走るおじさん 公演情報 あひるなんちゃら「走るおじさん」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    これはもう、あひるなんちゃら版『長距離ランナーの孤独』ではないか
    ……なわけはなく、いつもの「なんちゃら調」。
    というか、「完成度の高い」「なんちゃら調」。

    70分で、前売2000円。
    お得だ。
    面白いもんね。

    ネタバレBOX

    「たっぷり笑って、後に何も残らないコメディです」的なキャッチフレーズの舞台作品を散見することがある。
    しかし、多くの場合、それは言い訳の類であって、「何も残らない」どころか、「どこで笑うんだ」という怒りだけが残ることがある。

    あひるなんちゃらは、そう謳っているわけではないが、びっくりするぐらい「何も」「ない」。
    教訓どころか、主人公の成長も、謎の解明も、オチみたいなものすらない。

    潔い。

    しかし、「笑い」はある。
    あとには「面白かった」という記憶と、役者のうまさが刻まれる。

    あひるなんちゃらの舞台は、とにかくすべての「間」がいい。
    この舞台に関して言えば、そこが大きなキーポイントになっている。

    特に「間」を意識した作品ではないだろうか。
    その完成度はとても高い。
    「完成度の高いなんちゃら芝居」と言ってもいい。

    彼らの舞台にしては珍しく、観客席の通路を使う。
    観客席後方には走るおじさんが走っているグラウンドがあるという設定。

    そこに向かっての芝居は、グラウンドで起こっているだろう出来事に対するリアクションだったり、そこへ向かったり、そこから来たりする時間も「間」である。

    グラウンドを見ていて発する台詞のタイミングもとてもいいのだ。
    観客の呼吸と合うというか。

    走るおじさんの妹(石津美和さん)と弟(澤唯さん)のやり取りは、絶品だ。
    観客は笑いのスタートラインで、笑いのきっかけを待っているのだが、それに気持ち良くいい合図を出してくれる。

    単に2人の間がいいだけでなく、笑いのタイミングの「間」もうまいから、いい感じで笑えるのだ。
    脚本もいいのだろうが、やはり役者がいいのだろう。

    走るおじさんの友だち(園田裕樹さん)は、特に間を意識した演出になっている。自分の中で間をつくるのだが、その外し加減がなかなか良くて、「変な」感の醸し出し方がいいのだ。

    見ている人(志水衿子さん)は、変な人だと思っていたのだが、どうやら同僚(篠本美帆さん)と単に赤いおじさん(堀靖明さん)をからかっていて、暇つぶしのようなことをしているのではないか、と思わせるところが、変すぎなくていい。

    見ている人の中にいる、赤いおじさん(堀靖明さん、前も赤いジャージを着ていたことがあったように思うが、彼のイメージカラーは「赤」なのだろうか)は、いつもながら、気持ちいいタイミングで、気持ち良く突っ込んでくれる。さすが! うまい。

    タイトルになっている「走るおじさん」を演じる根津茂尚さんは、やっぱりうまい。
    出番は少ないのに、きちんと「普通」のおじさんを、「普通」に演じている。
    エキセントリックが支配しがちになってしまう、こういう作品にあって、その、淡々さがとてもいい味になているのだ。

    笑いを取りに行こうとして、前のめりにならないところが、あひるなんちゃらの良さでもある。
    なので、根津茂尚さん同様に、おじさんの娘役の松本みゆきさんも、落ち着き具合がなかなかいいのだ。

    しかし、登場人物たちについて、いろいろ疑問が生まれてくるので、それがストーリーの後半に行くにつれて、徐々に見えてくるものと思っていたら、ぼんやりとわかることもあるのだが、ほとんど明らかになってこない。

    走るおじさんを「いつも走っている、変なおじさんがいるなー」と、見ている人たちが、彼のことを何も知らずに(断片的にわかることもあるが)、見ているように、また、逆に彼らのことを、「バンドやってる人たちかな」ぐらいの感じで見ている、走るおじさん側のように、観客も、それを「見ているだけ」ということなのだろう。

    積極的にかかわっていくことをしない、距離感がある。
    各々のグループ内では、それぞれ濃厚な人間関係があるのかもしれない。
    しかし、「見ているだけ」の我々にはわからない。
    「他人のことなんて、何もわからない」のだ。
    というテーマがこの作品にあるわけもないとは思うのだが、そういう寂しさも感じた。

    走るおじさんの娘は、おじさんを殴ることで、何かが始まったか、変わったかして、おじさんも、何かが少しだけ起きたか起きなかったかして、おじさんの友だちも、走るおじさんきっかけでなさそうだけど、就職なんかして、見ている人たちは、何かのアイデアが生まれたり生まれなかったりして、ぐらいの変化は起きていて、それが「何なのか」は、やっぱり当人にしかわからないことであって、「見ている人」の観客は、「見ている」だけしかできないということなのだろう。

    観客も人も、結局は常に「見ているだけ」なのだから。

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    2015/03/06 16:53

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