満足度★★★★★
Aga-risk Entertainmentは期待を裏切らないね!
卒業式における「日の丸・君が代」の、コメディ(!)
Aga-risk Entertainmentが、お得意の、会議バトル・コメディだ。
ネタバレBOX
新作が発表されるごとに、Aga-risk Entertainmentのレパートリーが増えていく印象。
これも卒業時期に再演・再々演されても、また観たいと思わせる作品だ。
学校の演劇鑑賞会とかにもいいよね。
とても気持ち良く最初から最後まで笑い、楽しんだ。
「卒業式における日の丸、君が代」という、一見すれすれのテーマに対して、正面からぶつかるのではなく、巧みにそれを観客に意識させながらコメディに持ち込むというセンスがいい。
東京大空襲前日(!)という恐ろしい設定のコメディ『大空襲イヴ』や孤独死の現場を清掃する特殊清掃員を描いた『無縁バター』など、どちらもタイトルからして痺れてしまうテーマからの発想、視線がうまいカンパニーである。
その部分を直接触るのではなく、観客には「直接部分」を頭の中に浮かべさせながら、その「周囲」の「面白いところ」に触れていくというセンスの良さがある。
今回の作品も、「紅白旗」って、結構毒吐いてますよね(笑)。下手したら街宣車がサンモールスタジオ前にいてもおかしくない……はないとしても、このセンスからもAga-risk Entertainmentの面白さが始まっている。
「国旗と国歌で泥仕合」「右も左もわからない」ていうリード文も好きだ。
生徒の自主的な活動を妨げるモノに対して、ということでは、イデオロギー論争ではある。
しかし、「(いわゆる)政治的イデオロギー論争」ではない。
当然観客は、「日の丸・君が代論争」は頭にあるので、そこに熱くなる左派教師の饒舌さに笑い、生徒と教師の意見の「逆さ」にも、また笑うことができるのだ。
Aga-risk Entertainmentは、チームプレイの劇団だ。
個人の力が発揮されるが、チームプレイを大切にしているように思える。
それぞれのポジションがしっかりしていての、戯曲なので、観ている側にも安心感がある。
きれいに台詞や演技のバスが渡るさまは、観ていて楽しい。
そういう意味でも「会議」という設定は、とても効いていると思う。
過去作品の『ナイゲン』はもちろんこと、『時をかける稽古場』だって、会議モノですよね。
少々、役者のパターンが固定してきたように思えるが、それがいいところも、ある。
たぶん、観客のそれを刺激するのが、「委員に口の達者な淺越くんがいます」の台詞だ。
過去の作品、特に『ナイゲン』を観ている観客にとっては、手を叩いて笑うところだ。
だって、最初のメンバーに彼がいないのが不自然なんだもの(笑)。
ただし、1人だけ得をした淺越くん(部屋を2つもらった?)は、もっと屁理屈、いや、ディベート、じゃなくて弁論を振るってほしかったと思う。まあ、村松先生とのバトルはなかなかではあったが。
観客の多くも、それを期待していたのでは。
今回の作品では、「おっ!」と思ったシーンがある。
校長室に押しかけるシーンだ。
校長室内での会話と、「どうやって校長室に入り、メンバーを集めるか」という話し合いが、渾然となるシーンで、ここには演出のうまさが炸裂していた。
後半に向かって、畳み掛けることが必要なシーンなので、本当にここのリズムとスピードがいい。
観客が深く考える前に進んでいる。
このリズムでラストに引っ張るというのは、もの凄くうまい。
もちろん、今までの作品でもスピード感を出していた演出はあったが、これほど印象的、かつ違和感のない演出は素晴らしい。
演劇ならではの演出であり、舞台をライティングで区切って、さらに場所や時間の移動をさらりと見せる演出の集大成とも言えるもので、新しいワザを手に入れたのではないだろうか。
なので、さらに次回作も楽しみになってしまう。
ラストに、生徒会長・熊谷が、やっぱり手を挙げないというのも、好感が持てる。高校生は大人なんだから、そう簡単には丸め込められない。そして、基本、左派教師村松と校長以外は「日の丸・君が代」の扱いなんてどうでもいいと思っているのだろうし、会議は早く終わらせたい、というのが心の中の本音だろう。
なので、折衷案が出てくれば、一気呵成に全員が乗るという図式はわかりやすい。
生徒たちには、「あんときは、燃えたよねー」「熱く語ったよ」という「思い出」が残ればいいということなのかもしれない。というのは、高校に熱くならなかった者のひがみなのかもしれないが(笑)。
今回の作品では、それぞれの先生たちと、生徒たちとの距離感がきちんとわかる戯曲も、生徒と教師の演技もうまいのだが、教師のほうの役者さんたちが特に印象に残った。
1人ひとりが「いそうな」先生であり、ブレがない。最小限の人員で、必要なキャラクターを揃え、無駄も隙間もないのだ。
特に、左派社会科教師・村松を演じたボス村松さんは、自身の劇団・鋼鉄村松でも見せたことのないような、伸びやかで、活き活きとした演技がとても良かった。「日の丸・君が代については、言いたいことがある!」という前のめり感がよく出ていた。
菊池先生の菊池奈緒さんも、いいキャスティングだ。全体的に浮き足立ちがちな、こういう作品の中で、きちんと押さえるところがうまい。杖の演出が効いているのかも。
個人的には、塩原先生のような、「いいこと言ってるでしょ」という、したり顔で、みんなをまとめようとする先生は嫌いだ(笑)。いや、役者さんとか演技ではなく、そういう人っているよねー的な意味で嫌いなのだ。なので、演じた塩原俊之さんが、うまいということでもある。
それにしても、作・演の冨坂友さんって、出身高校LOVEなんですね。
個人的には、卒業式とか、学校の行事などでこんなに熱くなる気持ちは、まったく理解できないんですけどね(笑)。
満足度★★★★★
隔てる川
それに浮かぶ、水の泡のごとし。
かなり呑気な気分で客席についた。
(またまた、誤読的に感想を書いたら、とんでもなく、長文になってしまった)
ネタバレBOX
かなり呑気な気分で客席についた。
それは、「「江戸」にも似たとある都市の姿」とか、「観光立国となるべく国全体をテーマパークと化」などという、当初の惹句に引っかけられた(笑)からである。
しかし、花火のシークエンスからそこへ移っていくのかと思っていたら、「東京大空襲」。
偶然とは恐いもので、3月10日のその日が近づいてきたことで、昔々に読んだ早乙女勝元著の『東京が燃えた日』をアマゾンで購入して読んだばかりだったのだ(子ども向けの本だけどね)。
だから、空襲と隅田川の様子を描写したシークエンスというか、説明台詞には、かなり揺さぶられた。いや、気分が悪くなったと言っていい。読んだばかりの本の内容がリピートされてしまったからだ。それは、もう、外に出ようかと思ったほど。
隣とか後ろの観客には、変な感じになっている私は気持ちが悪かったかもしれない。それには、申し訳ないと思う。
さて、舞台だが、東京大空襲はとても強烈なイメージだったが、「川」が象徴的に表現されていた。
「赤い帯」として。
最初は受刑囚と被害者家族との「埋められない溝」のようなもの、であると思っていた。
「赤い」ということで、かなり強烈なイメージを受けた。
被害者が流した「血の色」であり、また加害者が浴びていて、一生、拭い去ることができないものだからだ。互いにその色が見えて、自分の身体にも見えているはずだ。そして、それを拭うことができなければ(自分だけでは拭えない)、両者の溝は埋まらないということ。
「殺してほしい」「殺したい」「しかし、しない」というやり取りが、単純に復讐すれば終わりではないことを示している。
そして、隅田川のシーンとなる。
3月ぐらいの季節外れの花火大会を待っている、男性と女性のグループが隅田川を訪れる。
両グループは、片方は男性がほとんどで女性が1人、もう片方は女性がほとんどで男性が1人というグルーブだ。しかも、男性側には韓国人がいて、女性側には台湾の人がいる。
いつまでたっても上がらない花火から東京大空襲がオーバーラップするような方向へ行く。
それを導くのは、けんけんぱ、をしながらやって来る少女だ。
浴衣のような衣装を身にまとっている。
人には見えない存在らしい。
浴衣は花火を連想させるが、彼女が引きずってきたのは、東京大空襲である。
この少女と隅田川、そして、多くの死者たちから連想したのは、能の『隅田川』である。
子どもを亡くした狂女が、隅田川にやってきて、死んだ子どもの話を聞き、それは自分の子どもだと悟る。狂女(母)が念仏を唱えると子どもの亡霊が現れるのだが、やがて朝になり、消えていくという話だ。
びっくりしたのは、この能のストーリーの設定が「3月」ということだ(気になったので、家に帰ってから調べた)。
なんと東京大空襲と重なってくる。偶然だとは思うが。
なので、浴衣の少女は、空襲によって隅田川で亡くなった子どもではないかと思ったのだ。
彼女が現れているのは、夜であるし。
そもそも隅田川の花火大会は、もともと死者の霊を弔うために行われていたもので、そういう意味でも3月の花火大会なのである。
台湾の女性が、川について話す台詞がある。
正確には覚えてないが、「目の前の川は、ずっとあるが、違うものである」というようなことだ。
それを聞いてピンときたのが、『方丈記』。
「水の泡のごとし」なんだな、と。
(正確には覚えてないので、先ほど調べたものを書き写す)
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」
過去と現在と、そして、たぶん未来が交差する舞台の上は、「川」だったのだ。
人(の世)は、水の泡の如し、である。
犯罪者と被害者を隔てているのも川。
生者と死者を隔てているのも川。
人の罪は、時代が変わっても変わらない。
人が死んで悲しむことで生まれるのが「罪」である。
しかし、人はそれに対していろいろと屁理屈を捏ねる。
マラソン男がベンチで独白する台詞が強烈である。
焼夷弾に焼かれて死んでいった者に「罪」はあるのか。
アダムとイブから背負ってしまった「原罪」があるのか。
そういうところへ、気持ちは持っていかれた。
しかし、ラストは違っていた。
「花火」を待ちわびる2つのグルーブはやすやすと、川を越え、1つの合唱となっていった(2部合唱・笑)。
これがひとつの「答え」なのではないだろうか。
つまり、川には「橋」が架かっている。舞台にも大きな橋が架かっていた。
その橋の上で人は炎に責め立てられるのだが、そうでないシーンがあった。
転勤で宮崎に行く予定の男性と、彼と付き合っている女性のシーンだ。
なんとなく、「別れること」を前提として、特に男性は話を進めているのかと思っていたら、どうもそうではないらしい。女性に仕事を辞めて宮崎についてきてほしい、というのが本音のようだ。うまく話せないのがいい。簡単ではないからだ。
「橋の上」には「愛」がある。
炎によって命を奪った場所の橋が、愛の橋となっている。
それが、さきほどの「答え」を強化する。
「人間なのだから」という台詞が何度か象徴的に発せられるものそれである。
台湾の女性と韓国の男性から、わかるのは、われわれはあまりに近隣の人々に対して「無知」であることだ。言語のことや民族のこと、対日感情など、知らないことばかりで、それを素直に尋ねることで知ることができる。これもキーワードではないか。
踊りには「富士山の初日の出」と「隅田川の様子(焼け野原の東京と死体)」が語られる。
そこには、「祈り」がある。
つまり、「人間だし」「話せばいいし」「愛があればもっといい」ということだ。
それによって、未来が良くなるのではないか、という(ロマンチックすぎる)広田さんの祈りが込められている物語とみた。
冒頭の受刑囚と被害者の家族も、なぜか対話をしている。
「赦す」ということはできないとしても、「対話」はできる。
というか唯一の方法ではないか。
ラストは、花火を見に来た男が、高校時代の友だちと出会うシーンが再現される。
この「一歩」から、友だちが集まり、女性グループと一体化していく。
つまり、ここが「現在」の、「2015年の3月」の姿ではないか。
今、混沌としている世界が、より良くなるための、「一歩」を踏み出している、という希望を込めたシーンではないか、と思った。
ここから、その一歩が踏み出せるのだ。
「罪」とか「悪」とかというレベルではない、もう少し「高み」へ作品が昇っていきそうな具合で、三部作は幕を閉じる。
ただし、もちろん、それは、そんな簡単にはいかない。
マラソンをしている男の存在がそれを示す。
彼が常に舞台の上に「不安」を撒き散らしている。
「通り魔」という言葉が、身体にまとわりついている。
弱い者だけを狙った通り魔。
それが「人間だ」と言っているようでもある。
そして、受刑囚が、暗転の中で、わざわざ這って「川」を越えていく姿は意味深すぎる。
今回の作品は、多方面へ広げていきながら、最後にシュッと収まり、別世界へ連れて行ってくれるような、アマヤドリ的快感には少し足りなかった。アマヤドリは演劇的な表現がとても優れているカンパニーだと思うから。
とても失礼な言い方をすれば、今回上演して、それを再咀嚼した上で、再度吐き出して、再演したものを観たい、と思った。
つまり、今、固いままの、いろんなエピソードやシークエンスを砕いて、練り上げ、さらに「演劇的な面白さ」を追加したら、凄い作品になるのではないかと思うのだ。
中村早苗さんと笠井里美さんが揃って舞台の上にあるのが、とてもいい。
この2人が声を揃えて言う台詞が好きだ。
ト書きのような台詞でさえ、美しく感じる。
渡邉圭介さんの、なんとも、あの、恋人に気持ちを伝えようとする、もどもどした感じがいい。
今回も糸山和則さんが屈折して(開き直った)受刑囚にしか見えない。
今回もいい塩梅で笑いがあった。
まだまだ書きたいことがあるのだが、長すぎるのでこのへんにしておく。
できれば、もう1回観たかった。
満足度★★★
東京演劇アンサンブルってこんなレベルだったっけ?
