ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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ReMemory  『生きのこった森の石松』  『あい子の東京日記』

ReMemory 『生きのこった森の石松』 『あい子の東京日記』

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2019/03/19 (火) ~ 2019/03/26 (火)公演終了

満足度★★★★★

  名優中山マリさん、鴨川てんしさんお二人が、それぞれの演目を一人で演じる。お名前の順番は、レディーファーストにさせて頂いた。総論から始めると、極私的演劇論ということになろうか。今更、言うまでもないことだが、演劇は総合芸術だ。それは、劇作家、役者、演出家、舞台美術家、照明さん、音響さん、制作スタッフや観客総てが相俟って創る壮大な想像力の時空であり、その総合力が機能する場である。そのキーになるのが、本番で板の上に立つ役者さんだ。殊にその能力の高さ、個性、そして個人史を当に我々も生きている同時代の現代史に刻んでこられたお二方の、齢を重ねた身体を通して人間を晒す力には、改めて世界を見直す契機を頂いた。(追記3.26本日、マチソワあり)

ネタバレBOX

「あい子の東京日記」2019/3/23 19時 ザ・スズナリ
 第2次世界大戦直後、空襲や敵襲の恐れは無くなったものの、一般庶民の食糧事情、殊に都市部のそれは、戦中より寧ろ悪化していた。何故なら、戦中は隣組等の締め付けもあり、配給制度がそれなりに機能して居た為、最低必要な物資は比較的まんべんなく行き渡って居た為だ。然し敗戦後は、強い者が正しい、という強者の論理が幅を利かせた。だから、ヤクザや政治屋、資本家、食糧を持つ者、のし上がった悪党、権力者等が必要物資を独占的に私有していた。つまり富の集中・寡占が起こり庶民の生活は戦中より厳しかったのだ。現在で言えば、自民党議員やその支持者、与党支持者らが喧伝するトリクルダウンがまかり通っていたのである。ただGHQを始めとする占領軍が放出する物資は、闇市にも出回っていた。そんな時代、夫をレイテで亡くした戦争未亡人、中山あい子は、中間小説の旗手として頭角を顕し、アメリカ大使館でタイピストの職にも在りついた為、日本人従業員用の宿舎に住むことができ、食糧に困ることなど全くない当時の庶民からみれば別天地での暮らしをしていた。子供とはいえ、千代田区町1丁目1番地という華やかな暮らしをさせてくれる番地を誇らしく思っていたという。自分も何回か東京を転々とした際、住んでいた白銀の迎賓館を誇りに思っていたことを思い出した。雨の降った直後、庭には蛙がのそのそ出て来たし当時の日本としては偉く垢抜けた外車や高級車が迎賓館の出入り口を往来する姿、植え込みの美しさなどを今も鮮明に思い出す。
 更に、諸般の事情から大使館を出ることになった母娘は神田にあったビルの管理人としての生活を始めるのだが、ヨーロッパのアパルトマンのように中庭を中央に持ったビルでは、動物を飼うことも許されていたので、鶏を飼い新鮮な卵を入手することもできたのだという。無論、あい子が管理人を選んだのは、小説を書く時間が得られたからであった。様々な人の出入りも多かったようで、マリさんは自由な雰囲気の中で時代を明確に印象ずけながら育ったようだ。興味深いのは、マリさんが死んでしまいたい! と言った時のお母さん、あい子さんの返事。敗戦へまっしぐらに突き進んでいた頃、あい子さんは、こんな時代に子供は産みたくないと堕ろす為、冷たい海などに何度も浸かった李、ガタゴト揺れの酷いバスに長時間乗ったりして堕胎を試みたのだが総て失敗、マリさんは無事に生まれた。生命力の強い子なのだから絶対自分から死ぬ、などと言ってはいけないとさとされるのだが、話はもう1つあって敵機が超低空飛行で母子を狙ってきた折、米兵の嘲笑うような笑顔が見えたという。もうダメか、と覚悟した母に米兵がウィンクをして飛び去った。おぶっていたマリさんはいつも笑っていたので、その笑顔が2人の命を救ったのだとマリさんは言われた。生涯の仕事となった女優になった経緯なども小学校時代に遡って語られるのだが母と娘の人生に時代が密接に関与して、時が経った今、下北のスズナリで1人芝居を打っている彼女の姿が現実とフィクションの統合性として姿を現すさまが、グー。
「生き残った森の石松」2019.3.23 20時10分 ザ・スズナリ
 鴨川てんしさんの石松は,屋台のおでんやである。それもはんぺんに黒いのがある、名古屋おでんというのが渋い。無論、黒は悪や異界を象徴するのが常であるから、白・黒双方を以て世界をより多様に表現する器として機能しているのは当然だ。
中でも森の石松は、次郎長一家の大物で最も人気のあるキャラクターかも知れないから、その逸話は数多く、伝説の類も異譚も数多い。無論、講談や映画など娯楽芸能にもたくさんの作品やバージョンがあるから、その資料だけでも大変な数に上ろうが、そういった背景をベースにしながら、ここで語られることは一点に集約する。即ち1979年に亡くなった友である。友を通じて紡がれるアウトローへの共感である。それは、日本人の殆どが実感しなかった1989年という世界的パラダイムシフトへの注意喚起であり、内向きな日本人の状況への余りにも無防備でナイーブな感性及び鈍感へのアウトサイドからの呼号である。
 一宿一飯の恩義ということが股旅物では良く出てきた。これは、江戸幕府が無宿人を徹底的に取り締まる中で、水呑み百姓の多かった当時の長子相続制下で次男、三男に生まれれば、家を出て都市の下層労働者や職人になるか無宿人、即ち流れ者、ヤクザになるしかなかったアウトローの生活の底の底で、野垂れ死にを救って貰ったことに対する恩義を意味した。このような下層社会を見た者、経験した者、そして想像力を働かせ繋がろうとした者達への普遍的レクイエムの象徴として日本の学生運動退潮期に亡くなった友への痛恨の痛みを、ヤクザではありながら、情に弱く、義侠心に篤い、無鉄砲な所が何故か可愛い森の石松に仮託して描かれたのが今作ということになろうか。
 “団塊の世代”という言葉を発明したのは堺屋太一さんだが、この中で用いられている団塊という単語は元々、地学の言葉だそうで、地層中に見られる周囲とは異なった成分で形成された塊を言う。学生運動が盛り上がった頃の世代を指すが、この年代の人々は、友人や知己、或いは親族・眷属に闘争の過程で亡くなった方や傷ついた方を抱える人々が多い。そのことで心の傷を抱える人々が多いのだ。そういった人々への慰めのメッセージでもあるから、世代が異なると恐らく理解できない内容をも含むのだが、そのギャップをてんしさんの存在感、何とも言えない人間的な味、そして過ごしてこられた時の重さが滲み出ている演技で見事に形象化している。
PLACE YOUR BET

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製作委員会

劇場HOPE(東京都)

