満足度★★★★★
「走りながら眠れ」
夫婦の関係性(力学など)がよく見えて、とても興味深かった。
大杉栄と伊藤野枝を、「特別な人」として描かず、普通の人として描いている点もとても共感できた。そして、普通の人でありながら、思想的な背景からくる大杉や伊藤らしい発言も散見されるのもよかった。
(観劇直後の印象で★4つにしていましたが、色々考えたら、実はとても味わい深い作品だったのではないかと思えて、★5つに変えました。)
ネタバレBOX
ただ、二人の仲が親し過ぎるのが少しひっかかった。
大杉栄と伊藤野枝という、おそらくかなり我が強かっただろう2人ならば、
もっと一つ一つのちょっとした違和でさえ、ピリピリするはずだ。
実在した人物とはいえ、確かめようはないので、
もしかしたら、この劇中の2人のように、微妙なピリつきはあるにしても、概ね穏和な関係だった可能性は否定できない。それにフィクションなので、実際の2人はという指摘は的外れかもしれない。
そうだとしても、割と温和な関係の2人を描く意味とは何か?
温和な中にも、2人の間には様々な力関係が存在する。
それに、温和な2人の空間とその外に広がる社会との緊張関係(亀裂)を示すためにあえて作った設定とも考えられるかもしれない。
そう思ったら、
観劇直後は、あまりピンときていなかったが、
実は凄い作品なんじゃなかろうかと、思いはじめた。
過大評価かもしれないが、、、
満足度★★★★★
凄いリアルな演技&演出、脚本の伏線も見事
凄いリアルな演技&演出。役者と演出の妙。
脚本の伏線の張り方や問いの残し方も見事。
(観劇直後の印象で★4つにしていましたが、色々考えたら、様々な伏線など、考えることがたくさん湧いてきたので、★5つに変えました。)
ネタバレBOX
脚本の伏線の張り方も上手いし、謎の残しか方も上手い。
その為、すっきり感想や評を書くことが難しいので、思い浮かんだままに書きます。
他の作品評以上に、散漫ですし、うろ覚えのため台詞なども正確ではありません。悪しからず。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
舞台の最後、エンドロールあけのオールラストで、冒頭のシーンが反復される。
ほぼ同じ台詞だが、冒頭で語られたものの一部分が削られている。
それは、2人の男女(主人公)がベッドの中でしりとりをていて、女(栗原まりや)が「く」で終わる言葉を発し、それに対して男(大庭シゲル)が「栗原まりや」と答える部分。
反復されたオールラストでは、男は「く、く、く、、、思いつかない」となる。
そして、また冒頭のシーンと同様に、男は怯えたようなそぶりをし、「まりやがいなくなってしまうかと思ったら、怖くて、、、、」というような台詞を言う。それに対して女(まりや)は、「この手をずっと話さないよ」というような主旨のことを言う。
これは、作品全体のテーマと関わっていて、ずっと離れないと言っていた栗原まりやが、物語の途中で離れて行ってしまい、そして絶望した所に現れ、恋人になった橋本真理もラストシーンで離れていってしまう。独りになることに大きな恐怖と絶望を持った主人公大庭シゲルは、橋本真理をなのか、無差別に誰かをなのかわからないが(おそらく前者だろう)、人を刺して(刺したとは断定できない、その前に、栗原まりやの夫を刺してしまったことの伏線を考えてそうかなと、、、)血だらけになって戻ってくる。そこに母が現れる。自暴自棄になってなのか、絶対に自分を見捨てない存在としてなのか、その母にキスをする。そこで幕。
そのラストシーンの右側の舞台では、栗原まりやが新しい恋人で結婚を約束している相手:横井亮と(左の舞台と同じ瞬間に)キスをして終わる。そのお腹には、新しい命が宿っている。
解釈を加えれば、主人公大庭シゲルを全面的に肯定し、絶対に離れていくことのない母の存在こそがマリア(聖母マリアとも重なる)であり、同時に栗原まりやも、新たな恋人と家庭を築き、母マリアとなる。
面白いのは、
私には、他者と新たな命を育もうとするあり方は希望に見え、母と子という信頼関係の中に救いを求める(すがっている)姿はこの上ない絶望に見えたということ。(母との信頼が構築できている者はまだ良いが、母のいない子や、母子関係さえ破綻している者には、その最後の救いさえ残されていないことを考えると尚更。)
だが、どう考えても、舞台の力点はその絶望の側に置かれている。
では、他者と幸福な関係を結べない(持続できない)者はどうすればよいのだ、、、、
それは、たぶん作者も、そして多くの絶望を抱えた人も共通して持っている感覚だと思う。私もそのひとりだ。では、何に救いを求めればよいのか。
安易な答えが舞台で提示されていないのがよかった。
それは自分で見つけていくしかない。見つからないかもしれない。
いや、何かに救いを求めようとすること自体が不毛なのかもしれない。
その絶望を受け止めて生きていくことしかできないのかもしれない。
冒頭のシーンをオールラストで反復させ、主人公に「栗原まりや」の名前を語らせなかった意味は何か?
なぜ、楢崎マサト(バンドのベースで、主人公:大庭シゲルが栗原まりやの次に付き合った橋本真理の元恋人)は死んだのか?(自殺か?)