休憩含み3時間は、長く感じた。
面白ければ、そんなことは感じないのに。
ネタバレBOX
思わせぶりなオープニングとエンディング、それに挟まる14のエピソード。
冒頭で全員が声を合わせる台詞が聞き取りづらい。
合唱では、歌詞がちゃんと聞き取れるのに、台詞ではダメとはどういうことなのか。
それをきちんと考えてみてほしいと思う。
最初の3編が特に酷い。
いかにもお芝居してます、というような「演技」と、台詞ではなくト書きを読んでいるような棒読みの印象。台詞が今の言葉でないからか、役者の身体に入っていないと感じた。ある程度はいいと思える役者さんも、低いレベルの役者さんと組み合わされて、悪い結果となっている。
前半終了したところで、帰ってもいいかなと思ったほど。
突撃隊と政府の偉い人と繋がっている人との裁判で、「時勢」と「保身」のために、どうしたらよいのか追い詰められる判事が描かれる「法の発見」、息子に密告されるのではないかと怯える夫婦を描く「スパイ」は、脚本は面白いと感じた。
このままで、この時代の世相を皮肉に笑い飛ばそうとしている、苦い喜劇になり得ると思ったのだ。
しかし、そうはならなかった。かと言って、悲劇にもなっておらず、非常に中途半端。
判事が、周囲が冷静なだけに、追い詰められてカバンすら忘れてしまうという様は非常に滑稽であり(「法の発見」)、また息子に密告されるというのも、妻が、「自分はそこまで言ってない」と夫に言わしめるような、政府への批判めいたことを口走ってしまうというのは、まさにコメディであろう(「スパイ」)。妻のその言葉は、妻を含めて、当時誰もが思っていることなのだから。
そういったことをうまく汲み取って見せてくれないと、このエピソードが活きてこないのではないかと思った。
また、「ユダヤ生まれの妻」は一人芝居のような前半から、夫が出てくる後半になって、「一人芝居」の「意味」が見えて来るエピソードだ。
ユダヤ人の妻には、夫は優しく、夫のために出ていこうとする妻を止めようとする。
ここが「演劇」としての「一人芝居」かと思っていたら、夫が出てくることで、「妻」の「一人芝居」であることがわかる。
「本当の夫」が登場すると、妻の一人芝居に出てくるような夫ではなく、自分の保身ためにユダヤ人の妻には出て行ってほしいと、心の底では思っている夫であったことがわかる。
幕切れに「ほんの2、3週間だけのこと」と言いつつ、妻がコートを取ってくれと言うと、夫はそれに手を伸ばしてしまう。妻の一人芝居では、そうではなく、「コートはいらないのでは」と言ってくれる夫だったのに。
短いながらも、夫の本心が炙り出されてしまった苦いエピソードになるはずのものが、残念ながらこの作品では心に迫ってこない。
妻の演技が、意外と一本調子で(特に電話のあたりでは)引き込まれるような演技でないことにも問題があるが(後半はとてもよかったが)、それよりも、演出が功を奏していない。
妻の一人芝居は、観客にじっくりと見せるべきではなかったのか。
それを、舞台の上を台車に乗せてゆっくり移動させながら、妻の一人芝居を見せてしまうのだ。
例えば、スポットライトを当てて舞台の中央に妻のデスクを配し、観客の意識を集中させるべきであろうこのシーンを、わざわざ移動させてしまうことで、観客の集中は削がれてしまう。ざわざわ、わさわさしてしまうのだ。
これは「裏切り」のエピソードでも同じ。非常に短いエピソードなのだから、夫婦の密やかな会話を集中させて見せ、スパッと幕切れさせたほうがよかったのではないだろうか。
それを移動する台車に乗せて見せるので、歯切れも悪い。
照明付きの台車がゴトゴトと動くし、それを引っ張る役者さんも見えているのだから。
役者の演技に対して信頼がないのか、それとも「変わった演出」を見せたいのかどうかはわからないが、私には納得のいくものではなかった。
もちろん悪いものばかりではない。
「職業斡旋」は、夫婦を演じた2人の役者がとてもいい。息が合っているし、台詞のきちんとしている。
「釈放者」も、短いながら、夫婦の気持ちが伝わってくるようだった。
そして、生演奏と歌のパートは好きである。
ラスト、ドアからロビーのほうへ役者が出ていくのだが、ロビーが見えてしまうのはいかがなものか。暗幕を張るとかロビーの照明を消して逆光になるようにライトを点けるとかできたのではないだろうか。奥の座席からは見えないにしても。そういう細かいところへの気配りも大切ではないだろうか。
14のエピソードは、ゾッとするものや、あとからじんわりと恐くになるもの、心に底に残るもの、ビターな味わいの喜劇調のもの、と、一方向からの描き方ではなく、戯曲の段階でバラエティに富んでいる。さすがにブレヒトの戯曲は面白いと思った
だから、変に演出せずに、それぞれのエピソードに沿った演出で十分だったと思う。
また、役者も、演じさせればわかるのだから、「このレベルでは……」という役者は排したほうかがよかったのではないかと思う。劇団内の序列や人間関係は観客には関係のないのだから。
もっとレベルの揃った役者で、「何をどう見せるのか」をはっきりとさせた、きちんとした演出で、この作品をあらためて見てみたい。
正直、東京演劇アンサンブルを初めて観たのがこの作品だったら、たぶん次はない。
武蔵関は遠すぎるし、あんな席で、休憩入れて3時間というのは、観客のことをあまり考えてないと思うし。
細かいことだが、当日配られた年表中、ニュルンベルク法の記述には、主語、つまり「ユダヤ人は」がないのでわかりづらいのでは。単に「ユダヤ人の公民権を剥奪した」でよかったのではないかとも思った。
本筋とは関係ないが、日本人はドイツの軍服が似合わないなと、つくづく思った。
満足度★★★★★
三人姉妹はどこにいて、何を夢見、そしてどこへ向かうのか、をたっぷりと見せる
地点の作品は、いつも刺激的だ。
強靱な役者さんたちと、彼らを高める演出で、観客の期待を決して裏切らない。
ネタバレBOX
2008年版の『三人姉妹』は、(ほとんど)「動かない『三人姉妹』」であった。
同じポーズのまま、台の上に座って台詞を言う。
独特の「地点イントネーション」が、音楽のようにさえ聞こえ、心地良かった。
今回の『三人姉妹』は2008年とは違うだろうと思っていたが、本当にまったく違っていた。
舞台の上には、塀のように透明なアクリルボードが立っている。
それが、粉状のもので、白く汚され、舞台の向こう側が見えない。
天井からは、白樺を模したであろう、樹木が吊されている。
塀の向こう側に役者たちが登場する。
2人ずつが、組んずほぐれずのように床を這い、その様はエロティックであり、ため息のような声もして、艶めかしくもある。
彼らは塀のこちら側に登場するのだが、やはり、それぞれが他人の身体にまとわりついている。
エロティックというよりは、「格闘技」のように見えてくる。
「(ほとんど)動かなかった2008年版とは逆で来たか!」と思った。
その意味は何だったのだろうか。
2008年版では、動かない3人姉妹で、台詞の絡みもすっぱり、すっきりとしていて、クールであった。しかし、舞台の上には、「3人姉妹たちの確固たる世界」があった。
3人の姉妹は「3人姉妹」であったわけだ。
その「3人姉妹の世界」と「彼女たちを取り巻く世界」の関係として見せていたように思う。
「彼女たちを取り巻く世界」からの働き掛けによって(スーパーマーケットのカートのようなものが出てきたりとか)、彼女たちは、文字通り動き出す(台から降りて)。
今回の作品で「関係性」を見ると、「鬱陶しさ」が爆発している。
言葉を発するときには特に、発していないときにも、他人がねっとり身体にまとわりついて、大きな負担となっている。
これは、人と人との濃厚な、そして、面倒臭い人間関係を見せていたのではないか。
実際、これをやられたらイヤだろうな、というぐらいにしつこい。
とにかく延々と。
ロシアではどうなのかは知らないが、思い浮かぶのは、田舎生活における人間関係の濃厚さや面倒臭さではないか(そういう田舎の実感はないが、イメージとして)。
3人姉妹が、首までどっぷりと漬かっていて、(たぶん)うんざりとしている状況を表しているのだろう。
アクリルの壁は、こちら側とあちら側の境界であり、世界(社会)との関係(性)ではないか。
押して広げたり、狭めたり、力を使う。
粉で汚れているので、透明アクリル壁越しでも、あちら側は、よく見えない。
ノックのように、ドンドンと叩く音がしたり、叫び声が聞こえたりする。
それは、届いていないが、聞こえている。
その様も、田舎暮らしの彼女たちにとってのストレスではないか。
2008年版では、彼女たちが憧れる「モスクヴァ」(そう発音していた。今回も)という言葉が、とにかく印象的に発せられていて、その言葉だけが、台詞の中でぽーんと浮かんでいた。
その発声から、彼女たちの憧れの強さを感じたのだ。
今回も「モスクヴァ」である。
発声は2008年版ほどではないが、やはり印象的に響いている。
彼女たちは、まとわりつく「今、この場所」から、涼やかに響く「モスクヴァ」に憧れていく。
今回の作品で特筆すべきは、中隊長のヴェルシーニン。
彼の存在がクローズアップされていた。
彼が、彼女たちと「モスクヴァ」をつなぐ存在であり、そのことで、彼女たちの「モスクヴァ」への憧れがジリジリと増していくのだ。
ヴェルシーニンは、それを知ってか知らずか、自由に振る舞う。
地点の作品には、クスッとしてしまうようなユーモアが、必ずある。
生理的に笑ってしまうというか、そんな感じだ。
今回、その部分が多いし、大きい。
ヴェルシーニンの自由さに、笑いが生まれる。
ダジャレのような言い間違いから、客席を通って、外に出るといった演出まであり、声を立てて笑ってしまった。
また、アンドレの歌にも笑った。
そうした笑いと対をなすのが、撃ち殺されるトゥーゼンバフ。
彼が前面に登場してから、常に銃声があり、倒れるということを繰り返し、彼の行く末を早くから見せていく。
3人姉妹を巡る恋物語についても、登場人物たちの肉体が絡み合う演出が効いてくる。
恋愛の濃厚さとともに、それが孕む面倒臭さをも示しているようだ。
そこまでを含めての、「状況」なのだろう。
特に、ヴェルシーニンとマーシャの語り合いは、濃厚であり、濃厚であるからこそ、哀しくもある。
各シーンは、ロシア的な音楽を挟むことでつながっている。
かつて観た「モスクワのユーゴザーパド劇場」の作品を思い起こした。
ロシアつながりで、それへのオマージュとか、そんなものはないだろうが、音楽だけでなく、その演出にも「ロシア」臭さをたっぷりと感じた。
ラスト近く、長女のオーリガが客席に宣言するように台詞を言う。
首まで漬かっていた状況から「ひとつ抜けた」感を感じた。
ここでは、誰もまとわりつかないのだ。
作品の前半は「今日」という言葉が台詞の中で象徴的に数多く使われ、後半にかけては「明日」が同じように強調されていた。
「今日」から「明日」へのメッセージであり、未来に続くということを宣言していたのではないか。
それはつまり、観客への強いメッセージでもあったのではないかと思った。
それにしても、地点は、いつも役者さんたちに、肉体的にもストレスな演出を強いる。
今回も、全編、寝技、格闘技のように力が入った絡み合いの中で、台詞を言わせる。最初から最後まで力の入れ具合はマックスである。
強靱な役者さんたちがいるからそこの、あの演出、この演出が実現できるのではないか。
彼らには、ほかのカンパニーの作品でも出会ってみたいと思わせる。
3人姉妹を演じた、安部聡子さん、河野早紀さん、窪田史恵さんは、やっぱりいい。今回も、安部聡子さんは凄いなと思う。
ヴェルシーニンを演じた小林洋平さんには、自由さのリズムを感じ、余裕さえあるように見える演技だった。
そのほかの役者さんたちも、もちろん良い。
アンダースローも一度、行ってみたい。だけど京都は遠い。
満足度★★★★★
居心地の悪さが、ぶすぶすっと、燻るように劇場に充満する
例えば、聞きたくもない他人の込み入った話を聞かされているような、そんな感じ。
岩松了さんとサンプルの組み合わせは、あまりにも良すぎて、気持ち悪い、が増幅された。
ネタバレBOX
岩松了さんの初期の戯曲をサンプルが上演するという。
で、戯曲の完成度には驚いた。
一見、なんのことはない台詞だけなのに、見える景色が違うのだ。
たぶん、演出として、特別に台詞などに手を加えてないだろうと思うのだが、言ってしまえば、なかなか気持ちの悪い作品である。
松井周さんが、岩松戯曲の気持ち悪さをうまく取り出したのかもしれないが、その根底に流れている気持ちの悪さ、居心地の悪さは、戯曲本来の持ち味だろう。
さすが、岸田國士戯曲賞を取った作品だと思った。
主人公の夫は生物の先生。
娘の結婚式後の深夜から早朝までの話。
主人公の若い後添えが、家を出てアパート暮らしをしたいと言い出したらしい。
それを止めようとしているところではあるのだが、どうも積極的に止めているふうでもない。
「行かないでくれ」と懇願するわけでもなく、歯にモノが挟まったような、遠回しな感じなのである。
どうやら、いわゆる「夫婦生活」にナニかがあるらしいのだ。
そのもぞもぞした感じが充満する、夫婦の寝室に、結婚式に出た夫の妹や、妻の弟夫婦、夫の友人たち、さらにこの家に住み込んでいるらしいお手伝いさんが出入りする。
夫はタイトルにあるように、布団の上に達磨のように座り込んでいる。
夫婦間の話に、他人が入り込む形になってしまうのだが、夫はなぜだかそれを厭わず、彼らに酒を飲もうとまで言い出す。
今読んでいた新聞を「これは夕刊じゃないな」と言い出して、妻との会話につなげようとする、下手くそな会話能力が、この夫の姿なのだろう。
上手く言えないし、コミュニケーションが下手すぎる。
妻のほうも、「路地の先にアパートが」「朝になると路地を人が通って」みたいな話しぶりなのだ。
全編、夫が、一体何言いたいのかが、判然とせず、それを聞かされるほうは、困惑しつつも、適当に相づちを打つばかり。
そういう、きちんと相手の話を聞いていない会話、「いいお天気ですね」的な、内容のほぼない会話が舞台の上にあり、それが実に気持ちが悪い。普段我々がしている会話の大部分が、たぶんソレなのだが……。
冒頭の夫婦の会話は、ぼそぼそしていて、空間が広くて、その広い空間に、独特の居心地悪さが広がっていく。サンプルらしい空気感だ。
夫を古舘寛治さんが演じる。その時点ですでに怪しいし、気持ちの悪さが漂ってしまう。
夫が達磨のように座り込む布団の下には、夫の性癖の一端が隠されていた。
なるほど、これが後添えとの溝を生んでしまったのかと思わせる。しっかりと見せることはないのだが、色合いとか、そんな感じで観客は察してしまう。「ははぁ〜ん」って。
