音楽劇 夜と星と風の物語 公演情報 THEATRE1010「音楽劇 夜と星と風の物語」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    たくさんの自分、ひとつの自分
    『夜と星と風の物語』は、じわりとしみ込む物語だ。きっと、観た人全部の中に、地下水脈としてたたえられていることだろう。

    それは静かに、いつかきっと、何かの機会にしみ出して、乾いた心を潤してくれることもあるだろう。そんなことを思う。なんだか、今すぐではなくて、何年か先だとか、何十年か先の僕らに向けて演じられているような、とても不思議な舞台だった。

    ネタバレBOX

    当たり前のことだけれど、舞台には、役者という人がいて、そのことに、とても安心する。役者は、誰かを演じているのだけれど、大体において、舞台の上に居る間は、特定の誰かとして、そのまま、居続ける。

    最近の前衛演劇の世界では、そういう、役者が特定の誰かになることに異を唱える流れがある。現代を生きる僕らは、いくつもの自分たちのなかを生きていて、「自分」として、一人の人物を特定する必要はないと、そういう流れにある人々は考える。そして、一人の人物を、例えば、複数の役者たちが同時に演じたりする。

    自分は、何人いるものなのか。それは、時代によってかわるものである。近代と呼ばれる時代以降、長い間、自分は一人である世界が続いた。でも、それは、終わろうとしているのかもしれない。

    自分の数はかわっても、からだの数は、ひとつ。そこに、演劇の、根本的な、救いは、ある。そういう気がする。

    舞台上には、飛行士、飛行士の恋人、飛行士の両親が、登場する。けれど、今、記した、「飛行士」は、それぞれ、別人でありながら、同じ人物のようでもある。自分の数が、無数でありながら、ひとつなのだ。たとえば、飛行士は孤児で、彼の両親は、砂漠で、行方不明になった。つまり、「飛行士の両親」の息子と、ここにいる「飛行士」は、別人だ、ということになる。でも、今、この両親は砂漠をさまよっていて、そのまま、帰らなかったとしたら、「砂漠で行方不明になった」ことにはならないか。また、彼らは、昔、飛行士と、飛行士の恋人として、墜落した砂漠でさまよったという、今現在の記憶を共有しており、飛行士と恋人は、彼ら自身であるようでもある。こういう具合に、彼らは、ほとんど共通の記憶を共有しながら、すんでのところで、重なることができない、いくつもの自分たちなのである。

    星の王子さまは、こんなことになってしまったのは、自分がやってきて、時間が混乱してしまっているからだ、という。そして物語は、この混乱を収束するために、後半、猛スピードで疾走し、からまりあっていた時間は、鮮やかにほどけていき、そして、ほどけたその先には、誰も残らない。

    なんと静かで、不思議な物語だろう、と思う。このような、目に見えないものを描こうとする、抽象的な物語が、目に見える舞台という形をとろうとする。それを可能にするのは、舞台上に、役者という身体がいる、ということだ。彼らが動き、話し、歌うことで、僕らは、そこに描かれている抽象の向こうに、人の営みが捉えられていることに、そうとは知らずに気づくのである。

    舞台の袖で、音楽も、生身の身体によって、奏でられる。抽象を表現する全てが、あえて、全ての要素をそぎ落とされたとしても残らざるを得ないだろう、ひとつの身体たちによって、具体的なものとして現前される。

    そして、僕らは、確かに、そこに、居たのである。きっと、その場にいた他の誰かと、この舞台の話をしても、通じあうことはないかもしれない。みんな、違うことを感じたかもしれないのだ。それほど、今は、立場が、たくさんある。それでも、確かにそこに、一つの身体として居たというそのことだけは、きっと、共有できるのである。それは、たとえば未来の僕が、今の僕と、記憶を共有できなくなっているとしても、そしてそこでは、自分の数が、今と違っているとしても、やっぱり、通じ合える、ただひとつの確かなことなのだろうと、思う。

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    2008/08/05 21:15

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