ピーター&ザ・スターキャッチャー
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/12/05 (土) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
ノゾエ征爾ワールドを久々に思い出した。今回は海外戯曲の演出だが、新国立劇場<らしからぬ>秀逸な舞台を観たぞ、と心でニヤけっ放しであった。物語が終盤を迎えるまでは。
氏が松尾スズキを師と仰ぐ演劇人である理由が分かり、物語の進行と停滞(戯れ)のバランスと変則表現の挿入が、絶妙なテンポを作り、それを担う役者連、中でも宮崎吐夢が大人計画流の飛躍力(演技の)を発揮。あとは物語がどこに収まるのか、という一点へ、集約されて来る訳であった。
本作はピーターパンのスピンオフ作品の趣きで、ピーターが「パン」という姓が与えられる前、つまり時空を超越した存在となる前、普通の少年だった頃の冒険譚だ。
元々小説があり劇化した2012年トニー賞受賞とのこと。巡り合わせで船倉で旅する事になる孤児3人組と、同じ船に乗り合わせた貿易商の娘モリーが出会い、スターキャッチャーと言われる呪術的な力のある何か、それと関連のある大きなトランク(モリ―の父が娘に託し自分は別の船に乗った)の運搬を使命と請け負い、困難を乗り越えて行く冒険物語は単純に楽しい。
だが物語の終盤、ピーターがピーター・パンとなる経緯があって、最後に「別れ」が訪れる。ここで芝居のトーンが変り、腰砕けに感じられたのは、そこにいたるまで私が「勘違い」しながら芝居を見ていたのか、それとも戯曲の問題か、ノゾエ演出の問題か(戯曲の問題を知りつつ客を勘違いさせ最後まで引っ張った?)。。
もう既に記憶が薄れているが、中盤~終盤の展開は次のような塩梅だ。
少年らが乗った船も少女の父が乗った船も海賊にジャックされるが、2つの船が衝突し、沈没するというので皆逃げ出し、少年少女もそれぞれに島に流れ着く。二少年+少女より能力が抜きん出ているピーターはトランクを周到に上陸させ、追っ手から守るために山に隠す。皆はそれを聞いて喜ぶが、海賊という敵の他、この島の部族という障害も出現。「出し物」を披露して満足させなければ殺されて食べられる的なくだりもあるが、結果的に窮地を脱し、滞在を許される。
さて問題は少女が父から受けていた指示には、トランクを海辺に運び、そこでフタを開ける事とあった。もう一山、大人との攻防がある訳だが結局敵に見つかり、人質を取られトランクを渡す羽目になる。
ちょっと脇道。舞台で増産されていた笑える場面の一つが、中盤ピーターの心意気にモリーが感動して思わずキスをする。ただしモリーがピーターへと歩み寄り、接近する直前にさっとサランラップを取り出して遮蔽した上で行なう方式。
少し時間を遡るが船の大破後、ピーターはトランクを運ぶ途中である人物と出会い、禅問答のような対話の後、いつしか異次元世界に迷い込む。「スターキャッチャー」という超越的な力を持つ物質?について語られ、その人物からピーターは「課題」を渡される。
海岸の場面に戻る。海賊がトランクを開ける場面。すると中には「空っぽ」が入っていた。モリーの父の口から出た「スターキャッチャー」のワードで謎の人物の事を思い出したピーターがそれを話すと、事情を悟ったモリーの父曰く、トランクの中身は正にそのスターキャッチャーであった、ピーターは海に溶け出たスターキャッチャーが導く世界に入ったのだろう。だが・・するとピーターは(謎の人物が仄めかした)時間を超越した存在となるための洗礼を受けてしまった事になる・・。
事情はともあれピーターとの永遠の別れを悟ったモリーは、自分とピーターとの関係を語ろうと言葉を紡いで行く。この言葉が我々とピーターパン、即ち有限な人間と超越的存在が結び合うイメージを提供する。モリーはピーターとの語り合いの時間を終えると、近づき、今度はアクリルボード越しにキスをする(無論これもウケていた)。
芝居の方は皆が去り、ピーターパンが残され、最後は何か象徴的な形状が残像となる暗転、という〆めであったが、このラストが非常に勿体なく、それまで膨らんでいた風船がショボショボと皺になって終わった、というのが私の偽らざる印象。
不満の源は戯曲の台詞か、演出法か、分からないが、ちょっと考えてみる。
・・ピーターパンという存在は、永遠に少年であり続ける存在であり、子供(の心を持つ人間)にしか見えない。「成長」して行く者にとっては、この存在は羨ましくもあるが、むしろ悲しい存在。孤独という文字が浮かぶ。ただ、彼は煉獄に繋がれている訳でなく、止まった時間の中で子供を生きているに過ぎない。
モリーは好き合ったピーターと本当は一緒に成長し、時間を共有して行きたかった。だがそれが叶わないなら、ピーターに会えるのは将来の自分の子供、そして次はその子供たちだ・・そんな具合に自分(と今のピーター)を納得させる言葉をモリーは拾って紡ぐ。
この場面は世俗に生きる者の側が、出家して行く人間と別れを惜しむのに似ている。ピーターは確か一言だけ、「いやだ」と言うが、それはモリーと別れたくないという意味だったのか、皆(が住む世界)と別れるのがいやなのか、自分が何者になっていくのか分からない不安か、それとも子供が一面では「成長」を目指し、背伸びもして生きていくのと全く逆のベクトル「成長しない」時間を強いられるとはっきり悟って「いやだ」と言ったのか・・。
ピーターパンの前日譚として、観客は芝居を観ているから「あのピーターパン」に繋がる話というだけで演劇が果たす「統合」は遂げている、のだが、そもピーターパンとは?という作り手の解釈が、最終場面には反映すると思える。
「不満」の理由がなかなか言葉にしづらいが、「変わらないもの」を巡っての何か、という気がしているので、ネタバレにてまたいずれ。(多分書くと思うが放ったらかしかも)
ミセス・クライン Mrs KLEIN
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2020/12/04 (金) ~ 2020/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★
今年もやってきた風姿花伝プロデュース公演、ほぼレギュラー上村聡演出の海外戯曲だ。フロイトの弟子世代に当たる実在した精神分析医を描いた戯曲で、実在した人物をやるのは今回初めてだと演出は強調していたが、「勝手が違う」感が大きかったのだろうか。
精神分析研究者として一定の地位にあるクライン(那須佐代子)、やはり研究者であるその娘メリッタ(伊勢佳世)、クラインに論文整理を依頼された若い研究者ポーラ(占部房子)。三人が、彼女らの研究対象である精神(=人間存在そのもの)のあり方を巡って厳しく対立し、言葉を応酬する台詞劇だが、軸は母娘の確執である(フロイトの薫陶を受けたクラインに対し、娘は異なる立場を取ったとは史実)。
さて舞台は古い調度と書籍で埋まった研究者のそれらしい部屋(美術:乗峯雅寛)。このプライベートな場所に、ほぼ初対面のポーラを呼び入れた理由を説明するクラインの口は立て板に水、またその口は先頃聞かされた息子の死にもさらりと言及し、「今感傷に浸る暇はない」と深入りしないながら部屋の隅に置かれた息子の子供時代の玩具に手を伸ばして、クラインの職業人の顔と家庭人の顔が序盤で足早に紹介される。インテリらしい、一捻りも二捻りもある台詞が場のテンションを維持し、謎掛けと謎解きのリズムが作られている。
しかし、、この芝居は優れた台詞劇として、台詞が導く芝居ではあるが、台詞の方向付けは演技によって違ってくる面がある。台詞を追いながら同時に、質の違う三女優の演技と交流の仕方も追って行った結果、終演の暗転の時、この劇が目指そうとした目的地は今見て来たものとは違うのではないか、という感覚に襲われた。