2019/03/21 (木) ~ 2019/03/24 (日)公演終了

満足度★★

 観せる為の技術・発想に疑問。

ネタバレBOX

 ギリシャ劇にはアリストテレスが「詩学」で提唱したとされる三一致の法則というのがあって、これは小学生の時に習ったから自分の世代なら既に10歳頃には聞いているハズだ。何故そうしなければならないかについて、その頃充分理解して居た訳ではないが、まともなシナリオを書こうと思ったら注意しておくべき知恵ではあるかも知れない。まあ、16世紀のフランス古典主義では、誤読されて曲解されたとする見解もあるらしいが、自分はギリシャ語を全然解さないので真偽のほどは分からない。ただ、物語が展開する場所の設定が上手ければシナリオの半分は成功したと考えても良い程に重要であるとは考えている。
 基本的に自分は当パンを渡された時には読まない人なので(先入観を持たされるのが嫌いなのだ)、今作の設定が余りにも下手な原因が良く分からなかったのだが、当パンを読んで納得した。
 大して複雑な話でもないのに、物語の起こる場所の設定がなっていないことの原因が、即ち作家が良く設定を練るべきことに気付いていないことが第一の原因である。代わりに据えられているのが、登場人物達の変容である。これでは、場転の連続になることは必然であるにも拘わらず、舞台美術・道具に不必要な拘りを見せてしまった為に、肝心要の表現が寸断され、観客は、物語に入り込むことが出来ずにシラケることを強要される。仮に登場人物たちの変容を中心に描くのであれば、会議テーブル、ソファ、スナックのボックステーブル等総てを箱馬や平台等を組み合わせて抽象的な表現にすれば良いだけの話。また、実際に上演されたようにソファや小道具の出捌けを用いるならば、時間合わせの苦し紛れではなく、芸として表現して欲しい。板の上に上がっている以上、その程度のことは演出が付けなければなるまい。作・演は同一人物が担当しているようだが、今、自分が指摘しているような観点が無いように思う。
ルーラースケーラー

ルーラースケーラー

劇団 夢神楽

ザ・ポケット(東京都)

2019/03/20 (水) ~ 2019/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★

 社会科学的な本を結構読んで来たので、自分の普段の感覚で観ていたら、ちょっと神話的な発想に足を掬われた。上演中だから余り詳しいネタバレはしない。観てのお楽しみだ。(尺は少し長めの135分、格闘シーンではアクションスター達の動きが良い)

ネタバレBOX


 2つの世界がある。アストラと呼ばれる労働者の暮らす地、その上にある上層界アマツ。アストラの民はアマツの為に働いており、対価として配給を受ける。何の為に働き、何の為に生き、何故疑問を持ってはいけないのか? 殆どの者は何ら疑問を感じない。アマツとアストラをつなぐ橋は常にあがったまま、アストラから渡ることは禁じられたままだ。
 アマツの民との接点は、定期的に配給に来る使者と管理官、橋の番人のみ。
 だが最近アストラにも変化が起き始めているようだ。“スコーピオ”と名乗りアマツを目指す一団が現れたのだ。同時に「空上の果実を食らわば、その身をアマツへと結ぶ道となる」との縷言が広がり始めている。
 その頃、空から、一人の女が落ちてきた。彼女の名は、シトラ。アマツから堕ちた“樹果の乙女”と呼ばれる者だという。
第27班 本公演9つめ『蛍』

第27班 本公演9つめ『蛍』

オフィス上の空

萬劇場(東京都)

2019/03/20 (水) ~ 2019/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★

 Bを拝見。

ネタバレBOX

時代設定はハッキリしないが21世紀初頭と考えて良かろう。舞台美術にスロープを用いるなどちょっとユニークで観易く合理的な作り。丁度舞台空間の天地左右ど真ん中辺りに立派な将棋盤。
 話は深刻である。であるが故に、錯綜した人間関係が中々明らかにされない。(例えば大学の演劇部なのに実際には将棋ばかりやっている部員たちは、互いを仇名で呼び合っているので、人間関係が捉え難いなどの手法が用いられていることなど)舞台の中心に将棋盤が置かれていることからも分かるように、横軸はずっと将棋の話だ。縦軸に画家一家の分解してしまった家族状況が、錯綜する時間軸を通して描かれる他、プロ棋士を目指すも3段から上がれず、25歳を迎えて最後のチャンスを狙う女性棋士、6段ではあるが足踏みしているプロ棋士。彼は妻との間に齟齬を抱えて苦しんでおり、弟子筋の女性と一夜を共にしてしまう。
 画家一家の息子・ヤマトは、10歳で故郷を離れるが、15歳年上の姉と約束を交わしていた。その約束を果たす為にプロ棋士を目指す。プロ棋士になってTVや新聞でも報道されるようになれば、再び優しい「姉」に会えるとの希みからだ。
 彼は久しぶりに戻った故郷の森近くで姉によく似た雰囲気を持つ若い人妻に出会い、またどこかでもう一度会いたいと思う。その思いは彼女も同じであった。而も彼女は、ヤマトが対極するトーナメントの6段の有力棋士の妻であり、6段の不調は妻との齟齬にあったようにも取れる内容なのだ。
 全体として韜晦の手法が用いられてはいるのだが、時間軸の設定も少々、難が在るように思われる。姉・マリノの死因はエイズだが、亡くなったのは彼が故郷を訪ねた3か月前であり、既にエイズは死なねばならない病では無くなっていた時期だと思われる。ヤマトとの年の差が15というのは、「姉」がヤマトの母、父は、画家。即ち実父と姉の父娘相姦の結果として生まれたのがヤマトであった。為に家庭は崩壊し中卒の「姉」はその罪を償うべく娼婦になって金を稼ぎエイズに感染、その後も娼婦を続けた模様だから、入院した時点で手遅れだったにせよ、また「姉」の病に関する情報が殆ど描かれて居ない為、詳しいことは分からないにせよ、手遅れになって入院してから亡くなるまでの期間は不自然なように思われる。
 また、タイトルにも採られている蛍が、命そのものを燃焼させる魂の象徴のようでありながら、恒星であれば高温を意味する蒼い光が冷たいことで、描こうとしたものが何であったのかが、韜晦という手法では伝わり難いとも感じる。ジェンダーやミートゥーというトレンドには本質的に載らない日本という「国」の抱える、恥じることさえ忘れ去ってしまった欺瞞を撃っているようにも思えない。時代のトレンドは、本質的に変化し、後戻りはできない所まで来た。にも拘わらず50年以上も前の1964年に行われた東京オリンピックで掲げられたイデオロギーの再生をしかイメージできない愚かな頭脳が目指しているものをもう少し深く穿ってほしかった。
因みに1964年当時のイデオロギーとは、スピード、力、右肩上がりの強さだったが、現在の我々が目指しているのは、生活のクオリティー向上、災難や病災害への対応力向上、そして持続可能な社会形成であるから、イデオロギーや社会構造、そしてそれらを導く新たな価値観の創造も視野に入れる必要がある。このような観点から韜晦のレベルを再構成すると更に素晴らしい作品になると考える。
九月、東京の路上で

九月、東京の路上で

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2019/03/15 (金) ~ 2019/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

 時代を見つめる的確な感性と社会を様々な要素の関係性としてこれまたしっかり人間の社会性に根差して捉え・知的に統合する力を持った優れた劇作家というのみならず、優れた社会批評とも為り得る作品を発表してきた坂手洋二氏が、昨年初演した今作、初演時より更に悪化している日韓関係も関わってか増々肌身に沁みる。必見の作。(華5つ☆ 追記2019.3.20)