結局、マリアとは何を意味しているのか、「まりや」「真理」「聖母マリア」、、、、
それは、希望か絶望か、、、、
これらの様々な問いの意味を、観劇後に考えている。
おまけ演劇『会沢ナオトインティライミ』も面白かった。
所謂過剰な演技や演出の芝居をデフォルメして、嘲笑しまくっているようなコメディ。最高です。
う~ん、、、
素人が舞台に立つ、その面白さを観る事ができるかと思い足を運びましたが、そのような部分は見出せませんでした。
それだけ、そつなく素人が演じているという言い方もできなくはありませんが、プロに求める演技を素人に適用しただけでは、やはり単にプロ未満の素人演技と言わざるをえません。
私が観たかったのは、演劇の嘘を食い破るような、素人の実人生から出てくる存在感。それが少しでも見えれば、たとえ完成度が低くても、私は絶賛したと思います。ですが、そこに向けて舞台は作られていなかった。
なぜ、この企画を立てたのか、表現面からは少しもわかりませんでした。企業経営者たちの起用ということを考えると、製作・興行面で考え出された企画なのでしょうか、、、、
ネタバレBOX
また、エディット・ピアフ役の歌手:廣嶋さやかさんも、まったくエディット・ピアフには見えませんでした。
廣嶋さやかさんのコンサートだと言われれば、何の不満もありませんが、これは劇の中での歌なので、似てるとか似てないという意味ではなく、ピアフの凄みが見えないと舞台として成立しないと思いました。
また、舞台のストーリーの時間経過と共に、ピアフの歌の深みや陰影は変わるはずなのに、それが全く演出されていないのも、なぜだか理解できませんでした。
興味深いミステリー
正直に言えば、よくわからなかった。
だが、そのよくわからなさが面白いとも言えなくもない。
ネタバレBOX
まず、この作品は一般的な意味での謎解きミステリーを志向しているのか、
一般的な謎解きミステリーを解体しようとしているのか、その点がそもそもよくわからなかった。
というのは、私の頭が悪いからなのか、脚本や演出が上手くできていないからなのか、はたまた敢えてそうしているのか、
謎解きがすんなり理解できないのだ。
勿論、なんとなく、こういうことだろうなとはわかるのだが、
よくもわるくも、スッキリ感はない。
一般的な謎解きミステリーを志向しての作品だとしたら、
脚本も、それを上手く示すための演出も、もう少し観客の立場に立って考えた方がよい様に思う。
一般的な謎解きミステリーを志向した訳ではなく、
ある部分「?」が残ったまま観客に帰路についてほしいと考えたのだとしたら、その点はアッパレだが、
その場合は、その「?」が単にストーリーの謎として残るというのではなく、
もっと観客の実人生で抱えている問題と連結する形の謎として残るべきだと思う。(例えば、中井英夫の『虚無への供物』がそうであるように。)
そうでないと、その「?」はすぐに忘れさられてしまうから。
個人的には、一般的な意味でのミステリーよりも、ミステリーを解体した作品が観たいので、ぜひ、後者で発展させてほしいと思う。
勝手な意見で、すみません。
満足度★★★★★
エンターテイメント&笑いとしてサイコー
エンターテイメント&笑いとして、本当に面白かった。
普段は批評的な視点で作品を観ることが多いけれど、
この作品はそうやって観劇する類のものではないと思い、
純粋に楽しんだ。笑った。
こんなに純粋に演劇を楽しんだことは実は初めてかもしれない。
ネタバレBOX
冒頭から持っていかれて、ツカまれてしまったので、
出てくるネタ、出てくるネタが笑えて笑えてしょうがなかった。
役者さん達のキャラも立っていて、本当に良い。引き込まれっぱなし。
まじめな評を言えば、
ムード歌謡歌手の話とムード歌謡を実際に歌う場面とが入れ子構造になっていて、その行き来が見事なので、観客は演劇を観ている客であると共に、自然と、歌謡ショーの観客という「役」を担うことにもなる。つまり、極めて自然に観客も演劇の内部にとり込まれている、参加させられているということだ。手拍子や拍手もするので。
しかも、劇の冒頭は、歌謡ショーから入るので、観客は劇にとり込まれた状態から舞台が始まる。この演出は本当に秀逸。
また、イジリー岡田さんなど、アドリブをしている部分もあるようで、その場で起きるスリリングな笑いも本当に面白かった。
ムード歌謡も好きだし、いや~、本当に最高でした!!!
満足度★★★
可能性
学生劇団だから、と言っては失礼かもしれないが、
完成度や演技力など、未成熟な部分がたくさんある。
だが、この作品の中には、既存のプロ劇団にはない面白い可能性が色々な形で内包されていると思った。
ネタバレBOX
特に印象的だったのは、「間」のとり方。変な「間」が多かった。
そして、よくわからない分断や切断など。
総じて、何が何だかよくわからないのだ。
その点がとても面白かった。
おそらく作者自身も、よくわからずに作っている部分も大きいのだろうが、ぼやっとしたものであれ、作者が描こうとしているテーマは明確にある。
その点は、単に奇を衒っている訳ではないというのがよくわかるので、反面ではとても好印象ではある。論理的な言葉によって説明できないものを形象化するために、そのような一見奇抜な演出がなされているのだろう。
だが、もしそうならば、もっとむちゃくちゃでよかったのだろうと個人的には思う。もっと意味がわからない演出で。
そして、説明的な言葉もあれほどいらなかったのだと思う。要所要所で、台詞によってテーマが補填され、その台詞を頭の中で繋ぎあわせることで、観客は作者の言わんとしていることを想像する。だが、脚本の力で作品を構成できている作品ではないので、ヘタに説明しようとすると、せっかくの面白い・意味のわからない演出が、安易な「意味」「解釈」に落ちていってしまうのだ。とてももったいないと思った。
もっともっと、解釈できないものを演出して欲しかった。
おそらく作者自身が、テーマにしている問題を、うまく言語化しきれずにいるのだろう。そこから出てきた作品だと思う。
それは、一面から言えば、掘り下げが足りないなどの批判もできるが、
個人的には、むしろその「わからなさ」をわからないまま突き詰めようともがいて欲しかった。言語にたよらずに、舞台化して欲しかった。
もっともっと、むちゃくちゃでいい。
主演の渡部彩萌さんもよかった。
作・演出の 若林潤さんも役者としても面白いものがあった。
美術もシンプルなのに、責めていた。作品のテーマである日常の時間の中にある違和やズレの感覚をうまく演出できていると感じました。
今後の活動にも期待しています!
