プルートゥ PLUTO 公演情報 Bunkamura「プルートゥ PLUTO」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    原作を気にしすぎでは
    原作のテーマを横に置いて、あらすじを観たような気分になってしまった。
    ストーリーを丁寧に追うことよりも、テーマをきちんと見せることに注力すべきだったのではないだろうか。
    いろいろと中途半端で残念な舞台だった。

    ネタバレBOX

    浦沢直樹のマンガ『PLUTO プルートゥ』が原作の舞台。
    『PLUTO』自体が、手塚治虫の『鉄腕アトム』のエピソード「地上最大のロボット」を下敷きにしている。

    『PLUTO』は、ロボット刑事ゲジヒトを主人公にして、7人のロボットたちの最後を描いていく。
    「心」まで生まれてくることで、生物と生物ではないものとの境目がわからなくなってくるような、ストーリーだ。

    舞台は7人のロボットのうち、5人がすでに亡くなっているところから始まる。
    なので、マンガにあったような、「泣かせるエピソード」がない。

    なので、ロボットの苦悩のようものに共感もできず、ラストにプルートゥが、「目覚めていく」という展開にも納得度が低くなってしまう。

    原作マンガでは、「アトム」がやはり最大の媒介者であり、彼の存在が、プルートゥの「心」を動かし、「人殺しをした唯一の存在」と言われているロボット(原作でもモロ、『羊たちの沈黙』のハンニバルだし、ロンギヌスの槍が刺さったリリスなんだけど・笑)の「心」も動かしていく。
    しかし、その要素を摘み取ってしまったように思う。

    例えば、槍が刺さって動けないという人殺しロボットの「槍をアトムが抜いて」しまうのだ。確かそういうシーンは原作にはないと思う。これがあるとなしでは意味が違ってくるように思う。例えば、「槍は自分で抜くことができたのに、今まではしなかった」とも受け取れることから、彼がどうしてアトムの手助けをしたのか、というところへと思考が進むからだ。
    それをストーリーをわかりやすくするためにか、アトムが実際に「槍を抜いて」しまうのだ。

    さらに、ロボット刑事ゲジヒトも実は「人を殺したことがある」ということがわかってくるのだが、それを舞台では、「自分の子ども」に対する復讐として描かれてしまう。単純、短絡にしてわかりやすくなってしまったことで、失ってしまったモノがあると思う。

    「心(憎しみやその連鎖)」と「家族」とそれらを形作る「記憶」と「生命」というテーマが交錯して、『PLUTO プルートゥ』という作品は成り立っていると思う。

    そのテーマに、もっときちんとフォーカスして描くべきだったのではないか。
    つまり、原作のストーリーを追うことが第一義に考えられた結果が、この舞台になってしまったように思える。

    さらに、森山未來さんがダンスやってるからダンスも入れた感が強く、必然性があまり感じられない。アトムが飛び立つ姿は、いいな、とは思ったが。
    原作の持つテーマに絞って、ダンスだけの舞台でもよかったと思うのだ。

    人が数人で操るでかいプルートゥが舞台に登場するのだが、まるでヒーローショーのようで、子どもの声援が似合いそうな対決シーンとなっていた。単純に見せすぎて、残念。

    ラストにボラーが布を使って表現されていて、それにはスペクタクル感もあり、舞台の演出として、なかなかだったのだが。

    永作博美さんが、ウランとゲジヒトの妻の2役を演じていた。それはそれでうまいとは思ったのだが、2役演じさせるのならば、そこに意味を持たせてほしかった。
    同じように、柄本明さんが天満博士と人殺しロボットの声を演じ、松重豊さんも声でもう一役演じていたが、両者ともに声に特徴がありすぎて、同じ人が演じているのがわかりすぎてイマイチであった。そこに意味はないので、別の人でよかったのではないだろうか。
    少人数で演じ分けることに意味があるのならば、そういう演出にしてほしいのだ。

    原作どおりゲジヒトが物語を回していたのだが、5人のロボットがいないストーリーなだけに、アトムとの関係が微妙で、もっとすっきりとどちらかを主人公として扱ったほうがよかったのではないか。

    マンガのコマをイメージした舞台セットと、ロボットの残骸が舞台全面にあり、それが戦争のときのイメージや、捨てられたロボットたち、そして「花畑」に見えてくるような装置は良かったとは思った。

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    2015/01/26 05:55

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