ネタバレBOX

 現在「日本」の体たらくは話にならないレベルである。3.11以降の原発人災以降国際的には当たり前な第三者機関ではなく推進派で固めた「規制委」なるものをデッチアゲ相も変らぬ出来レースをやらかしているだけではないか? 日韓問題華やかなりし昨今も日本では嫌韓本が所狭しと並べられているが、韓国では、日本アニメやキャラが可也人気を占めているとの報せもある。1965年に朴政権と自民党政権の間で結ばれた日韓会談に於ける諸条約も対立点は棚上げされたままであったので、軍事クーデタを起こして大統領になった朴以降長い間続いた軍事独裁後、多くの犠牲の上に築かれた民主制が漸く安定して来た今になって韓国最高裁が独自の判断を下すことは三権分立が成立する民主国家としては当然のことであるにも拘わらず、そのような民主主義を自らの判断で守り抜くことさえできない日本人が批判することなどもっての外である。民度は現在韓国の方が高いと言わざるを得まい。情報公開法にしても日本にその制度を学びに来た韓国、中国の方が先んじている。こんなことを書くと、歴史のファクトすら知らずまた知ろうともしない連中がガタガタ抜かすのだろうが、どちらが本当に郷土を愛するかは正常な判断を下せる者らがいつか下すであろう。By the way ,今作で語られているようなことを、日本という「国」はやって来たのみならず、事実を矮小化したり隠蔽したりして見えなくさせているのだ。そのことの結果が同じ敗戦国でもキチンと罪を自覚し自ら過ちは過ちとして償うことでヨーロッパ諸国と健全な友好関係を築き、而も他の国を牽引するリーダーとして活躍するドイツと、アジアの孤児としてしか存在し得ていない日本との大きな差として現れていることを自覚すべきであろう。その為にも日本の犯した辛い過去と我々は向き合わなければなるまい。
鯨を捕る

鯨を捕る

ワンツーワークス

赤坂RED/THEATER(東京都)

2019/03/14 (木) ~ 2019/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★★

 先ず、注意しなければならないのが、鯨は何を意味しているか? だろう。鳥取県の沿岸漁師が1.5tの着火(チャカ・沿岸漁業を営む漁師が用いる小型漁船せいぜい数トンまでのサイズで推力は焼玉機関、そのエンジン音が着火・爆発を連想させる所からこのような呼び名がついたと聞いている)で、体長7m、体重1.5tのイワシクジラをたった1人で仕留めたとして新聞記事にも載ったという設定で始まる物語だ。(追記1回目3.20)

ネタバレBOX


 序盤、翔やその母・嬉海子の少し不自然な態度で何らかのトラブルで東京に居られなくなった母子の事情が暗示され、察しの良い観客には、いくつかの理由が脳裏に浮かぶハズである。中2で翔が中学を止める理由など他には考えられまい。嬉海子は未だ仕事を辞めた訳では無いこと、10年近く寄り付きもしなかったのに、自分の都合だけでのこのこ父を頼ってくる甘えは、矢張り海難事故で妻・はなを失くした失意の父・柳太郎との口論の中で炙り出されてゆくが、この構成。柳太郎が留守中にアルバムを発見し、特定の写真だけが無いという伏線の張り方、而もこの1年漁に出たことが無かった柳太郎は、組合が出漁を禁じている日に船を出した。この疑念に対する対応を執拗に描く辺り、単にやや不気味というより海の藻屑と消えた大切な人の眠る無明の海の広さ・深さと人の心の深淵を描いているようでもある。即ち広大無辺の前に、1本の釘のように立つ人間という存在の淋しさを湛えて意味深長である。
 更に翔が時折呟く、親友と思しき者の愛称の意味も物語が進むにつれて明らかになってゆくので、勘の良い者にはこの時点で失踪の理由は確定できるものの、母子が片田舎へやって来た心理的理由(インターネットが蔓延している現在無論、そんなガードが意味を為さないこともキチンと示されているが)も、矢張り実際に当事者にならなければ、本当のことが体得できないという普通の人々の実存を表してもいよう。
 さて、序盤・中盤で展開するこれらのものごとを収束させなければならないのは、劇作の必然である。以下、自分の解釈を紹介しておく。
女性は、生命のプロトタイプであるから、環境悪化などが原因で生命のホルモンバランスが崩れた場合、性差無しの場合は別にして単性生殖を担うのは無論、♀である。即ち♂、♀を比較した場合、直接生存に関与し得るのは♀のみであって♂では無いと言うことが出来よう。だからこそ、船を出す時、最初に乗ると決めたのは男達なのである。何となれば海は、生命の母だから、男達が率先して船に乗り込み、海という生命の根源に自ら嵌入し、再び発生の経路を辿り直すことによって生まれ変わることを意味するのだ。その時、女達は、各々の役割を示す。母である嬉海子は、巨大坩堝のような海に出ることで、己の経験を深化し体験の意味を明らかにすることによって人として成長を遂げ、はるかは巫女として捧げもののロールキャベツを持って船に乗り込んだ訳だ。
近代作家コレクションvol.6 さよなら平成公演

近代作家コレクションvol.6 さよなら平成公演

J-Theater

「劇」小劇場(東京都)

2019/03/12 (火) ~ 2019/03/13 (水)公演終了

満足度★★★★

 ものには好みがあるから一概に否定はできないのだが、(一部重複箇所あり)