満足度★★★
脚本も演出も面白い
エンターテイメントとして脚本も演出も面白かった。
ネタバレBOX
学生劇団の評価の仕方は難しい。
中でもこの芝居は特に難しいと思った。
と言うのは、脚本も演出も学生劇団域を越えたものがあった。
だが、ではプロと同地平で評価しようとしてしまうと、、、役者の力量は不問に付すにしても、それでも絶賛という訳にはいかなくなる。
特に、エンターテイメント面では、
「走れメロス」での、脚本のブッ飛び具合と、ブッ飛びながらもきちんと物語として完成されている感じはとても秀逸だった。そして、飛んだ脚本を、その飛んだスピード感で演出しているのもすばらしかった。
ただし、表面的なエンターテイメント性よりも、作家が何を問いかけようとしているのかという点を重視する私としては、そういう意味での内容が弱い感じがした。
「超高層ノスタルジア」は、エンタメではなく、内容を見せようとするものだったので、そういう志向性もあるのだと思う。完成度というより、好みとしては、こちらの作品の方が好きだった。だが、これも内容的には弱いとは感じた。
また「早稲田で4年間を過ごして」については、学生劇団なので、身内ネタで盛り上がるのも解るし、身内ではない私でも楽しめたが、やはりこの点でも、この作者が、誰に何を問いかけようとしているのかが薄かったように思う。観に来る人の多くが学生であるのだろうが、もっと開かれたところに向って作品を作って欲しいと思った。
それだけの潜在能力がこの作家と演出家にはあるように思うので。
偉そうなことを言ってすみません。
次作にも期待しています。
わからなかった
私も「ゆとり世代は・・・だ」という言い方にはずっと違和感を持っています。それはとても暴力的な言い方だと思っています。
ただ、ゆとり世代の人と関わっていると、良い悪いの判断とは別に、確かに何かその世代特有の傾向があるようにも感じていました。何十年も前から、バトン・リレーのように繰り返されてきた「今時の若い者は・・・」というだけでは済まない何かが。それは現代社会を読み解く上でも、極めて重要な何かなのだろうと思っています。
その辺が少しでも判ればいいな~というのが、観たいと思った動機でした。
ですが、その辺はまったくわからなかった。
それはわからなくてもいいのです。作者の視点は別にあるのですから。そこで、演劇的な何かがきちんと提示されていれば・・・。それが感じられなかった。
ネタバレBOX
具体的に言えば、
この芝居がひとつのメッセージを語っているだけの作品のように見えたということです。
「大人はゆとり世代にレッテルを貼る」というメッセージに。
それを語るために「大人」VS「ゆとり世代(子供)」というような二項対立の構図(更に若い世代も出てきますが)になる。
それ自体は、方法論として、まず二項対立で話を始めるということはあり得ると思うので、問題ないのですが、その二項対立のまま物語は最後まで行ってしまう。
何が問題かと言えば、「大人はゆとり世代にレッテルを貼る」という考え自体が、ひとつのレッテルだということです。
レッテルを張ってわかった気になるということは、人間の本性であり、現代のマスメディアの状況とも絡んで、それは暴力的に世界を覆っています。
その点はこの作品で描かれている通りだと思いますが、それは、大人が子供に押し付けている一方向的なものではない。ゆとり世代の人も、子供も、同様にレッテルを貼りながら生活している。
(かくいう私も、なるべくそうならない様には気をつけているつもりでも、なんらかのレッテルを他人に対して貼りつけていることも多いのだと思います。それが人間です。)
事実、この作品の中でも、ゆとり世代の役の台詞に、「韓国政府は、日本を憎む根拠がないから、教育で押し付けることをしている」(正確でなくてすみません)というような趣旨のものがありました。
ここには、韓国への偏見や蔑視の匂いがあるような気がしてなりません。それはひとつのレッテルではないでしょうか。韓国が日本の植民地になっていたことなどを考えても、無根拠とは言えない。または、別の視点から見ても、韓国の若い世代の間では、どんどん対立感情は減ってきている(竹島/独島の領土問題で、確かに以前のような感覚に戻りつつありますが)。
ただし、韓国政府への批判であって韓国への蔑視ではないというのならば、話はわかりますが、それならば、日本政府の歴史教育だって偏りがあるということがちょっとでも出てこないと片手落ちになります。
こんな細かい点を指摘しているのは、まさにこれがレッテル貼りの話だからです。悪しからず。
まとめると、レッテル貼りの話は、ゆとりかゆとりじゃないかという問題ではないのです。
大人に対して反発を覚えるのはわかりますが(というか、私も今でも所謂「大人」の価値観に対しては反発を持っていますが)、それを単に反発として作品にしても、表現としての意味があるとは私には思えません。
それは、作品のメッセージに反して、レッテルと偏見を助長することにしかならないからです。そんなに単純に、世代などの線引で、敵と味方には別けられない。
大人に反発を持つなら、その<大人の価値観>の中に潜む暴力性をあぶり出すことが必要だと思います。それは大人を子供の敵とみなすことではない。子供の中にも大人の暴力性は内在しています。比較すれば、大人がより強固に持ちがちであるというだけの話です。
それがあぶり出せた時、作品はひとつのメッセージではなく、多様な解釈を産む問いかけになるでしょう。
厳しい意見を書いてしまい、申し訳ありません。
<追記>
批判しか書いていなくて、申し訳ないと思い、良かった点を書きます。
