ボム木偶の観てきた!クチコミ一覧

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森の奥

森の奥

王立フランドル劇場(KVS)&トランスカンカナル

こまばアゴラ劇場(東京都)

2008/09/09 (火) ~ 2008/09/13 (土)公演終了

満足度★★★★★

猿の地平で考える
現代の演劇界で、僕ら一般人の目線をもって、世界を表現できる人は、平田オリザさんだけかもしれない。

「森の奥」は、ベルギー王立劇場の依頼で、オリザさんが書き下ろした作品。完全な「乱交型」コミュニティを作ることで知られる、もっとも人間に近いと言われる類人猿、ボノボについて語る研究者たちの姿の向こうに、僕らをとりまく、地球規模の、人の世界がみえてくる。

「他者」をめぐる、ともすれば、高いところから見下ろす形になってしまいそうな題材が、オリザさんの、どこまでも自然な言葉と、ベルギーの俳優たちの、演技を忘れたような演技に、僕ら市井の人々の目線が込められて、ごくごく当たり前にしみ込んでくる。

感情が大きく揺れ動いたり、全く新しいものに触れたりということのない、地味な舞台。でも、ここは、喜怒哀楽から始まる、深い思索への、とても自然な入り口。僕は、この貴重な公演を、心から楽しんだ(できれば、もう一度観たい)。

ネタバレBOX

劇作家にとって、他国の劇場から、劇作のオファーがくるというのは、どういう気持ちのものなのだろう。オリザさんのこの作品には、そういうときに想像される、気負いのようなものが、全くない。それでいて、多文化と、自然と渡り合う、作家の姿が、はっきりと映る。

プログラムの言葉を引用してみよう。「結局、ベルギー本国を舞台にするとぼろが出やすいので、旧植民地であるコンゴを舞台にして、しかも私の得意分野である霊長類研究の話題を書くことになりました。日本のお客様には、分かりにくいかも知れませんが、人間と猿の違いを描くことで、ベルギーの中にある人種間対立の問題が透けて見えるような構造にしたつもりです。」とある。

自分の知らない国からの依頼を受けて、まず、その国について調べる。問題点を、テーマに据える。ここまでなら、なんとかなるかもしれないけれど、それを、自分の「得意分野」の話に紛れ込ませるとなると、相当の自信が必要だろうと思う。「霊長類研究」というような、国際的な得意分野をひとつ持っているかどうかが、これからの国際人には問われているのかもしれない。

なにより、この「霊長類研究」の部分が、楽しい。ボノボは、完全に乱交型のコミュニティを形成。全てのコミュニケーションは、同性、異性を問わず、セックスに依存している。そんな世界では、例えば、特定の異性とのみセックスすることが「不倫」となる、とか。ボノボの社会のような、乱交型のため、誰の子供なのかが全くわからない親子関係の世界では、子殺しが起こらない、とか。物語は、こういう、類人猿の世界に関するコミュニケーションを通じて、世界各国から集った、心理学や言語学といった、立場も様々な科学者たちの、ぎこちないやりとりを、とても丁寧に描いて行く。

僕は、同時に、舞台上の白人たちと、観客席の僕ら日本人の間に、無言のやりとりのようなものが生じたと、感じた。それは、もちろん、舞台から、客席にはたらきかけがあるというわけでは全くない。

僕は、恥ずかしい話だけれど、舞台上に白人の役者さんたちがいる舞台に、最初、萎縮してしまった。僕らと、全く違う人たちだと感じて、狭いアゴラの、舞台と客席の間に、どうしようもない見えない壁があるみたいに、感じた。

でも、それが、次第に、消えて行ったのだ。というか、消えてはいないかもしれないけれど、それを、意識しなくなったような気がした。「日本人」と「白人」というような、雑な区別が、「猿」と「人間」という、さらに雑な感じの、でもより根源的な区別を通して、個人間の差異に着地するような、そんな気がして、いつの間にか、舞台上の人々と、自分が、同じ地平(猿の地平というべきものかもしれない)に立っているような気がしたのだった。

それは、多分、コンゴのジャングルを表現するための、冷房を切るという演出に助けられてのことかもしれない。舞台上の人々と同じように、僕らも、暑くて、服をはだけて、次第にだらしない身体を獲得していたから。また、オリザさんのオリジナルな言葉の、つまり自然な日本語の字幕にも助けられたのだろう(おおげさな言葉のない、とても親しみ易い言葉の字幕は、めずらしい)。

このように、大きな気負いではなくて、細かいところに気を配るところから、アゴラの、「国際演劇月刊」は始まった。僕は、この姿勢を、信じる。ここには、巷に溢れる、自己満足の「国際交流」ではない、もっと自然なものが生まれると思った。そして、次の演目が、楽しみになった。
冒険王

冒険王

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2008/11/15 (土) ~ 2008/12/08 (月)公演終了

満足度★★★★★

東京の、地域演劇を思う
最近観た、青森の劇団、弘前劇場の舞台「いつか見る青い空」が、頭から離れない。はっきりとしたスジのない、津軽の日常を淡々と描く、同時多発会話劇だ。洗練されているとは言いがたく、むしろ、泥臭いその舞台では、生身の役者の人生が、生き生きと、はっきりとした輪郭をもって迫ってきて、僕は、圧倒された。

青年団の、12年前の作品の再々演である今作は、目的なく世界をぶらぶらする、日本人旅行者たちのたまり場となっている、イスタンブールの安宿が舞台。総勢18人の旅行者たちの日常を、複雑な同時多発会話によって、淡々と描く作品。

これを観て、僕は、完璧な作品だ、と感じた。本当に面白かった。見方によっては重いテーマを、受け止め易いものにしている、全編にちりばめられたユーモアのセンス。複雑な会話を、とても分かり易く伝える、巧みな構成。しっかりと訓練されて、自らの役を、過不足無く演じる役者たち。どれをとっても、完璧で、洗練されつくしている。

そして、僕は、弘前劇場を、また思い出すのである。両者が、とても似ているのに、全く、正反対のものとして、映る。そしてそのとき、青年団の舞台が、とても、東京的なものとして、みえてくるのだった。すこし、そのことを、考えてみようと、思った。

ネタバレBOX

冒険王は、一見すると、とてもとりとめのない作品として映る。観終わった直後、僕は、そう感じて、ナマで観ることでしか体験できない、言葉の論理を越えた作品だ、と思っていた。

でも、じっくりと思い返してみると、意外にも、しっかりとした、物語としての流れを持っているようだった。どうも、それを僕は、流れとしてではなくて、エピソードの積み重ねとして覚えているみたいなのだった。つまり、この作品は、しっかりとした、重厚なテーマを扱っていながらも、それが、重厚なテーマとしてではなく、観客の目には、面白エピソードのあつまりとして映るように、とても周到に、計算されているようなのだ。まるで、作中の旅行者たちの合い言葉、「がんばらないように、がんばっている」みたい。

この舞台には、いろんな人が出てくる。みんな、それぞれ、物語的に、かなり重いテーマを背負っている。たとえば、こんな人たちだ。

・ 日本の社会に対して不安を抱え、正面から向かうことができない若者たち
・ 他者を、ゆるやかな家族のような、なれあいの関係でしかみることができない日本人
・ 自らはみだそうとするひとたちをみて、理解に苦しむ、あらかじめ疎外されたものとしての、在日韓国人
・ 社会からはみ出した人たちを、正視することができない人
・ 社会からはみ出した他者たちを、動物園の動物をみるみたいに、おもしろがって見物する人

こういうひとたちが、同時多発的に、登場する。そこに、それぞれの立場の、摩擦が生じて、ひとつひとつの面白エピソードをかたちづくっていく。

こんなふうに、たくさんのものを抱える、個性豊かな登場人物たちなのだけれど、どうしてか、存在感に、ゆらぎがある気がする。弘前劇場の舞台の、あの、役柄を越えて滲み出てくるような、匂いたつ、人間としての個性が、希薄である、という感じがするのだ。ひとりひとりの生活感だとか、行動のクセだとかは、とても細かく書き込まれているのに、それらは、役者から生まれているのではなくて、戯曲の必要に応じて、精密に、創りだされているような感じがする。

非常に、システマティック。自発的に生まれるのではない、必要に応じて書き込まれる個性。『2001年宇宙の旅』のラストに出てくる、真っ白な部屋みたいに、静かで、人工的。そして、だからこそ、強烈に、この舞台は、「東京」としての印象を、浮かび上がらせる。東京に住む、僕らの姿を、映し出す。

10年以上も前、弘前劇場が、東京公演を、定期的に行おうとしたとき、積極的に受け入れて、サポートしてくれたのは、平田オリザと、こまばアゴラ劇場だけだったという。平田オリザは、青森の「地域演劇」をつくりだそうとする弘前劇場の立場に、共感していたのだった。

青年団は、「日本」ではなく、「東京」を代表する、地域の、劇団で、こまばアゴラ劇場は、「東京」の、地域劇場。そう、考えてみることにした。
シンベリン

シンベリン

子供のためのシェイクスピアカンパニー

あうるすぽっと(東京都)

2008/07/12 (土) ~ 2008/07/24 (木)公演終了

満足度★★★★★

「つながり」と、「赦す」ということ
世の中の人、全員がこれを観たら、世界は、もうちょっと、平和になるのだろうな、と、映画『リチャードを探して』の中の言葉を思い出しながら、そんなことを、思った。

