Yuichi Fukazawaの観てきた!クチコミ一覧

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詩×劇 つぶやきと叫び~ふるさとはいまもなお~

詩×劇 つぶやきと叫び~ふるさとはいまもなお~

遊戯空間

上野ストアハウス(東京都)

2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★


「言霊を舞台に乗せる」

 福島在住の詩人・和合亮一が、2011年3月11日の東日本大震災の発生直後からツイッター(当時)で発信した言葉を編み刊行し大きな反響を呼んだ原作を、過去にも和合作品を度々手掛けた篠本賢一が舞台化した。

ネタバレBOX



 冒頭、仮面をつけた女が佇む舞台に向かい客席後方から出演者たちが「黙礼」と題した言葉を読みあげ入場する。こうして和合が発した言葉の数々が、ギリシャ悲劇のコロスのような能楽の謡のような俳優たちによって重層的に、立体的に構築されていく。

 度重なる余震や緊急地震速報のアナウンス、福島第一原子力発電所の爆発による放射能被害など、13年前に観客の誰しもが震撼した災事が頭をよぎり、思わず身を震わせる。言葉を発することでかろうじて正気を保とうとした、和合に象徴される被災者の苦境に思いを馳せた。ただ警報音を用いた演出や災害を扱った内容であるため、事前のアナウンスは必要であったように感じた。

 物語は出演者が群読に合わせ鬼の面を被った女が舞うなか終わる。死者への鎮魂、中央政府への怒り、望郷の想いなどさまざま織り込まれていて圧巻であった。
ナマリの銅像

ナマリの銅像

劇団身体ゲンゴロウ

新宿スターフィールド(東京都)

2024/03/27 (水) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

「イメージの飛躍が際立つ歴史劇」

 2022年初演の劇団代表作の再演である。私は最終日のAキャストを鑑賞した。

ネタバレBOX

 圧政に苦しむ島原の少年益田四郎(初鹿野海雄)は内気で人付き合いがうまくない。友人のハチ(小林かのん)とともにほかの少年たちのからかいの対象となっている。彼らがバイトしているパチンコ店では年貢を納められない百姓たちや、パチンコ玉を拾い陰で銅像を造って売っているナマリ(山﨑紗羅)らがたむろしているのだった。ある日声が出なくなった店長(越智愛)にけしかけられて四郎が客寄せのマイクパフォーマンスをすると皆は一気に惹きつけられる。

 四郎の隠れた才能に目をつけた山田(四家祐志)は一揆軍に加わらないかと誘う。手品の仕掛けに四郎の見事なアジテーションも相まって、山田は四郎を神の子として皆に認めさせることに成功する。こうして一揆軍は原城に籠もり叛乱を続けるのだが……

 私が面白いと感じたのは天草四郎が創られた神であったという取材をもとにさまざまなイメージを作中に展開させた点である。一攫千金を狙う農民たちがパチンコ店に詰めかけ、それをまた搾取する店長という構造を圧政に苦しむ農民に重ねたり、ナマリが銅像を造って売るという行為に四郎の崇拝化を重ねるなど、穏当な歴史劇にしなかった点が面白い。

 しかしこのイメージの豊富さとは裏腹に作劇自体はもう一捻り必要と感じた。一杯飾りのシンプルな舞台にもかかわらず場所の設定がたびたび変わり、一部の俳優が何役か兼ねるため、いま一体何を観ているのかわからなくなっていく事態が頻発した。山田が代官と通じているというのも平板であったし、そのため窮地に追い詰められた四郎の絶望や、神を失いかけた一揆軍の疲弊がまざまざと伝わってこなかったのが残念である。

波間

波間

ブルーエゴナク

森下スタジオ(東京都)

2024/03/15 (金) ~ 2024/03/17 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2024/03/17 (日) 14:00

「夢があぶり出す現実と虚構のあわい」

ネタバレBOX

 青年(大石英史)がひとり椅子を並べている。彼の動きに無駄はない。舞台奥に据えられているマイクに向かい注意深くかつ整然と、40名ほどは座れるであろう観客席を作り上げ、後方のカーテンを閉じると闇が空間を支配する。

 マイクの前に立ち音楽を流す指示を出した青年は、この話は夢のなかの設定であり、この夢から覚めたら自分は死ぬつもりだと観客に向けて語りはじめる。途中、足音もなく闖入者が二人(深澤しほ、田中美希恵)やってきて、椅子に座り青年の声に耳を傾ける。やがて青年は現実の世界で体験した出来事を夢のなかに再現していく。小学校のプールでうまく泳げなかった思い出や、コンビニでの気まずい出来事、学校でクラスメートから嫌がらせをされても友人の曽根ちゃん(平嶋恵璃香)が元気づけてくれたことなど。そのたびに闖入者たちがそれぞれ青年があてがった役回りを演じていく。

 青年と曽根ちゃんは復讐すべく主犯格の久保田(深澤しほ・二役)と東(田中美希恵・二役)に狙いを定めようと話していると、今度はこの二人の夢語りがはじまる。それぞれの語りの場面ではいつの間にか他の俳優が、冒頭のようにマイクに向かい椅子を並べていく。ここでは青年が受けたトラウマティックな体験が加害者の側から描かれる。こうして複数の夢が交錯し現実と虚構のあわいが描かれていく。

 本作第一の魅力はさまざまな演劇的手法を用いたうえでそれを統一して見せていた点である。登場人物が現在進行系で自分の考えや動作内容を述べながら移動する様子はヨン・フォッセの作劇に通じるものがあった。また闖入者たちはさながら能楽師のようにひたひたと舞台端を歩き、入口に見立てたハンガーラックを越えて夢の中へと入ってきた。曽根ちゃんを演じた平嶋恵璃香が夢のなかの出来事を落語のように上下を切りながら語る場面は会場の笑いを誘っていた。手数が多いながらも目線がブレることなく観続けることができた点は特筆に値する。ただし演出のトーンがシリアスなために細かなギャグが客席に通じにくくなったというきらいはあった。

 普段着姿の俳優たちが、パイプ椅子やハンガーラックといった日常的なもので夢の世界を描くという演出のコンセプトもはっきりしている。森下スタジオのがらんどうとした空間を十全に使い、たゆたうような照明と音楽で夢のまどろみを作り上げることに成功していた。カーテンを開くと外の明かりが入り終劇するというのもよく考えられたものである。

 しかし上演を終えて思ったのは、はたして私はいまなにを観たのかという疑問である。これは青年の一人称であり現実の出来事や願望が反映された世界だったのか、はたまた神の視点から複数の人物の夢の交錯を描いたものだったのかが私には得心しかねた。その前提があいまいであることに加え、作品のパーツとしての役割が大きい登場人物たちに感情移入することが難しかった。自死を選ぶまで追い詰められた青年の心の叫びや、他の登場人物が選んだ行動の動機に肉薄できなかったことは残念である。
この世界は、だれのもの

この世界は、だれのもの

ながめくらしつ

現代座会館(東京都)

2024/03/01 (金) ~ 2024/03/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2024/03/01 (金) 19:30

「激しくも静謐な男女の交錯」

ネタバレBOX

 開演前の舞台上に男(目黒陽介)がひとり、椅子に座って小首を垂れている。ときおり宙を仰ぐ目には光が灯っていない。定刻になると袖から他の出演者が舞台上の椅子や机を動かしてあっという間に場面が変わり、いつの間にか男は消える。われわれ観客はこうして「この世界は、だれのもの」の激しくも静謐な世界に誘われる。

 やがて別の男(目黒宏次郎)と女(入手杏奈)によるダンスが始まる。男の首に女が腕を絡ませるところを見ると恋人のようだが、近づくかと思いきや激しい振りへ変わり、やがて離れていってしまう。まるで出会った頃の男女の濃厚なラブシーンが倦怠期に突入し、果ては喧嘩沙汰に発展して分かれていくかのようなカップルの時間の経過を見たような心地になった。

 次の場面で冒頭の男は別の女(安岡あこ)とお手玉のような、パンの種のような、たるみのある白いボールを使ってゲームに興じる。陣取り合戦のようにもオセロのようにも見える他愛のないやり取りがいつしか体を乗り出した奪い合いとなり、ボールの動きは激しさを増す。暗い舞台上にその白さは一層映える。

 こうしてダンスのとジャグリングそれぞれのペアが交互にパフォーマンスを続けていく。ダンスペアで圧巻だったのは、男が椅子の背に手をかけたり女にしがみつかれた状態で見事な倒立を見せたり、長机の背後に張り付き壁に見立てた状態で縁から顔や手を出したところである。まるでスパイダーマンようなしなやかな身体性に目を見張った。机や椅子は出演者が安全にパフォーマンスができるよう、今回のための特注したということにも驚いた(舞台美術:照井旅詩)。他方ジャグリングのペアが見せた、数個の白いリングを腕や首に絡ませて互いの体を近づけては離す、その過程が切ろうとしても切れない縁のようにも、知恵の輪を解くべく苦慮しているようにも見えたところが面白かった。