その事の前に、久々に拝めた伊勢佳世はその非常に得意とする役柄とは離れていて、役作りに苦慮していると見受けた。母との対決場面や激情に見舞われる場面では「全力投入」してしまい、単色な大声が上滑りして見えた。インテリの役であれば尚更、内からどうしようもなく湧き出る感情と、自分を客観視する=律する視線(役者の目でもある)との引っ張り合いがあるだろう(そこが「役者冥利に尽きる」ポイント?)、そこを掴み損ねて見え大変勿体なく感じた。
それはそれとして先の疑問点。歴史上の人物で母娘の対立も史実に基づくが、作者は母娘の積年の葛藤を、いずれは融けて行くもの(精神分析もそのためにあるもの)として、美しい物語として描こうとしたのだろうか? 母クラインが娘に語る言葉は一見冷たいが、それは「互いが別人格である以上どうしようもないのだ、それでも自分は肉親として娘の自立を切望しているのだ」、と終盤母は畳み掛けるように言う。その前段として、母が否定する学者への娘の傾倒があるが、何が母の逆鱗に触れているのか、若い頃親しい仲だったりして相手のことが判っているのか、それとは逆にクラインの「偏り」が示されているのか、台詞情報だけでは判らない。
また、娘が母の逆を行こうとするのは母への当て付けが理由(あるいは本人も気づかない「無意識」領域?)なのか、それとも母が薫陶を受けたフロイトの時代ではもはやなくなりつつあり、娘は新潮流に傾倒しているに過ぎないのか・・。不明であるがために視点が定まらない部分が大きく開いた感は否めなかった。
ただ伝わって来たのは、如何なる精神状態にあっても決して私情を研究(科学)に持ち込まない節度を堅守するクラインの態度。学説の主張や診断に厳しく求められる「根拠」について「科学者の誠実」が、クラインの姿勢に貫かれていること。
娘や息子も診断の対象とした彼女は、そこに真実を見ている。自らも虐待を受けて育った彼女が息子らを十分に愛せなかった事は自明であり、直視するしかない単なる事実としてあり、彼女は自分にできる事をやるしかないと割り切っている事を言葉で表明する。一方、娘は屈折した感情を表明し続けている(ように見える)。占部房子演じるシングルマザーの研究者は行き係り上この屋敷に滞在しながら時々彼女の仕方で介入し、距離を置きながらも他人事にも思えない風で見ているが、どちらかと言えば娘の側に共感を寄せている。
凡そそのような構図だが、物語の軸である娘の母への反発の、質というか度合いというか、研究への影響の仕方というかが、見えづらかったのはやはり演技の齟齬だろうか。
息子の死の真相を書いた娘メリッタからの手紙を、母クラインは(自分が「鬱」を悪化させないか懸念して)読まない選択をするが、結局口頭で伝えられる。一方占部は気になって現地に電話して真相?を聞き出してクラインに告げるというシーンもあり、観客の興味を引っ張るものの、それが本筋に与える影響も見えづらい。
脚本の説明不足も若干気になる所があったが、私の感じでは、クラインが臨床で探究したフロイトの精神分析学と、これに異を唱えた娘(が師事した学者)との知見の対立を、もっと具体的に理解したかった。戯曲にそれが書き込まれていなかったとすれば、今回の舞台の着地は致し方なかったという事だろう。
花トナレ
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2020/12/01 (火) ~ 2020/12/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
別倉庫に移ったすみだパークスタジオ倉にて千秋楽を拝見。新しい劇場は一見ほぼ前と同じだが天井はやや高め、ステージの奥行きも深い。横幅がやや狭く見えたのは錯覚か。案内された最上段からの俯瞰は中々気持ちが良かった。
毎度お馴染みの九州のどこかの山村のお話。それでも毎度新鮮であるのは台詞の巧さ、役者の巧さ。特徴的な人物、独自の世界観。今回は神業師という世襲制でない(修行による)存在がそれで、議決機関に当たる七人衆の話し合いでも最終決定権は神業師にあるのだが、独特なのは神業師になる人材は一度村を出たが落ちぶれて出戻った者や、傷を抱えた者。ちょうど俗世を逃れ仏門に入るのに近い。
この劇団に以前より感じている事だが、「今」の空気感に鋭く呼応する生き物的な敏感さである。今回はコロナが当然意識されているが、劇団独自の和む前説の工夫や、今まではなかった休憩、「唾を飛ばせない(けどマウスシールドはしない)」等との関わりで言えば、物語時空と素の時空の絶妙で柔軟な往復という役者の技、特にベテラン達がその時々の「物語熱」の濃度調整をピッタリ揃えている風であるのに私は驚いたのだった。
物語中でのコロナの象徴は、この村は吉凶が気に左右されると信じ、め外部の者は結界に当たる台座に厄が抜けるまで座らせ、その口には布を掛けられる。布を取ったり台座を下りようものなら口から不吉が漏れ出るので叱られる。この年、村には赤い花が咲き乱れ、不作に見舞われた(花は形からして彼岸花がモデルで劇中唱えられる朗誦に「曼殊咲く」等とある)。他の地域で「おなら花」と称し匂を発する花が今、不吉の兆候と見られ、花を焼き払う儀式を執り行う決定が為されるが、度々受け入れを打診されていた山民の衆が数名現れ、半ば強引に居座られた後、山民がこの花の球根をこねて饅頭を作る技術(飢饉の時に咲いて人を助ける)を伝え、いずれ来る兆しのある鼠の大群(地嵐だったか地なんとか)には鼠が嫌うこの花が役立つ事も伝え、これを信じる村人とそうでない村人との分裂が起きる。
村全体を食糧不足と不吉(空気)が覆い、不穏に染まる中で、それを中和、ないし風穴を開ける存在が、我々にとっても救いに思える存在として輝く。花を厄災と断じて焼き払いを独断で決行しようとする軍人気質の男(七人衆の一人)とその子分(村の不出来な双子の兄弟)は、少数派にも関わらず村の「不穏」を加速させる(ちょうど自粛警察のように)のに対し、板垣演じる女房のネアカ気質、また彼女らによってどうにか居留が許された山民らの「不吉」に囚われない空気感、特に跳ねっ返りの少女(大手)がKYと行動力の権化で抜けるような爽快感がある。双子の内の一人とこの少女がその相性からカップルとなる恋話もありつつ、村はいよいよ迫った鼠の大群に挑む事となる。
村を出る事になるカップルの瑞々しさや、一致団結し知恵を出し合い、最終的には自己犠牲(恩返し)によって襲撃に対抗した姿は、現実とは真反対の物語である。新型コロナ「対策」においてさえ利権の種にし民をないがしろにする某国の政治、不穏を蒔くだけで知恵の源(情報)を抑制するマスコミ。感動の源は荒廃した現実にある事を思う。
外地の三人姉妹
東京デスロック
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2020/12/12 (土) ~ 2020/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
千秋楽当日思い立って観に行った。予定がなくなってボンヤリしていた所、ハッと時計を見るとギリ間に合うかという時刻。出掛けてみっぺと電車に乗り、当日券で会場中段の良席にありついた。
チェーホフの「かもめ」を植民地統治下の朝鮮を舞台に脚色した「カルメギ」のソン・ギウンが再びチェーホフの長編を翻案した新作。休憩15分込の3時間は全く苦にならず刺激的な時間であった。
翻案とはこうやるものだという見本のような作品である。原作のドラマの骨格と人物の性格属性、エピソードを可能な限り織り込んで、朝鮮北部に居住した日本人家族(福澤家)の1930年代末から日本降伏直前までのあり得た「かも知れない」ドラマが紡がれている。