モスキートーン(子供にしか聞こえない音)による電波が、スカイツリーから発せられているという設定も面白かったし、その電波の妖精のような存在(?)が最後に語る部分はとても良かった。
おそらく、その設定ありきで物語を組み立てようとした結果、大人と子供という二項対立の図式にならざるをえなかったのかもしれない。
そう思うと、少々厳しく言い過ぎたかなとは思う。
でも、やはり、より大事なのは、追記前に書いた部分なので、その設定ありきであっても、単純な二項対立にならない書き方は模索するべきだった思います。
次回作に期待しています。
満足度★★★★★
素晴らしい演出。
素晴らしい演出だった。演技や脚本もよかった。
ネタバレBOX
正直に言うと、終盤になるまで劇に入り込めずにいた。
それは、山崎彬さん演じるミヒャエルの役の感じが本当に嫌だったからだ。
単に好き嫌いの問題もあるのかもしれないが、ああいう役(下卑た下ネタをわめき散らす感じ)を登場させる芝居は、ただのニギヤカシだけでああいう役が存在する場合が多い。内容の無さを埋め合わすのに、下ネタなどで面白おかしくしようみたいなノリが大嫌いな私としては、「この芝居もそういうやつね」と拒絶反応に近いものが自分に生じてしまった。
だが、観ていくと、劇全体ではそういう感じでもない。ミヒャエルだけなのだ。おかしいなと思いながら、それでもちょっと引いて観ていた。
そして、最後で、そのミヒャエルの品性のなさがマックスに到達し、ミヒャエルを見る私の中に、嫌悪・怒りが湧きあがってきた時、「やられた」と思った。
もう私は、劇の中に入り込んだいたのだ、と。
しかも、ずっと入り込めなかった部分こそが、敢えて演出されたものだったとは。こりゃあ、一本とられた。
入り込めなかった段階から、作者の術中に、既にハマっていたということだ。
そのシーンで、主人公ウィトゲンシュタインは、自分をホモと罵り、そして自分の愛してやまない友・ピンセント(一人二役で、この役も山崎彬さんが演じている)の死までも嘲っているミヒャエルを、なんと最後に抱擁する。それまでは、入れ替わり立ち替わりしていたピンセントとミヒャエルが、そのシーンでピタッと重なる。もちろん、直ぐに「きもちわり~な」とミヒャエルに戻るのだが。
いや~、秀逸。
脚本・演技・演出のすべてがあのシーンで焦点を結ぶ。本当に素晴らしい。
それは、山崎彬さんの演技力も大きいのだと思う。うん、凄い。本気で観ててムカつきましたからね(笑)
あと、演出面では、完全な闇の中での戦闘のシーンも素晴らしかった。色々、想像させられた。そして、その完全な闇の中から発せられる銃声に驚愕。そして、闇から明ける場面もよかった。
ランプを使った光の使い方も素晴らしい。
細かい演出では、序盤、メインで演技が行われているところの外で、別の役者がノイズを出していたりなど、敢えて気を散らせる部分も面白かった。
などなど、本当に一本とられたという感じ。
役者さん達の演技も素晴らしかった。
満足度★★★★★
実験面の可能性においては圧倒的
2012年の冬に行われたフェスティバル・トーキョーで、私はそれなりの数の作品を見たが、実験面の可能性においては、他の有名な劇団の公演を差し置いて、この作品が圧倒的に高いと思った。
ただ、正直に言わせてもらえば、完成度や演技・その他の面では、圧倒的に低かった。
だから、多くの人の反応が低評価なのは仕方のないことだと思う。
ただし、私はこの作品の中の可能性を高く評価したい。
ネタバレBOX
まず、観客は、チケット代から公演にかかった諸経費(山口県からの交通費など)を差し引いた金額500円をその場で返金される。
そして、その500円を払って、役者に演出を付ける。
この演出の権利がチケット代であり、同時にその演出通りに役者が演技することこそがその見返りなのである。つまり、役者の演技が商品だということだ。
役者にとっては、観客の要求に答えることが労働であり、500円がその対価となる。
この時点から、既に「不変の価値」の問題提起は始まっている。
そして、次々と複数の観客が演出を付けていく。
そこでは、無理な要求などもあり、それなりに面白おかしいのだが、本質的な意味で偶然性や複数性などが芝居に取り込まているとは言い難く、少しもったいない気がした。
だが、重要なのはこの観客の要求によって変容する舞台の側ではなく、観客がそこで、演出を付けているという行為の側にある。
観客が劇構造に参加して興奮するという部分もあるが、もっと重要なことは、
ここで行使した演出の意味、500円の価値が、後に理解されるようになるということだ。
その手掛かりは、開場時にスクリーンに写されていた言葉であり、
劇の後半にまた投影されることになる言葉だ。
「商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者をさがさなければならない。商品は物であって、したがって人間に対して無抵抗である。もし、商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。」(『資本論(一)』マルクス・エンゲルス編/向坂逸郎訳 岩波文庫 1969,p.152)
(上記の引用は、当日販売していた公演台本からの孫引きなので、原本にはあたっていません、悪しからず)
観客は、500円を使って役者に演出を付けたこと、そのこと自体がある種の暴力であったと気付かされる。そしてそれは、様々なサービス業など、今日私たちが社会で金銭の代償に人間に対してさえも求めている暴力そのものだということに気付く。