また、いきなりポラロイドで後添えを撮るあたりにも、それがうかがえるのだ。
ひっとしたら、他人を自分たちの寝室に留めおこうとすることすら、それなのかもしれなかったりして。妻の前の夫を同席させるなんて、まさにそうかもしれない。
夫は自分のそうした性癖を性急に妻に迫ってしまったのではないか。
持ち前の口下手さ、コミュニケーション能力の低さで。
妻は「勉強がしたい」ということを家を出る口実にしている。
夫婦間のことなので、当然「何が原因か」は2人の間では判明しているのだろうが、夫の性癖の押し付けも、言葉少なで、というか、何も言わずに迫ったのだろうから、そのことは「なかった」ことのように、2人の間では扱われているようだ。
当然わかっているのに、建前でのやり取りになっている。
「何の勉強をするんだ」「フランス語とか」というような。
しかし、時折、「回数なのか!」的な発言(確かそんなこと)が爆発するあたりが、やっぱり気持ち悪い(笑)。
古舘寛治さんだからこその、この夫である感じがなかなかたまらないのだ。
キャスティングですでに成功が決まっていたと思ってもいいぐらいだ。
妻の弟夫婦は、頭が明らかにおかしい。2人の間だけのつながりがあり、そこから外との関係が歪なのだ(夫婦間も歪ではあるが)。
しかし、彼らだけでなく、全体的に、とても不穏な空気が流れている。
弟夫婦の、弟が言っていることはどこまで本当なのか、妻もウソをついていることが観客には明らかになったところで、背筋がひやりとした。
あのタイミングで「金貸してくれ」はないだろうに。
お手伝いさんも男を連れ込んでいるし、そのお手伝いさんが盗み聞きしているのだろうと思っている夫のことも、夫の友人たちも、微妙な空気。
夫の妹も、妻の弟の嫁に対して、何かある。
妻の前夫が登場するのも異様だし。
妻が困惑するのもわかる。
夫は「夫婦生活」に問題があるのではないか、と思い込んでるだけで、実は、それだけではなく、すべてにおいて、気持ちの悪さが妻には感じられての、家を出る、という決断ではないのか、と思えてくる。
介護が必要な夫の母が、奥にいるという感じも、舞台に、じんわりと効いている。
物語の中心にある夫と妻の関係がグラグラと不安定なだけではなく、登場人物たち全員が、どこか不安定なところに立っていて、グラグラしながらそこにいる。
小さな悪意と不安定さ。
その不安定さの中心は、やはり、達磨である夫だ。
達磨って、起き上がるけれども、ちょっと触れただけで、グラグラしてしまう。
そのグラグラの波動が全体に波及していくことで、物語の気持ち悪さが増幅されていく。
波動は観客席まで流れ出て、とても居心地が悪くなっていくのだ。
マイクロバスの運転手の痛むお腹のように、牛乳飲めば治るかもしれないのに、牛乳がない。
時折、それらの不安に中で、小爆発が起きる。
一家の知り合いの1人コンちゃんが夫の妹に迫ったり、妻の弟の癇癪だったり、コンちゃんの「よいとまけ」の歌だったり。
それが物語に独特のリズムを与えている。
布団が敷かれている夫婦の部屋の狭さがいい。
そして、ポツンと立っている庭木のバランスもいい。
根元が白く、寒々しく立っている。
表立って何か言うわけでもないのに、会話の背景が見えてくる。
そして、その居心地悪さの空気が伝わってくる。
それは、別に聞きたくもない、他人の込み入った話を聞かされているような、そんな感覚だ。
特に、夫婦生活とか。
そんなうまさが戯曲と演出にあった。
岩松了さんとサンプルの組み合わせは、良すぎる。
良すぎて気持ち悪い(笑)。
この組み合わせ、また観てみたいと思った。
役者は、夫役の古舘寛治さんは、いつものとおりなので、それが見事だったのだが、それに対する妻役の安藤真理さんの、姿勢が崩れない感じ、つまり身体の姿勢ではなく、心の姿勢というか、それがしっかりとしているからこその、古舘寛治さんの夫が際立つという夫婦役の噛み合い方がとてもよかった。
妻の弟の嫁役の野津あおいさんの、少しほろりと崩れたような脆い佇まいもナイスであった。印象として、客席にはほぼ背中だけしか見せていないので、横座りな感じが病的さを醸し出していた。
フライヤーのイラストはいがらしみきおさんが描いたものだ。
観劇後に見ると、ひっくり返った洗面器に、ポラロイドから牛乳パックまであり、舞台のセットそのもので、見事に、この作品の世界であった。
満足度★★★★
これはもう、あひるなんちゃら版『長距離ランナーの孤独』ではないか
……なわけはなく、いつもの「なんちゃら調」。
というか、「完成度の高い」「なんちゃら調」。
70分で、前売2000円。
お得だ。
面白いもんね。
ネタバレBOX
「たっぷり笑って、後に何も残らないコメディです」的なキャッチフレーズの舞台作品を散見することがある。
しかし、多くの場合、それは言い訳の類であって、「何も残らない」どころか、「どこで笑うんだ」という怒りだけが残ることがある。
あひるなんちゃらは、そう謳っているわけではないが、びっくりするぐらい「何も」「ない」。
教訓どころか、主人公の成長も、謎の解明も、オチみたいなものすらない。
潔い。
しかし、「笑い」はある。
あとには「面白かった」という記憶と、役者のうまさが刻まれる。
あひるなんちゃらの舞台は、とにかくすべての「間」がいい。
この舞台に関して言えば、そこが大きなキーポイントになっている。
特に「間」を意識した作品ではないだろうか。
その完成度はとても高い。
「完成度の高いなんちゃら芝居」と言ってもいい。
彼らの舞台にしては珍しく、観客席の通路を使う。
観客席後方には走るおじさんが走っているグラウンドがあるという設定。
そこに向かっての芝居は、グラウンドで起こっているだろう出来事に対するリアクションだったり、そこへ向かったり、そこから来たりする時間も「間」である。
グラウンドを見ていて発する台詞のタイミングもとてもいいのだ。
観客の呼吸と合うというか。
走るおじさんの妹(石津美和さん)と弟(澤唯さん)のやり取りは、絶品だ。
観客は笑いのスタートラインで、笑いのきっかけを待っているのだが、それに気持ち良くいい合図を出してくれる。
単に2人の間がいいだけでなく、笑いのタイミングの「間」もうまいから、いい感じで笑えるのだ。
脚本もいいのだろうが、やはり役者がいいのだろう。
走るおじさんの友だち(園田裕樹さん)は、特に間を意識した演出になっている。自分の中で間をつくるのだが、その外し加減がなかなか良くて、「変な」感の醸し出し方がいいのだ。
見ている人(志水衿子さん)は、変な人だと思っていたのだが、どうやら同僚(篠本美帆さん)と単に赤いおじさん(堀靖明さん)をからかっていて、暇つぶしのようなことをしているのではないか、と思わせるところが、変すぎなくていい。
見ている人の中にいる、赤いおじさん(堀靖明さん、前も赤いジャージを着ていたことがあったように思うが、彼のイメージカラーは「赤」なのだろうか)は、いつもながら、気持ちいいタイミングで、気持ち良く突っ込んでくれる。さすが! うまい。
タイトルになっている「走るおじさん」を演じる根津茂尚さんは、やっぱりうまい。
出番は少ないのに、きちんと「普通」のおじさんを、「普通」に演じている。
エキセントリックが支配しがちになってしまう、こういう作品にあって、その、淡々さがとてもいい味になているのだ。
笑いを取りに行こうとして、前のめりにならないところが、あひるなんちゃらの良さでもある。
なので、根津茂尚さん同様に、おじさんの娘役の松本みゆきさんも、落ち着き具合がなかなかいいのだ。
しかし、登場人物たちについて、いろいろ疑問が生まれてくるので、それがストーリーの後半に行くにつれて、徐々に見えてくるものと思っていたら、ぼんやりとわかることもあるのだが、ほとんど明らかになってこない。
走るおじさんを「いつも走っている、変なおじさんがいるなー」と、見ている人たちが、彼のことを何も知らずに(断片的にわかることもあるが)、見ているように、また、逆に彼らのことを、「バンドやってる人たちかな」ぐらいの感じで見ている、走るおじさん側のように、観客も、それを「見ているだけ」ということなのだろう。
積極的にかかわっていくことをしない、距離感がある。
各々のグループ内では、それぞれ濃厚な人間関係があるのかもしれない。
しかし、「見ているだけ」の我々にはわからない。
「他人のことなんて、何もわからない」のだ。
というテーマがこの作品にあるわけもないとは思うのだが、そういう寂しさも感じた。
走るおじさんの娘は、おじさんを殴ることで、何かが始まったか、変わったかして、おじさんも、何かが少しだけ起きたか起きなかったかして、おじさんの友だちも、走るおじさんきっかけでなさそうだけど、就職なんかして、見ている人たちは、何かのアイデアが生まれたり生まれなかったりして、ぐらいの変化は起きていて、それが「何なのか」は、やっぱり当人にしかわからないことであって、「見ている人」の観客は、「見ている」だけしかできないということなのだろう。
観客も人も、結局は常に「見ているだけ」なのだから。
満足度★★★★
丘の上にある「家(家族)」は下から眺めていたほうがいいのか
「家族」は見た目より「丈夫」なのだろうか。
そして、「母」の重さ。
ネタバレBOX
客入れに音楽なく、きついな、と思っていたら、作品自体がそこから始まっていたようだ。
なかなかキツイ。
身じろぎもできないほどの緊張感。
惹き付けられるので、身じろぎすることもないのだが。
暗転に救われた。
シーンの長さと暗転のタイミングが抜群なのだ。
普通、110分程度の舞台で、これだけの暗転があると、苛つくこともあるのだが、暗転で今、舞台で起きたことを反芻できたりするのだ。
それによって、物語が観客の中で広がっていくようだ。
帰宅してフライヤーの裏を、あらためて読んだら、作・演の高木登さんの体験が書いてあった。この作品とは違う出来事なのだが、高木登さんは「自由を取って」「会わなかった」らしい。そして、「自分のしなかったことをする人々を書いてみたいと思う」と記していた。
そこで少しだけ合点がいった。
劇中、最初から最後まで思っていたのは「なぜ、この姉(愛)は、こんなに脳天気なのだろうか」ということだ。
結局自分のことだけを考えて、母に会うことにして、周囲を嫌な思いにしていくのだ。
彼女が母に会いたい本当の理由は最後にわかった。
しかし、それにいろいろな人を巻き込むことはないだろう、と思ったのだ。
高木登さんにとって、こんな「迷惑な家族(兄弟姉妹)」がいたら、彼の考えている「自由」を手にすることはできなかっただろう。
それが彼の考えた「しなかったことをした人々」なのであろう。
姉・愛には、「母」という存在が、自分にとって大きくなりつつあった。
つまり、結婚して「母になる」という可能性が出てきたからだ。
だから、「母」に会って、「ホントはいい人だった」と思い込みたかったのだろう。それは、「母となる自分」が、記憶にある「最低な母」と重なってしまうから、それを払拭したかったのだろう。
幼いときに別れたきりであり、母は想像の中にしかいなかったので、「実は母はいい人」で「自分を愛してくれ」、さらに「母となる自分を励ましてくれる」のではないかと、どこか(甘い気持ち)望んでいたのだろう。そこをもう1人の妹・遙(はるか)に見透かされてしまうのだが。
この作品は、「母」の話である。「女性」の話と言ってもいい。
「命」と直接的に向き合う性だからこその「恐怖」があるのかもしれない。
この舞台では、一体何人の子どもが殺されていったのだろうか。
置き去りにされて殺された乳児が1人、堕胎され殺された赤子が3人。
恐ろしい話だ。
これらは大切なエピソードなのだろうが、後から後から「実は」と出てくるところが、物語として残念ではある。
さすがに「弁護士まで?」となってしまった。
「血」の話から少しそれてしまった気分だ。
女性弁護士にしたのはそういう意味だったと思うのだが、姉の夫のような立場、しかも「女性」としての立場に徹したほうが、しっくりしたと思うのだが。弁護士の堕胎エピソードまで出てきてしまい、やや話が作り物めいてしまったのは、残念。
彼女のかかわり方は、最初のほうから、深くかかわりずきていたことが、それの伏線にはなっているのだが、あくまでも「他人」の「視線」がほしかったと思うのだ。
この物語には、ひょっとしたら「母」は登場しないのではないか、と思っていた。
なぜならば、ハードルが上がりすぎていたからだ。
しかし、安元遊香さん演じる母は出てきた。
化け物でもなく、いい人でもない、丁度良い塩梅の佇まいだ。
その曖昧さに、母に会いたかった姉妹は少し戸惑ったのだろう。
徹底的に糾弾することも安心することもできない。
その不安定さがラストまでいく。
舞台の上や下にあったイスは、脚がまちまちであった。
座ることはできるのだが、脚がバラバラなデザインや素材であったり、背もたれが切り詰められていたりと。
イスの4つの脚は、まるで4人の子どもたち、バラパラのようであって、イスという「家族」のようなものを形作っている。
見た目よりも「丈夫」である。
それがこの舞台からのメッセージではなかったのだろうか。
この物語では誰も得をしない。
母に会って、なにがしかの結論を欲していた姉も、結局は満足できる答えを見つけられないまま。
しかし、言えるのは「会ったから」「一区切り付けられた」ということ。
遙(はるか)姉弟は、自分たちの過ちを、きちんと「言葉」にすることで悔やむこともできたし、「恨みだけ」で生きてきたような、姉も憑きものが落ちたのではないか。彼らの今後の関係についても道筋が見えてきた。
妹の遙(よう)も、面と向かって母に言うことで、気持ちの整理がついていく端緒を見つけたのではないか。おまけに誰も知らずに抱えていたことまで吐露できてしまった。
弁護士も、自分をさらけ出し、自らの「過ち」として、「言葉」にすることで、先に進むことができるのではないか。
それらは、あまりにも「痛み」が伴う作業だったが、それを通り抜けるには、それ相応の苦悩が必要だったからだろう。
会わなければよかったと後悔する。
会わなければ、「丘の上にある家」のように、見上げているだけで想像できる「家族」であったのに、と。
そして、ラストシーンにあった、さり気ない台詞にすべてが示されていた。彼らが「家族か否か」が。
すなわち、「次、会うとしたら」「母が死んだときだろう」。
つまり、「葬儀」には「集まる」ということなのだ。それは「家族」として。
それには、誰からも異論は挟まず、当然のことと受け止めていた。
