実演鑑賞
満足度★★★★
異なる才能が問う俳優・ダンサー論
ネタバレBOX
大きな白布で覆われた正方形に近い舞台は客席に向かい角が向き、背景には10本の棒が配置されている。舞台奥から布をかぶった演者たちが現れ、ゆったりと歩き回りどこかへと消えていく。不可思議な空間から女(佐藤真弓)と男(薬丸翔)が出てきて要領を得ない会話を始める。いわく「私たちはいま、こうして歩いている、普通に。いまさらよちよち歩きはできない」「お酒でも飲まない限り」「そう、お酒でも飲まない限り。よちよち歩きだった頃を覚えている?」「シラフで生きていくにはきびしい世の中になってしまった」。
二人は、立ったまま不規則に手足を動かしては止める動作を繰り返すもの(川合ロン、東海林靖志、高橋真帆、平原慎太郎、町田妙子、渡辺はるか)の回りを歩いている。やがて舞台上にいる全員で円陣を組み、あたかも民族舞踊のように軽やかに舞いながら手を叩いてリズムを刻み始める。これは主神デュオニソスに捧げられた合唱抒情詩「デュドゥランボス」。現代に諦観する言葉と古代への憧憬を表すかのような動きを交えた重層的な幕開けは、古代ギリシャ劇に着想を得たという『ひび割れの鼓動』の作品世界を端的に示した。
本作は振付・構成・演出の平原慎太郎とテキスト・ドラマターグの前川知大の共同作業によって生まれた。第一の魅力はコンテンポラリーダンス界と現代演劇界の才能が生み出す独特な作品世界である。稽古はまず平原の振付をもとにダンサーたちと動きを決め、それを確認した前川がテキストを書き、それをもとに新たな場面を創作するという流れで進められたという(3月26日夜公演のアフタートークより)。OrganWorksの先鋭的かつ静謐な作品世界と平易な言葉で超現実を描く前川の劇作が、古代ギリシャ劇という要でうまく合わさったものだと感心した。
先述の通り本作では俳優とダンサーが同じ舞台に上がっている。そのため互いの方法論の差異が浮かびあがってきたところもまた興味深いと感じた。正確だが無機的な印象のするダンサーの身体に対し、運動能力では劣るものの持ち味で優れているのが俳優の身体だということがよく分かった。台詞を伝えるための俳優の発声はダンサーたちが時折発する唸り声とは明らかに異質なものであった。俳優とダンサーがもう少し大胆に絡んだり、ダンサーが積極的に台詞を発したり、俳優が踊ったりしても面白いかもとは思ったが、互いの領域に対する敬意には好感を持った。
全6章で構成される本作では、冒頭のいずこかを歩き回る男女の対話や、「彼はボクです」とドッペルゲンガーを見た男の告白、死者を感じる女が「この世界は死にあふれているが、死人は口なし」とランプ片手に闇を彷徨する様子などを経て、冒頭のデュドゥランボスへと回帰する。中盤、舞台下で転げ回るようにして回転するダンサーのムーブメントには手に汗握った。
個々には面白い場面はあったし目論見は興味深いが、観終えたあと「私はいまなにを観たのか、ダンスか、それとも演劇か」とポカンとした気持ちになった。とはいえ平原が『HOMO』で描いた「人類最後の日」のようなスケールの大きさを感じる歴史観に満足を覚えた。
実演鑑賞
満足度★★★★
三世代の女性が男性中心社会につきつけるもの
ネタバレBOX
「根っこから切り離されているのにしぶとく生き延びて、ゆっくり萎びていく…うちの家の匂いです。祖母にも母にも私にも、染みついている匂い」
切り花の匂いが苦手であるという理由について斉木結子(滝沢花野)はこのように語る。植物の品質管理の仕事をしている結子は、失踪した双子の姉・倫子(西岡未央)を探し、倫子の元ルームメイトであるライター兼カメラマンのルーシー・マグナム(万里紗)の元へ来ているのだ。気がつくと二人の回りには花瓶に生けられたたくさんの花々が置かれている。祖母が生きていた頃の実家の思い出をルーシーに語る結子が、我々観客にこれまでの来し方を披露していく。
双子の母の弥生(佐藤千夏)は貿易会社で働きながら、介護施設で働く祖母のオト(梅村綾子)と一緒に子育てをしてきた。弥生は未婚の母であり子どもたちの父親からの認知は得られていない。そして弥生の実母は早逝しているため叔母にあたるオトに女手一人で育てられたという経緯がある。女性だけで支え合ってきた斉木家だが、倫子の失踪の原因たるトラウマティックな出来事が詳らかになるにつれ、ゆっくりとほころびが生じていきーー1970年代から2000年代にかけてたくましく生きる女性たちの姿が、男性中心社会へ鋭い問いをつきつける。
