いつか見る青い空 公演情報 弘前劇場「いつか見る青い空」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    青い空はいつか
    深くて、怖い、作品だった。

    東京って、なんだろう。そんなことは、普段、あまり考えない。僕には、当たり前に、東京は東京で、それを、単純に、「現代」だと思っていたふしがある。それが、弘前劇場の新作を観て、ぼろぼろに崩れてしまった。東京=現代では、決してない。そう知ることが、怖いことだということさえも、僕は、これまで、知らなかったのだった。

    ネタバレBOX

    禅寺で、座禅を組む人の後ろ姿が見える。ぴくりとも動かない。線香の煙だけが動く、静かな空間。なんだか、静粛な面持ちで、みんな、開演を待つ。

    

開演。いったん暗転して、パッと明かりがつくと、一人の男が、もう一人を、長ドスで刺している。血がたれている。本物の液体がしたたる音が、ぽたりぽたりと、聞こえる、静寂の中の暴力に、圧倒される。よく見ると、ドスは、すんでのところで、受け止められている。刺さってはいない。

    

「左手は、もう使い物にならないだろうね」
    
「すいません」

    

その後のやりとりで、これは、殺された親の仇うちだ、とわかる。静かに、このシーンは終わって、また、もとの禅寺に戻る。そして、その後につづく物語は、実に平和な、禅寺に集まるひとびとの、日常生活の様子なのだ。

    

観客として僕は、このギャップに、くらくらする。あまりにも強烈に焼き付いた冒頭の暴力がこびりついているもんだから、日常生活のシーンを観ていても、その底に、死の匂いを捜してしまう。そして、それは、せりふの端々に、小道具の中に、役者の表情の影に、周到に、配置されている。折しも仇うちに失敗して逃げていた若者が東京から帰ってくる。

    

若者は、ごくごく普通に、みんなと接する。殺し損ねた仇とも、普通に接する。暴力の影は、表面上は、みじんも見せない。当然、周囲の人々も、生活している以上、みな、悩みを持っている。実はガンだったり、実は妊娠していたり、それでも、それらの、どうしたって避けることはできないものと、みんな、しっかり向き合っている。だから禅寺に座禅を組みにくる。そして、悩みは当たり前のものなので、特に表に出したりしないのだ。

    

舞台は、その後、日常生活のさなか、青年の仇うちが再び実行され、ドスが突き刺さる一瞬、研ぎすまされた暴力を、両手を広げて受け入れる、仇の男のシーンで、瞬間的に終わる。

    つまり、この作品は、とてつもなく強烈な暴力を、冒頭と末尾に配置して、強固な枠組みを、作っている。平穏にみえる日常は、この暴力の枠内で行われるにすぎないのだ。

枠として、悩みの究極、不条理そのものとしての生死の問題が暗示されているので、その中で行われる日常が、普通のものであればあるほど、人間を捉えてはなさない不条理な部分が浮かび上がってくる。逆にまた、生死を意識しつつ見る日常は、特別にはっきりと映る。さらに、はっきりとしたスジがないだけに、登場人物としての役を越えて、演じている役者そのものが、人間として、浮かび上がる。そうなるように、作られている。

    

さて、ここで、「東京」が浮かび上がる。僕は、長谷川孝治関連の舞台は、これでたったの三回目。なのに、弘前劇場の役者たちが、名前からなにまで、しっかりと頭に残っている。僕が東京で舞台を観始めたのは最近だけど、観始めのころ、役者を覚えることの難しさにびっくりした(今もあんまりかわってないけど)。同じ劇団でも、公演ごとに役者は全然違うし、見るたびに印象がすごく違ったりして、捉えるには、努力がいるのだった。東京の舞台は、誰がやっても大丈夫なようにできていて、つまり交換可能で、役者たちも、演じるものとして、できるだけニュートラルになろうとしているのかもしれない。役をプログラムとして、その都度インストールするように。



    あまりにも流れの速い世界に、即時対応するべく、なるべく、ノイズのもとになる「自分」が固定化しないように、ニュートラルを保つ。それは、東京で生きる、僕の生活そのものなのだった。そして、弘前劇場の、青森という土地の、「自分」を受け入れて生きる世界が、空よりも、地面を見ることを受け入れる姿が、うらやましく感じた。



    だが、同時に、この作品は、その、人間としての「自分」みたいなものを、どこか、「逃れられないもの」として捉えており、そのうえで、その「自分」からの「逃れられなさ」に対する、無抵抗のもがきのように描いているような気がする。タイトルには、そんな思いが込められているんじゃないかな、と思う。

    

ガンにおかされた魚屋さんと、禅寺の次女との禅問答のシーンがある。次女の答えが観念的になると、魚屋さんは、「それは形而上」とたしなめる。魚屋さんは、自己の肉体に、つまり形而下にとどまるように説いているのだけど、そのように、形而下が志向されればされるほど、逆に、形而上への、あこがれのようなものを感じてしまう。そしてそれは、肉体を、形而下を、「牢獄」と表現したプラトンみたい。肉体を、自分自身を、必死で受け入れようとする姿は、逆に、肉体(自分の根付いた、土地の比喩でもあるだろう)への嫌悪、受け入れようと努力しなければ受け入れられないという思いを感じさせるのだった。

    

だが、東京で、僕が行う、自分を、ノイズと捉え、ニュートラルにしようとする、その作業も、果たして、自ら進んで、望んで、そうしているのだろうか。当たり前に行っていることが、あまりにもゆるぎない「自分」を見せる舞台の前で、今、揺らぎ始めてしまっている。

    0

    2008/11/21 07:33

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大