ネタバレBOX

三島由紀夫に関しては一般の評価は高すぎるのではないかと思っている。作品として「仮面の告白」や「癩王のテラス」は面白いと思うが、生きるという基本的な条件と彼の葛藤は彼の作品には希薄であるように思われてならないのだ。結果、彼の作品は表層的で、枯れている。丁度形は保っても内容は空疎なミイラのような、そんな印象を持たざるを得ないのである。そして挙げた2作はその例外である。即ち生が通っているのだ。
  今回、朗読された「道成寺」は、ミイラ的な作、極めて陳腐だ。無論、古典の道成寺を下敷きにした翻案であるから、それを考慮に入れれば更に読み込むことは可能であるが、能の道成寺に比して、その身体表現と当に命懸けの演技が要求される能作品と異なり、三島の主張自体は、既に使い古され飽きて捨てられた搾りかすに過ぎない。(例えばオスカー・ワイルドなどが散々使った手法・主張である)問題は仮にそうであっても、現在ヴィヴィッドにその主張が時代を撃ち、時代の隠れた部分に在る事実や病弊・疾患などを抉り出せれば何の問題も無い。然しながら、現在の日本でこの作品を上演することにどのような意味が存するのか定かで無いように自分には思われるのだ。虚を描くにしても埴谷雄高などは虚体に対して悩み対峙しようとして格闘したが、三島にはそれが無い。生きたストラグルの無い所に真の文学等成立しようも無いのだ。そんなもの・ことは単なるマスターベーションにすぎまい。そのことを徹底的に意識して道化を生きれば面白かったであろうが、ナルシシストであった彼にそれは望むべくもなかった。2日間に亘る公演で都合4回上演するような作品ではあるまい。
 寧ろ1948年にラジオドラマとして放送されたという三好 十郎の「女体」の方がずっと面白い。女学校の1年違いの友人が鄙びた温泉に来て8年ぶりの自分達の変容等が語られてゆく中、ダンサーをしている女が自分の職業をパンサーと自嘲する辺り、実に深いのだ。敗戦後、男は米兵を中心とした連合軍兵士に対し一切抗うことも出来ぬ中、“やまとなでしこ”であった女がパンパンとして稼ぎ、家計を支えた実体を見事に表しており、米軍のみならず英連邦連合国兵士のレイプ等の犯罪についても日本は国家として見て見ぬ振りをする密約を交わしていたことも顕わになった。現在までこの状態は続き、慣れ切ったのか日本国民の殆どが、知らぬ振りをするに至っている。何たる恥! 恥じることすら知らないとは! こパンサーという言い方には、自嘲のみならず、音的には豹の意味も含まれるから、その猛獣としての猛々しさと同時にネコ科の動物のしなやかさと優美、色香さえ漂うことは。無論誰にでも分かることであり、それがタイトルにも見事なまでに呼応している点も見逃すことができない。
 芥川が宇治拾遺物語に題をとったことでも知られる「地獄変」は25分で朗読できるようにカットされてはいるものの、良秀とその娘、火の車に飛び込み一緒に焼け死んだ猿、そして残虐な大殿のサディズムが痛い迄に描かれた部分はキチンと残されているので、作品としての振り幅はやや狭くなってはいるものの、傾聴に値する。また、芥川と三島の差は、己の生を賭けたストラグルを通してオリジナリティーが担保されているか否かにあると言えよう。
 岸田國士の「チロルの秋」は如何にも彼らしいセンスの作品。
 感心したのは、紙芝居という形式で演じられた「ちぃちゃんのかげおくり」という作品であまんきみこさんの作。“かげおくり”とは子供の遊びで天気の良い青空の晴れ渡った日に、太陽に背を向けて自分の影をみながらゆっくり10数えた後、青空を振り返ると空に自分の影が見えるというものだそうだが、自分は今作で初めて知った。第2次大戦末期毎日のようにB29による空襲が行われて日本の街々が灰燼に帰していた時期の話である。紙芝居の絵が素晴らしく、演者の岩崎聡子さんの声の使い分けも見事なものであった。無論、原作の文章も痛切に心に沁みる。ラストの解説的な部分だけは削った方がより深みが増すと思うが。
 芥川は、もう1作品扱われている「蛙」である。どこかプリミティブであった頃のギリシャ哲学を聞かされるようで陳腐な感は否めないが、日本のエリートがエリート然としていられた最後の時代の彼我の意識差を表象した作品としてみれば、それなりの面白さはあるものの、ゴーゴリの「検察官」にあるブラックユーモアを感じない訳にはゆかない。
 ところで、シナリオを読みながら噛んだりするシーンが在った点、全体として何故、今、この「国」でこのような作品がセレクトされなければならないかというセレクトの面では、鋭角的な批評意識が低いように思われる。全体構成の中での各作品対比などにも表れているこのような批評的視点の弱さ、時代の本質を見抜き揶揄する視点に欠ける鋭さの欠如が気に掛かる。
琥珀の雨

琥珀の雨

劇団東雲座

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2019/03/15 (金) ~ 2019/03/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

 板上は50㎝程の高さの上下反転凹型の平台が奥から中央へ迫り出しているだけだ。上手・下手共側壁中程に出捌けが設けられている。

ネタバレBOX


 大学のサークル・雨宿りメンバー26人が参加したバーベキューパーティーの話だ。若者達の繊細で優しい感性が時代の閉塞状況の中で己を鉱物それも現実存在を閉じ込めたまま、永遠の殻に閉じ込めることで守ろうとする姿は、芸術至上主義に走っていた頃の自分に重なり、彼らにとって大切なもの・ことを守ろうとする姿に痛々しさを覚える。せめてもの慰めは「琥珀を燃やすと仄かに甘い香りが漂うという事を述べる件」にあるのだが、この一連の科白から漂う硬質で詩的なimageが気に入った。先週拝見した星乃企画フェス作品群でも詩的イマージュを喚起された作品が多かったのだが、明治大学は優れた詩的感性を持つ詩人(田村隆一(の母校)や大岡信も教鞭をとっていた)が居たということもあるのか、校風の何処かに詩的感性を育てる何かが在るのかも知れない。
 現政権の狂気は止まる所を知らない乱脈振りと無定見、嘘と隠蔽及びフェイクに恫喝更に馬と鹿を絵に描いて壁に貼り付けでもしたような現首相の学生時代同然の強者への諂い、即ちパシリに満ち満ちているが、これら無能で正体隠蔽型の鵺という化け物が、この国を徘徊している。背後に居るのは、戦争を民衆にやらせて自分らだけぬくぬくと肥え太っている資本家共、寄生虫、ダニ、蛇蝎の類。実質被占領状態が現在も続き属国どころか植民地と呼ぶ方がその実態を反映するような情けない状態に今も甘んじているのがこの日本である。而もCIA資金で基礎を固め戦後殆ど総ての期間政権を担当して来た自民党と諂い政党・田中耕太郎以降の最高裁は民意を反映するどころか法を捻じ曲げ、改悪し官僚共は、自分の利益を上げることに汲々として不正義に積極的に加担している。こんな「国」に未来などある訳が無い。或るのは唯閉塞状況と屈辱を耐え忍び、明日への希望を一つ一つ踏み躙られ乍ら、それでも意味なく誇りなく唯生き続けざるを得ない地獄である。
ところでバブル崩壊以降少し前まで、日本の自殺者数は毎年3万人を超えていた。中でもポスドクの人々の自殺率は群を抜いていた。それだけ若者に未来が無いのが、また見えないのが現状ということだろう。それは、好景気が続いていると言われながら、庶民には全く実感が湧かないことを見ても、当初、社会福祉や高齢者対策を謳って導入され、その後ドンドン税率が上がっても、実際には軍事費拡大や、マトモな判断さえ下せない狂った頭脳の持ち主が推進する原発等を含めた無駄遣いの補填でむざむざと血税が失せ、或いは穴の開いた財布としてアメリカに収奪され続けている現行の経済システムがある。現在、景気が良いという実感を持てないのも、無論、世界で最も多くの米ドル買い支えを日本がしているからだ。ニクソンショック以来、米$は兌換性を失って長い。今では、日本や中国などのサポートが無ければ紙屑同然の米$が国際通貨として通るように日本は隷属させられているのだ。こんな蟻地獄から抜け出さない限り、日本の若者に未来は無い。かつてはピラミッド型だった人口構成も今では様変わり、若者個々人の負担は増える一方であるという国内事情もある。実質的に庶民の生活が豊かになっている訳では無いから、個々人の支出は抑制され、その分、自由に使える時間や新たな発想を齎す余裕も失せ、スパイラルは負のままだ。負のスパイラルから脱出できないから、人々の思考は、内向きになる。苛めも増々陰湿化し、こういった状況に対応するには、己の柔らかで繊細でナイーブで嫌な大人になどなりたくはない、というようなデリカシーは好むと好まざるとに関わらずその夢のまま硬く閉じた永遠を想起させる器に閉じ込めてしまうのが一番だ、ということになっても全然おかしくない。それどころか、その方が自然だろう。だが、若者の鋭敏で柔らかい感性は、このことを充分理解している。分かっていないのは、ではどうやれば打開できるか? ということだ。無論、この答えを得る為には一時かなりシンドイ思いはしてもバイアスなしに事実を冷静に見、来し方行く末を冷静に見極め、戦略・戦術を立て、それらを実行できる力を獲得し実践する以外に方法は無い。現行の資本主義システムを支えている銀行のシステムにメスを入れる必要も出てこよう。長く厳しい道ではあるが、自分が選んで為すことであれば納得することは可能であろう。そしてこのような実践のみが辛うじて己の矜持を支える。
 学生さん達と話をした時、開高健の「日本三文オペラ」は推奨しておいたのだが、他に「オーパ」に繋がる一連の作品、ベトナム戦争関連作「夏の闇」など良い作品はたくさんある。 
 出掛けに役所に寄って時間が掛かったため、開演に遅れて受付の方々、場内案内の方々には、大変お世話になった。この場をお借りして的確で親切な対応にお礼を申し上げておきたい。
近代作家コレクションvol.6 さよなら平成公演