「もう会いたくない」という関係であったとしても、「家族ではある」ということは、ここで確認されたと言っていい。
つまり、「家族になった」ということなのだ。
父が母に渡してほしいと願った指輪は、ちょっとよさげなエピソードっぽいが、実は、父の恨みの想いが込められているように感じてしまった。
それは、愛と遙(よう)姉妹が母と別れたのは幼い頃であった(聞き間違いでなければ長女が3歳)。なので、「悪い母」のエピソードのほとんどは、一緒に暮らした「父」からのものだろう。それを幼い姉妹は、自分たちの記憶と勘違いしてしまうことは、幼児だからこそあり得る。
したがって、父は母を良く思っていない。
指輪を姉妹に持たせて、母に会わせるということは、父の母への最後の 意趣返しではなかったかと思うのだ。
それは果たすことはできなかった。
母はそれを感じることができない人だったから。父は、そんなことは知っていたはずなのに。
姉・愛を演じた高橋恭子さんは、この舞台にあって、1人だけ育ちが良いように見えてしまうほど、脳天気に見えた。しかし芯の強さも感じる。一番イライラさせてくれた(笑)。そこがうまい。
弁護士を演じた生見司織さんは、前半クールでありながら、時折見せる「ビジネスを外れた」言動とのバランスがとてもいい。激高しているようで、少しクールなところも。
母の愛人を演じた井上幸太郎さんは、なんともゲスい感じがいい。
弟・太一を演じた古屋敷悠さんは、とてもナイーヴな引いた演技が好印象。
そして、フライヤーである。
「母の葬儀に集まった家族と関係者たち」である。
帰宅してフライヤー見て、「おっ」と思った。
満足度★★★
イースト・オブ・エデン
エデンを追放された者が向かう場所。
アダム、イヴ、(アベル)、カイン。
彼らの「罪」とは。
『focus. 神話』のときの初演とは、演出も大きく変わっていた。
ピアノとチェロの生演奏。
まったく新しい作品と思ってもいい。
ネタバレBOX
ミームの心臓(酒井一途さん)がプロデュースした『focus. 神話』でこの作品を観ていた。
3つの学生団体が出ていた、このときの公演には、あまりいい印象はない。
各団体の気負いが悪い方向に出てしまった印象だった。
したがって、そのときの再演であるこの公演に行こうかどうしようかという迷いがあった。
しかし、酒井一途さんの書くモノには好い印象があるし、彼らの学生最後の公演であって、このあと彼が演劇を続けるかどうかわからないということもあり、それを見届けることにした。
戯曲も書き直したり、生演奏も入れたりするので、演出も変えるらしいということもわかったので。
たぶん前にも書いたと思うが、作・演の酒井一途さんのいいところは、「真面目」なところであろう。具体的には、想いの「言葉」への託し方と、その「言葉」そのものへのこだわりだ。
以前のプロデュース公演で「神話」というテーマにしたのも、ひとえに彼が考え詰めていった結果だろう。「神」に対する懐疑(ネガティヴな意味ではなく、「問い掛け」のようなもの)のような感覚と、それを俯瞰したいという想いが進むうちに、よりそれが具体化していく中で、作品に仕上げていったのではないだろうか。
神話のときに思ったのは、「東の地」とは、アダムとイヴが追放された地であり、弟アベルを殺したカインが追放されたのも、またそこであるということ。今回もそれが踏襲されている。
もちろんそれを意識してのタイトルだということはわかる。
したがって、イブキ、ソウ、エルという3人の人物(エルは舞台には出ない)の関係は、アダム、イヴ、アベル、カイン、そして蛇なのではないかと思う。
「誰にとって、誰が誰なのか」という見方をしていくと、それぞれが、それぞれの関係において、「蛇」であり、「カイン」であるということが言える。
初演時にはここまで感じ取ることはできなかった。
彼らは「団地から出て行った」のであって、「追放された」のではない。
しかし、「出ていかなくてはならなかった」のであれば、「追放」と等しいのだろう。「団地」という「コミュニティ」からの「追放」と。
そう解釈した。
よって、「エデン」であった「団地」から出ることになる「そそのかし」をしたのが、「蛇」であり、出ることになってしまった原因を「自ら」作り出してしまった者が「カイン」である。さらに、「死」も絡んでくる。
イヴを想起させる「イブキ」という女性のネーミング、さらに、そのイブキに一人称で「ボク」と言わせるところでの、アベルとカイン「兄弟」のイメージをも与える。ここはうまいと思う。エルの性別が不明なところも。
ただし、問題は、「団地からなぜ出なくてはならなかったのか」ということだ。
不用意(そう感じた)に「絶望」という言葉を使ってしまっているが、それを舞台の上の2人からは、感じることはできなかった。
2人の出会いのシーンは、昔のATGのそんなシーンを観ているようで、なんとなく気恥ずかしくもあるのだが、なかなかいい。ここで、イブキの「絶望」を感じられないと、彼らの「追放」が納得できない。しかし、そう感じなかった。
「絶望」に納得できていないから、イブキの自殺シーンと結び付いていかない。
イブキの、自分でもよくわからないような、苛立ちのようなもの(ソウとの関係で出てしまう感覚)、つまり、自分で自分をきちんとコントロールできないような感覚が、もうひとつ伝わってこないのだ。
そこがクリアされれば、この作品はもっと響いたのではないかと思う。
小林依通子さんの演技を見ていると、それができそうだと思わせる。
実は、それが、作・演の酒井一途さんと重なってくるのだ。
つまり、「真面目すぎる」が故の、非劇ではないだろうか。
イブキは、「自分がこうありたい」と願っていることと、「他人にこう思ってもらいたい」と思っていることとのギャップに苦しんでいるよう思う。いわゆる「いい子症候群」が発症しているわけで、それがすべての発端になっているように思えるのだ。
酒井一途さんは、その作品で、一貫して「わかり合えない」ことの「非劇」を描いているように思える。だから、彼にとって、そうした「いい子症候群」のイブキの苛立ちは、「自明の理」なのではないか。
だから、そこがあえて描かなくても観客はわかってくれると思っているのかもしれない。
わざわざ「家」ではなく、「団地」という設定にしたところも、彼にとっては、「自明の理」のひとつではないのか。
しかし、団地という装置から、自動的に「絶望」は立ち上がってこない。残念ながら。
彼と同じ気持ちを持っている観客には、響く作品なのかもしれないが、私はそうではなかった。
そこを斟酌しても、なお、足りないと感じたのだ。
彼ら3人が互いを想い、つながっていこうとする姿に共感させるためには、大前提がないとダメではないかと思うのだ。
「絶望」とは何か、ということ。その絶望とは、アダムとイブ、そしてカインの「罪」でもあるわけだから。
「罪」と感じてしまうほどの「絶望」は、彼らの中にあるわけで、それを演劇という作品で見せるのならば、きちん取り出して見せてほしいのだ。
もちろん、グダグダと暗いエピソードで見せてほしいわけではない。「彼らにはそう思い込んでしまう何かがあったのだ」と思わせてほしいだけなのだ。
三角関係のもつれによる、自殺が原因にしか見えてこないから。
そうではなさそうなことが、2人の出会いのシーンからうかがえるので。
たぶん前に、ミームの心臓の感想で書いたと思うが、やはりそこには「複眼的」な視線が必要なのではないかと思う。今回のように、深く掘り下げていって、そのキレイな上澄みをすくい取った作品であったとしても、その上澄みのキレイさを確かめるだけでなく、もう少し角度を変えて観るということが必要なのだと思う。
そういう「深さ」への一直線のアプローチが、台詞にも出てしまっていると思う。
つまり、台詞というか、「会話」が役者の身体に馴染んでいないのだ。
「普通にそんな話し方する?」という会話であって、どうも借り物のように感じてしまう。演出として、あえてそういう聞かせ方、見せ方をするという方法もあろうが、それは、「普通の会話」が成り立った先にあるものだと思うのだ。
2人の位置関係にも同じものを感じた。
彼らが男女であるとするならば(それを超越するものであったとしても)、「触れ合う」ことによってのみ生まれるコミュニケーションがあるはずだと思うのだ。どうもそれが自然にできていない。距離の選択が微妙だ。
ただ、驚いたのは、演技が終わって、バックの演奏を脇で聞いている彼ら2人の姿のほうが、舞台の上で役を演じていたときよりも、リラックスしていて、いい関係に見えていたことだ。これを舞台の上で、なぜ引き出せなかったのか、と悔やまれる。
会話はイマイチだったが、モノローグがいい。
生演奏との関係性もとてもよかった。
生演奏は、とても存在感がある。
したがって、演劇と演奏の主従の関係が逆転して見えてしまうところが多い。
音楽劇とも違い、演奏の解釈を演劇と語りで見せているような錯覚すら覚えた。
それはそれでいいとは思うのだが。
最初や劇中で、小林依通子さんが唱うシーンがとてもよかった。
こういう演出はなかなか。
ラストは、「演技終わりました」の2人の「役者」と演奏を見るのではなく、「演奏の終わりまで」がこの舞台作品であるということで、最後まで登場人物であってほしかったと思う。なので、エンディングの演奏は少し短くしても暗転のままでよかったと思う。
次のミームの心臓の公演はあるのかないのかはわからないが、社会人となった酒井一途さんがまた演劇をやるときがあるとすれば、彼が社会に出て何を感じたのかを見たいと思うので、また公演には行くと思う。
『focus. 神話』のプロデュースだったり、今回のオリジナル曲の生演奏だったりと、意外と((失礼・笑)大胆だったり、スケールが大きいところもいいし。
満足度★★★★★
夜の縁日、見世物小屋の白熱電球の灯に誘われて、観客は結界を越える
しんとく(身毒)の心の彷徨に、観客は、理屈ではなく、感覚として理解し、自分の中にもある(あった)気持ちの悪い「穴」と対峙する。
ネタバレBOX
開場と同時に、舞台の上でアコーディオン奏者が演奏をしている。ジンタのような、哀愁を帯びた曲調だ。
その曲に導かれて、会場に入ったときから、興奮してしまった。
セットが大きいのだ。
そして、黒い。
黒いセットの上を切り裂くように、真っ赤な柱が立つ。
まるで鳥居のようであり、見世物小屋にはふさわしい。
それは、こちら側とあちら側(彼岸)の「結界」を示しているようだ。
観客は、その鳥居から禍々しい見世物小屋の世界を垣間見ることになる。
それは、自分の「穴」に目を向けることにもなってしまう。
パブリックシアターの舞台の上から下までセットが組まれ、そこを怪しげな人々が行き交う。
どの場所を見ても役者がいて、それが細かい演技をしている。
隅々まで神経が張り詰めていて、緊張感が続く。
生演奏の音楽には、大きなセットや大人数の出演者に負けないぐらいに、深みと重みがあり、響く。
1人の女性が琵琶の演奏で説教節の節回しで唱うところも、大人数のバンドと等しく迫力を感じる。
セットはほぼシンメトリー。
中央に廊下のようなステージが後方まで伸び、手前の左右にはカラクリ人形の2人がいる。語り手の女性も2人。
その後方には、左右それぞれに琵琶と箏の奏者。そしてその後ろの左右には、ギターやベース、ドラムスに弦楽器、管楽器の演奏者がいる。シーザーさんは、その中で、ティンパニーや和太鼓などの打楽器を演奏している。
彼の打楽器が響き、物語に導かれる。
さらに後方の上部には合唱とソロの歌い手が並ぶ。
ちょっとした、ロックオーケストラの様相だ。
卒塔婆が床にパーンという音もロックだった。
演奏される曲はかつての上演が音源化されたものとほぼ同じ。ストリングスなどのアレンジが加えられていたり、ギターなどのエフェクター類の扱いが違う程度ではないだろうか。
「私の母には顔がなかったのです」からの「慈悲心鳥」の曲は、もう、鳥肌。
あまりの凄さに「あぁぁ」という声が出てしまいそうなほど。
今まで観てきた万有引力の中で一番大がかりな作品ではないだろうか。
スケール感とダイナミックさ、スペクタクル感に圧倒される。
しかし、表情の変化やその表現には、大胆の中にあって、繊細さを見せる。
それは、バンド編成の音楽と琵琶や箏の演奏という対比にも似ていて、深みのある世界観を演出していた。
万有引力の『身毒丸』は、縁日の見世物小屋だ。
しかも、それは昼間ではなく、夜の縁日。
夜の縁日では、怪しい屋台の食べ物やオモチャは、白熱電球の仄暗い灯りに照らされ、独特の光を放ち、魅力的に見える。
その魅力は、白昼の光の中では皮が剥げてしまうようなものだ。
白熱電球の光に誘われる蛾のごとく、観客はふらふらと、作品の中へ連れ込まれていく
百鬼夜行のような、見世物小屋の登場人物たちが、舞台の上を練り歩く。
いつの間にか、結界を越えてしまった観客は、怪しげなシャムの双生児や蛇女、肉男たちに導かれて、柳田国男が持っていた「穴」に、しんとくと一緒に落ちていた。
しんとくが入り込んだ「穴」は、道に開けたものではない。
彼の身体に空いてしまったものだ。
家族合わせでも埋めることのできない「母」という「穴」だ。
もちろん、父親が見世物小屋で買ってきた継母では埋めることができない。
しかし、「(実)母」でも埋めることができない。
しんとくの「中」では、「顔がない」から。
それができないのに、穴を埋める母を探していく。
それは「自分探し」にも似た感覚。
彼がたどり着いた先は、「もう一度、ぼくを妊娠してください」である。
彼の(心の中の)母も、それに答えてくれる。「お前をもういちど妊娠したい」と。
それが実は継母でも、しんとくには関係はない。
自分の穴に入り込み、自己完結でしか終わることができない。
自分が開けた穴だからだ。
他人にはどうすることもできない。
そういう「どうしようもなさ」と、それによって引き起こされる「焦燥感」は、誰もが体験したことがあるのではないだろうか。思春期とかに。
だから、人はこの作品に惹き付けられる。
意味とか理由とかといった理屈の前に、感覚として理解でき、自分の中にもある(あった)気持ちの悪いモノ(穴)と対峙することになる、
しんとくは、その「穴」を「母」とした。
私たちの「穴」は何だったのだろう。
見世物小屋を出れば、そこはいつもの現実の世界に戻る。
戻るはずだった。
継母がそこにいて、しんとくも継母も互いを受け入れる。
たぶん、それでは、しんとくに空いてしまった本当の穴は埋まらないだろう、ということを観客は知っているのではないか。
もちろん、しんとく自身も。
先にも書いたが、どこにいる出演者も、指の先まで神経を張り詰めて演技している。
30人もの出演者がいるのに!
