アキラの観てきた!クチコミ一覧

401-420件 / 1128件中
『うそつき』/『屋上庭園』/『千両みかん』

『うそつき』/『屋上庭園』/『千両みかん』

アマヤドリ

スタジオ空洞(東京都)

2013/06/26 (水) ~ 2013/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

『うそつき』:人が人に対する感情(恋愛)のエネルギーは、エネルギーの法則のとおりに、流れる向きは一方通行なのか? またその総量は変化しないのか?
っていう感じの壮大な物語ではないけど。

ネタバレBOX

私が感じていた、今までのアマヤドリ(ひょっとこ乱舞)の作品イメージは、空間や時間の壮大な広がりから、内側へ深く深く入り込んでいく、というものだ。

今回の『うそつき』はそれとはかなり印象が異なる。
一点の中で、ぐるぐると回る感じ。台詞のやり取りでバランスが変わっていく。
ラストのどんでん返し(までは行かないけど)、一種のオチのような仕掛けが2つあり、オトシ話的で、演劇的には「普通」感さえしてしまう。

しかし、面白い。

なんと言っても台詞がいい。そして、役者がいいからだ。熱さだけでなく、軽妙さでも惹き付ける。90分まったくダレることなく楽しませてくれる。

ストーリー的には、ギーコがエレファントだった、という設定のままのほうが、「引っかけました」的なオチの印象が薄く、さらにあとの展開がスリリングだったような気がする。そのほうが、私が勝手に考えるアマヤドリの作品イメージに合っているような気がする(ただし、上演時間が長くなるだろうけど)。

しかし、ラストまでの道程がうまいのと、さらにもう一押しの、スランプがエレファントだった、というオチの「見せ方」がいい。
ナイルとスランプの会話の感じや、かつてエレファントを飼っていた、という鳥かごの影が、スランプの頭上(壁)にスーっと伸びていく様は、照明を、壁のスイッチを切ったり入れたりするような会場で、よくもうまく作り上げたなと思う。もちろん、彼女がエレファントあるという伏線も、台詞の中にきちんと入っていたなということも思い出させる。

それにしても、「カルタゴ」に「エレファント」という名称、さらに対する敵国に「スキピオ」という命名は、モロなのだが、悪くはない。「カルタゴ・ノウァ」なんて店名までも。これで、元軍の偉い人だったナイルが「ハンニバル」だったらやり過ぎなのだが(笑)。

「マックスウエルの悪魔」という敵国の不滅の部隊名もなかなか。なるほどその部隊はその名のとおり、破壊と混乱から静止と死をもたらすことで、エントロピーを減少させるのかもしれない。……なんてね(笑)。

人の感情、この場合、主に「恋愛感情」は、エネルギー法則のように「総量は変化しない」わけではないし、「流れが一方向」というわけでもない。
だから、いろいろと面倒なこともあるし、面白いんだろうな、と。

カルタゴの市民はスキピオ軍に蹂躙されてしまうらしい。スビキオ軍総攻撃の前日までも「大丈夫じゃないか」という確証のない安心感に包まれているカルタゴの人々。さらに市民を威勢良く鼓舞しながらも、結局は見捨てていった市長という図式は、どこかの国を思い起こさせる。

今回は、アマヤドリっぽい、例の「ひょっとこフォーメーション」と、私が勝手に呼んでいる群舞のようなものがなかった。近しい動き、身のこなしはあるにはあったが。4人だから無理っぽいのだが、もう少し観たかったような気がする。

また、数回前ぐらいから獲得した「ユーモア」も、きちんと入ってくる。不発っぽいところもあったが、全体的にはギスギスしがちなストーリーを和らげていた。

これからアマヤドリは、この会場を拠点とし、定期的に公演を行うという。さらに、劇団としてのレパートリーを育てていくという目論みもあるようだ。
この展開はとても興味深い。
新作をバンバンやるのではなく、レパートリーを手に入れ、役者や演出の足腰を鍛えるということにもなろう。
今回の公演は、その第一歩として成功したと言っていいのではないだろうか(まだ残りの2本は観てないけど)。少なくとも『うそつき』はレパートリーとしての強度はあるような気がする。
さらに、岸田國士の作品のように、古典的ともいえる作品にチャレンジして、アマヤドリらしさを見せていくであろうことにも意味があると思う。
例えば、そうした古典的な作品をアマヤドリの本公演にかけることだって考えられるわけだからだ。

これからも目が話せない劇団だ。

……どうでもいいことだけど、ナイルは突っ込み体質なのだろう。しきりに突っ込んで、さらに突っ込まないで笑わせる。

もうひとつどうでもいいことだけど、港の新聞=サンケイ、砂漠の新聞=アサヒ……かな(笑)。
Chouf Ouchouf ~見て、もっとよく見て!~

Chouf Ouchouf ~見て、もっとよく見て!~

タンジール・アクロバティックグループ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2013/06/06 (木) ~ 2013/06/09 (日)公演終了

満足度★★★

「ダンス公演」としての見方で、
その文脈をどうとらえるかで面白みが変わってきたのではないだろうか。

ネタバレBOX

スイスの2人組が、モロッコのアクロバットグループと共同で創作した作品。

単に、「アクロバット凄いな」を楽しむ舞台ではなく、さらに一歩芸術作品となっていた。
うまい言葉が思いつかず「芸術作品」と書いたけど、「あんなこともできるんだ」という、表面上の凄さだけではなく、深みがあるという意味である。

コーランのような歌、シンプルだけど効果的な装置、細かく計算された個々の動きが面白く、美しい。エキゾチックで、陰影もあり、ユーモアも哀愁もある。

もちろん、観客が「おお」と声を上げ、思わず拍手をしてしまうアクロバットもある。

イメージとしては「ダンス」公演であり、アクロバットとしてだけを見るのではなく、舞台で展開されるいくつかのイメージをつなぎ合わせ、その文脈をどうとらえるかによって、面白さは変わってきたのではないだろうか。
劇作家女子会!

劇作家女子会!

劇作家女子会×時間堂presents

王子小劇場(東京都)

2013/06/13 (木) ~ 2013/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★

今、女子が感じているのは「不安」なのではないだろうか
単に女性の劇作家が集まって上演をするというだけではなく、演劇関係の女子(!)のネットワークを広げていき、何か「いいことが」もたらすんじゃないかというような意図による企画の、第1回。

ネタバレBOX

なんていうか、「女子会」と言ってしまうところがいいのかもしれない。「女性の……」のように肩肘張っている感覚とは違う、軽さがある。

軽さがあるが、芯はしっかりしている印象だ。

「女子会」と言いながら、いきなり演出に男性の黒澤世莉さんを持ってきたのは……、まあ女子会だからそのへんのゆるさもアリなんだろう(笑)。
個人的に言えば、黒澤世莉さんの演出は好きだから、観に行ったと言ってもいいのだが。

黒澤演出は、演出家の色を全面に強く押し出すことはしない。
戯曲の持ち味を引き出す良さがある。
さらに、主に軸となる役者の良さも引き出す。

今回の企画では、4人4色の戯曲を、その持ち味を変えることなく、見事に演出していた。そして軸になる役者をうまく見せていく。
それぞれの演目をそれぞれが演出せずに、同じ演出家だったことで、統一感も出ていた。

それにしても、特に縛りを設定せずに、4人が書いてきたものは、いい塩梅にバラエティに富んでおり、さらに変に時間の縛りがなかった(たぶん)ことで、それぞれが無駄な時間稼ぎや、言い足りないことがないようになっていたのは良いと思う。

「恋愛」がテーマになっているようで、実のところ、根底にあったのは「不安」ではなかったのだろうか。
表面は、恋愛についてのあれこれであっても、不安はぬぐい去ることはできない。

つまり、今、女子たちが感じているのは「恋愛」ではなく「不安」ということではないか。
どの演目にも「不安」が充ち満ちている。


『彼女たち』第1部 作:黒川陽子
キャラクターがあからさまにくっきりしていたので、わかりやすいと言えるが、ラストに第2部が控えているとは言え、幕切れがあまり鮮やかではない。
佐々木なふみさんの美容師にしか見えない、あの感じがうまい。髪の毛の具合とかね。そして、男から見て「マズい女に手を出しちゃた」と思わせるような、ある意味幼くて、したたかな女を演じた長瀬みなみさんもよかった。

『Compassion』 作:オノマリコ
とても恐くて気持ちの悪い設定。
台詞がいい。あり得ない台詞だけれども気が利いている。
男の困惑は、観客の困惑でもある。
しかし、ラスト近くで観客はそこからも引き離されてしまう。
ただ、ラストに男と女が言葉には言えない何かで引かれ合っているということであれば、女が最初に男にアプローチして、徐々に「何か」が見えてくる(彼女にとっても、観客にとっても)とよかったように思う。
また、男の奇妙さが段々明るみに出てくるのだが、そこがもう少し描けていたら、ラストの関係にうまくつながったのではないだろうか。
阿波屋鮎美さんの台詞と立ち振る舞いの不気味さがうまい。あんな訳のわからないことを言っているのに(笑)、惹き付ける力がある。

『バースディ』 作:モスクワカヌ
ありそうな設定すぎ。
幻影に振り回される妻、といったところか。
誕生日は特別なもの、というのは女性の感覚かも。
もっと静かな怖さのほうがよかったように思える。

『親指姫』 作:鈴木鈴
なるほど、シラノがベース。
面白いのだが、途中からの進行が長すぎ、ラストは見えているのだから、もっとさっと行ってもわかったように思う。
もし、途中のやり取りをこれぐらいにするのであれば、さらにもうひとアイデアほしいところだ。
親指姫を演じた河南由良さんが、くつきりしていてとても良かった。

『彼女たち』第2部 作:黒川陽子
少し蛇足な印象。
あえて2つに分けなくてもよかったように思える。
ウソを重ねていくのだが、ラストがすぐに見えてしまうのが残念。


今、気がついたのだが、ここの「公演詳細」の「その他の注意事項」に「※演劇公演です」とある。ホントの女子会と勘違いさせないためだろうか(笑)。
メコン流れ星

メコン流れ星

ひげ太夫

ザ・ポケット(東京都)

2013/06/11 (火) ~ 2013/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

一発でファンになった
ここのチラシを劇場内でもらうチラシの束の中に見つけるたびに、思わず笑ってしまっていた。
しかし、なかなかスケジュールが合わず、今まで観ることができなかった。

そして、ついに今回初ひげ太夫!

ネタバレBOX

前説の歌からヤラレてしまった。
面白い!