私がまず感心したのは作劇の巧みさである。母子三世代の歴史劇にはリアリティが感じられた。たとえばカレーや味噌汁にウインナーを入れる家庭の習慣が、祖母にとっての「ごちそう」、母にとっての「憧れ」に由来し、背景に母子家庭の辛さやささやかな喜びが見え隠れするという描き方が秀逸だった。結子が倫子の失踪の原因を追うというミステリ仕立ての展開と、とかくシリアス一辺倒になりがちな題材をコメディ要素を混じえながら描いている点に親しみを覚えた。終盤にかけてやや詰め込み過ぎな感はあったものの、ここまで骨太の作品を編んだ鎌田エリカの手腕に唸った。ただ一点、さぞ切り詰めているだろうと思われるわりに家計の話があまり出てこなかった点は気になった。
戯曲に応えるかたちで生田みゆきの演出も手が込んでいる。当初は明晰な台詞と音響効果の写術性(蝉の鳴き声や蛇口をひねる音など)が目につく印象だったが、次第に軽やかな身体性や時間軸の大胆な飛躍など、演出のトーンが目まぐるしく変転していった。しかも周到に計算されている。先述したウインナーの世代間比較であるとか、テレビアニメ「サザエさん」を観ながら自分たちの家族について考えを巡らす90年代の双子姉妹と、70年代のオト・弥生母子の家族観の差異を、同時に舞台上に上げながら展開させていた場面はうまいと感じた。極めつけは中盤、倫子がインターネットで性暴力被害支援のNPOに出合い、その思想に共感して胸高ぶる様子をショー仕立てで描いた場面は忘れがたい。性暴力被害者が世間のいわれなき偏見に立ち向かう様を、黒づくめの「怪物」とキラキラしたコスチュームの「戦士たち」の対決として戯画化した点に度肝を抜かれた。
作劇・演出が設定した高いハードルに対して俳優陣は大健闘したと言えるだろう。袖のないアトリエ第Q藝術の構造上、一杯飾りのなか2時間出ずっぱりで、時間軸が入れ替わるごとに異なる年齢を演じ分ける必要もある。にもかかわらず場面ごとの切り替えが達者でグイグイ物語の世界に引っ張られたのである。ちいさな空間のため大仰に見える動作や台詞の音量をもう少し抑えたほうがいいようにも感じたが、作品にかける強い意気込みは伝わってきた。特に倫子を演じた西岡未央は、快活を装ってはいるものの徐々に精神のバランスを崩していく様子を、表情豊かに高い身体能力で演じきって圧巻であった。七歳のときに受けた傷を結子にだけ打ち明ける様子や、初体験を終えて高ぶる感情をジャンプしながら全身で表現したくだり、真実が明るみになり感情を洗いざらいぶちまける場面など、さまざまな魅力を見せてくれた。
終盤、オトの故郷である天草の海辺で、ようやく結子は倫子に再会する。倫子は「この場所で/私は歌う/オロイカの歌」(「オロイカ」は天草の方言で「疵物」の意)と謳い上げる。そして倫子が離れオトを亡くした弥生は、花を育てたいと結子に相談する。バラバラになった家族それぞれの再生に向けた取り組みは、映画『ショーシャンクの空に』のラストシーンのような幻の光景なのかもしれない。しかしこの詩情豊かな幕切れが目に焼き付いた。
実演鑑賞
満足度★★
アンサンブルの妙が際立つSF版『不思議の国のアリス』
ネタバレBOX
スズムシの音が鳴り響く夜半、ひとりの女(谷美歩)がウサギ頭の人物と出会う。やがて不可思議な五つの生命体(大熊隆太郎、北脇勇人、半田慈登、湯浅春枝、吉迫綺音)が女を取り囲む。シルバーのコートに宇宙飛行士を想起させるヘルメットをまとった五体は、原色が際立つ照明変化とビート音で激しく上下に体を揺らす。冒頭の静謐な幕開けと対照的なサイケデリックな導入が、私を物語の世界へ心地よく誘ってくれた。さながらSF版『不思議の国のアリス』の幕開けである。
私が面白いと感じたのは出演者のアンサンブルがよく取れていた点である。冒頭で指摘した踊りもさることながら、中盤で複数名の演者が白紐を使ってあやとりのようにして図形を作り、そこを谷演じるアリスが戸惑いながらも通過していく様子が面白い。あたかも舞台上に別の空間を構築するようにして物語の行く末を示すその鮮やかな動き、脚色・演出・振付の大熊隆太郎を含め演者たちの手際の良さが印象的であった。
しかしながらこの5人の存在が強すぎたことも事実である。特に前半、タイトなスーツで体の線を強調した衣装は目のやり場に困ってしまった。加えて体のキレの良さではなく表情で演じていた点が気にかかった。この5人が車座でアリスとコミュニケーションをとろうとする場面は、日常動作の身振りや手振りよりも顔の表情が強すぎた。結果体から湧き上がる情感ではなく表情の変化で場面を押し切ろうとしているように感じたのである。動きの面白さで不可思議な世界へ誘ってくれたらよかったのにと感じた。