原作、と言っても戯曲の忠実な上演を直に観た事はなく、凡そ次の梗概を知るのみ。・・かつて軍の高位にあった父の一家がモスクワを遠く離れた田舎暮らしをしており、三姉妹はモスクワでの生活を懐かしく語る。召使を雇い、赴任した軍人に部屋を貸すだけの屋敷を所有していても父の死後零落を余儀なくされており、三人姉妹の誇りであった長男は大学の研究所に残れず地元の娘と結婚してうだつが上がらず博打に手を出し(やがて屋敷を抵当に入れる)、長女オリガは独身で教師の苦労性、次女は教員の夫との結婚生活に幻滅し軍人の一人に横恋慕、三女は自立を求め仕事を始めるも二人の軍人に求婚されて迷った挙句、愛のない結婚を選び、連隊が撤退するその朝に元求婚者から決闘を申し込まれ、応じた婚約者が不幸な死を遂げ、取り残された姉妹たちは身を寄せ合いながら力強く生きて行こうと言う・・。
本作ではモスクワは東京となり、新天地を求めてか元は父の赴任地であったか朝鮮に入った一家は当然ながら当地の人々に対し優位にある構図、とは言え地元の朝鮮人との関係も簡単ではなく、帰郷の願いが根底にある構図も出来ている。三姉妹の身分や職業、長男の凋落ぶり、その妻、三女に言い寄る兵士二人、新任の兵士、付き合いの古い医師など、設定は原作をなぞっている。
チェーホフの作品をよく知る人にはディテイルがどのようにトレースされ、又は改変され、演出や演技がそれをどう処理していたか、といった部分が見えていた事だろうが、自分はあらすじを押さえた程度で後は植民地朝鮮という歴史の上にドラマがどう有機的に絡むかが最大関心であり、原作を鑑賞する場合とのそれが明確な差だ。
翻案版三人姉妹の原作と異なる一つは、三女の婚約相手である。原作では愛だ恋だの悶着を逃れるかのように?打算的にある男性と結婚するが、本作では朝鮮を出自とする日本で育った日本人で、一家に出入りする素朴な青年。吃音で喋る彼と三女とはエスペラント語への関心で通じる。後半日本人居住地区で火事が起こり、避難家族の受け入れ等の作業で疲れ切った夜、様々な人間関係の膿が噴き出す場面となる。ここで働く女性としての悩みに直面する三女へ、長女は「あなたは朴さんと結婚すればいい」と勧める。お似合いの相手であり、ラストでは既に子供も授かり挙式を数日後に控えている、というタイミングで例の決闘事件となる。原作での家族が置かれた条件とは異なる「植民地朝鮮の日本人家族」というドラマでは、悲恋に終るエピソードはそぐわしく「困難」の度合いはむしろ原作より高まりドラマ性は増したように感じる。そして軍人らが「転任」ではなく「撤退」するラストは、通常ならば「民間人を置き去りにして早々と敵前逃亡した日本軍」としてスキャンダラスに語られる史実だが、韓国人である作者の描写は、日本人登場人物ら一人一人を「去り行く者」として括り無常観の中に舞台から消えさせるというものだった。朝鮮側から見れば統治国が撤退し(新たな戦争が待ってはいたが)解放された瞬間である。総員撤退の前、次女の不貞の相手である軍人が撤退前の僅かな時間立ち寄り、一目会ってからと焦る様の未練がましさ滑稽さ、いや醜さは、その罪意識のなさ=愚かさにも通じる。次女が崩れ落ちて大泣きする背後から、常にそうしたように修身担当教員の夫は「昌子」と呼びかけ、こう付け加える。「お前はそうしながらも俺と暮らしていく。」心に迫る言葉を続けるかと思いきや、いつもの如く修身だか借りて来た標語を掲げる。悲しくも笑えるこの夫は夏目真也のキャラならでは。東京デスロックの秘蔵の宝。
いささかコミカルに演出された不倫カップルの別れだが、名残惜しさに何度か繰り返したブチューのキスは「外地」「不貞」「強制された離別」といった興奮材料からの衝動でもあり、勝手な了見で領土にした側がその余禄ゆえの発情に自ら飲まれる様は滑稽で醜い、という含意も(演出家にその意図はなかったにせよ)読み取れる。
全体にリアルが基調で「大陸の時間」が流れるのは演出なのか戯曲の指定か・・例えば人の登退場が一、二言の台詞でリレーするような恰好で(短時間の間に効率よく情報を入れ込むのが脚本執筆術であったりするがその反対に)「時間経過が主役」であるような場面があったりする。大きな時間の流れを、ゆったりと感じながらの3時間が全く無駄に感じられず苦にならないのにはきっと理由があったのに違いない。
最終場では舞台手前右の床蓋が開けられ、階段を下りて日本人が一人ずつ退場した後、地元民である朝鮮人(長男の妻、その若い女中、力仕事をする地元の青年)、そして殺された三女の許婚の朴が、粛々と床に(ピッタリとでなく)蓋をし、その上に白い布をかけて封をする。その布は舞台奥の正面に開幕から掲げられていた映写幕で、日の丸が映っていたのが日本人の退去後に降ろされるのである。一方舞台後方の床に書かれた太極旗の円(赤青)は舞台上がガランとした後にも残り、4人がその周囲を静かに歩き、やがて、手が上がり、足が跳ね、踊りとなる。朴は他の者を見て真似をしている。四人四様の舞が舞われる。その間ずっと(環境音的なノイズは鳴っているが)音楽もなく無音である。伴奏の要らない、何かが満ちていくような踊りの中に、大陸の時間がしっかりと刻まれて行く。残像を残して暗転。
富国強兵路線を突き進んだ日本は「図」を求めたが、広大な中国にまで手を出し、どういう勝利の形を描いて進んだんだか全く分からないという案配だ。「図」を語る言葉が独り歩きする場面を最近身近なところでも見る事が多い。「地」があって初めて図が描ける。図の周囲には地が実は果てしなく続き、そこには(見届けてないという意味で)未知のものがあり、たとえ「図」の見た目が良くてもそれを図たらしめる「地」との関係でしか「図」は存在し得ない事は意外に忘れられがちではないか。
「地に生きる」事を知る者は太極の周りを踊る4人のように語らず、語り得ない事柄を知っている事をその態度によって示すものかも知れない。宣伝文句に踊らされ「図」を信じ買わされた者はかつて馬鹿を見た。その戦前戦中と同程度、馬鹿を見たがっている予備軍が今相当数居るとすれば・・。
去年 -『去年マリエンバードで』より-
KARAS
シアターX(東京都)
2020/12/12 (土) ~ 2020/12/15 (火)公演終了
満足度★★★★★
KARAS in teatreX 3度目だが期待に違わずハイレベルのパフォーマンス。照明、音、踊りそれぞれが舞台上で拮抗している。『去年マリエンバードで』も大昔観ていて最近また懐かしく見直した映画だが1960~70年代に斬新だった映画は今も古くなく蠱惑的。舞台は映画のエッセンスが注入され、私は(「青い目の男」「ゴドー」と同じく)台詞をバックに踊、るのを想像していたがオルガンで攻めてきた(恐らく映画のでなく似せたもの)。闇と光を往き来する間に憂いと熱情が舞台に充満していく。確信と不安の狭間に据え置かれる。
映画では回廊のような白亜の邸(城?)で男女が社交界を演じる中で、ある男が女性(亭主持ち)に言い寄っている。「去年、確かマリエンバードだったか、、あなたは確かに私に言った、1年後にもし会えたらその時は、と。。」女性はけだるそうに「忘れたわ」とだけ答える。
画面が捕らえた人々は無表情、静止が多くカメラも彼らを風景のように舐めながらゆっくりとパンして行く。アテレコのニュアンスのせいか人物らは人形にも見える。男は最後に女性をある場所で待つと告げ、やがてそこに女性は現れ、二人は手を携えて広い庭園をゆっくりと歩いて行くが、カメラは相変わらず感情移入する事なく風景を映している。閉じた人形の世界と決別するエンディングに、旧態依然の体制との訣別というテーマも閃くが、不安は色濃く、単純なハッピーエンディングとも見えなかった。
それに対して舞台では最後に漸く人間同士が相まみえ、照明が落ちる。すれ違いの末の対面は今人間が飢えているものを再び取り戻した未来の図と見え、この舞台の判りやすく心温まるラストになっていた。
シアターXの側面の壁の凹凸まで利用した照明、刺激的な音響(音楽)に加え、今回は舞台各所がせりのように照明と連動して上下し、場面が大きく変化する。アイデア満載な演出だが、大きめの舞台は今回3回目、毎回新しさを感じる。攻めている。
鶏
TinT!