そして本編。
ここまで、セットや雰囲気(!)を肉体で表現しているとは思わなかった。
さらにBGMまで自分たちの口で出したりもしてします。

やはり、組み体操が見もので、3人が縦になって、劇場(ポケット)の天井までに届く高さとなるのには、知っていても驚いてしまう。

それをあまりにも、さらりとやってしまう。
だから、観客としては「凄い!」と思のだけども、ストーリーにはしっかりとついて行けるのだ。

全員が、1時間50分をノンストップで駆け回り、相当な運動量なのだけど、それを感じさせない。
顔にほとんど汗をかいているようには見えない。そのあたりもプロ! だ。感心してしまう。

そして、ストーリーが面白い。
台詞の細かいところが気が利いている。
つい、にやりとしてしまうところも多い。

いいもの観た。

一生懸命が伝わってくる。
この面白さはクセになる。
一発でファンになった。

幕が下りてから、NG集が付いているのにも大笑い。
太鼓の達人のあたりは、あえて説明せず、観客が、「!!!」と気がつき、気がついた人から笑いが起きていく、なんてところも素敵だ。
変に説明しないところがいい。自信の表れでもあろう。


帰郷 -The Homecoming-

帰郷 -The Homecoming-

Runs First

シアター風姿花伝(東京都)

2013/06/15 (土) ~ 2013/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

家族のカタチ
手でつかめるぐらいの質量感。
それをシアター風姿花伝という小さな劇場で観られる幸せ。

ネタバレBOX

小川絵梨子さんの演出は好きだ。

この舞台は、彼女の演出と出演者の顔ぶれを見て、行くことを決めた。
濃くて重くて、生きた台詞の応酬が楽しめる、そんな舞台ではないかと期待したからだ。

果たしてそのとおりだった。

正直、ストーリーと登場人物たちにはほとんど共感できる点はないのだが、圧倒的な役者と戯曲の質量感にぐいぐい押された2時間。

タイプの違うイヤな感じの人々が舞台の上にいる。
常に苛立ち、暴力的な言葉で罵り合う。

年老いて息子たちの世話になっていることがを素直に認められず、悪態をつく父。
父を養っているが、家族を含めあらゆるところに不満があり、それを父にぶつけてしまう次男。
そして、ボクシングという目標があるのだが、ふらふらして腰が定まらない三男。
自分の家が気に入らず、家を飛び出し何年も連絡すらとらない長男。
いい歳になっているのに、一人身で、兄(一家の父)の家に一緒に暮らす叔父。
そして、明らかに不仲なのだが、直接的には表面には出さない長男の妻。

どろどろしたストーリー、相手を罵倒するような台詞の応酬、そして苛立ち。

日常感じている苛立ちや不安を、(それとは関係ない相手に)ストレートに言葉に出してしまったら、こんな風になってしまうのだろう。しかも、いったん言葉にして、応酬したら、歯止めが掛からずこんな具合のギスギスした家庭の様子になってしまうのではないだろうか。

しかし、一緒に暮らしている。
外で発散できない鬱憤を、内で晴らしているだけだ。
単にいがみ合っているわけではない。

だから、味がどうこうと言ってはいるが、父親が食事を作ったりしている。
何年も帰ってこなかった、長男さえも帰ってくる。

長男は、哲学者になっていた。労働者階級である自分の出自が気に入らない。自分の家族とそこにかつて属していたことも気に入らないのではないだろうか。
だからこそ、それを直接的ではないにせよ、妻にぶつけてしまっているのではないだろうか。
そうした鬱憤を「家族に向けてしまう」のが、彼の実家の姿だったから。

妻は、そうした夫(長男)の言動や言葉にしない感情を常に感じていたのだろう。
彼女が自分の出自らしきことを語るところからも、それはうかがえる。
それが長年の間に積み重なり、ついに嫌気をさした妻が、夫である長男に引導を渡す寸前に、夫婦だけで旅行に出たのではないだろうか。

旅の目的地に選んだのは、長男が、最も嫌う自分の家だった。
途中にイタリアに寄ったりしたようだが、本当の目的は自分の故郷だったのだ。
「帰郷」だ。

彼(長男)は、実家に帰ることで何を望んだのだろうか。
彼の実家の家族たちのように、ホンネで話せることができることを望んだのか。
あるいは、自分も妻と同じような階級から出てきたということを、自分にも妻にも再確認するためなのか。
いずれにせよ、なんらかの突破口を見つけにきたに違いない。

しかし、妻の出した結論は、「彼の実家に残る」だった。
普通の妻、そして母親である彼女が選択するはずのない結論だ。
つまり、彼女はついに静かに爆発してしまったのだ。
なんて暗い展開なのか、と思ったのだが、ラストで印象は一変した。

長男が妻を置いて去るときに見せる、次男の表情だ。
この寂しげな表情こそが、この物語のキーではないのだろうか。

つまり、先に書いたとおり、悪態をつき、自分の苛立ちを家族に、汚い言葉でぶつけ合っている一家なのだが、それはそれでバランスが取れており、それがこの家族の姿。
他人から見れば、いがみ合い、嫌な感じのする家族なのだが、彼らにとってはそれが「自分たちの家族のカタチ(姿)」ということなのだ。

つまり、長男の妻が残ると言ったことに対して、「客を取らせる」まで言ったことは、長男の妻に対する「ここにいるなよ」というメッセージであり、またそれは長男に対する「妻と和解して連れて帰れよ」というメッセージではなかったのだろうか。

不器用なりに、頭の回転が速い次男が考えた「策」ではなかったのだろうか。
もちろん、三男と父親がそこまで頭が回ったかどうかは微妙だが。

それに対して長男は気づきもせず、去ってしまう。
妻は、夫である長男に最後に声をかけるが、やはり長男には伝わらない。
妻は、あのような行動に出ることで、長男には「一緒に帰ろう」と言ってほしかったのだろう。
しかしそれは、妻がいた場所と自分がいる場所が違っていること(階級とか階層とか)の違いを印象づけてしまうだけで、逆効果だったのかもしれない。

いや、あるいは長男は気がついていたのかもしれない。しかし、哲学者ゆえ、頭がよすぎるからこそ、気持ちのままに動くことができなかったともいえるのではないか。
つまり、哲学者である自分がそういうことに囚われていることへの、自己嫌悪による行動なのかもしれない。

もう我慢の限界まできている妻に対して、夫である長男は「察してあげる」だけでよかったのだ。しかし、それができない悲しみがある。

舞台の上のすべての人たちが、深く後悔したまで幕は閉じられてしまう。

この舞台は、ハロルド・ピンターの脚本による翻訳モノだが、小川絵梨子さんが翻訳も手がけているので、台詞が役者によく馴染んでいるように思える。
その人から間違いなく発せられた言葉。
「訳された」感がない。

そしてこの舞台は、役者を楽しむ作品ではないだろうか。

中嶋しゅうさんの存在感。
浅野雅博さんと、斉藤直樹さんの、別タイプのイヤな感じが素晴らしい。
那須佐代子さんには、底知れぬ怖さを感じた。
普通の妻・母親がそういう行動に出て訴えたかったことについての、静かなる反抗。

セットは、壁に小道具や家具を散りばめることで、リアルな室内を作ることなく、古く暗くて湿度の高そうなイギリスの家を表現していて素晴らしかった。
また、家から見える正面のスロープの上にあるブランコは、かつて兄弟たちが楽しんだであろう、昔日の家族の象徴のようで、効いていたと思う。



舞台そのものとは関係ないが、パンフレットがあれでは……。
たとえ300円であったとしても、あれでお金を取るのは、ない。
仏の顔も三度までと言いますが、それはあくまで仏の場合ですので

仏の顔も三度までと言いますが、それはあくまで仏の場合ですので

ポップンマッシュルームチキン野郎

サンモールスタジオ(東京都)

2013/05/24 (金) ~ 2013/06/03 (月)公演終了

満足度★★★★★

今まで観たポップンマッシュルームチキン野郎の中で一番面白かったような気がする
気のせいかもしれないけど。

ネタバレBOX

ポップンマッシュルームチキン野郎(長いので、以下、ポップンマッシュルーム野郎)は、独特のセンスがある。
キケンでカゲキでお下品な衣を纏った劇団だ。

その、キケンでカゲキでお下品な衣の具合がうまい。
それを単なるウリにだけしていないところもいい。それは作品を観ればわかる。

悪趣味との境目をウロウロしているようで、背骨にあたる部分は意外とオーソドックス。
それをきちんと押さえ、エンタメな構成としての、キケンでカゲキでお下品なパーツが、きれいにデコレーションされている。
キケンでカゲキでお下品なところへ、あえて半歩ずつ踏み込む感じ。演劇だからできることを意識して。
(今回ばかりはちょっとキワドイところもあるにはあったが……アノ本投げるシーンあたりとか…)

キケンでカゲキでお下品な人情コメディ。

一見、無意味に広げていく展開も、きちんとまとめ上げる。
丁寧にフリとオチを配しているところにもそれがうかがえる。
先に書いたように、背骨の部分がオーソドックスだからだろう。
ストーリーにキャラクターを配し、物語として構築する構成力がある。
そういう作劇のうまさがある。

例えば、最初に天狗が登場するシーンで、おどろおどろしくやりそうなものを、天狗夫婦の痴話げんか的な入りあたりは、さすがだと思う。
こってりした扮装なのに、それを前面に押し出し、「今面白いコトをやってますよー」的なことをせず、フツーに見せていく。増田赤カブトさんが演じるmisonoなんてカッパなのに、フツーに彼女さんなんだよね。頭にお皿はあるけど。

また、バンド「中東事変」押しなフライヤーや諸々の情報がある中で、冒頭、あっさりとメンバーが殺されてしまったりするのだ。
「あれれ?」と思った観客は、劇団の思うつぼにはまったと言える。
そう思うことで、すでにストーリーに取り込まれてしまっているのだ。

悪目立ちをするならば、きちんとさせ、それをいつまで引っ張らない演出の良さが見える。前面に出たいところを、しらっと演じる役者もうまいと思う。

正直に白状すると、アッラー正田を演じたサイショモンドダスト★さんは、その演技を見て、(たぶん)初めて嫌悪感がわかなかった(笑)。
というより、とても良かったのだ。

鬼婆の杉岡あきこさん&天狗嫁の高橋ゆきさん、あいかわらずいい味。
天狗夫の太田守信さんの、顔が近い感じでイラつかせる演技はなかなか。
ケンタウルスががっつりストーリーに絡んできたのは初めて?
それぞれの扮装で、さらっと演じるのが面白い。

今まで観たポップンマッシュルーム野郎の中で一番面白かったような気がする。
兄よ、宇宙へ帰れ。【ご来場ありがとうございました!】

兄よ、宇宙へ帰れ。【ご来場ありがとうございました!】

バジリコFバジオ

駅前劇場(東京都)

2013/05/29 (水) ~ 2013/06/03 (月)公演終了

満足度★★★★★

脳天気ではない演劇LOVEで、自己再生
(前説からきちんと見たほうがいい劇団だ)