あの行為はただの観客参加では無かったのだ。まさに自分が手をくだしたその行為が、金銭を介在させた暴力の本質に触れているということ。私たちは、そのようなことに無自覚に、日々生活し、金銭のやり取りをしているということ。それが資本主義の本質だ。このようなシステムで社会は成り立っている。そのことに気付き、観客はゾッとする。
まさにその渦中に自分がいて、日々その暴力を行使して私たちは生活しているのだから。
だが、逃れようがない。
かつてのように共産主義の理想を信じるほど、現在の私たちはナイーブではない。それでも、この社会の中で生きていかなければならない。
凄い作品だと思った。
観念的に説明してしまったが、一番重要なのは、観客の行為そのもの、その手触りの感覚が作品のコアにあるということだ。ただの観念でそれを舞台にしている訳ではない。実験性をうたった作品の中には、観念先行で何の手触りもないものも多い。だが、この作品にはこの手触りがある。
素晴らしいと思った。
ただ、演出家の谷竜一氏はどこまでこの演劇の可能性を自身で把握しているのかという点はよくわからなかった。
というのは、作品の後半は、まさに観念先行の哲学的な言葉が舞台を覆いつくしたからだ。ただし、そのような空虚な言葉、身体性を伴わない言葉が交換され、叛乱しているのが今日の社会であり、「不変の価値」の問題提起として、金銭同様に「言葉」の価値も問われているのだとも言える。もはや、単なる情報でしかない言葉の洪水の中を私たちは生きているのだから。
ただし、そういう「言葉」や「情報」への批評として後半の舞台があるとするならば、空虚ではない言葉・身体を持ってきて対峙させるか、又はより徹底的に空虚でしかないことを、観客が絶望するまでに見せつける必要があったのではないかと思う。そうでなければ、この作品も観念先行の作品だと位置づけられてしまっても仕方がないと思う。
と、偉そうなことを言ってすみません。
本当に期待しているので、書きました。
実験、ポストドラマなどと言っても、本当に面白い作品に出逢うことは稀で、その多くは観念先行で、それならば舞台にする必要はない、文章で批評すればよいのではないかと思うことがよくある(もちろん、そうでない作品も知っているが)。
この作品には観念だけで終わらないものがきちんとある。
今後の作品・活動にも期待しています。
満足度★★★★★
『親愛なる我が総統』:すばらしい
アウシュヴィッツ強制収容所の所長:ルドルフ・ヘース(ルドルフ・フェルディナント・ヘス)を描いた作品。
ナチス高官のルドルフ・ヘスとは別人物。そのことを知らずに見て、家に帰ってきてびっくり。どおりで見ながらちょっと話が変だなと思った訳だ。無知ですみません。
この劇団は、作品の演劇的な強度も素晴らしいし、同時にこの時代への批評性の強さときたら、突出していると思います。
ルドルフ・ヘスが、連合赤軍の諸氏のようにも、オウム真理教の幹部や教徒のようにも見えた。それは、自分自身も一歩間違えばそうなってしまうのではないかという思いを持ちながら。
ある体制に疑問を持たず、自分のいる場所、その考えや構造に疑いを持たなければ、誰でもが、ルドルフヘスになりうる。
そう思った時、もしかしたら、もはや私はルドルフ・ヘスなのではないかとさえ思った。今の社会体制や価値観に、ある程度の疑問は持っているつもりだが、それでも明らかに無自覚に流されてしまっている自分もいる。
それを強く感じた。
また、ナチスがユダヤ人を迫害する論理は、極めて普遍的な集団の論理なのだということも強く感じた。(歴史的背景から見ても、ユダヤ人差別はナチスに始まったことではない。ヨーロッパ全土で古くからあったものだ。)
自己が正当であると確信したいが為に、自分と違う者を「敵」とみなし、その敵を徹底的に攻撃し、排除する。
そうすることで、自分たちの正当であるという安心を得る。
どこの集団でもよく起こることだ。
日本でも、中国人や朝鮮人を昔から敵とみなし、罵倒することで、自国の正当性を誇示してきた。それは現在まで続いている。
新大久保などで起こっている反韓デモなんて、まさにナチスとそっくりだ。
1時間の芝居の中で、そのようなことがめまぐるしく私の頭を駆け巡った。
素晴らしい舞台でした。ありがとうございました。
ネタバレBOX
ただし、一つだけ。最後の場面。
自分が人間なのか悪魔なのか、自問自答し、わからなくなりかけていたヘスは、最後の場面で、精神科医に「あなたは人間です」と言われ安堵する。
だが、精神科医は最後の質問として、「あなたはユダヤ人についてどう思いますか?」と問う。
大量虐殺については今では悪いことをしたと思っているヘスも、ユダヤ人への侮蔑自体は変わらずに持ち続けている。そして、ユダヤ人がいかに酷いか、収容所で見た死を前にしたユダヤ人の醜悪さや冷酷さを精神科医に話す。だが、それはヘスが、そしてナチスが行った醜悪さや冷酷さと同様である(同様どころか、圧倒的にヘスやナチスの方が酷いのだが)。そのことを、精神科医はヘスに問う、「ユダヤ人もあなたと同じじゃないですか?」「同じ人間じゃないですか?」と。
そう問いかけられたヘスは、自分が「悪魔ではなく人間だ」と言われて救われたまさに同じ問題で、自分が行ったことの意味を、つまり蔑むべき対象ではなく、血の通った「人間」をあれほど虐殺したのだということを再認識する。そして、激しく動揺、狼狽し、のたうちまわる。そして、正気を取り戻し、「ハイル・ヒットラー」で幕。
長々と解説してしまったが(この文章が自分への備忘録の意味もあるので)、
あれだけ丁寧に、脚本も演技も演出もきていたのだから、最後で過剰な動きによって、ルドルフ・ヘスの動揺を表現しなくてもよかったような気がする。もちろん、動きも伴ってしまうというのならば良いのだが、動きが先行していたように見えたので。