実演鑑賞
満足度★★★★
強靭な身体が問う血讐の是非
ネタバレBOX
透き間風が吹く北の山岳地帯で一組の夫婦が陰鬱な空気に満ちた高地をさまよっている。この地域は血族が殺害された場合その一族の男性が復讐をしなければならない血讐(古代国家の形成過程で出現した復讐制度)が生きている。かき分ける草木やすれ違う馬にはまるで生気がない。
1980年に発表されたアルバニアの作家イスマエル・カルダの小説『砕かれた四月』をもとに、上演台本・演出の山口茜が自身の生い立ちを反映させて劇化、2021年のプロトタイプ公演を経たうえでの上演である。
外からこの地域に入ってきた夫妻の考え方は対照的である。妻(佐々木ヤス子)は当初この土地に関心を抱いていなかったが、偶然見かけた歩く人(達矢)に強く惹かれる。歩く人は殺人を犯しており、今度は自分が狙われる番になってしまった。妻は高地の住人である老いた人(高杉征司)に歩く人を助けてほしいと懇願するが、血讐の伝統を盾に頑と拒絶されてしまう。復讐の連鎖をなんとかして止めたいと考えた妻は、歩く人を探して村の塔へと向かう。そこには血讐から身を隠す人々が集っているのだ。
いっぽう夫(大柴拓磨)は作家であり、この地域の血讐に強い関心を抱いている。いなくなった妻を探そうとするが、血讐を止めることはできないという態度である。むしろ「止めようとすることで反動が起き、私の小説が面白くなる可能性はある」と観察者としての立場を貫き通している。やがて妻と夫は別々に、戦争で負傷した寝たきりの人(芦谷康介)と出会い、そこから大きく物語が動いていくーー部外者である夫婦と血讐にとらわれる高地の人々の交流から、復讐の連鎖がなにを引き起こすかが浮かび上がっていく。
本作第一の魅力は山口の紡ぎ出した言葉と出演者の強靭な身体の調和である。上演台本はもともとかなりの長編だったそうだが、刈り込んで凝縮させたそうだ(3月11日夜公演後に実施されたアフタートークより)。結果台詞から状況説明が省かれ暗喩に満ち噛み砕くことはなかなか困難であったが、その分言葉の密度が詰まっており味読する愉しみがあった。出演者たちは先に記した本役以外にも馬や草木、高地の人間などを複数役兼ね、マイムや激しいダンスシーンをこなすなど、さまざまな役割を演じ分けていかなければならない。ときには客席の前から姿を消して台詞を音読したり、ギリシャ悲劇のコロスのようにして群読するような場面もある。しかし発話しているときと動いているときのつなぎ方や切り替え方に違和感がなく、すっと物語の世界へいざなう手腕は大したものだと感心した。難解な台詞を演じ手たちが肚に落とし込んだうえで発していたのがよく分かった。
演技スペースは東京芸術劇場シアターイーストの本舞台を取り払い、正方形の小舞台を16個ほぼ等間隔に配置したもので、高地の高低差を表したものと見受けた(舞台美術:夏目雅也)。出演者たちは床を四方八方歩き回り小舞台に上って演じるだけでなく、床を這った状態で客席から見える位置にまで脚や手を挙げたりして、草木や動物、死体(のように見える物体)を表現していて目まぐるしい。民間伝承や地縁といった土俗的な内容を、多彩な音楽やソリッドな照明で造形する、この対照的なアプローチの調和が耽美的と感じた。この感覚は小説『砕かれた四月』にはない視点だと私は思う。
印象に残る場面は多いが、中盤で舞台上手から下手まで一列に並んで髪の毛をかきむしりながら怒号を上げ死者を嘆く人々の列や、冒頭と終盤で「人を殺した男に会いました」と告げる人と対峙する異形の怪物を4人の演者が重なり合いながら表現した場面が特に忘れがたい。
いっぽうでこれだけ多彩な内容を1時間に凝縮させるにはあまりに惜しいと感じたことも事実である。観賞に際し極度の集中を要したことに加え、馴染み深いとは言い難い題材に作者個人の体験が反映されたという作品の成立ちに対し、敷居の高さや距離感を抱く観客もいたであろうことは想像できる。『砕かれた四月』の映画化である『ビハインド・ザ・サン』のような翻案をしてほしいとまでは言わないが、状況設定や台詞をもう少し具体的にしたほうがより作品に奥行きが出るのではと感じた。