年に一度のドリームチーム。本当に楽しませてもらいました。最高でした。来年も、必ず、観ます。

ネタバレBOX

社会から、つながりが失われてしまっている。あらゆるものが、つながりを失って、ばらばらになってしまっている。今では、つながっているのは、憎しみだけにみえてしまう。

シェイクスピアの時代(16〜17世紀)は、丁度、世界の転換期。中世と、近代の、過渡期のど真ん中だ。だから、シェイクスピアの作品は、中世の、人々が、世界が、神々が、ありとあらゆるものが繋がっている世界観と、近代の、今に通じる、人間中心的な、つながりを断ってゆこうとする世界観が、せめぎあう。

でも、基本、「世界は舞台」という考え方のシェイクスピアは、どちらかというと、やっぱり中世的な、神様も、世界も人も、繋がっている世界の方にシンパシーがある。「舞台」というキーワードで、世界が繋がっている。

山崎清介さんの演出は、その、「つながり」の部分を、非常にスタイリッシュに、分かり易く、取り出してくれる。研究してるなぁ、と、感動する。

ほとんどの俳優が、一人で、何役もこなす。メインのキャストを二役くらいと、端役と、黒子とを、同時にこなす。とっても、忙しい舞台なのだけれど、息がぴったりで、まったく忙しさを感じさせずに、洗練された美しさとともに、行われる。登場人物たちは、山崎さんの演出の上では、絶対に、ばらばらにならない。役者の身体を通して、手拍子のリズムを通して、舞台と、繋がっている。

それによって、とっても孤独なキャラクターも、一人の役者を通して、別のキャラクターになることで、不思議な、つながりが生まれるのだ。

例えば、今回。孤独な皇子、クロートン。原作では、憎しみを抱いたまま、何の救いもなく死んで行くだけの彼が、この演出によって、救われた、と思った。

クロートンの首なし死体を、ヒロインのイモージェンは、自分の恋人の死体だと勘違いして、嘆く。山崎さんは、ひとこと、死体に、「彼はまだ生きているよ」と、原作にはないセリフを語らせる。まず、つながりが、ひとつ。このセリフで、憎しみで凝り固まっていたクロートンの中に、赦しのかけらが、生じている。

直後、クロートン役の戸谷昌弘さんは、クロートンを殺した男の兄、行方不明の皇子として、登場する。殺す側と、殺される側が、戸谷さん(素晴らしい演技!)の軽快な入れ替わりで、鮮やかにつながるのである。

復讐が復讐を呼んで、複雑に絡まった物語は、最後、鮮やかに解きほぐされて、「赦し」の結末を迎える。クロートンを殺した真の皇子を、王は赦す。同時に、真の皇子は、自分を捨てた(ホントは違うけど、複雑なので、とりあえずこういうことにしときます)王を、赦す。このとき、殺された皇子と、殺した(側の)皇子を、同じ役者が演じていることで、あの、憎しみにこりかたまったまま殺されたクロートンも、赦し、赦されているように、僕には、見えた。

よどみのない、職人たちのパフォーマンスは、大人も子供も、観客全員を、繋げてしまう。近くの席で、小さな子達が、複雑な人間関係を、兄弟で、パンフを確認しながら、身を乗り出して、追っていた。女子中学生のグループが、帰りがけに、みんなで、手拍子を真似して、盛り上がっていた。

僕は、はじっこで、涙と鼻水で、ぐちょぐちょになっていた。

そうそう、来年は、『マクベス』みたいです。
友達

友達

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2008/11/11 (火) ~ 2008/11/24 (月)公演終了

満足度★★★★★

権力でも、解釈でもない演出
「他人の作品を、作者以外の人間が演出するという制度がある理由がわからない」とかつて語っていた岡田利規が、他人の作品を演出する日がやってきた。

もう、どきどきわくわく。

蓋を開けてみれば、彼は、今回、演出家というより、振付け師のような立場で作ったみたいにみえる。そして、そこには、ものすごく知的な戦略があるみたいにみえる。ああ、すごいなぁ。演劇とはなんだろう、文学とはなんだろうと、考えずにはいられない。頭と身体がうずいてたまらない作品だった。2回観たけど、もう一回くらい観たい。

ネタバレBOX

別役実は「演劇における言語機能について 安部公房<友達>より」という評論(1970)で、「友達」について、ものすごく細かく分析していて、岡田利規の今回の演出は、この文章を出発点にしているという。

この約100ページの文章から、誤解を怖れずに無理矢理必要な部分を取り出すと、次のようになる。

・不条理演劇とは、日常的状況と極限的状況が併存するなかに、役者の実存をかいま見るという手法である。<友達>は、不条理演劇といえる

・ <友達>は、この「極限的状況」の作りが、不徹底である。つまり、男の家に侵入し、暴力を加える家族が、それを「善意」で行うところに極限的状況があるのに、家族のせりふには、それが「善意」であるとは思われないようなものが混じっている。

つまり、「友達」には、特に、登場する「家族」のキャラクターにおいて、ブレがある、というのだ。彼らの暴力は、徹底的に善意であったほうが、より効果的だ、そのほうが、不条理演劇として、わかりやすいというのである。

さて、岡田利規は、この批判にたいして、<友達>のブレを極限まで大きくすることによって、演劇そのものを極限的状況にしてしまったのではないか、と思う。つまり、別役実のいう「わかりやすい」ものではなく、逆に、徹底的に「わからない」ものを目指すことによって、演劇を観るという体験そのものを、極限的状況にしてしまったのではないか、と思う。

岡田は、プログラムで、「これは、暴力についての作品です」と、テーマをバラしたうえで、「できれば、テーマ以外のところをみてください」と断りをいれている。つまり、あらかじめ、舞台が、意味として論理的に捉えられることを、避けている。

さらに、岡田演出は、観客の目を、作者安部公房の意図とは違うところに持って行く。これが、とっても面白い。たとえば、謎の家族に突然自分の家を占拠された男が、警察を呼ぶシーン。舞台上では、警官と男と家族のやりとりがつづくのに、なぜかスポットライトは、全然せりふのない、中年のさえないおばさんである、この家の管理人に当たり続ける(客席からは、笑いが起こる)。たとえば、なぜかカラダをグニャグニャさせながら、ものすごい体勢でせりふをしゃべる「家族」の父親。なぜこのせりふを、逆立ちしながらいうの? 父親の身体のすごさに目がいってしまう。

つまり、戯曲の持つ「物語/言語」という、論理的なテーマに、岡田は、そうではない、たとえば身体のような、非論理的なものを、相反するものとして、併存させる。そして、そのとき、その向こうに、何かが浮かび上がる。この「何か」とはなんだろう。言葉にしてしまったら、演劇は終わってしまうのだろうけど、考えさせられる。

演劇は、言葉(戯曲)と、身体(役者)が、同時に併存して、初めて完成する。通常、演出家は、戯曲の言葉を優先させる。つまり、演出は、戯曲の言葉を補強するために、つけられる。言葉という論理が上位という関係が、暗黙のうちに前提となる。

ところが、今回の岡田演出は、言葉と身体に、優劣がないし、ふたつがぶつかりあうこともない。演出が、常に、戯曲の意味に、ゆるやかに疑問を投げかけ続ける。なぜここで、その演出なの? と。演出は、むしろ身体という、非論理の部分に、スポットを当てつづけるが、それは、言語を意識しつつ、変幻自在に行われる。だから、戯曲の側からも、演出に対して、常に、疑問が投げかけられるという、不思議な関係が生じている。

ここがすごい。最近の演出家には、言葉か身体、どちらかを、一方的に優先させる人はたくさんいるけど、なかなか、同時に、可変的に扱うことは、できていないと思う。岡田は、どちらかに権力が偏ることを、徹底的に避けている。言葉と身体は、一瞬ごとに、ぐにゃぐにゃと関係を変化させる。これは、普段の演劇の観方をしている僕ら観客を、相当に戸惑わせる。普段の演劇は、演出か、戯曲、どちらかの側に、権力があって、観客は、権力の側に寄り添いながら観れば、それでことたりるのだ。僕らは、演出と戯曲が併存する舞台をみて、どこを観たらいいのか、どういうふうに「把握」したらいいのか、わからなくさせられる。そして、たぶん、そこに、この演劇の目的がある。

「関係性」を把握させないようにという岡田の意志は徹底していて、たとえば、役者が、つねに観客をみて、観客を十分に意識していることをアピールしつつ、演じるという、独特のあり方も、観客と役者という関係を、ゆさぶっていたりすると思う。

だけど、なんとなく、こういう、極限的状況のもとで、論理という権力から逃れるという構図は、安部公房の基本的なテーマでもある、という気がする。「友達」でも、男が、犬になるシーンがあって、ここは、論理を越える、すごく面白い場面だと思う。そして、岡田は、そういう、安部公房が、はじめから持っていた、論理にたいする、ゆさぶりかけるような力を、増幅して、大きくしたのだという見方もできるかもしれない。

こんなふうにたくさん言葉を費やして語ってみても、極限的状況である、この舞台の、体験としての魅力は全然伝えきれていない。レビューは、言葉しか使えないので、もどかしい。カラダが、うずうずする。頭が、燃える。それは、演劇というより、なにか別の、新しいものを見せられたことによって、僕のカラダが、普段の理性を越えたなにかを芽生えさせているということだったら、面白いのに。