(演奏者はさらに20人!)
黒子役になった人たちの、身のこなし方まで美しい。
だから、これだけ大がかりで壮大な舞台なのに、端々まで緊張感があり、テンションの高さを維持できているのだろう。
音楽は最高だ。中でも万有引力の合唱は大好きだ。
今回もソロ、とくにソプラノソロがいい。
そして、説教節の声のトーンとボリュームが素晴らしい。
★の数が5つじゃ足りない。
満足度★★★
原作を気にしすぎでは
原作のテーマを横に置いて、あらすじを観たような気分になってしまった。
ストーリーを丁寧に追うことよりも、テーマをきちんと見せることに注力すべきだったのではないだろうか。
いろいろと中途半端で残念な舞台だった。
ネタバレBOX
浦沢直樹のマンガ『PLUTO プルートゥ』が原作の舞台。
『PLUTO』自体が、手塚治虫の『鉄腕アトム』のエピソード「地上最大のロボット」を下敷きにしている。
『PLUTO』は、ロボット刑事ゲジヒトを主人公にして、7人のロボットたちの最後を描いていく。
「心」まで生まれてくることで、生物と生物ではないものとの境目がわからなくなってくるような、ストーリーだ。
舞台は7人のロボットのうち、5人がすでに亡くなっているところから始まる。
なので、マンガにあったような、「泣かせるエピソード」がない。
なので、ロボットの苦悩のようものに共感もできず、ラストにプルートゥが、「目覚めていく」という展開にも納得度が低くなってしまう。
原作マンガでは、「アトム」がやはり最大の媒介者であり、彼の存在が、プルートゥの「心」を動かし、「人殺しをした唯一の存在」と言われているロボット(原作でもモロ、『羊たちの沈黙』のハンニバルだし、ロンギヌスの槍が刺さったリリスなんだけど・笑)の「心」も動かしていく。
しかし、その要素を摘み取ってしまったように思う。
例えば、槍が刺さって動けないという人殺しロボットの「槍をアトムが抜いて」しまうのだ。確かそういうシーンは原作にはないと思う。これがあるとなしでは意味が違ってくるように思う。例えば、「槍は自分で抜くことができたのに、今まではしなかった」とも受け取れることから、彼がどうしてアトムの手助けをしたのか、というところへと思考が進むからだ。
それをストーリーをわかりやすくするためにか、アトムが実際に「槍を抜いて」しまうのだ。
さらに、ロボット刑事ゲジヒトも実は「人を殺したことがある」ということがわかってくるのだが、それを舞台では、「自分の子ども」に対する復讐として描かれてしまう。単純、短絡にしてわかりやすくなってしまったことで、失ってしまったモノがあると思う。
「心(憎しみやその連鎖)」と「家族」とそれらを形作る「記憶」と「生命」というテーマが交錯して、『PLUTO プルートゥ』という作品は成り立っていると思う。
そのテーマに、もっときちんとフォーカスして描くべきだったのではないか。
つまり、原作のストーリーを追うことが第一義に考えられた結果が、この舞台になってしまったように思える。
さらに、森山未來さんがダンスやってるからダンスも入れた感が強く、必然性があまり感じられない。アトムが飛び立つ姿は、いいな、とは思ったが。
原作の持つテーマに絞って、ダンスだけの舞台でもよかったと思うのだ。
人が数人で操るでかいプルートゥが舞台に登場するのだが、まるでヒーローショーのようで、子どもの声援が似合いそうな対決シーンとなっていた。単純に見せすぎて、残念。
ラストにボラーが布を使って表現されていて、それにはスペクタクル感もあり、舞台の演出として、なかなかだったのだが。
永作博美さんが、ウランとゲジヒトの妻の2役を演じていた。それはそれでうまいとは思ったのだが、2役演じさせるのならば、そこに意味を持たせてほしかった。
同じように、柄本明さんが天満博士と人殺しロボットの声を演じ、松重豊さんも声でもう一役演じていたが、両者ともに声に特徴がありすぎて、同じ人が演じているのがわかりすぎてイマイチであった。そこに意味はないので、別の人でよかったのではないだろうか。
少人数で演じ分けることに意味があるのならば、そういう演出にしてほしいのだ。
原作どおりゲジヒトが物語を回していたのだが、5人のロボットがいないストーリーなだけに、アトムとの関係が微妙で、もっとすっきりとどちらかを主人公として扱ったほうがよかったのではないか。
マンガのコマをイメージした舞台セットと、ロボットの残骸が舞台全面にあり、それが戦争のときのイメージや、捨てられたロボットたち、そして「花畑」に見えてくるような装置は良かったとは思った。
満足度★★★★★
シェイクスピアにはまだまだ「お宝」が潜んでいる
文学座の公演で、江守徹さん主演。
鵜山仁さんの演出なので手堅いだろう。
『リア王』なので、3時間ぐらいの舞台になる。
いかにも「正統派」的な舞台が観られるのだろうな、と思っていた。
ネタバレBOX
文学座の公演で、江守徹さん主演。
鵜山仁さんの演出なので手堅いだろう。
『リア王』なので、3時間ぐらいの舞台になる。
いかにも「正統派」的な舞台が観られるのだろうな、と思っていた。
ただし、江守徹さんは、少々呂律が怪しい感じもあるので、そのへんどうかな、とも思っていた。
休憩15分を含み、2時間55分ぐらいの公演だった。
しかし、グッと集中して観ることができた。
舞台は、ほぼ素で舞台の構造が見える感じで、全体が白く塗ってある。
上手・下手の奥には、天井にも届くぐらいの紙が置いてあり、それ以外はイスがある程度。
役者を観てくれ、と言わんばかりの舞台セットだ。
今回の、この舞台を観て、『リア王』はいろいろな手法も含め、何回も観ている演目にもかかわらず、新たな発見、見方があったということに、驚いた。
文学座という老舗の劇団で、江守徹さんが主演をし、鵜山仁さんの演出なので、オーソドックスなシェイクスピア劇を楽しめると思っていたのだが、そうではなかった。
いや、これこそが「オーソドックスなシェイクスピア劇」だったのかもしれない。
それを感じたのは、まずは「台詞」だ。
シェイクスピアの作品だと、ストーリーを追うために台詞は丁寧に聴いていくのは当然ながら、言い回しや、内面の吐露などが、少し鬱陶しいという印象を受けることも、ときにはある。
しかし、今回は、少し違った。
台詞の1つひとつが、きちんと耳から気持ちにも届くことが多いのだ。
台詞の言葉を納得しながら、聴いていた。胸に響いたりもした。
これには少し驚いた。
「なるほど」なんて思いながらシェイクスピアを観たことがなかったからだ。
この舞台には、若手と古株の俳優さんたちがいる。
彼らにとって、そこは戦場だ。
彼らの、前への出方と引き方がうまいのだ。
そのやり取りには火花が見えるよう。
だから、台詞の1つひとつが粒だっていて、耳へ、気持ちへ、届くのだ。
次に感じたのは「老い」。
リアが娘たちに王国を相続させる話であり、王という立場からの見方しかできないことの悲劇であると思っていたし、その根本には「老い」はあるものだと、思っていた。
しかし、本当の意味での「老い」とは、「王であろうとなかろうと関係のない」ところにあるということなのだ。
末娘の反応が自分の思っていなかったことで癇癪を起こすのだが、それは何でもできる「王」であることが理由ではない。
「老いた」ことが原因なのではないだろうか。
思い込んだことは簡単に変えられないし、その思い込みもきつくなっている。
江守徹さんが演じるリアを観ていると、その頑なさが、切なくなってくる。
「老い」が全身から滲み出てしまうから。
声もよく出ていて、オーラさえある人なのに、老いには勝てない姿が、舞台の上にあるのだ。もちろんそれは役者の実年齢のみがなせる業ではない。
演技と演出によって、そう見えてくるのだ。
息子を信じることができなかったグロスターにもそれを感じた。
だから、目をえぐられたグロスターが、リアと再会し、手を握り合う2人の姿は、ストーリー以上の哀れみを感じざるを得なかった。
老いたことへの「報い」はこれであるのか、と。
2人の老人は、実の子どものことを信じられなかったことで、最悪の罰を受けることになる。
それが「老い」とは切っても切り離すことができない、と、この舞台を観て、リア王で初めて感じたのだ。
先にも書いたが、休憩を含み3時間近い上演時間なのだが、鵜山仁さんの演出が、とてもスピーディなので、観やすい。場面展開もサクサクと進み気持ちいい。
上手・下手に立てかけられた大きな紙を使った演出もうまい。
激しい音を立てて、紙が取り払われたり、その残骸が舞台の上に残ったり、で大きな効果を生んでいた。
さらに、細かい付け足し(だと思う)の味付けがとてもいいのだ。
例えば、目をえぐられたグロスターがドーバーへ向かおうとして、領地に住んだいる老人に案内させるシーンがある。そこへ身元を隠した息子・エドガーが現れ、グロスターの案内を買って出る。グロスターは、エドガーに財布を渡すのだが、その財布から、老人が、金を1枚だけつまみ出して持って帰るのだ。これが面白い。老人が金を抜き取るのが、あまりにも自然で、エドガーも「あれっ」と少し思う程度なのだ。老人役の高瀬哲朗さんのタイミングも見事なのだが、そのシーンを入れたことで、老人自体が活きて舞台に現れたのだ。
また、姉2人のシーンも、いい。
特に、次女・リーガンと恋人・エドマントのやり取りと、別れ際、さらに長女が現れてからの、姉妹の距離感と呼吸感のようなものが、見事なのだ。
長女の執事が功を焦って、グロスターを亡き者にしようと襲ってきたときに、エドガーにあっさりと倒されるシーンでの、エドガーの台詞「弱い」のひと言には笑った。間がいいので笑えるのだ。
役者ももちろんだが、うまい演出だなと思った。と
役者さんたちのうまさは安定していた。
江守徹さんは、やはり少々呂律が厳しいところもあったのだが、最初のほうのシーンで、末娘に激高する台詞が、力強く響き、「この舞台はいいぞ!」とすぐに思ったほど。
ほかの役者さんたちは、そのリア王に真っ向から立ち向かう。
この胆力がある、江守徹さんだから、変に気遣ったりする必要がないからだ。
ケントを演じた外山誠二さんあたりは、リア王を喰わんばかりに、グイグイくる。
少しばかりカッコ良すぎるのでは、と思ったぐらい。
道化を演じた金内喜久夫さんも素晴らしい。道化の台詞もきちんと伝わってくるのだ。しかも、笑わせてくれる。
「今まで観てきたリア王の道化って何だったのか?」と思うほど、リア王へ掛ける言葉が活き活きとして聞こえるのだ。台詞がリアに対する嫌みではなく、「本音」として聞こえてくる。それを受け答えるリアの江守徹さんは、見事に「王」であるのだ。
リアの長女・次女を演じた、郡山冬果さん、浅海彩子さんのタイプの違う悪女もいい。実にカッコいい。単なる「悪いお姉さんたち」ではない。
傲慢で、彼女たちの欲望が露わになってきてからの、短いシーンや、台詞がいちいち効いてくる。
演出については、長女の婿が、グロスターの目をえぐるところから、豹変したように狂ってしまうのと、長女の執事が倒されるときに、言い残したことを言うために何度も起きたりするところは(笑ったけれども)、少しやり過ぎかなと思ったりした。
この舞台の最大の見せ場はラストにあった。
それは、末娘・コーディーリアが殺され、リアが嘆き悲しむシーンだ。
「非劇的だな」と思ったことはあったが、悲痛さをこんなに感じたことはなかった。
リアの悲しみが、痛いほど伝わってくるのだ。
胸に迫るものがあった。
『リア王』を観て、こんな体験は初めてだ。
これだけで、江守徹さんが凄いと思った。
多少の呂律なんてどうでもいいと。
先にも書いた「台詞が1つひとつ胸に響いたりもする」ということが、ここの結実したと言ってもいいだろう。
シェイクスピアにはまだまだ「お宝」が潜んでいる。
それは小劇場系劇団だけではなく、文学座のような老舗劇団であっても、見つけることができるということを強く感じた舞台だった。
満足度★★★★
私たちは、「何かの分岐点」にいるのかもしれない
脱ぐことで進化できるのか
目を閉じ、耳を塞いだままで
ネタバレBOX
Der Planというドイツのバンドがある。
彼らが80年代に東京で行ったライブがある。
バンドなのに、音楽はテープを流し、バンドのメンバーはひたすら着ている物を脱ぎながら踊るというものだった。それは、無生物の石(の着ぐるみ)から始まって、サボテンのような植物になり、は虫類にになって、それが人間のような姿となって、さらに機械になっていく(すべて重ね着された衣装を脱いでいくことで現れていく姿)というパフォーマンスでもあった。
その後、そのときの曲がアルバムになった。
タイトルは『Japlan』。
日本語タイトルは『進化論』。
彼らの、そのときのパフォーマンスは「ストリップ進化論」などと言われた。
着ている物を脱ぎ捨てて進化していくのだ。
進化することを、「付けていく」「重ねていく」のではなく「脱いでいく」「捨てていく」というところが新しいと思った。
前置きが長くなったが、Nibroll『リアルリアリティ』を観ながら思い出したのが、Der Planの「ストリップ進化論」であった。