そして私が最後までわからなかったことは、血讐を止めたいと奔走する妻の行動である。彼女の選択が歩く人に救いをもたらしたのかは明示されず、彼女自身も血讐の連鎖のなかに飲み込まれてしまったような印象を受けた。ややもすれば近代主義者のエゴのようにも取れる彼女の行動について賛否は分かれることだろう。そして本編の終幕が何を意図しているのか私はまだ考えあぐねている。
実演鑑賞
満足度★★★
巧みな身体表現がかもしだす「かわいげのある不条理さ」
「名前」をテーマにした7本の小編を、ピアノ(加藤亜祐美)とチェロ( 志賀千恵子)を伴い4人の演者(佐藤竜、はぎわら水雨子、山﨑千尋、一宮周平)が次々に演じ分けていく。2020年3月に上演予定だった作品の2年越しのリベンジ上演である。
ネタバレBOX
本作第一の魅力は作劇の秀逸さである。作中では数や名詞、代名詞が導くミスコミュニケーションが巧みに表現されていた。それが顕著であった「Called "Sensei"」では、医者と弁護士、ダンススクールの講師がそれぞれを「先生」と呼び合うことで誰が誰を呼んでいるのか次第に混乱していく様子がコミカルに描かれていた。別役実の作品に出てくる、品詞の誤解でドラマを転がす手法で、大人から子どもまで楽しめる「かわいげのある不条理さ」とでもいうような作劇が脚本・演出の一宮周平の眼目だろう。
定評のある身体表現の巧みさも本作の特徴である。「Ko・So・A・Do」では暗闇のなかさまよう二人の人物が電灯を片手にして闇を掻き分けていく。道中に出現する水の流れや焚き火の炎も演者が表現する。その手付きの鮮やかさ、仕草の丁寧さが目に焼き付いた。
ピアノとチェロの伴奏は作品に豊かな彩りを与えた。特に劇中音楽の曲名を観客に考えてもらうくだりでは、コロナ禍で絶えて久しい劇場の一体感を味わう貴重なひとときとなった。この場面を収めた一幕「No name」は、終盤で王様が家来に命じ恋文を認め、思いを寄せる他国の女性とやがて結ばれる「Number」と「Named」の連作の間に据えられほどよいブリッジであった。
他方で芝居のパートと身体表現のパートがうまく融合できておらず、ぶつ切りになってしまっている印象を受けた。観客に台詞をわかりやすく伝えようとする俳優としての身体と、人にも自然にもなれる変幻自在の身体を同じ舞台の上に上げた点が目論見なのかもしれないが、私は観ていて混乱を覚えた。また演者たちの巧みさには感心したが、作品が変わると前作とはまるで別人のようになる変身の驚きを感じるまでには至らなかった点は残念であった。
また作者の生真面目さゆえなのなかもしれないが、各エピソードをきれいにまとめようとしすぎていると感じた。登場人物たちが皆いいひと過ぎて食傷気味になったのも正直なところである。「Become a King」で必ず王様になる男の図太さ、「Blue Goat」でみんなから疎まれる青ヤギの鬱屈さといった側面をもう少し深く掘り下げたほうがドラマに厚みが出てくると感じた。
満足度★★★
「山に消えた女性の足跡をたどる」
ネタバレBOX
四角いブロックが組まれた舞台上は凹凸が目につき、SEの風音が耳に入る。明転すると、山中で人気登山家の前地悠子(宮田頌子)がビデオカメラを使い自撮りをしている。場所は変わり大学の研究室。准教授の前地弥太郎(今津知也)が妻の悠子の自撮り映像を観ていると、登山家の屑木和伸(松竹亭ごみ箱)に平謝りされる。悠子は屑木と一緒にネパールのK2に挑み命を落としていた。悠子の死には不審な点が多くやがて彼女を取り巻く人々が登山隊を組みK2へと挑み、厳しい環境に直面しながら悠子の足跡をたどっていく。
K2とはインド・中国・パキスタンに横たわるカラコルム山脈に位置する標高8,611メートルの高峰で、その遭難率の高さから「非情の山」と恐れられているそうだ(公演パンフレットより)。これまで登山に親しみがあったわけではない作・演出のニキノコスターはさまざまな資料にあたり本作を書き上げたという。私は登山に明るいわけではないが、登山道具や大学登山部の練習風景、入山前の健康診断の様子など細かなところまでよく取材したものだと感心した。本作の主軸は「非情の山」に挑む人々とその過程になるわけだが、それ以外の場面にもきちんと気配りしている点がいい。
登山者を演じた俳優たちは険しい山道を進む姿を手足を大きく動かして表現していていかにもそれらしい。なかでも撮影をしている田部敦子を演じた大脇ぱんだが緩急自在で面白い。