人間の、理性の檻から、逃れたい、と思った。

ワオーーーーーーーーーーーーーーーーーン。
まほろば

まほろば

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2008/07/14 (月) ~ 2008/07/21 (月)公演終了

満足度★★★★★

まほろばという場と、やりとりへの切実さ
『鳥瞰図』『混じりあうこと、消えること』ときたシリーズ同時代も、とうとうこれで終わり。とっても寂しい。ものすごく充実したプログラムだった。

『まほろば』は、切実で、それでも、その切実さがどうしようもない笑いを誘う、女性たちの物語。僕ら男性が、なんだか、絶対に、立ち入ることができないような、そういう場が、世代を越えた女性たちの会話劇の中に、作られる。

観て、良かった。僕は、この劇の話を、誰かにしたくてしょうがないのです。

ネタバレBOX

たとえば、なにかを「コレクション」するのは、圧倒的に男性だそうである。山田五郎氏は、「男は子ども産めないからじゃないですかね」と言っていた。どこかで、僕ら男は、子どもを産むということに、何かで補完しようとするほどに、憧れを抱いているのかも。というわけで、男性が書いた、女性の妊娠/出産についての会話劇である。

全く無駄のない会話の応酬に、2時間弱があっという間。緻密な人間観察が生み出す、それぞれが人生に必死だからこそ生じる笑いに、とてもたくさん笑った。すごく、よくできた台本だと思った。また、会話の場で、しゃべっていない人物の表情やしぐさがとても細かくて、おかしくて、何重もの無言の言葉がしこまれているようだったけれど、これらは台本にないので、演出と、役者さんたちの力だろう。

世代や立場を越えて、女性達が、妊娠や出産に対する思いをぶつけ合う。人生がかかっていて、みな必死。やがて浮かび上がるのは、お互い、やりとりを欲しながら、どうしたらいいのかわからないもどかしさだ。どうやって相談したらいいのか、どういうアドバイスをしたらいいのか、わからない。立場の違いを意識してしまう。

これらを、端から見ているおばあちゃんと、11歳の女の子が、とりもつのである。彼女たちは、立場に頓着しない。それでいて、空気を読んでいないわけではなくて、実は、自分の立場しかわかっていない大人たちよりも、よほど冷静に、場をみつめているのである。

人同士のやりとりが希薄になっている世の中。それぞれの立場が多様化して、複雑になって、話しても、通じない、とあきらめてしまう。バラバラになってしまうようだけれど、「祭り」という「場」が、おばあちゃん(後期高齢者だ)や子どもという、立場を越えた人が、つなぎ止める、そんな可能性が、ここには示されていると思う。

可能性、というより、願望、かもしれない。まほろば、という理想郷の物語であってみれば。でも、人同士のやりとりに対する、切実な思いは、絶対にあって、そのために絶対に必要である言葉を、最大限に使って、表現する作家が、演出家が、役者さんたちが、ここにはいて、そこに、ほんの少しでも、希望を、見ようと思うのである。

妊娠/出産に、どこかで憧れる、男性が書いた劇なので、もっと色々、どろどろした部分なんかも、本当はあるのだろうと思う。でも、そういう部分を含めて、この劇は、やりとりを生み出す場をつくろうとしていると、思った。この劇を通じて、なにかを、やりとりしたくなるのである。

だから、僕は、この劇の話を、お母さんや恋人と、したいと、思った。
ハイバイ オムニ出す(チケット売り切れましたが特別追加公演やります。)

ハイバイ オムニ出す(チケット売り切れましたが特別追加公演やります。)

ハイバイ

リトルモア地下(東京都)

2008/10/19 (日) ~ 2008/11/05 (水)公演終了

満足度★★★★

お腹で観るフランス
ハイバイのオムニバス公演、二日目は、「常/いつもの」と「仏/フランス」の二本立て。

これがまた、とんでもなく強烈だった。

ネタバレBOX

強烈。いまだに、お腹(腸の辺)で、凝縮された、無駄に高い栄養価が、消化されずに暴れ回っているみたい。うう……苦しい。ああ、でもまた食べたい。

「フランス」は、タイトル変わって「コンビニュ—あるいは謝罪について」。もともと岩井秀人が他劇団に書いた本らしいけど、これ、物語、ほとんどなし。自分のミスを謝らないコンビニ店員に対して、「あやまってよ」「あやまりませんよ」と、ひたすらやりあう。それだけ。どこまでもミクロな物語……というか、話。

基本、ふたりしかいないのに、俳優は四人。これを、フランス人、ヤン・アレグレ氏の演出法をまねて、使っていい表現手段の縛りを与えたら、あとはアウトラインだけ決めて、ほぼ俳優まかせに作ってもらったのだそうな。

すると、俳優たちは、あまっている人は、感情を表現したり、雨を表現したり、コンビニのカウンターになったり、タバコになったり、入れ替わり立ち替わり、なにかを必死に表現する。これが、必死なのだけれど、伝わると伝わらないとの間のラインを、スレスレ、行ったり来たりする。

これが、奇跡的に面白いのは、「あやまってよ」と「あやまりませんよ」という、コミュニケーションのずれをあつかう物語が、表現手段を限定された俳優たちと、分かろうとする観客たちとのずれと相まって、どんどん、勝手にぶれ幅が大きくなっていくところ。

最後、俳優たちは、白いボードに筆で、地球みたいなテキトーな絵を描いて、ふわふわピョンピョン。この辺りで、舞台と客席との間をつなぐ、コミュニケーションの糸は、極限までのびきっていて、伝えようとするベクトルと、分かろうとするベクトルが、ものすごい勢いですれちがう。

実は、これは、アフタートークによると、「観察」と「宇宙」という条件で縛られていたらしい。そんなのわかるかい。わからなくていい。すれ違う、その瞬間、それこそが、この舞台なんだと、感じる。

それは、物語のうえで、「寿司ネタ」として表現される「あやまってよ」と、「シャリ」として表現される「あやまりませんよ」の、宇宙規模のすれちがいそのもの、という気がする。すれちがうやりとりが、手を替え品を替え、まさに体感させられる。

きっと、観た人全員、ひとつひとつ、違うものを観たような気がしているのではなかろうか。つまり、舞台上で行われているのは、種とか、卵とか、そういうもので、何か方向性だけがしっかりあって、目的地の輪郭だけがぼんやり見えているから、観ているこちらも、もやもやうずうずするのだろう。なにが出てくるか、もしくは出てこないかは、ひとりひとりにゆだねられているのだ。

これは、頭や目を使って観るものというより、お腹を使って観るものという気がする。それは、ひきこもっている間の、自分のポテンシャルの影がお腹で暴れる感覚と似ていて、ハイバイの、根幹を、成している気がする。
SISTERS

SISTERS

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2008/07/05 (土) ~ 2008/08/03 (日)公演終了

満足度★★★★

じわじわと、潜っていく。
どうしてだろう。長塚圭史という人の、覚悟みたいなものを観た、という気がしている。責任を、引き受ける、そんな感じ。すごく面白かった。

ネタバレBOX

独特の、劇的なせりふまわしに、驚いた。「町に行け!」「町なんて退屈だわ」など、どこか、英米の翻訳劇チックないいまわし。今時のはやりを指向していないということを、はじめから表明しているのかな、と思う。

セットも、リアルなホテルの一室……にしては、随分しらじらしい、昔のホラー映画に出てきそうな感じ。壁から床にかけて、グワっとわざとらしく開いている大きな亀裂(こんなに目立つのに、作中、誰も、ひとことも、言及しない)も、はじめから、観念の世界を、現実に重ね合わせるという意図を表明しているかのようで。

そしてとどめの、松たか子の演技(凛とした佇まいに惚れ惚れします)。彼女の演じる馨は、非常にそらぞらしく、劇的な言葉を、淡々と、かくかくと、だからこそヘンに芝居がかってみえる、そんな演出。

こんな、どこか……いや、はっきりと、そらぞらしい状態が、結構つづく。ちょっと、つらい。観客が入り込むことをこばむ感じ。意図的に。それでいて、ことばの端々に、なんだか色々なことをほのめかすような部分があって、聞き逃せない。目より、耳を使って、聴く芝居。

これが、全部、じわじわと、土に水がしみこんでいくみたいに、少しずつ効いてくる。物語が、潜っていく。過去に、空間に。そして、観客にも。

前作『失われた時間を求めて』を観て、失敗だと思った。それは、日本という演劇の確固とした歴史のない国で、歴史が必要な、海外の不条理劇をふまえてしまったから。欧米の演劇には、しっかりとした伝統があって、いくつもの型がある。不条理劇は特に、ある種の型を前提にして、それをひっくり返す。型のない日本では、ひっくり返したいものが何なのか、全くわからなくなってしまう。でも、観ながら、長塚圭史さんは、欧米的な、伝統に基づいた型みたいなものを、歴史みたいなものを、求めているのか、と思った。

今作の、あの前半は、僕らに、歴史を植え付けようとしていたのか、と思った。歴史がないなら、作ってしまえと言わんばかりに。物語が潜っていくとき、まっすぐには潜らない。核心を、微妙に避けて、螺旋を描くみたいに、沈降していく。僕らは、前半、頭に焼き付けた、この物語の歴史を総動員して、自分たちで、核に迫らざるを得ない。絶対的な言葉はでてこない。でも、「一度言ったことをなかったことにするのは難しい」のだ。そこに、僕らの、劇作家への信頼は生まれる。なかったことにはしない、ということ。作家は、観客を信じている、と思った。応えよう、と思った。