途中の台詞にエコーを付けるのも過剰な気がした。
過剰に劇的な何かを付加しようとしなくても、そのままでも、充分力のある舞台だったので、その点だけがちょっと、もったいないと思ってしまった。
偉そうに、生意気言って、すみません。
素晴らしかったので、もっと、と観客の欲が出てしまいました。
充分に素晴らしい作品でした。
ありがとうございました。
満足度★★★
興味深いテーマ
カフカの「審判」をモチーフにした作品。
カフカの哲学的な問いは、私たちの日常生活の断層のようなところに潜んでいる。それは普段感じてはいるが、意識しないような問題。
その問題をうまくドラマにしていると思った。
だから、とても興味深かったのだが、なぜか私の心の中には迫ってこなかった。
理由はわからない。
個別に見れば、脚本も演技も演出も良いのだが、、、
満足度★★
わたしには
劇団さんの対応や役者さんたちの真面目さなどとても素晴らしかったのだが、
劇自体は私にはよくわからなかった。
でも、多くの人が高く評価しているので、好みの問題なのだと思います。
満足度★★★★
不思議な感覚
不思議な感覚を覚える舞台だった。
ネタバレBOX
1943年6月に起こった血の粛清事件をモデルに三島由紀夫が書きあげた戯曲。
この事件により、邪魔になっていた党内右派の軍人:エルンスト・レーム(SA〈突撃隊〉幕僚長)と党内左派のインテリ:グレゴール・シュトラッサーらが殺された。レームはヒットラーの旧友でもある。
事件の直前に、2人は首相官邸に呼ばれ、それぞれにヒットラーと対話をする。その翌日、殺されるとは露ほども思っていないレームと、既に殺されることを予感したシュトラッサーとのやり取りがある。そこに大資本家グスタフ・クルップがキ―マンとなって絡む、、、、
というような話。
歴史的事実を元に(と言っても、2人が実際に同時に官邸に呼ばれ、対話をしたのかなどは、調べてないので私にはわからないが)、友情の問題を中心にしつつも、三島の問題意識で、右派と左派との対話(軍人とインテリとの対話でもある)劇に仕上げられている。
三島の脚本なので、対話と言っても、モノローグ的なものが多く、その言葉も、極めて耽美な文学的言語なので、、、その世界観は好き嫌いが分かれるかもしれない。
私としては、三島の世界観の是非というよりも、
歴史的事象を扱い、極めて生生しい話なのにもかかわらず、極めて文学的な虚構空間に舞台がなることの異質感がずっと続いた。
異質感と言っても、否定でも、肯定でもなく、文字通り異質感。
それが良いのか悪いのか、、、いまでも良くわからない。
不思議な舞台を観たという感覚。
演出もまさにそういう感じで、とても熱い人間らしさが伝わる演技なのにもかかわらず、発している言葉がとても流麗な文学的なものだったりと、、、
本当に不思議な舞台だった。
だが、これも不思議なのだが、三島作品を観たという印象でもない。この点も不思議さを助長させている。
追記:その異質感て、よく考えたら、盾の会の三島と文学者の三島との分裂に近いのかも、、、、 右派と左派との対話にするところは、明らかに三島の思想的問題を背景にしていますよね。
満足度★★★★★
『あの記憶の記録』:素晴らしい脚本
今日、歴史の問題を、これだけの批評性を持ち、これだけの力量で書けるなんて、、、驚きです。
そして、演技・演出も素晴らしかった。
ネタバレBOX
プリーモ・レーヴィが「灰色の領域」と呼んだゾンダーコマンド(特殊任務部隊)の問題を取り上げている。
被害者でありながら、加害者でもある、、、、その複雑な問題を、とても見事に描いている。
多くの言葉はいりませんね、素晴らしいのひとこと。
主演の岡本篤さんの演技も素晴らしかった。
また、妻役(竹田りささん)が夫を見つめる細かい演技が素晴らしいと思っていたら、物語の最後で妻は極めて重要な役割を果たした。
脚本と演出と演技がとっても有機的に繋がっていて、素晴らしいなと思った。
また、『熱狂』のリヒャルト・ビルクナー(浅井伸治さん)が、この作品にも出てきて、「えっ、同じ人?」っと一見思わせておいて、後に謎が解かれる、、、しかも、それは極めて重要な意味を持っているという、、、うまい、うますぎる。
いや~、すばらしい。
満足度★★★★★
現代の状況と向き合う意志
現代の、特に若者の一部に特徴的に存在する心理状況を見事に捉え、デフォルメを加えることで、ドラマに仕上げている。
この時代と向き合おうとするその意志が素晴らしかった。
演出もとっても現代的で面白い。
ネタバレBOX
現代の若者の一部が持っている特徴(競争しない。自己肯定。相手にも優しく、自分にも優しく、、、、など)をデフォルメし「ハルメリ」という現象として描いていく。
まるで、宗教か、病の一種であるかのように。
それは、若者の文化から始まって、老若男女を巻き込んでブームは広がっていく。少し前の(今でも流行っている?)スピリチュアルブームなどにも重なって見えなくもない。
若者文化へ批評でありながら、今日の社会全体に広がっている普遍的なムードへの批評にもなっている。
批評と言っても、単にそのような在り方を上から目線で批判している訳でもない。それは渦中の問題であり、そう簡単に相対化できるようなものではない。だからやっかいなのだ「ハルメリ」は。
事実、何人かの登場人物が「ハルメリ」を相対化しようと試みるも、その相対化さえも、見事に「ハルメリ」現象に呑み込まれていく。
また、「競争しない」という姿勢が、「でしゃばるもの、突出するもの」を否定する、攻撃するというところにまで至る。