反面、人間関係が込み入っており時間や場所が頻繁に移動するため、物語の筋の把握には一定の困難がつきまとった。登山シーンが本作の白眉であるからには、もう少し焦点を絞ってもよかったのではないだろうか。くわえて説明的な台詞やBGMが土臭くエネルギッシュな身体表現・照明変化とミスマッチを起こしているようにも感じた。
悠子が「非情の山」に挑んだ理由から女性登山家について問うという作者の企みは中途半端になってしまったという感は拭い難い。しかし悠子を演じた宮田頌子の芝居は印象に残る。登山中でテンションが上っているとはいえ感情過多で、なんらか事件を引き起こすような危うさをうちに秘めているかのような熱演を見せてくれた。今際の際で幻覚に取り憑かれる狂気じみた表情、妹の凛(暁月セリナ)の幻影とあやとりをする姿は忘れがたい。
なお、上演と直接は関係ないが、この劇団の感染症対策が他と一線を画す入念さであった点を記しておきたい。
満足度★★★★
「ものを動かすことへの執拗なこだわり」
隣席には戸惑いの表情を浮かべている人がいたが、私は一瞬たりとも飽きなかった。まるで生活音をBGMにした日常動作という振付のダンス作品を観ているような心地になった。
ネタバレBOX
上演が始まると手前のドアから男(金子仁司)が入ってくる。手を入念に消毒し洗面所の鏡の前で身支度を整える。ソックスを履き直し、ビニールをたたみ、ズボンの上から尻を叩いて「オシッ」と声を上げる。少しすると男は外出する。この間せりふは一切ない。
客席から全体を見下ろせる舞台上にはソファや机、ペットボトルの飲み物や電灯、絵画や飾りなど、自室に置いてあるものが所狭しと並べられている。観客は主宰から、自宅のインテリアを持参して舞台上に設置するよう事前に呼びかけられていた。ものの配置から推察するに、何部屋かに区切られているように思われる。
今度は後方のドアから女(石田ミヲ)が入ってくる。机の上に加湿器を置き水を入れて顔面に蒸気をあててくつろいでいるようだ。先程の男との関係はよくわからない。そしてこの間も一切のせりふはない。舞台上にはただものが出す音や演者の出す音が響くだけである。
この調子で演者が自室でやっている動作を続けものを動かしたり置いたりして1時間半近く上演が続く。男も女も同じような動作を繰り返す。途中別の女が入ってきて絵画や美術作品(と思しき物体)を置き移動させる。そうして最後はこの三人がものを全て一箇所にまとめて終幕する。
本作は劇作家の書いたドラマではないが、観客はいくらでもドラマを想像する余地がある。ここまで思い切った上演を実現した福井裕孝の企みは興味深い。観終わってから自室に置いている「インテリア」とはなにか、私は考え直さざるをえなかった。また台詞なしで動きだけにもかかわらず丁度いい間で実演をした演者たちも見事である。時節柄入念な手洗い、うがい、消毒という動作にもリアリティを感じた。小津安二郎やロベール・ブレッソンの映画で描かれるような体の動きへの執拗な注目を想起した。
そうしてくると徐々に演者がものを動かすというよりはものが演者を動かしているような心地にもなってきたから痛快であった。インテリアひとつとっても、ものをある場所に動かしたりそれをもとに戻したりするには相応のエネルギーが必要である。高校時代の化学や物理の授業で習った熱力学の法則を思い出した。
一点不満が残るとすれば、本作のコンセプトである観客が自室のインテリアを舞台に持ち込み、上演で使われたそれを持ち帰ることの意義があまり伝わってことなかったということである。ここは再考の余地があるのではないだろうか。
満足度★★★★
「振付の拮抗と調和で描く人類の新時代」
漆黒の舞台面から金属性のワイヤーでできた突起状の物体が生えている。男たちが無言で先端を撫で感触を確かめている様子はさながら未知の物体に触る動物を見ているかのようである。少し経つと客席から向かってやや上手側に建つ赤い柱のあたりにいる男(東海林靖志)がその場に横たわる。こうして「2020年人類の旅」なる『HOMO』は静かに幕を開ける。
ネタバレBOX
この作品には三組のダンサー群が登場する。人類最後の生き残りであるHOMO(柴一平、薬師寺綾、渡辺はるか)、一つの人格を複数人で共有する未来の人類LEGO(町田妙子、佐藤琢哉、小松睦、池上たっくん、村井玲美)、歌声でコミュニケーションをとる旧人類CANT(平原慎太郎、高橋真帆、浜田純平、大西彩瑛)。この三組の踊り分けと調和が本作第一の見どころである。