バジリコFバジオは、かつてのジェットコースターのような展開、いい意味での、力任せの勢いで突き進むだけの劇団ではなくなったように思う。
もちろんそれも大好きだったが。

ネタバレBOX

特に『愛と平和。』あたりから「物語」をきちんと描き、届けることにシフトしてきたように思える。
前作『ねぼすけさん』ではそれを強く感じた。

今回もその路線にありつつも、勢いではなく、リズムを感じる演出で、物語を見せていく。

根底にあるのは、どーしようもないくらいの、演劇へのポジティヴ感。
舞台の上で、言い切ってくれる、脳天気ではない演劇LOVE。
結成10周年にそれを力強く、高らかに示した。
演劇を信じているのだ。自分たちのやっていることを信じている。
それは心強い。

物語は、劇団を主宰し、10年やっている砂城が、観客の評判と劇団内部の人間関係から劇団が崩壊してしまうことで、挫折して、演劇を辞めるところから始まる。

「前のほうが良かった」「前のほうが面白かった」という声は、どの劇団の人も一度以上は耳にしたことがあるのではないだろうか。

先に書いたとおりバジリコFバジオでも、そんな声を、なんとなく変化のあった『愛と平和。』あたりから耳にしたり、アンケートで目にしたりしたのではないかと思う。劇団内の人間関係は知らないけど(笑)、実体験的なところもあるのではないだろうか。
あるいはどこかの知り合いの劇団で、そういう危機に陥ったところがあったのかもしれない。

その後、彼がいかに再生していくかという物語となるわけなのだが、ここにひとつの仕掛けがある。
それは、彼の過去の作品が現実に漏れ出してしまっている、ということだ。

彼が派遣会社に行くと現実味のない職種ばかりを勧められたり、また、高校時代の演劇部仲間に出会ったりするのも、「彼の物語」の中だから必然であるのだ。
現実と彼から漏れ出してしまった虚構が混ざり合い、彼の物語となっていく。

世界だけでなく、彼もその渦中の人となる。

よく「正解は自分の中にあるのだよ」的なことを、カウンセラーが言ったりするが、まさにそれが、この舞台上の世界なのだ。
彼が欲しているのは、捨てたはずの「演劇」であり、彼はそれを無意識の中で、引き寄せているのだ。だから、彼の過去の作品たちが、彼の物語を再構築していく。タスマニアタイガーとか謎の男とかが、その水先案内になる。

砂城が書いた高校時代の演劇を、15年も経った今も覚えている海辺啄郎という存在なんて、まさに砂城自身が望んでいるキャラクターではないだろうか。砂城が自信を取り戻すためのキャラクターだ。

つまり、すべてが彼の生み出した虚構(戯曲)の中のことだ、と言っていい。
劇中劇のように演じられる彼の劇団の舞台、ラストにまたそれを、別の役者が演じるところ、それがすべてを物語っているように思える(彼の劇団の舞台の演出が、いかにも小劇場的なところはなかなかいい感じ)。

結局、例の大きなロボットが使徒と戦うアニメ的に言えば、砂城は、自分で自分の補完計画をやった、というところではないだろうか。

砂城は演劇を始め、物語は観客にゆだねられたのだ。

啄郎と岬は、演じることで、物語から解き放たれて、フリー・スペースに旅立った、というのはいろいろと当てはめすぎだろうか。

登場人物の役名が、すべて「海」つながりであったのは「宇宙」との関係なのかな、と少し思った。

三枝貴志さん、武田諭さんは、やっぱうまい。
特に三枝貴志さんは、時折見せる「地」っぽい演技で、観客との接点を確認しつつ、物語を進め、武田諭さんの啄郎の感情の変化と行動とのリンクがいいのだ。
木下実香さん作の人形もいい。アクの強さが、人間に決して負けない。

バジリコFバジオは、やはり大好きな劇団だ。

劇場では過去の人形を販売していたが、帰りに、と思っていたのだが、うっかり買い忘れてしまって、残念無念である。
『正解は、喜劇』

『正解は、喜劇』

8割世界【19日20日、愛媛公演!!】

劇場MOMO(東京都)

2013/05/14 (火) ~ 2013/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★

そして、「正解は、喜劇」だったのか?
なかなかチャレンジングな舞台だ。
その感じに「それも、いいじゃないか」と、思った。

ネタバレBOX

オーソドックスなシチュエーション・コメディを軸として、プラスαにいつも何か「ほんの少しだけ」想像を超えたシチュエーションを設定し、作品を見せてくれていた8割世界。
そう、「ほんの少しだけ」の。

今回は「筆を置く」と宣言した鈴木雄太さんが、「また書いてよ」という周囲の熱望に乗せられて、書いた作品だ。

根拠はないが、「また書いてよ」の25%は、社交辞令だろうが(笑)、残りの65〜75%ぐらいはホントに書いてほしいと思っていたと思う。それは、今までの延長線上の作品を、だ。

しかし、今回、それをしなかった。

どうしてしなかったのかはわからないが、「せっかく、復活して書くのだから、違ったモノを」という気負いもそこにはあっただろう。
そして、いつもより「少しだけ」変えるのではなく、うんと思い切りのいいジャンプをしてきた。
この姿勢がとても気持ちいい。

10年もやっている劇団だから、「カラー」も付いているし、「いつもの作風」に親しんでいる観客も多いだろうが、そこを敢えて通らず、新しいドアを開けようとした。

書いたご本人も書き上がった自分の作品を読んで、「これでいいのか?」という自問自答もあったのではないかと思う。
当然、それを、最初に受け取る役者さんたちの戸惑いもあったのではないか。
(「小早島モルさんの出番と台詞がこんなに多くて、ホントにいいのか?」は横に置いておいて・笑)

でも、「これで行く」と決めたということは、変に「いつものが一番」に固まっていない、劇団の柔軟性がよく出ているのではないか。
その姿勢は、買いたい。

しかし、内容はと言えば、少々ぎこちなすぎだった。つまり、こうした展開と内容に、書き手も演じ手も演出もまだ慣れていないということではないだろうか。

例えば、いろんな風呂敷を広げて、疑問を観客に振りまいて、それをほとんど回収せずに、物語を別の次元に持っていって、それでラストにするという、とんでもな展開は、意図であったとしても、「回収しない」ということに対する、「対処の方法がイマイチ」なのだ。

「回収しない」ということが「面白い」し、それが今回の舞台の「正解だ」としての判断ならば、「回収しなかったこと」を観客が納得する、というか、「仕方ないか」とか「笑っちゃったぜ」とか、というような、ちょっとした仕掛け的な何かがほしいのだ。
(『そこで、ガムを噛めぃ!』では、ラストに回収されないシーンはあったが、それは「笑っちゃった」ので、(ほとんどの人は)文句を言わなかったと思う)

それはなぜかと言えば、8割世界は今までできるだけ広げたモノは、回収してきた劇団だったので、観客は(初めて8割世界を観た観客も含め)、そうするのが「当たり前」の「頭」で観ているわけなので、そこの部分は酌み取ってほしいということなのだ。
「当たり前頭」で観ている観客が「こりゃ、回収しなくてもしょーがないな」と少しでも思ってくれるような「解決」がほしいということなのだ。

8割世界が不条理系の劇団だったら、誰もそんなことは思わないけどね。

でも、「あれれ???」となった一瞬、物語をつかみ損ねたような感覚は、とても面白いと思った。アリだよ、アリ。・・・昆虫のアリじゃなくて「有り」ね。

その「解決」が戯曲・役者・演出がつかめていれば、最高に変で、最高に面白い作品になった可能性だってあったはずだ。

あと、ガンガン行って、ラスト近くに進んでいた道がなくなる、っていう感覚の面白さだっのだと思うのだが、個人的に、やはり「テンションが高いこと」=「声がでかいこと」ではないと思っているので、今回は緩急があったものの、今後は声を張り上げない、テンションの高さを期待したい。

役者は、男を演じた白川哲次さんが、ほかの役者が進める濃いめのメインのストーリーに埋もれることなく、世界をきちんと演じていたのがうまいと思った。
それと、小早島モルさん! 見るからに不器用そうな(失礼・笑)方なのだが、今回の活き活きぶりは、観ているこちらも幸せになった。彼は、いつも少しだけ「飛び道具的」な使われ方だったのだが、普通に演じてもなかなか面白い。
赤田役の日高ゆいさんも、軽いボケが入りつつも、モルさんをうまく立てて好演。
それと制作役の大石洋子さんは、登場人物の中では比較的普通の人なのだが、こういう人がいるだけで、舞台が浮つかない感じがした。

次回は、ホームコメディらしいので、今回のようなジャンプはないと思うのだが、この公演で彼らが手にしたものは大きい思うので、それを大切に育てて、8割世界ならではのコメディを見せてほしいと思う。


・・・「現金つかみ取り大会」ってあったの?
クリエイタアズ ハイ

クリエイタアズ ハイ

ホチキス

OFF OFFシアター(東京都)

2013/04/17 (水) ~ 2013/04/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

最初から最後まで、ニコニコしっぱなし
小玉久仁子さんフル回転の大爆発!
それに対する山﨑雅志さんのキャラもいい!
楽しい舞台。

ネタバレBOX

地方鉄道の立て直し、ダム、ゆるキャラといった、物語の中心をなすアイテムに少々古くささを感じるものの、言葉の選び方やストーリーの組み立て方が巧みで、とにかく楽しい。
わくわくしながら観た舞台。

ダムダム大臣、デス・クリエイター、電博堂ネガティブキャンペーン局、関西鉄道(せきにしてつどう)等々、単に言葉の遊びだけではなく、意味がきちんと設定されていて、それがストーリーと見事にリンクされていくのいい。

歌とダンスの入り方も文句なしだ。
いいタイミングと間で、歌とダンスが入り、ストーリー展開にいい加速を付けていく。

台詞のやり取りや登場人物の出し入れなど、テンポが良く、まったくダレることはない。

この劇団には、小玉久仁子さんという強力なキャラクターを擁しているが、彼女のキャラに頼りすぎず、いつもとてもうまく活かしているのだ。
彼女もそれを理解し、作品にうまく溶け込みながら、いいアクセントを作り出す。

今回彼女は、関西(せきにし)鉄道の整備主任という設定で、うまく脇を固める立場なのかと思ったら、そうではなく、話の中心となる、ゆるキャラの役で責めてきた。

彼女の濃さがいい塩梅で、物語を面白くする。いちいちポーズまで面白い。そして、愛らしさや愛嬌もある。もう、観客はニコニコしっぱなしではないだろうか。
健気さと明るさがはち切れて、舞台全体のトーンを盛り立てるのだ。

もちろん、彼女がクローズアップされていくのは、脚本・演出、そして他の役者さんたちとの見事なチームプレイがあるからにほかならないことを忘れてはならない。

それにしても、あのゆるキャラ、よくぞ立体に仕上げたと思う。
美術や衣装の人たちの力作だと思う。
ただ、ダムになるときには、もっとダムっぽくならなかったかな、とも思った。ダムの両側に山の斜面などがあればそう見えたのではないのかな、とか。

