どこまでもゆける 公演情報 水写「どこまでもゆける」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    世界の定義が不鮮明。
    世界が終わるまでの1年間を、オムニバス形式で描くお話。
    終わりが決められた中でどう生きるか。ということは人間誰しもがいつか死ぬ存在である以上、逃れられない事実ですからこれを作品テーマとして選ばれたことは非常に興味深いですし、素晴らしいとおもいます。
    ただ、個人的には春・夏・秋・冬、それぞれの季節をまんべんなく一話づつ描いていかれる方が季節を巡る度に気持ちも変化していくと言いますか、その方が幾分かナチュラルだったような気がします。
    それでも舞台からは、木漏れ日のような暖かさや、柔らかな気配を感じ取れました。今度は長編に挑戦されてみては如何でしょうか。

    ネタバレBOX

    世界が終わると知らされたひとたちの1年を巡る話。

    第一話はふたりのマンガ家と、マンガ家のアパートにいつからか住み着いたゴミ箱のなかに入っているゴミ女と名乗る女性、ランドセルを背負っている小学生みたいな男の子、出版社の編集者が、マンガ家のなかで交されるとりとめのない会話劇。

    その中で、ふたりのマンガ家が『世界が終わる話』を雑誌に連載していたらそれが現実のモノとなってしまったエピソードや、小学生みたいな男の子が、希望を探して旅をしているエピソード、宇宙人がコンペイトウで出来ているエピソード、黒いランドセルを背負っている集団が暴動を起こしているらしいニュースなどが舞台の情報として、提示されるのだが、これらのエピソードが何となく楽しい感じのままで終わってしまってまい、話が広がらなかった印象を持ってしまった。第一話では、会話の終わりを意味していたのだろうか。

    だとすると第二話で提示されていたのは、恋人関係の終わりだったような気がする。吉野家の牛丼がどうとか、アイスクリームがどうとか、花嫁衣装に着替えたりとか、それが世界の終わり=この世の終わりとどう関わりがあるのかはわかりかねるのだが…。

    第三話では、かもめという名の飲んだくれ、かもめの娘の幸子、幸子のトモダチのヨウ、がうららかな春の日差しが降り注ぐ公園でお花見をしているところへエテルネル聖子という、イカサマ聖職者がルミエール様とかいう人間離れしたカエルが著者らしい啓発本を売りつけようとやってくる。
    すると今度は、ヨウと音信不通の父に息子を助けてもらったという綾と名乗る女性が、本当にとりとめもなくやってきて、息子が助けてもらった経緯をつらつらと語るのだけれども、どうして綾と名乗る女性が、ヨウの居場所(しかも公園)を知っているのか、かなり謎。
    この謎めいている感が笑いどころなのかもしれないけれども、
    ちょっと意味がわからなさすぎてしまったてらいがあるように思われた。
    三話目で提示されていたことは、人間的に終わってる、ってことだったのかなぁ。うーん、やっぱり謎だ。笑

    こうして振り返ってみると全体的に、世界が終わるという響きで世界を構築してしまったような気がしてしまう。きっと、この話に出てくるひとたちが、世界が終わることを肯定してしまっていたからなのかも。誰かひとりくらい、世界を終わらせないようにがんばるひとがいてもいいような気がした。それこそ、ヨウのお父さんとかね。でもラストのシーン、みんなが冬眠に入る場面はステキでした。あの場面を紡ぎ出すために断片的な台詞を全体にちりばめて、詩的なモノローグや、音、光、佇むというミニマルな動きに特化した上演作品をつくられたら、独特の繊細さが滲みでるようにおもいました。

    0

    2010/05/21 23:25

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大