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2020/12/09 (水) ~ 2020/12/13 (日)公演終了
満足度★★★★
漢字一文字のタイトルで3公演目、若い劇団と思いきや、第一回公演から文学座佐川氏ら実力派の名が並ぶ。作・演出としては見なかった名だが社会派歴史劇の趣きもあっておっかなびっくりで観に行った。
KASSAIのステージをディスタンスで眺める格好。白い壁にキャンバス用の金具が付いており、美術館と判るが、「これから架かる」のか「取り外された」跡なのか不明。壁の右手奥が美術館内部、下手袖が外部への出口というシンプルな動線、つなぎを着た2人の学芸員アラン(根来武志)、マルセル(内藤裕志)が輸送対象となった絵画を丁寧に「処置」する作業場が白壁前の狭いエリアであり、また美術への造詣を自認するドイツ輸送担当官の女性カサンドラ(さかい蜜柑)が胸糞悪くなる論評を開陳し、ヒトラーとゲッペルス、そして自分の所蔵とすべく絵画を選定するのもここ。ドイツ人の画商ロルフ(佐川和正)はもみ手しながらカサンドラの選から運よく漏れた絵画(印象派等)の中から抜いているらしいが、この2名と美術館側である館長ジャン(西岡野人)、臨時管理人ヴァロン(染谷歩)の敵対構図、そこに新たにナチスの芸術作品保護担当として着任したヴォルフラム伯爵(桝谷裕)という予期せぬ味方の登場により序盤にドラマ性が高まる。
美術館が舞台という事もあるが、全体に静かな舞台であり、それは作者でもある染谷女史演じるヴァロンが最後まで変えない憂いの表情にも似ている。
評価の中心は戯曲の出来にならざるを得ないが、はっきり言えば序盤からのディテイルに弱さがある。しかし美術品を奪う者たちと対峙しているのは「真に絵を愛する者たち」であり、「本当に絵を愛する者ならば・・するはずだ」という信念、芸術への態度からその者の人間性を読み取る目を武器とし、彼らは「闘っている」という視点が明確にある。
印象的な場面を紹介したくなるがまた後日。
オレステスとピュラデス
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2020/11/28 (土) ~ 2020/12/13 (日)公演終了
満足度★★★★
公演も終盤なので書き込みを・・と思えば先週で終っていた(嚔)。
KAATのホールには4度目。夏の「人類史」ではかぶりつきだったが、今回は2階席から、シーリングの照明機材も(山頂から雲みたく)見下ろす角度で壮観である。思わぬ良席にありついたと心踊ったが、懸念はこのところの眠気。熟睡は免れたが、遠目には表情が見えづらく、目を凝らすうちに斑に抜けた。
まず主役2人が若手のイケメン、自分は承知しないが終演後周りを見渡せばほとんどが女性(しかも相対的に若い)。ホールで開催される公演はエンタメ系・商業系が占めていたが、集客の算段を思えば切実な問題のようだ(まあ想像の範囲であるが)。KUNIO演出のギリシャ悲劇シリーズ第三弾の注目はなんと言っても瀬戸山美咲のオリジナルである点だ。この無謀とも思える挑戦がどれほどの成果を出したか、レビューの焦点もそれを於いてはない。
トロイヤ戦争から数年ぶりに凱旋したアガメムノンが、情夫アイギストスと共謀した妻クリュタイムネストラに殺され、その母の裏切りを許せず息子オレステスが母殺害に及ぶという有名な悲劇があるが、この話の「その後」を、オレステスのの友ピュラデスとの関係を軸に・・というのがKUNIO氏から瀬戸山女史へのオファーという事である。オレステス役に鈴木仁、ピュラデス役に濱田龍臣、旅の途中トロイアで出会う女性に趣里、ピュラデスの父に大鶴義丹。他10名がコロスである。
まず勿体ない感を残すのは、本作は結果的に現代性の濃い劇となったが、この現代性と、コロスとの「そぐわなさ」だ。「型」の決まった動き・声の強さは部分的にあるが、他の場面では「個」としての存在感を部分的に与えられたりするのが中途半端、カーテンコールの時にコロスたちの働きも称えるべきなのだが、「出番の少ない人たち」に終った嫌いはないか・・と。
母を殺したオレステスは「義」による行為だとしても罪は逃れられない。アテネを追われる身となるとき、友ピュラデスが父の反対に抗してオレステスと同道する事を決め、親子の縁を切られてしまう。二人はある目的地に向かって旅をするが、旅そのものが友情の証である二人の蜜月は、トロイアでオレステスがある女性と出会う事で終わりを迎える。オレステスは女とトロイアで暮らすと言い、ピュラデスは家族との縁を切ってオレステスとの友情を選んだ自分はどうなるのかと嘆き訴える。オレステスは「君も一緒に暮らすんだよ」と誘うが、この時点でピュラデスの描くオレステスとの関係と、オレステスのそれには質的な差があり、見るからに三角関係を呈する。ここからが瀬戸山女史の現代性(限界)と、力業でラストに導く叙述となる。
趣里演じる女とオレステスは一目で惹かれ合った若者同士。ピュラデスは二人の濁りの無さに向ける矛先を失い、苦悩した末、投身自殺を図るべく崖の上らしい場所へと歩いて行く。この時点でオレステスの存在がぼやけていると感じるのだがそれはともかく、女はピュラデスの行動に気づき、追って来て「オレステスのために生きてくれ」と頼むという展開になる。
私はここで「もしやギリシャ悲劇の鉱脈を見つけたか」と予感がよぎった。
敗北した国の民の末路は悲惨であり、今訪れているトロイアの風景には見えていないが、「女」はいたぶられ怨念を抱えた存在であり、復讐だけを目的に生きている人間・・だとすれば、国を滅ぼした張本人であるアガメムノンの息子オレステスはその復讐を遂げる相手に不足はない。ここを死に場所と、女はピュラデスに何らかの促しを行い、オレステスの前で身を投げて死ぬ、という行動に出るのではないかと、予感したのであった。残酷で救いの無い、しかしそこが魅力であるギリシャ悲劇だ・・。
もっとも、劇はそのようには進まず、ピュラデスをますます強く説得しようとする女ともみ合いになり、女を不可抗力で崖から突き落とす事になる。「人殺し」となったピュラデスが、自分を支配していた嫉妬から我に返り、罪にさいなまれる。
ここで登場するのは、人間に火を教えたプロメテウス(大鶴)。ステージ中央の細長く高い台上に派手に登場する。人間に与える神託のように高尚な言葉をピュラデスに向けて語り込む。即ち現代の戦争の加害と赦し、嘘の弥縫策で未来を遠ざけるのでなく真実で未来へ踏み出すメッセージを、見事に語り切る(ギリシャの詩劇の台詞量に見合う)。
コロスによるラップに乗せたメッセージは確かこのあたりで披露されたが、熱く迫ってくるものがあった。
ピュラデスは、自分が授かった使命に生きる事を決意し、再び旅に出ようとするが、プロメテウスは「女」は死んではいないと言い、すんでの所でつかんである場所(二人が目指していた目的地)に飛ばしたと告げたから、オレステスもまた同じ旅の目標が出来た。という事で、「旅立ち」の大団円で劇は終了する。
総評的に書けば、行動を紡ぐのが演劇だとすれば、この作品は言葉の世界に相当程度依存しており、見終えたあと残るのも言葉で、人の行動の残像ではない。そこが不満ではあったが、「直視し」「記憶し」「伝えよ」のメッセージを残す本作は「今に呼応すべき」演劇の一つの正解ではないのか?という思いももたげる。
紛争地域から生まれた演劇シリーズ12
公益社団法人 国際演劇協会 日本センター
東京芸術劇場アトリエウエスト(東京都)
2020/12/11 (金) ~ 2020/12/13 (日)公演終了
満足度★★★★
毎回情報を得た時には完売のパターンで2012年「第三世代」から数えて今回で鑑賞4度目であった。それぞれ興味深い内容で少なからずカルチャーショックを受けた事を思い出す。それを求めて普段は想像してみさえしない国・地域の演劇を観に行く。
さて1演目のみ上演の年は今回初めてで、芸劇アトリエでのリーディングという風情は変わらぬものの(主催側の構えも違う=一作入魂?という事なのか)1500円のリーディングならこの程度、という枠をかなり超えていた。小林七緒演出、彼女の所属劇団(流山児事務所)の常連でもある諏訪創が音楽をふんだんに提供し、これが最初現地での上演から借りたものと思った程異国情緒がネイティブ。キャストはその前提での布陣か、山﨑薫を始め、ソロでは井上加奈子等、群唱も迫力あり。音楽劇の趣きもあった。
イスラエル・ラビン首相の暗殺を題材にした演劇を、あるセンター(何等かの問題を抱えた人が集う施設)のメンバーによって上演される時間が、この芝居の時間である。冒頭、このリーディング上演と劇中劇上演を兼ねた開始の挨拶を演出小林女史(多分)が行なう。またこのリーディングの主催団体の担当者が、劇中の近い役に動員され「らしさ」が活きている。10名前後の役者も最高齢だろう藤井びん以下各年代にバラけ、キャラも各様で良い空気感である。・・と思ったのだが、どうやらそう感じたのは皆登場した後、台詞のない時間「出番の無い時に座る椅子」に座っていても「役」を演じ続けているからだ、と思い当る。細長いアトリエウエストに、一段高い木製の台がステージとして横長に置かれ、その向こう側に椅子が並び、役者、というより劇中の役者(センターのメンバー)が待機する場になるが、誰かが喋るとにやけたり、感情を表出したり、劇に割って入って止めたりする。彼らはこの演劇を自分たちの「問題への取り組み」の成果として一般の観客(それは市民であったり関係者、または行政担当者、あるいは政治家を想定しているかも知れない)に披露し、理解してもらおうという姿勢が滲んでいる。中断した演劇を再開したりそこで生じた事態に介入する際に観客に向かって説明を行う場面もある。