今回の舞台では、中盤からダンサーたちが着ている物を脱いでいく。
その前にたくさん着ている彼らに、「文字化け」の文字が投影されたりする。
歪んでいく風景なども。
その姿と、舞台の後方にそびえ立つ、机などが積み重なった、まるで文明や文化の象徴のような舞台セット。
そこから「進化」という言葉が、頭に浮かんだのだ。
舞台の後ろにそびえ立つ、机などが積み重なったセットからは、ひたすら書籍やイス、照明に至るまでのあらゆるモノが下へ投げ落とされる。
その「音」が、嫌になるほど耳障りなのだ。
あえて「音」が響くようにしてあり、舞台の上をその音が覆う。
さらに「黒い布」を舞台の上に投げ入れる。
舞台の上が人々の生活圏であるとすれば、舞台の後ろのバベルの塔は、社会であり、システムあるいは体制のようなものではないか。「上へ上へ」と積み重なっている。
「生み出され(生産され)」「消費」し、「廃棄」される。
その一方方向のシステムがある。
「リサイクル・リユース・リデュース」なんてものは「ない」。
それが現実だ。
その結果、生活圏には「黒き禍々しきモノ」が降り注ぐことになった。
それは、肉体だけでなく、精神を犯すものではないか。
公害のようなものから、社会システムに乗れない者がはじき出される害も含む。
ここから、私たちはどう逃れ、進化していくのだろうか。
舞台の上にあるのは、古めかしい衣装をまとったダンサーと若々しい姿のダンサー2人。それには、若者と老人、あるいは新しいモノ(体制)と旧来のモノ(体制)の接触とかかわり合いを感じた。
若者たちは率先して、着ている物を脱いでいく。
そして身軽になろうとする。
老人も脱ぎ捨てていくのだが、結局は、システムや体制から落とされた、黒くて禍々しいモノに埋もれていく。
若者たちが、「黒いモノ」を「古い者」の上に重ねていくのが象徴的だ。
「古き悪しきモノ」は、「古い者(体制)」に戻せ、と言わんばかりに。
これが現実なのだろうか。
「進化」することとは、「脱ぐ」ことなのだろうか。
体制やシステムが生んだ「黒いモノ」は、こうやって捨て去るのが正しいことなのだろうか。
最初のシーンに戻って考えてみる。
冒頭の映像シーンは、吐き気を催すほど、ショッキングだった。
首を吊った人々が、「本当のことは何もわからない」「知らない」という、否定的な台詞を言いながら、ブラリとぶら下がり、ぐったりする。
そして、リアルにゆらゆら揺れたりする。
しかし、もっと気持ちの悪いことに、その首つりの姿を多く見ることで、それに慣れてしまう私がいる。
「そんなものか」と思ってしまうのだ。
「人身事故」で列車が止まらない日はない。
それは「なぜなのか」と思い詰め、自分を問い詰めてしまうことは危険すぎる。それは危険である、と思うほどのところにまで来ているとも言える。
人身事故のアナウンスを聞き、「列車が遅れるのか」ということで思考を止めてしまっている人が大半ではないだろうか。
舞台の映像では、首を吊ってぶら下がる人々は、「本当のことは何もわからない」「知らない」という、否定的な言葉を吐いて、首を吊る。
この「言葉」は、首を吊っている人ではなく、「見ている」側の言葉ではないのか。
「人の死」にも無関心になっている、いや「無関心にならざるを得なくなっている」私たちは、目を塞ぎ、それでも彼らに、一定の言葉を与えて心の平和を見出している。「何もわからない」と。
しかし、彼らはいつまでも私たちの眼前にぶら下がり、揺れている。
「生産されたモノ」は、「消費」され、「廃棄」されていく。
そのとき「とても嫌な」「耳障りな“音”」を立てる。
システムが生む、「黒い部分」が「音」を立てているのだ。
ぶら下がる人々に「目を閉じ」、そのの「声」に「耳を塞ぎ」、彼らには「自分」たちが「安心」する「言葉」を与え、「生産から廃棄」までのシステムが放つ「騒音」にも「耳を塞ぎ」、「黒き禍々しきモノ」をひたすら後処理するだけなのが、「現在」の私たち。
「黒いモノ」は、「古い者」に被せて「処理」する。
それも、ぶら下がる人たちに、一定の言葉を与えて心の平和を見出しているのと同じだ。
「システムが悪い」「体制が悪い」と言うこともできる。
「それを作った古い者たち」が「悪い」からだ、とも言うこともできる。
「脱ぐこと」を覚えた「新しき世代」が出てきたとしても、やっぱり、目の前には「人々がぶら下がり」、そして「生産システムは黒いモノを吐き出す騒音」を立てている。
「無関心」と紙一重のところに、まだいる。
それへは、「対処療法」的な対応しかできていない。
つまり、対処法はまだ見つからない。
私たちは、今、「何かの分岐点」にいるのかもしれないという「予感」がある。
しかし、現実には、まだまだ越えなくてはならない、いくつかの「高い障壁」があるのだ、ということを感じた。
そして、それには、まずは「脱いでみる」(それはストレートに「(己の)身体(肉体)に戻る」ということと同義語なのか)というところから始めた(始めよう)という、ことなのかもしれない、と舞台を観て思ったのだ。
小山衣美さんと鶴見未穂子さんの2人がとてもシャープで良かった。
満足度★
これは余興か?
演劇を舐めてはいけない。
「演劇と落語のコラボ、演劇らくご」ということらしいのだが……。
ネタバレBOX
「トイストーリーのようなもの」(なんだそれ・笑)と説明に初めから書いてある、おもちゃたちの演劇と合間に挟まる落語「芝浜」。
演劇はぐだぐだで、蛭子能収さんをいじることで笑いをとるのがもっぱら、の印象。テレビのバラエティ的に、ぐだぐだのところを笑わせるのが演出のつもりなのか。
落語も蛭子能収さんと立川志らくさんが一緒にやるところがあるのだが、やっぱり蛭子頼み。蛭子さんを立川志らくさんが突っ込んで笑いをとる。
演劇は単に役者が台詞を言い合ってストーリーを進めればいいというものではない。
演出の立川志らくさんは、落語で「演じる」ということはどういうものなのか、知っているはずなのに、この有様は酷い。
何かの余興ならばこれでもいいだろう。
しかし、きちんとした役者も揃えて、演劇の公演として打つにはレベルが低すぎる。
一度、脚本、演出から自分は離れて専門の人を加えてやってみるべきだろう。もし、今後もこれを続けるつもりながら。
ラストの立川志らくさんが談志さんを演じたのは、鬼気迫るものがあったが、全体としては、なんだかな〜の印象しかない。
立川志らくさんのファンならば、こういう余興でも十分なのかもしれないが。
つまり、のこのこと観に行った自分が馬鹿だったということか。
満足度★★★★★
ドストエフスキーの『悪霊』を「地点」の解釈で見せていく
無限なる雪原。
終わりのない旅(ループ)。
先端のその先に見えたものは。
ネタバレBOX
地点は、2008年に『三人姉妹』を観たのが最初の出会いだ。
そのときは、「三人姉妹の台詞が、ゆるやかに立ち上がり、激しく昇り、またゆるやかになり静寂」する様に「音楽」を観た。
そして地点はとても好きな劇団となった。
今回の『悪霊』は、「肉体の動き」を意識してしまう作品に見えたが、やはり走る姿とその呼吸にはリズムを感じ、音楽を感じた。
劇場に入ると雪原が広がっていた。
劇場の長辺(20メートルぐらいか)を舞台の横に設定し、競技場のような楕円形の雪原がある。
明らかに客席よりも舞台のほうが広い。
そこに雪(細かい発泡スチロール?)が降り続く。
そこを安部聡子さんが台詞を発しながら、延々と走り続ける。
なんと過酷な演出!
ドストエフスキーの『悪霊』を、その台詞を中心に散りばめていく。
その手法は地点作品ではお馴染みのものだ。
バロウズのカットアップ手法のように、単に切り刻んでランダムにつなげたものではなく、意図的なものを感じる。
ある程度ストーリーも追える。
まあ、それを追うことにどれだけの意味があるのかはわからないが。
ロシア作家の小説、音楽、映画を読み、観るときには、「西欧」との関係と、「ロシア性」とを感じてしまう。
「西欧」とは、ロシアの時代によっては異なるが、先にある文化であったり、「自由」だったりする。それに対するロシアの作家たちの作品には、(ある種の)妬みや憧れと、ロシア(人)であることの自負と自我がない交ぜになった感覚が表れているように思える。
それだからこそ、ロシア(ソ連)の作家たちの作品の多くは、独自性があり、魅力的で、面倒臭い。
発泡スチロールの雪原をグルグルと走らせ続ける演出は、そうしたロシア的な鬱憤のようにも見え、足元を埋め、その歩み阻む「(作家の中にある)内なる何か」にも見えてくる。しかも、発泡スチロールの雪は終わることなく降り続き、堆積していく。
ループになった「雪原の競技場」は、極端から極端が実はつながっているともとらえることができるのではないか。
「悪」と「虚無」とは、「神」と「信仰」につながる道でもあるかもしれない、ということを感じざるを得ない。
「神の存在(気配)」が、ドストエフスキーの『悪霊』にもあるのではないだろうか。
自滅していくスタヴローギンは、「つながった」ことを感じて「ループ」から「抜け出した」のではないか。そんなことを感じた。
終わりのないループからの抜け出しには、「自殺」がスタヴローギンにはあった。
演出では、舞台から飛び降りることでそれを表現していた。
まさに「出口なし」の「ループ」から抜け出すことを見つけたのだ。
「悪行」に対する「自業自得ではない」、1つの答えがスタヴローギンにとってそれだったのではないか。極端と極端がつながっていて、「神」に触れた瞬間の、スタヴローギンの答え。
三浦基さんの演出はそれを見せたかったのではないかと思ったのだ。
つまり、ドストエフスキーが記したことを、100分で提示して見せてくれたと思うのだ。
延々と走り続け、台詞を発し続けた安部聡子さんは、やはり素晴らしい。
三浦基演出は、役者にいろいろと強いる。しかし、それは互いの技量を理解してのものだと思う。
それにしても過酷すぎる。
その過酷さからしか見えてこない作品があるのも、また事実であることを感じた舞台でもあった。
地点は活動を京都に移し、自らのスタジオで上演をしている。
京都に行くのは、なかなか大変なので、そうした作品が都内でも観られるといいな、と願う。
満足度★★★★★
鳥肌モノの舞台
そして、「生(身)の人間」が舞台の上にいた。
ネタバレBOX
KAKUTAは具象的なセットを組んで、ガッツリ芝居を見せるという印象がある。
なので、円形劇場でどう見せるのかと思っていた。
不法投棄で汚れている川があるような気配と手すり、そして、机だけでシンプルにKAKUTAの芝居をガッツリ見せてくれた。
たいてい円形劇場や舞台の周囲を囲んで(コの字型も含め)見せる場合は、どちらかを、やや正面としていることが多いのだが、この舞台は違った。
机で向かい合うシーンも、いつの間にか机を回していて、角度を変えてみたりして、全方向に見せてくれるので、囲み型にありがちな観劇のストレスはない。
円形劇場でしか味わえない感覚を見事に演出していた。
その結果、さらにぐっと物語へ、登場人物たちへ集中できたのではないだろうか。
タイトルの『痕跡』は「こんせき」ではなく、「あとあと」と読ませる。
どちらも「あと」なのだが、その意味が少しだけ違う。
「痕」は「傷痕」の「あと」だし、「跡」は「遺跡」や「軌跡」のように、何かが起こった「あと」である。
まさにそういうストーリーだった。
ストーリーの展開で先に進むというところもあるのだが、それよりも「役者」で見せる舞台だったように思う。
「生(身)の人間」が舞台の上にいた。
何度も鳥肌が立ちそうになり、感情を揺さぶられるシーンがあった。
それは、つまり「“生(身)の人間”が舞台の上にいた」からではないか。
演出が巧みで、かかわりのなさそうないつくかのシーンが有機的につながっていくストーリーなのだが、そうしたつながりは当然役者さんたちは知っているのだが、そうとは感じさせない「その時間の中に生きている人」になり切っていたからだと思う。
そうした、彼らの姿は、単に今、眼前にいる「役」だけのものではなく、背景を観客に感じさせるから、「人」が見えてくるのだ。
母役の斉藤とも子さんが、とにかく素晴らしい。
何年も子どもを捜し回っているという姿が、痛々しいが、同時に強さも感じさせる。
だから、ラスト、自転車を放り投げるようにして駆けだしていく姿には涙を禁じ得なかった。
松村武さんの地に足が付いた感じの、泥臭さがある人間描写がさすがにうまい。
異儀田夏葉さんの、前半の、明るさと(観ている側は、何かがあるな、と勝手に想像するのだが、それを寄せ付けないような自然さがいい)、後半の決心の姿が素晴らしい。彼女の目にためる涙が(流さないところがうますぎる)、事態の衝撃と、それへ対処する強さを前半の明るさからラストまで一貫して見せてくれた。
韓国料理店の店長を演じた大神拓哉さんの、あとから恐くなる感もいい。
ほかの役者さんたちもみんなうまい。
無駄が一切ない。
この作品、再演したらまた絶対に観ると思う。
そのときに、円形劇場がないかもしれないと思うと、とても悲しい。