 全員が無表情ながらペア同士激しく体を使うため、息つく暇のない濃密さに溢れゆたかな感情が交錯しているように感じられた。このように書くと張り詰めた舞台のように思われるだろうが、ゆったりと伸びやかに展開していくというのが本作の大きな特徴である。淡々としていながらも不協和音が耳に残るイーガルのピアノ伴奏や、ダンスやジャグリングに陰影を与えた秋庭颯雅の照明も作品に大きな貢献をしていた。ただ男女が近づいては離れていくという振付やジャグリングに型があるように思えてしまい、先の展開がおおよそ読めてしまうきらいはあった。

 最後は、それまで交わることのなかったペアが合同で綱を引き合う。ここでもペア同士協力し合ったり邪魔をしたりして面白い。しかし高跳びや縄跳びのようなじゃれ合いも見てみたかったというのは無理な頼みだろうか。
エアスイミング

エアスイミング

カリンカ

小劇場 楽園(東京都)

2024/02/28 (水) ~ 2024/03/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2024/02/28 (水) 19:30

「排除された女性たちが突きつけること」

 出演者の熱演と戯曲の強いメッセージが胸を突く1997年イギリス初演の二人芝居である。

ネタバレBOX

 物語は1924年、イギリスの収容施設の場面から始まる。21歳のペルセポネー・ベイカー(橘花梨)は、2年前から収容されているドーラ・キットソン(小口ふみか)とともに風呂掃除をしている。ペルセポネーは上流階級の出身のようで、自分を「魔女」と呼び医師の診断のもと施設へと送り込んだ父親に連絡を取ろうとするものの、外界から閉ざされたこの場では叶わない。対するドーラは歴戦の女性兵士の名を挙げながら兵士のような機敏さでテキパキと掃除をしている。二人はそう遠くない時期にここを出ることを望んでいる点では一致しているが、性格は噛み合わないようだ。

 照明が変わると幾分明るい雰囲気になり第2幕となる。今度はポルフ(橘花梨・二役)が男に襲われたと嘆きながらドルフ(小口ふみか・二役)に泣きつく場面に変わる。ウィッグをかぶりアメリカの俳優で歌手のドリス・デイに憧れているポルフは陽気に「ケ・セラ・セラ」を口ずさみ、その様子をドルフは本を読みながら静かに見守る。

 この二つの幕が交互に続きながら、じょじょにこの4人の登場人物とその関係性が明らかになっていく。ペルセポネーは30歳も年長の既婚男性と恋に落ち子どもをもうけていた。兵士に憧れ葉巻が好きなドーラは男性的と非難されていた。女性の人権が認められていなかった時代に逸脱行動をとったと見做された二人は、反目し合いながら身の上話をするなどして少しずつ距離を縮め、日々の掃除に精を出し、ときに一緒に踊ったりする。ポルフとドルフの幕はより自由で軽やかに、好きな映画や食事の話に花を咲かせる。ここは押し込められたペルセポネーとドーラの想像世界のようにも、晴れて自由になったあとの他愛のやり取りのようにも見えてくる。先の見えない物語を見守る観客に突きつけられるのは、現在にも通じる人権問題への痛烈な批判である。

 本作第一の見どころは俳優の演技合戦と二役の演じ分けである。橘花梨のペルセポネーは、当初『欲望という名の電車』のブランチよろしく浮世離れした様子でドーラに文句ばかり並べていたが、本来は芯が強く包容力のある人物として造形されていた。ポルフを演じたときは屈託のない少女に変化しており俳優としての幅の広さを示していた。小口ふみかは巧みな台詞回しと軽い身のこなしでドーラを演じており、じつはその闊達さが強がりであり少しずつ精気を失っていく過程をうまく表現していた。特に終盤、あまりにも長い収容生活のため時間感覚がなくなり、絶望した気持ちをペルセポネーにぶつけるほどに錯乱していく様子が忘れがたい。二役ドルフも安定していたが、もっと変化が感じられてもよかったように思う。

 私が観たのが初日ゆえか当初は二人とも芝居が固く、自分の台詞を淀みなく発することに集中しており相手の台詞を受けた変化に乏しい印象を受けた。ちいさな劇場であるし収容施設の設定であるならば、もう少し声の大きさを落としてもよかったように思う。しかし中盤を越えたあたりからまばらであった客席の反応が少しずつ静かな熱狂となり、カーテンコールでは喝采となった。印象に残る場面は多いが、中盤と終盤で収容所を抜け出すことを夢見ながら息のあった身振り手振りで空中を掻く「エアスイミング」の場面が忘れがたい。

 楽園の劇場機構の大きな特徴である二面の客席を利用した空間設計もうまい(舞台美術:平山正太郎)。舞台を観るうえで自然と他方の客席の様子と視線が目に入るわけだが、それがまるで公権力によって排除された二人のあがきへの「まなざし」を可視化しているように感じられた。中央に置かれたバスタブと横に置かれた二脚の透明な椅子というシンプルな一杯飾りながら、照明変化や電灯、演技空間を囲む円形のカーテンレールを用いて、ややもするとふさぎがちになりそうな空間に細やかな彩りを与えていた。ただこの趣の妙が収容施設の設定と合致するかは好みが分かれる点とも思う。
 
 次節において私は現代では不適切な表現を使用しているが、差別を助長してはおらず論じるで必要と考えているためあえて記載していることをあらかじめ断っておく。
 
 作中では排除された女性たちが周囲から「精神薄弱」と呼称されたという言及がある。上演台本が底本としているであろう幻戯書房刊の小川公代訳と、サミュエル・フレンチ社刊の原書を参照すると、これは原文のmoral imbecileの邦訳である。パンフレットには「原作への尊厳を計らい時流による台詞の改変を行わ」なかったと付記されているが、上演前のアナウンスもあってしかるべきではなかっただろうか。くわえてトランスセクシュアルの揶揄や露骨に性的な表現が使用されていた点への注意喚起もなかった。細やかな配慮が不可欠であろう本作の上演にあたっては必要な対応であったと思われるため残念に感じている。本国初演からすでに27年経たうえでの上演であることを念頭に、この間起きた社会通念の変化を反映し、歴史的事象を扱っている前提を共有したうえでの上演が求められたのではないか。

 物語は50年収容されたペルセポネーとドーラが解放される第16幕で終わる。声が低くなりゆっくりとした喋り方になった曲がった背中を見ていて、私はこの二人が背負わざるを得なかったものに改めて思いを馳せ強く拳を握っていた。 
あたらしい朝

あたらしい朝

うさぎストライプ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2023/05/03 (水) ~ 2023/05/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2023/05/10 (水)

生者と死者がともにいる世界

 新型コロナウイルスが猛威を振るっていた2020年に上演されたアトリエ公演のリメイクである。多くの人が亡くなり常に死の恐怖と隣り合わせだった感染症禍があってこそ生まれた作品といえるだろう。

ネタバレBOX

 ピンクの自家用車で山道をドライブ中の高木龍之介(木村巴秋)とユリ(清水緑)夫妻は、ヒッチハイクをしている山本ユカリ(北川莉那)を拾い羽田空港へと向かう。ユカリは7年付き合った彼氏に振られ、傷心旅行への道すがらであった。当初はよそよそしかったユカリが同郷の同い年と知ると、ユリはすっかり心を許し、龍之介の反対を押し切って一路東南アジアへと向かうことになった。

 飛行機でユリは龍之介との新婚旅行のときのことを思い出す。客室乗務員(小瀧万梨子)に英語が通じなかったことや、ユリの母の反対を押し切って結婚したことが心残りであったこと、現地でもピンク色のレンタカーに乗って恋愛バラエティ番組「あいのり」よろしく見ず知らずの男女を拾ったこと……到着してメコン川クルーズや寺院参拝などを満喫した3人は、つぎはトルコのイスタンブール、そしてイタリアのヴェネツィアなど世界各地への旅を続けていく。道中ではユカリが相乗りしてきたかなやん(金澤昭)に失恋したり、龍之介が高校時代の知り合いのミキ(菊池佳南)と大沢(亀山浩史)夫妻に出会ったりなどさまざまなことが起こる。この旅のなかで龍之介の存在は徐々に薄まっていき、やがて彼は本来「いないもの」とされてきたことが分かる。

 私が面白いと感じたのは、時間や空間が自在に行き来し、彼岸と此岸の境界が取り払われた作品世界のなか、さまざまな位相にいて本来は邂逅しないはずの登場人物たちが舞台上に出現していた点である。いわば本作の主役はこの荒唐無稽な世界そのものであり、登場人物や描かれたエピソードを鵜呑みにするのではなく、この世界の表象や構成しているパーツと捉えて観てみればわかりやすい。しかもこの荒唐無稽さが極めて自然に、ときにおかしみを交えて描かれていた点が独特である。本来は亡くなっている龍之介とユリが一緒にドライブや旅行に行くことはあり得ないが、二人とも龍之介の死を当然のことと受けとめ、感傷を交え得ることなくイチャつきあっている。ユリはユカリにも龍之介を紹介し、彼が亡くなっていることを示唆するがユカリも動揺していない。無論龍之介が幽霊であるなどという言及もない。この世界のなかでは死は生と地続きなのである。観ていて私は、東日本大震災の直後に被災地のタクシー運転手がしばしば幽霊の客を乗せたという証言を思い出した。そう考えれば、実は生きているのは龍之介ただ一人だという解釈も可能なのかもしれない。