上演している現実の時間と、劇中の時間とは錯綜するものの、役名の札を下げたり演技モードが変わるため「劇中劇」との境目は判りやすい(事情に疎い観客には劇構造が飲み込みやすい事はとても重要)。
ラビン暗殺という結末に至る劇と、それを中断するメンバーによる自己主張がどのような言葉を紡ぎ具体的に何を問題にしているのかは判然としない。だが「首相」という役にしては彼に異を唱える者が多く、しかし「劇」は彼を肯定的に位置づけている事は判り、その役を演じるビンデル(藤井びん)個人は「首相」の立ち位置と同期している事も分かる(後で読んだ解説では劇作りを提案し主導したのはビンデル)。それがため首相と反首相派という劇中の関係のみならず現実(劇が止まった時間)でもビンデルが説得姿勢で相手と対峙する場面がある、というのも何となく。
そのあたりで漸く私はイスラエルで唯一「パレスチナとの対決姿勢を崩した」首相、即ちかのオスロ合意に調印した「和平に勇気をもって踏み出した英雄(恐らく作者にとって)」という史実に結びついた。なぜ彼は暗殺されたのか、この事実と今どう向き合うべきなのか・・この問いがこの劇の問いであり劇を上演するというシチュエーションにおける対話と事象を通して問おうとした問いである、(という風な状況が描かれている)と判る。
平和を望むイスラエル人が、その後再び訪れていない雪解けを無にした事件を痛恨の思いで振り返るのだろうその思いを、伝え想像させる熱量のある戯曲であった。
ラスト、首相を射殺する暗殺者役の若者は、実弾の入った銃で「ビンデル」を打ち殺す。戯曲の言葉を十分に追えていない自分には唐突な展開であるが、現実の社会にある対立構図はセンターの中にも拭い難くあり、ビンデルにとっての理想に近づく手段としての劇作りは、同じく理想に近づこうとしたラビンの行動と同質のものであり、ラビンが受けた「制裁」は当然にビンデルに与えられるというイスラエルの現実を映した。もっと想像を広げれば、ラビン元首相に言及する事それ自体がタブーなのかも知れない。日本にもタブーが随分と増えた気がする。
ブカブカジョーシブカジョーシ
オフィスコットーネ
小劇場B1(東京都)
2020/11/12 (木) ~ 2020/12/10 (木)公演終了
満足度★★★★
コメントしていなかった。
配信期間が長かったので何週間か空けて二度目を視聴したが、中盤を随分忘れていた、というより一度目は途中半分程見ていなかった(「少し意識が飛んだ」自覚はあったがこれほど長かったとは)。
会社人間である課長(高田恵篤)と、扱いにくい神経質な部下(野坂弘)のコミュニケーション齟齬から破滅的な結末へ至る話。上司が幻影を見ているのか、実は部下の幻覚なのか、それとも現実なのか・・不分明だが、見終えた時課長にとって会社、人生とは何か、彼は何に納得して生きている(きた)のか、問いが残る。現代ではこういう「会社人間」的存在はシーラカンスであるかも知れないが、吹く風になびいて人が右往左往する風景は会社という建物を出て広がっているかも知れない。
舞台は開帳場のような四角の台の奥に背中合わせのデスクが置かれているのみ。周囲は暗く、居て落ち着く場はない。他の登場人物は、課長演じる高田が部下の母を(部下の自宅)、部下を演じる野坂が課長の上司(部長・社長・専務3人セット)と、課長の妻(課長の自宅)を、コピー紙にマーカーで目鼻を描き殴ったような面を付けて演じる。常に狂気を帯びた部下は上司を翻弄する。部下の狂気がエスカレートするのか上司の精神が揺らいで風景が歪んで行くのか・・作者大竹野がどう書いたかは分からないが、最後に命果てた課長は「会社人生」の残骸に見える。
人が不安に見舞われる時、確かに「見たくない」光景が脳裏を掠めている。想像に過ぎないそれは得てして生々しく、ただしそれは殆ど意識されずただ怖気だけを残す。この芝居はその光景を描き出したようにも見える。だが作者的狙いは恐らく(庭劇団ペニノが以前作っていたという)深層心理の映像化、とは異なる感じ。部下は、標準的会社人間である上司を効果的に追い込む攻撃を繰り出すものの、それが確信犯であるのか逆なのかは、どちらとも読めるというサスペンスな作りになっている。そして二人のやり取りの中に社会批評が読み取れる、という構図になっていると思う。
部下が自宅で母とかわす会話には、彼が神経病みである線が強く滲むが(彼は今29歳で以前やっていた登山の仲間から電話で誘いがあったと伝え、健やかでスポーティだった息子に戻って欲しい願いを込めて誘いに応じる事を勧める)、他の場面=会社では上司側から見た部下が、確実に上司に打撃を加えようとして来ているように見える、
境界線上を行くような不条理劇が領分とも言える佃氏の演出は、激しく緩急がありかつ不気味に不安の漂う舞台を作っていた。
ガールズ・イン・クライシス
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2020/12/04 (金) ~ 2020/12/16 (水)公演終了
満足度★★★★
配信で拝見。
演出家・生田みゆきの名はよく知るが実際に観たのは初めてか。
戯曲もぶっ飛んだ内容だが演出も負けじと飛んでいた。だが演出の言葉によれば原作は移民問題がテーマとなっていると言い、終盤その問題を連想させる場面が僅かにあるものの上記の通りなら演出は明らかに強調点を変えている。
感覚的なものだが今の状況で書かれた戯曲ではないかと思い、すぐさまデータを見返した。2017年作であった。
最初「女性の自立」路線の話かと思いきや、現状を脱して「次」のステージを求める主人公が、やがて破綻を迎える。コロナ状況をどう捉えるかにも拠るが、コロナは文明の矛盾をあぶり出し、人間の本性を、文明(科学主義・進歩主義)に依存した人間の脆弱さを暴く。
主人公は自分の望む未来を「ある物」を手に入れる事で手にしようとするが「ある物」の欠点への不満はその製造者へのクレームとなり、理想を追うかに見えた彼女の実像は結局怠惰な「消費者」へと矮小化していく。容姿も整った主人公と、いきさつあって友達となるデブ子の存在が面白い対比となって効果的。
断食芸人
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2020/12/08 (火) ~ 2020/12/08 (火)公演終了
満足度★★★★
シアターX独特の主催行事は多々あるが今回は<一人芝居>試演会vol.5、前半最後の演目との事で「一発限り」の上演を観た。(後半の5名による試演は来年3月頃より順次実施との事。)
服部吉次によるカフカの短編の上演。舞台奥のパネルの一部が外れ道具類が見える隙間から、スタスタ登場した氏の右手には紙が握られており、「読むのか・・」と思っていると、イソップ寓話の一話をやろうという。舞台役者たる氏一流の耳心地良い口上で、4行ばかりの話の朗読を挟みつつ「皆さんとこれをやる」との提案。やんわりかつ強引な動員による大がかりな客いじりの後、本編へ。
舞台脇にも客席を置いた三方客席に挟まれたステージ前方で、カフカの風変わりな(という事はカフカらしい)短編が始まった。服部吉次という俳優の面白さが、このステージの面白さの全てと言って良く、それはシアターX恒例の上演後交流会での服部氏の語りに続く。とりわけ黒テント役者(それ以前に音楽一家出身)の面目躍如たるオープニングとラスト(と途中にも一箇所)の生ソプラノサックスが聴かせる。黒テント芝居が音楽抜きに語れぬのと同じく、服部氏のこの作品の解釈(又はカフカ理解、又は本上演の文脈)に関わる何かを感じさせるのである。(氏の音楽への造詣を知った思い出として・・黒テントの2007年「上海ブギウギ」の幕間で斎藤晴彦と二人で披露した懐かしの楽曲を巡る歌・演奏込みの丁々発止。両者一歩も引かぬ凄技であった。)
一人芝居研究会?は数年来シアターXでレパ上演(ローズ)を続けて来た志賀澤子が別作品をやる他、石井くに子、谷田川さほとベテラン役者が名を連ね、作品の方ではやや若手の女優が石原燃戯曲に挑戦するようで楽しみ。
妖怪の国の与太郎(再演)
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡市民文化会館(静岡県)
2020/12/19 (土) ~ 2020/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★
