東の地で 公演情報 ミームの心臓「東の地で」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    イースト・オブ・エデン
    エデンを追放された者が向かう場所。
    アダム、イヴ、(アベル)、カイン。
    彼らの「罪」とは。

    『focus. 神話』のときの初演とは、演出も大きく変わっていた。
    ピアノとチェロの生演奏。
    まったく新しい作品と思ってもいい。

    ネタバレBOX

    ミームの心臓(酒井一途さん)がプロデュースした『focus. 神話』でこの作品を観ていた。
    3つの学生団体が出ていた、このときの公演には、あまりいい印象はない。
    各団体の気負いが悪い方向に出てしまった印象だった。

    したがって、そのときの再演であるこの公演に行こうかどうしようかという迷いがあった。
    しかし、酒井一途さんの書くモノには好い印象があるし、彼らの学生最後の公演であって、このあと彼が演劇を続けるかどうかわからないということもあり、それを見届けることにした。
    戯曲も書き直したり、生演奏も入れたりするので、演出も変えるらしいということもわかったので。

    たぶん前にも書いたと思うが、作・演の酒井一途さんのいいところは、「真面目」なところであろう。具体的には、想いの「言葉」への託し方と、その「言葉」そのものへのこだわりだ。

    以前のプロデュース公演で「神話」というテーマにしたのも、ひとえに彼が考え詰めていった結果だろう。「神」に対する懐疑(ネガティヴな意味ではなく、「問い掛け」のようなもの)のような感覚と、それを俯瞰したいという想いが進むうちに、よりそれが具体化していく中で、作品に仕上げていったのではないだろうか。

    神話のときに思ったのは、「東の地」とは、アダムとイヴが追放された地であり、弟アベルを殺したカインが追放されたのも、またそこであるということ。今回もそれが踏襲されている。

    もちろんそれを意識してのタイトルだということはわかる。
    したがって、イブキ、ソウ、エルという3人の人物(エルは舞台には出ない)の関係は、アダム、イヴ、アベル、カイン、そして蛇なのではないかと思う。

    「誰にとって、誰が誰なのか」という見方をしていくと、それぞれが、それぞれの関係において、「蛇」であり、「カイン」であるということが言える。
    初演時にはここまで感じ取ることはできなかった。

    彼らは「団地から出て行った」のであって、「追放された」のではない。
    しかし、「出ていかなくてはならなかった」のであれば、「追放」と等しいのだろう。「団地」という「コミュニティ」からの「追放」と。
    そう解釈した。

    よって、「エデン」であった「団地」から出ることになる「そそのかし」をしたのが、「蛇」であり、出ることになってしまった原因を「自ら」作り出してしまった者が「カイン」である。さらに、「死」も絡んでくる。

    イヴを想起させる「イブキ」という女性のネーミング、さらに、そのイブキに一人称で「ボク」と言わせるところでの、アベルとカイン「兄弟」のイメージをも与える。ここはうまいと思う。エルの性別が不明なところも。

    ただし、問題は、「団地からなぜ出なくてはならなかったのか」ということだ。
    不用意(そう感じた)に「絶望」という言葉を使ってしまっているが、それを舞台の上の2人からは、感じることはできなかった。
    2人の出会いのシーンは、昔のATGのそんなシーンを観ているようで、なんとなく気恥ずかしくもあるのだが、なかなかいい。ここで、イブキの「絶望」を感じられないと、彼らの「追放」が納得できない。しかし、そう感じなかった。

    「絶望」に納得できていないから、イブキの自殺シーンと結び付いていかない。

    イブキの、自分でもよくわからないような、苛立ちのようなもの(ソウとの関係で出てしまう感覚)、つまり、自分で自分をきちんとコントロールできないような感覚が、もうひとつ伝わってこないのだ。
    そこがクリアされれば、この作品はもっと響いたのではないかと思う。
    小林依通子さんの演技を見ていると、それができそうだと思わせる。

    実は、それが、作・演の酒井一途さんと重なってくるのだ。
    つまり、「真面目すぎる」が故の、非劇ではないだろうか。
    イブキは、「自分がこうありたい」と願っていることと、「他人にこう思ってもらいたい」と思っていることとのギャップに苦しんでいるよう思う。いわゆる「いい子症候群」が発症しているわけで、それがすべての発端になっているように思えるのだ。