歴史をふまえる、ということは、責任を引き受ける、ということだ。引き受けない人々と、必死に、逃げようとする自分を抑制しながら、正面切って対決しようとする馨の姿が、とても痛々しくて、でも、驚くほど、目をそらせなくて。僕は、この物語を、引き受けようと思った。そして、どうやら、自分の歴史を自分で作ることを覚悟したような作者の思いも、引き受けようと思った。

全部、気のせいかもしれないけど。
人形の家

人形の家

シス・カンパニー

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2008/09/05 (金) ~ 2008/09/30 (火)公演終了

満足度★★★★

いきのいい、古典
面白かった! バルコニー席だったので、劇場中央の囲み舞台を見下ろす形。キャストも、しっかりと自分の味を活かして、新しいキャラクターを創りだしていた。

それよりなにより、驚いたのが、百年以上前の戯曲の、面白さ。あらすじと、社会的な意義を知っているだけで、どこかおそれて、手を出さなかったことが悔やまれる。デヴィッド・ルヴォーさんの演出は、古典の面白さを知り尽くしている人のそれ。手を入れるのは、最小限。戯曲そのものの面白さを、存分に味合わせてくれた。こんな面白い作品に、素晴らしい舞台で出会えてよかった。

帰りにブックファーストで戯曲を買った(新潮文庫)。

ネタバレBOX

物語自体の面白さが、舞台の良さを引き出しているのはもちろんだけれど、新潮文庫と比べてみて感心するのは、言葉の選択だ。それが、全く意味を変えずに、現代を映す。

「床についたきりの母親の世話」は、「母の介護」。「昔のことを思い出して怖がっている」は、「昔のトラウマ」。「介護」や「トラウマ」という言葉を選ぶセンス。セットなしの囲み舞台も相まって、こういうささいな気配りだけで、19世紀は、ぐっと身近な世界になる。会話劇、しかも翻訳ものだということを、時宜にかなったな言葉たちは、一時、忘れさせてくれる。会話劇の面白さを知っているからこその、心配りだろう。

役者たちの、自分のキャラクターを活かした、のびのびした演技もいい。スターの風格十分な宮沢りえや堤真一は言うに及ばず。脇役たちも、それぞれ、自分のキャラクターを加味して、より現代的な、生き生きとした人物たちを作った。

特に、今の時代に、スポットを当てられるべきだと思ったのは、ノラを強請る、クログスタ。あらすじ化されてしまうと、影も形も出て来ない彼だけど、彼こそは、この物語のもう一人の主役なんじゃないかと思った。世間に不当に蔑まれていると信じる彼の、ノラへの強請りには、世の中に対する復讐心がこめられているよう。人同士のやりとりを失った現代、ことに目にするようになった心象がここにある。

三幕で、彼は、人とのつながりを取り戻し、救われる。そして、ノラへの仕打ちを悔いて、全てを取り消す。現代を生きる僕は、ノラの自立以上に、彼が救われることに、心を打たれた。彼を演じる、山崎一の、思い詰めた無表情の向こう、おびえた目を持つ佇まいが、さらに響いた。

「斬新なアプローチ」といううたい文句から受ける印象とは、随分違った舞台。デヴィットさんの意図は、くり返すが、戯曲そのものの持つ、普遍性を、そのまま現代に示すという、明確なもの。普遍性は、常に新しさを持つという意味では、斬新といえるかもしれないが、それよりも、近代演劇の祖といわれる作品の面白さを見ることで、近代演劇そのものが持っている、基本的な面白さを教えてもらったような気分。本当に、清々しい気持ちで、劇場を出た。カーテンコールでの、みなの、生き生きした表情も、印象的だった。
ハイバイ オムニ出す(チケット売り切れましたが特別追加公演やります。)

ハイバイ オムニ出す(チケット売り切れましたが特別追加公演やります。)

ハイバイ

リトルモア地下(東京都)

2008/10/19 (日) ~ 2008/11/05 (水)公演終了

満足度★★★★

ねじれ、よじれる、可能性。
ハイバイの新作は、4つのジャンルのオムニバス。初日は、4つの中から、「SF」と「落語」。これが、とっても面白かった。

ネタバレBOX

オムニバス上演、最近、やたらと目にする形。それらの多くは、「手軽さ」をウリ、目的としているみたい。今回のハイバイの『オム二出す』も、お手軽で、とても初心者に優しいものになっている。でも、もちろん、それだけじゃない。僕は、オムニバス形式って、ハイバイのエッセンスそのものという気がする。

オムニバスという上演形式が、これほどしっくりくる劇団もないのじゃないか。ハイバイの作品は、いつも、一つの作品でも、なんだか、いくつもの作品を同時に観たような気になるのだ。

さて、初日に観た2作品だけれど、やっぱり、ハイバイらしいのは、「落語/男の旅—なつこ編」だと思う。

物語そのものは、とっても単純。三人の若者が、フーゾクへ。三者三様のフーゾク模様。役者さんは、一人で、その場の何人かを、落語よろしく、同時に演じる。時には、二人で四人を演じたり、三人で四人を演じたり、変則的なことも。

ホンモノの落語と違って、演じるので、一人をちょっと演じて、無言で場所を移って、もう一人を演じる。これで、例えば、ひとりでセックスしてる二人を、やったりする。爆笑をさそいながら、同時に、物語に、微妙なズレが生じる。つまり、役者さんが、役を入れかわるタイムラグが、物語そのもののズレと、まったりと重なっていて、最後は、一瞬、物語が、完全に二つに分岐してしまう。

これは、ちょっと、わかりにくい。観ていて、爆笑しながらも、気を抜くと、すぐに置いていかれそうになってしまう。そしてそれこそが、ハイバイの魅力のひとつだと、僕は思う。

ハイバイの作品は、けっこう、構造が複雑で入り組んでいる。それは、表面上の物語が単純にみえるだけに、いっそう不気味に、ぼんやりと、浮かび上がる。まっすぐには進まない。たとえば、小刻みな反復をくり返す。それは、同じことをくり返しているはずなのに、微妙なズレを生み出したりする。

そうするうちに、ひとつの物語……というより、「話」が、観ている僕の頭のなかで、どんどん勝手に分岐して、なんだか、無数の可能性そのものみたいにみえてくる。道は、ねじれよじれて、迷路みたい。ひとつの入り口が、たくさんの出口につながっている。

それは、なにやら、人、そのものに、触れている気がする。僕のカラダの底にある、敏感な所に、ぴとっとふれる。

僕にとって、それは、あまり気持ちのいいものではない。やめてよ、というほうが、どちらかというと強い。でも、それなのに、ハイバイの舞台を、とても楽しみに観てしまう。ハイバイは、観客をも、ねじれ、よじれ、させるのかもしれなくて、それは、気持ち悪くて、気持ちよいのかも、そんなふうにしか、いえない気がした。
ローゼ・ベルント

ローゼ・ベルント

燐光群

調布市せんがわ劇場(東京都)

2008/06/30 (月) ~ 2008/07/13 (日)公演終了

満足度★★★★

目を、見開かせる。
一年を象徴する漢字として、「偽」が選ばれたのは去年の暮れ。相変わらず、世界は「偽」に満ちている。

とはいえ、僕らはすぐに、慣れて、そして、忘れる。「偽」も、忘れる。でも、この演劇は、そうさせてくれない。無理矢理、僕らの目をこじ開ける。

世界を、見せる。僕らの目を、見開かせる。涙を流すひまもない緊張感で迫る。そんな舞台だった。

ネタバレBOX

ハウプトマンという人(ノーベル賞文学者)の、100年以上も前の作品を、坂手洋二さんは現代とつなげてしまった。舞台は精肉工場。日常的に偽装が行われていて、それが当たり前になっている世界。

工場で働く美しい娘ローゼは、工場を経営する社長と不倫している。彼女は聖職者との結婚が決まっているが、不倫関係を知った工場の技師にゆすられ、身体を要求される。嘘を嘘で塗り固める暮らしの果てに追いつめられたローゼの取った行動が、裁判沙汰に発展し、偽装に満ちた、食肉工場という世界そのものの破滅につながってしまう。

社長、その妻、技師、ローゼの父親。大人達の世界は、「偽」に覆われている。そして、それが当たり前すぎて、そのことに気づくことさえできない。

終わりの見えない泥沼の裁判の中、狂ったようになってしまったローゼをみながら、社長はいう。「ローゼは、私たちをみて、私たち(のような、嘘にまみれた大人たち)が当たり前の人間だと思い込んでしまったんだ。これは私たちの責任だ」と。これは、響いた。「偽」の世界を当たり前だと思って育つ子ども達の国は、どこへ向かうのか。

もとは、地主と小作人たちの物語だったという。設定を理解していない最初のうちは、いつの物語なのかわからなくてとまどってしまったけれど、いつの間にかどうしようもなく現代的な、そしてとても普遍的な物語が見えてくる。