 コロナ禍に伴い大幅な外出制限を経験した我々観客が、感染症と隣り合わせだった人類の歴史に切実な思いを抱く描写があったことも忘れ難い。一部の登場人物がペストマスクを被っていたりひどく咳き込む描写が挟まれていたりしたことに加え、ヴェネツィアの場面でペスト患者の集団墓地の話題や、コレラが蔓延していた時期を描いた映画『ベニスに死す』で使用されたマーラーの「アダージェット」が鼻歌で流れたように聞こえたことなどからも、作者の意図は伺えた。初演では本作の旅行の描写に掻き立てられた観客が多かったであろうことは容易に想像できる。

 数台のパイプ椅子を移動させるだけで車中をレストランに、そして船中に変えるなどテンポの良い展開もうまい。龍之介とユリ、ユカリが海鮮丼を食べている横で、葬式から帰ってきたミキと大沢がいて龍之介の死を示唆したり、数役を兼ねる俳優が旅行の場面で演じる役を自然に入れ替えたりすることで、過去と現在の時間軸をするりと移動させて舞台に厚みを持たせることにも成功していた。奔放に行き交う空間と時間、そして登場人物の移り変わりは目まぐるしく、その後の展開を示唆する歌謡曲や落語を入れ込むなど手数の多い演出は感心したが、果たして自分はいまなにを観ているのかと混乱を覚えたことも事実である。とはいえ本作の感触は他ではなかなか得難いものであったことは疑いえない。

 龍之介の葬儀を終えたユリは、今は亡き母を連れてドライブにいく。道中でヒッチハイクをしている龍之介を拾うと、3人でどこかへと旅立っていく。暗転するなか舞台前方に置かれた花がぼんやりと輝きを放ち、それがこの数年間の死者への鎮魂であるかのように見えたのは私だけではないと思う。
令和5年の廃刀令

令和5年の廃刀令

Aga-risk Entertainment

としま区民センター・小ホール(東京都)

2023/05/01 (月) ~ 2023/05/02 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2023/05/01 (月)

観客が物語の鍵を握る討論劇

 2年前に小学校で発生した日本刀による無差別殺傷事件を受け、某区でタウンミーティング(政治家などが一般市民に対して行う対話型の集会)が催される。歴史上初めて出される廃刀令の是非をめぐり、8人の有識者が1時間に渡り激論を交わしていく。

ネタバレBOX

 司会の宮入智子(前田友里子)からの紹介を待たずして議論の口火を切った社会運動家で元政治家の上林美貴(榎並夕起)は、総人口よりも刀の本数が多い現状を憂い、廃刀令を実現することで安全で安心な世の中を実現するべきと正論を述べる。それに対し全日本刀剣協会で地区支部長を務める隅谷剣慈(矢吹ジャンプ)は、和服に二本差しの姿で「刀は日本人の心」と豪語し、教師全員が帯刀していれば抑止力となり無差別殺傷事件を止めることができたのではと持論を展開し真っ向から対立する。同じく反対派でもジャーナリストの月山亮子(鹿島ゆきこ)は、女性が帯刀することでセクシャルハラスメントの被害を抑止できるという持論を展開。元ヤンキーで傷害事件を起こしたが、今では心を入れ替え刀は抑止力にならないと述べる吉光裕之(斉藤コータ)とは噛み合わない。自分は帯刀しないものの帯刀しないことを中央政府に強要されることは厭うという立場を取る歴史小説家の広木由一(淺越岳人)を除き、刀職人でインスタグラムを通じて美術品としての刀剣の魅力を発信する八鍬舞(江益凛)、刀ではなく鎖鎌の普及を推進するユーチューバーの高橋俊輔(古谷蓮)など、それぞれの立場から好き勝手賛否両論とツッコミを交わし続け、議論は度々横道に逸れる。

 挙げ句ものづくり系ベンチャーの若手社長・瀬戸英典(伊藤圭太)が日本刀に交通系ICカードの機能やモバイルバッテリを搭載した「スマ刀」をプレゼンテーションすると、有識者たちは「スマ刀は日本刀か否か」で議論が割れて収集がつかない。各論者の思惑が交錯し立ち位置が揺れるなか、果たして客席の市民は賛否どちらに票を入れることになるのか――ことの顛末を見守った我々観客はあらかじめ渡された投票用紙の「賛成」「反対」のどちらかを丸で囲み投票箱に入れ、その結果によって二通りの結末が描かれることになる。

 私が面白いと感じたのは実際に杉並区と墨田区、そして私が鑑賞した豊島区の行政施設で上演を実施し、スタッフ全員がフォーマルスーツを装着して現実に行政が実施している行事らしさを演出した点である。結末が観客の投票によって分かれ、会場によっては集計結果を壁に貼り出して掲示したという趣向は感興をそそるし、当事者意識をもって鑑賞した観客も少なくないだろう。こうした独自性を徹底させた制作サイドの手腕は一目に値する。

 さまざまな立場の登場人物による討論劇として一定の説得力を持っていることは先述した通りだが、ところどころに入れ込まれたギャグや小ネタも面白い。傷害事件を起こしたものの更生した吉光が「るろうに先生」としてメディアで有名になったという設定や、公共の場で刀を抜いた写真が拡散したため八鍬がネットで炎上するといった顛末などが特に印象に残っている。俳優たちはやや過剰なまでの力演であったが、それぞれに見せ場があって客席から見てとてもイキイキしていて飽きさせなかった。特に各論者の主張を拾っては自分のそれへと強引に展開させるしたたかな上林を演じた榎並夕起、切れ者でシニカルだが稀に温情を見せる広木を演じた淺越岳人の芝居が印象に残っている。

 私が疑問に感じたのは本作が前提としている日本の歴史変遷と現実に起きている事件との乖離である。月山は、明治維新を経て階級がなくなり、まずは男子から身分を問わず帯刀できるようになり、終戦後に女性の帯刀が許されるようになったと歴史的経緯を説明していた。また隅谷の発言に鑑みると、成人すると親が子どもに刀を贈る習慣があるようだ。実際の歴史では明治期に廃刀令が出たわけだが、徴兵令に伴い武士の帯刀が必要なくなったという背景がある。それでは本作において日本はどの程度の軍事力を有しているのか、帯刀はよしとされるものの抜刀は許されない理由は何故か、海外からはどのような目で見られているのか……以上のような疑問に対する解答が明示されないまま物語が進行していくため、設定そのものに無理があると感じた。例えば日本が現代でも鎖国していて近代化が著しく遅れている全体主義的な国家で、ナショナル・アイデンティティとして帯刀が義務化されているという次第であるならばある程度納得がいくが、舞台上の登場人物はどこにでもいる現代人であり、情報技術へのアクセスも不自由しておらず、思想信条の自由も許されている。コメディとして秀逸なだけに、鑑賞するなかで度々思い浮かんだ設定の齟齬がなおざりのままであることが気になった。

 また現実世界で頻発している銃による無差別殺傷事件にも注意を払う必要があったのではないだろうか。例えばアメリカでは、合衆国憲法修正第二条に基づき武装することが国民の権利であり、建国の精神に繋がるという考え方が根強い。また全米ライフル協会と共和党が強く結びついている事実もある。銃規制が進まず現在でも銃乱射事件が頻発する背景から、本作で語られた以上に根深い断絶を見る思いがする。ノルウェーのウトヤ島で起きた銃乱射事件の犯人が移民に敵意を抱いていたことや、セルビアの銃所持率の高さがユーゴスラビア紛争に起因するなど、市民の武装には根深い背景があることは疑い得ない。コミカルなやりとりが続いたあとの終盤、司会の宮入が立場を無視して迫真の訴えかけをして会場は水を打ったように静まりかえるのだが、この主張が私には深く響いてはこなかったのは残念である。
半魚人たちの戯れ

半魚人たちの戯れ

ダダ・センプチータ

王子小劇場(東京都)

2023/04/13 (木) ~ 2023/04/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2023/04/13 (木)

倫理的な問いかけを放つ近未来の群像劇

 青年期を終え壮年期に移行する人生のひととき、10人の男女がそれぞれの人生に落とし前をつけようともがく人間模様のなかから、近未来の国家統治や科学技術の有り様が浮かび上がる異色の群像劇である。

ネタバレBOX

 バンド「シャムフィッシュ」ボーカルでソングライティングを担う瑠璃(サトモリサトル)は、ベースのかえで(山岡よしき)とともに新しいドラム担当の候補である近藤(大村早紀)とセッションしたものの浮かない顔をしている。前ドラマーであり瑠璃の彼女だったちさ(横室彩紀)を自殺で失ってからというもの、彼はスランプ状態にあった。音楽活動に反対している母とは距離ができてしまい、姉の裕子(梁瀬えみ)に世話を任せきりにしている。物語は瑠璃の家族や音楽活動、バイト先の人間関係などの小景を積み重ねながら展開していく。

 瑠璃の学生時代の音楽仲間のアヤネ(増山紗弓)は、同じく瑠璃の音楽仲間であった平井(小林和葉)が働くレコード会社に所属してヒットを放ち、瑠璃に羨ましがられている。しかし自作と称した作品の多くはすべてゴーストライターが書いたものであるため、彼女は常にやりきれない思いを抱えていた。アヤネは平井にレコード会社を辞めたいと申し出るが、平井は「そうするとお前を潰す。うちの会社はそれができるだけの力がある」と笑わない目で静かに恫喝する。