近代作家コレクションvol.6 さよなら平成公演

J-Theater

「劇」小劇場(東京都)

2019/03/12 (火) ~ 2019/03/13 (水)公演終了

満足度★★★★

今回6回目となるシリーズもの。(追記後送)

ネタバレBOX

  演じられる作品は、2パターン。共通作品「蛙」「女体」「チロルの秋」「道成寺」+「地獄変」と「蛙」「女体」「チロルの秋」「道成寺」+「八百比丘尼」「ちいちゃんのかげおくり」で各回途中に10分間の休憩が入る。
 ものには好みがあるから一概に否定はできないのだが、三島由紀夫に関しては一般の評価は高すぎるのではないかと思っている。作品として「仮面の告白」や「癩王のテラス」は面白いと思うが、生きるという基本的な条件と彼の葛藤は彼の作品には希薄であるように思われてならないのだ。結果、彼の作品は表層的で、枯れている。丁度形は保っても内容は空疎なミイラのような、そんな印象を持たざるを得ないのである。そして挙げた2作はその例外である。即ち生が通っているのだ。
STYX -瀬をはやみ-

STYX -瀬をはやみ-

アオイサイ

l'atelier by apc(東京都)

2019/03/09 (土) ~ 2019/03/09 (土)公演終了

満足度★★★★

 会場入口側に頭を右下がりに置かれたグランドピアノ。ピアノ側面入口側に背凭れの無い木製ベンチが3台5㎝程横にずらしながら各々ピタリと寄せ集められている。ピアノ奏者は下手の席について演奏。ピアノの左下には同じ型のベンチが1台。他はフラットで一辺三尺と二尺、巾四寸ほどの板を寄木細工のように敷き詰めた床。ピアノを除き、他は総て木目の生地をそのまま活かしてある。下手壁の奥から出捌け、モネの睡蓮連作を模した一葉が掛けられた壁面、その手前はブース状になって音響・照明などのスタッフが入っている。客席は、グランドピアノと演者空間に相対する形で椅子が並べられているが中央に通路を取り、こちらも時折演技スペースとして用いられる。一幕三場。(追記2019.4.1 華4つ☆)

ネタバレBOX


 因みにタイトルのSTYXはギリシャ神話に登場するステュクス、三途の川だ。渡し守はカロンである。また“瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ”は百人一首にも入っている崇徳院の有名な歌だからご存じの方が多かろう。 
タイトルから類推できるギリシャ神話、更に日本神話、和歌、劇団名に含まれる犀も考えれば仏教思想等に関する古典的知識はあった方が良い。無論、近現代音楽(クラシックやオペラ、ポップス迄含めて)の知識も在った方が良いには違いないが普通の教養があれば充分楽しめる内容だ。グランドピアノの生演奏に声楽家と役者のコラボで上演されたが、無論ここには対比がある。音楽の持つ抽象性に対し役者の身体が持つ具体性が今作の演劇的構造の大枠を為している訳だ。ソプラノ歌手は女優に、テノール歌手は男優に各々対応しており、舞台設定は、死と生の境界領域であるから、オルフェウスの冥界下りの話が出て来たりダンカン・マクドゥーガルの魂21g説が飛び出したりと様々なfragmentが鏤められ、恰も空間を浮遊してでもいるかのようである。ギリシャ神話からは、オルフェウスが妻・エウリュディケーの生還を求めて冥界の王・ハーデースと后・ペルセポネーの面前で岩をも泣かせたとされる竪琴を弾き、決して振り返ってはならぬという条件で妻を連れ戻すチャレンジを許された話。日本神話ではイザナギが亡くなったイザナミを追って黄泉の国へ行くが、イザナミは黄泉の国の食べ物を食べてしまったからもう戻れないと答え、イザナギがなおも懇願するので黄泉の国の神に相談し、チャンスを貰う。だが、イザナミは何があっても決して覘いてはいけないと言ったのだが、イザナギは禁を犯し、怒ったイザナミに追われるものの、冥界と現世の通路を大岩で塞いでしまうという話である。
単にタブーというより、女性の羞恥心を裏切ったイザナギを許せぬイザナミの女性(女神)心理は良く理解できるし、イザナギの都合主義も看過すべきではあるまい。まあ、物語としては、このような結末の方がハッピーエンドより訴求力があるからこうなる訳だ。何といっても神であれ人間であれ、他人の色恋などハッキリ言ってどうでも良い話ではないか! 上手くいってしまえば。却ってつまらない、と考えるのが人の性だ。もっと有体に言ってしまえば寧ろ大衆が望むのは、聖なる者、或いは地位や名誉を持つ者達が悲恋や悲痛な死を遂げることにより、意趣を晴らすことにある、というのがホントに近いのではあるまいか? そんな下世話な世界をオペラ風に演じることで、権威・権力を嘲笑う所にこそ、本来の演劇が持つエネルギーもあるのではなかろうか? 
フラグメント

フラグメント

もぴプロジェクト

ひつじ座(東京都)

2019/03/06 (水) ~ 2019/03/10 (日)公演終了

満足度★★★★★

 大学の映画サークル。4年生を送り出しコンテストに出品する作品の中核を担うことになった部員たちの日常を描いた作品。(追記3.9)

ネタバレBOX

身近な題材を扱っているのが若い役者さん、脚本家さんらなので等身大の演技は自然で脚本も良く練れており。舞台美術も必要最小限且つ充分な合理的作りだ。
 当然のことながら、創作段階で様々なぶつかり合いや、部内カップルの在り様、監督と役者との間にある表現を巡る齟齬とその問題解決を巡ってのテンヤワンヤ。そして思うように表現し得ない中で起こる対立や葛藤と若者らしいナイーブな感性が傷つけ、傷つきながら展開する様に、さもありなんと共鳴しつつ拝見した。
 ところで今作の上手さは、単に上に挙げたような通り一遍の解釈では終わらない深読みができる仕掛けが施されていることにある。例えば、ヒロインを演じるアヤネとケントがカップルであることを部員総てが気付いているのに、コンダクターであるべき監督・ユウジだけ気付いていない、とか。試験勉強をケントから実例を挙げて教えて貰っているにも拘わらず、ユウジはその意味する所が分からず結果も単位が取れない等々。ケントとユウジの間には、非対称性があること。具体的には学生が創る映画で通常は置かないプロデューサーを自称プロデューサーと名乗って設定するケント、脱落はせずに関与し続けながら、実は初めからユウジに監督は無理だと考えて行動していたと勘繰りたくなるような能力的優劣が埋め込まれていること、更にそのケントをも操ろうとしているかも知れないと思わせるアヤネの能力も匂わせて大人にも飽きの来ない作品に仕上げている点などだ。
 更に衣装換えでその華麗差などを示すことによって、出身階層の差異とジェンダーを示している点などでも細やかで適切な配慮が見られ、タイトルと内実の親和性も現れていて感心した。
雲隠れシンフォニエッタ