簡素で抽象的な舞台装置が、僕ら観客に、比喩を読み解くことを暴力的に要求してくる。なにもない舞台を工場として見ようと、僕らの無意識がアナロジーを読み取ろうとがんばるうちに、それぞれの人物が、何を見ようとして、なにを見まいとしていたかが、見えてきてしまう。世界の裏の、見たくないものに、気づかされてしまう。それは、汚い世界を見まいとして、目を閉じようとするうちに、どんどん嘘に追いつめられていく、そんなローゼの苦しみと重なっていく。

ローゼ役の占部房子さんの、ラストの狂気は、共感すら受け付けないほど。美しくて、恐ろしくて、文字通り圧倒的。僕は、涙を流すことも許されない。演劇の持っている、暴力的な力に、ただ圧倒された2時間。

新設のせんがわ劇場は、狭い。椅子が、小さくて、固い。お尻が、痛い。長くて、休まるゆとりのない劇なので、ちょっとつらかった。
鳥の飛ぶ高さ

鳥の飛ぶ高さ

青年団国際演劇交流プロジェクト

シアタートラム(東京都)

2009/06/20 (土) ~ 2009/06/28 (日)公演終了

満足度★★★★

どこまでも遠い、すぐ近く
 色々すごいなぁ、と圧倒されてしまったお芝居。なんというか、舞台から客席に向かってすごいプレッシャーが迫ってくるかんじ。なにか、大きなことが問題になっているんだけど、舞台上では答えは出なくて、宿題として渡されちゃったような気もする。

ネタバレBOX

 フランスで、30年前に書かれた戯曲を、平田オリザが舞台を日本に置き換えてリライトしたもの。日本人の俳優たちが、日本語で、日本の話をするのに、舞台そのものは、どこかシェイクスピアみたいなヨーロッパ風なつくり。平田オリザさんの日本化が、ヘンに上手にできすぎてるのだろうか、日本的な表面と西欧的な構造のギャップが、舞台を観づらくしていた気もする。

 テーマは、企業買収。日本の便器メーカーが、フランス資本に買収されるまでの物語は、シェイクスピアの歴史劇ライク。絶対君主の社長が倒れて、二人の息子が争って。フランス企業の介入を、最終的には受け入れて。そういう様子が、形式どおり、わりとドライに、描かれる。「経済演劇」というより、これは伝統的な「歴史劇」を、現代に置き換えたものなんじゃないかなと思う。

 この舞台は、日本側の元社員のひとりが、現実にあった買収劇を趣味で戯曲化したものの上演、という複雑な設定。なので、作者は、ちょくちょく劇中の役を離れて、作者の立場から観客に話しかけてくる。舞台を外側から眺める視点は、観客に、感情移入をさせない配慮だと思う。つまり、問題になっているのは、ひとりひとりのヒトではなくて、「買収」という経済の構造そのもの、ということだろう。シアタートラムの窮屈で広い舞台と、青年団俳優たちの、誰にでも、誰でもないものにもなれる「ニュートラルな身体」は、ヒトのカラダを使う具体的な演劇を、ものすごく抽象化する。俳優たちを置き去りにして物語は進む。これはすごいな、と思う。すぐそこにある舞台とカラダが、どこまでも遠く感じる。

 そして「買収」も、スイッチが入ってからは、する側、される側、双方の人間たちを置き去りにして、どんどん進む。最終的に、日本側の社長とその弟は、いつの間にか、喜んで会社を離れる。買収する側のフランス人も、ひとりは日本の社長と一緒に会社を去っちゃう。残ったひとりも、そのへんで見つけた次の人材に会社を渡す、橋渡しにすぎないかんじ。誰もいなくなって、買収のすんだ会社だけが残る。全員死んで、不安だけが残る、シェイクスピアの悲劇みたいに。

 怖いのは、これが、喜劇としてつくられてることかもしれない。作者は、最後に、この舞台の幕切れは、アリストファネスの喜劇をもとに、結婚で終わるようにした、と解説。舞台上の人々も、だれも死なないし、なんだか嬉しそうだし、一見すると喜ばしいのに、やっぱり、その底にあるのは、人間不在の不安にみえた。これは、あからさまな悲劇よりもずっと怖いと思った。

 もうひとつ、怖かったのは、この舞台が、全体的に、とっても人工的だった、ということ。企業買収というメインプロットの脇に、日本神話の話や、ルワンダ虐殺の話やなんかが、並行して語られるんだけど、こういうのが、いかにも「下部構造!」という感じに、説明っぽく分かり易く置かれていて、なんだか、世界の全部を把握して、描こうとする、欲望が見え隠れしているみたいで、怖かった。

 それが、最近の青年団の、なにか、観客たちに「世界」をみせて、必死で「教育」しようとする姿勢と重なって、僕は、なんだかとっても、不自由な違和感を覚えた。
国道五十八号戦線異状ナシ

国道五十八号戦線異状ナシ

国道五十八号戦線

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2008/08/28 (木) ~ 2008/09/01 (月)公演終了

満足度★★★★

消費されないことへの怖れ
ここには、現代社会そのものの、ある側面が、あると思った。

基本的には、口当たりの良い、さわやかなエンターテインメント。上演時間も短く、後を引かない。逆に言えば、あまりにもきれいにまとまっていて、後に残らないとも言えるのだけれど、それこそが、作者の意図とは関わりなしに、世界を映しているのではないかな、と思った。

ネタバレBOX

チラシの持つ、重々しい雰囲気や、非常に濃密なストーリー紹介。果たして、このようなストーリーを、舞台上で、どのように表現するのか。チラシに、トリックが仕込まれているのか。舞台は、上演前から、観客を巻き込んで、ある種の情報戦を、戦わせる。

物語そのものも、情報戦がメインとなっている。核の起爆スイッチを手にしてしまった、どこにでもいる(この、どこにでもいる、という感じが、舞台美術を含めて、徹底的に演出される)若者たちと、外務省の担当官僚と名乗る男との、丁々発止のやりとりが、物語を牽引する。

このような情報戦を、僕らは、日々、経験しているような気がしてくる。例えば、こりっちの口コミをみて、自分の需要に合った舞台を捜す、というように、ネットの世界は、常に情報の海との戦いといえるかもしれない。そして、ネットの情報は、日々消費され、忘れられる。

なんだか、この舞台が、ネットそのものみたいに見えてくる。登場人物たちの設定の説明は、なんだか、ネットのテクストに貼りつけられた注のように、キャプションみたいだ。また、実は、この舞台美術は、沖縄の、祖国復帰運動のときの座り込み小屋らしいのだけれど(アフタートークで触れられていた)、物語中は、ちらりと触れて、スルーされる。情報の詰め込まれた舞台に、後で検索をかけたくなる。

ここには、それが消費されることまで織り込み済みで、世界を情報として捉える世界観が、みえるような気がするのである。実際、鮮やかなどんでん返しが続いたあと、物語は、きちんと折り畳まれて、試みに提示された、ネット活用の紛争抑止システムとともに、すっきりと消えていく。そして、僕は、あっという間に忘れる。この舞台には、あらかじめ、消費されることへの怖れみたいなものはなくて、むしろ、必死で、自分から、消費されようとするみたいなのだ。

僕には、この舞台の中で、そこが、一番面白かった。作者の友寄総市浪は、明治大学の五年生。大学入学を期に上京した、沖縄生まれの沖縄育ち。自分の育った、問題だらけの沖縄が、本土では南国の楽園みたいに捉えられていることへのギャップに驚いたと語っていた。

だが、そういう現実を捉える目は、驚くほどに軽くて、そしてその、鋭さをもった軽さが、武器となって、僕らに、消費を、許す。後は、どれだけ、打ち込めるかだと思う。いつまでも情報が残るネットと違って、舞台は、どうしようもない一回性のものだ。消費された瞬間に、消えてしまう。そして、この舞台も、驚くほどの早さで、「観た」という情報へと消えた。それは、「次」への安心、油断のようなものかもしれないけれど、これは、学生演劇。(五年生とは言っていたけど)「次」は、多分、約束されていて、僕は、それを、楽しみに待とうと思う。
どんとゆけ

どんとゆけ

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2008/10/16 (木) ~ 2008/10/19 (日)公演終了

満足度★★★★

娯楽の責任?
非常によく考えられて、効果が緻密に計算された脚本、美術。
しっかりと、安定した演技。

笑いながら、じっくり、重いテーマに向き合うことができる、希有なお芝居に、嬉しくなる。こんな芝居を観たかった!