共産主義や、一部の新興宗教が、理想や理念と真逆の末路を辿ったものとも重なって見えなくもない。また、現代社会のありようそのもののようにも見える。
そんな中で、高橋ユズルという登場人物がとても興味深い。
「ハルメリ」現象への批判をするコメンテーターであったにもかかわらず、
「お前の在り方こそハルメリだ」というような問い詰めをされ、自殺してしまう。
そして、自殺した後、本物の高橋ユズル(の霊)なのか、高橋ユズルを語る別の人物なのかわからない者(それ自体がハルメリ的)が、ツイッター上に現れ、
まさに原義的な意味での「ハルメリ」の思想のようなものを語る。
そして、一度は、高橋ユズルこそが真の「ハルメリ」を語るものだということになりかけるも、その現象さえも、アイドル・梅津りん子の策略か本音かわからない行動で相対化されてしまう。
今のマスメディアの、、、ある人物を持ち上げたと思ったら、急にてのひらを返して徹底的に攻撃するなどの現象をよく表している。
それを群像劇で描いているので、その「マス」の問題がダイレクトに伝わってくる。ツイッターの画面が舞台と連動しているなども、その感じをより助長する。
そういう意味でも、この脚本が描いている世界を、見事に演出もできているのだ。
と、一方で大絶賛する自分もいるが、もう反面、評価に迷う自分もいる。
劇全体としては、そのような凄い脚本・演出だなと思う反面、
役者の演技が全く心に迫ってこないのだ。
でも、それは、突出した人間なんていらないという「ハルメリ」世界を描いているのだから当然だ、とも解釈できる。
群像劇であり、断片的であり、ある特定の人物の心理に深く入っていくような描き方はされていないし、その必要もないのだが、、、、
何か身体的なものが抜け落ちている気がしないでもない、、、、
でも、それこそが、「ハルメリ」の世界なのだと考えると、納得せざるを得ない。
いずれにせよ、凄い作品。
満足度★★★★★
『熱狂』: 脚本・演出・演技 三位一体の妙
演劇は集団創造だと言うが、その実、誰か1人の才能で引っ張る場合も多い。
だが、この芝居は、その三つが相互補完し合っている印象を受けた。
こんなに脚本・演出・演技が有機的に繋がって強度を出す舞台を見ることは稀だ。
そして、今日の社会状況でこの芝居が上演されることを考えると、
どうしてもヒトラーに数名の政治家の顔がダブる。
ネタバレBOX
上で述べたことを具体的に書く。
まず、脚本と演出どちらが先なのか、共同で構想したものなのかわからないが、
舞台上は、ヒトラーの部屋や会議室のようにも見たてられるが、
まさにナチスの党大会などの舞台上と見たてられたりもする。
そこで、ヒトラーや幹部の例の演説か展開される。
その場合、観客は、ナチ党員かナチの支持者・またはドイツ民衆の視線でヒトラーや幹部の演説を見ることになる。その構造がとても面白かった。
そこでの演技も、
役者さん皆がそれぞれにキャラが立っていて、素晴しかった。
特に、ヒトラー役の西尾友樹さんのアンビバレントな演技がよかった。
一方で、繊細で、気が弱い部分もある姿も伺わせつつ、
大衆の前では屈強なヒトラー像を誇示する。
その極端な演じ別けと、
さらに幹部の前での微妙な人間関係や立場が影響した揺れなど、
演技の振幅が見事だった。
これらの脚本・演出・演技が、塊となって観客である私に迫ってきた。
満足度★★★★
役者を活かす演出が素晴らしい
前提として、私は松井周さんの演出作品を初めて拝見しました。
よって、松井周作品の中での位置づけなどは全くわかりません。
特に映画美学校の生徒と作ったという点がどのように作用したのか?
この作品でしか見られない新たな魅力や強度があったのか、
他の演出作同様に松井色になっているのか、
はたまた、やはり生徒ということで完成度が低いのか、、、
全くわかりません。
なので、ここでは、映画美学校の生徒と作ったということは考慮に入れません。
その上で、
役者の個性を活かす演出が素晴らしかった。それは、キャスティングも含めて。特に、理由はわかりませんが、女の役者さんの個性がとても活きていたと思います。
ネタバレBOX
本当に小さい声で喋る役者の演出なども、松井さんの演出ではよくあることなのかはわかりませんが、すばらしかった。
それらの演出は大絶賛ですが、
ただ、この「革命日記」という作品が、観客である私に何を問うているのか、という根本的な問題が伝わってきませんでした。
今日でもこのような地下組織があるのかどうかは知りませんが、少なくとも活動家ではない私にはダイレクトな問題ではない。
すると、寓意的にこの問題を受け取るしかない。
集団と個の問題、論理と生理の問題、理想と現実の問題、
生きる上で最も大切なものは何かという問題、
日常の中にある現実と虚構の問題、男女の問題、、、など、、、
頭で考えればそれなりにテーマは発見できるものの、、、
そのどれもが、強く心に迫ることはなかった。
それは、脚本の問題なのか、演出の問題なのか、役者の問題なのか、
僕にはわかりませんが。
と、厳しいことを書きましたが、役者さんの<質感>がとってもよかったです。
(※私も映画美学校の卒業生です。ドキュメンタリー科ですが。学生の時、<学生の作品>として評価されたくはなかったので、厳しく書きました。かなり甘くコメントを書いている他の公演もあるのに、比較すると、これはちょっとバランス悪いかもしれません。自分の属していたところをプロパガンダするような形は嫌だったので、こういう書き方になってしまいました。すみません。)
満足度★★★★★
いまこそ問われるべき作品
1957年初演の作品で、舞台設定は第二次大戦前夜~戦中という作品だが、今の社会状況の中でこそ問われるべき作品。