    酒井一途さんは、その作品で、一貫して「わかり合えない」ことの「非劇」を描いているように思える。だから、彼にとって、そうした「いい子症候群」のイブキの苛立ちは、「自明の理」なのではないか。
    だから、そこがあえて描かなくても観客はわかってくれると思っているのかもしれない。

    わざわざ「家」ではなく、「団地」という設定にしたところも、彼にとっては、「自明の理」のひとつではないのか。
    しかし、団地という装置から、自動的に「絶望」は立ち上がってこない。残念ながら。

    彼と同じ気持ちを持っている観客には、響く作品なのかもしれないが、私はそうではなかった。
    そこを斟酌しても、なお、足りないと感じたのだ。

    彼ら3人が互いを想い、つながっていこうとする姿に共感させるためには、大前提がないとダメではないかと思うのだ。
    「絶望」とは何か、ということ。その絶望とは、アダムとイブ、そしてカインの「罪」でもあるわけだから。

    「罪」と感じてしまうほどの「絶望」は、彼らの中にあるわけで、それを演劇という作品で見せるのならば、きちん取り出して見せてほしいのだ。
    もちろん、グダグダと暗いエピソードで見せてほしいわけではない。「彼らにはそう思い込んでしまう何かがあったのだ」と思わせてほしいだけなのだ。

    三角関係のもつれによる、自殺が原因にしか見えてこないから。
    そうではなさそうなことが、2人の出会いのシーンからうかがえるので。

    たぶん前に、ミームの心臓の感想で書いたと思うが、やはりそこには「複眼的」な視線が必要なのではないかと思う。今回のように、深く掘り下げていって、そのキレイな上澄みをすくい取った作品であったとしても、その上澄みのキレイさを確かめるだけでなく、もう少し角度を変えて観るということが必要なのだと思う。

    そういう「深さ」への一直線のアプローチが、台詞にも出てしまっていると思う。
    つまり、台詞というか、「会話」が役者の身体に馴染んでいないのだ。
    「普通にそんな話し方する?」という会話であって、どうも借り物のように感じてしまう。演出として、あえてそういう聞かせ方、見せ方をするという方法もあろうが、それは、「普通の会話」が成り立った先にあるものだと思うのだ。

    2人の位置関係にも同じものを感じた。
    彼らが男女であるとするならば(それを超越するものであったとしても)、「触れ合う」ことによってのみ生まれるコミュニケーションがあるはずだと思うのだ。どうもそれが自然にできていない。距離の選択が微妙だ。

    ただ、驚いたのは、演技が終わって、バックの演奏を脇で聞いている彼ら2人の姿のほうが、舞台の上で役を演じていたときよりも、リラックスしていて、いい関係に見えていたことだ。これを舞台の上で、なぜ引き出せなかったのか、と悔やまれる。

    会話はイマイチだったが、モノローグがいい。
    生演奏との関係性もとてもよかった。

    生演奏は、とても存在感がある。
    したがって、演劇と演奏の主従の関係が逆転して見えてしまうところが多い。
    音楽劇とも違い、演奏の解釈を演劇と語りで見せているような錯覚すら覚えた。
    それはそれでいいとは思うのだが。

    最初や劇中で、小林依通子さんが唱うシーンがとてもよかった。
    こういう演出はなかなか。

    ラストは、「演技終わりました」の2人の「役者」と演奏を見るのではなく、「演奏の終わりまで」がこの舞台作品であるということで、最後まで登場人物であってほしかったと思う。なので、エンディングの演奏は少し短くしても暗転のままでよかったと思う。

    次のミームの心臓の公演はあるのかないのかはわからないが、社会人となった酒井一途さんがまた演劇をやるときがあるとすれば、彼が社会に出て何を感じたのかを見たいと思うので、また公演には行くと思う。

    『focus. 神話』のプロデュースだったり、今回のオリジナル曲の生演奏だったりと、意外と((失礼・笑)大胆だったり、スケールが大きいところもいいし。

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    2015/02/09 05:29

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