『静かな一日』 公演情報 ミクニヤナイハラプロジェクト「『静かな一日』 」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    初期衝動と再生
    確実に言えることは、Nibrollは、刺激的でカッコいいカンパニーのひとつであるということ。
    そして、Nibrollからのソロプロジェクト、ミクニヤナイハラプロジェクトもそうだ思っている。

    『静かな一日』は、off-Nibrollの『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』が生まれ変わった作品だと思って観た。

    ネタバレBOX

    初めてミクニヤナイハラプロジェクトを観たのは、4年ぐらい前の駒場アゴラ劇場。
    上演されたのは、『五人姉妹』の「準備公演」。
    この作品は、私にとって「小劇場の演劇がこんなに面白いのか!」と思ったきったけのひとつになった。それぐらい衝撃的で面白かったのだ。

    そして、数年後、吉祥寺シアターで完成した『五人姉妹』を観た。
    確かに面白かったのだが、駒場で観たときのような衝撃は少なかった。
    もちろん一度観ているということを差し引いたとしても、最初ほどの衝撃はなかったのだ。
    これって、いわゆる「初期衝動」のような感覚で作られた作品と、それを練り上げて、完成度を高めて作られた作品の違いではないかとも思った。
    いい悪いは別にして、「完成度」という面とはとは違うところでの受け取り方ではある。

    ミクニヤナイハラプロジェクトは、1つの種のような作品を実際に上演してみて、その結果を踏まえて、さらにブラッシュアップしていく作品が多いような気がする。単なる再演ではない、再生、生まれ変わりのような感覚で。『幸福オンザ道路』もそうではなかっただろうか。

    そして、『静かな一日』である。

    昨年の夏、Nibrollの『see/saw』を観た。
    これはもの凄く刺激的で素晴らしい舞台だった。震えた。こんな感想を書いた。
    http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=156656#divulge

    そのときに同じヨコハマ創造都市センターで上演されたのが、off-Nibrollの『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』だった。

    今回の『静かな一日』はそれを生まれ変わらせ、再生、進化させた作品であったように思う。

    『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』は、一人芝居で、今回は二人芝居の違いはあるが、内容的にも重なっている部分があるし、小さな白い家が並ぶインスタレーション作品とのコラボだったり、映像を舞台とクロスさせる方法も。

    しかし、『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』のほうは、『see/saw』と対になるような作品だったと思う。
    『see/saw』では、震災をストレートに連想、表現し、それをダイナミックな形で観客に突き付けた。それに対して、『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』では、「家」「家族」「生活」「記憶」というイメージから、『see/saw』ではこぼれ落ちてしまうような「個人(家族)」「生活」からのアプローチで見せてくれたと思うのだ。細やかな感覚で個人の不安を。

    勝手な思い込みかもしれないが、『see/saw』を創作しているうちに、それだけでは伝えきれない想いがわいてきて、『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』を作ったのではないかと思うのだ。

    だから、今回の『静かな一日』では、『see/saw』なしで、まさに『静かな一日』というタイトルに込められた想い、つまり、個人や家族や生活を描いた1本の作品として、立たせようとしたのだろう。

    それには、『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』が生まれたきっかけの「初期衝動」とは別のベクトルからのアプローチ、再度、つまり、冷静に作品に向き合う時間が必要であったと思う。そして、再構築して、それはリライトではなくスクラップ&ビルド、もしくは新しい作品を新たに作り上げるようなアプローチで創作されたのだと思う。

    『静かな一日』でも当日パンフレットに書かれているように、震災の意味が重低音のように舞台に響いていると思う。
    それはよくわかる。

    しかし、今回は、それからもう一歩進んだところにあるように思えてならないのだ。うまく書けないので、誤解が生じるかもしれないが、異常事態である震災の記憶だけでなく、日常にもある「喪失感」のような部分を突いてきたように思う。
    もちろん震災も日常とは切り離して考えることはできない。
    震災の記憶は、まるで重低音のようなイメージで観客に響かせ、普通の生活、静かな一日だったはずの世界を見せる。
    実際、しかし、そうした記憶からさらに広げていったのではないかと思うのだ。

    つまり、「家の記憶」「町の思い出」そして「家族(最愛の人)」とのこと。
    「最後は一人」ということ。

    失うモノ、失ったモノとの対話が、「夜」に行われる。
    ライブのように撮影されるビデオ映像が、加工され、スクラッチされることの「過去」との関係、「流れ星」を一緒に見ることができない感、家に染みついた家族の記憶、そんなことが怒濤のごとく舞台に溢れる。

    孤独感、喪失感を振り払うような台詞の応酬。
    それへの格闘のようにすら見える。
    役者も実際に追い詰められていったように思えてくる。

    ミクニヤナイハラプロジェクトらしい、情念のような台詞の塊が舞台から叩き付けられる。それは激しすぎる。
    特に後半にいくに従っての、過剰感はお腹一杯。
    ただし、男優の滑舌が残念。きちんと聞こえない辛さがある。

    しっかり、「観て」「聴いて」と思うと、俳優だけではなく、観客としても75分が限界かもしれない。

    当日パンフには、震災のことに触れていたが、これは作者としては触れざるを得ないことであったとは思うが、結果、ひょっとしたら観客を一定方向にしか向かせないという、ミスリードかもしれないな、などと思ってしまった。

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    2013/02/16 04:42

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