 瑠璃のバイト先では舞(安齋彩音)が社員の色森(宇都有里紗)の後押しを受け、同棲中の柳楽(志賀耕太郎)にプロポーズする。しかし小説家志望の柳楽は待ってほしいと願い出る。舞は柳楽の小説がディストピアを描き現実に起こってしまっていることを怖がっているため、自分に隠れて小説を書いていた柳楽を咎めるのだが、柳楽は飄々として意に介さない。

 ある日瑠璃の前だけに成仏できないちさの幽霊が現れてからというもの、彼の周囲では不可思議な現象が起こりはじめる。ちさが遺した詞「半魚人たちの戯れ」に曲をつけバンドで演奏した動画はバズり、平井から誘いの声がかかった。ちさは柳楽について瑠璃に「彼は本物だよ」と微笑む。バイト先で旅行の計画をしていた際「海はやめたほうがいい」と瑠璃に忠告したちさの予言どおり、山を選んだ瑠璃と舞、色森の3名と、海を選び旅行に参加しなかった舞の彼氏の柳楽とでは運命が分かれてしまう。

 上述を大枠として、物語はシンプルな漆黒の舞台美術を背景に登場人物たちが対話を重ねつつ、時折なにかに取り憑かれたようにして皆で「ボトンベルトのおかげ」「ムーンショット目標」などと謎めいた文言を群読する場面を挟み進行していく。この場面になると出番のない俳優たちも現れる。それがまるでギリシャ悲劇のコロスのようにも、能の地謡のようにも見えてくる。こうした近未来の不穏な空気感を説明的なセリフを使わずに舞台上にあげようとした作・演出の吉田有希の企みが面白い。

 しかしながら、登場人物たちの芝居が細切れになって進行していくことや、一度にあまりにたくさんの情報が入ってくるため、物語の世界観に馴染むのに時間がかかり芝居を堪能するまでには至らなかった。私が観たのが初日ゆえか俳優たちの芝居がかたく、バイト先でのわんこそばの話題をめぐる瑠璃と舞のノリツッコミや、皆で色森の子供の名前を考えるうちどんどん荒唐無稽なものになってしまうくだりなど、本来であれば会場を湧かせる場面が上滑りしていて残念だった。

 後半になると平井が働くレコード会社が国家権力に近いことや、大やけどを負った柳楽の治療に使われたロボット技術、流産した色森が子宮に残った赤ん坊の細胞を再生させる「受肉サービス」、亡くなった瑠璃と裕子の母親の意識を残す「メタバース」などといった科学技術の設定を通し、全体主義的で軍事的な統治体制にあり、高度に科学技術が発展した日本の姿がむっくりと頭をもたげる。観劇後に「ムーンショット目標」が、実際に内閣府が標榜している科学技術を用いた大胆な課題解決の指針であると知り驚きを覚えた。倫理的な問いかけを通しカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のような問題提起を狙ったのかもしれないが、こうした設定が音楽仲間の嫉妬と羨望、婚期をめぐる男女の葛藤、成仏できない幽霊などというような話題と有機的に噛み合っているとは思えなかった。試みとしては興味深いので、登場人物や設定を絞ったうえで劇化したほうがよかったように思う。
本人たち

本人たち

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

STスポット(神奈川県)

2023/03/24 (金) ~ 2023/03/31 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

言語の仕組みに対する意欲的な考察

 「コロナ禍の時代の上演」を前提として2020年に始動し、何度か上演されてきたプロジェクトの現時点での到達点を示す二本立て公演である。

ネタバレBOX

 第一部「共有するビヘイビア」は出演者である古賀友樹から聞き取りを行ったテキストで上演された。古賀は客席に向けひとり語りを続けるが、なにか意味のある内容を話しているというよりは、心に留まった言葉をダジャレや連想を交えてリズミカルに紡いでいく。客席に向けて「ようこそいらっしゃいました」と語りかけ、観客とじゃんけんに興じたりと終始客席に注意を向けていた。膨大なセリフをよどみなく発しながらなめらかに動いていく様子は達者であり、作・演出が課した高い要求に応えていたことは見事だったが、舞台と客席の間に見えない壁があるように感じた。むしろひとり語りの場面よりはコンピュータの音声と対話するくだりのほうがイキイキしているように見えた。終盤になると場がほぐれてくるからか、照明が点灯したままの状態で観客に目を閉じろと促す「念力暗転」のくだりは面白いと感じた。

 第二部「また会いましょう」では二人の女性(渚まな美、西井裕美)が思い思いに発話を続け舞台上を所狭しと歩き廻る。こちらもまた客席に向け話しかけたかと思えば相手に対し好きな映画について問いかけたり犬を見つけた話をしたりする。しかし対話が成立することはごく稀で噛み合いそうで噛み合わず、基本的には延々と好き勝手にひとり語りを続けているように見える。語りの切り替えはとてもスムーズで聞いていて心地が良い。まるで発話という音楽に合わせたダンス作品を観ているような心地になった。話が袋小路に行く場面がおかしみにまで至ればなお良いのにと思った。

 本公演に貫かれているのはセリフに込められたリアルな感情の再現ではなく、どこまでも醒めてシステマティックな言語の仕組みに対する考察であると私には感じられた。第一部の雑念まみれの客席への語りかけは、人間が発話するまでに交錯する感情の流れを追体験するように感じられたし、雑念が言葉になり発話したところで他者がそのまま受け止められるとは限らない、むしろ誤解されることの方が多いということを第二部で表明していたように思う。言語でしか世界を把握できない人間の哀しさを舞台で観られたのは、他では得難い体験であった。

 ただこの試みは満場の客席を湧かせる大きなうねりのようなものにまで至っていなかったように思う。加えて、第一部で自己開示をしている割に古賀が客席に対し恐れを抱いているかのような目をしていた様子であるとか、第二部で俳優が互いにマスクを外し素顔を見せたときの恥じらいなどのリアルな表現はいかにもナマっぽく、この作品の乾いた感触からは浮いているように見えた。
きく

きく

エンニュイ

SCOOL(東京都)

2023/03/24 (金) ~ 2023/03/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2023/03/24 (金)

発話をめぐる哲学的な洞察

 白壁にアートや落書き、スウェットなどが掛けられた殺風景な空間の真ん中に席が六つ設けられている。「演者のテンションやコンディションで上演時間が変わります」。開演前のアナウンスがかかると男女が席に座りはじめるがなかなか芝居が始まらない。彼・彼女らの関係性は明示されず、なぜそこに腰掛けているのかも不明である。

ネタバレBOX

 そこから他愛のない会話が始まり、物語の主軸は母親が癌と告知された男性A(小林駿)になる。皆はAに「はあ」「そっかぁ」などと声をかける。いまお母さんと一緒にいてあげないと一生後悔するよと声をかけた男性H(オツハタ)に対し、Aは「そんなのわかってるよ」「勝手なこと言うなよ」と怒声を浴びせる。そこからAが身の上話を始めるのだが、じょじょに話題の主軸が他の俳優にずれはじめていく。Aが自身の祖母に言及すると女性B(浦田かもめ)が耳の悪いおばあちゃんの話を始める。やにわに男性C(市川フー)が自分の祖母に関する事実を打ち明ける。BとCの話は重なるようで重ならず、そこにまたべつの女性G(二田絢乃)と男性E(zzzpeaker)が会話に入り込み、以降も主たる発話者の話題をもとにして別の発話者へと主軸が入れ替わっていく。途中で舞台の映像が背景に投影されたり、言及された音楽の映像が流れたりする。果たして主軸はAへと戻っていくのだが、他の人物たちが自分の話をほとんど聞いていなかったことへの怒りを吐露するものの、それをBにたしなめられる。

 私が面白いと感じたのは発話者の主軸が連想ゲームのように切り替わり、ひとつの流れを形成していた点である。他人の話題からまったく別の連想をするというのは日常誰しも覚えがあることだが、そのことを他者に示すということは行われないことだろうし、雑念だらけの内面をそのまま口にしてはただの垂れ流しになってしまうだろう。本作品では俳優の発話方法を対話/独白/傍白などで区切らず、むしろ観客の視点の移動を利用し、その時点で物語の展開の中心にいる人物に話をさせて観客の注目を集め、流れを作っては位相をずらして壊し、また作っては壊しという円環構造が出来上がっていた。これは立派な演劇批評だと思うし、言語で世界を把握する人間の限界を示す哲学的な洞察になっていたと思う。

 しかし後半になってくるとこの流れがやや単調で冗長に感じたということも否めない。ところどころ入れ込まれたギャグや動物を模した動き、終盤で長い筒を用いて「聞く」という動作を立体化して見せた試みなど手数は多いのだが、それがこの作品で用いられた発話者の主軸をずらす方法論の提示とうまく噛み合っていたとは思えなかった。

 とはいえ実体験をもとに他者の話を聞くことの困難さを、こうした形で作品化してみせた長谷川優貴の企みはとても興味深い。終幕にどの観客も覚えたであろう、話をすることの傲慢さやバツの悪さを含めて他では得難い観劇体験であった。
松竹亭一門会Ⅱ 春の祭典スペシャル

松竹亭一門会Ⅱ 春の祭典スペシャル

afterimage

七ツ寺共同スタジオ(愛知県)

2023/03/17 (金) ~ 2023/03/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2023/03/17 (金)