ネタバレBOX

裁判員制度が、もうすぐ、はじまる。人を裁くことの責任が、ますますみえにくくなる。でも、それは、国だけの責任ではないと思う。僕ら、国民も、常に、あらゆる責任から無関係でいようとしていて、それが、まわりまわって、国の責任放棄を招いているのだろう。

「死刑」は、一応、国民国家の、一番大切な主権のひとつである。人を、合法的に殺す権利は、近代法のうえでは、国家にしかないのだ。でも、その権利にともなう責任を、国民が引き受けなければならないとしたら。

さて、『どんとゆけ』(Don't you kill は、津軽弁でこう聞こえるとのこと)の日本では、これがさらにエスカレートして、犯罪被害者や遺族が、犯罪者の絞首刑を、実際に行うことができるという、「死刑執行員制度」というものが存在する。

「ロープはどうなさいますか」
「持ってきました」
「おそれいります」

淡々と、被害者の妻と、義父は、作業を進める。ロープは、亡くなった義母が、一針一針縫ったもの。だが、この被害者の若い妻と、彼女の将来を案じる義父との間には、犯人を殺すことに対して温度差があって、それが、物語を牽引していく。

死刑とは、なにか。前法務大臣の、死刑執行のサインに対する批判をめぐる問題は記憶に新しい。ひとを殺すことの責任について、ゆっくり、じっくり、僕ら観客に考えさせる。笑いも織り交ぜられて、負担に、ならない。観るものの視点を中心に作られた、非常にすぐれた舞台だった。

けれども、非常にレベルの高いものだっただけに、残念に思った点がある。この舞台は、問題提起と、娯楽とを、高いレベルで両立させて、その緊張感で、物語を進めていたが、最後に、大きく、娯楽の側に傾く様相を見せるのだ。いってみれば、娯楽としての責任を果たそうとしているかにみえる。

物語には、最後に二つ、オチのような結末が用意されている。

まず、獄中の死刑囚と結婚して、死刑執行の場所となる民家を提供した、死刑囚の妻。彼女は、最後に、死刑囚との結婚を繰り返し、死刑執行を行うことを楽しみとしていることを告白する。

もうひとつは、被害者の妻の、現在の恋人が、「こんなことしちゃいけない」と、乗り込んでくるというもの。

それまで、舞台は、特に被害者の妻と、義父の、気持ちのぶれを中心に描いていた。二人は、この葛藤に、どう決着をつけるのか、観客の関心は、まっすぐに、そこに向けられていた。

それが、最後、突然、角度をカクッと曲げられてしまった。エンターテインメントとしては、これで良かったのかもしれない。しかし、それまで、問題を、舞台を通してじっくりと考察していた思考の緊張感は、オチがついた瞬間に、急速にゆるんでしまった。

舞台は、結局、死刑の執行で終わる。被害者の妻は、乱入してきた恋人を拒絶して、なし崩し的に(ここは、詳しく描かれない)、死刑を行うという責任を引き受ける。彼女の、決意の瞬間は、はぐらかされて、描かれない。これは、脚本が、問題を、娯楽にすりかえる、ある種の責任逃れとして、僕には、映ってしまった。

それでも、ここまで、「責任」という問題と正面から取り組む舞台は、日本では稀だと思う。最後、妙にすっきりと終わってしまったのは残念だったが、それは、葛藤を続けるという文化のない、日本の演劇の限界でもあるのかもしれない。
ちょっとした夢のはなし〈演劇と映画〉

ちょっとした夢のはなし〈演劇と映画〉

中野成樹+フランケンズ

STスポット(神奈川県)

2008/09/18 (木) ~ 2008/09/21 (日)公演終了

満足度★★★★

ちょっとした、理想の、舞台
今は、自由な時代。演劇のスタイルも、多種多様。それは、定まったスタイルが存在しない、無法地帯ともいうべき状況。

そんな時代に観ると、ワイルダーの演劇は、とても地味にみえるかもしれない。でも、1920年代当時のアメリカでは、この、「セットなし」とか、「イスを並べて、自動車にみたてる」というような、今では当たり前のセッティングが衝撃的で、劇場付きの大道具の組合と、裁判ざたになったほど。

当時の観客たちも、きっと、相当びっくりしたのだろうと思うけど、今回の、中野成樹演出は、そういうびっくりを、別の仕方で、再現しようとしていた。僕は、気持ちよく、驚いた。

ネタバレBOX

劇場に入ると、とっても素朴な、木箱みたいな小さな舞台。切り紙のちっちゃな家並みや、草が、ちょこんと貼付けてある。舞台の後ろは、黒い仕切りになっていて、見えない。照明は、勉強机にありそうな、ちっちゃなスタンドひとつ。

隣に、ちっちゃなDJブース。「今日のテーマ/旅」と書いてあって、「ハイウェイ/くるり」とか、今、流れている音楽が書かれたボードが出ている。舞台の真上に、 "NOW PLAYING"の文字。この文字が、後からじわじわ効いてくる。

音楽がやんで、暗くなると、父、母、娘、息子の4人が、私服みたいな普通の格好で出てくる。曲名だったボードは、演じられている場面のタイトルにかわる。

物語は、一家4人で、嫁いだ長女の家に、車で小旅行に出かける、それだけの話。お葬式の行列をみてしんみりしたり、看板のキャッチコピーで遊んだり、ちょっとしたいさかいがあったり。とっても暖かい、一家の旅路。

4人を演じているのは、平均年齢21歳くらいの大学生たち。「欲のない芝居になってると思う」とあるけど、非常に素直に、清々しく、淡々と、結婚25年の夫婦と、高校生姉弟を演じる雰囲気が、あっさりとしたテイストの作品にぴったり。観客席は、ほほえましく、舞台を、見守る。

第一次大戦後の話なので、作品には、ほんのり、死の影が。これから訪ねる長女も、実は、死産で、母体も危なかった。でも、その話はほんの少し。ご飯の話をしている内に、ずっとブースにいたDJが立ち上がって、仕事から帰ってきた長女の旦那さんとなる。そのまま、みんな下がって、終了。

すると、舞台の後ろの、黒い仕切りが取り払われて、壁をべりべりっとはがすと、その裏に、 "PLAY LIST"とあって、「看板で遊んだ」とか、「ホットドックを食べた」とか「こっそりお化粧をしてみた」とか、舞台上で演じられた、一家の旅行で起きた、些細な出来事が、全部びっしり書いてある。

びっくりした。そうか、DJは、虚構の舞台と客席とを結ぶ、ステージマネージャーだったのか、とわかる。そして、ああ、この演出は、舞台は虚構で、日常の些細な出来事にこそ、真実があると言い続けた、ワイルダーを読み込んだ成果なのだろう、と思った。

「誤意訳」とあるが、戯曲との違いはわずか。原作には、この、理想的な家族のいる、理想的な社会が、既に終わりに近づいていることを暗示させるせりふがいくつかあるけど、主に、そういうものが、カットされている。このちょっとした剪定も、「トレントン・カムデンへの、幸せな旅行」という題を、「ちょっとした夢のはなし」と変えたのも、理想の終わってしまった現在が、それでもかわらないものと一緒に、浮かび上がることを意図してのものだろう。だから、観劇後、どこか切ない。

続けて上映された映画は、同じ原作で、同じキャスト。舞台では許される「虚構」が、まっとうな演出になると、とたんに許されなくなる。面白かったけれど、ワイルダーとは関係ない作品になってしまっていて、物足りなかった。

中野成樹は、本当にワイルダーが好きな様子。「いつか、ワイルダー祭『わいわいワイルダー』をやりたい」と、冗談半分に言っていたが、本当にやってほしい。次も観たいと思わせる、地味だけど、確かな作品だった。
音楽劇 夜と星と風の物語

音楽劇 夜と星と風の物語

THEATRE1010

THEATRE1010(東京都)

2008/07/26 (土) ~ 2008/08/03 (日)公演終了

満足度★★★★

たくさんの自分、ひとつの自分
『夜と星と風の物語』は、じわりとしみ込む物語だ。きっと、観た人全部の中に、地下水脈としてたたえられていることだろう。

それは静かに、いつかきっと、何かの機会にしみ出して、乾いた心を潤してくれることもあるだろう。そんなことを思う。なんだか、今すぐではなくて、何年か先だとか、何十年か先の僕らに向けて演じられているような、とても不思議な舞台だった。

ネタバレBOX

当たり前のことだけれど、舞台には、役者という人がいて、そのことに、とても安心する。役者は、誰かを演じているのだけれど、大体において、舞台の上に居る間は、特定の誰かとして、そのまま、居続ける。

最近の前衛演劇の世界では、そういう、役者が特定の誰かになることに異を唱える流れがある。現代を生きる僕らは、いくつもの自分たちのなかを生きていて、「自分」として、一人の人物を特定する必要はないと、そういう流れにある人々は考える。そして、一人の人物を、例えば、複数の役者たちが同時に演じたりする。

自分は、何人いるものなのか。それは、時代によってかわるものである。近代と呼ばれる時代以降、長い間、自分は一人である世界が続いた。でも、それは、終わろうとしているのかもしれない。

自分の数はかわっても、からだの数は、ひとつ。そこに、演劇の、根本的な、救いは、ある。そういう気がする。

舞台上には、飛行士、飛行士の恋人、飛行士の両親が、登場する。けれど、今、記した、「飛行士」は、それぞれ、別人でありながら、同じ人物のようでもある。自分の数が、無数でありながら、ひとつなのだ。たとえば、飛行士は孤児で、彼の両親は、砂漠で、行方不明になった。つまり、「飛行士の両親」の息子と、ここにいる「飛行士」は、別人だ、ということになる。でも、今、この両親は砂漠をさまよっていて、そのまま、帰らなかったとしたら、「砂漠で行方不明になった」ことにはならないか。また、彼らは、昔、飛行士と、飛行士の恋人として、墜落した砂漠でさまよったという、今現在の記憶を共有しており、飛行士と恋人は、彼ら自身であるようでもある。こういう具合に、彼らは、ほとんど共通の記憶を共有しながら、すんでのところで、重なることができない、いくつもの自分たちなのである。

星の王子さまは、こんなことになってしまったのは、自分がやってきて、時間が混乱してしまっているからだ、という。そして物語は、この混乱を収束するために、後半、猛スピードで疾走し、からまりあっていた時間は、鮮やかにほどけていき、そして、ほどけたその先には、誰も残らない。