ホチキスには、山﨑雅志さんという、これまた一見クールに見える、強力なキャラクターもいるのだが、彼をもう一方の軸に立て、キャラを全開させることで、物語全体の釣り合いが良くなっている。歌い、踊る様がいいし、見た目とのギャップも楽しい。敵役なのだが憎めないキャラだ。
うまい配役だと思う。

関西鉄道社長役の齊籐美和子さんと、アマヤドリからの客演・笠井里美さんがきちんと物語を締める。
笠井さんは、物語を進める上での大切なキーパーソンだが、濃いキャラに挟まれながらも、うまくストーリーを展開させていったと思う。勢いに流れていきがちなところを、きちっきちっと抑え込み、進めていく。これって、結構大変なことではないかと思うのだ。
だから、彼女は、アマヤドリとはまた違った良さを見せることができたのではないだろうか、と思う。

もう1回観たいかも、と思った作品だった。
魔笛

魔笛

新国立劇場

新国立劇場 オペラ劇場(東京都)

2013/04/14 (日) ~ 2013/04/21 (日)公演終了

満足度★★★★

オペラが、スペースオペラになっていた
ミヒャエル・ハンペ演出、ヘニング・フォン・ギールケ美術&衣装、ラルフ・ヴァイケルト指揮、東京フィル、で、オール日本人キャスト。

ラルフ・ヴァイケルトの『魔笛』はすでに新国立劇場でのレパートリーになっているのも頷ける。
わかりやすいし、楽しいのだ。

ネタバレBOX

舞台の上は星々が輝く宇宙のような空間。
そこに大蛇が現れ、タミーノ王子が襲われるのだが、その大蛇の造形が、なかなかグロテスク。口が左右上下4つに分かれて開くというもの。

さらに、夜の女王は、空中から現れるし、要所要所で王子たちにサジェッションを与える3人の童子たちも、空を飛んで現れるし、彼らの衣装はすべて銀色に輝く。

王子の笛で現れる怪物たちも、かなり不気味で、宇宙の怪物的と言っていいだろう。中でもライオンのような頭部を持った2本足の怪物は、「我が子を食らうサトゥルヌス」のサトゥルヌスのようである。

もともと『魔笛』が、王子がお姫様を救出するというダンジョンRPG的な展開なのだから、これらの造形や設定などから、舞台が宇宙であり、いわゆるスペースオペラみたい見えて来るのだ。
パパゲーノというコミカルな相棒も用意されている。
スターウォーズですね(笑)。

とは言え、物語の演出は、とてもわかりやすいし、場面展開が多いオペラなのだが、新国立劇場の舞台装置の活用により、無駄がなく、スピーディにさえ感じる。

新国立劇場の舞台のセリは、小さいものや舞台全体が、あるいは後ろ半分など自在に動かすことができる。それを中間地点まで挙げることで地下をイメージさせたり、神官たちが上から眺めるという演出も可能となる。

第一幕は、王子が王女を救うストーリー。しかし、終盤に実は王女を救ってほしいと王子に願った夜の女王こそが、悪者であったと指摘される。このあたりが善悪単純なスターウォーズとは違うところ(笑)。

第二幕は、王子と相棒のパパゲーノに試練を受けさせる。それに打ち勝ったら、王子は王女と一緒になれ、神官たちと同様な高みに行け、パパゲーノにも伴侶が与えられるのだ。
もちろん王子は試練に打ち勝ち、さらに夜の王女は滅び、大団円となる。
王子と王女が手に手を取って、神官たちの中央に立ち、2人で手にしたトロフィー(後述)を捧げる姿は、神官たちが崇めるオシリスとイシスに重なる。

ラストで、王子と王女に、ザラストロがトロフィーを与えるのだが、それは天空儀であった。太陽の回りを恒星が軌道を描いているもの。さらに、太陽を讃えることになるのだが、彼らの前には大きな「地球」が姿を現すのだ。

もうここまで来ると、スペースオペラ、SFそのものではないか。まるで、彼らがかつて住んでいた青い惑星・地球を崇めている、地球人たちのなれの果ての物語のようになっている。

しかし、違和感はまったくない。

ラストで、王子と王女を中心として、神官たちが居並び、幕が下がるのだが、もともと神官たちを束ねていたザラストロだけが、幕の外に取り残される。そして、棺のようにポッカリと空いた空間に足を入れ腰を下ろすのだ。これの意味するところは世代交代なのだろうか。この演出は今まで見たことがなかったと思う。

王子の相棒であるパパゲーノは、試練を乗り越えることはできないのだが、なぜか赦され、伴侶・パパゲーナとも出会える。高みに登らないが、ワインと伴侶がいれば幸せてせあり、それがわれわれ普通の人々の姿なのだということでもあろう。

『魔笛』は、ユーモラスなところもあり、特にパパゲーノがその任を担う。
今回の舞台では、日本語をしゃべったり(一言だけど)、王子の気を惹くために、指で王子にカンチョーをしてみたり(そう見えたけど違う?)と、掟破りな演出もあったが、当然場内は大爆笑だった。それはそれでいいと思った。

パパゲーノ役の萩原潤さんが特に印象に残った。声もいい演技もいい。タミーノ王子の望月哲也さん、夜の女王の安井陽子さんも良かった。
残念だったのは、急遽代役を務めた方の声が、聞いていて辛いな、と思うほど出てなかったり、メロディも微妙だったことだ。大きな役だったので、それが残念でならない。
オーシャンズ11

オーシャンズ11

宝塚歌劇団

東京宝塚劇場(東京都)

2013/03/29 (金) ~ 2013/05/05 (日)公演終了

満足度★★★★

恥ずかしながら初宝塚
キレのある演出。ミュージカルなのに、展開がスピーディ。

宝塚、はまりそう。

ネタバレBOX

恥ずかしながら初宝塚。
やはり素晴らしい。エンターテイメントをやるならば、役者は皆、これぐらいのレベルにあってほしいと思う。
ダンスも歌のレベルが高くて、見ていてストレスはまったくない。
舞台上の隅々まできちんと神経が張り詰めている。
単に「うまい」というだけではない、品や誇りさえも感じられる。

キレのある演出。ミュージカルなのに、展開がスピーディ。
セットも効率的によく出来ているなと思う。
映画の『オーシャンズ11』(『オーシャンと11人の仲間』ではなく)に、ラスベガスのショーという設定を取り入れ、さらに泥棒の話だけどエコNPOを絡め犯罪感をやや減らし、うまく宝塚版に置き換えていた。

華のある主役たちと、それを支える役者たち。
男優が演じたら、シラけそうなぐらいなカッコ良さは、宝塚だからできるというところもあろう。女性ファンが多いのも頷ける。
お目当ての役者が登場するシーンで、ファンが一生懸命拍手を送るところなんて、いいなぁと思う。

ミュージカルのあとのレビューもカッコ良すぎ。
大階段を使ったシーンはシビれた。

宝塚、これからも見続けそうな予感。

余談だが、東京宝塚劇場内にある男子トイレのマークは、ちょっと腰に手をあてたダンディなスタイル(笑)で、宝塚風だな、と思ったりした。
泣き方を忘れた老人は博物館でミルとフィーユの夢をみる(爆撃の音を聞きながら)

泣き方を忘れた老人は博物館でミルとフィーユの夢をみる(爆撃の音を聞きながら)

おぼんろ

東京芸術劇場アトリエイースト(東京都)

2013/04/06 (土) ~ 2013/04/07 (日)公演終了

満足度★★★★

舞台から温度の高い熱風を送り込むような公演
「オレたちは、こうなりたい!」と、いつも熱っぽく語る劇団だ。
しかし、それが嫌みにはならない。
むしろ「ガンバレ!」と応援したくなる。

上演時間40分ぐらい。
料金:投げ銭。

ネタバレBOX

今回は、少ないが(それでも日曜日は4回公演!)、ロングランで公演を打ったとしても、毎回毎回、同じ熱いテンションで、「オレたちの舞台! 観てくれ!」と舞台から温度の高い熱風を送り込むような公演を繰り広げる(実際、口に出して言うし・笑)。

そういう劇団は、そうあるものではない。惰性のように上演を続けているような、大手劇団に爪の垢を煎じて飲ませたいほどの熱意だ。

たぶん、小劇場の公演に行く観客の多くは、そういうのが好きなんだろうと思う。
いや、小劇場に限らず、演劇、音楽に限らず、そういうものは観客に伝わるし、それは大切だと思う。

単なる観客の1人が言うことではないが、「なんでこの、おぼんろという劇団は、観客をも熱くさせ、虜にしてしまうのだろうか」(こりっちの「観てきた」とかを読んで)と思った、他の劇団関係者は、一度観に行くといいと思う。
確かに、いろいろと稚拙なところはあるとは思うが(失礼!)、得るところ、ヒントはあるのではないかと思うのだ。
つまり、おぼんろの役者たちだけでなく、そこに集う観客の表情を見て感じることはあると思う。
そこには、「お手並み拝見」と腕組みして見るなんていう態度では発見できない何かがあると思うのだ。

路上の一人芝居からスタートし、今までも少人数の観客を前に、とにかく公演回数を重ねながら動員数を増やしてきた劇団であり、観客への接し方がとにかくうまいのだ。

例えば、観客が座る席の間を役者が駆け回るというスタイルの演劇なのだが、「いろんな場所をキョロキョロ観ると、近所の人と目が合ったりして日本人的にはキマリが悪いと思うので、まず最初に左右前後の人たちと挨拶をしておこう」なんて言う台詞とそのタイミングや、観客に何かを振ったとしても、それを瞬時に自分たちに持っていくタイミングのうまさなど、たぶん同じことを別の劇団でやったとしても、この感じは出ないだろうと思う。
それはもう、「この! 人たらしっ!」(笑)って言っていいほどだ。

池袋の東京芸術劇場・シアターイースト脇のアトリエイーストという空間で、「おぼんろ博物館特別展示」と題して、未来の世界にある、おぼんろ博物館という設定で、展示と上演を行った。

タイトルどおりの内容で、どうやら未来の日本は、東西に分かれて内戦中らしく、かつておぼんろ博物館と呼ばれた廃墟に、避難している人々(観客)がいる。その中に一人の老人が現れ、「おぼんろ」という劇団を一度でいいから観たかった、と言い、末原拓馬を降霊する。