色物としてのコンテンポラリーダンスの可能性

「異常事態です」

 松竹亭白米の引き合いで口上を述べる松竹亭ごみ箱が開口一番会場の笑いを誘う。それもそうだ、コンテンポラリーダンスのカンパニーが落語会を催すとはいかなるものか、すんなり想像できる観客はそう多くはなかっただろう。私は3月27日に「すし組」「そば組」両プログラムを鑑賞した。

ネタバレBOX

 オープニングでは、カンパニー5名が口上の並びのまま上下に首や手先を傾けた落語の所作や扇子を口に含む動作を振付にした工夫と形の綺麗さがまず印象に残る。各自そのまま立ち上がり股を広げ脚を開いてと群舞が始まるが、足袋姿のまま固い床を踏み、裾に絡まりそうになるくらい高く脚を上げる動作にハラハラした。

 すし組のトップバッターは松竹亭撃鉄。映画のサウンドトラックのレコード盤を見せながら、自身の映画愛やランキングをマクラに、ランボーやインディ・ジョーンズ、ジェームズ・ボンドの吹替声真似で、「まんじゅうこわいfrom Hollywood」を披露してくれた。映画のエンドロールに見立てた巻物の小道具も気が利いている。

 すし組二人目の松竹亭青七は古典落語「今戸の狐」である。自身のばくち好きのエピソードをマクラに噺にはいったが、好みを爆発させていた撃鉄を聞いた後なだけパンチに欠けていたように思う。生来生真面目な性格なのだろう、註釈を多めに噺を進めてくれたが、あまり内容に入っていけなかったのは残念である。

 対してそば組一人目は白米。素朴な植木屋が裕福な隠居を真似ようとして起こす滑稽噺「青菜」を、柳かけのくだりでワンカップ大関を出し、鯉の洗いのくだりで缶からシーチキンを出して食べるなど大胆な変化球を入れつつ、ごくごく素直に披露してくれた。

 そば組の二人目、afterimage主宰の松竹亭ズブロッカは、なめらかな口調で「蒟蒻問答」を披露してくれた。六兵衛と僧侶の問答が白熱すると、なぜか舞台上から人形が降りてきて踊りだすという展開に客席は大いに湧いた。ただこの場面は人形ではなくぜひ人間で見たかったと思う。

 仲入り前最後のゲストは両組共通、名古屋で落語会を主宰している登龍亭福三である。名古屋弁の話題から竹川工務店が名古屋城を作ったというオチにつながる「名古屋城築城物語」(すし組)、四つ葉のクローバーを差し出す霊がチャーミングな「善霊」(そば組)、ふたつの新作で力量を示してくれた。

 仲入り後に始まる「ダンスで分かる三方一両損」は本公演のハイライトである。金太郎(撃鉄)が拾った三両を持ち主である吉五郎(ズブロッカ)に返そうとするも、一度落とした金だからと受け取らず、喧嘩するこの二人を大岡越前(白米)が機転を利かせて和解させるという有名な筋を、ナレーションに合わせたダンスでこなしていて度肝を抜かれた。大岡越前の衣装がロボットアニメの敵キャラのように戯画化されていておかしい。

 両組共通でトリはごみ箱の「居残り佐平次」。さすがにほかのダンサーと比べて表情が豊かで間もよく、一番の見応えがした。特に佐平治が身の上話をする瞬間の空間の切り替え方、鮮やかさが印象に残っている。

 椎名林檎とトータス松本の「目抜き通り」をバックにエンディングはゲストを除く5人の群舞である。オープニング同様にハラハラしたが、好き放題やったあとの多幸感とでもいう明るさがあってさわやかな見ごたえがした。

 本公演はダンサーたちが意外なほど愚直に落語に取り組んでいる落語会である。本職と比べ見劣りするのは是非もないが、合間に挟まるダンスプログラムが彩りを添えていた。私はかつて立川談志の独演会で、前座が日本舞踊を踊っていたことを思い出した。最近は寄席や落語会で舞踊を見る機会はあまりないが、噺の合間に漫才や紙切り、モノマネなどと同様にダンスが入れば、演芸の裾野がより広がるようにも思える。そうした意味で私にとっては発見がある興行であった。

 ただ劇場の使い方はいかにも殺風景で物足りない。例えば入り口に演者の名前を染め抜いた昇りを出したり、劇場内の黒壁に寄席に見立て木目調の壁紙を貼るなどの工夫があってよかったのではないだろうか。
少女仮面

少女仮面

ゲッコーパレード

OFF OFFシアター(東京都)

2023/03/16 (木) ~ 2023/03/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2023/03/16 (木)

劇場へのカウンターを提示する

 1969年に早稲田小劇場が初演し第15回岸田國士戯曲賞を受賞したこの唐十郎の代表作は、これまで数多の劇団が上演してきた。これまで一軒家での上演を主としてきたゲッコーパレードが本作を演劇の街下北沢の劇場でどのように上演するのか、まずは興味を惹かれた。

ネタバレBOX

 劇場に入ると舞台下手側と客席の壁を背景に半円状の演技スペースを設け、そこから舞台後方と客席の段差に向け同心円状に椅子を置き新たに客席を設けるという空間設計にまず目を奪われた。いままで見たことがないOFF・OFFシアターの空間の使い方を見ていると、この劇団の劇場に対する姿勢とテント芝居を敢行した唐十郎の姿勢が重なるように思えてきた。

 宝塚歌劇団の伝説的な男役トップスター、春日野八千代に憧れる少女の貝(永濱佑子)は老婆(ナオ フクモト)を伴い春日野が経営する地下喫茶店「肉体」へと向かっている。その頃「肉体」では腹話術師(長順平)が人形(平野光代)を操りながらひとりで対話ごっこをしている。ボーイ(小川哲也)はコーヒーを引っ掛けるなどして腹話術師を軽くあしらい口論になるが、ボーイは腹話術師のことが見えなくなってきている、まるであなたが人形の付属物のようだと主張する。店に入ってきた男(林純平)は喉が乾いているのか、店内の水道の蛇口に口をつけ汚い音を立てて吸い気色が悪い。

 やがて入店した貝と老婆はボーイに春日野への取次を申し出るも断られ、諦めて帰ろうとしたそのとき、奥から春日野八千代を名乗る人物(崎田ゆかり)が出てくる。憧れの人に会えた貝は舞い上がり、『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフになりきって芝居を続ける。しかし春日野は演じていくうちに、自分の肉体はファンによって奪われてしまったと嘆きはじめ、幻想的な存在である自分自身を総括していく。終幕では春日野が慕う甘粕大尉(佐藤冴太郎)が春日野のファンの少女たちを連れて登場するが、彼女たちが春日野に返したいと差し出したものが、春日野をさらなる狂気の世界へと突き落とす。

 伝説的な作品をテキレジせずほぼそのままの形で上演することで、古典としてのアングラ演劇の魅力を堪能できたのはよい機会であった。俳優の熱量や大仰な動作が劇場のサイズとフィットしているのかはやや疑問ではあったが、戯曲の言葉の強度とは合っていると感じた。小川哲也らボーイたちが見せるアンサンブルの妙、林純平の水飲み男が醸し出す退廃的な味わい、そして春日野八千代を演じた崎田ゆかりの狂気の世界に陥る芝居が特に印象的である。

 ただ今となってはやや時代がかって聞こえるセリフや古い固有名詞に対する註釈がないため、偉大な作品を上演するという以上に現代的な意義が感じられなかった点は気になった。劇場での上演に問いを投げかけるこの劇団が、演劇における肉体論がテーマであるところの本作へ新たな解釈を提示してほしかったと思う。
DADA

DADA

幻灯劇場

AI・HALL(兵庫県)

2023/03/03 (金) ~ 2023/03/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2023/03/04 (土)

幽霊たちが奏でるコミカルな音楽劇

 劇団のアンサンブルと若い才能が光る2017年初演の三演である。

ネタバレBOX

 ケン(本城祐哉)とラジョ(布目慶太)は京都駅にある架空の地下鉄、清水線12番出口のコインロッカーに18年前に捨てられた。ふたりはじつの兄弟のように肩を寄せ合い育ってきた。

 駅にはさまざまな理由で現世を去らねばならなかった幽霊たちが行き交い、役人の成仏唯(橘カレン)や、体を売ろうとしているサナエ(鳩川七海)ら人間たちも出入りしている。生前の後悔を晴らせない幽霊たちは成仏することを目指しているのだが、成仏できない幽霊は記憶が薄れてきたり、人間の体を乗っ取ろうとすると魂が消滅してしまうため成仏できないという。ラジョは自分を知るマリ(松本真依)という女性に啓発され、最近記憶が薄れはじめているケンを助けるべく奮闘するが、やがて逃れられない現実に向き合うことになる。

 私が面白いと感じたのは歌唱場面の多彩さである。冒頭で演奏される「京都駅地下鉄清水線」では幽霊たちが傘を差しながら舞台上で「叶わぬ願い 描くほどに/ありえぬ未来 望むほどに」とこの世の無情を歌い、さながら寺山修司の天井桟敷の舞台を見るような感触がした。続いてケンが幽霊たちに「あぁ、成仏せよ」と激しく歌い上げるタイトルチューン「DADA」はロック調、ラジョと因縁のあるマリがトイレで歌う「水はことば」での鮮やかなトイレットペーパーの工夫、終盤でラジョの旅立ちを見守るように再度歌われる「DADA」はミュージカル『RENT』の「No Day But Today」のような爽快感がするなど、幅広い楽曲が聴けて飽きることがなかった。ケンを演じた振付・作曲の本城祐哉の才気が横溢していたし、劇団員のアンサンブルがよく取れていたことも成功の一因だろう。