なんと静かで、不思議な物語だろう、と思う。このような、目に見えないものを描こうとする、抽象的な物語が、目に見える舞台という形をとろうとする。それを可能にするのは、舞台上に、役者という身体がいる、ということだ。彼らが動き、話し、歌うことで、僕らは、そこに描かれている抽象の向こうに、人の営みが捉えられていることに、そうとは知らずに気づくのである。

舞台の袖で、音楽も、生身の身体によって、奏でられる。抽象を表現する全てが、あえて、全ての要素をそぎ落とされたとしても残らざるを得ないだろう、ひとつの身体たちによって、具体的なものとして現前される。

そして、僕らは、確かに、そこに、居たのである。きっと、その場にいた他の誰かと、この舞台の話をしても、通じあうことはないかもしれない。みんな、違うことを感じたかもしれないのだ。それほど、今は、立場が、たくさんある。それでも、確かにそこに、一つの身体として居たというそのことだけは、きっと、共有できるのである。それは、たとえば未来の僕が、今の僕と、記憶を共有できなくなっているとしても、そしてそこでは、自分の数が、今と違っているとしても、やっぱり、通じ合える、ただひとつの確かなことなのだろうと、思う。
いつか見る青い空

いつか見る青い空

弘前劇場

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2008/11/07 (金) ~ 2008/11/09 (日)公演終了

満足度★★★★

青い空はいつか
深くて、怖い、作品だった。

東京って、なんだろう。そんなことは、普段、あまり考えない。僕には、当たり前に、東京は東京で、それを、単純に、「現代」だと思っていたふしがある。それが、弘前劇場の新作を観て、ぼろぼろに崩れてしまった。東京=現代では、決してない。そう知ることが、怖いことだということさえも、僕は、これまで、知らなかったのだった。

ネタバレBOX

禅寺で、座禅を組む人の後ろ姿が見える。ぴくりとも動かない。線香の煙だけが動く、静かな空間。なんだか、静粛な面持ちで、みんな、開演を待つ。



開演。いったん暗転して、パッと明かりがつくと、一人の男が、もう一人を、長ドスで刺している。血がたれている。本物の液体がしたたる音が、ぽたりぽたりと、聞こえる、静寂の中の暴力に、圧倒される。よく見ると、ドスは、すんでのところで、受け止められている。刺さってはいない。



「左手は、もう使い物にならないだろうね」

「すいません」



その後のやりとりで、これは、殺された親の仇うちだ、とわかる。静かに、このシーンは終わって、また、もとの禅寺に戻る。そして、その後につづく物語は、実に平和な、禅寺に集まるひとびとの、日常生活の様子なのだ。



観客として僕は、このギャップに、くらくらする。あまりにも強烈に焼き付いた冒頭の暴力がこびりついているもんだから、日常生活のシーンを観ていても、その底に、死の匂いを捜してしまう。そして、それは、せりふの端々に、小道具の中に、役者の表情の影に、周到に、配置されている。折しも仇うちに失敗して逃げていた若者が東京から帰ってくる。



若者は、ごくごく普通に、みんなと接する。殺し損ねた仇とも、普通に接する。暴力の影は、表面上は、みじんも見せない。当然、周囲の人々も、生活している以上、みな、悩みを持っている。実はガンだったり、実は妊娠していたり、それでも、それらの、どうしたって避けることはできないものと、みんな、しっかり向き合っている。だから禅寺に座禅を組みにくる。そして、悩みは当たり前のものなので、特に表に出したりしないのだ。



舞台は、その後、日常生活のさなか、青年の仇うちが再び実行され、ドスが突き刺さる一瞬、研ぎすまされた暴力を、両手を広げて受け入れる、仇の男のシーンで、瞬間的に終わる。

つまり、この作品は、とてつもなく強烈な暴力を、冒頭と末尾に配置して、強固な枠組みを、作っている。平穏にみえる日常は、この暴力の枠内で行われるにすぎないのだ。

枠として、悩みの究極、不条理そのものとしての生死の問題が暗示されているので、その中で行われる日常が、普通のものであればあるほど、人間を捉えてはなさない不条理な部分が浮かび上がってくる。逆にまた、生死を意識しつつ見る日常は、特別にはっきりと映る。さらに、はっきりとしたスジがないだけに、登場人物としての役を越えて、演じている役者そのものが、人間として、浮かび上がる。そうなるように、作られている。



さて、ここで、「東京」が浮かび上がる。僕は、長谷川孝治関連の舞台は、これでたったの三回目。なのに、弘前劇場の役者たちが、名前からなにまで、しっかりと頭に残っている。僕が東京で舞台を観始めたのは最近だけど、観始めのころ、役者を覚えることの難しさにびっくりした(今もあんまりかわってないけど)。同じ劇団でも、公演ごとに役者は全然違うし、見るたびに印象がすごく違ったりして、捉えるには、努力がいるのだった。東京の舞台は、誰がやっても大丈夫なようにできていて、つまり交換可能で、役者たちも、演じるものとして、できるだけニュートラルになろうとしているのかもしれない。役をプログラムとして、その都度インストールするように。



あまりにも流れの速い世界に、即時対応するべく、なるべく、ノイズのもとになる「自分」が固定化しないように、ニュートラルを保つ。それは、東京で生きる、僕の生活そのものなのだった。そして、弘前劇場の、青森という土地の、「自分」を受け入れて生きる世界が、空よりも、地面を見ることを受け入れる姿が、うらやましく感じた。



だが、同時に、この作品は、その、人間としての「自分」みたいなものを、どこか、「逃れられないもの」として捉えており、そのうえで、その「自分」からの「逃れられなさ」に対する、無抵抗のもがきのように描いているような気がする。タイトルには、そんな思いが込められているんじゃないかな、と思う。



ガンにおかされた魚屋さんと、禅寺の次女との禅問答のシーンがある。次女の答えが観念的になると、魚屋さんは、「それは形而上」とたしなめる。魚屋さんは、自己の肉体に、つまり形而下にとどまるように説いているのだけど、そのように、形而下が志向されればされるほど、逆に、形而上への、あこがれのようなものを感じてしまう。そしてそれは、肉体を、形而下を、「牢獄」と表現したプラトンみたい。肉体を、自分自身を、必死で受け入れようとする姿は、逆に、肉体(自分の根付いた、土地の比喩でもあるだろう)への嫌悪、受け入れようと努力しなければ受け入れられないという思いを感じさせるのだった。



だが、東京で、僕が行う、自分を、ノイズと捉え、ニュートラルにしようとする、その作業も、果たして、自ら進んで、望んで、そうしているのだろうか。当たり前に行っていることが、あまりにもゆるぎない「自分」を見せる舞台の前で、今、揺らぎ始めてしまっている。

シャープさんフラットさん

シャープさんフラットさん

ナイロン100℃

本多劇場(東京都)

2008/09/15 (月) ~ 2008/10/19 (日)公演終了

満足度★★★★

シャープなギザギザ・ブラックチーム
こまごめとなりさんのレビューに「最近、作り手の苦悩を見せる作品に触れる機会が多い気がする」とある。僕も同感だ。「作り手」の苦悩の多くは、「作り手」に向けて、苦悩を訴えるもの。「作り手」という人たちが、それだけたくさんいるということだろう。「作り手」たちの内で閉じた、不健全な市場だと思う。

だから、満員の本多劇場で、ナイロンの芝居を観ていると、観客の多さに、安心する。この作品も、「作り手の苦悩」を描きながら、きちんと、僕ら、観るものに向けて、作られている。2バージョン同時公演なんていう、観客に負担を強いる公演も、喜んで受け止める、作り手ではない、観客という人たちも、たくさんいるのだ。

ネタバレBOX

自伝が、2バージョンあるという時点で、まず、ギャグだと思う。僕らは、このことを通じて、この作品が虚構であるということを教えられ、好きなように観る自由を、与えられる。

主人公は、逃げた座付き作家の辻煙だけれど、物語は、彼が逃げ込んだ先のサナトリウムに暮らす人々、それぞれの抱える物語を、同時に、描く。要約不可能なほどに、拡散していく物語が、2バージョン、用意されることになる。

ブラックチームからは、波のある舞台、という印象を受けた。安定しない。時に、ついていけないほどに拡散したり、ある場面が観客を置いて、どんどん深く潜っていったりする。でも、反面、時に、異様な盛り上がりも見せる。

それは、チーム編成によるものだと感じられる。つまり、バランスの悪さは、あらかじめ、意図されているのだろう。主要なキャストがナイロンメンバーで占められたホワイトチームに比べ、ギザギザの度合いが違う。物語においても、劇中の悲劇が、各人に分散されていたホワイトチームとは違い、ブラックでは、より、辻煙を演じる、大倉孝二に向かって、一方的に、突き刺さって行くように出来ている。

ただでさえ、身長が異様に高い大倉は、その存在感から、どこか、孤高の人であり、バランスとは無縁の雰囲気を持っている。でも彼はまた、迷子の子犬みたいなオーラを出していて、だから、彼の演じる辻煙は、非常に尖っていて、感情移入を拒むけれど、放っておけない。

ブラックチームを観る僕は、この大倉との、距離の取り方が、うまくいかない。こちらの意図を無視して、大倉は、どんどん入り込んできたかと思うと、また、ずっと遠くにいってしまう。自身を襲う、色々な悲劇との距離の取り方に苦悩する大倉の姿が、だから、より、切なくて、気がつくと、泣きながら、笑わずにはいられないのだった。

してみれば、「クリエーターの苦悩」という言葉は、入り口であって、出口は、そこにはない気がする。そのような、射程の広さを、この作品は持っていて、だから、観終わったあと、ずっと、もやもやと、舞台の隅で、人々の暮らしを傍観する、大倉の佇まいが、胸に住み着いて、離れずにいるのだろうと、思う。
動け!人間!