ぜんまいじかけの人形のような角々した動きのHOMOは、エッジが効いた動きが新鮮だが見ているうちに滑稽にも物悲しくも見えてくる。白い衣装が印象的なLEGOは手足をよく伸ばしエレガントな群舞で魅了する。特に女性ダンサーのフリルが黒一面の舞台に美しく旋回して鮮やかである。そしてCANTは下半身の動作とうめき声で相互理解を図る。ダンサーたちは体を密着させたりオランウータンのような鳴き声を上げたりしていて思わず笑みがこぼれる。付言するとこのダンサーのカテゴリの詳細は、会場で販売されていたプロダクション・ノートで鑑賞後に知った。しかし舞台を観ただけで如上の分類はある程度理解することができた。
三組のダンサー群は序盤から中盤にかけてはそれぞれが見せ場をこなす。たとえ舞台上に並んでいたとしてもHOMOやCANTがいる横をLEGOは空気のように通過するだけといった具合で干渉し合わない。彼・彼女らはやがてすこしずつ絡んでいく。この絡み方が面白い。異なる振付や身体の差異があるダンサー同士があるときは拮抗し、またあるときは調和して舞台上にイメージを創り出していく。それは鋭角的でありながら滑らかさが感じられた。きわめつけはハイライトの群舞。しだいに三組の振付の差異は無くなり舞台上に所狭しとダンサーたちが交錯してひとつのうねりのようなものが立ち上がっていく。
音楽(熊地勇太)は近未来的でありながら土臭い粗暴さをのぞかせる。ビート音やノイズが中心だが時折息遣いや鈴虫の声に似た音色が挟み込まれ、人工的なもののなかに天然由来が入り込むゾクゾクした感触が心地よかった。
ラストにHOMOの女性ダンサーがなにかを見つけようと光の指す方向で体を向けるところにLEGOの女性ダンサーが絡み、包み込むようにして体を預ける。そうするとそれまで絶望的な表情であったHOMOの表情がすこし和らいだようにも見えた。作・演出・振付の平原慎太郎が参照したというスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』は、旧人類のメッセージをもとに行動した人類が新人類へと進化するまでを、雄弁な説明を入れず視覚的・音楽的に描いた。本作のラストを人類に対する新人類からの前向きなメッセージととるべきか、はたまた終息の予兆ととるべきか。私はまだ考えあぐねている。
満足度★★★
「本質へ迫る思考の運動」
ネタバレBOX
本作には5人の男女が登場する。大地震が起きた日に帰宅難民となり、被災地の実家を案じながら都内各所を歩き回る就職活動中の女、夫との関係に悩み離婚しようとしていた女、その女に声をかけた文系学生と、復縁を持ちかけようとする夫、そして学生生活や社会人としての日々を回顧しながらフランクルを読む女。以上の人物がそれぞれの身の上話を淡々と語り、舞台上の場所と時間が交錯している。全容を掴むためには強い集中を要した。
私が面白いと感じたのは、俳優の語りが切り替わりるときの舞台の表情の変化である。ある俳優は登場したやにわに観客に向かいひとり語りを続ける。そしてその状態からべつの俳優と会話を交わす。そして会話をしている途中にもひとり語りが挟まりまた会話に戻っていく。
ここには三種類の語りが存在する。独白、対話、そして傍白。この切り替わりはスムースに行われるために見逃しやすいのだが、語りのスイッチが入れ替わるごとに俳優の身体性、方法論が変化する。この切り替わりを照明や音響ではなく俳優の肉体のみで舞台上に乗せ、瞬時に変えようと見せていた点が面白い。
とはいえこの手法だとごまかしがきかず俳優の力量があらわになってしまうため、まだ手探りな状態で演じている者と自家薬籠中にしている者とでは力量の差が出てしまう。なかでも復縁を考える夫を演じた橋本清は、さすがに初演から同役を演じ続けているというだけあって存在感が抜きん出ている。自然とほかの俳優が見劣りしてしまった。
もう一つ、この作品が舞台上に再現した都市の感触は忘れがたい。大掛かりな装置を入れられないSCOOLの白壁にミラーボールや模様で型どられた照明が当たる。そこで文系学生と女が六本木をデートし、OLが別れた男からもらったサボテンの話をしたりする。そこで都会の孤独、きらびやかな灯りが当たらない闇の深さ、物質的には満たされているものの精神的には空虚な都会人の姿が浮かび上がる。本作には都内の地名や映画、音楽や思想などさまざまな固有名詞が登場するが、それらの響きが次第に空虚で、虚飾にまみれたものに聞こえてきた。