 私が疑問に感じたのは主に芝居部分の作劇と演出である。開演前に「ゴーストバスターズ」や「お化けのロック」が流れていたこともからも予想できたが、本作の幽霊たちは皆コミカルでまったく怖くない。それはいいのだが、幽霊と人間との差別化ができていたとは言い難いため、彼岸と此岸のあわいを描く設定があまり活きず、クライマックスになってようやく効いてきたために歯がゆい思いがした。そして作中ではキャラクターたちが会話の多くが、本作における幽霊の世界観の説明に費やされていた。そのため物語に入り込む以前に設定に馴染むのに時間がかかってしまった。幽霊が日光に当たると体の一部が大根になってしまうというような場面は面白かったしキャラクターたちは皆チャーミングだが、こうしたコミカルな作劇が照明や音響のどっしりとした感覚とあまり調和しているようにも思えなかった。

 また冒頭の場面からおおよその結末は読めるため、ラストの感動が今ひとつ盛り上がらなかったことも残念である。たしかに作中で幽霊と人間は一種の疑似家族を形成していたが、それが従来の家族像へ問いを投げかけるまでに至ってはいないように思う。ラジョとマリの対話や、人間の体を乗っ取ってまで亡くなった娘のあやめ(今井春菜)に会おうとしたホームレスの幽霊サンショウウオ(藤井颯太郎)の想いなどを通し、子どもを置き去りにすることの暴力性とその背景、親子の未練といった要素を感じたいと思った。
あげとーふ

あげとーふ

無名劇団

無名劇団アトリエ(大阪府)

2023/03/17 (金) ~ 2023/03/21 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2023/03/18 (土)

同級生たちの会話から浮かび上がる普遍性

 2008年の高校演劇の大会で準優勝に輝き、第19回テアトロ新人戯曲賞佳作にも選ばれた作品が、15年の時を経て再演された。

ネタバレBOX

 舞台はアメリカのアリゾナ州。卒業旅行でアメリカ横断の最中である5名の男子高校生は、タイちゃん(粂野泰祐)が発した「あげとーふ(I get off)」の一言で移動中の馬車を降り、そこから5マイルも歩いた先のグランドキャニオン駅にたどり着く。留学経験があり日本で留学生を口説いたこともあるマセたシュート(西ノ原充人)が鉄道会社に電話して確認したところ、つぎに電車が来るまで12時間もかかるという。観光シーズンのため周辺のログキャビンはふさがっており、彼らは一晩駅で過ごさねばならなくなってしまった。

 列車を待つまでの長い時間、ぶっちゃけ話や将来の夢を語り合い盛り上がる5人の会話から、それぞれの人物像が浮かび上がってくる。自分専用の車を持ち免税店でブランド物を土産に買ってこいと家族に請われているリョー(佐伯龍)は一番の金持ちのようだ。景色のきれいなグランドキャニオンに行きたがっている成績優秀なタクトゥ(松田拓士)は、家庭の事情からか達観しすぎた言動でタイちゃんを心配させている。彼らを心配し差し入れを持って現れた現地人のコーディー(太田雄介)に、カン(泉侃生)は自分の進路が絶たれた苦悩を打ち明ける。ネイティブ・アメリカンの精霊(天知翔太)が見守るなか、彼らはやがて内面に隠していた激情をぶつけ合うことになる。

 同級生間の階級格差や家庭問題、エスニックマイノリティやアイデンティティの問題がさらりと書き込まれた本作は、15年前の作品とは思えないほどの新鮮さと切実さを我々につきつける。『テアトロ』2008年8月号掲載の過去の台本と比較すると、時事ネタやギャグが書き換えられていたことに加え、コーディーに該当する人物がおそらく女性の設定で登場人物がナンパしようとしたエピソードがあった。さらに他の登場人物の淡い恋愛話も盛り込まれていた。今回のテキレジによって思春期から青年期へ移行する男性の葛藤や、他者を思いやることの難しさと尊さという作品のメッセージはそのままに、高校生たち5名の初心さが際立ちホモソーシャルの結びつきが強まったように感じられた。彼氏に四股をかけられた女性たちの結託をコミカルに描く同時上演『4人のアケミ』と対比のとれた二本立て興行になったと思う。

 俳優たちは熱演でありエネルギー過剰な役者ぶりが戯曲の求めるアツさに合致していた。20名程度しか入れない小空間で行なうには大仰で空回りしている箇所もなくはなかったが、客席全体でこの芝居を、そして劇団を応援していこうというアットホームな雰囲気は忘れがたい。開演前の島原夏海(劇団代表・脚色・演出)による、コロナ禍を経ても活動を継続していきたい若手中心の公演であるというアナウンスと相まって、地域に根ざした演劇の展望について思いを馳せる貴重な機会となった。
橋の上で

橋の上で

タテヨコ企画

小劇場B1(東京都)

2023/03/08 (水) ~ 2023/03/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2023/03/08 (水)

世間の耳目を集めた事件を総括し未来を見据える討論劇

 新型コロナウイルスの流行前から日本社会が直面してきた諸問題について、少し先の3年後の時点から先取りして観客に提起する意欲作である。

ネタバレBOX

 2026年3月、地方新聞「北部新聞社」生活文化部の若手記者・能瀬美音(いまい彩乃)は、20年前に発生し全国的な注目を集めた「藤平町児童殺人事件」についての企画を提出する。デスクの宍倉勝雄(今村裕次郎)はくらしのニュース向きではないと取り合おうとしないが、偶然部を訪れ当時社会部で宍倉と一緒にこの事件を取材し苦い思い出を持つフリージャーナリストの潟上一穂(舘智子)の後押しを受け、能勢は事件のあらましと企画の意図を同僚たちに披露していく。

 2006年4月、33歳のシングルマザー藤井あかり(リサリーサ)は9歳の娘雫を橋の上で見失う。懸命の捜索もむなしく、翌日川の下流で雫の遺体が発見される。母の真由美(仲坪由紀子)や友人の山本直子(ミレナ)に支えられながらなんとか正気を保とうとしていたあかりだが、雫の事件後の行動について情報を募るビラを撒いたことを刑事に咎められ、地域住民からも奇異な目で見られてしまう。翌月に今度は藤井家と同じ団地に住み雫の友人でもあった7歳の男児・里村尊の遺体が見つかり、尊の両親は尊の失踪後の不可解な行動からあかりが犯人ではないかと疑念を抱くようになる。やがてこの事件は全国から注目を集め藤井家はマスコミの餌食となってしまう。

 男児殺害事件から3週間後に警察から任意同行を求められたあかりは長時間の取り調べのなかで尊の殺害を認め逮捕される。その後の裁判では検察側と弁護側双方による事件の検証やあかりの精神鑑定が行われ、その過程で明らかになるあかりのこれまでの来し方に我々観客は目を奪われる。学校でのいじめや父親の虐待と母親へのDV、予期せぬ妊娠と出産、奔放な男性遍歴、次第に錯乱していく精神状態、そして起こった悲劇……若手ジャーナリストが20年前に起きた事件を総括するなかで、シングルマザーの家庭が置かれた過酷な境遇や社会的包摂の欠如、マスメディアや警察、司法の問題など現代社会の諸問題をあぶり出していく。 

 本作は実際の事件に着想を得、関連文献にあたり劇化した労作である。虐待やDVの描写が含まれているため事前のアナウンスはあったほうがよかったようには思うが、2時間近く飽きさせずグイグイ引っ張っていく作・演出の青木柳葉魚の手腕は大したものである。ジャーナリストの議論劇として始まり、事件推理や裁判劇、そしてある女性の悲劇など、さまざまなジャンルに分類できそうな内容がひとつにまとまっていて感心した。

 俳優たちは自分の持ち役以外にもマスコミや地域住民、警察や教師など何役かを兼ね、舞台の上に複数の時系列を交錯させ厚みを持たせることに成功していた。特に恵まれない環境のなか奮闘する芯の強さと精神的な脆さを併せ持つあかりを演じたリサリーサや、ベテランジャーナリストと朴訥な精神鑑定医を演じ分けた舘智子の達者さ、能勢に他所の縄張りを踏み荒らすような企画を出す奴と難癖をつけた社会部デスクや、警察発表に楯突いたマスコミに癇癪を起こす副署長、女性的な仕草で藤井家を噂する地域住民などを演じ分けた西山竜一の幅の広さが印象に残っている。初日の客席を埋めた男性を中心とした熱心なファンが、俳優の芝居に積極的に反応していた様子も忘れがたい。

 また俳優自身がコの字型の白い木製の台を移動させ、あるときは事件現場の橋、あるときは新聞社のデスクに見立ててといった展開もうまい(舞台美術=濱崎賢二)。シンプルだがアクティブな空間設計で、大きな空間とは言い難い小劇場B1が実に広々と見えた。