12/5無料配信を拝見。今年は2月に訪れて以来ご無沙汰のSPACだが、やはり上質なものを作る。最近この話ばかりだが体調による睡魔が後半訪れ、無念。大団円の所で目が開いた。12月後半の静岡公演にゃ、俄然行きたくなった。するてえと、無料配信にまんまとしてやられたてえ塩梅だな。
You'll Never Walk Alone
青春事情
ザ・スズナリ(東京都)
2020/11/26 (木) ~ 2020/11/29 (日)公演終了
満足度★★★★
映像配信で拝見。画像音声ともパソコンで十分見やすく「劇」に堪能できた。ウェルメイドでも嫌味が全くなくストーリー展開が自然に入って来るこういう作品は「降って来た」ものでは?等と想像する(初めての劇団で何も知らないが)。
冒頭はサッカー観戦の光景。接点のある4組それぞれの人間模様が描かれ、ラストに同じ観客席のシーンに戻る。赤の他人同士の観客席が群像に見え感慨が打ち寄せるという塩梅式。人間模様の断面の見せ方がうまい。人の内にある目立たないが動かし難い思いが、小さな変化を起こす。微妙な変化を演じる役者も何気に貢献。
演出的な最大の貢献は「応援の声」。バラエティに富む応援ソングが試合が進むにつれ熱を帯び、情緒を掻き立てる。
彼らの姿は非日常を求めて劇場へ通う我々に似ているが、彼らの日常とサッカーとの関係について想像を巡らした。
Knife
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2020/12/03 (木) ~ 2020/12/06 (日)公演終了
満足度★★★★
小野寺修二がここ数年所縁のKAAT公演で接点のあったベトナム人ダンサーや台湾人ダンサー、シアターXで協働したろう者劇団のダンサーとで製作したステージ。
過去に観た『変身』『椿姫』『あの大鴉、さえも』等、原作という土台からの小野寺流の飛翔・抽象化を味わう観劇と違って(それでも相当程度抽象性は高い)、新作舞台ではあるテーマを「巡っている」感覚を覚えるものの正解には辿りつかない。
小野寺修二の舞台は装置の比重も大きい(動きがセットとの組み合わせで作られている)。原田愛による装置は足が不揃いのテーブルが斜面を作ったり組み合わせて広いテーブル状となったりひっくり返すと奇妙な形状の容器に見えたりする。摩訶不思議感が舞台に充満している。小野寺氏の振付はマイム畑だけにユーモアがありデラシネラの片腕藤田桃子の身体のキレも人間の滑稽さに収斂する「技」が秀逸、他の踊り手もスポット場面を持つが、やはり凄いのはアンサンブル。
70分のステージの「世界観」は私の受け止めでは「境界」「封鎖」、閉じられた世界で生きざるを得ない状況が大きな枠組としてある。ただし彼らの中では別種の存在、すなわち出入り自由な管理人ないし支配者が認識されており(それに当たる役が登場)、非対称が常態となった(支配関係が固定化した)時空の中で、しかし彼らなりに濃密な人生の時間が刻まれているようだ。虫にも一分の魂ではないが、巨視的視点と微視的視点の双方へ誘われる感じがあった。
難解さについて考えるに、小野寺氏は自身にとって具体的な何か(具象や概念)を「動き」=比喩に落とし込む作業がある部分で為されているのではないか。ダンサーや振付師なりの身体言語(表現)体系の「内部」で完結した表現ではなく「翻訳語」(ロゴス=意味に対応する身体表現を探し当てたもの)が混在している、ゆえの抽象性ではないかと思うフシがある。全くの推測だが。
[Go Toイベント]詩X劇 フクシマの屈折率
遊戯空間
上野ストアハウス(東京都)
2020/12/03 (木) ~ 2020/12/06 (日)公演終了
満足度★★★★
前方下手寄りの席に座り、開演するとステージ上手側面に透明ボードで仕切ったブースが浮かび、中に演奏者が見える。「見やすいラッキー」と見ると、奥にキーボード奏者が居る手前にもう一名居るらしく、楽譜めくり?まさか、と思って終演後パンフを見るとなんとチェロだった。
開幕後、間歇的な音の中で白いビニル(防護服かその暗喩か)をまとった俳優らが一人また一人と出てくる(一名のみ男性で黒)。「詩」が始まると声(まずは演出篠田氏の低音)が心地よく耳をくすぐり、詩の内容はタイトルから想像され、シリアスの予兆はあるものの静謐な導入に居心地がよくなる。・・私めはこのあたりで野太い睡魔がもたげ、前夜の睡眠2時間の体調が表に出てきた。
耳は「言葉」を聴こうと試みるが言語認識(音から意味への変換)は追い付かず、「観劇」しているつもりで終ってみれば敗北。この舞台にとって全てと言える「言葉」を取り逃した。
痛恨の観劇であったが、五感で受けた印象だけ記せば・・
遊戯空間の「詩×劇」と言えば2年前新宿でやはり和合亮一氏の「詩の礫」を元に構成したものを観た。「詩」・「劇」を謳う通り舞台での主役は「詩(言葉)」であり、パフォーマー=語り手は言葉に命を吹き込むように声を出し、動き、位置取り、大勢で畳みかけ、静寂と闇の際が見えた。新宿文化センターでは観客は床の上に座る格好、役者をほぼ見上げる形で、「地面」を意識した。言語を際立たせるための発声と動き、という関係性は<地点>に似る。「仮名手本忠臣蔵」に通じるが出演者の数(こちらは役の数と言った方が良いか)、横に広がるステージで客席との近さもポイントであった。・・といった気づきは、今回との比較により、上野ストアハウスのどちらかと言えば縦長の箱でステージを見下ろす形、また出演者数(9名)に視覚的、聴覚的(声量)に若干物足らなさを感じたのは確か。但し演出的には数量による押しのパワーより、ナレーションを多用し「想起」の時間へ誘うものがあったようにも。視覚的にハッとする瞬間が幾つかあり何かの隠喩となっていたが思い出せない。時間があれば再見したいが今の所無理である。
投げられやすい石
ハイバイ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/11/18 (水) ~ 2020/11/24 (火)公演終了
満足度★★★★
どこかで聞いた題名?・・そうだ一度観たと思い出した時は既にチケットを買っていた(新作と勘違いした)。
初演は何と2011年(震災前)。こまばアゴラだったらしい。舞台はシンプルでハイバイの過去作の中でも時折思い出す方であるが、自分はと言えば何やら気もそぞろに劇場に入り、ぼんやりと風景を眺めるように舞台を観ていた(耳の奥で「現実」がガランガランと鐘を鳴らしていた)のを覚えている。
そんなコンディションでも、分かりやすく展開する「痛烈にイタイ物語」を楽しんだが、際どいポイント突くな~と感心しながらも見終えた時何かが欠落、又は過剰と感じた。
学生の身で世の注目を得た“アーティスト”佐藤が、失踪する。そして再登場、そこからが「痛い痛い」本編である。
開幕は、佐藤の展示会のレセプション会場の控え室らしい空間で、会場から佐藤のスピーチが遠く聞こえる中、舞台上の山田が、佐藤との思い出を語り始める。少し離れて佐藤の恋人美紀。やがて佐藤がスピーチを終えて控室に戻ると、次は山田の番。逡巡する山田に佐藤は言う。「何も心配はいらない。自信を持て。お前が自分について何かを証明する必要はない、俺がお前のことを評価してる、その事実だけでいい。その事だけで世間の評価はついてくる。だから自分から評価を気にする事なんてない(といったニュアンス)」。山田は自分の絵にさほどの自信もなく売り出そうという野心もなかったが、ただ佐藤という大きな存在によって日常は変わり、あの佐藤に認められた人間という評判が自分のステータスを押し上げ、変えられて行く自分を感じていた。そして同じく佐藤の恋人美紀も「付いて行く」タイプの人間だったが、三人が青春の季節を歩んだ日々は、そのレセプションの翌日佐藤が忽然と姿を消した事で終わる。
さて、ぽっかり穴が開いた時間、山田と美紀は互いの寂しさを埋めるように付き合い始め、結婚(か婚約までだったか)に至る。「そんなある日、僕は佐藤から呼び出しを受けた」・・ここで山田のナレーションは終わり、以後ほぼ「実写」の芝居が続く。
コンビニの雑誌コーナーで立ち読みをしていた佐藤を、最初見誤る山田。まるで風貌を変え、以前の輝き、自信、そして健康を失われた事が一目で判る(そういうメイクもしている)佐藤に戸惑い、山田はすぐさま立ち去りたくなる。だが、そのコンビニで店員から理不尽な扱いを受け、その後雨に降られ、空き地だか河原だかのベンチで過ごし、その後美紀を呼び出しカラオケに行く事となる。芝居の終着点はカラオケである。そして「石」のくだりが、空き地で手持無沙汰に過ごす時間にある。
佐藤は人に触られるとパニックになって後は死ぬしかないみたいな状態の人間になっていた。芝居はこの「醜い存在」を透明プレートの上でフナみたく観察し、解剖し、残酷に葬る。ただし初演時は、佐藤を演じた岩井秀人は作者本人であり、自虐は笑いに通じ、微かに救いがあった。
今回、若い俳優達(皆知らない)によって演じられた「投げられやすい石」は、佐藤を岩井秀人以外の俳優が演じて成立した一点において大きな成果であったと言えると思う。