満足度★★★★★
命ほとばしる、喉から肉体から
身体ではなく(生きている)肉体を感じる舞台。
青山円形劇場で観てよかった。
「ナイター」のタイトル通り、物語の中心に野球があり、円形劇場はまるで球場のようではないか。
バックネット裏の特等席で観た。
ネタバレBOX
青山円形劇場で観てよかった。
「ナイター」のタイトル通り、物語の中心に野球があり、円形劇場はまるで球場のようではないか。
バックネット裏の特等席で観た。
タイトルの『よるべナイター』の、「よるべない」とは何なのかと思っていた。
舞台の上では、生と性が溢れていて、「よるべない」のは観客なのかなと。
しかし、ラストへの展開で、1人野球実況中継のサラリーマンが登場することで(単に実況中継をしている人だとてっきり思っていた)、一気に「よるべない」が迫ってきた。
仕事帰りにコンピに寄って、帰りながらの「1人野球実況中継」。
うわー、こ、これは……と。
帰り道で、カップル見て妄想しているサラリーマンなのか。
と思って、切なさが爆発した。
それぞれのエピソードが、万が一彼の妄想の産物であったとしても、それぞれが生きている。
夜の暗闇の中、電球の温かく優しい光が彼らを照らす。LEDじゃない、触れば熱い白熱電球の光だ。
そんな灯りが、夜の中に、それぞれの「生」を、「命」をぼぉっと照らし、あちこちに見える、そんな当たり前で、ささやかで、平和な夜。
温かい灯りの下には人がいる。
そして明日がある。
命は続く。
歌がとにかくいい。
歌詞カードがあるので、あとでじっくり読むと良さがさらに増す。
メロディが頭の中でリピートする。
きれいに唱うよりも、心の底から歌詞を絞り出して聴かせようとする姿がいいのだ。
どのシーンの、どの一瞬を観ても、どの役者も気持ちが口から、いや喉から、いやもっと深いところからほとばしっている。
日髙啓介さんって、歳取ってからもロックな役者だ。「渋い」とも違う。やっぱり「ロック」だ。歳を重ねるごとにさらにロックで良くなっていくのではないかと思わせる。歌詞とか表情とか、グイグイと心に来る。
名作、「果物夜曲」は、前に東京芸術劇場の野外で観た。
なんてことのないストーリーなのに、深井順子さんと日髙啓介さんの一挙手一投足、台詞や歌が胸に迫る。
なんだろ、この感じ。
泣きそうになってくるではないか。
まるで中学生の初恋のような純情さが、中年に差し掛かった2人の間には芽生えている。
愛というより「恋」。
恋は人を純情にしてしまう。
それを真正面からストレートに見せられて、グッときてしまうのだ。
風俗嬢(小野ゆり子さん?)の純真さのようなものにも触れてしまう。
夜の、電灯の灯りに照らされる彼女たちは優しい。
生身の人であることを感じさせてくれる。
エロスだけでなく、「生きている」ことを感じる。
全体のテンションがリズムに乗って、激しくビートを打っている中での、森下亮さん演じる実況中継サラリーマンがいい。音楽のリズムに乗っているわけではないのだが、作品全体のリズムを壊すことなく、別世界にいるようだ。
彼の口調と動きでラストは、さらに染みてくる。
あいかわらず西田夏奈子さんは歌が上手いし、表情がいい。そして伊藤昌子さんも、あいかわらず表情が良くていい感じに笑わせてくれる。
私の観た回は、代打の回だった。
代打には、元プロ野球選手の古田敦也さんが出てきて驚いた。
明らかに役者とは異質な肉体を持っていて、それがまたいいアクセントになっていた。
舞台の音楽を入れたCDRは出ているのだが(聞き込んでいる)、ここらでスタジオ盤もほしいところだ。
できれば、パートごとに録ってミックスするのではなく、「せーの」で録った、スタジオライブ的なものがいい。
満足度★★★★★
ベストなチョイス
いや、正しい選択だと思う。
作・演と役者のチョイスが、川村紗也プロデューサー的に。
素晴らしい作品になった。
ネタバレBOX
「僕たちが好きだった川村紗也」ってすげー名前だと思う。
他人(小林タクシーさん)が命名したとしても、それをベストであると、いや正しいとチョイスして、いや選択して、堂々と名乗ってしまうのだから。
しかも過去形。
でも、前面に自分が出ることは良いと思う。
意気込みとともに責任も背負っていることがよくわかるから。
この公演は、小松台東の松本哲也さんが作・演出を行うということで、まず目を惹き、さらに夏目慎也さん(デスロック)、荻野友里さん(青年団)が出演するということで、「観たい」と思った(プロデューサーで、出演する川村さんには、ほんの少しだけ申し訳ないが)。
松本哲也さんの作品はどれも染みるので、好きであり、それを夏目さんや荻野さんが演じると思うだけで絶対に面白くなることは間違いないと思ったからだ。
そして、その予感は的中した。
お通夜の控え室のような場所が舞台。
お葬式というのは、人の死という劇的な出来事を軸にその人にまつわる人々の本音が語られる場として、言ってしまえば、芝居の設定としてはベタなのだが、それでもこれだけ面白くさせるという力が、作・演出にも、役者にもあるということなのだ。
1つ決定的な何かがあって気持ちがすれ違ってしまったわけではなく、家族(または兄妹)が過ごしてきた長い時間の中で、ひと言では言い表すことのできない気持ちの積み重なりで作られてしまった関係が、会話の中で少しだけほぐれていく予感をさせる。
そんな作品だった。
少し話せば家族なのだからわかる部分もあるし、頑なになってしまう部分もある。
それらの部分部分の、微妙な感じが舞台の上にあった。
それがとても実感的に伝わってくる。
「畳敷き」の一室にしたのもうまい。机とイスの部屋ではないことで、人同士の近さも感じさせるし、立ったり座ったりという動きも出る。
畳の温かさが実家のある(温かい・温かかった)場所を思い起こさせる。
とにかく、台詞がいい。宮崎弁がいい。
妹・菜々が地元の言葉に戻っていく自然さが、戯曲・役者ともに巧みだ。
語りすぎず説明させずに、その場の気持ちをうまく伝えてくる。
お通夜で親戚と話したことがなくても、年の離れた兄弟姉妹がいなくても、「あるある」感に浸れる。
そういう自然さがある。
それは作・演の良さだけではなく、もちろん役者のうまさもある。
妹・菜々の、兄に言っても仕方がなく、かと言って母にはうまく言えなかった、もどかしさ、つまり、自分に対する苛立ちのようなものがうずうずしているところの、気持ちの表し方が観ているこちか側にも伝わってくる。
それを演じた川村紗也さんがうまいということなのだ。
松本哲也さんが演じる兄・伸夫も、妹を頭ごなしになじるというわけではなく、帰ってきたことを喜びつつも、不義理なところは文句を言いたいという、微妙さがいい。
時折挟む軽口は、そうした現れなのだろう。思わずうなずいてしまい、それを隠すというのは、ベタすぎるがそれもいい、。
いい感じの笑いが生まれていた。
兄の嫁・深雪を演じた荻野友里さんもやっぱりいい。家族であるが、兄妹たちとは肉親ではない距離感を見事に醸し出し、夫の妹との親密になりたい(うまくやっていきたい)という気持ちも垣間見られる。夫への疑念もうまい。
そして、妹の恋人・熊田を演じた夏目慎也さんが普通のおじさんでなんとなくの佇まいも面白く。さらに彼女の親戚とどう向き合っていいのかを探り探りな感じがうまい。さらに、彼が「いい人」であることが徐々にわかってくることで、この作品の中で「面白い役回り」を振り当てられたわけではないことがわかり、作品自体に好感が持てるのだ。
下手に笑いのためのキャラ設定にしないところが、作・演の松本哲也さんのうまさなのだ。
以上の4人だけの芝居かと思っていたところ、兄の友人・英二が登場する。
この人が飛び道具的な位置づけにあるのかと思っていると、そういうわけでもない。
舞台の上の空気をいい塩梅に乱しながらも、兄妹の関係をぐっと近づける。
山田百次さんが演じる兄の友人・英二は、通夜の席の親戚にいそうなおじさんで、ビールや酒をグイグイ飲む飲み方や、菜々は友人の妹だが、自分の妹のように思っているという優しさがいいのだ。
友人の子ども(清人)も、子どものいない自分にとって、本当の子どものように接しているところも泣かせる。しんみりとした口調でふと漏らす「子どもがほしかった」という台詞が効いてくるのだ。友人の妹の分までお年玉をあげていた、なんていうエピソードにもウソを感じないぐらいのキャラクターの設定と作り込みだ。
山田百次さんの酔っぱらった演技も面白い。靴下を半分だけ脱ぐなんていう細かさがあったりする。
そして、伸夫に対するひと言、「おばちゃんは観ているからな」が効く。いい台詞だ。
仲がいいからこそ言える台詞であり、子どももおらず、妻とも離婚してしまった彼だからこそ、何もかもを持っている友人に言える、重いひと言なのだ。
さらに伸夫夫婦の、中二の子ども・清人が登場する。吉田電話さんが中学生を演じるのだが、掌や指を鳴らすなんていう、思いも寄らない、一見、まったく関係ない動きから中学生感が、短時間で表現されていた。うつぶせに寝るなんていうのも見事な演出(演技?)だと思った。
伸夫の友人・英二、伸夫の子ども・清人という視点が加わることで、妹の視野が少しだけ広がる。
「実はおばちゃんは菜々のことをこう思っていた」とか「実はおばあちゃんは菜々おばさんのことをこう話していた」とかというように、妹の知らない具体的な事実を暴露するような、作り話めいた展開をするわけではなく、日常の普通の会話の中で、つまり久しぶりに会った甥っ子や兄の古い友人との会話の中で、妹がいなかった時間が、彼女中で少しだけ見えてくる。
松本哲也さんの作品には、語らせすぎないうまさがある。
ラストは兄と妹の会話で終わるのと思っていた。
しかし、川村紗也さんがラストを決めた。
観客が四方から見つめ、わずかな時間の中で、見事に妹・菜々の気持ちを無言で演じ切った。
お茶入れの所作だけではなく、表情、特に目の表情ですべてを語っていた。
これには本当に参った。最後に母に「会わなかった」選択をした後悔もあるのではないか。
最高のラストだった。
お茶に手をかざすという所作は、観客の多くが気になっていたと思う。
……「て、手かざし」……「宗教か? 宗教なのか?」と思った人もいるのではないか(いないか・笑)。
しかし、そうではなかった。
母がいつもやっていた動作であったが、兄妹は理由を知らない。
兄嫁が語ったという「おいしくなれ、という気持ちを込めている」という理由が、兄や兄の友人、そして兄の嫁、子どもたちと接したことで、妹の琴線に触れたのだろう。
「山笑う」で、母娘の間にも春がやってくるということ。
母への厳しい感情が少しだけ溶け、少しだけ繋がったのではないだろうか。
このあと、母親の前に同じような所作で淹れたお茶を、供えるのではないか、と思った。
小松台東(松本哲也さん)と、今回旗揚げした「ぼくかわ」は、これから見逃せない。
そうそう、当日パンフにプラスして、観客全員に川村紗也さんからのお手紙と、清人が所属する中学生のグループ「ハイランドシー」の貴重なシールを頂戴したことを付け加えておく。
満足度★★★★
(いい意味で)こういうウェルメードなコメディは好き
福岡のコメディ劇団。
きちんと作り込まれていて、ストーリー展開と役者のやり取りで笑わせてくれる。
役者同士の台詞の噛み合わせ具合もいい。
ネタバレBOX
所属するプロダクションが頼りにならないので、社長に黙って独立しようとする所属タレントたちの話。
新しい事務所社長(ボス)は、タレントたちには絶大の人望があるマネージャーがなる。
しかし、この人が……。
地下なので携帯が通じないことなど、いろいろな制約もコメディのお約束として、物語を面白くしてくれる。「そんなところでは事務所は成り立たないだろ」という突っ込みはなし(笑)。
王子劇場の使い方もうまい。高低のある舞台が生まれ、地下室感がよく出ていた。
こういう設定のときには、集団をかき混ぜる役割が必要であり、それを若手の中で1人だけ独立事務所にに呼ばなかった女性が担う。
彼女は呼ばれてもないのに「なんで来たの?」という、独立しようとするメンバーたちの疑問を、観客も共有できる。観客の気持ちがリンクできる設定だ。内容に入りやすい。
当然、「いい感じのラスト」になることはわかっているのだが、いがみ合っている2人の女性の、そもそもの原因が「勘違いだった」という「よくあるパターン」でめでたし、めでたしにならなかったところが良い。いい感じの気持ちの噛み合わなさが出ていたと思う。
台詞の応酬ではなく、ラストの大団円につながるのが、地下室からの脱出という展開はとてもいい。
場所の設定がきちんと活きてくるし、動きもあるし、さらにストーリーが一直線にならない。
ケンタウロスの絵にどうしてまた布を掛けたのかな、と思っていたら、その理由も面白かった。
昔やんちゃしていた、からの煙草のシーンは、2度あったが、この2度の使い方もいい。大笑いした。脱出のときのケンタウロスのシーンとこのシーンは好きだ。
あと、尾崎豊の現在を告げるシーンも(あり得ないけど・笑)面白い。