 他方で2006年と26年の二つの時系列の結末に置かれている最大の問い――「子どもたちの悲劇はなぜ起きてしまったのか?」「はたして能瀬の企画は採用されるのか?」――の答え、つまり物語の行きつく先がある程度予測できるため、スリリングな展開に至るまでにはならなかった点は残念であった。2006年のパートは実際の事件を元にしているため難しいのかもしれないが、ただ再現ドラマを見ているように感じてしまった。また2026年のパートは物分りがいい記者ばかりでなく能瀬の企画を強く否定する人物を造形するなどして能瀬が奮闘する様子をより緊密に描いてほしいと感じた。くわえて藤井家の複雑さやマスメディアの功罪を描くことに成功していたものの、警察や司法制度は一面的な描かれ方であったため図式的になってしまった点は残念に感じた。

 熱意が実りデジタル版の企画として採用が決まると、能瀬は夜を徹して記事の執筆に勤しむ。潟上から当時の取材ノートを託され奮起した能瀬は、ふと仕事場に差した月明かりを見つめ、それを服役中のあかりがどこか別の場所から見つめる、という場面で幕が下りる。終盤までの熱気が嘘のような静かなエンディングは少し物足りない。欲を言えば能瀬とあかりが相まみえる様子を見てみたいと感じた。
ガラスの動物園

ガラスの動物園

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2022/09/28 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 フランスのオデオン劇場による「ガラスの動物園」(演出=イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)を観た(10月1日[土]夜公演)。本来であれば2年前に来日予定だったものが新型コロナウイルスの流行により2度流れ、3度目にしてようやく上演の運びとなった。チケットカウンターのキャンセル待ちの列と満場の客席が、上演を切望する熱気を伝えてくれた。

ネタバレBOX

 幕開きで客席後方から語り手である長男トム(アントワーヌ・ レナール)がやってくる。最前列の客と手品を興じてから舞台に上がると、そこに広がる穴蔵のような舞台美術がまず衝撃的である。いたるところに顔面を模した模様が描かれた土壁に囲まれる様子は、逃げ出した父親の幻想と世間の目を恐れ隠れるようにして生活しているウィングフィールド家の息苦しさを端的に示していた。部屋の仕切りをあえて作らず、キッチンと階段以外はほとんどセットがない空間設計は、このあとのアクティヴな展開に最適であった。

 イザベル・ユペールの母アマンダは期待以上の大出来。凋落を受け入れられずかつての生活を夢想しながら周囲に当たり散らす凄まじい芝居である。粗雑な手付きで料理を作り、言うことを聞かない子どもたちを叱り飛ばし、来客のためにとまるでゴスロリファッションのようなフリルのドレスを着て少女のように駆け回るなど、さまざまな表情を見せてくれた。ポール・バーホーベンの『エル ELLE』で見せた強さや、逸脱行動に取り憑かれていく狂気ぶりを想起した。細身ながら肉感的で官能的なアマンダであった。

 ユペールの独壇場で進むかと思いきや共演者たちもじょじょに健闘してくる。ジュスティーヌ・バシュレのローラは原作の脚が不自由な設定をそこまで強調せず、多少は内気だがごく普通の女性として描いている。こうすることで自分たちが勝手にコンプレックスだと思いこんでいることが、じつは世間からするとさほど気に病むものではないという、普遍的かつ現代的な解釈を提示していたように思う。ガラスの動物たちを自分の子どものように扱う幼稚さや、コンプレックスと抑圧ゆえの狂気が感じられればなおよかった。

 ローラの相手にと招かれたトムの同僚ジムを演じるシリル・ゲイユは、原作のアイルランド系ではなくアフリカ系の意外な配役。アマンダが南部にいた頃に黒人の召使いがいたことを回想する様子を聞いていたり、劣等感にとらわれず上昇志向をもつことが肝要であるとローラに語りかける様子を見ていて、人種間の権力関係の一側面を提示していたように感じた。これもまた現代的な解釈といえるだろう。

 ところどころテキストを端折りながらあっという間の2時間。数度に渡るカーテンコールと熱狂する観客たちの姿は、これからも折に触れて思い起こすことになるだろう。
ふすまとぐち

ふすまとぐち

ホエイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/05/27 (金) ~ 2022/06/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

行き止まりの家庭に集う人々の末路

 全編津軽弁の激しい応酬が会場を沸かせる家庭劇である。

ネタバレBOX

 小山内家に嫁いできた桜子(三上晴佳)は姑のキヨ(山田百次)の激しいイビりに耐えかね、必要最低限の家事をする以外は押入れに引きこもって生活している。夫のトモノリ(中田麦平)との仲は冷え切っており、トモノリはこの現状に向き合おうとはしていない。数少ない相談相手である義姉の幸子(成田沙織)は悪い人ではないが、桜子の愚痴をそのままキヨに伝えるような無神経ぶりで状況は悪化の一途をたどる。キヨは押入れから桜子を引き出すためにきな臭い「早起きの会」の千久子(赤刎千久子)と沢目(森谷ふみ)を家に呼ぶが、桜子は頑なに応じようとはしない。桜子はキヨのいないところでは押入れから出てきて、最近家中を徘徊している害虫を駆除したり、幸子の娘小幸(井上みなみ)が親戚の幸太郎(中田麦平・二役)にセクハラされようとしたところを助けたりなど家族に対する情はある。しかしその伝え方があまり上手とはいえないようだ。そしてある出来事がキヨの逆鱗に触れ、嫁姑の対立は解決しようのないほどに深刻化してしまう。

 本作の魅力は俳優たちのエネルギッシュな芝居である。キヨを演じた山田百次は怪演であり、一度見たら忘れない押し出しの強さにグイグイ惹きつけられた。孫の小幸を使って食事の味付けが悪いと桜子に難癖をつけたり、桜子が閉めようとした襖戸に腕をはさみ「骨折した」と叫んだりなど、小憎たらしさが光る老婆ぶりであった。対する桜子を演じた三上晴佳は押入れに籠もり続けている頑固さと、いざというときは家族を守ろとうする健気さを感じた。特に終盤、体調が急変し変わり果てた姿のキヨが病院のベッドでうわ言を漏らす様子を見て、桜子が「憎たらしいけど涙がでた。どうしていいかわからない」と嗚咽を漏らした姿が忘れがたい。ほかに頼りがいのないトモノリとわがままな幸太郎を演じ分けた中田麦平の器用さに唸った。ちいさい劇場のためもう少し台詞の音量を絞っていいようには感じたが、出演者が皆イキイキとしていた様子は印象的であった。

 他方で、登場人物たちの描き方が一面的であり、単純な加害者・被害者図式の物語に感じられてしまった点は残念であった。劇中で湧いた数々の疑問ーーなぜキヨは暴君になってしまったのか、トモノリと桜子の溝が深まったのはなぜか、幸子が離婚して実家に戻ってきた理由はなんなのかーーに思いを馳せたものの、明快な答えが見つからないまま消化不良の状態で劇場を後にすることになってしまった。過剰なまでに感情をむき出しにする激しいやりとりの合間に、肚の底に秘めている本音をチラリとでも見せるような場面を入れることで、より多面的に「家族」を描くことができたのではないだろうか。
残火

残火

廃墟文藝部

愛知県芸術劇場 小ホール(愛知県)

2022/05/20 (金) ~ 2022/05/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★

平成年間に翻弄された幼馴染たち

ネタバレBOX

 名古屋市にほど近い商店街でカメラ屋を営む家庭に生まれた峠道久(大野ナツコ)は、2001年のある日に道端でちがう学校の荻窪火花(瀧川ひかる)に声をかけられる。火花は阪神淡路大震災に被災した際片腕を失い、両親を亡くしたため祖母の大峰初枝(おぐりまさこ)のところに身を寄せているのだ。口は悪くすぐ手が出る火花だが、道久とは打ち解けることができた。別の日に道久は写真の現像に訪れていた平坂歩鳥(仲田瑠水)と出会う。歩鳥は学校に飾られている、道久が撮影した火花の写真に惹かれたという。やがて3人は道久の父哲男(松竹亭ごみ箱)が見守るなかで一緒に線香花火で遊ぶ。幼馴染たちにとってこの日は幼少期の輝かしい思い出となった。

 10年後の2011年、成長した歩鳥(あさぎりまとい)は妹の皐月(小津山おず)を伴い名古屋を訪れ、久々に道久(八代将弥)と写真館で再会し旧交を温める。歩鳥はその1ヶ月後に故郷で東日本大震災に被災する。家族ともども無事ではあったがショックで塞ぎこむようになってしまった。火花(元山未奈美)もまた阪神淡路大震災の記憶が蘇り取り乱している。二人の幼馴染を道久は懸命に支えた。やがて道久は写真作品で賞をとりカメラマンとして活動し、6年後、おりしも新元号発表の日に火花にプロポーズする。しかしその日の晩、東海地方に大きな地震が発生し…

 私が興味を惹かれたのは、平成年間を通した幼馴染の男女3名の交流が、大規模災害に翻弄され葛藤する様子を描こうとする作者の意図である。各幕の合間には平成を象徴するような出来事がスクリーンに投射され、自分の人生を振り返りながら作品を観ることができた。おりしも平成レトロブームがいわれる昨今には格好の題材であり、着眼点として面白い。