作者岩井本人による佐藤が恐らく最も的確に違いない。ただしそれはハイバイ独特の構造の中で可能な面もある。今回の若手俳優の佐藤が「やれなかった」演技は、最後に「絵」を見せるまでのくだりである。佐藤の惨状を目の当たりにしながらも、輝いていた一年前の佐藤を知る二人だけに、佐藤の精一杯の「プレゼン」についほだされ、泣くのであるが、それはこういう構図である。
佐藤の「俺は俺なりに頑張って絵を描いてる、そして少なくとも俺はここまで来た!」という言葉は、「それに引き換え二人は描いてきたのか、意志を貫いてきたのか」という問いと表裏一体で、忸怩とする感情が二人に去来する。しかし二人の中でその後ろめたさを「今の佐藤をリスペクトする」という代償行為で打ち消す心理規制が働く。二人が「リスペクト」に導かれたのは、「佐藤がこんなになりながらも、それなりの絵を描いてきた」というドラマチックな物語を佐藤の言葉に見出したからだ。だが二人が自覚的でなかったのは、佐藤が持ち歩いていた絵が「きっと二人を(良い意味で)驚かせる作品に違いない」という前提が忍び込んでいたこと。
カラオケの場面では、その前段に、山田がいない間佐藤が美紀に「セックスしたい」と迫るくだりがある。佐藤がしつこく迫るのを美紀はその性格上邪険に拒絶できず体を触るに任せていたが、それを山田に見つかり、逆上した山田が美紀を連れ出そうとする。この緊張シーンあっての、その後の佐藤の「巻き返し」であった。「ずたずたになっても俺は絵を描き続けている」その絵が、いよいよ開陳される。そしてその瞬間、全てが瓦解する。
ただ、初演と今回とで「絵」は微妙にニュアンスが変って見えた。
初演で出された絵は、「美」の片鱗もなくただ精神薄弱者となり行く者の「後退面」が強調され、それゆえ「痛い」となっていた(病室を描いたような絵で、ベッドの向こうにテレビがありその中でタモリと思しいグラサンの男が描かれていた)。
が、今回の絵は(出来は確かに悪いが)微妙に「頑張ってる」痕跡がある。佐藤は二人のたじろく反応を見て、自分が甘味な空想の中で予想した「佐藤復活への祝福」の態度が微塵もない事を見てとり、何度も自分の絵を見返して首を傾げて焦る、という芝居が、最後を飾る「痛い」場面になる。
美紀がショックを受け、最終的に「もう私いやだ!」と立ち去ろうとする反応は、「微妙に頑張ってる」絵に対するリアクションとしては少し大仰になってしまったような。
ハイバイには『ある女』のような岩井氏本人が演じてこその作品があり、『投げられやすい石』もその一つ。その「岩井秀人の世界」を、「岩井秀人戯曲の世界」へと押し上げる試みは、それ自体貴重な仕事(アーティスト岩井秀人の本来的な仕事)だと思う。上に最後の佐藤の巻き返し「説得」演技は「やれなかった」と書いたが、私は秀逸すぎた初演に比べ、戯曲の狙いと俳優の演技との間で通常生じる「誤差」を考えれば、十分健闘している方である。
初演が作者本人=自虐=笑いの構造にあって、岩井氏が言わば神の特権のように露悪的、というより露醜的?演技を繰り出して笑いを取ったのに対し、今回は俳優が一人のあり得る佐藤を貫徹しようと演じた。ナルシシズムとコンプレックス、どこか漂う純朴さといった佐藤の構成要素を体現し、この戯曲を成立させたという事である。
山田を演じた俳優は初演の松井周に肉薄。恋人役はおっとり型の持ちキャラ(いや演技か)を生かして自然。コンビニ店員とカラオケ店員という佐藤のトラウマ的存在を演じるもう一人も「商品を取るふりをしてふざけた」事を(それと言わず)ネタに外見が「終わってる」(ニット帽を外せば円形脱毛だらけ)佐藤を(これもその外見については一言も触れず)いたぶるとことん性悪な悪役を好演。
詳述しないが石を投げ合う中盤でのシーン、初演にあったのを忘れていた。タイトルに重なる場面だが謎めいて美しい場面であった。
ハイバイ作品の批評は難しい。よく参照させてもらう宮台真司によれば、アートとは人に「傷」を与えるもの。この意味を知るにはハイバイの舞台を観るのが差し当たり正解、と書いておこう。
月曜日の朝、わたしは静かに叫び声をあげた
甲斐ファクトリー
王子小劇場(東京都)
2020/11/25 (水) ~ 2020/11/29 (日)公演終了
満足度★★★★
前知識なしの<初>劇団訪問は久々。体調は万全でなかったが観劇中眠くもならず、程よく心地よく1時間40分が過ぎた。
目を引く題名、そして惹句に想像をかき立てられ、HPを見れば意外と年輩の構成員(劇団は新しめであるのに)。さらに空想を広げ、演劇経験をそれなりに経て団体を作ったその<魂>を見てみたくなった。
さて芝居の方は若い俳優中心、不条理でなくファンタジーであった事など予想をそちこちで裏切られたが、個々の逸話のディテイルに引っ掛かりながらも、終ってみれば全体で一つの物語となっていた。これやるの?と訝るような思い付きの場面もどうにか舞台上に出現させ、粘り腰である。
ただ、このタイトルから染み出してくるような主題、つまり初期の狙いを作者は果して具現化できたのだろうか?。。
考えさせられた事あれこれ、いずれネタバレにて。
ミュージカル「NINE」
TBS/ 梅田芸術劇場
赤坂ACTシアター(東京都)
2020/11/12 (木) ~ 2020/11/29 (日)公演終了
満足度★★★★
ライブ配信で鑑賞。映像は生に及ばない事は承知で、一言感想を。
藤田俊太郎演出舞台は今年春の「VIOLET」が流れ、今回漸く初鑑賞できた。
「観たい」と思った理由は、フェリーニ監督の『81/2』(はっかにぶんのいち)に因んだ作品であること。更に賞をとった舞台と来れば期待は嵩増しである。
フェリーニの映画は好きだった。十代の頃テレビで観て衝撃を受けた『道』や、「カビリアの夜」あたりの初期作は「小さな存在」への眼差しがあり、フェリーニの原点が偲ばれるが、中~後期の映像詩と呼ぶべき作品こそ「フェリーニ映画」、度肝を抜くセットや破天荒なフィルム繋ぎ、ストーリー説明がなく強烈なイメージの映像が語るに任せる独特な手法、フェリーニ節が全開である(見たのは「そして船は行く」「カサノバ」「サテュリコン」「ジンジャーとフレッド」「インテルビスタ」「ボイス・オブ・ムーン」)。「81/2」もザッツ・フェリーニと言うべき作品で、映画製作に行き詰まる(アイデアが湧かない)映画監督グイドの苦悩と荒廃と、再生の物語。最後には不思議な幸福感に包まれる。この作品が芸術及び芸術家について書かれたものであるのは言を俟たないが、さらに人間を描いていると感じるのは例えば監督自身の幼少時の記憶を蘇らせる場面等である。
さて「NINE」である。大型ミュージカルの「威力」を私は「ビリーエリオット」で知り、また「LENT」は映像で観ても楽曲が持つ魅力にやられてしまう。しかし「NNE」は色々と物足りなさがあった。
大きな一つは楽曲である。昔懐かしのミュージカルメロディが「狙い」だったのか、それとも米国の音楽文化の割とスタンダードな形なのか分からないが、小編成オーケストラによる楽曲が私には物足りない。本来大編成での迫力を想定して作曲されたものを「簡略化」したように聴こえるからか。タカラジェンヌ出身女優が大部分を占める出演者の「生声」の歌はさすがだが、メロディラインをヴァイオリン等が補強していて、同じメロディをなぞる女優達の声を合わせると、どうも宝塚の舞台の雰囲気になってしまう。(別に宝塚が悪い訳ではないがどうも音楽的・声楽的には1ランク下がった感じに聞こえる・・何故か分からないが。)
まあとにかくそれもこれも楽曲の良し悪しだろうと思う。しんみりと聞かせる母の歌や、女たちの荒々しさが見える群唱の曲など、中々見せる場面もあるが、ラストを締める曲が、曲・詞ともに深みがなくバシッと決まらない。散文詩のような舞台では、最後は楽曲でぐいっと心をさらうくらいでないと・・という後味であった。
「物語」は城田優氏の演じる主人公グイドの女性関係と、修羅場と化す彼の映画製作及び人生そのものの行き詰まりを描く(そのあたりは原作と同じ)。心の拠り所である妻ルイザ、情熱的に彼を慕う女性カルラ、作品のインスピレーションをもたらす女優クラウディア、この3人に加えスポンサー、プロデューサーも女性。その他彼のファン、行きずりの女性と、ダンサー以外の出演者は皆女性だ。
ある時彼はクラウディアから「あなたは一人の女では足りないのよ」と言われ、(実際は『81/2』より後の作品となる)『カサノバ』を着想する。ようやく製作が波に乗って来たのも束の間、作品中に自分のプライベートが使われていると憤慨した妻に去られ、「夫と別れた」とノリノリで言ってきたカルラをそれどころじゃないと邪険にした結果ついに思い改めた彼女にも去られ、元々気難しかった女優クラウディアにも映画現場を去られ、グイドは一人になる。「全てを追う者は全てを失う」、という格言が自ら語られ、出演者総勢による合唱で劇は閉じられる。
