではないか。という結論に行きついた。
作品のなかでの説得力とは、本公演のキャッチコピーである”想い”の強さというものであるはずなのだが、上手に連携がとれていなかった箇所があったように思う。その想いというのは、生徒がサノ教授を想う気持ちであるような気がするのだが、生徒たちがあまりサノ教授に関心を寄せていないように見えてしまい、そこが物語にのめり込めなかった原因なのではないかな、と。
あるいは非の打ちどころがないことが、この団体のむしろ足かせになっているのではないか、という。
もちろん勢いだけがすべてだ、とは言えないが、ある程度の乱雑さはこの場合、少々あってもいいように思う。そういうくだけた乱雑さのなかから人間味がじわりと滲みだすような気がしたのだ。