雲隠れシンフォニエッタ

芸術集団れんこんきすた

テアトルBONBON(東京都)

2019/03/06 (水) ~ 2019/03/12 (火)公演終了

満足度★★★★★

 桐組、藤組、恋組の3ヴァージョンがある。初日、桐組を拝見。(カメラを持って行くといい。階段途中に絵巻のように綺麗な作品が飾ってあって撮影OKだから)原作は千年以上前の作品だが全然古びていない。而も、今作は、結構現代風にアレンジしてあるから、古典に詳しい人にも、それほどではない人にも楽しめよう。舞台美術は可也気に入った。

ネタバレBOX


 平安中期(文献初出1008年)に成立した「源氏物語」の翻案である。光 源氏は幼くして母・桐壷の更衣を亡くし、桐壷を偏愛した帝は為に桐壷帝と呼ばれるようになったほどであったが、失意の底にあった。そんな帝を見かねてお相手にと連れ添わされたのが、瓜二つと噂されていた藤壺である。藤壺は桐壷帝の中宮となった。源氏とは5つほど年の離れた女后であったが、桐壷帝の息子・源氏と通じ冷泉帝をもうけることも原作には描かれている。
 今作、様々な場面で源氏物語に出てくる有名なシーンがベースになっている。「雨夜の品定め」や「源 典侍との色談義等」から類推できるのは538年に渡来した仏教の影響を受けていることだ。例えば藤壺、桐壷帝、源氏の間に成立している関係を宿痾ととるより矢張り業として取りたい、という解釈の差でもある。さすればこそ、桐壷、藤壺、紫の上と一直線上に並ぶ光 源氏と女性達との縦の糸、横の糸は、様々な遷移を伴いながら六条御息所、妻・葵上、朝顔、空蝉、朧月夜、花散里、明石、玉蔓とプラトニックから、下級貴族の娘として生まれながら父の方針もあってその才知に磨きをかけ源氏を救った運命の女人、生霊譚を含む凄まじい嫉妬まで、源氏の心に巣食った魂の罅、即ち底なしの穴と、その地獄に惹かれる女性たちの優しさ、柔らかさ、母性といったものの哀れと同時に炎に飛び込む美しい蛾のように恋に命を賭ける女性を取り出した。因みに、今作では、桐壷には一切触れていない。それは、男にとっての母なるものへの念は、恋愛を前提とした男女関係とは次元の異なるものだからである。一時、この国で門題になった母子相姦問題はまた別建てで論じなければならない。
 尚、源氏臨終の際、舞われる舞の雅樂の大本は青海波である。源氏物語を読んでいる人なら気付いたであろう、それをダンサーでもある源氏役の中川 朝子さんが踊っている点、基本はヨーロッパのダンスであるから和洋折衷という形式になっているので楽曲も途中から変じる訳だ。更に、その生涯の最後に葵の上との約束で源氏が述べた科白に「来世があったなら」の一言が在る事は、源氏の孤立を表わすと同時に作家の仏教的輪廻に対する認識を示して意味深長である。
 また、頭中将の指摘、源氏の心に蟠る罅の指摘と決して権力に無欲では無いという指摘は極めて重要である。何故なら、頭中将こそ、源氏の鏡像だからだ。源氏物語の凄さは、このように男と女の関係を恋愛という籠に入れて編んだこと、その切なさと地獄と、地獄から仰ぎ見る夢の儚さを基調として。この本質を作家がキチンと理解した上で翻案していることがグー、役者陣個々の役作りに関しては、頭中将を演じた黒崎 翔晴氏の時代物出演への経験値が、日本的外連味を出しているように思った。
 舞台美術も中々雰囲気が出ていて良いが、更に上を目指すには、個々の役が、役者各々の身体を通して滲みだすような演技を心掛けて欲しい。
ハッピーエンドなんていやだ

ハッピーエンドなんていやだ

立教大学演劇研究会

立教大学 池袋キャンパス・ウィリアムズホール(東京都)

2019/03/01 (金) ~ 2019/03/05 (火)公演終了

満足度★★★

 板中央から奥は40㎝程の高さの平台で嵩上げが為され、箱馬、箪笥程の大きさの四角いオブジェ等が置かれている。手前はフラット。出捌けは、床部分の上・下手、平台のとっつき上・下手に各1カ所。(追記2019.3.9)

ネタバレBOX

 17歳の少女の心中にあって葛藤する夢見がちなメンタリティーと現実志向が擬人化されて登場する他、母、5歳の誕生日に贈られた熊のぬいぐるみ、ジャーキー。幼馴染のキザオ、キザオを巡る恋のライバル、学級委員。
 内容的な設定が余りに不自然、17歳にもなって女の子が、これほど幼稚というのはいくらなんでもあり得まい。ここで多くの観客がつまずいてしまうのではなかろうか。仮にどうしても17歳という設定にしなければならない理由があるのなら、何らかの病だとか、未知の原因による疾病とか、ぶりっ子というキャラにする等、もう少しリアリティーを感じられる設定が欲しい。余りに日常感覚とズレが大きいのだから、このようなギャップが生まれる必然性を作品の中にキチンと織り込んで欲しいのである。
 他にも使いもしない物を板の上に挙げる必要が何処に在るのか、分からない。演劇は基本的に、1~10迄論理である。何故なら論理で詰められないようではドラマツルギーが成り立たないからだ。中盤、ジャーキーが人間の着ぐるみになって以降、少女の成長物語に転化しストレートプレイらしくなったが。
平成31年東京の旅

平成31年東京の旅

劇団星乃企画

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2019/02/25 (月) ~ 2019/03/04 (月)公演終了

満足度★★★★★

 ウヒヒ、はひはひ、ウハハハハ、うふふ、ハハハ、ヒヒヒ、おほほ、ウヒうひ、ふぁふぁふぁ、へへへ、

ネタバレBOX

ふふ、ウワハッハetc.etc.観ている我々観客が、上演中の役者陣が笑い堪えるの大変だろうにゃと心配するほど笑いがいつも何処かで沸き起こっているような舞台。蝶番外しの上手さ、間の取り方の巧みに演技力、桁外しと言葉の頓珍漢な組み合わせの妙、シチュエーションとのずれ等々笑いの要素をこれでもか、と投げ込んでいるのだが、勘所を掴んでいるので本当に面黒い。
 終演後、演じていた役者さんに「笑い堪えるの大変だったでしょ?」と質問してみたら、答えはイエスであった。
平成31年東京の旅

平成31年東京の旅

劇団星乃企画

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2019/02/25 (月) ~ 2019/03/04 (月)公演終了