そんなストーリー。

まるで詩のような台詞が、いい感じにアングラ感を醸し出す。

正直、最後の展開(サイボーグ云々)は少々説明的ずきて、窓を開けて海の向こうにある船に行く、というそこまでの、幻想的な展開を壊してしまう。
つまり、劇中劇(劇中劇中劇?)のおぼんろの演劇のほうはあくまで幻想的で、そして、現代(未来なんだけど)に戻ったときにはその感じで、という切り分けなのだろうが、それでもラストは、おぼんろの演劇を引っ張ったままの、幻想的な雰囲気で終わってほしかったと思うのだ。
それが、唯一残った、さひがしジュンペイさんが引き継いでいくという、さらに強いラストに結びついたように思う。
ただ、それは好みの問題で、劇団の未来を示すようなラストも、ちょっといい。

老人役のさひがしジュンペイさんが、いい感じだった。

※星の数は難しい。公演自体は3つなのだが、今回の劇団おぼんろの存在感は4つだったからだ。そんなことどうでもいいとは思うけど、悩んだ。結果、3.5かな(笑)。
紙風船文様

紙風船文様

カトリ企画UR

atelier SENTIO(東京都)

2013/03/30 (土) ~ 2013/04/07 (日)公演終了

満足度★★★

演出家(たち)の、格闘の記録
岸田國士の有名な戯曲『紙風船』を、同じ役者を使い、演出家を変え、2年ぐらいかけて上演するという、意欲的でとても興味をそそられる企画だ。
その第1回目。

次回も楽しみだ。

ネタバレBOX

『紙風船』は、2011年の利賀演劇人コンクールでも取り上げられ、確か5つの団体(個人)が同じ『紙風船』を上演し、競い合った。
また、オクムラ宅さんの企画で、『紙風船』の戯曲には手を加えず、演出のみでオリジナルに近い大正時代と現代の2つのパターンを2本立てで、見事に見せたというのも記憶に新しい。

今回の企画は、前述のように、演出家は「同じ戯曲」「同じ役者」「音楽なし」という縛りのみで、あとは何をしても自由というレギュレーションで行われる。
「同じ役者」という縛りは、相当な縛りではないだろうか。
演出家にとって、自分のイメージで演出したいとなると、役者というピースはとても大きなものとなるからだ。

役者は、黒岩三佳さん、武谷公雄さんという、味があってうまい人が用意されている。
しかし、やはり、その人の持つ、あるいは醸し出す雰囲気はあるだろう。

第1回目の演出家は、西尾佳織さん。

戯曲の中心は、なるほど変えてないものの、最初から違和感が生じた。
それは、もちろん演出によるものだ。
そして、その違和感は、「マルイのスプリングセール」で頂点に達した。

丸井が大正14年(戯曲の発表された年)にあったかどうかではなく、例えば、「スプリングセール」と「活動(映画のこと)」という、2つの語句の座りの悪さ。

時代設定がどう、ということいではなく、聞き流すことのできない違和感だった。
それは、最初から感じていたことなので、聞き流せなかったということもある。

つまり、この違和感は、どうやら「戯曲に対する演出家(たち)の違和感」でもあったようだ。
戯曲で描かれる男女の関係に違和感を感じ、演出家(たち)はそれと格闘したようなのである。

つまり、これは演出家(たち)の、格闘の記録ではないか。

演出家(たち)が、結婚1年の夫婦、あるいは男女の関係について、どう感じ、どう理解して、どう表現するかということなのだ。

演出家(たち)は、自分たちが感じているものを、(たぶん)岸田國士の戯曲『紙風船』の中には見出せず、何かを加えて、あるいは削って、自分たちの気持ちに近づけようとしたのだろう。
結局それが中途半端で「違和感」を感じてしまったのだ。

岸田國士の戯曲『紙風船』が「強い」ということもあろう。
長年、いろんなところで上演されてきたこともあり、さらに言えば、ここで描かれる「結婚1年目、ある夫婦の、ある日曜日の、ちょっとした倦怠感」が、共感されやすいということもあるからだろう。
「共感されやすい」とは、「ああ、なんかそんなこと、ありそう」と思わせるところで、その力がこの戯曲は強いということなのだ。

そこに対して、「ああ、そうなんだろうな」では済まさないで、「違和感あり!」と、立ち向かった演出家・西尾佳織さんの姿勢は素晴らしいと思う。
それでなければ、この企画は成立しないのであるから、プロデューサーのカトリヒデトシさんはしてやったり、というところではないだろうか。

ただし、結果としては、岸田國士に力で押し返されてしまったという印象だ。スタンダードな戯曲となっている強さが見えた。
『紙風船』を換骨奪胎して自分のカラーにしてほしかった、ということではなく、『紙風船』を取り込んでしまうような演出が見たかったと思った。
それが時間切れなのか、諦めなのかよくわからないが達成されていないところに未練は残る。

私が最初に感じた違和感というのは、芝居の冒頭に訪れる。

夫が部屋に入って、お菓子を食べるシーンがある。飲み物を飲むときにわざと音を立てるのだが、それに気がつき、妻がちらりと夫を見るのだ。
その「ちらり」と、それに対する夫の反応が、2人の関係を表していたように思えたのだ。
この2人の反応は、岸田國士のそれではなく、その後にも現れてくる、妻の「低体温」な雰囲気が夫婦の関係を支配しているように感じたのだ。

その2人の関係が、結婚1年目、ある日曜日の、夫婦のちょっとした倦怠ムードから1歩踏み込んでしまったように感じたのだ。

私の個人的な意見としては、演出家が感じるほどの、2人関係はアンバランスではないということ。例えば、少しいじわるをしてみたいという程度の、ユーモアを内面にしたやり取り(会話)だと思うからで、その表面に現れないユーモアや夫婦間の関係(愛情と言ってもいいかもしれない)まで、もう少しくみ取ってほしかったな、と思うのだ。例えば、海に行くシーンからの、妻の温度の下がり方が気になったりするのだ。

もちろん、これは私の個人的な感想なので、演出家がどう感じ、どう表現するのかは自由であろう。

最後に、出てくるはずの、タイトルにもなってくる「紙風船」が出てこなかった。
岸田國士が「紙風船」に込めた想いは、演出家にはピンとこなかったのかもしれないが、ならば、演出家にとっての「紙風船」を見せてほしかったと思った。
ハンバーグではないと思うけど(笑)。

オリジナルの戯曲のラストの感じも好きなもので。

ご存じのとおりatelier SENTIOの脇には東武電車が走る。
さらに階上からの下水が流れる音などもしてくる。
その生活音が、舞台に活きていたように感じた。
新婚1年目の夫婦が住んでいる、線路脇のアパートの一室。
岸田國士が描いた、一軒家の縁側、ではない、現代のリアルさだ。

さらに、観劇した日は、雨だったので、装置としての洋服や靴下が吊してあるのも部屋干しのようで、雨の日曜日の気怠さを、より感じたのだ。

そこにうまく立脚していれば言うことなかったのにな、と。

この企画来年までの間に数人の演出家で行われるという。
その人たちが、それぞれが感じる、結婚1年の夫婦、あるいは男女の関係について、岸田國士の戯曲を通じて明らかになっていくのだろう。
楽しみだ。
『静かな一日』

『静かな一日』

ミクニヤナイハラプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2013/02/14 (木) ~ 2013/02/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

初期衝動と再生
確実に言えることは、Nibrollは、刺激的でカッコいいカンパニーのひとつであるということ。
そして、Nibrollからのソロプロジェクト、ミクニヤナイハラプロジェクトもそうだ思っている。

『静かな一日』は、off-Nibrollの『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』が生まれ変わった作品だと思って観た。

ネタバレBOX

初めてミクニヤナイハラプロジェクトを観たのは、4年ぐらい前の駒場アゴラ劇場。
上演されたのは、『五人姉妹』の「準備公演」。
この作品は、私にとって「小劇場の演劇がこんなに面白いのか!」と思ったきったけのひとつになった。それぐらい衝撃的で面白かったのだ。

そして、数年後、吉祥寺シアターで完成した『五人姉妹』を観た。
確かに面白かったのだが、駒場で観たときのような衝撃は少なかった。
もちろん一度観ているということを差し引いたとしても、最初ほどの衝撃はなかったのだ。
これって、いわゆる「初期衝動」のような感覚で作られた作品と、それを練り上げて、完成度を高めて作られた作品の違いではないかとも思った。
いい悪いは別にして、「完成度」という面とはとは違うところでの受け取り方ではある。

ミクニヤナイハラプロジェクトは、1つの種のような作品を実際に上演してみて、その結果を踏まえて、さらにブラッシュアップしていく作品が多いような気がする。単なる再演ではない、再生、生まれ変わりのような感覚で。『幸福オンザ道路』もそうではなかっただろうか。

そして、『静かな一日』である。

昨年の夏、Nibrollの『see/saw』を観た。
これはもの凄く刺激的で素晴らしい舞台だった。震えた。こんな感想を書いた。
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=156656#divulge

そのときに同じヨコハマ創造都市センターで上演されたのが、off-Nibrollの『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』だった。

今回の『静かな一日』はそれを生まれ変わらせ、再生、進化させた作品であったように思う。

『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』は、一人芝居で、今回は二人芝居の違いはあるが、内容的にも重なっている部分があるし、小さな白い家が並ぶインスタレーション作品とのコラボだったり、映像を舞台とクロスさせる方法も。

しかし、『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』のほうは、『see/saw』と対になるような作品だったと思う。
『see/saw』では、震災をストレートに連想、表現し、それをダイナミックな形で観客に突き付けた。それに対して、『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』では、「家」「家族」「生活」「記憶」というイメージから、『see/saw』ではこぼれ落ちてしまうような「個人(家族)」「生活」からのアプローチで見せてくれたと思うのだ。細やかな感覚で個人の不安を。

勝手な思い込みかもしれないが、『see/saw』を創作しているうちに、それだけでは伝えきれない想いがわいてきて、『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』を作ったのではないかと思うのだ。

だから、今回の『静かな一日』では、『see/saw』なしで、まさに『静かな一日』というタイトルに込められた想い、つまり、個人や家族や生活を描いた1本の作品として、立たせようとしたのだろう。

それには、『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』が生まれたきっかけの「初期衝動」とは別のベクトルからのアプローチ、再度、つまり、冷静に作品に向き合う時間が必要であったと思う。そして、再構築して、それはリライトではなくスクラップ&ビルド、もしくは新しい作品を新たに作り上げるようなアプローチで創作されたのだと思う。

『静かな一日』でも当日パンフレットに書かれているように、震災の意味が重低音のように舞台に響いていると思う。
それはよくわかる。

しかし、今回は、それからもう一歩進んだところにあるように思えてならないのだ。うまく書けないので、誤解が生じるかもしれないが、異常事態である震災の記憶だけでなく、日常にもある「喪失感」のような部分を突いてきたように思う。
もちろん震災も日常とは切り離して考えることはできない。
震災の記憶は、まるで重低音のようなイメージで観客に響かせ、普通の生活、静かな一日だったはずの世界を見せる。
実際、しかし、そうした記憶からさらに広げていったのではないかと思うのだ。