役者はいかにも芝居してます感があるのだが、それには悪い印象はない。全体がウェルメードな感じだから。
役者の中では、いがみ合っている2人の女性たち(田崎小春さん、針長亜沙美さん)が印象に残った。歌手志望の青年(松野尾亮さん)と彼を好きな女性(横山祐香里さん)も良かった。
ただ、タレント事務所であるということで、歌手とヒーローショーのアクターという2人はわかるのだが、ほかの人たちは何をしているのかがよくわからなかった。
そして、その「何をしているのか」が、ストーリーに活かせてあればもっと良かったと思う。
と言うか、それはこの場合絶対に必要だったのではないかと思うのだが。
ガラパゴスダイナモスを観るのはたぶん2回目。
東京には3回来ているらしい。
東京に出て来るのは大変だろうが、また是非来てほしいと思う。
満足度★★★★★
孤独な「海をゆく者」は、どこへ漂っていくのか
酒と煙草とポーカーと、クリスマス。
酒浸りのむさ苦しい男たちの物語。
完全なるネタバレなので、これからこの舞台を観る人、あるいはもしかしたら再々演もあるかもしれないので、それを観ようと思っている人は、読まないほうがいいと思う。
ネタバレBOX
平田満さん、吉田鋼太郎さん、浅野和之さん、大谷亮介さん、そして小日向文世さんという舞台の上で観たい役者が5人も揃っている。
さらに演出が栗山民也さんということで、間違いのない舞台だろうと思っていた。
想像通りのいい舞台だった。
そして、物語の展開には驚いた。
再演ということもあり、初演の感想や今回の感想などには目を触れないようにした。
フライヤーも読まないようにしたぐらいに気を遣った。
ただ、表のデザインを見ると明らかに「クリスマスツリー」である。
それはわかった。
ただ、普段はそんなことをしないのだが、劇場に行く前に、ふと原題の『The Seafarer』の意味だけを確認しようと思って、検索してみた。
最初に出てきたのは、イギリスの古い詩だった。
その詩には、「主人公の追放者が孤独な航海を続ける悲しみと試練」がうたわれ、そして「キリスト教」的な意味合いがそこにあるらしい。
しかし、それとこの舞台はさほど関係ないと思っていた。
なので、「Seafarer」の意味、すなわち「船乗り」「海の旅人」だけを確認した。
舞台の冒頭、キリストの絵が象徴的に見えてくる。
額縁に飾られた絵の下にある赤いランプに灯が点き、平田満さん演じるシャーキーがそれを意味ありげに見るのだ。
そこで気が付いた。
先の『The Seafarer』というタイトルの古英詩のことをだ。
つまり、このオープニングを意味しているように、キリスト教的な何かを暗示するような作品ではないのか、ということだ。
しかも、舞台中央にはクリスマスツリーがある。
フライヤーのツリーのデザインはこれだ。
クリスマスはキリストの誕生日なのだし。
舞台の設定は、現代のアイルランドで、クリスマス・イブからクリスマスの朝までの出来事である。
シャーキーの兄、リチャード役の吉田鋼太郎さんのテンションが最初から凄い。
このテンションで3時間近い舞台を行くのか? と思ったら、ほぼそうだった。
こういうテンションの芝居は、見ていて辛くなることが多いのだが、さすがにそうはならなかった。
酔っぱらっていて、粗っぽいが目が見えないリチャードが、物静かな弟シャーキーにとってのガンではないかと思うほどの酷さだ。
しかし、目に見える通りではなかったのだ。
本当に酷い男はシャーキーのほうであり、そのことがこの舞台の展開にかかわってくるのである。
その「物語の展開」にはビックリした。
シャーキーとリチャード兄弟の家にやってきた、唯一背広&ネクタイの紳士然とした男、ロックハート(小日向文世さん)は、「悪魔」であるという。
シャーキーが牢屋にいたときに知り合い、彼は約束通り、シャーキーの魂を取りに来たというのだ。
悪魔は、酔っぱらって殴った人を殺してしまったシャーキーと、牢屋でポーカーをして、シャーキーに負けたので、出してやったという。
その「悪魔である」というのは、文字通りのことではなく、何か別の目的で来た男が比喩のように名乗ったものでないか、と思っていた。
リアルな舞台が故に、そんな突飛なファンタジー的な要素が入るとは思っていなかったからだ。
しかし、そうではなかった。
本当に「悪魔」だった。
酔っぱらっているのだが、その千鳥足がシャンとする場面があったり、火が付いているはずのストーブを素手でうったり触っても、何も感じなかったり、さらに、ロウソクの炎を一瞬で消してみせたりする。
フライヤーの写真では、ロックハート(悪魔)の小日向文世さんが、下界の者を、まるで操るがごとく振る舞っている。つまり、そういうことなのだ。
ここに来て、さらに先の『The Seafarer』という古英詩がクローズアップされてくる。
シャーキーはアル中で、町の厄介者であり、その行為によって、孤独な男だったのだ。
「追放者」とも言え、兄の住んでいる家にも久しぶりに帰って来た。
つまり、そんな男が悪魔に魂を取られてしまうのか、というストーリーなのだ。
キリスト教とも深くかかわってきそうだ。
キリストの誕生日であるクリスマスの一夜に、シャーキーは「救われるのか?」ということなのだ。
悪魔であるロックハート(シャーキー以外はその事実を知らない)を含む5人は、ポーカーをすることになる。
最後の勝負でシャーキーは有り金以上のものを賭けてしまうのだ。
それによって魂が奪われることになってしまう。
シャーキーはロックハートに負け、「壁の向こう側」に行くことになるのだが、あり得ない展開で助かることになる。
それは、リチャードの友人、浅野和之さん演じるアイヴァン(ド近眼)のカードの手が、実はエースの4カードだったことが判明するからだ。
それによって、勝者は、リチャードとアイヴァンとなるからだ。
悪魔であるロックハートは、悪酔いとそのことにうろたえ、倒れてしまうほど。
この「どんでん返し」には、笑った。
ド近眼のアイヴァンは、メガネがないと壁にぶつかってしまうほど目が悪い。それほど目が悪いのにメガネがないまま、目の見えないリチャードと組んでポーカーに参加する。
だから、「4の4カード」だったと思っていた自分の手が、メガネが見つかったことで、実は「1(エース)の4カード」だったと気が付いた。「4」と「1」は「似ているから」ということだ。
しかし、よく考えてみると、トランプのカードは「数字」だけが書いてあるわけではない。ハートやスペードなどの図柄が、その数字だけ並んでいるわけであって、「1」はそれぞれの図柄が、カードの真ん中に1つだけあり、「4」は図柄がカードの四隅に1つず、計4つ並んでいるのだ。
たとえ目が悪くても、それも見えないのならば、カードはできない。なにより普通トランプは「図柄のほう」が「数字」よりも「大きい」し。
そして、いつもポーカーをして楽しんでいる者が、カードの図柄の位置を見間違えることはないのだ。
つまり、アイヴァンが「何かをした」のではないかということだ。
ストーリーの後半で、悪魔であるロックハートが、アイヴァンがポーカーで大勝ちしたことを言う。相手の4万ポンドもする船を取り、その相手は自殺してしまう。
この出来事に対して、アイヴァンもリチャードも触れたくないようだ。
ロックハートは何か知っているようだが、それに言及させることはなかった。
アイヴァンはその大勝ちしたポーカーでも「何かやった」のではないか。
少なくとも4万ポンドという賭けに、アイヴァンは「それに見合うだけの金または物」を賭けることができたのか? という疑問も残る。
シャーキーと悪魔の取引について何も知らないアイヴァンが、シャーキーを助けることになったのだ。たとえそれが正しい方法でなくても。
大酒飲みで風呂にはクリスマスにしか入らない兄リチャードは、アル中で鼻つまみ者で孤独な弟シャーキーのことを心から愛しているということが、クリスマスの一夜の出来事の中で語られ、それは、すなわち、悪魔が「あの方」と呼ぶ方が、彼らに味方したということでもある。
クリスマスにふさわしいストーリーなわけだ。
リチャードは弟のシャーキーと、友だちのアイヴァンにクリスマスプレゼントを贈り、クリスマスの朝の礼拝に行くと言う。
信心がシャーキーを救ったのではないかもしれないが、そうかもしれない、と思わせるラストだ。
5人の役者がとにかくいい。
兄リチャードを演じた吉田鋼太郎さんは、荒くれぶりの中に、弟のシャーキーのことを考えているということがよくわかる。彼と仲の悪いニッキー(大谷亮介さん)を呼んできたのも、ひとりぽっちのシャーキーのためであろう。
そうした不器用な優しさがよく表れる演技がうまい。
弟シャーキーを演じた平田満さんは、目が見えなくなった兄想いであり、アルコールを断っていて、「孤独の海」にいる様子が滲み出ていた。悪魔と出会ってから、さらに気持ちがダウンしていく様もさすがだ。
悪魔のロックハートを演じた小日向文世さんは、ほかの4人と比べると荒くれ度はかなり低い。
5人のメンバーの中で一番クールな役を演じるだろうと思っていたら、「悪魔」だった。
きちっとしたスーツ姿で、あくまでもクールにシャーキーを追い詰めていく。酔っぱらって千鳥足の姿は笑わせるが、核心を突いてくる台詞には恐さが漂う。
リチャードの友人アイヴァンを演じた浅野和之さんの、少し情けないのだが、リチャードとの友人関係の良さ、リチャードが彼を信頼しているということがよくわかるような演技がいい。
そして、かなり細かいことを絶えず行っていて、役を見事に見せてくれた。
ニッキーを演じた大谷亮介さんは、不器用だけど、憎めない感じが出ていた。いかにも失敗しそうなチーズ屋を始めると言っている台詞のあたりの何も考えてない感がいい感じ。
4人の男たちはそれぞれダメな人なのだが、悪人ではなく、チャーミング。
悪魔も「悪い人」(笑)ではなく、やはりチャーミングなのだ。
役者もいいのだが、やはり演出もうまい。
「笑い」の塩梅もいいし、きちんと笑わせてくれる。
それぞれのキャラクターがくっきりしていて、その絡み合いがとにかく面白い。
5人全員が舞台の上にいるときには、絶対何かをそれぞれやっていたりして、それを見るのも面白い。
アイヴァンが、カードに何かしたのではないかと思っているのだが、その瞬間を見ていないのが心残りである。
ダメな男たちが集まって、飲んだくれて、ポーカーをしただけの、クリスマスの一夜だったとも言える。
悪魔は、夜やって来て、朝、去った。
「孤独の海を航海する船乗り」のシャーキーは、兄が自分のことを心から想ってくれていることと、地元には仲間がいるということを知り、孤独の航海を終え、「陸に上がる」のだろう。
もちろん、真人間になれるとは思えないが、たぶん「Seafarer」ではなくなる。
彼の心の中にいる「悪魔」とも決別できたであろう、クリスマスの朝だ。
そして、クリスマスの一夜に悪魔に出会っただけに、「あの人」の存在を身近に感じるのではないだろうか。
いいラストであり、終演後の余韻もいい。
満足度★★★★
ガラスのトウシューズ
クリスマスの月にふさわしい、優雅で美しい作品。
ネタバレBOX
入口前には、空気で膨らませたクリスマスっぽい家があり、ロビーの先には大きなツリーもある。
ツリーの前にはサンタがいて、一緒に写真を撮ってくれる。
いつものように、お子さんたちにメイクをしてくれるコーナーがあり、子ども連れが多いこともあり、開演前から会場は華やいだ気分に膨らんでいた。
善き人が美しく、そうでない人が醜い、とか、王子はシンデレラの顔ぐらい覚えてないのか、とか、とか、そういう突っ込みは無粋。
純粋に乙女チックで美しい世界を楽しみたい。
とは言え、シンデレラの姉たちの頭は、髪の毛が抜け落ちていて、結構ショッキング。
そして、悪のり、と言えそうなほど、面白みを演出する。
まあ、全体の構成の中では、いいアクセントになっているのには違いない。
姉を演じた2人もうまいし。
1幕は、シンデレラが仙女(魔法使いのおばあさんではない)に出会い、舞踏会に行くまで。
2幕は、お城の舞踏会で王子に出会い、12時の時計の音とともに去るまで。
そして、3幕は、王子がシンデレラを見つけ、結ばれ、めでたしめでたし。
の3幕。
曲はプロコフィエフの『シンデレラ』。
どのシーンも美しくて見とれてしまう。
特に、舞踏会でシンデレラと王子が踊るシーンとラストの2人のシーンは、優雅。
つい、ぼーっと見てしまった。
おじさんの「乙女ゴコロ」が刺激されてしまった、というところか(笑)。
この日のシンデレラは、米沢唯さん。とても端正に踊る。それが美しい。
仙女役の堀口純さんも、きりっとしていて素敵だ。
仙女が連れて来る四季の妖精の踊りも、それぞれの個性が見えるようでよかった。
大人数が舞台の上に登場するシーンは、どれもシンメトリーな舞台構成で、奥行きもあり、1枚の絵になっていた。
カボチャの馬車もきらきらしていてとてもきれい。
もっと見せればいいのに(2幕の冒頭とかにも)、と思った。
バレエが「うまい」とか「へた」とかではないところで、優雅な気持ちで楽しめる舞台だった。