満足度★★★★★

  Fを拝見。拝見した7本中、唯一の非ストレートプレイ。

ネタバレBOX

作家が何故このような作品を書くのか? 自分には分かるような気がする。どんなに良く構成され、計算が緻密であっても短期間に同一の作家が書き得る作品の幅には限界がある。キチンとした表現をしてきたればこそ、読者・観客に見切られ、飽きられる事に対する危機感は深刻である。
 そこで、今作は様々な破壊、脱構築に挑んでいるのだ。従って今作の中で歌舞伎が取り上げられるのは、必然である。何となれば歌舞伎は、能など既に評価が定まっていた伝統的な古典に対する脱構築として生じたムーブメントだと考え得るからである。
 現代のように激しく時代が変化する際には、表現する者総てが己の存在基盤を根底から疑い、解体した上で再構築するラディカリズムが求められるのは、表現上の必然である。少なくとも真の表現者は必ずこの問題と格闘せざるを得ない。この格闘を通してのみ、新たな意味を自由という普遍的価値に付与し、作家は真に創造者となるのだ。
 当然のこと乍ら、新たな地平を開く際、それまでの伝統が完全であればあるほど、地平が堅固であればあるほど、深く疑い、穿つべきは穿って砕き、以て再構成せねばならない。その際、時折クソッタレ! 的な表現と見える形式、表現類型が出てくることは大いにあり得る。然し、根底が違ってしまっている以上、既にそれを伝統的価値基準に従って判断する術は無い。
 以上のような問題を提起している点で、今作は頗る面白いのだ。
平成31年東京の旅

平成31年東京の旅

劇団星乃企画

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2019/02/25 (月) ~ 2019/03/04 (月)公演終了

満足度★★★★★

Bを拝見。全きにゃこ党の吾輩、第1話が特に気に入りにゃ!!!! にゃ~~~~~~お、にゃ! ぺたん。

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 1話:にゃんこは、1日に16時間寝るそうにゃ。上手にはテーブルの左右に椅子各1脚。男が引っ越しをしなければという時、女はシェアしていた女友達が居なくなったので半年も付き合ったのだし家賃も暮らし向きもプラスになるからと同棲を提案。そこで男が移ってきた。女の飼っていたのは雌猫のサクラ。男の飼っていたのは雄猫でちょっとお茶目なトラオ。この2匹、互いに余り記憶力は良くなさそうだが、下手の部屋で殆ど寝てばかりのサクラは閉じ篭って部屋を出たことが無い。然し、トラオは表が好きである。そこでサクラを誘うのだが、彼女は出たがらない。代わりに歌を詠む。これが中々良いセンスなのだが、トラオの名をくさすのでトラオはその度に傷ついている。そんなにゃこたちの日常は、にゃんという事も無く続いていくにょにゃが、人間の方は壊れて別れてしまった。サクラは、何故か寂しい。それで初めて表へ出てみる。地面に寝てみる。案外温かいが、ちょっと硬い。何だか互いの性を意識しかけた相手が居たような気がしている。人間の方は壊れてしまったが、それとは対照的に恰も初恋の甘酸っぱい思い出のように相思相愛の思いを共有するにゃんこたち。この対比と距離感、それを歌に詠むサクラのセンスが素晴らしい。

 2話:これもカップルの話だが60歳にして心肺停止状態になった男の脳内で巻き起こる本当に大切な人は誰であり、どのような関わりを辿ってそのような結末に至ったのかを、案内役と共に記憶の追体験を通して再確認する物語。
 
平成31年東京の旅

平成31年東京の旅

劇団星乃企画

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2019/02/25 (月) ~ 2019/03/04 (月)公演終了

満足度★★★★

Aを拝見。(華4つ☆)

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1:5万円台の賃貸物件を探している若者に不動産屋はからかうように高い物件ばかりを紹介。終に切れかかった若者が大声を出すと漸く該当するような物件を紹介し始めたが、最後に言い出したのが所謂曰くつき物件。4万円台の物件であった。無論、出たのだ。然しながら借主のお蔭で今は既に成仏したとのこと。伏線として渋谷の映画館に1度幽霊が出た話が挿入されたりするのだが、これが、オチに繋がる。
 さて、幽霊が出た件の物件の顛末は以下の通り。引っ掛けがあって最初、話の流れで霊は女性、除霊に成功したのは男性と思い込まされるのだが、ここでも反転が為される。その後、2人が実は知り合いであったこと、女性は彼が毎週月曜に少年ジャンプと珈琲牛乳を買いに立ち寄るコンビニの店員で何となく話をするようになっていた。だが彼が亡くなった当日、彼女はコーヒー牛乳にストローをつけ忘れた。彼の死因は台所でひっくり返って頭を打ち、それで亡くなったのだが、彼女の解釈によると彼は少年ジャンプを読み終えることが出来ず、それが残留思念となって幽霊になったというのである。何故台所でひっくり返ったのかといえば、ストローが無かったのでコップを取りに行ったのだが、何らかの原因で転倒、頭を強く打ったという解釈であった。約1週間彼らは夜毎対話を交わした。そして彼女は件のジャンプと珈琲牛乳にストローをつけて霊の前に持参、彼はジャンプをいつものように珈琲牛乳をストローで飲み成仏できたということだ。ところで、成仏する前に彼が彼女の趣味である映画鑑賞は何処でするのかを訊ねており、渋谷との答えを得ていて、1度だけ会いに行ってもいい? と尋ねたのであった。唯一の瑕疵は、1週間、彼が読み損ねたのが、亡くなった日発売の号だとすると実際1週間後の次の号を持参したのか、それともちゃんと読み損ねた号を持参したのかがハッキリしない点。
 2:女を矢鱈取り換えていた男が病死した。早い時は僅か2時間で別れるという記録の話も出てくるほどだが、それで付き合ったと言えるのかどうかとの疑念が湧く程の乱脈ぶりだった。が、1人だけ1年間も続き而も実家に連れて来た彼女が居た。その彼女と妹が偶々路上で出会い、久しぶりだからと彼の実家に寄って思い出話をするという設定。彼女から見た彼は、樹木のような存在で、何かよくは分からないが触れてはいけない何かを魂の奥底に秘めているような。だがそんな彼が何時の頃からか優しくなった。荷物をそれとなく持ってくれるようになったり。だが、彼女にとって、そのような教科書的優しさは本当の優しさとは感じられない。そこで、妹にお兄さんはいつ頃病気を知ったの? と尋ねている。このように繊細而もユニークな視座で男にとっては謎である女性心理を描く細やかさは、Bの1話に出てくるにゃこのサクラの詠む歌やDにも良く現れているこの作家の詩的感性を更に強く印象付ける。作家は、劇詩人と定義して良かろう。今後の雄飛に期待している。
さようなら、イサム

さようなら、イサム

学習院大学演劇部 少年イサム堂

富士見会館401 演劇部アトリエ(東京都)