 だからこそ私は、平成最後に東海大地震が起きたという描写に大きな驚きと戸惑いを覚え、感情の落とし所が見つからなかった。道久は最愛の人を亡くしてしまうわけだが、ただそれだけで予想される大震災の惨状と現代への影響を十分に描ききってはいないように感じた。作中で震災が描かれる旨開幕前にアナウンスがなかったことも残念に感じた。

 俳優陣は健闘しており安心して観続けることができたものの、幼馴染3名の人間関係にはあまりリアリティを感じられなかった。途中まで道久と火花が恋仲であることに気づかず、唐突なプロポーズがとってつけたように思えてしまった。指輪のサイズも知っているというのに、成長した火花と歩鳥が同じ場所にいる描写がなかったのも腑に落ちない。彼・彼女らの微妙な三角関係に男女の機微をもっと感じる場面を入れてほしいと思った。
9人の迷える沖縄人

9人の迷える沖縄人

劇艶おとな団

那覇文化芸術劇場なはーと・小劇場(沖縄県)

2022/05/13 (金) ~ 2022/05/14 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

沖縄復帰50周年を総括する討論劇

 連続上演企画「沖縄・復帰50年現代演劇集inなはーと」の掉尾を飾る作品である。

ネタバレBOX


 1972年の沖縄本土復帰を目前にとある新聞社で沖縄復帰を考える意見交換会が催される。新聞記者(仲嶺優作)の声がけで集まった8人は性別も立場も様々だ。冒頭から「本土復帰」ではなく「祖国復帰」が正しいと主張する独立論者(島袋寛之)は、太平洋戦争以前の琉球侵攻や琉球処分といった歴史的な文脈に言及し、貿易立国としての沖縄をいつか確立するべきだと主張する。それに対して復帰論者(犬養憲子)は沖縄返還協定を踏まえ、現状が本土なみに好転していくことを望むと主張し噛み合わない。沖縄語を話し組踊に秀でた文化人(宇座仁一)は本土復帰によって沖縄の文化が変わっていくことを懸念し、平和運動や基地反対派を馬鹿呼ばわりした本土人(当山彰一)と一触即発の事態となる。本土人は基地の経済効果を重視するが、それに疑問を抱く主婦(上門みき)が厭戦の意を示し、戦争で息子二人を亡くした老婆(伊禮門綾)は「悲しくなるさー」とつぶやく。

 平行線をたどる議論の合間に何度か休憩が挟まる。暗転とともに鳴り響くのは米軍機の飛行音。舞台が明転すると時間が急に現代へと移動する。じつは1972年の物語は虚構であり、現代の俳優たちが今度打つ公演の稽古中だったということがわかるのだ。「有識者」という役柄で出演している俳優(國仲正也)は稽古場にたくさんの本を持ち込み、創作への理解を深めるべく熱心に勉強している。共演者に沖縄の今後について問われ、物流・金融・観光を三本柱にシンガポールのような国にするのがいいと持論を述べる。それに対して若者役の俳優(与那嶺圭一)は、「そんな話したら日本に笑われる」「俺らはいつだって蚊帳の外」とシニカルであり、有識者役の俳優につっかかる。稽古場で立った波風は思いがけない形で彼らの創作に影響し、やがて有識者役の俳優がこの討論劇にのめり込む動機となったあるやりきれない事件のあらましが明らかになっていく。

 本作は沖縄の現代史をよく調べ各キャラクターに落とし込んだ労作である。しかもただ復帰前夜の出来事を描くだけではなく、劇中劇の手法で現代の視点を入れたところが効いている。現代のパートで沖縄復帰当時の声を「本土に復帰してよかったことは、パスポートが必要なくなったこと」「本土に復帰すると雪が降ると思っていた」とスライド投影して紹介しており、新鮮な驚きを覚えた。それに客席がよく反応している。おりしも返還の日を目前の上演で多くの地元民が集い熱気が溢れていた。私が観た回で文化人役の俳優が、1975年の沖縄海洋博では本土企業が全部金を持っていったと回想する場面で、ある観客が「ホントだよね〜」という声を漏らした。舞台で言及される歴史的事象について、臨席同士が解説し合うような場面も見受けた。硬派な題材をじつにアットホームな空間で観ることができたのは稀有な体験であった。

 私が惜しいと感じたのは1972年の劇中劇のパートと現代の稽古場のパートの差異づけが不徹底だった点である。現代の俳優が50年前の物語を演じることで見えてくることが本作の狙いだったろうし、現代の俳優が演じるうえでの戸惑いを述べている場面もあったが、終盤の軸となる有識者と若者の対立を中心に、劇中劇の役柄と現代の役柄がほとんど同じように見えてしまった。現代の俳優たちが50年前の自分とはまったく異なる役を演じるうえで役柄や作品に距離感を抱き、どのようにして役を、そして作品を理解していくかという葛藤をより深く描いたほうが、本来の狙いに近づいたのではないだろうか。

 また劇中劇での白熱した議論が稽古の休憩時間中にまで続き、あたかも新聞の社説や論壇雑誌の記事を読むがごとくに感じてしまった。たとえば現代のパートで俳優たちの生活を感じさせる描写(いつ稽古をしているのか、家族はいるのか、他にどんな仕事をしているのかなど)を入れることで、沖縄の演劇事情そのものを舞台に乗せることも可能であっただろう。そうすれば劇中劇のパートがより深い陰影を持ったのではないか。

 波乱ぶくみの公演がはけたあとに有識者役の俳優は若者役の俳優に声をかける。若者役の俳優は、自分は平和な時代に生まれたから平和を願う気持ちがわからない、それは誰かに壊されてからしかわからないのだろうと言ってその場を去る。「戦後」はいまでも続いているのだということに気付かされる重いひとことであった。
〈シアター風姿花伝劇作家支援公演〉『風-the Wind-』

〈シアター風姿花伝劇作家支援公演〉『風-the Wind-』

HANA'S MELANCHOLY

シアター風姿花伝(東京都)

2022/04/16 (土) ~ 2022/04/25 (月)公演終了

実演鑑賞

肉体の価値をめぐる逍遙

 18歳の女性がさまざまな立場の人物との交流し成長する過程から、肉体の価値についてさまざまな問いを提示する秀作である。2022年4月22日の昼公演を観劇した。

ネタバレBOX


 高常奈菜子(白濱貴子)は束縛の強い母への反抗として、背中に龍のタトゥーを入れようとしている。資金を稼ぐべく向かった先は性風俗店「肉体」。店長の雑木林(松川真也)の値踏みにたじろぎながらも先輩の八菜子(花純あやの)の助けもあり、奈菜子は少しずつ客をつけていく。しかし周囲に相談なくタトゥーを入れたこともあり奈菜子の稼ぎは落ち、恋人の波流(山中啓伍)とも険悪な仲になってしまう。それでも地道に客を取り続けていたある日、身元不明の女性(蓑手美沙絵)からの電話を受けた奈菜子は、その後度々その女性と電話でコミュニケーションを取り続ける。ルーシーと名乗る彼女は、日本から離れた遠い国で奈菜子とはまた異なる状況のなか自身の肉体の危機に直面していたーー。

 私がまず感心したのは作劇の巧みさである。性風俗産業やタトゥーといった万人が馴染み深いとは言い難い業界をよく取材し、説明的な台詞を使わずに構成した作者・一川華の手腕に瞠目した。本筋とは直接関係のない挿話にもリアリティがある。八菜子が回想する東日本大震災発生時と思われる時期の思い出や、奈菜子のことを愛する女性の名前で呼ばせてくれと願う客(粥川大暉)との対話などが作品に厚みを持たせていた。一川の対話を書く能力の高さ、観客に対する信頼が伝わってきた点に好感をもった。
 
 シアター風姿花伝の一杯飾りを巧みに使った大舘実佐子による空間造形もうまい。舞台上にはふたつのドアとカーテン、一台の机とベッドがあるだけなのに、登場人物が入れ替わるごとにタトゥースタジオや「肉体」の店内、奈菜子と波流が暮らす部屋へと流れるように変わっていく。そのためずいぶんと広い空間で芝居が進んでいるような心地になった。

 他方で私が疑問に思ったのは、奈菜子がタトゥーを入れ風俗で己を値踏みする行為と、ルーシーが直面している女性器切除の慣習を同時に問題化することは妥当なのかという点である。冒頭から奈菜子の越し方や葛藤が丁寧に描かれるのに比して、ルーシーとの邂逅はそこまで深くは描かれないため、やや牽強付会な繋げ方になっているように感じた。そのため終盤で奈菜子が彫師の神沼(原田理央)にタトゥーを入れられる様子を前景に、奈菜子がルーシーへ込めたメッセージを紙飛行機に見立て大量に飛ばす本作最大の見せ場がそこまで感興をそそられるものにならなかったのは残念であった。テーマを絞り奈菜子の生活や精神的な成長をより丁寧に描いた方が、男性中心社会における女性にとってのシリアスな問題を浮き彫りにすることができたのではないかと感じた。
 
 私が観劇した回で奈菜子を演じていた白濱貴子は、2時間ほぼ出ずっぱりで奈菜子の精神的な危うさや芯の強さを力演していた。欲を言えば奈菜子の幼稚さ、軽率な行動の根底にある、母親に対する強い対抗意識や自己肯定感の低さといった要素をもう少し感じさせてもらいたかった。

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