動け!人間!

鰰[hatahata]

アトリエ春風舎(東京都)

2010/04/16 (金) ~ 2010/05/05 (水)公演終了

満足度★★★★

Y字路
 なんとなく『深海魚』と呼ばれている方。ヤバい! 面白い! 演劇なのか、ダンスなのか。どっちにも通じるY字路みたいなところで、どっちにも進まないでふらふらするパフォーマンス(?)の面白さの源は、なんともいえないもどかしい距離感にある! ……と思うんですけど。どうでしょう(観方のひとつの提案です)。

ネタバレBOX

 人間は、動物なので、雰囲気に応じてカラダのモードを変える。たとえば「ドスの効いた声」を聴いたカラダは「不穏モード」に変換されるはず。こういうモードチェンジは、実はとっても細かく条件づけされていて、僕らは「こんなことで!」と思うようなことで、「こんなモードが!」というような思いもよらないモードに勝手に切り替わってしまった自分に気づくことがあったりする。

 冒頭、宮崎晋太朗と米田沙織が素舞台に登場。ちょっとしたやりとり(お互い、言葉の間に「あ、」とか「え、」とかが入るような、微妙な距離感)の後、背筋の運動(ふたりひと組で、お互いを背負うやつ)をスタート。ここでこちらは、「ん」? なにやら客席のカラダのモードがぐにゃぐにゃっと迷うのだ。……と、「テュテュテューン……」と『ラブストーリーは突然に』の冒頭のフレーズが流れて客席爆笑。すかさず「好きだー!」と宮崎。僕はもう、ここで、やられた。

 なにが起こってるのか、考えてみよう。微妙な距離感の男女が、カラダを密着させて、背筋の運動をする。それだけで、観ているこちらは、なにやら「男と女の意識のめばえ」みたいなものが目の前で展開されることに備えるモードのカラダのスイッチに手がかるのではなかろうか。面白いのは、ここで、ぐっとタメが入る(宮崎がゆっくりと、背負ってる米田の手を握る)こと。こちらはスイッチ押そうとするのに、ぐっとたまってつんのめる。その間にこちらは「カラダが次のモードを探ってる」状態にとどまらざるを得ない。「次に行くの? 行かないの?」と迷う。普段意識に登らない、自分のカラダが対応すべき状況を「迷っている(探ってる?)」モードを、しらずに意識させられる。

 「テュテュテューン……」

 このワンフレーズ。すごい。問答無用でラブモードにスイッチオン。客席の笑いには、安堵の色も見えただろう。

 振り返ればこの舞台、こういう、カラダのモードチェンジの隙間、とでも言うような時間を繰り返し、それもしつこくつくりだす。冒頭のラブストーリーモードもすぐに疑わしくなって、新たなモードをこちらは探り出すことになる、というように、場面の空気を小刻みにズラしていくことで、観ている側の、カラダのモードの決定機構にどんどん揺さぶりをかけるのだ。

 揺さぶられつづけるカラダと意識は、舞台と観客との距離感を意識させるだけでなく、観ている自分の、つまんないスイッチ(ウルトラクイズの音楽とか)で勝手に切り替わろうとするカラダと、そんなカラダのふがいなさをもどかしく感じる意識の間の距離まで認識させはじめる。意識とカラダ、自分の中のふたつの他人が浮かび上がる。

 人間が、自分のカラダのモードを目の前の場面に応じて変えるということは、見方を変えれば、その場面をカラダが把握しようとすることへの欲望、といえるかも。どんどんずれて把握を拒むあり方自体は現代芸術として当然かもしれないけど、その拒み方は、とってもユニーク。舞台と客席。意識とカラダ。色んなものが、関係しそうで関係しない。ギリギリの距離を残して、お互いを見つめ続ける。
三条会の「真夏の夜の夢」

三条会の「真夏の夜の夢」

三条会

千葉公園内 特設野外劇場(千葉県)

2008/07/25 (金) ~ 2008/07/29 (火)公演終了

満足度★★★★

地に足が着いている
小田島版の『夏の夜の夢』を、かなり忠実に使っていて、嬉しかった。物語だけを持ってくるのではなくて、ちゃんと、原作の言葉を、大事にしている。

もともと面白い本だけど、それが、奇想天外な、でも地に足の着いた演出で、もっともっと面白くなっていた。なんというか、役者さんたちの動きが、訓練された身体を観るようで、新しい、伝統芸能を観ているような気がした。

ネタバレBOX

薄暗い森の、でっかい鳥居の脇を行った先にあるのは、小さな、仮設の円形劇場。円い舞台を取り囲むように、客席があって、そのこっち側半分に、僕らが座る。で、残りの半分、向こう側の半円に、妖精たちが居て、基本、舞台を観ている、という、『夏の夜の夢』の、同心円の構造通りの、オーソドクスなセッティング。

舞台上の人々の風体が、みな、異様。これは、最初、びっくりしたし、怖かった。修行僧みたいに、坊主頭にメガネのライサンダーとディミートリアス。色気なく、髪をまとめて、これまたメガネの、ハーミアとヘレナ。ねじり鉢巻で、八百屋の主人みたいなオーベロン。キャップにフード、タバコをふかす、チンピラパック。彼らは、開演まで、じっとしていて、怖い。

舞台が始まると、さっきまで固まっていた彼らが、急に、ものすごく生き生きと動き回る。あの異様な風体が、ダンスみたいに、狭い舞台を、軽やかに跳ね回る。結構にぎやかに演じられるのに、時々、はっとするほどの静けさに包まれる。彼らの動きは、本当に、訓練されていて、なんだか、能とか、狂言だとか、全然違うけど、どこか、そういう、めりはりのある、地に足の着いた動き。

そこに、ちゃんと、原作に忠実な、綺麗な言葉が乗る。

一つ一つの言葉、動きが、なんらかのコンセプトを持った、マイムのように演じられる。彼らの着ている衣装は、基本的に一人一色。それが、真っ暗な森の中で、スポットに照らされて、映える。

なんというか、やわらかさの中に、とても硬質な、独自の理念みたいなものが見えるような、そんな感じ。それは、本を尊重しながら、物語の世界と、また、野外の森の、仮設の舞台と、調和していて、ものすごくふざけているのに、上品で、綺麗だった。圧倒された。

いつの間にか、舞台上の、全員の、ファンになってしまった。いつまでも終わってほしくない、楽しい舞台。来年もあるのなら、是非、行かせていただきます。
生きてるものはいないのか

生きてるものはいないのか

五反田団

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2009/10/17 (土) ~ 2009/10/31 (土)公演終了

満足度★★★★

ぽっかり空いた、無の世界
 大味にみえて、とっても繊細なお芝居だと思った。

ネタバレBOX

 ちょっとしたひな壇があるだけの舞台の上で、17人、次々と意味なく死んで行く話。

 周りで人が死ぬ。最初はびっくりして、大声だして逃げたりしてたのが、段々慣れてくる。自分も助かりそうにないと分かると、誰と死ぬとか、何を言い残そうとか、なんとなく寄り集まって、みんなで日常に逃げ込むようすが、日本人の僕らそのままな感じ。

 ……と、ここまでは戯曲で読んでも同じ。でもここで、ト書きに一言「死ぬ」と書いてあるところに、どったんばったん七転八倒して必死の形相で死んでいく目の前の俳優さんが加わると、もう、なにも考えられなくなる。オーバーすぎる演技に、頭をごっつんごっつんする様子に、真っ赤になって血管浮き出た顔に。つられてけいれんしながら、こちらもただただ笑って笑って、お腹を抱えて笑っているうちに。ふと気づくと、なんだかわからない、なんにもない感じにとらわれて、ものすごく怖く、かなしくなった。

 どんどん死んで、最後の5・6人くらいになると、こちらも慣れて、笑わなくなる。でも、なんだかわからない怖さのなか、生きることをあきらめていく人々の間で、看取る看取らないでちょっともめるシーンがでてくる。

 「ちょっと、あれだけど、ちょっとわがままなんじゃないかな」
 「は? だって、僕死にそうなんですよ」
 「いやわかるけど、俺だってあれじゃん、いつ死ぬかわかんないじゃん、その時間をさ、ていうか、命を? 命っていっちゃうとちょっとあれ、あれかも知んないけど、そんな誇張してないと思うんだけど」

 「命」っていっちゃうとちょっとあれなところが、この作品、とっても高貴だな、と思った。「命」とか「運命」とか「魂」とか、そういう大きな言葉を使うことに対する、とてもデリケートな感覚がある。大きな言葉を、表現する人は使いたがる。簡単に心が動いたような気にさせるからだ。でも、それを使わない。

 「命」という言葉や、「死」というイメージの持っている、大きな意味とか理由とか、そういうものの価値が、慎重に疑われて、解体される。死体以外に何ものこらない最後のシーン。すべての価値をはぎとられて、ぽっかり空いた虚無の世界で、僕らはただ呆然とするしかない。

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