2019/02/27 (水) ~ 2019/03/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

 極めてメタレベルの高い作品。

ネタバレBOX

2011年辺りから本格的に演劇を見始めたのだが、以来2400本以上の作品を拝見しているから年平均で300本以上ということに成る訳だが、だからこそというべきか、極めて独創的で巧みな前説で言われたフェイクを本気で信じかけた。どんなフェイクだったかというと、開演後20分位ずっと幕の前に役者が現れて演技をしていたので「幕は終演後に上がります」と言っていたのを学生演劇最後に今迄誰もやったことのない奇抜な演出で見せようとしているのか? と思い掛けたりハタマタ「自分は前説だけで本番には出ません」と言っていたのを半ば冗談、或いは? と勘繰ったりしながら見始めたのだ。元来、演劇とは嘘を用いて虚実に満ちた世界の構造を暴き、そうして暴かれた世界の陥穽を通して真なるものの輪郭を示す技術だから、真偽は匙加減一つ。別の言い方をすれば傾くことで真を顕わにする。(以下各解釈へは、ここから繋げて読んで頂きたい)
 解釈1:さて最も単純な解釈から始めよう。最初に述べた通り基点は、今作が極めて高次なメタ構造を持った作品だと言うことだ。前説でのフェイクやひっくり返し、ひっくり返された世界を更にひっくり返して、ストレートプレイに持ち込んだとみるや、今度は3つのストーリーを敢えてゴチャゴチャにして見せることで歌舞き、それを収束させることを目指してドラマツルギーを発動させる過程でも小ネタで笑わせる、3人の役者が演ずる、切れとスピード感のある殺陣でビジュアル的にも楽しませる等々。
 更に振れ幅の大きい今作の本来の目的である卒業公演というテーゼを踏まえ、去る者(卒業生)と残る者(在校生)との間に生起する若者らしく柔らかで自然な感情の発露として“別れ”を見事に昇華してみせた。それは、作中ハチャメチャにした3つのストーリーを収束する際、何らかの方法でコンペを催し、負けたグループは消滅するというルールで為される争闘の持つ厳しい寒さと呼応しているのだ! 見事である。蛇足だが、この内容はタイトルとも交感している。
解釈2(補足的に):例えば「忠臣蔵」の真の狙いは幕藩体制批判であり、そのスピンオフ作品である「東海道四谷怪談」の真に迫ったおどろおどろしさ、お岩の怨念の強さと祟り伝説は、仇を討つことが寧ろ人々にとっての正義であり、それを押し潰したのが強権の権化たる幕府であったことへの凄まじいまでの怨念だったからこそ、為政者共は、復讐の権化たるお岩を恐れたのだと言うことができるのではないか? 或いは伊右衛門の不運・不幸を斟酌せず、単に非道な悪党に仕立てることで幕府への怨念を逸らす為に利用したと取ることも可能であろうが。ちょっと話が難しくなったか。
解釈3(これも補足的):ちょっと深読みしてフェイクに関して現在日本を振り返ってみれば、フェイクのオンパレードではないか? 安倍のようなアホを政権トップに就けている勢力は、未だ経済界を牽引していると思い込んでいる重厚長大産業・製造業のトップ達。彼らは自分達の利益を最大限に考え、大日本帝国軍の怨念を未だ抱えてこの「国」独自の覇権をアジアで為そうと考える右派と共に、軍事的に握ろうと考える。この目的を果たす為に様々なフェイクを用いると考えると、奄美から琉球弧への対中防衛第1次列島線設定や、インドを含めたセキュリティ・ダイアモンド構想、文政権への誹謗中傷、原発推進もかなりハッキリ見えてこようというもの。

人魚のウタ

人魚のウタ

ガンガンガング

シアター711(東京都)

2019/02/28 (木) ~ 2019/03/03 (日)公演終了

満足度★★★★

 舞台美術がちょっと変わっている。(華4つ☆)

ネタバレBOX

天井から床までロープが下りている箇所が板中央の奥と手前に各1カ所、その間に短いものが2カ所、丁度天井から3分の1程の所にカラビナが付けてある。このようなロープが、センターから等距離の位置に都合4本ずつ下がっており、構造は中央の長いロープと同じだ。客席に対向する三方の壁には、矢張り天井からロープを下げ床から1m程の高さまで不揃いに下がっているのは、まるで海底の岩礁から伸びている海藻のようだ。人魚がタイトルに入っているから、これは天井部分が海面かも知れないが、では人間が出てくる場面では、どうなるのだろう等とぼんやり考えながら開演を待っていたが、客席最前列の下手出捌けの布の地は青、その上に重ねてある布は、網のような布で色も漁に使う甲殻類の殻のような色である。
幕が開くと、内容的には、人魚をダシに、鵺社会で起こる支配・被支配の構造と固定化、それを許す因習と権威、そして実際には支配層より優秀で知恵の働く下層民の行動様式が描かれていたので、話としては可也興味深い作品だったのだが、支配層の無能にも拘わらず為政者として振る舞う滑稽と被支配層の有能とその惨めさをもう少しリアルな対比で描き且つ役者の身体から滲み出るアトモスフィアで膨らみを持たせることができるようになれば更に良くなろう。可也ポテンシャルは高そうなグループなので、もう一段高度な段階を期待したい。
終演後、今回振り付けをやってくれたグループがダンスを披露してくれたのだが、スタイリッシュで切れのあるダンスであるのみならず、何よりダンサー自身踊りを好きなことが伝わってくるような良い踊りであった。無論、振り付けも気の利いた洒落たものであったし、ラストから2番目に踊ったダンスでは顔の下半分を黒い布で覆って内面が最も良く出る目だけ出し身体表現を強調。タイツとブラと背の紐も黒で統一しつつ、背の紐だけは若干異なるものも用いて個性も出し、腕など露出部分で自分達女性の肌の白さを照明で強調した演出にしていたのもお洒落。

TOCTOC あなたと少しだけ違う癖

TOCTOC あなたと少しだけ違う癖

株式会社NLT

ザ・ポケット(東京都)

2019/02/28 (木) ~ 2019/03/10 (日)公演終了

満足度★★★★

 フランスの戯曲なので論理で追っていきさえすればオチは容易く分かろう。

ネタバレBOX

ところで我々の周りにも潔癖症や追跡症、離人症などの強迫神経症を抱える人間はいくらでもいるが、普段余り気に掛からないのは、彼らが己の症状を隠していたり程度が軽かったりするだけの話だろう。今作に登場する6人は偶々症状が重いという共通項を持つに過ぎない。だが、本人たちにとって問題が深刻なのは無論その症状によって差別されたり、からかわれて人間の尊厳を傷つけられるからである。恐らく総ての精神疾患の根底にあるのは、この問題であろう。
 今作は喜劇という体裁を採ることで、このような人間の性を批評しているのだ。無論、観る側もそれが分かっているから己自身を省み自己批判的に笑うことでカタルシスを得ているのである。
 そしてこのような戯曲が成立することで、フランスという社会のシステマティズムを表象しているのである。このようなタイプの作品は、日本では生まれ難いだろうが、その理由は明らかだろう。鵺のような社会で、個々人のアイデンティティーが、明確化されることを恐れ、嫌う余り、自らの頭で考え、論理的に出た結論を肯んじることを拒み、無化しようとするからである。こんなことだから何時までも日本社会は成熟しない。文政権下の裁判所判断に此処までヒステリックな罵声を浴びせるのはこのせいだろう。話が逸れた。
 舞台美術はスタイリッシュでセンスの良さを感じさせるものだが、できれば1カ所だけ傷が欲しかった。美しい傷の無い落ち葉より、文化的レベルとしては病葉を選ぶ方が文化的洗練は高いと信じるからである。また、その方が、本当は作品の本質にもマッチしよう。演技にもそれが言えると思う。ルー氏の演技は品良く見せ過ぎな感があった。演技で本当に気に入ったのは、ヴァンサンを演じた近童 弐吉さんとリリィを演じた井上 薫さん、このお二人は今作の本質を的確に捉えた演技だと評価したい。演出に関しては以上から類推して欲しい。

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