映画を構成する多彩な映像イメージは、主人公の現実であったり想念であったり、また「あり得る」別の現実であったりする。だがその判然としない中に光が刺す。ありきたりな言葉を使えば「物事全て捉え方次第」、フェリーニの出自であるカトリックの「全ては起こり得る」楽観性(神への信頼)もバックボーンにありそうだ。『81/2』の最後、恐らくだが作品制作に対しグイド自身が持ち込んでいた負荷から彼が解き放たれ、映画製作を放棄しても確かに存在する自分自身に出会い、その瞬間彼がそれまで出会ってきた人々の存在にも気づく、という事が起きる。その時彼は、映画もそのように撮ればよかったと気づくのだ。そしてそれは毎回映画製作者としてのフェリーニが苦悶の果てに辿り着く「完成」までのプロセスなのだろう、とも想像させる。人生においても何が肝心なことかを見失う場面を体験する。映画のラスト、人々が広場で隊列を組んで歩き出すと、それまで孤独にあえいでいたグイドの目に、彼らが自分の味方である(友人である)と映っている。
「NINE」の舞台は、孤独になった主人公が孤独を歌い上げるクライマックス、その後特に説明を施さず皆が登場して比較的淡泊な楽曲の「大団円風」でさらりと幕を閉じた。結局原作(映画)の設定を「使った」だけにすぎず、ミュージカル化する意味があったのか・・私にはもう一つピンと来なかった。
嘘 ウソ
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2020/11/07 (土) ~ 2020/11/15 (日)公演終了
満足度★★★★
新旧の秀作を堅実な演出とキャストで舞台に上げる俳優座劇場プロデュース。今回はフランス産の近作で、登場人物4名による、サスペンスフルで予期せぬ結末が待つ考え抜かれた台詞劇。
最終的に艶笑譚に終わる芝居だからつい「喜劇」と紹介したくなるが(実際そのカテゴリーに入るのだろうが)、私は本編を「笑って」は見なかった。
ドラマはとある夫婦がこれから親友夫婦を夕食に招こうとしている自宅で、妻が悩まし気な顔をしているのを問い質した所、親友夫婦の夫が今日の昼、ある店の前で妻以外の女性とキスをしている所を見てしまった、という妻の証言に始まる。この事実?を巡っての冒頭の夫婦の言い合いを端緒に、「嘘」と「真実」を巡ってこの芝居丸ごと動員しての壮大な議論の様相を呈する。
「ディナー中止」の合意に至るも時遅く夫婦の訪問を受けてしまうまでの夫婦のやり取りは、次の通り。・・自分にとって親友である相手の妻に「真実」(相手の夫が他の女と会っていた事)を告げないではいられないと、妻が言う。夫は自分の親友である(妻同士の関係よりも古い)相手の夫の前でそれを言うつもりかと迫ると、「私に「嘘」を付けと言うのか」と妻は返す。夫は「それが友人としての態度。彼らの生活に立ち入らない事だ」と言い含めるが、妻は首を縦に振らない。決着がつかぬまま夕食の時が来る。
妻は暫くは我慢していようと思いきや、「例の事」しか頭にないらしく、相手の夫にカマを掛けてみたり、肝を冷やした夫が話題を逸らそうと奔走したりといった「喜劇」らしいやり取りが続く。しかし関心はそこにばかり集中しない。というのも、会話の流れが一々エレガント、言葉に知性と含蓄があり、相手夫婦の佇まいにもどこか注視させるものがあり、「人物」への興味が湧く。
芝居は早々に「真相への道程」のスタートを告げ、やがて主役である夫の目線で「謎」が深まり、彼の目を通して観客も「謎」に向き合い、迷路に入り込むという塩梅。つまりミステリーとなる。
この作品は「謎」に対する驚くべき「真相」が待っているという、「娯楽」作ではあるが、その謎解きに至る手前までは、シリアスドラマと言って良い程に主人公=夫の苦悩がある。人の苦悩(しかも浮気云々)は笑いの要素ではあるが、この場合、観客が登場人物より情報を多く得ているゆえの「笑」の構造はなく、観客は夫と同じく迷わされている。
途中までのストーリーも紹介すると・・スキャンダルの疑惑は相手の夫から、我らが夫婦(相互)にも及ぶ。例の件がショックであったらしい妻が感慨深く夕食を振り返り、ふと夫に訊くのだ。「あなたはどうなの?私以外の女性と・・?絶対怒らないから正直に言って。過去の事をどうとは思わない。その事より私は二人の間に嘘がある事の方がつらいの。」(という趣旨)。妻のまっすぐな目についほだされ、一度あった、と告げてしまう。妻はこれに対し今思いついたとばかり「そうだ」と畳みかけ、具体的な期日と場所を挙げて夫の証言を引き出す。「今年の春に出張とか言って○○に行った、あれ?」・・「そう」。「ちょっと待ってもしかすると夏に○○島に行ったあれも?」、「そう」(正直モードに入ってしまったので畳み掛けの質問につい返事をしてしまう感じ)。ここで妻が「全然過去の話じゃない。ただいま現在の話じゃない」とキレ気味に反応すると、夫は否定できない。話が具体的になりすぎて「いや関係はもう終わった」と抗弁したその舌で、いつ何故どうして終わったのかを具体的に説明せねば説得力を持たず、夫がそこに説得力を持たせる自信など無いのは様子を見ただけで明白である。
夫は今更ながらに後悔した様子だが、妻は最初に「怒らない」と言った約束とは裏腹に夫への不信感と嫌悪を露わにし、リビングを出てしまう(鍵を掛けられ寝室に入れてもらえない)。
夫婦のあり得るリアルなやり取りの一例だが、さて翌日、冷静になったらしい妻は、夫への反撃なのか、正直モードでの告白か判然としない(ここからがミステリー)台詞を吐く。「昨夜は自分の感情に負けてしまったけれど、私はあなたを責める資格はない。」(最初夫はその言葉の意味を理解しないが、やがて気づく)。「実は、私も・・」
その相手は芝居の構成からして相手夫婦の夫と思しく、観客は夫に先走って疑い始めるが、次の場面ではその相手の夫の訪問を受け、こちらの夫の相談に乗っているという案配だ。ここでの友人の「意味深な」回答、アドバイスも観客的には疑惑の説2パターンばかりを連想させる。こうして「謎への解答」は絶妙に迂回路を辿り、やがてラスト、観客に最も効果的なタイミングで見せられる事になるのだが・・。
全編にわたって「真実」と「嘘」が錯綜し、後半から終盤にかけて混迷の度合いは深まる。だが、この芝居がどんでん返しの快感で閉じる娯楽作(喜劇、ミステリー呼び名はいずれでも)と一線を画するように感じたのは、俳優たちのリアリズムに軸足を置いた演技による所が大きいと思った。
最後、仲睦まじく隣り合って座った夫婦は、互いに不貞を働いていたとおぼしいと知った今、事実を受け入れないために「嘘」を相手に暗に要求するのだが(この台詞運びも見事である)、二人はある種の明文化されない「約束」を交わしているように見える。
で、ここは微妙であるが、妻は女性らしく夫に、夫は男性らしく妻に(つまりそれぞれの仕方で)愛情を向けていると知れる演出・演技になっている。
だから、終幕に残るのは(よく書けている)戯曲の言葉ではなく、二人の存在=残像なのである。
夫婦が心底では望んでいただろう所に決着した、という風に少なくとも真実らしく見えた事が、私は演出の狙いであり俳優たちの仕事だったと見る訳である。
相手の夫は最後にはえらく悪役だった事が暴露される事になるが、愛嬌もありキャラも合致。相手の妻も、退屈な夫婦生活に刺激を求めて罪悪感なしというキャラで、裕福さが背景に見える。
一方主役の方の夫婦も一応収入はありそうだが(妻は会社で重要なプレゼンが明日あるとか言っている)、相手夫婦より観客に近い位置にいる。二人は各々「真面目さ(誠実さ?)」の片鱗がその人間性に垣間見える瞬間があって、それが大団円での愛の見え方にもつながっている(・・とすればこの作品はやはり戯曲の勝利か)。
どちらにせよ、戯曲は優れものであり、舞台は爽快感と深み(真実味)を残した。
母樹(boju)
下北澤姉妹社
小劇場 楽園(東京都)
2020/10/30 (金) ~ 2020/10/31 (土)公演終了
満足度★★★
初演『ミカンの花が咲く頃に』の再演(タイトル改め『母樹 boju』)が新型コロナで延期となり、西山水木が原作をモチーフに出演者4名の小編に改作し、10月に2日間だけ上演(60分)。配信を見た。
初演は印象的な舞台で、地方に暮らす家族とそこに出入りする人々を描いたドラマだが、開発計画に分断された村の状況に家族が翻弄される社会的側面と、亡き「母」という一個の存在に注がれる視線が絡み、不思議に溜飲を下げた。初めて聞く作者・釘本光の名を頭に刻んだ公演だったが、もう一つの印象は何しろ舞台が狭い。上手壁際を袖に見立て、俳優が「気配を消す」事ではける処理など苦肉の策を施していたが、できれば家屋に植物を添えた装置のある舞台(紀伊國屋か、せめてスズナリ位)で観たい舞台であった。
さて今回は抽象度の高い詩的な舞台で、独特な場面割り、その中に振り(舞踊的ムーブ)もある。物語は久しぶりに実家で再会した姉妹が、生前の母の日記を読んで過去に旅し、母と自分自身に出会い直す話。母がかつて自ら求めて村の老人達から授ったもの、姉はその母を追うことでそれを手にし、今傷つき舞い戻った妹に姉はそれを手渡す・・再生の予兆がラスト、それと語らずに仄めかされる「演劇的語り」は雄弁。
姉妹が語る彼女らにとって凡そ個的なものでしかない家族の形が、既視感を伴って見えてくる。下北澤姉妹社の第一回公演(西山水木作・演出)に通じる不思議な味わいがあった。
ただし、配信映像は音声に難あり(台詞は聴きとれるが音割れが激しい)。
(それ差し引きでの★)