マリア 公演情報 Straw&Berry「マリア」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    凄いリアルな演技&演出、脚本の伏線も見事
    凄いリアルな演技&演出。役者と演出の妙。
    脚本の伏線の張り方や問いの残し方も見事。

    (観劇直後の印象で★4つにしていましたが、色々考えたら、様々な伏線など、考えることがたくさん湧いてきたので、★5つに変えました。)

    ネタバレBOX

    脚本の伏線の張り方も上手いし、謎の残しか方も上手い。

    その為、すっきり感想や評を書くことが難しいので、思い浮かんだままに書きます。
    他の作品評以上に、散漫ですし、うろ覚えのため台詞なども正確ではありません。悪しからず。

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    舞台の最後、エンドロールあけのオールラストで、冒頭のシーンが反復される。
    ほぼ同じ台詞だが、冒頭で語られたものの一部分が削られている。

    それは、2人の男女(主人公)がベッドの中でしりとりをていて、女(栗原まりや)が「く」で終わる言葉を発し、それに対して男(大庭シゲル)が「栗原まりや」と答える部分。
    反復されたオールラストでは、男は「く、く、く、、、思いつかない」となる。
    そして、また冒頭のシーンと同様に、男は怯えたようなそぶりをし、「まりやがいなくなってしまうかと思ったら、怖くて、、、、」というような台詞を言う。それに対して女(まりや)は、「この手をずっと話さないよ」というような主旨のことを言う。

    これは、作品全体のテーマと関わっていて、ずっと離れないと言っていた栗原まりやが、物語の途中で離れて行ってしまい、そして絶望した所に現れ、恋人になった橋本真理もラストシーンで離れていってしまう。独りになることに大きな恐怖と絶望を持った主人公大庭シゲルは、橋本真理をなのか、無差別に誰かをなのかわからないが(おそらく前者だろう)、人を刺して(刺したとは断定できない、その前に、栗原まりやの夫を刺してしまったことの伏線を考えてそうかなと、、、)血だらけになって戻ってくる。そこに母が現れる。自暴自棄になってなのか、絶対に自分を見捨てない存在としてなのか、その母にキスをする。そこで幕。
    そのラストシーンの右側の舞台では、栗原まりやが新しい恋人で結婚を約束している相手:横井亮と(左の舞台と同じ瞬間に)キスをして終わる。そのお腹には、新しい命が宿っている。

    解釈を加えれば、主人公大庭シゲルを全面的に肯定し、絶対に離れていくことのない母の存在こそがマリア(聖母マリアとも重なる)であり、同時に栗原まりやも、新たな恋人と家庭を築き、母マリアとなる。

    面白いのは、
    私には、他者と新たな命を育もうとするあり方は希望に見え、母と子という信頼関係の中に救いを求める(すがっている)姿はこの上ない絶望に見えたということ。(母との信頼が構築できている者はまだ良いが、母のいない子や、母子関係さえ破綻している者には、その最後の救いさえ残されていないことを考えると尚更。)
    だが、どう考えても、舞台の力点はその絶望の側に置かれている。
    では、他者と幸福な関係を結べない(持続できない)者はどうすればよいのだ、、、、
    それは、たぶん作者も、そして多くの絶望を抱えた人も共通して持っている感覚だと思う。私もそのひとりだ。では、何に救いを求めればよいのか。
    安易な答えが舞台で提示されていないのがよかった。
    それは自分で見つけていくしかない。見つからないかもしれない。
    いや、何かに救いを求めようとすること自体が不毛なのかもしれない。
    その絶望を受け止めて生きていくことしかできないのかもしれない。

    冒頭のシーンをオールラストで反復させ、主人公に「栗原まりや」の名前を語らせなかった意味は何か?
    なぜ、楢崎マサト(バンドのベースで、主人公:大庭シゲルが栗原まりやの次に付き合った橋本真理の元恋人)は死んだのか?(自殺か?)
    結局、マリアとは何を意味しているのか、「まりや」「真理」「聖母マリア」、、、、
    それは、希望か絶望か、、、、

    これらの様々な問いの意味を、観劇後に考えている。


    おまけ演劇『会沢ナオトインティライミ』も面白かった。
    所謂過剰な演技や演出の芝居をデフォルメして、嘲笑しまくっているようなコメディ。最高です。

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    2013/04/21 12:53

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