つまり、「家の記憶」「町の思い出」そして「家族(最愛の人)」とのこと。
「最後は一人」ということ。

失うモノ、失ったモノとの対話が、「夜」に行われる。
ライブのように撮影されるビデオ映像が、加工され、スクラッチされることの「過去」との関係、「流れ星」を一緒に見ることができない感、家に染みついた家族の記憶、そんなことが怒濤のごとく舞台に溢れる。

孤独感、喪失感を振り払うような台詞の応酬。
それへの格闘のようにすら見える。
役者も実際に追い詰められていったように思えてくる。

ミクニヤナイハラプロジェクトらしい、情念のような台詞の塊が舞台から叩き付けられる。それは激しすぎる。
特に後半にいくに従っての、過剰感はお腹一杯。
ただし、男優の滑舌が残念。きちんと聞こえない辛さがある。

しっかり、「観て」「聴いて」と思うと、俳優だけではなく、観客としても75分が限界かもしれない。

当日パンフには、震災のことに触れていたが、これは作者としては触れざるを得ないことであったとは思うが、結果、ひょっとしたら観客を一定方向にしか向かせないという、ミスリードかもしれないな、などと思ってしまった。
祈りと怪物 〜ウィルヴィルの三姉妹~

祈りと怪物 〜ウィルヴィルの三姉妹~

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2013/01/12 (土) ~ 2013/02/03 (日)公演終了

満足度★★★★

蜷川幸雄って、なんてイヤらしいんだろう(笑)
いい意味でも悪い意味でもね。

とにかく、キャラクターをはっきりさせる力とストーリーをわかりやすくする力は凄いと思う。
それを「いつもの」の手法で見せてしまう。

ネタバレBOX

もちろん同じ戯曲を元に行っているのだから、ストーリー自体は、KERAバージョンと同じなのだが、ポイントの絞り方を変えてきた。
場面展開が、場所や時間が変わるのだけど、それをわかりやすくするために、戯曲のト書きをスクリーンに映し出すという荒技を出して。

これって、「それをわからせるのが演出の仕事じゃないか」とか、「演出する者にとってはいかがなものか」という声が聞こえてきそうなのだが、やってしまう凄さがある。
「わかりやすく」するためには手段を選ばないというか、そんな感じだ。凄いよね。

だから、KERAバージョンでは完全に聞き取れていたかどうかが不明だった、コロスの台詞もすべて字幕で見せてしまうということぐらいは、なんてことはない。
確かに、長いコロスの台詞だったから、読めたほうがいいな、なんて思ってしまう。

キャラクターの造形もそうだ。
それぞれが衣装やメイクの力も借りて、くっきりとわかりやすくなっているのだ。
だから、ポイントが絞りやすくなってくる。

KERAバージョンとの大きな違いは、森田剛さん演じるトビーアスが、ぐぐっとクローズアップされ、主人公のごとく前に出てくるところだ。
KERAバージョンでは正直、トビーアスの陰は薄い。彼の祖母のほうが強烈だということもあるし、演じた役者のカラーのこともある。

しかし、蜷川バージョンのトビーアスは、KERAバージョンに比べ台詞も増え、見せ場も多い。彼の祖母もKERAバージョンに比べさらに際立っているのだが、それに負けずに立っている。さらにトビーアスといつも一緒にいる、満島真之介さんが演じるパブロも、KERAバージョンに比べるとくっきりしており、前に出てくる。森田剛さん演じるトビーアスはそれを超える。祖母やパブロがくっきりしているから、トビーアスもくっきりしているということもあるだろう。

染谷将太さん演じるヤンもKERAバージョンのヤンとは全然違う。背中が凍り付くような、恐いヤンだ。何かに取り憑かれたようで、次女との生活も夢見ている感じが見事だった。最初誰が演じているのかわからなかったほど役になり切っていたように見えた。

「クスリが毒になる」という点も、KERAバージョンよりもはっきりしていたし、メッセージがあったように思った。

また、蜷川さんの舞台ではよく花が使われるのだが、今回、エイモス家の庭にあるのは、エンジェルストランペット。この花は下を向いて咲き、毒があるという。象徴的な花だ。

「誰を観に来る客が一番多いのか」を理解しての演出ではないだろうかとも思う。
よく見るとポスターの写真でも三人姉妹よりもずっと前のほうにいて、大きい。だから見せ場をきちんと作った。
実際、彼は、「人寄せパンダ」以上の力も魅力もあるから、前に出す価値も十分にあるのだ。
彼以外のキャスティングもいいと思う。

森田剛さんは、『金閣寺』でも観たが、いじけキャラ、よく言えばナイーヴキャラがはまり役と言ってもいいだろう。さらに言えば、三姉妹の末娘への接し方の変化、弱い者に強く当たる、という表現が、自分が弱い者だからそうしてしまう、という感じが出ていてよかったのだ。
5章からぐいぐいくるのだが、彼をクローズアップさせるならば、もっと前からそうして欲しかったと思う。そうすれば、観客ももっと安心して楽しめたのではないだろうか。

蜷川さんの演出は、ワンパターン。最近のどの作品を観ても、ほとんど同じ技法の焼き回しの感がある。良い悪いは別にして。蜷川カラーがはっきりしている。

例えば、オリエンタルというかジャポニズムなテイスト。今回で言えば、コロスや町の住民たちの衣装を黒留袖など着物にして、さらに神棚や仏壇を背負わせるなどしていた。
例えば、本水を使う。
例えば、舞台に大きくバツの形にテープを貼る。
例えば、ラストで、舞台の外に出るように劇場の外に通じるドアを開ける。
例えば、別の舞台でも使った同じ音楽を使う。
例えば、とにかく客席の通路を数多く行き来させる。
例えば、セットを動かして出し入れする。
(今回はなかったけど、スローモーションな動き、特にラストで舞台から去るシーンで多い)
などなど、挙げただけでも、「いつも」の手法であり、今回も使われた。

すべてこれらの使い回しであり、必然性がどうとかいうことではないのだ。
……「必然性がない」とまでは、もちろん言い切れないけど。

とにかく「蜷川カラー」なのであり、毎月のように舞台を観に行っている人だけではなく、例えば、森田剛さんだけを観に来たような、普通の観客がびっくりしたり、面白がって欲しいと願っているのだろう。
彼らが、「面白い」と思ってくれれば、いいわけで、そのためには「わかりやすさ」は大切なキーワードとなる。
「びっくり」させたいのだろうなぁ、と思う。

蜷川カラーでグイグイ来る。だから「イヤらしいな」なんて思ってしまう(笑)。それは「凄い」と同義語でもある。
褒め言葉なのだ。

だから、蜷川幸雄という人は凄いと思うし、集客もできる。したがって、次々と公演を打てるのだ。これはほかの人がマネをしてもなかなかできることではないだろう。

今回、観て一番「蜷川幸雄って、イヤらしい人だな」と思ったのは、序幕が開けて1幕目とラストに「心の旅」の曲が流れる。「歌:KERA」と出して。
この曲はご存じ、チューリップの名曲を、かつてKERAいたバンドの有頂天がカバーしたものの一部だ。

舞台の最初と最後にこの曲を流して「ここから、ここまでは」「KERAの心(の旅)」の中なのだ、と言っているのだろう。
戯曲に対する蜷川幸雄さんのメッセージではないか、と思ったわけだ。
なんとイヤらしい人なんだろう(笑)。

ついでに曲で言えば、「ブラザーサン・シスタームーン」が印象に残った。

KERAバージョンは、どことなくユーモアがあった。パスカルズの音楽がそれをうまく盛り立てていたと思う。例えば、ドン・ガラスを演じる生瀬さんは、ユーモアを含んだ余裕があった。人の幅というか、上に立つ者の怖さというか。対する蜷川バージョンにはそれは感じられず、全体的にどこか生々しい。

だから、KERAバージョンでは、結構笑いが起こっていた。KERAバージョンで笑いが起こっていたのに、蜷川バージョンでは、観客がクスリともしない場面もあった。

この違いが舞台の印象を大きく分けたと言ってもよく、それが2人の演出の違いだろう。

この企画、面白かった。

ただし、次回同企画を行うときは、上演時間4時間超は勘弁してほしい。長くても2時間以内でお願いしたいところだ。
タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦

タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦

新国立劇場

新国立劇場 オペラ劇場(東京都)

2013/01/23 (水) ~ 2013/02/05 (火)公演終了

満足度★★★★

全3幕、上演時間3時間55分(休憩含む)をたっぷり堪能
ハンス=ペーター・レーマンの演出は、スケールがあり、壮大で美しい。

ネタバレBOX

ご存じの方も多いとは思うが、あらすじはこんな感じだ。

禁断の地ヴェーヌスベルクで女神と愛欲にまみれて家庭を顧みなかったタンホイザーが、女神との生活を捨て自宅に帰る。
しかし、城で行われた歌合戦によって、タンホイザーがまだ快楽に気持ちが傾いていたこと、また、禁断の地ヴェーヌスベルクいたことを知られてしまう。それを知った騎士たちに「裏切り者」となじられて、切られそうになるが、タンホイザーの妻・エリーザベトが中に入り、領主がタンホイザーにローマに行って法王から罪の赦しを得ることを命令する。タンホイザーは、巡礼者に混じってローマへ向かう。
ローマから巡礼者たちが戻ってくるが、タンホイザーの姿はない。エリーザベトは、タンホイザーの罪が赦されるのであれば、命を捨てることを決意する。
タンホイザーは、身をやつしてローマから戻るが、法王の赦しは得られなかった。法王は、タンホイザーに、その罪が赦されることは、自分の持っている杖に緑の葉が生えるぐらいにないことだ、と言われた。
タンホイザーはやけになり、禁断の地ヴェーヌスベルクに戻ろうとするのだが、エリーザベトによってそれは妨げられる。エリーザベトは命を持ってタンホイザー救おうとしたのだ。タンホイザーはそれを知りこと切れる。
そこへ緑の葉が生えた法王の杖が持ってこられて、タンホイザーの罪が赦されたことが告げられる。

この舞台は、まず序曲で驚かされる。
それは、円筒形の大きなセットがスモークの中から次々と現れてくる。舞台の天井より高いぐらいのセット、3階席ぐらいの高さはあろう。
それが壮大な音楽とともに、舞台の奈落からそびえ立つように現れる様子は圧巻だ。もうこれだけで、シビレてしまった。
つまり、セットが登場するという、それだけで間が持つというより、感動してしまう。これからの舞台が期待できる序曲だ。

序曲から続くのは、禁断の地ヴェーヌスベルクを表現する、新国立劇場バレエ団によるバレエ。
男女のバレエ・ダンサーが艶めかしくも美しく踊る。
とても美しい。バレエの公演か? と思うほど。

