友達 公演情報 世田谷パブリックシアター「友達」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    権力でも、解釈でもない演出
    「他人の作品を、作者以外の人間が演出するという制度がある理由がわからない」とかつて語っていた岡田利規が、他人の作品を演出する日がやってきた。

    もう、どきどきわくわく。

    蓋を開けてみれば、彼は、今回、演出家というより、振付け師のような立場で作ったみたいにみえる。そして、そこには、ものすごく知的な戦略があるみたいにみえる。ああ、すごいなぁ。演劇とはなんだろう、文学とはなんだろうと、考えずにはいられない。頭と身体がうずいてたまらない作品だった。2回観たけど、もう一回くらい観たい。

    ネタバレBOX

    別役実は「演劇における言語機能について 安部公房<友達>より」という評論(1970)で、「友達」について、ものすごく細かく分析していて、岡田利規の今回の演出は、この文章を出発点にしているという。

    この約100ページの文章から、誤解を怖れずに無理矢理必要な部分を取り出すと、次のようになる。

    ・不条理演劇とは、日常的状況と極限的状況が併存するなかに、役者の実存をかいま見るという手法である。<友達>は、不条理演劇といえる

    ・ <友達>は、この「極限的状況」の作りが、不徹底である。つまり、男の家に侵入し、暴力を加える家族が、それを「善意」で行うところに極限的状況があるのに、家族のせりふには、それが「善意」であるとは思われないようなものが混じっている。

    つまり、「友達」には、特に、登場する「家族」のキャラクターにおいて、ブレがある、というのだ。彼らの暴力は、徹底的に善意であったほうが、より効果的だ、そのほうが、不条理演劇として、わかりやすいというのである。

    さて、岡田利規は、この批判にたいして、<友達>のブレを極限まで大きくすることによって、演劇そのものを極限的状況にしてしまったのではないか、と思う。つまり、別役実のいう「わかりやすい」ものではなく、逆に、徹底的に「わからない」ものを目指すことによって、演劇を観るという体験そのものを、極限的状況にしてしまったのではないか、と思う。

    岡田は、プログラムで、「これは、暴力についての作品です」と、テーマをバラしたうえで、「できれば、テーマ以外のところをみてください」と断りをいれている。つまり、あらかじめ、舞台が、意味として論理的に捉えられることを、避けている。

    さらに、岡田演出は、観客の目を、作者安部公房の意図とは違うところに持って行く。これが、とっても面白い。たとえば、謎の家族に突然自分の家を占拠された男が、警察を呼ぶシーン。舞台上では、警官と男と家族のやりとりがつづくのに、なぜかスポットライトは、全然せりふのない、中年のさえないおばさんである、この家の管理人に当たり続ける(客席からは、笑いが起こる)。たとえば、なぜかカラダをグニャグニャさせながら、ものすごい体勢でせりふをしゃべる「家族」の父親。なぜこのせりふを、逆立ちしながらいうの? 父親の身体のすごさに目がいってしまう。

    つまり、戯曲の持つ「物語/言語」という、論理的なテーマに、岡田は、そうではない、たとえば身体のような、非論理的なものを、相反するものとして、併存させる。そして、そのとき、その向こうに、何かが浮かび上がる。この「何か」とはなんだろう。言葉にしてしまったら、演劇は終わってしまうのだろうけど、考えさせられる。

    演劇は、言葉(戯曲)と、身体(役者)が、同時に併存して、初めて完成する。通常、演出家は、戯曲の言葉を優先させる。つまり、演出は、戯曲の言葉を補強するために、つけられる。言葉という論理が上位という関係が、暗黙のうちに前提となる。

    ところが、今回の岡田演出は、言葉と身体に、優劣がないし、ふたつがぶつかりあうこともない。演出が、常に、戯曲の意味に、ゆるやかに疑問を投げかけ続ける。なぜここで、その演出なの? と。演出は、むしろ身体という、非論理の部分に、スポットを当てつづけるが、それは、言語を意識しつつ、変幻自在に行われる。だから、戯曲の側からも、演出に対して、常に、疑問が投げかけられるという、不思議な関係が生じている。

    ここがすごい。最近の演出家には、言葉か身体、どちらかを、一方的に優先させる人はたくさんいるけど、なかなか、同時に、可変的に扱うことは、できていないと思う。岡田は、どちらかに権力が偏ることを、徹底的に避けている。言葉と身体は、一瞬ごとに、ぐにゃぐにゃと関係を変化させる。これは、普段の演劇の観方をしている僕ら観客を、相当に戸惑わせる。普段の演劇は、演出か、戯曲、どちらかの側に、権力があって、観客は、権力の側に寄り添いながら観れば、それでことたりるのだ。僕らは、演出と戯曲が併存する舞台をみて、どこを観たらいいのか、どういうふうに「把握」したらいいのか、わからなくさせられる。そして、たぶん、そこに、この演劇の目的がある。

    「関係性」を把握させないようにという岡田の意志は徹底していて、たとえば、役者が、つねに観客をみて、観客を十分に意識していることをアピールしつつ、演じるという、独特のあり方も、観客と役者という関係を、ゆさぶっていたりすると思う。

    だけど、なんとなく、こういう、極限的状況のもとで、論理という権力から逃れるという構図は、安部公房の基本的なテーマでもある、という気がする。「友達」でも、男が、犬になるシーンがあって、ここは、論理を越える、すごく面白い場面だと思う。そして、岡田は、そういう、安部公房が、はじめから持っていた、論理にたいする、ゆさぶりかけるような力を、増幅して、大きくしたのだという見方もできるかもしれない。

    こんなふうにたくさん言葉を費やして語ってみても、極限的状況である、この舞台の、体験としての魅力は全然伝えきれていない。レビューは、言葉しか使えないので、もどかしい。カラダが、うずうずする。頭が、燃える。それは、演劇というより、なにか別の、新しいものを見せられたことによって、僕のカラダが、普段の理性を越えたなにかを芽生えさせているということだったら、面白いのに。

    人間の、理性の檻から、逃れたい、と思った。

    ワオーーーーーーーーーーーーーーーーーン。

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    2008/11/21 09:03

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