とにかく、その脚本の豊かさ。
安易にどの立場が正義だと押し付ける類の作品ではない。
この作品の中で問われていることは、私(たち)自身が今日問われていることである。
ネタバレBOX
作品のラストは、時代に正面から抗った主人公の山名教授ではなく、山名と決別し真逆の立場をとった教え子城崎の台詞で終わる。
正確な台詞は覚えていないが、主旨としては「時代の流れ、つまり歴史は抗いようのないものであるが、その流れを作っているのが私自身でであるなばら、私はその責任を認め、加担者である負い目を背負いながら生き続けよう」というような内容。
この作品の主人公は、私には城崎に見えた。そして、それは私(たち)自身だ。
また、極めて重要なのが、山名の娘の最後の告白。
時代状況を考えれば当時の女性、しかも娘という立場の言葉は、声なき声、その言葉が強く印象に残った。
とにかく脚本が素晴らしい。
演技や演出も素晴らしかった。
結局、作品の強度を支える一番のものは、作品の時代への問いかけだと思っているのは、私が古い考え方を持っているからだろうか、、、。
満足度★★★★★
演出が素晴らしい。 役者も良い。
演出が素晴らしかった。
意表を突いた演出も凄いですし、細かい部分でも不思議な質感を持った芝居でした。
また、役者も良かった。特に渡部太一さんが良かった。
ネタバレBOX
演出では、暗転の闇があけると霧に場内が包まれていて、異空間に迷いこんだと錯覚するような凄い演出があった。小劇場でないとできない感じ。
また、そのような大げさなものだけではなく、
芝居の中で流れている時間が、普通の芝居の質感と違うものだった。この点もとても興味深かった。
ある偶然性を許容する時間が流れているというのかな。
例えば、役者が台詞をかんだり、ミスをする。そうした場合、ある「フィクション」が壊れかけてしまうので、一般的には、観客はそれを見て見ぬふりをする、もしくは苦笑してしまう。だが、この芝居の中でそのようなことが起った場合、それが笑いにかわる。ミスも、プラスに転化される場ができている。そのズレが良いグルーヴを産んでいる。凄いことだと思いました。
しかも、ある部分では、演出家がそれを意図的に取り込もうとさえしているようにも見える。例えば、過剰な動きを役者に課したり、規制を強いる静的な動きを役者に課したり。そうすると、身体は、そのフィクションからハミ出してしまう。そこに偶然性が生まれ、妙なグルーヴが生まれる。
また、そのような偶然性を、観客が受け入れる態勢作りもきちんとしている。
客入れの段階から、役者さんたちが、観客に話しかけながら、席を誘導したり、ちょっとした会話をしたり。また、「前説」の人がお笑い番組の前説のようなことをして、会場と舞台との一体感を作り、場をあっためてから舞台が始まる。おそらく、このような仕掛けによって、ミスやはみ出しによって生じた偶然性を観客が許容する場が作られている。
さらに、ケータイと言って役者がとりだしたものが、エアコンのリモコンだったりと、「これは芝居という嘘ですよ」というようなメッセージが暗に示されていることも、上記の許容をしやすくしているのだと思う。
総じて、意表を突いた演出も凄いものがあるし、細かい演出も凄い。
役者を演出というより、その構造をつくる演出というのかな、それが凄い。
また、それを演じる役者の質感もとっても良い。
特に、私は、渡部太一さんという役者さんがとても良いと思った。
上手い訳ではないんだけど、とっても惹きつけられる。
上記のような演出にとっても合っている「間」のようなものをもっている。
そこに、滲み出ている何かがある。
客入れの際もとっても感じが良かったし、彼の人間性から来ているのかもしれない。
演出も役者も、所謂「フィクション」「作りもの」の質感じゃないんだよな。でも、リアリズムとは対極。ドキュメンタリーの質感というのかな、そういうものがある。
ただ、脚本は、、、う~ん。
すべてが断片というような感じなので、どう受け取って良いかわからない。
どう解釈してもいいということか、、、
題名どおり、すべてが「libido」を示しているということなのか、、、
はたまた、僕に読めなかっただけで、伏線などが張ってあるのか、、、、
仮に、過剰な深読み・寓意的な読みを自分なりに試みれば、
冒頭部は、震災などの衝撃的な事象によって、今までの自分の居た場所・価値観が一瞬のうちに失われてしまったという場面であり、そのパニックを回復するのが人間の「libido」。そして、主人公は不確かな「ぼく」「わたし」「おれ」「うち」をそれぞれに確認していくということ、、、なんて読みをしてみた。
ラストシーンの後、舞台奥には鏡が残り、観客は鏡に映った自分(たち)の姿を目の当たりにする。それが観客自身の「私」と向き合うということなのか、、、
いずれにせよ、意味は舞台からではわからない。
勿論、その「libido」が伝われば、意味はわからなくても良いということなのかもしれないが、それだけでは、ちょっと弱い感じがした。
観終わった後、正直、演出が面白かったなという感想しかなかったからだ。
(今、上で書いたのは、なんとかそこに意味を見出そうとして書いただけなので。)本がもっと強ければ、もっと何かが残ったのだと思う。
演劇の場合、意味と非意味は相互に補完するものだと思うので。
また、音楽に関しては半々で、選曲も良いんだけど、どの曲もキャッチーだから、耳が音楽に引っ張られ過ぎる。良い効果も産んでいるから、半々だけど、、、。
長々と、偉そうにすみません。
いずれにせよ、素晴らしかったです。
これだけの言葉が浮かんできたというだけでも、素晴らしい舞台だった証拠。