上演に先立ち発表された本作の小説版を読んだが、似たような語尾の語りが連続するため舞台版を観るまでは登場人物の人数や性別、関係性を正確には把握することができなかった。しかし上演を観たうえで考えると、小田尚稔が演劇と小説で試みたかったことは、人間は他者をどのように識別するのかという問いを提示することだったのではないだろうか。自分は他人とそんなに違っているのか、違っているとすればそれは何なのか、それは言葉か、それとも肉体かーー本作を観終えたあとに湧いたこれらの問いに対して私はまだ答えを出せないでいる。
本作が小田の企図するとおり、東日本大震災の出来事とカントやフランクルの思索との接続が成立しているのかどうかは私にはわからない。文系学生と女の淡い恋愛模様の破綻であるとか登場人物の身の上話にはあまり興味が湧かなかった。ただ舞台の表層を剥ぎ取り、深く掘り下げてより本質的なものへと接近しようとする思考の運動を体験できたことは、他では得難いものである。それは理論を追い求める哲学者の如き鋭利かつ地道な取り組みの成果だと私は思う。
満足度★★★
「現実と妄想が行き交う巧みな作劇・演出」
劇団ゆうめいが過去の上演履歴のなかからこれまで活動の軸となる三作品を再演する企画「ゆうめいの座標軸」。2019年上演の『姿』上映会やワークショップ発表会を含む大型の催しである。途中『俺』のダブルキャスト中止や『あか』の上演中止が決定。私は上演作品の『弟兄』と『俺』を観劇した。以下の記述は『弟兄』の初日公演を中心としている。
2019年にMITAKA"Next"Selectionで上演された『姿』は、三鷹市芸術文化センター星のホールの広い空間を目一杯使った力作で、2時間近く全く飽きなかった。今回はこまばアゴラ劇場の小空間をどのように使おうとしているのか、期待しながら劇場へ向かった。
ネタバレBOX
場内に入るとブラスバンドによる『ルパン三世のテーマ』や『風になりたい』『LOVEマシーン』の演奏が耳に入る。舞台上に10枚ほど並べられたキャンバスには油絵のような抽象画が飾られている(これらの絵画の由来は『あか』で明かされるとのことだった)。中学・高校の放課後や学園祭の風景を思い出す客入れである。
作・演出の池田亮本人を投影していると思しき主人公の池田(中村亮太)は、中学時代の壮絶ないじめ体験を観客に打ち明ける。舞台上には中学時代の池田(古賀友樹)が登場しその傍らに現在の池田が寄り添いながら物語を進めていく。いじめっ子へ復讐を夢想し、自殺をしようにもできなかった日々を乗り越え高校に進学した池田は、陸上部で親友と出会い、やがて彼を弟と呼ぶようになる(演じるのは古賀友樹・二役)。幸せな時間がずっと続くかに思えたが次第に暗雲が立ち込め……やがて池田は演劇と出合い自身が負った体験を劇化する術を覚えるのだった。
本作第一の魅力はせりふの巧みさである。池田と弟はふたりきりでいじめ体験を茶化しながら湿っぽくなく打ち明け合う。「二人でスイーツパラダイスに入って浮きまくったのを誇ったり、ドンキホーテにいる不良カップルへ気付かれないようにウインクしまくる回数を競ったり」というような逸話も固有名詞の入れ方が絶妙である。やや若書きでぶっきらぼうに聞こえはしたが、作者が書きたかったことはきっとこの弟との日々にあると思えたし、後に知ることになる悲劇を思えばこの二人のやり取りは輝いて見える。
現実を徹底して描く一方、そこに入り込む夢や妄想は強烈な印象である。池田はいじめっ子たちへの復讐をノートに記していたが、それを成し遂げることはできない。代わりにどのように復讐したかったが舞台上に再現される。いじめっ子が飼い犬に食い殺されるであるとか、いじめっ子の家がザリガニの大群に乗っ取られるであるとかが、犬のぬいぐるみや家のミニチュア模型など手の込んだギミックで描かれて面白い。なかでも成長した池田が彼女(鈴木もも)と寝そべっているときに悪夢にうなされる場面は、おかしいながら生々しくもあり苦い見ごたえがした。
さらに音楽の使い方がいい。中学時代の池田は自殺を図ろうと屋上へ登る途中で、高校生たちが部活の顧問のため長渕剛『乾杯』を練習する様子を目にする。稚拙な演奏がサビに近づくにつれて感極まる。この演奏を聞いた池田が「(自分のことを)殺せねえよ」と漏らす場面が目に焼き付いた。また弟が好きだった椎名林檎『女の子はいつでも』が、成長したいじめっ子(小松大二郎)からの逃亡に使われる幕切れが切ない。