タンホイザー役(スティー・アナセン)は手堅い。さすがだと思う。
ヴェーヌスベルクの女神(エレナ・ツィトコーワ)と、タンホイザーの妻・エリーザベト(ミーガン・ミラー)の歌は見事だ。声量も表現もたっぶりしていて、心地良い。
また、特に男性合唱が良い響きだ。
騎士団が現れて来る個所などは、舞台袖のオフの声が舞台の上に徐々に現れてくるという効果はなかなか。
牧童を演じた國光ともこさんは、一見華奢な体つきなのだが、素晴らしい歌声であった。

歌合戦のために騎士や貴族、その妻たちが、次々に舞台に現れてくる様も、豪華でわくわくさせる。
セットの使い方は意外とシンプル。映像や照明もいい。

全3幕、上演時間3時間55分(休憩含む)をたっぷり堪能した。
祈りと怪物~ウィルヴィルの三姉妹~【KERAバージョン】

祈りと怪物~ウィルヴィルの三姉妹~【KERAバージョン】

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2012/12/09 (日) ~ 2012/12/30 (日)公演終了

満足度★★★★

どこまでもKERAさんっぽいのにまるでギリシア悲劇のよう
4時間10分もの大作なのに、面白い!
KERAさんの脚本を、KERAさんと蜷川さんが別々に演出するという挑戦的な企画。

ネタバレBOX

舞台となるウィルヴィルとは、「海と火山に囲まれた、小さな島」にあるという。
これって、「日本」じゃないか、と思う。

未来なのかいつかなの、あるいは気がつかないだけで、今の日本の話なのかもしれない。

「苦痛で電気を起こす」というシステムが登場する。
その電気で拷問にかけるための電気を起こすという設定まである。
「苦痛で電気を起こす」っていうのは、原発事故を起こしている、今の日本じゃないか、と思ったりもする。それは深読みしすぎか。

そこは「欲望」という怪物が当然の顔をして居座っている。
そして、命が軽い世界でもある。

ますます日本というか、この世界のことではないだろうか、と思う。

普通ストーリーには軸となるモノがある。今回の場合は、タイトルとなっている「三姉妹」がそうであろう。
その軸に、「不安定」「不確定」の要素が絡み物語が動き出す。

今回は、その「不安定」「不確定」の要素が多い、三姉妹の祖母と双子の老婆とその息子、密航者、錬金術師の弟子、地下組織、宗教と。
どれもに、それぞれの濃い設定があり、それによって物語がどうのように動くのかがポイントとなってくる。
先がまったく読めないのだ。だから4時間10分もの大作でありながら、惹き付けられ、面白いと感じるのだ。

ただ、そういう要素が多すぎるため、軸が少々ぼやけてしまったような気がする。軸となるのも、1人の娘ではなく、三姉妹だし。

暗い笑いが舞台の上にある。
ちょっと顔が引きつるような笑いもある。
ただし、下品にはならず、その下に常に何かを秘めているようだ。
それがKERAさんぽいなと。

やっぱり行き着くのは「家族」のこと。
どの家族も絆は深い。
欲望の怪物になる双子の老婆とその息子の関係も、どんなになっても断ち切れない。仕立屋とその娘、メイド夫婦とその子ども、そして三姉妹と親。

外に対してはどんなことでもするのに、家族だけは大切にしている。
これは、今の日本に対するメッセージではないだろうか。
皮肉ではなく、ストレートなメッセージ。

ラストに向けて、欲望にまみれた人々はそれぞれにふさわしい「罰」を受ける。
それは「罰」とも言えるし、単なる「結果」「運命」とも言える。

三姉妹の父、ドン・ガラスは、すべてを失い、生き残ってしまうという「罰」を受けるのだ。
家族も部下も何もない世界に1人。
悪態をつきながらも、教会に寄りかかる。
悪態には、実は感謝の気持ちが現れている。
教会でもらった毛布にくるまりながら、「ちょっとは褒めてやってもいいよ」と教会に向かって声を掛ける。
少し甘いかもしれないが、彼がたどり着いて先がここだった、ということなのだ。

音楽がパスカルズで、生演奏だった。
これがもの凄く舞台内容とマッチしていた。
演奏だけでなく、舞台に上がっても、印象的。
そう言えば、かつてKERAさんの主宰していたナゴムレコードに、パスカルズの石川さんがいた、たまがいたんだよなーと。

コロスの登場、日本っぽい設定、ギリシア悲劇のような雰囲気、こういう要素や構造は、蜷川幸雄さんが好物としているものではないだろうか。
だから、KERAさんは、敢えてそういう要素を入れてきたような気がする。
これは変化球を蜷川幸雄さんに投げたのではなく、直球勝負に出たのではないだろうか。
「お手並み拝見」と(笑)。

長時間の公演時間で、面白かったのは確かなのだが、いかんせん、長い。
しかも休憩時間が10分は短すぎ。
女性だとトイレにいけるかどうかだ。
夜の回だと18:30に開演して、23時近くになってしまう。
食事を取るタイミングがないのだ。
キツイなあ。
例えば、新国立劇場であれば、終演後でもレストランが開いていたりするし、軽食も食べる時間があったりする。
そのあたり改善されるとうれしいのだが。
「テヘランでロリータを読む」

「テヘランでロリータを読む」

時間堂

シアター1010稽古場1(ミニシアター)(東京都)

2013/01/19 (土) ~ 2013/01/28 (月)公演終了

満足度★★★★★

「抑圧」の部屋から、「(隣の)青い芝生」が見える「窓」を開ける
オノマリコさんの戯曲が素晴らしい。
それを具現化した黒澤世莉さんの演出も見事。
もちろん役者さんたちもいい。

オノマリコさん × 黒澤世莉さん の生み出す作品って本当に素晴らしい。

ネタバレBOX

最初から、革命後のイランはイヤだなー、とだけ思って観ていた。
もちろん、この舞台以前から、イランではこんな大変なことが起こっているとニュース等で報道されていたこともある。

先生と週の終わりの木曜日に読書会をしている彼女たちは、「目に見える抑圧」を受けている。

彼女たちは、「先生」によって巧みにチョイスされた「外国文学」で、「知って」しまったのだ。
自分たちが「抑圧されている」ことや、「敵」が誰なのか、そして「(自分たちの欲している)理想」「自由」がどこにあるのかを。
活字の中にある、西洋=自由。

先生は、「外国文学」を「隣の青い芝生」の見える「窓」にしてしまった。
窓からは明るくて煌めく青い芝生が見える。そこには「抑圧」はない。
そして窓から振り返り、自分のいる場所を改めて見ると、暗く陰湿で陰のある部屋しか見えない。

「先生」は罪作りだ。
彼女たちに「目に見える敵」と「目に見える理想」を気づかせてしまった。刺激的な『ロリータ』という書物を、野球の「ピンボール」のごとく、彼女たち意識の近くに放ってきたのだ。
彼女たちへの効果は抜群で、ロリータに自分たちを見出すだけでなく、「こんな内容の書物が許される世界があるのだ」ということも同じに知ることになる。

知ることで、自分が不幸であることも知ってしまった。

この舞台で「先生」の役はいない。
いない先生を取り囲む女性たち。
この作品が素晴らしいのは、こうしたセンスだ。

先生が彼女たちを読書によって導いている様が、「ガイド」しているようになってしまっては、彼女たちが自分たちの頭で考え、発言し、行動しようとしたことが薄れてしまうからだ。

「自分の不幸を知る」ことで、「希望」が生まれ、「未来」が生まれていくのも事実だ。ただし、そのためには「強い意思」が必要ではないか。
彼女たちの多くはそれを持ち、ある者は命がけで外国へ行く選択をする。

その時点で彼女たちにとっては先生は「不在」となる。先生とのかかわりの中から、自分の「意思」を知ってしまったからだろう。

「知る不幸」は「知らない不幸」よりも何百倍もいい。
知ってしまったことへの苦悩を伴うとしても。
と、つい簡単に書いてしまうが、彼女たちが受ける苦悩は精神的はもちろん身体的な苦痛を伴う。生命の危険さえ伴う過酷なものだ。
それを乗り越えてまでも「何かをしたい」「どこかに行きたい」、つまり、「自分を取り戻したい」という気持ちを強く感じる。その欲求は強く、意思も強い。

彼女たちにそれを感じた。
ただ1人自らオールドミスと言っていたマフシードも、自分が強く信じるモノがある。

先に書いたように、小説『ロリータ』のロリータに彼女たちは知らず知らずのうちに、自分を重ねていく。
舞台の中では、ロリータを彼女たちが演じることで、それを表現し、さらにロリータの中の登場人物ハンバート・ハンバートが彼女たちを悩ます。
ハンバート・ハンバートが、彼女たちを悩ます、あらゆる「陰」となる。ハンバートがイラン革命だったり、為政者だったりするわけで、それに人生を奪われたロリータが彼女たちだ、というのだ。
読書会の彼女たちが、読む書物の中に重なり、交錯していく戯曲が見事だ。本当にスリリングで面白い。

そして、彼女たちは被害者として存在する、ロリータのことからしかモノが見えていないことが露わになる。それは彼女たちがロリータだからだ。この構図は、舞台の中でも、男性が彼女たちに「自分は違う」「男性も悩んでいる」と主張しても理解を得られないことに似ている。

「男」は「抑圧している側」の象徴でもあり、彼女たちにとって、常にハンバート・ハンバート(側)であるからだ。「ベール」「化粧しない」等々の理由が男性側にあるということもあろうし、男女の「感覚の違い」というのは、簡単には理解し合えるものではないということもあろう。

で、そして、ふと思った。「今ここで、この公演が上演される意義は?」。いや、そういう大上段に構えたソレでなくて、なんか心が動くな、と思うところがあったからだ。

それは「何」だったのだろうか。

世の中には、政治であったり、差別であったり、格差であったりの、「抑圧」が存在している。
しかし、「抑圧」は、そういった「目に見える」ものだけではない。
「目に見えない抑圧」もある。
したがって、「他人に理解されない抑圧」もある。

つまり、「テヘランであったことは世界のどこにでもある」のではないか、ということ。

「抑圧されている」ということを、自分のせいにして、つまり、「悪」を自分の中に見つけ、それを悔やみ、嫌悪することで閉じていく人もある。

だから「外に敵を作れ」「目に見える敵を作れ」とは言わない。
彼女たちから「学ぶ」とすれば、それは、痛みも伴うこともあるということを理解した上で、「自分で考え、行動する」ことであろう。

そういう、少し脇道に逸れた見方もあるのではないか、と、彼女たちの強さに、感じた。

彼女たちの中には、外国に渡った者もいる。
「自由」と「理想」に近づいた彼女たちの、「次の敵」は何だったのだろうか。
だぶん「見えない敵」にも遭遇したのではないだろうか。
それは自分で見つけることができたのだろうか。それにも「強い意思で対処していけたのであろうか」。
そんなことが気になった。

