悪霊 公演情報 地点「悪霊」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    ドストエフスキーの『悪霊』を「地点」の解釈で見せていく
    無限なる雪原。
    終わりのない旅(ループ)。
    先端のその先に見えたものは。

    ネタバレBOX

    地点は、2008年に『三人姉妹』を観たのが最初の出会いだ。
    そのときは、「三人姉妹の台詞が、ゆるやかに立ち上がり、激しく昇り、またゆるやかになり静寂」する様に「音楽」を観た。
    そして地点はとても好きな劇団となった。

    今回の『悪霊』は、「肉体の動き」を意識してしまう作品に見えたが、やはり走る姿とその呼吸にはリズムを感じ、音楽を感じた。

    劇場に入ると雪原が広がっていた。
    劇場の長辺(20メートルぐらいか)を舞台の横に設定し、競技場のような楕円形の雪原がある。
    明らかに客席よりも舞台のほうが広い。
    そこに雪(細かい発泡スチロール?)が降り続く。

    そこを安部聡子さんが台詞を発しながら、延々と走り続ける。
    なんと過酷な演出!

    ドストエフスキーの『悪霊』を、その台詞を中心に散りばめていく。
    その手法は地点作品ではお馴染みのものだ。

    バロウズのカットアップ手法のように、単に切り刻んでランダムにつなげたものではなく、意図的なものを感じる。
    ある程度ストーリーも追える。
    まあ、それを追うことにどれだけの意味があるのかはわからないが。

    ロシア作家の小説、音楽、映画を読み、観るときには、「西欧」との関係と、「ロシア性」とを感じてしまう。
    「西欧」とは、ロシアの時代によっては異なるが、先にある文化であったり、「自由」だったりする。それに対するロシアの作家たちの作品には、(ある種の)妬みや憧れと、ロシア(人)であることの自負と自我がない交ぜになった感覚が表れているように思える。
    それだからこそ、ロシア(ソ連)の作家たちの作品の多くは、独自性があり、魅力的で、面倒臭い。

    発泡スチロールの雪原をグルグルと走らせ続ける演出は、そうしたロシア的な鬱憤のようにも見え、足元を埋め、その歩み阻む「(作家の中にある)内なる何か」にも見えてくる。しかも、発泡スチロールの雪は終わることなく降り続き、堆積していく。

    ループになった「雪原の競技場」は、極端から極端が実はつながっているともとらえることができるのではないか。
    「悪」と「虚無」とは、「神」と「信仰」につながる道でもあるかもしれない、ということを感じざるを得ない。
    「神の存在(気配)」が、ドストエフスキーの『悪霊』にもあるのではないだろうか。
    自滅していくスタヴローギンは、「つながった」ことを感じて「ループ」から「抜け出した」のではないか。そんなことを感じた。

    終わりのないループからの抜け出しには、「自殺」がスタヴローギンにはあった。
    演出では、舞台から飛び降りることでそれを表現していた。
    まさに「出口なし」の「ループ」から抜け出すことを見つけたのだ。

    「悪行」に対する「自業自得ではない」、1つの答えがスタヴローギンにとってそれだったのではないか。極端と極端がつながっていて、「神」に触れた瞬間の、スタヴローギンの答え。
    三浦基さんの演出はそれを見せたかったのではないかと思ったのだ。

    つまり、ドストエフスキーが記したことを、100分で提示して見せてくれたと思うのだ。

    延々と走り続け、台詞を発し続けた安部聡子さんは、やはり素晴らしい。
    三浦基演出は、役者にいろいろと強いる。しかし、それは互いの技量を理解してのものだと思う。
    それにしても過酷すぎる。
    その過酷さからしか見えてこない作品があるのも、また事実であることを感じた舞台でもあった。

    地点は活動を京都に移し、自らのスタジオで上演をしている。
    京都に行くのは、なかなか大変なので、そうした作品が都内でも観られるといいな、と願う。

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    2015/01/07 18:08

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