2017年2月に初演、同年9月に再演した『弟兄』の三演は「トラウマティックな思い出を消化し劇化したことで実人生がどう変わったか」と銘打たれている(「CoRich舞台芸術まつり!2020 応募公演への意気込み」より)。冒頭の説明でいじめっ子たちに許諾を得て劇化し仮名化、一部にフェイスブックをブロックされたとの説明があったり、成長したいじめっ子に対していじめ体験を劇化していると激白する場面を見ればその企図はわかるものの、やや食い足りないと感じた。それは許諾を得る過程でモデルとなったかつてのいじめっ子たちとどのようなやり取りを交わしたのか、という点をさらっと流したことに覚えた違和感に端を発している。たとえば『俺』の主人公がスマートフォンのアプリを用いて自身の体験を実況中継したように、より現在進行系で内面を吐露する手法を採用すれば本来の上演意図に近づいたのではないかと感じた。
また、なぜいじめっ子は池田をいじめたのか、いじめに走らざるを得ない動機は深くは掘り下げられないため図式的に見えてしまった点は拭い難い。「死ね」という紙を貼られたりザリガニを食わされたりしたいじめのエピソードは強烈ではあるが、被害者の告白にウェイトが置かれすぎており加害者側の言い分が軽視されていると感じたのである。『姿』で描かれたような、両親の不和や虐待がいじめと連関するような場面があってもよかったのではないだろうか。
満足度★★★
「『心の揺れ』を追体験する」
ネタバレBOX
「夢みたいなんです」
主人公・福村洋輔(小濱昭博)は2011年3月に発生した東日本大震災が起きたあとのことを問われ、自身の感慨をこのように述べる。震災による津波で仙台の実家を失った洋輔は、日本各地の災害ボランティアに従事する生活を送っていた。大阪の知的障がい者施設で働いていたときに出会った利用者の盛山和義(澤雅展)と心を通わせるものの、ある日和義が失踪してしまう。和義の行方を追って山に入った洋輔は登山者たちに和義の行方を尋ねて回る。その過程で洋輔のこれまでの来し方が舞台上につまびらかになっていく。神楽を教えてくれた父(小菅紘史)との思い出、震災発生後に困っていた不倫相手のナナエ(あべゆう)に風呂を提供した日のこと、定職に就かない洋輔を心配する幼馴染セージ(澤雅展)に説教されたときのこと、自分に好意を示してくれている和義の姉橙子(阪本麻紀)への想いーー過去に起きた忘れられない出来事と和義を捜索する過程が交互に描かれ、震災が一人の青年にもたらした心の揺れに私たち観客は誘われていく。
和義を捜索する過程で洋輔が出会う登山者たちは、洋輔が過去に関わった人物たちをかわるがわる演じていく。私がまず感心したのは登山者を演じる俳優たちの変身の鮮やかさである。セリフを方言に変えたりバスタオルを羽織るなどするだけなのに、照明と音響の変化も相まって一瞬にしてまるで違う人格に変わる。しかも主人公の洋輔を演じる小濱以外の俳優は何役も兼ねる。作・演出の柳沼昭徳の要求に応えた俳優たちのウデに目を見張った。無論共演者たちの変身に応え、現在の時点から瞬時に過去の洋輔自身を演じ分ける小濱の柔軟さがあってこそ成立している演出と感じた。
音楽の使い方もうまい。もうひとりの出演者というべき中川裕貴は、チェロの独奏で重要な部分を担っていた。特に終盤、洋輔の魂の咆哮を代弁するかのような激しい調べが今でも耳に残っている。また出演者たちは自分の出番を終えると舞台袖でマイクを通して神楽の祭文を吟じ鐘や太鼓を奏でやがて舞台上で舞う。俳優たちの神楽はダイナミックで、ここだけをずっと見ていたいという思いにも駆られた。
本作はトラウマティックな体験をした青年の物語であるからテーマは重い。主人公の悲しみや迷いは観客の心にうず高く積み重なる。その堆積の過程を重荷に感じ見続けることがややしんどくなってしまったという感は否めない。たとえば洋輔とセージが話し込んでいる傍らでブツブツ独り言を繰り返す女装のオッサン(小菅紘史)の様子や、橙子がパソコンで内職をしながら臀部を掻き、その様子を洋輔に見られて思わず恥じらうところなど、クスリと笑ってしまう要素をもう少し付け加えて緊張を解いてほしいと感じた。無論ただメリハリがほしかったというわけではない。些細でくだらないおかしみとともに思い返す出来事は登場人物の陰影をより深めるし、神楽に象徴される洋輔の「復興」「再生」「鎮魂」という願いがより前向きなものになるのではないかと感じたのだ。
果たして洋輔の抱えた問題は解決されないまま幕は降りる。ここは賛否が分かれるところだが、主人公の迷いや葛藤を追体験してきた身としては、せめて「見通し」だけでもいいので何らか方向性を提示してほしかった。