シンプルな舞台なのに、シンプルであるとか簡素であるとは感じなかった。
役者たちの絡ませ方がうまいからだろう。
台詞に無駄がなく、そのときの感情を見事に表現しているように響く。

2時間近い舞台なのに、最初から最後まで引き込まれた(お尻は痛くなったけど・笑・クッションぐらい欲しいところだ)。

四方を観客で囲む舞台だったが、どの場所で観たとしても、まったくストレスはなかったと思う。
ライティングを含め、役者の動かし方がうまい。

ちょっとずらして折ったフライヤーなどのアートワークもいい。
受付、客入れも丁寧。

また、兄弟や夫婦、肉親の関係を、衣装の色で見せるというのは、なかなか面白いと思った。
ロリータがサングラスを頭に、とかハンバートのみがダークスーツで革靴というのも。
さらにニーマを除き、イランの男性が全員ヒゲを蓄えていた。
黒澤さんはもの凄いヒゲ面だった(笑)。
公演の直前に実際にテヘランに行ったということだが、それがどれぐらい公演に反映されたのか、は知りたかった。



蛇足ながら、ミニシアター1010には初めて行った。
家からは遠いのだが、いい会場だ。思ったよりも広さがあるし、トイレもちゃんとしていて、駅に直結。
終演後であっても、1つ下の階で食事もできる。
エスニックな公演の後、中村屋でカレーを食べた。美味しかった。
100万回生きたねこ

100万回生きたねこ

ホリプロ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2013/01/08 (火) ~ 2013/01/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

身体と言葉で詩情豊かな作品に
脚本を、小劇場で活躍している、糸井幸之介さん、戌井昭人さん、中屋敷法仁さんの3人が担当し(たぶん歌詞は糸井さんが担当するのかな、と)、音楽にはロケット・マツさんと阿部海太郎さんがいて、さらにコンテンポラリー・ダンスのインバル・ピントさんとアブシャロム・ポラックさんが演出をするということで、(やや)スパイシーな内容を想像していたのだが、そうではなかった。
とても詩情豊かな作品が、舞台の上にあった。

大人だけが観るのはもったいない、子どもにも是非観てほしい作品だ。

ネタバレBOX

ストーリーは、絵本の『100万回生きたねこ』。

それを、主人公のネコが人に飼われていたときと、自由に生きていたときの2部に分けて上演した。
上演時間を開演前に掲示で確認すると、第1部80分、休憩後第2部40分となっている。それだったら通しで上演したほうが、中ダレしなくてよいのでは? なんて思っていたが、それは違っていた。
2部構成が正解だった。

100万回死んで、100万回生き返ったネコは、王様や泥棒、漁師などいろいろな人に飼われてきて、「死ぬことはなんともない」と思っていた。飼っていた人々は、ネコの死に涙し悲しんだが、ネコ自身は涙の1つぶも流さなかった。これが第1部。

第2部は、そのネコが「愛する」ということを知って(すなわち、本当に「生きて」)、その死に涙する。

第2部が特にいい。
第2部は、あっという間の40分なのだが、胸に迫る。

第2部を際立たせるめにも、観客には休憩時間のインターバルが必要だったというわけなのだ。

インバル・ピントさんとアブシャロム・ポラックさんは、イスラエルのコンテンポラリー・ダンス演出・振付のユニットだ。
ミュージカルという公演だが、当然、ダンス中心の内容になってくると予想していた。
しかし、単に「歌のあるダンス公演」という、狭い内容ではなく、「これはこう演じて、こう身体を動かすことでしか表現できないな」ぐらいに思わせる演出であった。

ホントに凄いと思った。

美術も彼らが担当し、デザインチックで、ポップでありながら、押さえた色のトーン。それは、読み込んだ絵本のページをめくるような「画」であり、その「画」が、「たぶん絵本が動いたらこんな風になるのではないか」と思わせるように、ユーモラスだったり、少し不思議だったりに動くのだ。

特に前半は、前後左右はもちろん、上下からも登場したり、上に伸びたり、下に一瞬に隠れたりと、わくわくどきどきしっぱなしであった。観客の多くは目を輝かせて観ていたのではないだろうか。

このセンスは素晴らしい。ダンスを担当する人たちの動きがキレもいいし、なにより観ていて楽しい。

台詞の多くは、韻を踏む。その楽しさもある。

そして、第2部だ。
100万回生きたネコが初めて涙し、「死」を思い、つまり、「生」を思い、「愛」を思う。

100万回生きたネコと白いネコは、多くの台詞を使わず、しりとりで単語をつなぐ。
この、一見なんでもないような、単語のやり取りに「愛」を感じてしまう。

余計な台詞や、原作の絵本にあるような、子どもたちが出てこなくても、2人の関係が浮かび上がるのだ。
このときの彼らが表現する動きがいい。

出会いのシーンは、100万回生きたネコが動き、興味を惹こうとする。対する白いネコはそれに動じない。しかし、2匹は徐々に近づいていく。
この後の彼らの動きにも「愛」を感じる。

「恋愛」の「愛」から、「家族愛」の「愛」というか、そばにいて欲しい人への愛情だ。

短い時間ながら、そうした関係を丁寧に見せたあとの、白いネコが目を閉じてしまうときの100万回生きたネコの慟哭は、胸に迫る。本当に迫ってきた。

その後の余韻の長さがとてもいいのだ。
変に音楽で盛り上げようとせず、静寂と重なる2匹のネコの姿。
これにはすっかりやられてしまった。

さらにラストに、彼らに重なる音楽がもの悲しいだけではなく、どこか明るさがあるような曲であり、彼らを祝福しているようでもあった。100万回生きたネコをかつて飼っていた飼い主たちも登場する。彼らも祝福を贈る。
100万回生きたネコが、本当に涙を流したことへの祝福でもあろう。
つまり、それは「死」への祝福ではなく、「(きちんと)生きてきたこと」への祝福だ。

何回も生き返ることで、死を軽んじていたネコが、生きてきたことを実感したということだ。

また、飼われていたときは、飼い主に愛されていて、ネコが死んだときには、飼い主たちは多くの涙を流していたが、今度はネコ自身が「愛する」ことを「知って」、「涙する側」になったことへの祝福でもあろう。

「愛すること」を「知って」、「生きてきた」と言えるということなのだ。

100万回生きたネコを演じた森山未來さんは、全編身体を、とてもきれいに動かし続け、100万回生きたネコの気持ちを見事に表現していた。
前半は、100万回生きたネコを見続ける少女を演じ、後半は白いネコを演じた満島ひかりさんは、しなやかで、ときには儚く、観客の視点と物語の中心を見せてくれた。
脇を固める俳優さんたちも、役のトーンをそれぞれにに見事に演じていたと思う。とても良かった。

脚本を担当した糸井幸之介さん、戌井昭人さん、中屋敷法仁さんの3人は、もし、彼らがそれぞれに同じ「100万回生きたねこ」をテーマにした作品を発表したとすれば、恐らくまったく違ったトーンになったと思うのだが、今回は、3人が揃ったことで、それぞれの作風に持っている「センチメンタル」な部分や「詩的」な部分がうまく、相乗効果により共鳴し、発揮されたのだろう。

音楽も良かった。パスカルズやいろいろなアーチストのサポートで活躍しているロケット・マツさんと、各種舞台の音楽を担当している阿部海太郎さんが、アコースティックで、どこかノスタルジックな味わいのある曲を作っていた。どの曲も良かったし、舞台の中や外で生演奏も効果は抜群であった。

若手の脚本家たちの競作による脚本、2人の音楽家たちの曲、そして日本人の俳優を使って、演じさせ、踊らせ、歌わせて、このような素晴らしい作品にまとめ上げた、イスラエルの演出家たちの手腕には驚嘆した。
ミュージカル『シラノ』

ミュージカル『シラノ』

東宝

日生劇場(東京都)

2013/01/05 (土) ~ 2013/01/29 (火)公演終了

満足度★★★★

男ってなんて弱いんだろう
ご存じ「シラノ・ド・ベルジュラック」をミュージカル化した作品の再演。

「顔がいいけど頭の中はそうでもない男」に「頭はいいのだが顔が…の男」が手を貸して愛する女性を手に入れるという、ちょっと愉快な前半と、彼らに訪れる悲劇を描いた後半に分かれる。

ネタバレBOX

全体的に演出のテンポはいい。場面展開もダレない。
特に前半はサクサク進む。そして、後半の悲しみを予感させる幕切れで第一幕は終わる。第二幕の前半は苦戦する戦場が舞台ということもあり、悲壮感が漂う。そしてラストへ。ラストは静寂の使い方が巧みで、観客の気持ちを盛り上げる。

やっぱり「顔じゃくなくて、中身なんだよ、男は」という単純な話でもなく、自分の想いはどんなに稚拙であったとしても、自分の言葉で伝えるべきであり、また、自分の気持ちを偽らないこと、という示唆が物語の中にあったと思う。

まあ、そこまで考えなくてもいいのかもしれないが、「男は弱いな」というのが、全体の印象でもある。
辛辣で勇敢なシラノも、自分の容姿に自信が持てなくて、自分の気持ちを偽ってしまうし、容姿には自信があるクリスチャンも、自分の教養には自信がなく、シラノに手を貸してもらってしまう。

クリスチャンは、徐々にとまどいが出てくるのだが、ロクサーヌに本当のことが言えない。
かたやシラノは、最後の最後に、実は自分だった、ということを匂わせてしまう。

2人とも勇敢な騎士なのに、「ああ、なんて男って弱いんだろう」と思ってしまう。

舞台は意外とシンプル。全体的には黒っぽいというか、暗く陰影がある印象だ。
舞台の後方には、メタリックな壁があり、そこに緑の自然などの映像が投影されたりする。
戦場でガスコン青年隊が窮地に陥り、暗転後、数年後の秋のシーンにつながる。真っ赤な紅葉がはらはらと舞台の上に散り、ガスコン青年隊が流した血潮のようにも見える。
美しく悲しいシーンだ。

シラノを演じる鹿賀丈史さんが、思ったよりも歌はそれほどでもというシーンも多少はあったが、主役然として中央にいる。脇の役者や演出の盛り立て方もいいし、鹿賀丈史さん自体の佇まいもいい。多少のことは気にしないでおこう。

Wキャストでロクサーヌ役の彩吹真央さんは、さすが元宝塚だけあって、身のこなしも歌も抜群にいい。彼女とデュエットするとその相手の歌もうまく聞こえるのが素晴らしいと思った。

生演奏でこれぞミュージカル、という雰囲気は新年最初の観劇にふさわしいものであった。

日生劇場は、好きな劇場。どの場所で見てもストレスが少ない。赤絨毯の雰囲気もいい。ミュージカルは、渋谷にできた専門の劇場よりはここで観たい。

このページのQRコードです。

拡大